共産主義者同盟前衛派―共産主義者党

1.基本情報

【名称】共産主義者同盟前衛派→共産主義者党('73年~)

【結成】1968年8月頃

【機関紙】『前衛』

(年表)二次共産同分裂から旧マル戦派系三派成立まで

1966年に統一された共産主義者同盟(二次ブント)はその設立の経緯からかつての統一派とマル戦派の間で内部対立を抱えていたが、1968年3月に早くも対立が激化し、マル戦派のごく一部の同盟内残留グループを除いてその殆ど(これを特に本HPでは「旧マル戦派」と呼び、統一派とマル戦派内の残留グループを纏めて「旧統一派」と呼ぶ)が共産主義者同盟から離脱した。

離脱した旧マル戦派は共産主義者同盟労働者革命派結成準備会を設立するが、一部は岩田理論を批判しレーニン主義者協会を結成。残りも前衛派と怒濤派に分裂した。この時マル戦派の指導部層が主体となったのが前衛派である。前衛派は怒濤派に比べて比較少数派であった。

前衛派は9月に青年組織として青年共産同盟を結成する。

しかし上部政治組織である前衛派が(「党」という名称に限らず)政治組織を結成するのには1973年の「共産主義者党」結成を待たなければならない。この間、即ち68年の怒濤派‐前衛派分裂から73年の共産主義者党結党までの間の政治組織としての前衛派の名称は、前衛派機関紙「前衛」を見ても見当たらないため、便宜的にこの約5年間の前衛派政治組織を共産主義者同盟前衛派と呼称することにする。

前衛派は街頭闘争には大衆組織である安保粉砕共闘会議として参加していることが確認されている。安保共闘の結成年月日等は不明だが1968年末のビラが確認されているほか、東大安田講堂に安保共闘の垂れ幕があり、『安保共闘』創刊号('69年5月25日付)にも、「東大闘争の烈火の中から、安保共闘は〝反乱者〟としての声明を宿した。」との一文がある。なお、管理人所蔵の創刊号は、私本閲読許可証が添付されており、また東大安田被告の獄中アピールの署名が削除されていることから、元の所有者は東大安田の逮捕者と思われる。

2.ヘルメット

≪大衆組織≫

【名称】安保粉砕共闘会議

【ヘルメット】銀地に「安保共闘」。

【機関誌】『安保共闘』

【規約】安保粉砕共闘会議結成アツピール&規約

ヘルメット一覧 1970.02.01現在 中央列右から2番目

1970.04.19 安保共斗(旧マル戦前衛派)と共学戦(旧マル戦ドトウ派)との内ゲバによる乱斗

ヘルメットについては、ボリューム(E:)ブログ版時代に白地と誤認するというミスを犯しており、AFさんに訂正していただいた経緯がある。なお、管理人は確認できてはいないが、後の前衛派のヘルメット等に関しても情報を戴いたので、それを下に転載する。詳細に関しては下記リンク参照。

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前衛派は東大安田の時点でヘルメットは銀、文字は黒文字に

赤フチで「安保共闘」です。

70年以降の組織は、青共同(青年共産主義者同盟)、軍事組織は

共武行(共産主義武装行動隊)。

その後、73年に共産主義者党-労戦が「首都圏行動委員会連合」、

学戦が「首都圏行動戦線連合」。ヘルメットは銀に前面が黒文字で

「行動委員会」「行動戦線」、後ろに黒文字で「前衛」。

共産主義者党は1986年に解党、労戦、学戦も解体。

投稿: AF | 2009年12月13日 (日) 04時12分

(つづき)

正誤を記します。

【名称】安保粉砕行動委員会→安保共闘

【上部団体】共産主義者同盟旧マル戦派前衛派→ 共産主義者党

【ヘルメット】白地に「安保共闘」→銀地に黒文字赤フチ「安保共闘」

前衛派はヘルメットの後ろに「前衛」と書いていても、

自ら「前衛派」と公式に名乗ったことはありません。

他党派が機関紙「前衛」を指して「前衛派」と通称して

いたので、便宜上前衛派と呼称はしましたが、公式文書

やビラ等に「前衛派」と書いたことはありません。

(「前衛」としたビラ製作は学生戦線で一時期ありました)

投稿: AF | 2009年12月13日 (日) 04時22分

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他にもgoogleの画像検索で「フォークゲリラ」と検索し、最初の画像をクリックして元ページに飛ぶと安保共闘の隊列を見ることができる。白黒だがはっきり銀ヘルだとわかる。

3.実物資料

・共産主義者同盟前衛派機関紙『前衛』創刊号 タイトル部 1968.09.10付

・安保粉砕共闘会議機関誌『安保共闘』表紙 1969.05.25付

・青年共産同盟機関誌『武装』4号表紙