【名称】日本労働者階級解放闘争同盟全国協議会[戦線派]
【結成】1975年7月
【機関誌】『戦線』
’70年5月の社会主義協会第十回大会で協会の基本的な性格に関して太田派主流と主張が対立し、その大部分、即ち協会内の国労青年部によるグループ(「第一潮流」)と九州グループ・京都グループ・学生グループ(「第二潮流」)が12月に協会を脱退し、翌’71年7月に日本労働者階級解放闘争同盟を結成した。これを「人民の力派」と通称する。
人民の力派は’72年の第二回大会で早くも党建設と活動方針を巡って、主流派である第一潮流(労働運動重視)と反主流派の第二潮流の間で対立を生じ、反主流派内少数派が除名された。’75年7月には残りの反主流派内多数派が除名され、日本労働者階級解放闘争同盟全国協議会を結成。機関誌名『戦線』より「戦線派」と通称される。’76年9月に労働者階級解放闘争同盟に改称。
学生組織として’76年にレーニン主義学生同盟(通称「L学同」)を結成。後に学生連帯全国委員会に改称。
’78年頃の朝霞観閲式粉砕闘争で白地に「全自」(全学自治会の意か)、「反帝」等のヘルメットを確認している。その他、協会以来の「反独占」のヘルメットを被っていたという証言もあるが未確認。
また同派は武蔵大学の全学自治会を掌握していたとされるため、武蔵大学図書館所蔵の武蔵大学新聞縮刷版を確認したが、残念ながら発見には至らなかった。