ネガティブ・ケイパビリティを育むにはどうすべきか

最近、「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉に出くわすことが多くなっています。なんとも日本語にしにくい言葉で、「消極的受容能力」、「消極的でいられる能力」、「否定の力」等々、意味を的確に表現できている日本語訳がない印象です。

 発案者である詩人John Keatsの用語用法では、偉大な芸術的創造性と理解力に不可欠と考える特定の資質や心の状態を表したもので、論理的な答えや解決策を求めず、不確実性や疑念、曖昧さを受け入れる個人の能力を表現したものでした。すべての答えを持っていないことを心地よく思うことで、未知のものと共に生き、探求ができるのだ、と主張しています。ネガティブという用語から想起されるような否定的、悲観的なニュアンスはありません。このニュアンスをふまえて、全てをきちんとした明確な説明に還元しようとしない姿勢が、創造性や革新性、柔軟性が求められる分野で応用できそうだとしてビジネスの文脈に持ち込まれているようです。


 この背景にはいわゆる「VUCAの時代」という現状認識があることは間違いないでしょう。VUCAとは、Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の4つの単語の頭文字をとった言葉で、背景や環境が目まぐるしく変転するので予測が困難である状況を指しています。VUCAであるので、データを活用した合理的な分析に基づく明確な意思決定と戦略等によって示される方向性が必ずしも正しいものとは限らなくなってきています。これまで重宝された決断力や判断力とは少し異なる能力が求められているのでしょう。特にソーシャルメディアやAIが発展し、インターネットに問いかけることで答えを容易に得られる現代において、「本質的に正しい」答えを見極めることはむしろ難しくなっているようにも思われます。

 しかし同時に、合理的な分析や戦略立案等が完全に置き換えられるわけではなく、ネガティブ・ケイパビリティで補完していくことになるのでしょう。合理性と曖昧さをバランスさせることで、異なる視点から、既成概念にとらわれず、型にはまらない問題解決や意思決定を行うことで、VUCAに適応できる創造性と確信性を実装する、というイメージになるでしょうか。


このような時代の大学教育はどこを目指していくべきでしょうか。一部の研究者養成を主眼とした大学を除き、知識偏重からアクティブラーニングを通じた社会人基礎力の涵養への転換を図ろうという動きはありました。しかし、問題を解くことは前提で、解決策を求めようとしない姿勢を追求することはなかったように思います。

教育の現場では、解決策を考えないという「消極さ」をポジティブに評価することはとても難しく、ネガティブ・ケイパビリティを育てるための方法論は、ネガティブ・ケイパビリティを最大限発揮しながら、曖昧さを残しながら考え続けるしかないのかと、悶々とさせられています。

(想守時)