’66年に統一された共産主義者同盟(二次ブント)はその設立の経緯からかつての統一派とマル戦派の間で内部対立を抱えていたが、’68年3月に早くも対立が激化し、マル戦派のごく一部の同盟内残留グループを除いてその殆ど(これを特に本HPでは「旧マル戦派」と呼び、統一派とマル戦派内の残留グループを纏めて「旧統一派」と呼ぶ。)が共産主義者同盟から離脱した。
離脱した旧マル戦派は共産主義者同盟労働者革命派結成準備会を設立するが、一部は岩田理論を批判しレーニン主義者協会を結成。残りも8月に前衛派と怒濤派に分裂した。マル戦派系学生の多数は怒濤派につき、前衛派対して多数派を形成。一方の前衛派には従来からのマル戦派の主流が残った。
怒濤派は’68年12月に労働者共産主義委員会を結成。同時に学生組織共産主義学生戦線を結成した。'71年2月には学生組織である共産主義学生戦線(共学戦)と労働者組織である共産主義労働者戦線(共労戦)を統一し共産主義戦線全国連合(共戦)に改組した。
その後'75年9月に天皇訪米阻止闘争の一環として行った「九・一五自衛隊攻撃闘争」では東京北区の自衛隊十条支処付近で時限式鉄パイプ爆弾を誤って車中で爆発させてしまい、死者、逮捕者を各1名出した。この誤爆事件を契機に警察の取締りが強まり、当時の労共委中央は指導責任等を巡って混乱に陥った。
混乱の中で「プロレタリア革命戦争路線」と全党地下化による戦争体制の即時採用を要求して「臨時中央委員会」を名乗った成島忠夫を中心とするグループ(臨中派)がクーデターに出た。当時の中央委員会はこの臨中派に接近したが、主流派の批判を浴び、主流派は独自に第5回中央委員会総会を開催して結束を図り、中央委派を形成。臨中派は労共委から分裂した。
分裂した臨中派は関西方面に活動拠点を置き、大阪で「釜ヶ崎働く仲間の会」を結成し、以後釜ヶ崎の寄せ場を中心に活動を行った。
この間、関東学院大学グループを中心とする神奈川県委員会による田野井利明ら少数派は、中央委派と臨中派との対立による分裂の回避を主張したが、中央委派からは敵視され分裂、中央委派によれば臨中派に接近した。機関誌として『プロレタリア革命』を発行。
中央委派が行った第5回中央委員会総会は、党の中央集権的指導体制を確立、爆弾闘争に端を発する取締りへの反撃体制を堅持し、九・一五闘争とそれ以降の党内闘争を総括し、新たな革命理論、組織・専横体制の構築を完成させることを任務としていたが、未だなお抽象的であり、臨中派との闘争においても十分な指導を行うことが出来なかったという。
このまとまりきらない状況下で中央委派は労共委第7回大会を開催。大会では新たな中央指導部が選出され、従来の活動の否定的総括と当面の政治的目標を掲げて、且つその当面の活動方向を明確化した。
しかしながらこの過程で旧中央委員望月彰や旧東京都委・旧中央委員候補白川、野原らを中心とするグループ(東京都委員会派)は第7回大会決議を否定し、労働者共産主義委員会再建中央委員会を名乗って'77年7月分裂した。機関紙『労働新報』。
その後中央委派は'79年9月に労共委を解散、日本共産党(マルクス・レーニン主義)全国委員会に合流した。
【名称】共産主義学生戦線
【ヘルメット】赤地に鉢巻状白線「共学戦」。
1970.04.28 警備部隊に突撃態勢
1970.05.15 無題 愛知外相訪ジャカルタ阻止闘争
【名称】共産主義労働者戦線
【ヘルメット】赤地に鉢巻状白線「共労戦」。
消息筋によれば’71年2月に共学戦と共労戦は合併し「共産主義戦線全国連合」(共戦)を結成したとされるが、共学戦以外は未確認である。
・労働者共産主義員会機関紙 『怒濤』4号タイトル部 1969.1.20付(左)
・労働者共産主義員会機関紙 『怒濤』117号タイトル部 1975.02.15付(右)
・労働者共産主義員会機関誌 『共産主義革命』 1975.10.15付