曾祖父の半生を追う
私の曾祖父 (1843-1903) が,明治7年の「改正禄高調べ」の際に,白川(熊本)縣權令 安岡良亮に提出した書類を熊本県立図書館の県政資料の中で発見した.
公開されている「有禄士族基本帳」は氏名一覧であり,それをもとに当人の個人情報とも言える上申書の原本のコピーを閲覧することができた.同時に複写した親類四名の資料も閲覧できたが,筆跡や記載内容を比較すると明らかに各人の自筆であることが分かった.
曾祖父(明治7年31歳)の書類(改正録高調)には明治維新前後の動き(履歴,職歴)を知る手掛かりが記されている.一部を以下に示す.
一⼪高切米?石
弐人扶持
改正高?石?斗?升
従前八等官東京米銀小間物支配役
原 野 則 旦
明治五年六月十五日改名 旧名 大三郎
一明治三年正月十一日東京被差立同二月八日帰着同月十四日
古方御筭(算)用仕上申候事
一明治六年四月十一日第四大区四小区筆生幷命
右之通相違無之候以上
第四大区四小区嶋崎村三百二十六番屋敷士族 原野則旦
明治七年二月十日
白川縣權令 安岡良亮殿
藩方役職の区分表によると,勘定所で米銀方,小間物所の小間物支配役を努めていたが,維新後の明治3年1月11日(27歳の時)東京へ出向き2月8日に帰熊,一ヶ月程出張している.2月14日古方(古い方法?,古医方?)の経理処理(算用)を済ませている.書類提出前年の明治6年には島崎村の公務を行っている. なお,明治五年には大三郎から則旦へ改名している.有禄士族基本帳に記載されている分家の原野亥作(柏原弥九郎の舊臣)の長男,原野利三治は利一へ,緒方弥五兵衛は弥五七へと改名している.新しい時代への対応のためであろうか,布告が発せられたようである.原野一也(柏原弥九郎の舊臣)は舊名 曲太郎を「明治五年五月御布告之趣に付一也と改名仕候」と書いている.
維新後,熊本では 秩禄処分により俸禄(家禄)制度は撤廃され、廃刀令の施行など身分的特権も廃されたことに対する不満がつのっていたが9年神風連の乱でついに爆発した.
曾祖父も不満を持つひとりであったと想われるが,神風連の乱には関与していない.明治7年改正禄高調べの書類を提出した白川(熊本)縣權令 安岡良亮は神風連の乱で襲われ実に悲惨な殺され方をしている.徳富蘆花が自ら経験し後に著した「恐ろしき一夜」にその様子が記載されている(別項参照).
その後,明治10年の西南の役において熊本隊の一員として西郷軍の加勢をしたが,出陣の前夜,曾祖母の涙を「不吉」として刀を抜いたと父が話してくれたのを記憶している.(前年,明治9年神風連の乱が発生し,計画は頓挫し,全員が自刃している.人吉相良藩楢崎家から嫁に来た曾祖母は敗北に終わった場合の対応を予想したものと思われる).
明治維新という激動期の先祖の姿が具体的に見えてきたので,「有禄士族基本帳」に記載されている親戚の者達の西南戦争への対応を知るため熊本大学裏にある小峰墓地に行って丁丑感旧碑(ていちゅうかんきゅうひ) を調べてみた.
丁丑感旧碑(旧は古い書体,舊)は明治10年の西南の役において西郷軍側に加わって官軍と戦った熊本士族隊の人達が建立した碑である.原は日の上にノはない,野は旧字,埜を使っている.
追記(2014.1.25)
内閣官報局発行の明治33年−35年職員録(乙)の215ページによると,明治33年から3年間,熊本縣飽託郡島崎村の村長を務めている.明治36年村長在職中に他界.
西南の役に参戦し,逆賊扱いされたと思われるが,23年後に公職に復帰したことになる.
資料 国会図書館
碑には西南戦争に参加した熊本隊のすべての人名が刻まれている.碑面に苔が生えて読みにくい状態になっていたが,曾祖父の氏名を見つけることができた.しかし分家や母方の先祖の氏名は発見できなかった.曾祖父は人一倍血気盛んであったのか或はモッコスであったのであろう.西南戦争では,政府軍に投降した後,明治12年長崎裁判所で赦免され,島崎村に帰り村長をしたと聞いている.西南の役以降については県立図書館で調べるつもりである.追記 国会図書館の資料で上記の通り確認できた.
父方の祖父は西南の役,母方の祖父は日露戦争に参加している.私にはそのDNAは伝わっていないようだ.
参考資料
白川縣權令 安岡良亮については別項を参照してほしい.
内閣官報局発行の明治33年−35年職員録(乙)の215ページ(熊本県は214ページから)
(2012/1/15)