1966年9月、除名された元日共中央委員西沢隆二(ぬやまひろし)や大塚有章らを中心に『毛沢東思想研究』を発行した。日共内左派を装う「左派」方式に反対して別個の綱領と中央部を持った全国的党派形成を主張し毛沢東思想研究会が結成された。
しかしながら1967年12月には親中共反日共運動の全国統一組織結成を志向するなかで、日共「左派」との協力を主張した大塚らが分離、毛沢東思想学習会を結成した。
改訂(2012/05/04)
本頁の「毛沢東思想学習会」について先輩共産趣味者同志の葉寺覚明さんから指摘と資料提供を受けましたので、「毛沢東思想学習会」について「毛沢東思想学院」と訂正の上、以下の様に訂正します。
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毛沢東思想学院の前身は、大阪日中友好学院(1962年4月設立)の高等部(1964年1月設立)である。
’67年8月、大塚氏を中心に「毛沢東思想学院」設立の構想がまとまり、同年9月に設立準備運動を開始。この際の「呼びかけ人」には、ぬやま・ひろし氏が含まれている。
’67年10月、『学院ニュース』創刊。11月には校舎建設が開始(11/5起工式、12/3上棟式)。
翌’68年3月3日に開校式が行われ、5月には月刊『毛沢東思想』創刊。
以上、毛沢東思想学院『星々之火』に拠る。
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改定前の「毛沢東思想学習会」とする本項の記述は、『全学連各派-学生運動事典-』増補改訂‘70年版に基づいておりましたが、一方で警察系出版社が公調の資料を参考文献に挙げて出版した『日本共産党の変遷と過激派集団の理論と実践』では、「毛沢東思想学院」との記述が見られ、これらについて解決しないまま、ブログ版の記述を引継いでおりました。
「学習会」という記述とその結成時期からして、前者のいう「学習会」が単に「学院」を誤植したものとは思われなかったのですが、これについて葉寺さんは、「私塾でもある同学院の一講座のひとつのようにも見えます。私塾としての面はもちろん、『党派』の面もあったのでしょう。この点は、ぬやま氏みずから『政党ではありません』と言っていた、出版社、毛澤東思想研究会も同様だったかもしれません。」という意見を寄せてくださいました。この辺りについては今後の課題としたいと思います。
また、西沢(ぬやま)氏と大塚氏が決別した時期についてですが、少なくとも’67年8月以降であることが分かります。これについて『全学連各派-学生運動事典-』増補改訂‘70年版は’67年12月とし、『日本共産党の変遷と過激派集団の理論と実践』は、’68年1月であるとします。この時期については未だ不明ですが、葉寺さんはこれについてのソースをお持ちだそうで、これは見つけ次第、ご連絡を下さるとのことです。本当にお世話になりっぱなしですね…。
葉寺さんにこの場を借りて改めて御礼申し上げます。今後ともよろしくお願い致します。
改訂(2014/02/10)
本頁の「毛沢東思想研究会」と「毛沢東思想学習会」、「毛沢東思想学院」の関係について、新たに資料が入りまして、幾つか関係すると思われる記述がありましたので、加筆します。
文藝春秋社の月刊誌「諸君」創刊号(昭和44年7月)164~178頁には、有吉佐和子氏の手になるルポ『日本にもある毛沢東思想学院』が掲載されており、同項では、毛沢東思想学院や毛沢東思想学習会に関して以下のような記述がありました。
そもそもの淵源から述べれば今から六年前、奈良県に「日中友好学院」というものを作ったのが大塚さんの日本共産党員の時代であったのだ。それは古い古い軒の傾いた農家を借りてかなり大規模に始められたものだったのだが、大塚さんは六六年十月に日共を除名される前後、ぬやまひろし等と「毛沢東思想研究会」を結成していたのだが、翌年十二月に彼らと分裂して「毛沢東思想学習会」を結成、その前後から「大阪日中友好学院」の院長になって「学院ニュース」の創刊号は同年十月に発行されている。それによると篤志家の行為によって宝塚市山本に学院の建設用地が提供され、毛沢東思想の活学活用を志す人人の努力で、十一月には起工式が行われた。参加者は七十九名。日本共産党大阪府党(左派)、日中友好協会(正統)から代表が来て祝辞を述べているから、一目で分るように学院は反日共系なのである。
有吉佐和子『日本にもある毛沢東思想学院』文藝春秋,「諸君」創刊号所収,昭和44年166頁。
この記述によれば、毛沢東思想学院と、毛沢東思想学習会は別の流れのもので、毛沢東思想研究会から政治的に分派したもののように思われます。
【ヘルメット】黄地に赤の線が縦と横に入る。
東大闘争の他、三里塚闘争でも同様のヘルメットを確認。
全共闘グラフィティでは「毛沢東思想研究会系」として紹介されているので毛沢東思想研究会からの分派(毛沢東思想学習会など)もこのヘルメットを使用したと思われる。
写真は、柴田正美ほか,『全共闘』,2003年,河出書房新社参照。