共産主義者同盟叛旗派

・機関誌 『叛旗』5号表紙 1970.07.付・1.基本情報

【名称】共産主義者同盟叛旗編集委員会[叛旗派]

【結成】1970年6月

【機関紙誌】『叛旗』

そもそも旧統一派の実態は諸派の連合であったが、第七回中央委員会で情況派幹部松本礼二ら2人が除名、これが引き金となって叛旗派・情況派と、主流派である戦旗派の対立が鮮明になり、’70年6月11日の豊島公会堂における政治集会において、最後の発言者三上治(叛旗派)の合図で、戦旗派と、叛旗・情況派が衝突。戦旗派が勝利して分裂が決定的になった。この時叛旗派と情況派が共闘して戦旗派とのゲバルトを闘ったのは事実だが、当然ながら叛旗派と情況派の主張は異なる。翌7月の第八回中央委員会で三上治ら叛旗派幹部2人も除名される。

叛旗派は自身について「首都圏を中心とした大衆的学生運動の蓄積の上に、マル戦派の逃亡後68年春より再建された三多摩地区委の実践と理論を中軸に自然的に形成されたグループが、68年10月~69年秋期決戦過程でのブント内論争を経て意識的に再編され、結成された」とする(『叛旗』53号 1973.07.05・20付合併号)。

機関紙「叛旗」は共産主義者同盟三多摩地区委員会の機関誌名だった。

2.ヘルメット

【ヘルメット】赤地に「叛」。

恐らく、労働者も学生も統一してこのヘルメットを被ったものとみられる。反帝戦線を組織しており、反帝戦線のヘルメットの側頭部に「叛」とかいてあるものがあるがそれが叛旗派の物かどうかは不明。

3.実物資料

・機関紙 『叛旗』53号タイトル部 1973.07.05・20付

・共産同三多摩地区委機関誌 『叛旗』5号表紙 1968.11付

・叛旗派機関誌 『叛旗』5号表紙 1970.07付