2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表
参考:『祭り 日本の祭』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%AD#%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%A5%AD
日本の祭礼は、神道の影響を受けているものが多いが、神道以前から存在する民間信仰色の強いものも多く、道教の信仰・習俗の影響を受けているものも多く、仏教に基づくものもあり、神道と仏教の両方の影響を受けているものもある。
現在一般的な意味での祭は、神社や寺院をその主体または舞台として行われることが多い。その目的や意義は、豊作の「五穀豊穣」を始め、「大漁追福」、「商売繁盛」、「疫病退散」、「無病息災」、「家内安全」、「安寧長寿」、「夫婦円満」、「子孫繁栄」、「祖先崇拝」、「豊楽万民」、「天下泰平」などを招福祈願、厄除祈念として行われるもの、またはそれらの成就に感謝して行われるもの、節句などの年中行事が発展して行われているもの、偉人の霊を慰めるために行われるものなど様々である。その目的により開催時期や行事の内容は多種多様なものとなっている。また同じ目的、祭神の祭りであっても、祭祀の様式や趣向または伝統などが、地方・地域ごとに大きく異なる場合も多い。
北海道冬の三大祭り
東北三大祭り
2019年日本地理
国指定文化財データベース『青森のねぶた』(文化庁)
重要無形民俗文化財
名称 : 青森のねぶた
ふりがな : あおもりのねぶた
種別1 : 風俗慣習
種別2 : 祭礼(信仰)
その他参考となるべき事項 : 公開日:毎年8月2~7日(※指定当時・お出掛けの際は該当する市町村教育委員会などへご確認ください)
指定証書番号 : 1
指定年月日 : 1980.01.28(昭和55.01.28)
追加年月日 :
指定基準1 : (一)由来、内容等において我が国民の基盤的な生活文化の特色を示すもので典型的なもの
指定基準2 :
指定基準3 :
所在都道府県 : 青森県
所在地 :
保護団体名 : 青森ねぶた祭保存会
青森のねぶた
写真一覧
解説文:
詳細解説 : この行事は、いわゆる「ねむりながし」の習俗、すなわち仕事の妨げとなる眠気を送り出す習俗が風流化したものである。このような災厄を払い、無事息災を祈る行事は、東北地方をはじめ各地に見られるが、特に青森市と弘前市では盛大なものが行われてきた。青森のものは勇壮華美、弘前のものは古風さに特色があり、青森は組ねぶた、弘前は扇ねぷたで著名である。
青森の組ねぶたは、台上に歴史上の人物、物語の中の人物等で勇壮なものを題材にとり、木や竹などを骨組みとした紙製の人形を飾ったもので、人形の中に灯をともす。一種の灯籠で、大小さまざまある。
この「ねぶた」は、笛・太鼓の囃子に「はねと」等多数が一団となって町を練りまわる。現在「ねぶた」は大型のものは企業、公共団体等、小型のものは町内会、幼稚園、子供会等から出され、これに参加するものは青森市内全域にわたっている。
これらの中には、金魚ねぶた、一人1担ぎねぶた、二人担ぎねぶた、四人担ぎねぶた等の古様を示すねぶたも参加し、歴史的な変遷もうかがうことができる。
(※解説は指定当時のものをもとにしています)
2019年日本地理
東北三大祭りの一つに数えられる,宮城県仙台市の七夕行事。8月6~8日に行なわれる。市内中央の商店街は華やかな七夕飾りで埋めつくされ,大勢の見物客でにぎわう。仙台では江戸時代,7月6日に歌をよんだ短冊や扇などの飾りを笹竹に付けて軒端に立て,牽牛星(ひこぼし)と織女星(おりひめ)をまつり,翌 7日にその笹竹を川に流す七夕行事があった。1873年の太陽暦採用を境に行なわれなくなっていたが,1927年に有志の商人が七夕飾りを復活させたのが今日の祭りの起源とされる。1928年からは 8月6~8日の開催となり,七夕飾りの意匠を競うコンクールも始まった。開催期間中は毎晩「星の宵祭り」として,定禅寺通りでパレードや芸能公演なども行なわれる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
2019年日本地理
秋田県秋田市で 8月3~6日に行なわれる行事。長い竹竿に横竹を結び,46個のちょうちんをつるし,1人で持ち上げて曲芸風に操りながら街を練り歩く。病魔などの悪疫祓いの意味をもつ七夕のねぶり流し行事の一つで,本来は旧暦 7月6日に行なわれていた。竿灯という名は明治になってからで,江戸時代には眠り流しと呼ばれていた。寛政1(1789)年の津村淙庵著『雪の降る道』に初めて見え,文化11(1814)年の『秋田領風俗問状答』(→風俗問状答)には,力自慢の男が横木に 30個から 50個もの大灯籠をつるした長竹を片手で持ち上げ,それを男たちが取り囲み囃しながら街中を練り歩く様子が描かれている。竿灯の形は,新盆の家に立てられる高灯籠と関係があるとも考えられている。国指定重要無形民俗文化財。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
以下の3つを加えて東北六大祭り
2019年日本地理
山形県山形市の中心街で毎年 8月5~7日の晩に行なわれる市民参加の祭り。『花笠音頭』の唄に合わせて踊られる花笠踊りのパレードで知られ,東北四大祭りの一つに数えられている。1963年に観光振興を目的として開催された蔵王夏まつりの花笠音頭パレードを前身として,1965年から単独の祭りとなった。パレードは蔵王大権現の山車を先頭に,地元を始めとする企業や市民団体などの踊り手が,山形特産のベニバナをあしらった花笠を手にして一斉に踊り歩く。最後尾では踊りの飛び入り参加も認められている。「ヤッショ,マカショ」で知られる花笠音頭は,明治,大正期に山形県村山地方でうたわれていた土突唄に八木節などが加わって,昭和初期に今日のような伴奏入りの民謡となったといわれる。歌詞は,もともとうたわれていた二つの歌詞に公募した歌詞を加えて 15あり,最上川沿いの名所などがうたわれている。花笠踊りは,各地に 10種類ほどの踊り方があったが,1963年にそれらを統合して踊りやすくした「正調花笠踊り・薫風最上川」がつくられた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
その他の祭り
文化庁『弘前のねぷた』(国指定重要文化財等データベース)
重要無形民俗文化財
[主情報]
名称 : 弘前のねぷた
ふりがな : ひろさきのねぷた
種別1 : 風俗慣習
種別2 : 祭礼(信仰)
その他参考となるべき事項 : 公開日:毎年8月1~7日(※指定当時・お出掛けの際は該当する市町村教育委員会などにご確認ください)
指定証書番号 : 1
指定年月日 : 1980.01.28(昭和55.01.28)
指定基準1 : (一)由来、内容等において我が国民の基盤的な生活文化の特色を示すもので典型的なもの
所在都道府県 : 青森県
所在地 :
保護団体名 : 弘前ねぷた保存会
詳細解説 : この行事は、いわゆる「ねむりながし」の習俗、すなわち仕事の妨げとなる眠気を送り出す習俗が風流化したものである。このような災厄を払い、無事息災を祈る行事は、東北地方をはじめ各地に見られるが、特に青森市と弘前市では盛大なものが行われてきた。
弘前のねぷたは、扇形をしている扇ねぷたで、台上に扇形の箱をつくり、これに紙を張り、その紙に歴史上の人物や物語上の人物等で勇壮なものを描いて、この扇形の箱の中に灯を入れたものである。
行事では、笛・太鼓の囃子につれて「ヤーヤド、ヤーヤド」の掛声で気勢をあげて多勢がねぷたを曳く。ねぷたは各町内会、愛好会、職場団体等がこれを運行するが、ねぷたの骨組み、絵、囃子等にたずさわる人々は、弘前市内全域にわたっている。大小数十のねぷたの中には古風をよく残したものも多く、青森のねぶた(昭和55年1月28日重要無形民俗文化財指定)と並んで貴重なものである。
(※解説は指定当時のものをもとにしています)
◎以下は、弘前ねぷたWikipediaより
弘前ねぷたまつり(ひろさきねぷたまつり)は、青森県弘前市で開催されるねぶた。
弘前さくらまつり、弘前城菊と紅葉まつり、弘前城雪燈籠まつりに並び「弘前四大まつり」の一つに数えられる。大勢の市民が「ヤーヤドー」の掛け声とともに、武者絵が描かれた山車を引いて市内を練り歩く。弘前ねぷたには扇ねぷた(扇型)と組ねぷた(人形型)があり、総数約80台の県内最多のねぷたが運行される。
[起源]
弘前ねぷたまつりの起源については諸説ある。
(伝説)平安時代の初期、征夷大将軍・坂上田村麻呂が、蝦夷をおびき出すために大きな人形を作った。
(伝承)1593年(文禄2年)旧暦7月に藩祖津軽為信が京都滞在中に盂蘭盆会で二間四方の大燈籠を出した。
(定説)江戸時代の元禄期後半からの「七夕祭りの松明流し・精霊流し・眠り流し」や「盆燈籠」などが融合変化し、現在の華麗なねぷたに発展してきた。
語源は、「眠り流し」→「ねむた流し」→「ねむた」→「ねぷた(ねぶた)」と転訛(表記は佞武多、禰ふたと様々ある)。「眠り流し」は日本各地で行われている。
農作業の激しい夏期に襲ってくる睡魔を追い払い、厄災・邪悪を水に流して村の外に送り出す行事のひとつ。
[内容]
弘前ねぷたまつりは8月1日から7日にかけて合同運行が行われる。(小雨決行、悪天候中止)
弘前ねぷたまつりのオープニングとしてちびっ子ねぷたのお通りだいが弘前市内の幼稚園・保育園の参加により行われる。
最終日7日(午前運行)のことを「七日日(なぬかび)」と呼ぶ。
8月7日の夕方からなぬかびおくりが岩木川悪戸河川敷にて行われ、まつりのフィナーレを飾る。
(なぬかびに、まつりで役目を終えたねぷたを岩木川へ流していた慣わしを、2011年(平成23年)の弘前城築城400年祭記念行事「なぬか日スペシャル」で、炎で流し送るという意味に置き換えて実施したところ好評だったため、翌年以降「なぬかびおくり」と名称を変更して毎年行われている)
まつりの運営は、弘前市・弘前観光コンベンション協会・弘前商工会議所・弘前市物産協会・弘前ねぷたまつり合同運行安全会議の5団体で構成する「弘前ねぷたまつり運営委員会」が実施している。
企業主催のねぷたは少なく、町会・集落単位でのねぷたが多かったが、近年は任意に仲間たちが集まって参加しているグループねぷたが増加傾向にある。
期間中、1日平均約50団体が参加するが、土・日などの開催日には参加団体が多い場合がある。2006年(平成18年)の場合、木曜日の8月3日に59団体、土曜日の5日には62団体と集中したため、両日は出発時間を30分早い、午後6時半からとした。
参考:youtuberのスーツ君の旅行チャンネルで弘前のねぷた祭りの様子を含む動画を紹介しています。
→「[本州埼北]青森を2泊3日で旅行 八甲田・十和田・八戸・弘前・青森」 https://youtu.be/GsJTmEBBTig?si=ISq3_oLHHkPpSd7q
わかりやすい。扇ねぷた(扇型・平面)と組みねぷた(人形型・立体。青森のねぶたに近い)の違い、最終日(7日)にねぷたを燃やす様子なども映してくれている。ねぷた祭は2022年で300年。
カランカランアイス。
青森県五所川原市で8月4日から8月8日に開催される祭りである。
青森のねぶたと構造は基本的に同じだが、その名の通り、高さが最大で20m強にも達する巨大な山車が運行される。
「立倭武多」と誤植されることもある(その中には旅行会社のウェブページやパンフレットもある)が、佞(ネイ)と倭(ワ、イ)は別字である。
この立佞武多とよばれる山車は、禊ぎ祓いとして行われた夏の行事において、燈籠を作られていたものがいつしか組み人形として作られるようになったのが原形と考えられている。明治時代から大正時代にかけて巨大なものとなり、市内の豪商や集落などで競って作られていた。しかし、電線が市街地に張り巡らされたことにより、巨大な山車の運行が困難になり、立佞武多は低形化された。結果、立佞武多そのものが幻となってしまう事となった。
1993年(平成5年)、市内のある家庭で先祖の遺品の整理をしていたところ、明治・大正期の立佞武多の設計図の一部と写真が発見された。この設計図を元に立佞武多を復活させようとするボランティア運動が始まり、彼らの手により、1996年(平成8年)に「立佞武多」として80年ぶりに復活した。この時に作られた立佞武多「武者」は同年7月1日に岩木川河川敷で運行、7日には古習に倣い火が放たれ、昇天させられた。 その2年後の1998年(平成10年)、五所川原市が立佞武多の支援を決め、夏祭りで運行されるようになった。以後、立佞武多は1年に一基ずつ新作が制作され現在に続いている。
『五所川原立佞武多』Wikipediaより
東北六魂祭(とうほくろっこんさい)は、東北6県の各県庁所在地(以下「東北6県都」)の代表的な6つの夏祭りを一同に集めた祭りである。2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の鎮魂と復興を願い、同年より2016年(平成28年)まで東北6県都で持ち回り開催された。
2017年(平成29年)より「東北絆まつり」へと引き継がれた。
*青森市 青森ねぶた祭
*盛岡市 盛岡さんさ踊り
*仙台市 仙台七夕まつり
*秋田市 秋田竿灯まつり
*山形市 山形花笠まつり
*福島市 福島わらじ祭り
[内容]
開催時期 東北の夏祭りより前の時期
初回開催 宮城県仙台市
2011年(平成23年)7月16日・17日
会場 東北6県の県庁所在地持ち回り
主催 東北六魂祭実行委員会、
青森市、盛岡市、仙台市、
秋田市、山形市、福島市、
青森ねぶた祭実行委員会、
盛岡さんさ踊り実行委員会、
仙台七夕まつり協賛会、
秋田市竿燈まつり実行委員会、
山形県花笠協議会、
福島わらじまつり実行委員会
後援 観光庁、復興庁、東北運輸局、
東北観光推進機構、岩手県、
東北6県所在マスメディア各社
協賛 JAグループ秋田、秋田銀行、東北電力、TDK、TVfan、ニプロ、北都銀行、オーヴォ、佐藤養助、アサヒビール、キヤノン、みちのくコカ・コーラボトリング、サッポロビール、東日本旅客鉄道(JR東日本)、日本生命、東日本高速道路(NEXCO東日本)、ファミリーマート、三菱自動車 ほか
協力 ベネフィット・ワン
運営 電通パブリックリレーションズ(東京都)
来場者数 第1回(2011年): 36万人
第2回(2012年): 24.3万人
第3回(2013年): 25.0万人
第4回(2014年): 26.0万人
[沿革]
2010年(平成22年)12月4日に東北新幹線が八戸駅から新青森駅まで延伸することで、「東北6県都」全てが新幹線で繋がれるのを前にした同年2月15日、「東北6県都」で開催されている6つの夏祭り(青森ねぶた祭・盛岡さんさ踊り・仙台七夕まつり・秋田竿燈まつり・山形花笠まつり・福島わらじ祭り)の実質的な主催者である6つの商工会議所が宮城県仙台市に集まり、共同で情報発信や誘客事業をして観光客の周遊を目指す初めての組織「東北夏祭りネットワーク」が結成された。2011年(平成23年)2月3日、「東北夏祭りネットワーク」に加盟する祭りを県庁所在地に限定しないことになり、加盟する祭りが35に拡大された。
同年3月11日、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生。多数の死者・行方不明者・負傷者を出し、避難所には一時45万人以上の人々が避難した。鉄道や道路が寸断され、被災地を含む東北6県は物流が停滞して物不足が発生するが、特に燃料不足が深刻で、営業しているガソリンスタンドが東北6県の全3866店の4.8%にあたる186店にまで落ち込んだ。停電と燃料不足から暖房が充分に行えず、高齢者が低体温症から死亡するという二次被害も報告された。
一方、被災地を支援するためには被災地以外の地域の経済活性が必要との意見もあり、行き過ぎた自粛ムードを抑える動きもみられるようになった。4月5日、三陸海岸の被害の大きさに比べて被害が少なかった岩手県北上盆地にある盛岡市の市長が、6月のチャグチャグ馬コおよび8月の盛岡さんさ踊りを節電の上で例年通りの日程で開催し、自粛ムードの払拭につなげると記者会見で表明した。しかし、震災による死傷者約3千人、被害総額1兆3千億円を超える仙台市は、市の予算・人員を犠牲者・遺族・被災者支援やインフラ復旧に最大限振り向けるため、次々と祭りや大規模イベントの中止を発表していた。そこに、東北新幹線・新青森駅開業を記念して青森市と仙台市の交流促進を目的に青森市で開催予定だった仙台フィルハーモニー管弦楽団のフレンドシップ・コンサートが震災発生により中止になった青森市長が、仙台市長に青森ねぶた祭と仙台七夕まつりの共同開催を4月6日に提案した(「東北六魂祭」の端緒)。
震災による死者の約6割、負傷者の約7割を占め、地震と津波の最大の被災地となった宮城県では、4月7日に発生した余震によって被害が拡大するも、発災1ヶ月を前にした4月10日、救助・復旧から復興へと舵を切るため「4月29日を震災復興キックオフデーとする」と知事が表明。これに呼応して復旧作業が前倒しされた。また、被災地で初めてとなる応急仮設住宅への入居が4月9日より始まった岩手県陸前高田市では、「奇跡の一本松」「希望の松」などと呼ばれて有名になった高田松原の被災樹木の保護作業も4月15日から始まり、被災地での復旧以外の動きも見られるようになった。
4月16日、秋田竿燈まつりが例年通りの開催を決定したことで、北東北3県の県庁所在地の夏祭りの例年通り開催が揃った。仙台市では、3月18日にほぼ全域で電力が復旧、4月11日に上水道が全面復旧、4月16日に都市ガスが被害激甚地区を除いて全面復旧するなど生活インフラが復旧し、4月25日には東北新幹線の東京駅~仙台駅間の運行が再開し、ガソリン等の燃料不足の解消も見えてくるなど交通インフラの復旧も進んだ。また、石垣などが崩落した仙台城址において4月13日から本丸の伊達政宗騎馬像周辺など一部が観光客等に開放されるなど、観光拠点の再開も始まった。これらを受けて4月26日には仙台七夕まつりも例年通りの開催を決定した。
電通は、東北最大の観光資源ともいえる東北の夏祭りを、東北全体としての取り組みに昇華させる体制を整えるため、「東北6県とのつながりがある電通こそが、東北を結ぶハブとなり、同時に、復興支援のために協力したいと考えている企業を協賛できる」と判断。夏祭りが始まる直前の7月中に、東北人自らが団結する大型イベントを行うべき、との結論に至った。
2011年7月17日発表の東北地方太平洋沖地震による都道府県別死者・行方不明者数(参照)。
5月31日、「東北6県都」の6市長が、海の日を含む三連休にあたる7月16日・17日の2日間、宮城県仙台市において「東北六魂祭」を開催すると発表した。
第1回開催後、山形市と福島市が輪番で開催すべきとの意見を表明した。第2回の開催地は盛岡市、第3回の開催地は福島市となった。第4回以降は、山形市・秋田市・青森市の順で開催される予定とされた。
福島市での第3回の開催を前にした2013年(平成25年)5月12日、同祭の実質的な運営者である電通パブリックリレーションズ(電通の関連会社)が、第3回を以って同祭を終了する可能性があることを示唆した。その理由として、震災の被害が大きかった岩手・宮城・福島の3県での開催が第3回で終了するため協賛スポンサーが離れに拍車がかかることや、会場の一般車通行規制といった地元自治体との交渉の負担が大きいことなどが挙げられた[51]。しかし、10月21日に市川昭男山形市長と石井直電通社長が山形市での第4回開催で合意に至った。
2016年の青森市開催で東北6県を一巡した。2017年以降は後継イベントとして「東北絆まつり」を開催することとなった。第1回を仙台市で実施し、2018年以降も各県庁所在地を巡回する。
参考:『東北6県を一巡した絆まつり、6市長「またやろう」…名称変えず来年は仙台開催』読売オンライン 2023.6.21
2011~16年に6県持ち回りで開催された「東北 六魂祭ろっこんさい 」の後継イベント。17年に始まり、17、18日の青森市での開催で6県を一巡したが、西市長は「6市長で話し合って、『またやろう』となった」と説明し、仙台市での2回目の開催が決まった。(2025年以降の開催地は未定)
[神田祭]
東京都千代田区外神田に鎮座する神田神社の例祭。江戸時代には永田町の日枝神社で行なわれる山王祭とともに,神幸行列が江戸城内に入り将軍の上覧を受ける天下祭であった。山王祭と交互に隔年で西暦奇数年(丑,卯,巳,未,酉,亥の年)が大祭となり,鳳輦(ほうれん)が神田から日本橋,丸の内と巡行する神幸(→神幸祭)が行なわれる。本来は秋祭りで,旧暦 9月15日の祭りであったが,1892年以降 5月15日となり,今日では 5月15日が平日の場合は例祭の神事のみ行ない,神幸はその前後の日曜日に行なわれている。江戸時代後期には,神幸行列として,氏子各町が出す 36基の山車やそれに伴う附祭(つけまつり)と呼ばれるさまざまに趣向を凝らした出し物と,御雇祭(おやといまつり)と呼ばれる幕府の命を受けた氏子以外の町内による出し物が多数出ていたが,附祭は 1887年に姿を消し,山車も電線架設や関東大震災などの影響により失われ,神田松枝町会の「羽衣」人形の山車を除いて各町内とも神輿を出すように変わった。附祭は 2007年から神田祭附祭復元プロジェクトが発足し,復活が試みられている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[山王祭]
東京都千代田区永田町に鎮座する日枝神社の例祭。文明10(1478)年に太田道灌が川越の山王宮を現在地に勧請した日といわれる 6月15日の例祭奉幣を中心として,6月6~17日にかけて行なわれる。本来は船祭りとして始まったと伝わるが,江戸時代には,神田神社の神田祭とともに神幸行列が江戸城内に入って将軍の上覧を受ける天下祭とされ,神田祭と交互に隔年(子・寅・辰・午・申・戌の年)の旧暦 6月15日に,宮神輿(→神輿)と氏子各町内の山車や附祭(つけまつり)が長蛇の列をなして行列する神幸祭が行なわれ,将軍の上覧を受けていた。今日も神田祭と隔年で 15日前後の平日に神幸祭があり,2基の鳳輦(ほうれん)と 1基の宮神輿,氏子町内からの美少年山車や東郷元帥山車,牛若大山車などの山車が行列して皇居周辺から日本橋,銀座と東京中心部をめぐり,皇居では宮司らが坂下門から参内して神符(→お札)献上が行なわれている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[深川祭]
東京深川にある富岡八幡宮の祭礼。8月15日に行われる。3年に1度の本祭には、本社の鳳輦(ほうれん)渡御と氏子町内の大神輿54基の連合渡御がある。観衆が神輿と担ぎ手に水をかけるので、水かけ祭ともいう。深川八幡祭。
出典 小学館デジタル大辞泉
公式:『三社祭 』| 浅草神社 三社様 https://www.asakusajinja.jp/sanjamatsuri/about/
令和6年:5月17日、5月18日、5月19日
浅草神社の氏子四十四ヶ町を中心に五月の第三土曜日を基点とした金・土・日曜日に行われ、江戸風情を残しつつ勇壮且つ華やかな神輿渡御を主として、三日間に亘り約百八十万人の人出を数える日本を代表する祭礼の一つです。
江戸風情の残る下町浅草が1年でもっとも活気付くと云われ、東京の初夏を代表する風物詩の一つになっています。
参考:『三社祭』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%A4%BE%E7%A5%AD
三社祭(さんじゃまつり)は、毎年5月に行われる東京都台東区浅草の浅草神社の例大祭である。
かつては観音祭・船祭・示現会に分かれていたが、1872年から5月17・18日に行われるようになった。現在は5月第3週の金・土・日曜日に行われる。名前は浅草神社の旧名である三社大権現社または三社明神社(檜前浜成・竹成の兄弟と土師真中知の3人を祀ってあるためこの名だった)に因む。正式名称は「浅草神社例大祭」。奉納される田楽「びんざさら舞」は古式に則ったものとして有名(室町時代頃と言われる)。
浅草神社は明治時代に入るまでは浅草寺と一体であり、この時代には浅草寺の祭りとして行なわれていた。神仏分離により、浅草寺と分離してからは、浅草神社単体での祭りとなり、発展したがこれは明治に入って以降のことである。
このことを表すかのように、江戸時代から謳われている江戸の大きな祭りを謳った狂歌「神輿深川(深川祭)、山車神田(神田祭)、だだっぴろいは山王様(山王祭)」の中には含まれていない。
浅草神社には現在3基の神輿があり、祭礼の際は、一之宮には土師真中知命、二之宮には檜前浜成命、三之宮には檜前竹成命の御神霊を移し、町中を渡御する。御輿はかつて7基存在したが、全て戦災により一度焼失してしまっている。かつては徳川家光が1637年(寛永14年)に建造寄進し、300年の歴史を持つ国宝の御輿もあったが、太平洋戦争にて焼失。現在の御輿は1950年に二基、1952年に一基が氏子四十四ヶ町から奉納されたもの。最終日の宮出しには「サセ、サセ」という掛け声で御輿が担ぎ上げられる。
関東三大祭 神田祭(東京)、山王祭(東京)、佐原の大祭(千葉)など
公式サイト→『ユネスコ無形文化遺産国指定重要無形民俗文化財 川越まつり』 https://www.kawagoematsuri.jp/
川越まつりは江戸の天下祭(神田明神、赤坂日枝神社の各祭礼の総称)の影響を強く受けて発展し、祭で曳き出される山車の形も天下祭の流行を敏感に感じ取りながら変化していった。
精巧な人形を乗せた絢爛豪華な山車が、小江戸川越の象徴である蔵造りの町並みを中心に、町中を曳行(えいこう)される。
何台もの山車が辻で相対し、すれ違うさまは、そのスケールの大きさに、見物客を圧倒する。
参考:『川越氷川祭』Wikipedia https://www.kawagoematsuri.jp/about/about_history.html
川越氷川祭(かわごえひかわまつり)は、毎年10月第3日曜日とその前日の土曜日(ただし10月14日・15日が土曜日と日曜日の場合はその両日)に行われる埼玉県川越市の川越氷川神社の祭礼で、一般には川越まつりと呼ばれている。常陸國總社宮大祭(石岡のおまつり)・佐原の大祭と並び関東三大祭りの一つと称されることが多い。2日間で80万人以上の人出を数える。360年以上にわたり連綿と続いてきた祭事で、国の重要無形民俗文化財に指定されている。また2016年にはユネスコの無形文化遺産に「山・鉾・屋台行事」の1つとして登録された。
頻出
参考:『郡上おどり』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1%E4%B8%8A%E3%81%8A%E3%81%A9%E3%82%8A
郡上おどり(ぐじょうおどり)或いは、郡上節(ぐじょうぶし)は、岐阜県郡上市八幡町(旧・郡上郡八幡町、通称「郡上八幡」)で開催される伝統的な盆踊りである。日本三大盆踊り、三大民謡(郡上節)に数えられる。 毎年7月中旬から9月上旬まで32夜開催され、特に盂蘭盆会の徹夜踊りには、全国から数万人の踊り子が来場する。
中世の「念仏踊り」や「風流踊」の流れを汲むと考えられている。
盆踊りとしての体裁が整えられたのは、郡上藩主の奨励によるとされる。江戸時代、初代藩主・遠藤慶隆が領民親睦のため奨励したのが発祥とも、江戸時代中期の藩主・青山氏の時代(1758年〜)に百姓一揆(宝暦騒動)後の四民融和をはかるため奨励したのが発祥とも伝えられるが定かではない。
1820年
郡上藩庁より触書「城番年中行事」で「盆中は踊り場所へ御家中末々まで妻子並びに召使いなど出かけていくことはならないと前々より禁じているから、固く心得て決して出かけていってはならない。今後年々この触れを出すことはやめておくが、違反のないように心得ておくこと」という意味の禁令(条令と御法度の覚書)が発せられた記録がある。これにより当時の武士やその家族の者たちが禁止されているにも関わらず、藩主や役人にこっそり隠れて踊りの輪に加わろうとしていたことが推察できる。
発祥
中世の「念仏踊り」や「風流踊」の流れを汲むと考えられている。
盆踊りとしての体裁が整えられたのは、郡上藩主の奨励によるとされる。江戸時代、初代藩主・遠藤慶隆が領民親睦のため奨励したのが発祥とも、江戸時代中期の藩主・青山氏の時代(1758年〜)に百姓一揆(宝暦騒動)後の四民融和をはかるため奨励したのが発祥とも伝えられるが定かではない。
1820年
郡上藩庁より触書「城番年中行事」で「盆中は踊り場所へ御家中末々まで妻子並びに召使いなど出かけていくことはならないと前々より禁じているから、固く心得て決して出かけていってはならない。今後年々この触れを出すことはやめておくが、違反のないように心得ておくこと」という意味の禁令(条令と御法度の覚書)が発せられた記録がある。これにより当時の武士やその家族の者たちが禁止されているにも関わらず、藩主や役人にこっそり隠れて踊りの輪に加わろうとしていたことが推察できる。
第二次世界大戦中
毎年8月15日のみ開催を許されていた。1945年(昭和20年)8月15日の終戦日にも開催された。終戦日には官憲からの中止勧告があったとの証言があるが、「英霊を慰める」などの理由の下に中止は免れたという(保存会の事業経過報告書によれば15日は「終戦ノ玉音放送ノ為盆踊休止」となっているので、この日は住民が自然発生的に踊ったものと思われる[3])。
毎年7月中旬から9月上旬まで延べ32夜開催される。
初日は開幕式を終えたあと、屋形(車輪が付いている)を会場に出迎える形で開幕し、最終日は屋形を見送りながら閉幕する。
8月13日から8月16日までは、20時から翌朝4時もしくは5時まで夜通し踊り続ける「盂蘭盆会(徹夜踊り)」。
この徹夜踊りへの来訪にあわせ、長良川鉄道越美南線では深夜に臨時列車を運行している。郡上八幡駅から会場へは徒歩20分。
徹夜踊りの期間中は会場周辺の店舗も営業時間を延長したり、深夜も営業することが多い。
寺社の境内・道路・駐車場・公園・広場など、開催日毎に会場を移す。
各開催日は基本的に町内各所での縁日や記念日に由来している。
8月下旬頃には、コスプレを着用して踊る変装コンクールが行われている。
優秀な踊り手には免許状が発行される。開催日毎に審査対象の1曲を明示し、郡上おどり保存会が選抜する。
4日間の徹夜踊りは遠方から来訪する踊り客も多く、およそ25万人に達する。
毎年年末には翌年の日程が発表される。
郡上節
郡上おどりの際に演奏される囃子を総称して郡上節と言う。
「かわさき」「春駒」「三百」「ヤッチク」「古調かわさき」「げんげんばらばら」「猫の子」「さわぎ」「甚句」「まつさか」の10曲。対応する踊りは、それぞれ異なる。
踊る曲の順番は日によって違う。ただし、「まつさか」は必ず最後に踊る曲になっている。これは、「まつさか」は拍子木と歌のみを伴奏にして踊る曲で終わった後は拍子木を懐に入れて帰って行くことができ、片付けの手間がないために「まつさか」が最後に踊る曲となっている。なお、三味線等は「まつさか」の前の曲が終了した時点で片付けの準備に入る。
囃子の構成は三味線・太鼓・笛の伴奏に唄囃子・返し言葉・掛け声。伴奏がない曲もある。
郡上節が演奏される屋形は可動式の木造2層寺社風構造であり、永年使用される。開催日毎に会場に移動し、適所に設置される。開催期間以外は八幡町内の専用倉庫に保管し、開催期間中はカバーを掛けて道路の片隅に留め置くことが多い。
郡上おどり
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郡上おどり
Gujō Odori
屋形の周りで踊る郡上踊り
屋形の周りで踊る郡上踊り
イベントの種類 祭り
会場 岐阜県郡上市八幡町(郡上八幡)
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郡上おどり(ぐじょうおどり)或いは、郡上節(ぐじょうぶし)は、岐阜県郡上市八幡町(旧・郡上郡八幡町、通称「郡上八幡」)で開催される伝統的な盆踊りである。日本三大盆踊り[1]、三大民謡(郡上節)に数えられる。 毎年7月中旬から9月上旬まで32夜開催され、特に盂蘭盆会の徹夜踊りには、全国から数万人の踊り子が来場する。
歴史
発祥
中世の「念仏踊り」や「風流踊」の流れを汲むと考えられている。
盆踊りとしての体裁が整えられたのは、郡上藩主の奨励によるとされる。江戸時代、初代藩主・遠藤慶隆が領民親睦のため奨励したのが発祥とも、江戸時代中期の藩主・青山氏の時代(1758年〜)に百姓一揆(宝暦騒動)後の四民融和をはかるため奨励したのが発祥とも伝えられるが定かではない。
江戸時代中期
1728年(享保13年)から17年間、飛騨国の代官であった長谷川忠崇が徳川吉宗の命を受けて著した『濃州志』の巻第七踏歌の中で、「転木麿歌(するまうた)」と題して「本土ノ民家於イテ籾オヒク礱也其時ウタフ歌也、郡上ノ八幡出テ来ルトキハ雨ハ降ラネトミノ恋シ(按スルニ濃州郡上ニ八幡町アリ飛州ノ隣国タリ)」と記している。これは飛騨の地で八幡のことを歌ったもので、郡上の八幡出て行く時は雨も降らぬに袖しぼる〜の替え歌と思われ、これが書かれた以前より郡上でこの歌が歌われていたことを物語っている。なお、この歌が踊り歌として歌われていたかは不明である。1840年(天保11年)に書かれた郷中盛衰記によると「延享時代(1744年〜1747年)までは神社の拝殿が九頭宮(くずのみや)と祖師野[2](そしの)だけにあって盆中は氏子がその拝殿で夜明かしして踊った」と書かれており、この時代より以前から郡上の盆踊りが徹夜で行われていたようである。
1820年
郡上藩庁より触書「城番年中行事」で「盆中は踊り場所へ御家中末々まで妻子並びに召使いなど出かけていくことはならないと前々より禁じているから、固く心得て決して出かけていってはならない。今後年々この触れを出すことはやめておくが、違反のないように心得ておくこと」という意味の禁令(条令と御法度の覚書)が発せられた記録がある。これにより当時の武士やその家族の者たちが禁止されているにも関わらず、藩主や役人にこっそり隠れて踊りの輪に加わろうとしていたことが推察できる。
江戸時代後期
江戸時代後期において城下の盆踊りは、七大縁日が定められて行われていた。七大縁日とは7月16日の天王祭り(八坂神社)・8月1日の三十番神祭(大乗寺)・8月7日の弁天七夕祭り(洞泉寺)・8月14日〜8月16日のお盆の時期の盂蘭盆会・8月24日の枡形地蔵祭り(枡形町)である。
1874年
明治政府により、禁止令が出される。神仏分離政策か近代化政策かの影響と思われる(顛末不明)。
1923年
1923年(大正12年)、郡上踊り保存会が発足する。初代会長は坪井房次郎。
1929年
1929年(昭和4年)8月に保存会16名で松坂屋において東京初公演を行う。
1931年
1931年(昭和6年)5月21日に東久邇宮稔彦王が来町し、愛宕公園において郡上踊りの実演を観覧した。この時保存会員十数名は「三百」「かわさき」を踊り、特に三百踊りは所望により二度踊った。
1934年
1934年(昭和9年)に愛知県名古屋市の新聞社であった新愛知(中日新聞の前身)により読者の投票による「郷土芸術十傑」の懸賞募集があった。 当時、保存会の人々は踊りを発展させるため、出場資格を得る票数を獲得しようと努力し郡上郡内で約四万票、更に郡外で約十万票を集め出場資格を得た。翌昭和10年の名古屋公演は非常に好評であったという。この時2日間の公演の演目は「川崎」「さば」「やっちく」「三百」であった。その様子は名古屋放送局で放送された(11月20日)。 この様にして郡上踊りは地元の人々以外にも次第に知られるようになっていった。
第二次世界大戦中
毎年8月15日のみ開催を許されていた。1945年(昭和20年)8月15日の終戦日にも開催された。終戦日には官憲からの中止勧告があったとの証言があるが、「英霊を慰める」などの理由の下に中止は免れたという(保存会の事業経過報告書によれば15日は「終戦ノ玉音放送ノ為盆踊休止」となっているので、この日は住民が自然発生的に踊ったものと思われる[3])。
1952年
踊り種目「さば」が「春駒」と改称する。
1990年
1990年にアメリカ合衆国ロサンゼルス・フェスティバルで海外初公演。
1991年
郡上おどり400年祭が開催され7月より11月にわたり、郡上おどり400年祭記念式典、構成劇「郡上節ものがたり」、全国盆踊りフェステバル(全国盆踊りシンポジウム、阿波踊り・花笠踊りとの競演)など、さまざまなイベントが行われた。
2008年
2008年6月にカナダ・トロントで日加修好80周年を記念して「郡上踊りinトロント」が開催された。
2019年
元号が令和に改められることを祝って、2019年(平成31年)4月30日19時から2019年(令和元年)5月1日2時にかけて徹夜踊りが特別に開催された。
2020年
祭りの性質上、会場内が「密閉・密集・密接の状態」になりやすいことから、新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため中止となった。ただし、一部日程については関係者のみで室内で開催し、その様子をYouTubeや郡上ケーブルテレビにてライブ配信を行った。
2021年
2021年6月11日、郡上おどり運営委員会は、前年に続き中止すると発表した。インターネットでおはやしと踊りのライブ配信を行う予定[4]。
開催期間・会場・特徴など
この節には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。
出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2020年5月)
独自研究が含まれているおそれがあります。(2020年5月)
郡上八幡(岐阜県郡上市八幡町)
この節に雑多な内容が羅列されています。 事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2020年5月)
毎年7月中旬から9月上旬まで延べ32夜開催される。
初日は開幕式を終えたあと、屋形(車輪が付いている)を会場に出迎える形で開幕し、最終日は屋形を見送りながら閉幕する。
8月13日から8月16日までは、20時から翌朝4時もしくは5時まで夜通し踊り続ける「盂蘭盆会(徹夜踊り)」。
この徹夜踊りへの来訪にあわせ、長良川鉄道越美南線では深夜に臨時列車を運行している。郡上八幡駅から会場へは徒歩20分。
徹夜踊りの期間中は会場周辺の店舗も営業時間を延長したり、深夜も営業することが多い。
寺社の境内・道路・駐車場・公園・広場など、開催日毎に会場を移す。
各開催日は基本的に町内各所での縁日や記念日に由来している。
8月下旬頃には、コスプレを着用して踊る変装コンクールが行われている。
優秀な踊り手には免許状が発行される。開催日毎に審査対象の1曲を明示し、郡上おどり保存会が選抜する。
4日間の徹夜踊りは遠方から来訪する踊り客も多く、およそ25万人に達する。
毎年年末には翌年の日程が発表される。
京都(郡上おどり in 京都)
毎年6月に京都府京都市中京区の地下街ゼスト御池御幸町広場にて開催される[5]。主催者は京都岐阜県人会ほか[6]。
東京(郡上おどり in 青山)
毎年6月に、東京都港区南青山の寺院「梅窓院」の境内で開催される。同寺院が郡上藩主・青山氏の菩提寺であったことに由来する。郡上市から郡上おどり保存会が来訪し、郡上節の生演奏により本場さながらの踊りが繰り広げられる。同時に郡上市の物産展も催される。主催者は青山外苑前商店街振興組合。1994年から開催されている。
各地の郡上おどり
1時間以上に渡り郡上おどりが踊れ、数年に渡り行われている主なイベント。
郡上踊りin刈谷(毎年7月)
郡上おどりin戸塚(毎年5月)
銀座柳まつり(毎年5月)
藤沢宿 遊行の盆(毎年7月)
商店街と郡上おどり 西立川(毎年7月)
京成 大久保商店街夏祭り(毎年8月)
郡上おどりin永福北(毎年9月)
郡上おどりin円頓寺 (毎年9月、2010年-2018年)
踊りの概要
郡上節を演奏する囃子の一団が乗る屋形を中心に、自由に輪を作り時計回り(曲によっては反時計回り)に周回しながら踊る。会場が街路の場合もあるので、輪は円形とは限らない。踊りには曲ごとに定型がある。振り付けの基本は簡素なので、初心者や観光客でも見様見真似で踊ることができるようになる。装束は男女とも浴衣に下駄履きが標準的だが強制ではない。踊りへの参加は完全に自由で、飛び入りや離脱に規制はない。通常、見物人よりも踊り手の方が圧倒的に多数である。
郡上節
郡上おどりの際に演奏される囃子を総称して郡上節と言う。
「かわさき」「春駒」「三百」「ヤッチク」「古調かわさき」「げんげんばらばら」「猫の子」「さわぎ」「甚句」「まつさか」の10曲。対応する踊りは、それぞれ異なる。
踊る曲の順番は日によって違う。ただし、「まつさか」は必ず最後に踊る曲になっている。これは、「まつさか」は拍子木と歌のみを伴奏にして踊る曲で終わった後は拍子木を懐に入れて帰って行くことができ、片付けの手間がないために「まつさか」が最後に踊る曲となっている。なお、三味線等は「まつさか」の前の曲が終了した時点で片付けの準備に入る。
囃子の構成は三味線・太鼓・笛の伴奏に唄囃子・返し言葉・掛け声。伴奏がない曲もある。
郡上節が演奏される屋形は可動式の木造2層寺社風構造であり、永年使用される。開催日毎に会場に移動し、適所に設置される。開催期間以外は八幡町内の専用倉庫に保管し、開催期間中はカバーを掛けて道路の片隅に留め置くことが多い。
文化財指定
1955年(昭和30年)2月10日に八幡町の町指定無形文化財となった。指定番号は1。指定名称は「古調郡上踊」。
1958年(昭和33年)4月23日に岐阜県の県指定無形文化財となった。指定番号は4。指定名称は「郡上踊」、所属団体名は「郡上踊保存会」
1973年(昭和48年)11月5日に国の記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選択された。官報告示の名称は「古調郡上踊」、所属団体は「古調郡上踊保存会」。
1996年(平成8年)12月20日に国から重要無形民俗文化財に指定された。指定名称は「郡上踊」、保護団体は「郡上踊り保存会」。
外務省は、2020年に文化審議会が国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)に郡上おどりを含めた日本国内の「風流踊」を無形文化遺産の提案を選定したことに基づき[7][8]、無形文化遺産の提案書をユネスコに提出した
参考:『にっしん夢まつり』日進市 https://www.city.nisshin.lg.jp/department/toshisangyo/kanko/6/2/5/3149.html
9月の敬老の日前日の日曜日に、市役所周辺を主会場として開催されます。夏の終わりを彩る市内で一番大きなまつりです。
[葵祭]
天皇からつかわされた勅使が京都の賀茂御祖神社(下鴨神社)および賀茂別雷神社(上賀茂神社)に奉幣する祭り。正式には賀茂祭といい,参列者や社殿,諸用具に葵(フタバアオイ)を飾ることから,葵祭と呼ばれている。旧暦 4月中の酉の日に行なわれていたが,1884年以降は 5月15日の祭りとなった。宮中の儀,路頭の儀,社頭の儀の大きく分けて 3種の行事からなる。宮中の儀は京都御所で行なわれる勅使の出発の儀式で,御所から下鴨神社と上賀茂神社に参詣に向かう行列が路頭の儀,両神社での奉幣の儀式と走馬が社頭の儀と呼ばれる。暴風雨を起こした賀茂大神のたたりをしずめるために始まったと伝えられる平安時代以来の勅祭(→勅祭社)だが,応仁の乱で中断し,元禄7(1694)年に再興された。その後も何度かの断絶と再興を経て今日にいたっている。十二単(→唐衣裳)で牛車に乗る斎王代(→斎院)などの華やかな女人列は 1956年に始められた。祭りに先立って,5月12日に下鴨神社では御蔭祭(みかげまつり),上賀茂神社では御阿礼神事(みあれしんじ)が行なわれ,それぞれの神社の神霊が生まれ変わる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[祇園祭]
[時代祭]
四国三大祭り
博多三大祭り
博多どんたく港まつりが2021年日本地理の問題で選択肢として出題。
・[博多どんたく港まつり]
福岡市の年中行事。正月の松囃子まつばやしに始まるが、現在は港祭りを統合して5月3~4日に行われる。福神・大黒などの練り物が出て古風な唱え言をするほか、さまざまな芸能が行われる。
出典 小学館デジタル大辞泉
・[博多祇園山笠]
福岡市櫛田(くしだ)神社で7月1日から15日に行われる祭礼。飾り山笠または山笠とよぶ、飾り物をつけた山車だしを据えたり、担いだりする。最終日にはそれを担いで速さを競う「追い山笠」がある。
出典 小学館デジタル大辞泉
・[筥崎宮放生会(ほうじょうや)]
春の博多どんたく・夏の博多祇園山笠とならび博多三大祭りに数えられる筥崎宮放生会は「万物の生命をいつくしみ、殺生を戒め、秋の実りに感謝する」お祭りです。その起源は「合戦の間多く殺生すよろしく放生会を修すべし」という御神託によるもので、千年以上続く最も重要な神事です。また、一年おきに福岡市無形民俗文化財指定の御神幸(御神輿行列)が行われ、七日間の期間中は参道一帯に数百軒の露店が立ち並ぶ、九州随一の秋祭りです。
筥崎宮公式HPより
2024年:2024年10月7日月曜日 – 2024年10月9日水曜日
参考:『長崎くんち<長崎伝統芸能振興会>』(公式)https://nagasaki-kunchi.com/
参考:『長崎伝統芸能振興会』youtube公式チャンネル(ながさき大くんち展動画) https://www.youtube.com/@ngsdentougeinou/featured
参考:『長崎くんち』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E3%81%8F%E3%82%93%E3%81%A1
長崎くんちは、長崎県長崎市の諏訪神社の祭礼である。10月7日から9日までの3日間催される。国の重要無形民俗文化財に指定されている(昭和54年指定、指定名称は「長崎くんちの奉納踊」)。
「龍踊(じゃおどり)」「鯨の潮吹き」「太鼓山(コッコデショ)」「阿蘭陀万才(おらんだまんざい)」「御朱印船(ごしゅいんせん)」など、ポルトガルやオランダ、中国・ベトナムなど南蛮、紅毛文化の風合いを色濃く残した、独特でダイナミックな演し物(奉納踊)を特色としており、傘鉾、曳物(山車・壇尻)、太鼓山など、京都や堺の影響も窺える。
「くんち」の名称は、旧暦の重陽の節句にあたる9月9日(くにち、九州北部地方の方言で「くんち」)に行ったことに由来するという説が有力である[1]。「宮日」「供日」と表記されることもあるがこれは後年の当て字で、諏訪神社への敬意を表して「御」をつけたことから「おくんち」とも呼ばれるようになった。
参考:『長崎くんち』ながさき旅ネット https://www.nagasaki-tabinet.com/event/60489
2024年参加
八幡町 傘鉾・山伏道中・剣舞・弓矢八幡祝い船
麹屋町 傘鉾・川船
銀屋町 傘鉾・鯱太鼓
西濵町 傘鉾・龍船・二胡演奏
興善町 傘鉾・本踊【石橋】
万才町 傘鉾・本踊
五嶋町 傘鉾・龍踊
住所 〒850-8541 長崎県長崎市(諏訪神社、中央公園、お旅所、八坂神社)
電話番号 095-822-0111(長崎伝統芸能振興会(長崎商工会議所内))
開催期間 2024年10月7日~9日※毎年同日開催
アクセス 【長崎駅前から路面電車】
・諏訪神社/蛍茶屋行で約6分、諏訪神社下車
・中央公園/崇福寺行で約7分、新地中華街で乗換(蛍茶屋行)で約6分、めがね橋下車
・お旅所/崇福寺行で約4分、大波止下車
・八坂神社/崇福寺行で約13分、崇福寺下車
ウェブサイト 長崎伝統芸能振興会
参考:「盆踊り」Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%86%E8%B8%8A%E3%82%8A
盆踊り(ぼんおどり)は、日本において、盆の時期に先祖を供養する行事、またその行事内で行われる踊り。起源については諸説ある。
仏教・神道の影響を受けつつも世俗的な性格を強めていった盆踊りは、江戸時代初頭に絶頂を迎えるが、明治時代期には風紀を乱すとして警察による取締りの対象となった。
21世紀に入り、日本各地の盆踊りが重要無形民俗文化財の指定ならびに選択無形民俗文化財の選択を受けている。その一方で、盆踊りは音楽の一ジャンルとして、ポピュラー音楽のなかで命脈を保っている。
盆踊りは日本国内にとどまらず、南北アメリカ・太平洋地域・東アジア・東南アジアでも行われている。
概要
誰でも踊りに参加できるタイプと、主に見せるために限定された踊り手が踊るタイプとがある[2]。前者は、広場の中央に櫓を立て、やぐらの周囲を回りながら音頭にあわせて踊る形式が一般的である。盆踊りの伴奏音楽としては多く音頭が奏でられる。近年は録音された音頭を電気的に再生して行うことが主流になっている。
歴史的には村落社会において娯楽と村の結束を強める機能的役割を果たした。そのため、各地にご当地音頭も多く存在し、自治体や商工会などが作成したオリジナルの地域的音頭も増えている。明治以前は歌垣などの風習に結びついていた。お盆の時期に行われるが、宗教的意味合いは薄く、農村や庶民の娯楽として楽しまれてきた。江戸時代には盛況しすぎるため一揆につながらないよう、幕府が場所や時間を規制するほどであった。
明治政府は、男女が夜通し騒ぐ、女装・男装するなどの行事は近代国家に相応しくないとして、1874年に盆踊り禁止令を出し、20世紀初頭には存在しているのかさえ不明なほど衰退したが、復活が叫ばれるようになり、大正末期から農村娯楽として奨励されはじめ、再び盛んになっていった。もともと盆踊りがなかった土地でも新作して踊るところもあり、町内会の祭り行事としてだけでなく、阿波踊りやエイサーなど、一地方の盆踊りから全国に広まったものもある。
夏休みの間の大きなイベントの一つである。かつては夜通しで行われることも多かったが、近年は治安維持のため深夜まで行われることは少なくなっている。
20世紀に入ると、初音家太三郎を始めとした「音頭取り」と呼ばれる人々によって河内音頭の近代化・継承が行われるなどの動きも見られた。21世紀に入ってからも音頭取りによる継承のほか、国内外各地の盆踊りの会や教室によって盆踊りの継承が図られている。
2020年2月19日、文化審議会は国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産への登録を目指す国内候補に「風流踊(ふりゅうおどり)」を選んだ。盆踊りや念仏踊りなどとして伝承された23都府県の37件をまとめて一つの遺産とみなし、3月末までに政府がユネスコに申請書を提出。2022年11月ごろのユネスコ政府間委員会で登録可否が審査される見通し。
起源
盆踊りはもともとは仏教の盂蘭盆会であるとする説、歌垣の遺風とする説、原始信仰の儀式だったとする説など諸説あるが、文献に最初に登場するのは室町時代と言われる。平安時代、空也上人によって始められた踊念仏が、民間習俗と習合して念仏踊りとなり、盂蘭盆会の行事と結びつき、精霊を迎える、死者を供養するための行事として定着していった。死者の供養の意味合いを持っていた初期の盆踊りは、新盆を迎える家に人々が赴き、家の前で輪を作って踊り、家人は踊り手を御馳走でもてなした。盆には死者が家に帰って来るという考え方から、頬被りをして人相を隠し、死者の生き返った姿に扮した人がその物語を演じたという。
盆踊りの風俗
踊り念仏は、鎌倉時代には一遍上人が全国に広めたが、一遍や同行の尼僧らは念仏で救済される喜びに衣服もはだけ激しく踊り狂い、法悦境へと庶民を巻き込んで大ブームを引き起こした[11]。それ以降は、宗教性よりも芸能に重点が置かれる念仏踊りが生み出され、人々はさらに華やかな衣装や、振り付け、道具、音楽などを競うようになった[11]。室町時代の初めには、太鼓などをたたいて踊るようになったといわれている。現在も、初盆の供養を目的の盆踊りも地域によっては催されている。太鼓と「口説き」と呼ばれる唄に合わせて踊る。口説きは、地区の伝統でもある。初盆の家を各戸を回って踊る所もある。昔は旧暦の7月15日に行われていた。ゆえに、盆踊りはいつも満月であった。
鎌倉時代以降、経済力や自治力を得た民衆により新奇な趣向が次々に考案され、江戸時代初頭には絶頂を極めることになる。江戸では7月に始まり連日踊り明かしながら10月にまで続いた。次第に盆踊りは性の解放のエネルギーと結びついていく。日本では性は神聖なものとされ、神社の祭礼を始めとし、念仏講、御詠歌講など世俗的宗教行事の中心に非日常的な聖なる性があるべきと考えられるようになり、盆踊りは性の開放エネルギーを原動力に性的色彩を帯びるようになる。明治時代にはしばしば風紀を乱すとして警察の取締りの対象となって一時は激減していた。盆踊りは未婚の男女の出会いの場にとどまらず、既婚者らの一時的な肉体関係をもつきっかけの場をも提供していた。ざこ寝という、男女が一堂に泊まり込み乱交を行う風習も起こり、盆踊りとも結びつき広まり、ざこ寝堂はほとんど全国の農村には存在した。これは昭和時代に至っても続いていた。
出雲阿国による一風変わった男装の念仏踊りは歌舞伎踊りと言われた(歌舞伎のかぶくとは、「常識外れ」や「異様な風体」と言う意味)[要出典]。以後、歌舞伎など様々な芸能へと派生していったが、歌舞伎も売春を伴い幕府より厳しく取り締まりを受けていたことから鑑み、盆踊りに限定されず芸能全般に性が結びついた江戸文化風俗の一端と言える[12]。
衣装
伝統的には、やぐらの上の太鼓方、音頭取りならびに踊り子は浴衣を着用することが多いが、一般参加者はカジュアルな平服でも良い。踊り手が同じグループである場合、揃いの浴衣を着ることが多い。また、団扇を背中の帯に差し込んでおくこともある。男性は、鉢巻をし、腰に印籠をぶら下げて踊ることもある。
地方によっては、狐などの仮面をつけて踊る場合や、舞台化粧並の厚化粧をして華やかな衣装で踊る場合がある。
その他
俳句では「踊」だけで「盆踊り」を指し秋の季語である。夏に行われるにもかかわらず秋の季語であるのは、立秋を過ぎてから行われるためである。
最近では、2010年から名古屋で開催されている「スリラー盆踊り」が東京に伝わって催されるなど、新しいスタイルの盆踊りも注目されている。
愛知県東海市大田町には参加者にイヤホンの付いた携帯ラジオを貸し出して行われる無音盆踊りがある。参加者はイヤホンで音楽を聴いて踊るため、周囲からは無音で踊っているように見える。
東京都八丈島ではフォークダンスの「マイム・マイム」を踊り、末吉地区におけるバンドの電子演奏による速いリズムの「高速マイム・マイム」が特に有名であり観光客も参加している[13]。
文化財
国指定の重要無形民俗文化財ならびに国の選択無形民俗文化財(記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財)に選択された盆踊りを列挙する。
国指定
西馬音内の盆踊(秋田県)
毛馬内の盆踊(秋田県)
大の阪(新潟県)
新島の大踊(東京都)
新野の盆踊り(長野県)
和合の念仏踊(長野県)
有東木の盆踊(静岡県)
徳山の盆踊(静岡県)
綾渡の夜念仏と盆踊(愛知県)
郡上踊(岐阜県)
十津川の大踊(奈良県)
大宮踊(岡山県)
白石踊(岡山県)
国選択
与島・櫃石の盆踊(香川県)
姫島の盆踊(大分県)
野母の盆踊(長崎県)
対馬厳原の盆踊(長崎県)
対馬美津島の盆踊(長崎県)
楽曲
代表的な楽曲(50音順)
交通安全音頭
さくら音頭
ズンパ音頭
大名古屋音頭
大東京音頭
東京音頭
東京五輪音頭
名古屋ばやし
名古屋まるはち音頭
にっぽん花咲か音頭
東村山音頭
火の国太鼓
ホームラン音頭[注釈 1]
鞠と殿さま
水戸黄門おどり
ゆかた音頭
民謡系(50音順)
一合まいた(香川県)
岡崎五万石おどり(愛知県)
鹿児島おはら節(鹿児島県)
河内音頭(大阪府)
郡上節(岐阜県)
江州音頭(滋賀県)
白浜音頭(千葉県)
相馬盆唄(福島県)
そうらん節(北海道)
炭坑節(福岡県)
デカンショ節(兵庫県)
ドンパン節(秋田県)
花笠音頭(山形県)
北海盆唄(北海道)
松山踊り(岡山県)
八木節(群馬県・栃木県)
参考:「盆踊りについて」日本盆踊り協会 https://bon-odori.net/bonodori/