共産主義者同盟(戦旗派)[のち日向派]

1.基本情報

【名称】共産主義者同盟(戦旗派)→戦旗・共産同(’80~)

【結成】1966年9月[’70年6月に叛旗派・情況派分裂により形成]

以下に於いては戦旗派から分裂した諸派について記述するが、分裂した双方の資料が手元に揃っていないため、主に戦旗派⇒戦旗日向派の機関紙誌や発行物を元に記述した。

≪’70.12 「野合右派(「12・18野合ブント」とも)」除名≫

戦旗派・叛旗派・情況派が三分裂した’70年6月に続き、’70年12月19日には戦旗派から「野合右派」幹部13名が除名される。野合右派とは鉄の戦線派(仏徳二ら・東京都南部地区委)、烽火派(榎原均ら・関西地方委)、神奈川左派(旭凡太郎ら・神奈川県委)を指す。

その経緯は戦旗派機関紙『戦旗』252号(1970.12.23付)によれば、「これら『烽火』『左派』『鉄の戦線』の小官僚どもの延命の自己目的化の一点でこれら三フラク間の党内闘争休戦協定を取り結び、示し合わせてわが同盟から脱落=逃亡を自認する行為に出たのである。『一二・一八共産同政治集会』の開催と、そこにおける『別党コース宣言』の表明である。」とのことである。野合右派と称される戦旗派内三フラクが12月18日に共産同政治集会を開催したことが直接的な引き金となった。

≪’73.06 戦旗西田派・プロレタリア戦旗派分裂≫

※同年4月に最左派が離脱して共産同国際主義派を結成。

戦旗日向派・西田派分裂について、警察系出版社立花書房が1985年に発行した『過激派集団の理論と実践』によれば、分裂原因は、’72年5月13日の神田武装遊撃戦で128名の逮捕者を出したことであり、指導責任を巡って対立し、武装闘争重視の西田派と組織建設重視の日向派に分裂したとしている。

日向戦旗派機関紙『戦旗』344号(1974.04.05付)はその分裂経緯について、「武装闘争の断固たる貫徹を勝ちとっていく中で、同盟の内部に、この闘いを実践的にも主体的にも支えきれず、自己の小心さと、本質的な右翼日和見主義を克服しきれない一部の、重大な反動的動揺分子が生み出されていったのである。それが、上智大全共闘くずれのカクマル主義者上村であり、六九年秋期安保決戦の実践的失敗者、更にBL派からの反動的分派策謀者大下とその政治的代弁者城山、そして明大ブントの典型的ダラ幹西田である。彼らは七一年一〇・二一 ~ 十一・十九の戦術的失敗(この実践的指導を担ったものこそかの大下に他ならない)と七二年一月、日向同志の関西地区テロの後遺症による入院を契機に、同盟中央指導部内部に「四人委員会」なる分派フラクを結成し、公然‐非公然の重層的展開の貫徹を基調とする『一〇CC政治的組織総括』の全否定、同盟の右翼的路線転換をはかるための十一CC開催に向けて陰然たる分派活動を画策した」とする。

そして戦旗派(日向派)は、この「七二年春の同盟中央から生みだされた右翼日和見主義分派」四人委フラクの「右翼日和見主義の見解に対し、徹底して論破し、弾劾し、同盟の武装闘争路線を守り抜いた」のであり、「同盟内論争は、右翼日和見主義に対する圧倒的勝利の下に十一CC路線の確定をもって決着づけられていった」。にも拘らず「あくまでも自己の右翼日和見主義に固執する城山、そして当の城山も『俺を政治的に利用した』と憤激させた、タダの『分派屋』大下、西田の卑劣にして醜悪な、正真正銘の右翼日和見主義者共は、失地回復と官僚的自己保身のための再度の分派づくりを画策し」、「それが『足立商会』派なる分派である」という。

更に党内論争に敗北した四人委フラクは、「『部隊がなければ話にならない』と、あくまで自己の右翼的路線転換を画策し、脱走兵集団の形式<原文ママ>を陰然と押し進め」、「路線論争の存在も、又そこで自からがとった立場と見解も一切を陰蔽し、全くのデマとウソで何も知らない下部を欺き、脱走兵集めを行った」。そして、「こじつけやケチつけ批判をもって、『アレも問題コレも問題』と何か自分が全ての問題を解決する魔法の鍵をもっているかのように振舞い、不平不満の『上』からの創出を押し進め『足立商会』なる秘密アジトにたむろし、脱走兵集団作りに奔走し」、「一定の『部隊づくり』を実現した彼らは、七三年六月十二CCをもって分派闘争の公然化をなし」、「この十二CCを舞台に、同盟の右翼的解体を画策した」。「それは再度の路線論争として公然化させるのではなく、卑劣なデマとウソで固められた『右派排除策動』が並べられ『不振があるから分派を認めろ』という一点のみが提起され」、こうして「六月十二CCを期に、右翼日和見主義者・カクマル主義者たちは、戦旗派の歴史と組織的枠から脱走し」たという

また日向戦旗派『北西風が党を鍛える』第1部31頁によれば、戦旗派としての統一行動を拒否し、大衆闘争の場において明確に戦旗派からの分派がなされたのは’73年10月21日の国際反戦闘争・共同集会からである。同ページに十二CCに於いて述べられた「足立商会」の見解とその後がまとめられているので引用すると、「『分派の自由』『路線転換』を叫び、第二次ブント的分派連合としての党(各指導者はその分派の『お山の大将』となる)への改編を主張して分派を強行したのである。また、城山は労働組合運動を基軸とし青婦協への介入を路線化した『北海道委意見書』を提出し、大下もほぼ同内容の『九州意見書』、西田派革命党を統一戦線に改称する『革命勢力構築論』なるものを提起した。その後彼らは城山ら(現在の『プロレタリア戦旗』)と、西田・大下らのアダチ・グループとに分裂した。

≪’80 戦旗派、組織名称を変更・社学同再建≫

’80年2月に西田戦旗派と紛らわしいので組織名称を戦旗・共産同に変更。同年6月21日には社会主義学生同盟を再建。

2.ヘルメット

【名称】日本反帝戦線

【結成】1970年7月25日

【ヘルメット】赤地に「反帝戦線」。

1971.04.28 闘いの先頭にたつ鉄マスク部隊 野合右派を完全粉砕 (『北西風が党を鍛える』第一部より)

【名称】叛軍行動委員会

【ヘルメット】赤地に「叛軍」。

【名称】全国労働者共闘会議

【ヘルメット】赤地に「労共闘」。

1982.07.04 閣議決定十六周年弾劾、7・4三里塚現地闘争@三里塚第一公園 (『北西風が党を鍛える』第二部より)

【名称】社会主義学生同盟

【結成】1980年6月21日

【ヘルメット】赤地に「社学同」。

1981.10.11 「おれについてこい!」、小川源氏の不屈の闘魂に応え「第二の三・二六」めざす決意を示しぬく@三里塚第一公園 (『北西風が党を鍛える』第二部より)

【名称】筑波体制粉砕共闘会議

【結成】1977年8月7日

【ヘルメット】赤地に「筑波共闘」。

1979頃 無題 筑波共闘 (『北西風が党を鍛える』第一部より)

3.実物資料

・共産主義者同盟(戦旗派)機関紙『戦旗』344号タイトル部 1974.04.05付

・共産主義者同盟(戦旗派)機関紙『戦旗』352号タイトル部 1974.12.20付<B4版ホチキス留め機関紙時代>