2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表
長谷川 等伯(はせがわ とうはく、天文8年(1539年) - 慶長15年2月24日(1610年3月19日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師。幼名は又四郎、のち帯刀。初期は信春と号した。狩野永徳、海北友松、雲谷等顔らと並び桃山時代を代表する画人である。
能登国・七尾の生まれ。20代の頃から七尾で日蓮宗関係の仏画や肖像画を描いていたが、元亀2年(1571年)頃に上洛して狩野派など諸派の画風を学び、牧谿、雪舟らの水墨画に影響を受けた。千利休や豊臣秀吉らに重用され、当時画壇のトップにいた狩野派を脅かすほどの絵師となり、等伯を始祖とする長谷川派も狩野派と対抗する存在となった。金碧障壁画と水墨画の両方で独自の画風を確立し、代表作『松林図屏風』(東京国立博物館蔵、国宝)は日本水墨画の最高傑作として名高い。晩年には自らを「雪舟五代」と称している。慶長15年(1610年)に江戸で没した。代表作は他に『祥雲寺(現智積院)障壁画』(国宝)、『竹林猿猴図屏風』(相国寺蔵)など。画論に日通が筆録した『等伯画説』がある。長谷川久蔵ら4人の息子も長谷川派の絵師となった。
生涯
七尾時代
天文8年(1539年)、能登国七尾(現・石川県七尾市)に能登国の戦国大名・畠山氏に仕える下級家臣の奥村文之丞宗道の子として生まれる。幼名を又四郎、のち帯刀と称した。幼い頃に染物業を営む奥村文次という人物を介して、同じ染物屋を営む長谷川宗清(宗浄)の養子となった。宗清は雪舟の弟子である等春の門人として仏画などを描き、養祖父や養父の仏画作品も現存している。等伯は等春から直接絵を習ったことはないと考えられるが、『等伯画説』の画系図では自分の師と位置づけており、信春の「春」や等伯の「等」の字は、等春から取ったものと考えられる。
等伯は10代後半頃から宗清や養祖父の無分(法淳)から絵の手ほどきを受けていたと考えられ、養家が熱心な日蓮宗信者だったことから、法華関係の仏画や肖像画などを描き始めた。当時は長谷川信春と名乗っていた。現在確認されている最初期の作は、永禄7年(1564年)26歳筆の落款のあるものだが、その完成度は極めて高い。この時代の作品に、生家の菩提寺である本延寺に彩色寄進した木造『日蓮上人坐像』(1564年、本延寺蔵)、『十二天図』(1564年、正覚寺蔵)、『涅槃図』(1568年、妙成寺蔵)などがあり、現在能登を中心に石川県・富山県などで10数点が確認されている。
当時の七尾は和学でも知られる畠山義総が支配し、義総を頼って京都から公卿や歌人、連歌師、禅僧などが下向したことで「畠山文化」が開花したとされ、等伯はそのような文化的環境で育ったといわれている。等伯の作品には都でもあまり見られないほど良質の顔料が使われている。一般に仏画は平安時代が最盛期で、その後は次第に質が落ちていったとされるが、等伯の仏画はそのような中でも例外的に卓越した出来栄えをしめす。等伯は何度か京都と七尾を往復し、法華宗信仰者が多い京の町衆から絵画の技法や図様を学んでいたと考えられる。
上洛、雌伏の時代
元亀2年(1571年)等伯33歳の頃、養父母が相次いで亡くなり、それを機に妻と息子久蔵を連れて上洛、郷里の菩提寺・本延寺の本山本法寺を頼り、そこの塔頭教行院に寄宿した。翌元亀3年(1572年)には、この年に30歳で死去した本法寺八世住職日堯の肖像画『日堯上人像』を描いている。
天正17年(1589年)まで等伯に関する史料は残っていないが、最初は当時の主流だった狩野派の狩野松栄の門で学ぶもののすぐに辞め、京都と堺を往復して、堺出身の千利休や日通らと交流を結んだ。狩野派の様式に学びつつも、彼らを介して数多くの宋や元時代の中国絵画に触れ、牧谿の『観音猿鶴図』や真珠庵の曾我蛇足の障壁画などを細見する機会を得た。それらの絵画から知識を吸収して独自の画風を確立していったのもこの頃である。この頃も信春号を用いており、『花鳥図屏風』(妙覚寺蔵)、『武田信玄像』(成慶院蔵)、『伝名和長年像』(東京国立博物館蔵)など優れた作品を残しており、天正11年(1583年)には大徳寺頭塔である総見院に『山水、猿猴、芦雁図』(現存せず)を描いたという記録が残っており、利休らを通じて大徳寺などの大きな仕事を受けるようになったという[7]。天正14年(1586年)、豊臣秀吉が造営した聚楽第の襖絵を狩野永徳とともに揮毫している[8]。『本朝画史』には、狩野派を妬んだ等伯が、元々狩野氏と親しくなかった利休と交わりを結び、狩野永徳を謗ったという逸話が載っている。『本朝画史』は1世紀後の、等伯のライバルだった狩野派の著作なので、信憑性にやや疑問が残るが、これが江戸時代における一般的な等伯に対する見方であった。
中央画壇での活躍
天正17年(1589年)、利休を施主として増築、寄進され、後に利休切腹の一因ともなる大徳寺山門の天井画と柱絵の制作を依頼され、同寺の塔頭三玄院の水墨障壁画を描き、有名絵師の仲間入りを果たす。「等伯」の号を使い始めるのは、これから間もなくのことである。天正18年(1590年)、前田玄以と山口宗永に働きかけて、秀吉が造営した仙洞御所対屋障壁画の注文を獲得しようとするが、これを知った狩野永徳が狩野光信と勧修寺晴豊に申し出たことで取り消された。この対屋事件は、当時の等伯と永徳の力関係を明確に物語る事例であるが、一方で長谷川派の台頭を予感させる事件でもあり、永徳の強い警戒心が窺える。この1か月後に永徳が急死すると、その危惧は現実のものとなり、天正19年(1591年)に秀吉の嫡子・鶴松の菩提寺である祥雲寺(現智積院)の障壁画制作を長谷川派が引き受けることに成功した。この豪華絢爛な金碧障壁画は秀吉にも気に入られて知行200石を授けられ、長谷川派も狩野派と並ぶ存在となった。しかし、この年に利休が切腹し、文禄2年(1593年)には画才に恵まれ跡継ぎと見込んでいた久蔵に先立たれるという不幸に見舞われた。この不幸を乗り越えて、文禄2年から4年(1593年 - 1595年)頃に代表作である『松林図屏風』(東京国立博物館蔵)が描かれた。
「雪舟五代」
等伯は私生活では不幸もあったが、絵師としては順調であった。慶長4年(1599年)本法寺寄進の『涅槃図』以降、「自雪舟五代」を落款に冠しており、自身を雪舟から5代目にあたると標榜した。雪舟-等春-法淳(養祖父)-道浄(養父)-等伯と、当時評価が上がりつつあった雪舟の名を全面に押し出しつつ、間に祖父と父の名を加え、自らの画系と家系の伝統と正統性を宣言する。これが功を奏し、法華宗以外の大寺院からも次々と制作を依頼され、その業績により慶長9年(1604年)に法橋に叙せられ、その礼に屏風一双などを宮中へ献上した[7]。この年の暮れ、本法寺天井画制作中に高所から転落し、利き腕である右手の自由を失ったと言われるが[10]、その後の作が残っていることからある程度は治ったものと考えられる。慶長10年(1605年)には法眼に叙せられ、この年に本法寺客殿や仁王門の建立施主となるなど多くのものを寄進、等伯は本法寺の大檀越となり、単なる町絵師ではなく、町衆として京都における有力者となった。
晩年
晩年の等伯に関する記事が、沢庵宗彭の『結縄録』にみえる。ある人が、じかに虎を見たことがある誰それほど上手に虎を描く者はいないだろうと述べると、等伯は自分の左手を見ながら右手で絵を描いても、絵が下手では上手く描けないように、実際に見た見ないは絵の上手下手とは関係ない、と反論する。沢庵は、さほど賢そうな老人には見えないけれども、画道に心を尽くした人の発言だけあると感心しており、文章の生々しさから実際に等伯に会って書いたであろうこの逸話からは、生涯を絵に捧げた等伯の愚直な姿を彷彿とさせる。
慶長15年(1610年)、徳川家康の要請により次男・長谷川宗宅を伴って江戸に下向するが旅中で発病、江戸到着後2日目にして病死した。享年72。戒名は厳浄院等伯日妙大居士。遺骨は京都に移され、本法寺に葬られた。その後、墓所が所在不明となり、平成14年(2002年)に新しく建てられた。
年表
天文8年(1539年) - 能登国七尾に生まれる。
永禄6年(1563年) - 『日乗上人像』(羽咋・妙成寺蔵)を描く。
永禄11年(1568年) - 長男・久蔵生まれる。
元亀2年(1571年) - 養父・宗清、養母・妙相没。この年に上洛か。
天正7年(1579年) - 妻・妙浄没。
天正17年(1589年) - 『大徳寺山門天井画・柱絵』『山水図襖』(大徳寺蔵)を描く。妙清を後妻に迎える。
文禄2年(1593年) - 『祥雲寺障壁画』(智積院蔵)を完成する。長男・久蔵没。
慶長4年(1599年) - 『仏涅槃図』(本法寺蔵)を描く。この頃「自雪舟五代」を自称する。
慶長9年(1604年) - 法橋に叙せられる。後妻・妙清没。
慶長10年(1605年) - 法眼に叙せられる。
慶長11年(1606年) - 『龍虎図屏風』(アメリカ・ボストン美術館蔵)を描く。
慶長15年(1610年) - 江戸下向到着後、没。享年72。
長谷川派
長谷川派は、等伯を始祖とする桃山時代から江戸時代初期にかけての漢画系の画派である。等伯には久蔵、宗宅、左近、宗也の4人の子がおり、そのうち久蔵は等伯に勝るほどの腕前を持っていたが26歳で早世し、宗宅が一時家督を継いだ。宗宅は法橋に叙せられて『秋草図屏風』(南禅寺蔵)などを描いたが、等伯が亡くなった翌年に没した。その次に家督を継いだ左近は、自らを等伯に次いで「雪舟六代」と称したが、等伯の画風を受け継ぎながらも俵屋宗達風の装飾性を増した作品も残している。宗也は4人の中で最も長く続いた系統で、『柳橋水車図屏風』(群馬県立近代美術館蔵)、八坂神社扁額の『大黒布袋角力図絵馬』などを描いたが、技量は他の兄弟たちより劣っていた。弟子には他に、等伯の女婿となった等秀や伊達政宗に重用された等胤、ほか等誉、等仁、宗圜ら多数がいた。等伯時代の長谷川派は狩野派よりも色彩感覚に優れ、斬新な意匠を特徴としたが、等伯没後は優れた画家が出なかった。
等伯画説
『等伯画説』(とうはくがせつ、本法寺蔵、重要文化財)は、等伯が先代の画家や鑑賞方式などについて語ったことを、本法寺十世住職で等伯と親交があった日通が筆録した画論である。成立は文禄1年(1592年)前後と考えられている。最初に明兆、如拙以下の漢画の系譜を記し、雪舟ら日本の絵師について触れつつも、大半は南宋や元時代の絵の主題とその画家たちの内容で占められている。画論としては日本最古のものとして歴史的にも貴重である。
作品
現在確認される長谷川等伯の作品は80点余りで、その多くが重要文化財に、一部は国宝に指定されている。途中記録がない時期を挟むものの、その画業をほぼ追うことが出来る。金碧障壁画制作のかたわら、中国・宋元の風を承けた水墨の作品もよくした。特に牧谿の『観音猿鶴図』(国宝、大徳寺蔵)の影響が強く、その筆法を会得するまで何度も繰り返し描いている。牧谿と比べると等伯の技術は明らかに劣っているが、等伯はその未熟さをむしろ逆手に取り、絵のモチーフに共感を抱かせ、鑑賞者に感情移入を促す情感表現を志した。代表作『松林図屏風』もその延長上に位置し、その主題が最も成功した作品といえよう。国宝または重要文化財に指定された作品は太字で表記する。
40代以前
作品名
技法
員数
所蔵者
年代
備考
一塔両尊図
紙本著色
1幅
富山・大法寺
永禄7年(1564年)
重要文化財
日蓮聖人像
紙本著色
1幅
富山・大法寺
永禄7年(1564年)
重要文化財
鬼子母神十羅刹女図
紙本著色
1幅
富山・大法寺
永禄7年(1564年)
重要文化財
弁財天十五童子像
紙本著色
1幅
個人蔵
永禄7年(1564年)
絹本著色
1幅
室町時代末期
石川県指定有形文化財[15]
「信春」朱文袋形印
十二天図
絹本著色
12幅(額装3面に改装)
羽咋・正覚院
永禄7年(1564年)
石川県指定有形文化財[16]
日蓮聖人像
絹本著色
1幅
石川・實相寺
永禄8年(1565年)
七尾市指定有形文化財
三十番神図
絹本著色
1幅
富山・大法寺
永禄9年(1566年)
重要文化財
仏涅槃図
絹本著色
1幅
羽咋・妙成寺
永禄11年(1568年)
石川県指定有形文化財[17]
法華経本尊曼荼羅図
絹本著色
1幅
京都・妙傳寺
永禄11年(1568年)
鬼子母神十羅刹女像
絹本著色
1幅
富山・妙傳寺
鬼子母神十羅刹女像
絹本著色
1幅
新潟・本成寺
絹本著色
1幅
石川県七尾美術館
室町時代末期〜桃山時代初期
石川県指定有形文化財[18]
「信春」朱文袋形印
日乗上人像
絹本著色
1幅
羽咋・妙成寺
室町時代
石川県指定有形文化財[19]
日蓮聖人像
絹本著色
1幅
珠洲・本住寺
室町時代
日堯上人像
絹本著色
1幅
京都・本法寺
元亀3年(1572年)
重要文化財。早世した本法寺第八世日堯を描いた像。江戸時代には「信春」は息子の久蔵のことだと考えられたが、本図に墨書された款記によって信春と等伯が同一人物だと提唱され、現在ほぼ定説となっている[20]。
伝名和長年像
絹本著色
1幅
重要文化財。素襖に帆掛舟の紋があることから、旧蔵者福岡孝弟が箱に「伯耆守名和長年像」と記し、この名で呼ばれている。しかし、等伯が日蓮宗の祖師以外で過去の人物の肖像画を描くとは考え難く、等伯と同時代の武将を描いたとする説も有力。候補として、大坪流の馬術家で能登に領地を持ち、足利義輝の馬術師範であった斉藤好玄(よしはる)、『武田信玄像』との関係から武田家の家臣で水軍を担った伊丹康道、或いは帆掛舟はただの文様で太刀の目貫と笄に梅鉢紋が描かれている事からこれを家紋とする能登平氏とする説[22]、などがある。
武田信玄像
絹本著色
1幅
高野山・成慶院
重要文化財。近年、この肖像画の像主について異論が出ている。詳しくは武田信玄#肖像画を参照。
日禛上人像
絹本著色
1幅
個人蔵
花鳥図屏風
紙本著色
六曲一隻
岡山・妙覚寺
室町時代
重要文化財
花鳥図屏風
紙本金地著色
六曲一隻
米国・個人蔵
十六羅漢図
紙本墨画淡彩
8幅
七尾・霊泉寺
室町時代
石川県指定有形文化財[23]
紙本墨画
1幅
石川県七尾美術館
桃山時代
石川県指定有形文化財[24]
「長谷川」朱文長方形印、「信春」朱文鼎形印
達磨図
紙本墨画
1幅
七尾・龍門寺
桃山時代
石川県指定有形文化財[23]
紙本墨画
二曲一隻
石川県七尾美術館
桃山時代
石川県指定有形文化財[25]
紙本墨画
二曲一隻
石川県七尾美術館
桃山時代
石川県指定有形文化財[25]
牧馬図屛風
紙本著色
六曲一双
東京国立博物館
桃山時代
重要文化財
海棠に雀図
紙本著色
1幅
個人蔵
恵比寿大黒・花鳥図
紙本著色
3幅
芦葉達磨図 梵芳賛
紙本墨画
1幅
春耕図
紙本淡彩
1幅
京都国立博物館
山水図
紙本墨画淡彩
1幅
石川県七尾美術館
室町時代
七尾市指定有形文化財
西王母図
紙本淡彩
1幅
京都・本隆寺
寒江渡舟図
紙本淡彩
1幅
個人蔵
山水図
紙本淡彩
2幅
個人蔵
50代
作品名
技法
員数
所蔵者
年代
備考
稲葉一鉄像
絹本著色
1幅
京都・智勝院
天正17年(1589年)
玉甫紹琮賛、重要文化財。天正16年(1588年)に亡くなった美濃国の武将・稲葉一鉄の一周忌に際して描かれたものとされる。
大徳寺山門天井画・柱絵
板絵著色
京都・大徳寺
天正17年(1589年)
内訳は、中央に「雲龍図」と「蟠竜図」、その外側にそれぞれ「昇竜図」と「降竜図」、柱に阿吽の「仁王像」、さらに両サイドに「天人像」と「迦陵頻伽像」を一体ずつ描く。等伯が大絵師への道を辿る契機となった記念碑的作品。この絵でのみ「等白」と署名しており、等伯と名乗る前の画号とみなされている。なおこれらの絵画は、温湿度の影響を非常に受けやすいため、作品保護の観点から一切の拝観が禁止されている。
羅漢図
絹本著色
1幅
京都・大徳寺
桃山時代
臨済・徳山像
紙本淡彩
2幅
京都・衡梅院
桃山時代
旧三玄院襖絵(山水図襖)
紙本墨画
襖32面
京都・圓徳院
天正17年(1589年)頃
重要文化財。元は大徳寺塔頭三玄院の方丈を飾るものだったが、廃仏毀釈によって流出し、現在は上記のように分蔵されている。等伯はかねてより方丈の襖絵制作を懇願していたが、住持春屋宗園は修業の場である方丈に絵は不要と断られ続けた。そこで等伯は春屋の留守を狙って止める雲水達を振り切って上がり込み、一気呵成に描いたのがこの襖絵だったと言う。戻ってきた宗園は初め激怒するも、絵の出来栄えに感心し、結局襖絵を認めてそのままにした[26]。襖絵の料紙が作画に不向きな雲母刷り胡粉桐文様の唐紙であることから、この逸話はおおよそ事実に近かったと考えられる。等伯は、桐紋を降りしきる雪に見立て、雪景色の山水として描いた。
旧三玄院襖絵(松林山水図襖)
紙本墨画
襖4面
京都・楽美術館
天正17年(1589年)頃
松に鴉・柳に白鷺図屏風
紙本墨画
六曲一双
桃山時代
楓図
紙本金地著色
襖4面
京都・智積院
文禄2年(1593年)頃
国宝 旧祥雲寺障壁画『楓図』は日本障壁画の最高傑作と評されている[27]。
松に秋草図
紙本金地著色
二曲一双
京都・智積院
文禄2年(1593年)頃
国宝 旧祥雲寺障壁画
松に黄蜀葵図
紙本金地著色
襖4面
京都・智積院
文禄2年(1593年)頃
国宝 旧祥雲寺障壁画
松に梅図
紙本金地著色
襖4面
京都・智積院
文禄2年(1593年)頃
重要文化財 旧祥雲寺障壁画
春屋宗園像
絹本著色
1幅
京都・三玄院
文禄3年(1594年)
重要文化財
春屋宗園像
絹本著色
1幅
京都・三玄院
文禄3年(1594年)
牛図座屏
紙本墨画
2基
京都・三玄院
桃山時代
千利休像
絹本著色
1幅
京都・不審庵
文禄4年(1595年)
春屋宗園賛 重要文化財。等伯と利休の交流の一端が垣間見える作品。正木美術館にも等伯筆といわれる利休の肖像画があるが、面貌表現の相違から、等伯の作でない可能性が高い。
紙本墨画
六曲一双
東京国立博物館
桃山時代
国宝。その伝来、製作の事情など不明な点が多い(完成作でない下絵を屏風に仕立てたものだという説もある)。
妙蓮寺障壁画
紙本金地著色
京都・妙蓮寺
文禄4年(1595年)頃
重要文化財 京都国立博物館寄託
樹下仙人図屏風
紙本淡彩
六曲一双
京都・壬生寺
桃山時代
重要文化財
妙法尼像
紙本墨画
1幅
京都・本法寺
慶長3年(1598年)
重要文化財
竹林猿猴図屏風
紙本墨画
六曲一双
桃山時代
重要文化財
老松図
紙本墨画
襖6面
京都・金地院
桃山時代
重要文化財
金地院障壁画
猿猴捉月図
紙本墨画
襖4面
京都・金地院
桃山時代
重要文化財
金地院障壁画
枯木猿猴図
紙本墨画
2幅
京都・龍泉庵
桃山時代
重要文化財 京都国立博物館委託。表具背面墨書銘によると、元は前田利長遺愛の六曲一双の屏風絵であったが、ある時利長が恍惚としていると、絵の中の猿が腕を延ばし髪を引っ張ったので、利長は短刀でその腕を切り落とし、以後「腕切猿猴」と呼ばれたという逸話が記されている。利長死後、一隻ずつ分け寄進され、左隻は焼失、右隻も右側4扇分を掛け軸2幅に改装されて現在の状態になっている。
波濤図
紙本金地墨画
12幅
京都・禅林寺
桃山時代
重要文化財 京都国立博物館寄託
瀟湘八景図屏風
紙本墨画淡彩
六曲一双
東京国立博物館
桃山時代
竹虎図屏風
紙本墨画
六曲一双
出光美術館
桃山時代
竹鶴図屏風
紙本墨画
六曲一双
出光美術館
桃山時代
山水図屏風
紙本墨画
六曲一双
三重・等観寺
桃山時代
三重県指定有形文化財
柳橋水車図屏風
紙本金地著色
六曲一双
桃山時代
重要美術品。「絵屋」としての等伯を考える上で指標となる作品。当時この図様は非常に流行したらしく、類似作が20点前後も現存し、志野焼や織部焼といった焼物の絵付けや、蒔絵などの工芸品デザインや衣装の文様にも確認することができる。
檜原図屏風
紙本墨画
六曲一隻
京都・禅林寺
桃山時代
近衛信伊和歌
京都市指定・登録文化財
黄初平図
紙本墨画
3幅
大阪・久本寺
桃山時代
大阪市指定文化財
陶淵明愛菊図屏風
紙本墨画
二曲一隻
個人蔵
桃山時代
高士騎驢図屏風
紙本墨画
二曲一隻
京都・高桐院
桃山時代
波龍図屏風
紙本墨画
六曲一隻
京都・本法寺
桃山時代
四季花鳥図屏風
紙本金地著色
六曲一双
個人蔵
桃山時代
四季柳図屏風
紙本金地著色
六曲一双
個人蔵
桃山時代
四愛図襖
紙本淡彩
襖6面
愛知・有楽苑
桃山時代
四愛図座屛
紙本淡彩
2基
京都・聚光院
桃山時代
豊干・寒山拾得・
草山水図座屛
紙本淡彩・墨画
2基
京都・妙心寺
桃山時代
60代以後
作品名
技法
員数
所蔵者
年代
備考
大涅槃図
紙本著色
1幅
京都・本法寺
慶長4年(1599年)
重要文化財。画面だけでも縦8m弱・横約5,2m、画面周囲の華やかな描表装を含めれば、高さ10m・横6mにも及ぶ大作。東福寺の明兆作、大徳寺の狩野松栄作と共に、三大涅槃図と呼ばれる。等伯自らが願主となり、本法寺に寄進した。現存する中で初めて「雪舟五代」と署名した作品である。本法寺奉納前に宮中で後陽成天皇の叡覧に供され、京中で評判となった。絵の裏には、日蓮と祖師たちの名、本法寺開山の日親以下日通までの歴代住職、さらに養祖父母や養父母、若死した久蔵たち等伯一族の名が記されている。
水墨山水図
紙本墨画
襖20面
京都・ 隣華院
慶長4年(1599年)
重要文化財
商山四晧図
紙本墨画
襖4面
京都・真珠庵
慶長6年(1601年)
重要文化財
蜆子猪頭図
紙本墨画
襖4面
京都・真珠庵
慶長6年(1601年)
重要文化財
梅に叭々鳥図
紙本墨画
襖2面
京都・真珠庵
慶長6年(1601年)
重要文化財
禅宗祖師図
紙本墨画
襖16面
京都・天授庵
慶長7年(1602年)
重要文化財
商山四皓図
紙本墨画
襖8面
京都・天授庵
慶長7年(1602年)
重要文化財
松鶴図
紙本淡彩
襖8面
京都・天授庵
慶長7年(1602年)
重要文化財
龍虎図屏風
紙本墨画
六曲一双
慶長11年(1606年)
落款「自雪舟五代長谷川法眼等伯筆 六十八歳」、「長谷川」朱文重廓長方印、「等伯」朱文方印
探梅騎驢図屏風
紙本墨画淡彩
六曲一双
京都・相国寺蔵、承天閣美術館保管
慶長11年(1606年)
落款「自雪舟五代長谷川法眼等伯筆 六十八歳」、「長谷川」朱文重廓長方印、「等伯」朱文方印
竹林七賢図屏風
紙本墨画淡彩
六曲一双
京都・両足院
慶長12年(1607年)
落款「自雪舟五代長谷川法眼等伯筆 六十九歳」、「長谷川」朱文重廓長方印、「等伯」朱文方印
梟烏図屏風
紙本墨画
二曲一隻
慶長12年(1607年)
落款「自雪舟五代長谷川法眼等伯筆 六十九歳」、「長谷川」朱文重廓長方印、「等伯」朱文方印
日通上人像
絹本著色
1幅
京都・本法寺
慶長13年(1608年)
重要文化財。落款「自雪舟五代/長谷川法眼/等伯筆/七十歳/戒名日妙」、「長谷川」朱文重廓長方印、「等伯」朱文方印
弁慶・昌俊図絵馬
板絵金地著色
1面
京都・北野天満宮
慶長13年(1608年)
重要文化財。落款「自雪舟五代/長谷川法眼等伯七十歳筆」
烏鷺図屏風
紙本墨画
六曲一双
個人蔵(DIC川村記念美術館旧蔵)
重要文化財。落款「自雪舟五代長谷川法眼等伯筆」、「長谷川」朱文重廓長方印、「等伯」朱文方印
紙本金地著色
六曲一双
京都・相国寺蔵、承天閣美術館保管
京都市指定・登録文化財[28]、「等伯」朱文方印
故事人物図屏風
紙本墨画淡彩
六曲一双
落款「自雪舟五代長谷川法眼等伯筆」、「長谷川」朱文重廓長方印、「等伯」朱文方印
黄初平図屏風
紙本墨画淡彩
二曲一隻
落款「自雪舟五代長谷川法眼等伯筆」、「長谷川」朱文重廓長方印、「等伯」朱文方印
十六羅漢図屏風
紙本墨画淡彩
六曲一双
京都・智積院
慶長14年(1609年)
落款「自雪舟五代長谷川法眼等伯筆 七十一歳」、「長谷川」朱文重廓長方印、「等伯」朱文方印
その他
月夜松林図屏風(個人蔵) 第2の松林図といわれている。京都国立博物館寄託。松の配置やその姿形が原本に忠実過ぎ、細部の表現がやや鈍重なことから、等伯周辺の有力絵師の作とするのが妥当。
七尾市と長谷川等伯
平成7年(1995年)、七尾駅前と本法寺に故郷を旅立とうとする等伯の銅像「青雲」[注釈 3]が建てられた。
2010年から没後400年を記念し、北國新聞は石川県七尾美術館と七尾市の協力で「長谷川等伯ふるさと調査」を行った。その調査で珠洲市の本住寺に、27歳頃に描いたとされる日蓮の肖像画が見つかり、氷見市の蓮乗寺にある『宝塔絵曼荼羅』が等伯と養父の宗清による、父子合作であることなどが分かった。さらに没後400年を記念して七尾市のマスコットキャラクター「とうはくん」が誕生した。
参考動画:『不思議な国宝「松林図屏風」』NHK+ https://plus.nhk.jp/watch/st/170_e1_2025092756969?t=898&playlist_id=0d655b99-cc85-4201-a1d0-b0a9253e5ff6
参考:『京都大学所蔵資料でたどる文学史年表: 井原西鶴』京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00013225/explanation/ihara
参考:『井原西鶴墓』大阪市 https://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000009004.html
紹介
井原西鶴は本名を平山藤五といい、寛永19年(1642)に大阪に生まれた17世紀代で最も重要な文学者の一人であり、西山宗因に師事した俳諧師である。一方で、『好色一代男』をはじめとするたくさんの浮世草子を著した。これらの作品の多くは、日本文学史の中で高い位置づけを与えられているだけでなく、現在も舞台・映画などさまざまな芸術活動の題材となり、人々に感動を与え続けている。
西鶴は元禄6年(1693)に亡くなったが、その墓は長い間不明であった。明治20年を前後するころ誓願寺境内で発見され再興されたという。発見者についてはいくつか説があり、幸田露伴であるとも、朝日新聞記者の木崎好尚であるともいう。
墓石は位牌型の砂岩製のもので、「仙皓西鶴 元禄六癸酉年 八月十日 下山鶴平 北條団水 建」と刻まれている。この墓碑を建立した下山鶴平については、西鶴の版元ではないかといわれている。北條団水は京都生まれの文人で、橘堂、滑稽堂と号した。西鶴を慕って来阪し、西鶴の死後7年の間、鑓屋町の庵を守ったことで知られている。
江戸時代の大阪を代表する文学者の墓として、大阪市顕彰史跡となっている。
用語解説
浮世草子(うきよぞうし) 江戸時代の小説。西鶴は遊里や金銭を主な題材として町人生活をリアルに描き、娯楽性のある浮世草子を確立した。
参考:『井原西鶴』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E5%8E%9F%E8%A5%BF%E9%B6%B4
井原 西鶴(いはら さいかく、寛永19年〈1642年〉 - 元禄6年8月10日〈1693年9月9日〉)は、江戸時代の大阪の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳諧師。別号は鶴永、二万翁、西鵬。
『好色一代男』をはじめとする浮世草子の作者として知られる。談林派を代表する俳諧師でもあった。
概要
寛永19年(1642年)頃、紀伊国中津村(現:和歌山県日高郡日高川町)に生れ、15歳頃から俳諧師を志し談林派を代表する俳諧師として名をなした。一昼夜の間に発句をつくる数を競う矢数俳諧の創始を誇り、またそれを得意とした(最高記録は23,500句)。その奇矯な句風から阿蘭陀流(オランダりゅう)と称される。天和2年(1682年)に『好色一代男』を出版し好評を得、その後様々なジャンルの作品を出版。従来の仮名草子とは一線を画すとして、現在では『好色一代男』以後の作品は浮世草子として区別される。元禄6年(1693年)没。
代表作は『一代男』の他に『好色五人女』『日本永代蔵』『世間胸算用』など。
また代表的な発句は、
長持に春かくれゆく衣がへ
鯛は花は見ぬ里もあり今日の月
大晦日定なき世の定かな
浮世の月見過しにけり末二年
などがある。
生涯
寛永19年(1642年)頃、紀伊国・中津村に生まれる。本名を平山藤五とする説があるが、伊藤梅宇(伊藤仁斎の次男で、福山藩儒)の『見聞談叢』巻6に「平山藤五ト云フ町人」という記述(享保15年頃、長兄・伊藤東涯からの聞書き)があるだけで、本名か否かは不詳である。
俳諧師として名を成す
明暦2年(1656年)、15歳で俳諧を志した[注釈 3]。寛文2年(1662年)には俳諧の点者として立っていた[注釈 4]。貞門の西村長愛子撰『遠近集』(1666年)に見える3句が現在残る西鶴句の初見で、その時の号は鶴永。俳諧は当初貞門派の流れを汲んだが、西山宗因に近づき、1670年代には談林派の句風となった。
延宝元年(1673年)春、大坂・生國魂神社の南坊で万句俳諧の興行をし、同年6月28日『生玉万句』として出版。この自序に「世こぞつて濁れり、我ひとり清すめり」「賤やつがれも狂句をはけば、世人阿蘭陀流などさみして、かの万句の数にものぞかれぬ」「雀の千こゑ鶴の一声」と記し、自らの新風を強調した。その結果、談林俳諧師の先鋭とされ、「おらんだ西鶴」と称された。西鶴号が、翌年正月の『歳旦発句集』に初めて見える。
延宝3年(1675年)、34歳の時に妻を亡くし1000句の追善興行、『誹諧独吟一日千句』(同年4月8日自序)と題して出版する。大坂俳壇の重鎮の多くを含む105名の俳諧師の追善句も載せる。同年に剃髪し、法体になっている。
延宝5年(1677年)3月、大坂の生國魂神社で一昼夜1600句独吟興行し、5月にそれを『俳諧大句数』と題して刊行。序文にて「今又俳諧の大句数初て、我口拍子にまかせ」と矢数俳諧(cf.通し矢)の創始を主張し「其日数百人の連衆耳をつぶして」と自慢気に語ったが、同年9月に月松軒紀子が1,800句の独吟興行で西鶴の記録を抜く[要出典]。翌年、月松軒の独吟が『俳諧大矢数千八百韵』と題して刊行され、点を加えた菅野谷高政が序で西鶴を皮肉るような物言いをする。延宝7年(1679年)、大淀三千風が独吟3,000句を達成し『仙台大矢数』として出版、その跋文に西鶴は「紀子千八百はいざ白波の跡かたもなき事ぞかし」「其上かゝる大分の物、執筆もなく判者もなし、誠に不都合の達者だて」と紀子の一昼夜独吟に疑いをかけ「中々高政などの口拍子にては、大俳諧は及ぶ事にてあらず」と返す刀で高政をも切る[要出典]。延宝8年5月7日(1680年6月3日)に生國魂神社内で4,000句独吟を成就、翌年4月に『西鶴大矢数』と題して刊行した。貞享元年(1684年)には摂津住吉の社前で一昼夜23,500句の独吟、以後時に二万翁と自称。1684年刊行『俳諧女哥仙』以降は俳書の刊行は休止状態となる。
作家への転進
天和2年(1682年)10月、浮世草子の第一作『好色一代男』を出板。板下は西吟、挿絵は西鶴。好評だったのか板を重ね、また翌々年には挿絵を菱川師宣に変えた江戸板も出板、貞享3年(1686年)には師宣の絵本仕立にした『大和絵のこんげん』と『好色世話絵づくし』も刊行された。さらに『一代男』の一場面が描かれた役者絵が残っていることから、歌舞伎に仕組まれたこともあるようである。
以後、後に『一代男』とともに好色物と括られる『諸艶大鑑』(1684年)、『好色五人女』(1686年)、『好色一代女』(同年)が立て続けに書かれ、やがて雑話物や武家物と呼ばれるジャンルに手を染めるようになる。
天和3年(1683年)正月、役者評判記『難波の貌は伊勢の白粉』を刊行(現存するのは巻二巻三のみ)。貞享2年(1685年)には浄瑠璃『暦』をつくる。この作品は、浄瑠璃太夫の宇治加賀掾のために書かれたもので、自分の許を飛び出し道頓堀に竹本座を櫓揚げした竹本義太夫を潰すために、京都から一座を引き連れて乗り込んだ加賀掾が西鶴に依頼した作品。敗北した加賀掾はさらなる新作を依頼し、西鶴は『凱陣八島』をもって応え、対する義太夫側は当時まだ駆け出しの近松門左衛門の新作『出世景清』で対抗。今度は加賀掾側に分があったが、3月24日(4月27日)に火事にあい[5]帰京したという。この道頓堀競演については西沢一風の『今昔操年代記』に記されている。
死とその後
元禄6年8月10日(1693年9月9日)に西鶴は没し、誓願寺(大阪市中央区)に葬られた。法名は仙皓西鶴信士、寺の日牌と月牌との記載に「鎗ヤ町 松寿軒井原西鶴 五十二」とあり、『難波雀』に記された鎗屋町で亡くなったことが分かる。同年冬に遺稿集として『西鶴置土産』が出版される。口絵に西鶴の肖像を載せるが、そこには「辞世、人間五十年の究り、それさへ我にはあまりたるに、ましてや」と詞書した、
浮世の月見過しにけり末二年
の句がある。
同時代の評価
俳諧師として
『生玉万句』(1673年)の自序に「世人阿蘭陀流などさみして」とあり、貞門俳人・中島随流は『誹諧破邪顕正』(1679年)で西山宗因を「紅毛(ヲランダ)流の張本」、西鶴を「阿蘭陀西鶴」と難じ、同じ談林の岡西惟中は『誹諧破邪顕正返答』(1680年)で「師伝を背」いていると批難、松江維舟は『俳諧熊坂』(1679年)で「ばされ句の大将」と謗ったように西鶴は多く批判されたが、それはむしろ当時の談林派でのまた俳壇での西鶴の存在の大きさを証する。
ただ、西鶴は阿蘭陀流という言葉が気に入ったのか、『俳諧胴骨』(1678年)の序に「爰にあらんだ流のはやふねをうかめ」、『三鉄輪』(1678年)の序に「阿蘭陀流といへる俳諧は、其姿すぐれてけだかく、心ふかく詞新しく」などとした。
また西国撰の『見花数寄』(1679年)に載る西国と西鶴の両吟では、西国の「桜は花阿蘭陀流とは何を以て」という発句に西鶴が「日本に梅翁その枝の梅」とつけ、阿蘭陀流の幹に宗因(梅翁)を位置づける。
参考:『近松門左衛門』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%9D%BE%E9%96%80%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
近松 門左衛門(ちかまつ もんざえもん、承応2年〈1653年〉 - 享保9年11月22日〈1725年1月6日〉)とは、江戸時代前期から中期にかけての人形浄瑠璃および歌舞伎の作者。本名は杉森 信盛(すぎもり のぶもり)。平安堂、巣林子(そうりんし)、不移山人(ふいさんじん)と号す。家紋は「丸に一文字」。
来歴
誕生
越前国(現在の福井県)の武士杉森信義の次男として生まれた。母は医師の家系で松平忠昌の侍医であった岡本為竹法眼の娘喜里。幼名は次郎吉、元服後の諱は信盛と称した。兄弟に母を同じくする兄の智義、弟の伊恒がいる。出生地については肥前国唐津、山城国、長門国萩など諸説あったが、現在は越前とするのが確実とされている。
近松の父である杉森信義は福井藩第三代藩主松平忠昌に仕え、忠昌の没後はその子松平昌親に分知された吉江藩(現在の鯖江市)で藩主昌親に仕えた。近松の生誕年は承応2年(1653年)であるが、昌親の吉江への入部は明暦元年(1655年)であり、昌親と家臣団は吉江以前は福井に居住していたと考えられ、昌親に仕えた信義の子である近松も、福井市生まれとされている。しかし当時の福井藩に関する資料の調査では、昌親は正保3年(1646年)から江戸に在住し、その家臣団は藩主昌親の吉江入部以前、既に吉江に移って藩政に関わる執務を行っていたことが明らかとなっており、よって信義も他の家臣たちとともにこの時期から吉江に在住し、近松は吉江すなわち鯖江市で生まれたとする見方もある。
青年期
寛文4年(1664年)以後、信義は吉江藩を辞し浪人となって越前を去り、京都に移り住んだ。信義が藩を辞した理由については明らかではなく、近松の消息も詳らかではないが、山岡元隣著の『宝蔵』(寛文11年〈1671年〉刊行)には、両親等とともに近松の句「白雲や花なき山の恥かくし」が収められている。近松が晩年に書いた辞世文には「代々甲冑の家に生れながら武林を離れ、三槐九卿に仕へ咫尺し奉りて」とあり、青年期に京都において位のある公家に仕え暮らしたと見られる。その間に修めた知識や教養が、のちに浄瑠璃を書くにあたって生かされたという。
浄瑠璃・歌舞伎の作者となる
その公家に仕える暮らしから離れ、近松は当時京都で評判の浄瑠璃語り宇治嘉太夫(のちの宇治加賀掾)のもとで浄瑠璃を書くようになった。それがいかなるきっかけによるものか明らかではないが、『翁草』(神沢杜口著)によれば、近松は公家の正親町公通に仕えていた時、公通の使いで加賀掾のもとに行ったのが縁で、浄瑠璃を書くようになったという。加賀掾は延宝3年(1675年)に京都四条で人形芝居の一座を立ち上げ、そこで浄瑠璃を語っていた。近松が加賀掾のために浄瑠璃を書くようになったのが、いつのころからなのか定かではない。この当時の慣習として、浄瑠璃や歌舞伎の作者の名をまだ世に出すことがなかったからである。なおこの時期、兄の智義と弟の伊恒は大和国宇陀松山藩に召し抱えられた。伊恒は藩医平井家の養子となり、のちに岡本一抱(為竹)と改名している。
天和3年(1683年)、曾我兄弟の仇討ちの後日談を描いた『世継曾我』(よつぎそが)が加賀掾の一座で上演されたが、翌年に加賀掾の弟子だった竹本義太夫が座本(興行責任者)となって大坂道頓堀で竹本座を起こし、この『世継曽我』を語り評判を取った。『世継曽我』に作者名はないが、義太夫が語った浄瑠璃のさわりを集めた『鸚鵡ヶ杣』序文の記述から、近松の作であることは間違いないとされている。以後義太夫は近松の書いた浄瑠璃を竹本座で語るようになり、貞享2年(1685年)に竹本座で出された近松作の『出世景清』は近世浄瑠璃の始まりといわれる。
貞享3年(1686年)には竹本座上演の『佐々木大鑑』で、初めて作者として「近松門左衛門」の名を出した。元禄5年(1692年)、40歳で大坂の商家松屋の娘と結婚し(ただしこれは再婚ではなかったかといわれる)、その間に一女一男をもうけた。このうち男子は多門と称し絵師になっている。元禄6年(1693年)以降、近松は歌舞伎の狂言作者となって京の都万太夫座に出勤し、坂田藤十郎が出る芝居の台本を書いた。10年ほどして浄瑠璃に戻ったが、歌舞伎作者として学んだ歌舞伎の趣向が浄瑠璃の作に生かされることになる。
元禄16年(1703年)、『曽根崎心中』を上演。宝永2年(1705年)に義太夫こと竹本筑後掾は座本の地位を初代竹田出雲に譲り、出雲は顔見世興行に『用明天王職人鑑』を出す。このとき近松は竹本座の座付作者となり、住居も大坂に移して浄瑠璃の執筆に専念した。正徳4年(1714年)に筑後掾は没するが、その後も近松は竹本座で浄瑠璃を書き続けた。正徳5年の『国性爺合戦』は初日から17ヶ月の続演となる大当りをとる。
晩年
享保元年(1716年)、母の喜里死去。同年、摂津国川辺郡久々知村の広済寺再興に講中として加わった。晩年は病がちとなり、初代出雲と松田和吉(後の文耕堂)の書いた浄瑠璃を添削している。享保9年、『関八州繋馬』を絶筆として11月に死去。享年72、戒名は阿耨穆矣一具足居士。辞世の歌は「それぞ辞世 さるほどにさても そののちに 残る桜が 花し匂はば」と、「残れとは 思ふも愚か 埋み火の 消ぬ間あだなる 朽木書きして」。
墓所は大阪府大阪市中央区谷町八丁目の法妙寺跡。谷町筋の拡張工事の際に法妙寺は霊園ごと大阪府大東市寺川に移転したが、近松の墓だけが旧地に留まった。なお、移転先にも供養墓としてレプリカが建てられている。ほかにも広済寺に墓が、東京法性寺に供養碑がある。忌日の11月22日は近松忌、巣林子忌、または巣林忌と呼ばれ、冬の季語となっている。
作品
現在、近松の作とされている浄瑠璃は時代物が約90作、世話物が24作である。歌舞伎の作では約40作が認められている[4]。世話物とは町人社会の義理や人情をテーマとした作品であるが、当時人気があったのは時代物であり、『曽根崎心中』などは昭和になるまで再演されなかった。同時期に紀海音も近松と同じ題材に基づいた心中浄瑠璃を書いており、当時これに触発されて心中が流行したのは事実であるが、世話物中心に近松の浄瑠璃を捉えるのは近代以後の風潮に過ぎない。ちなみに享保8年(1723年)、江戸幕府は心中物の上演を一切禁止している。
「虚実皮膜論」という芸術論を持ち、芸の面白さは虚と実との皮膜にあると唱えたといわれるが、これは穂積以貫著の『難波土産』に近松の論として紹介されているもので、近松自身が系統だてた芸能論を書き残したわけではないともされる。ほかには箕面市の瀧安寺に近松が同寺に寄進した大般若経、尼崎の広済寺に自筆とされる養生訓などが伝わっている。
浄瑠璃
『出世景清』 - 貞享2年(1685年)
『曽根崎心中』 - 元禄16年(1703年)
『兼好法師物見車』 - 宝永3年(1706年)
『堀川波鼓』 - 宝永4年(1707年)
『傾城反魂香』 - 宝永5年(1708年)
『碁盤太平記』 - 宝永7年(1710年)
『冥途の飛脚』 - 正徳元年(1711年)7月以前
『嫗山姥』 - 正徳2年(1712年)
『大経師昔暦』 - 正徳5年(1715年)
『国性爺合戦』 - 正徳5年(1715年)
『平家女護島』 - 享保4年(1719年)
『心中天網島』 - 享保5年(1720年)
『女殺油地獄』 - 享保6年(1721年)
『心中宵庚申』 - 享保7年(1722年)
歌舞伎
『仏母摩耶山開帳』 - 元禄6年(1693年)
『けいせい仏の原』 - 元禄12年(1699年)
『けいせい壬生大念仏』 - 元禄15年(1702年)
<平成30年(2018年)の問題>
元禄文化(げんろくぶんか) 江戸時代前期、元禄年間(1688年 - 1704年)前後の17世紀後半から18世紀初頭にかけての文化。
17世紀の中期以降の日本列島は、農村における商品作物生産の発展と、それを基盤とした都市町人の台頭による産業の発展および経済活動の活発化を受けて、文芸・学問・芸術の著しい発展をみた。とくに、ゆたかな経済力を背景に成長してきた町人たちが、大坂・京など上方の都市を中心にすぐれた作品を数多くうみだした。そこでは庶民の生活・心情・思想などが出版物や劇場を通じて表現された。ただし、その担い手は武士階級出身の者も多かった。また、同じ上方でも京より大坂に重心がうつると同時に、文化の東漸運動も進展し、江戸・東国が文化に占める重要性が高まっていく端緒となった。(元禄文化wikipediaより)
1. 経済発展
2. 上方中心
3.(武士も担ったが)担い手の中心は町人。
以下、文学・演劇、絵画、建築・工芸・庭園、学問の項目に分けて元禄文化を理解したい。
◎小説
仮名草子(←中世御伽草子の流れ): 浅井了意 「浮世物語」「東海道名所記」
浮世草子:井原西鶴「好色一代男」「好色五人女」「日本永代蔵」「世間胸算用」
◎戯曲
(脚本)近松門左衛門「曽根崎心中(お初・徳兵衛)」「冥途の飛脚(梅川・忠兵衛)」「心中天網島(紙屋治兵衛・小春)」「女殺油地獄(感動された放蕩息子が親の同業者(油屋)に借金を断られ、その女房を殺す)」「国姓爺合戦(和藤内(鄭成功)の物語)」
◎浄瑠璃
竹本義太夫(義太夫節を完成)
◎歌舞伎
出雲阿国→女歌舞伎→若衆歌舞伎→野郎歌舞伎(男のみ) ←幕府規制
演目も増え、役者の数も増加し、劇団の確立をみるようになったため、 歌舞伎役者・浄瑠璃太夫・説経太夫・舞太夫などの社会的地位も向上
〇上方歌舞伎 坂田藤十郎、水木辰之助、芳澤あやめ お家騒動に人生のさまざまな局面を盛る 和事
〇江戸歌舞伎 江戸三座(中村座、市村座、森田座) 初代市川團十郎、中村七三郎 荒事
◎連歌と俳諧(俳文)
松尾芭蕉 紀行文『奥の細道』『野ざらし紀行』『笈の小文』『更科紀行』
<平成30年(2018年)の問題>
*大坂の醤油屋手代徳兵衛と新地の遊女お初の心中事件をもとに書かれた人形浄瑠璃「世話物」の代表作『曽根崎心中』の作者は、近松門左衛門であり、人形浄瑠璃(文楽)の演目である。後に歌舞伎の演目ともなった。大変人気を博し、心中物(心中を扱った演目)の大ブームが起こった。しかし、その影響で男女の心中事件が多発したため、江戸幕府は上演を禁じ、曲本の執筆:発行も禁じた上で、心中した男女に関しては苛烈な処置を行った。
太平洋戦争の終戦後、中村雁次郎・扇雀親子が復活公演をし、上方歌舞伎の代表作となった。また、人形浄瑠璃では吉田玉男が新たに作曲をし(原曲が残っていなかった)、現代風に全体をアレンジして上演、現代でも人気演目ともなった。
[やまと絵]
◎狩野派
〇京狩野 狩野派のうち,江戸幕府成立後も京都に残って活躍した狩野山楽(1559~1635)の系統をいう。狩野正信(室町時代の絵師。狩野派の祖)に始る狩野派は,江戸幕府の成立に伴い,まず長信,光信,孝信,甚之丞らが徳川氏に仕え,京都から駿府や江戸に出向いて活躍するようになった。その後,探幽,尚信,安信は幕府から江戸市中に屋敷を拝領し,江戸に移住して幕府御用絵師となった。これに対し,豊臣家に縁の深かった山楽,山雪の家系は代々京都に住み,幕府から俸禄を受けずに画作を続けたので,この一派を江戸狩野に対して京狩野と呼ぶ。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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〇江戸狩野 狩野探幽(1602~1674)(安土桃山時代の代表的絵師狩野永徳の孫)以後江戸で活躍した狩野派。京狩野に対して江戸狩野と呼ぶ。正信に始る狩野派は京都を中心に活躍していたが,江戸幕府成立後,長信,光信,孝信らが徳川氏に出仕。その後探幽は元和3 (1617) 年幕府御用絵師となり,同7年江戸鍛冶橋門外に屋敷を賜わって鍛冶橋狩野を創始。次いで尚信,安信も寛永年間 (24~44) に幕府に仕えてそれぞれ屋敷を拝領し,木挽町狩野,中橋狩野を興した。これに浜町狩野を加えた4家は奥絵師と呼ばれ,幕府絵師の筆頭的地位を保ち,その下に分家,門人による表絵師や町狩野があった。江戸狩野は幕藩体制に組込まれて,長く画壇の中心であったが,その画風は次第に形骸化した。南禅寺本坊小方丈『竹林群虎図』襖絵 、『東照宮縁起絵巻』 (日光東照宮) ,『鵜飼図屏風』 (大倉集古館) など。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
◎琳派
江戸時代における絵画を主とする工芸,書などの装飾芸術の流派。光琳派あるいは宗達光琳派ともいう。俵屋宗達に始まる画風を尾形光琳が大成し,酒井抱一へと発展した。絵画は技法,表現ともに伝統的なやまと絵を基盤とし,画面の豊かな装飾性が特色。この派の作家としては宗達,光琳,本阿弥光悦,抱一のほか尾形乾山,深江芦舟,渡辺始興,立林何帠らがあげられる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
◎土佐派
やまと絵の一派。やまと絵の諸流派のうち,最長の家系と最多の門人を誇り,武家を背景とする狩野派に対抗して,公家的なやまと絵流派の中心として存続。江戸時代以降制作の土佐系図によれば,平安時代中期の藤原基光 (もとみつ) を始祖として,江戸時代まで存続したとされる。しかし明確に土佐の姓を名のる画家は,応永 13 (1406) 年に土佐将監 (しょうげん) と記録される土佐行広が最初。行広は宮廷絵所預 (えどころあずかり) に任じられ,永享6 (34) 年まで生存,『融通念仏縁起絵巻』 (14,6名の合作) を描いた。長禄~寛正年間 (57~65) 頃,行広の次男広周 (ひろかね) が宮廷の絵所預,室町幕府の絵所絵師として活躍している。のち土佐光信のとき絵所預を世襲するようになり,社会的地位が確立,流派として実質的成立をみた。光信の子の光茂は天文 19 (1550) 年までの在世と,『当麻 (たいま) 寺縁起絵巻』『桑実寺縁起絵巻』などを制作したことが知られる。桃山時代には光茂の門人 (あるいは次男) の光吉が堺に移住して,細々と命脈を維持した。光吉の遺作には『源氏物語図帖』 (京都国立博物館) 、『春秋花鳥図屏風』がある。『人物禽虫画冊』の筆者で光吉の子,または門人とされる光則(土佐派復興の祖)は寛永 11 (1634) 年頃,子の土佐光起(1617~1691) (みつおき) とともに京都に移住。光起は光茂以来の画風に漢画の写生的要素を加味して,承応3 (54) 年に,約 100年間中絶していた宮廷絵所預の職に復帰し,土佐派を再建した。その後幕末まで狩野派と並立して活躍を続けたが,芸術的生命は光起で終ったとみられる。
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◎住吉派
江戸時代におけるやまと絵の一派。京都の土佐派に対し江戸で江戸幕府の御用絵師をつとめた。寛文2 (1662) 年に土佐派から独立して住吉家を興した広通 (如慶) を祖とする。住吉の名は,根津美術館蔵『新因果経絵巻』 (1524) の筆者である鎌倉時代の絵師慶忍が住吉の住人であったことに起因。土佐光吉・光則の門人と推定される広通は如慶の号を用い,当時の土佐派様式に風俗的な叙述性を加味した画風を築いた。如慶の子の広澄は具慶と号し,幕府の奥絵師に任じられ江戸に移住。その後広保,広守,広行,広尚,弘貫,広賢と奥絵師を世襲し門人も多く出た。住吉派の遺品は絵巻,屏風,掛物などが多く,土佐派よりも写実的で生々しい画風を示す。住吉派の模本記録類は,現在東京芸術大学などに伝わる。住吉如慶「紀州東照宮縁起絵巻」(和歌山東照宮蔵),「源氏物語画帖」(サントリー美術館蔵),「伊勢物語絵巻」など
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[浮世絵]
江戸時代に発達した風俗画の一様式。遊里と芝居町に代表される都市の歓楽境,いわゆる「浮世」に取材し,主要な表現手段として大量生産のできる版画形式を用いた点に特色がある。浮世絵版画技法は,初め万治年間 (1658~61) に菱川師宣(浮世絵の祖と呼ばれる)が墨摺絵を制作。その後延宝~正徳期 (73~1716) 頃,墨摺絵に筆彩色する丹絵,紅絵が流行(ここが元禄),享保~寛保期 (1716~44) 頃には漆絵も行われた。次いで延享期 (44~48) 頃,墨摺絵に紅や緑など2~3色の色板を重ねて摺る板摺版画の紅摺絵を工夫。それをさらに発達させて,明和2 ((17)65) 年鈴木春信らが多色摺木版画である錦絵を創始し,浮世絵の黄金時代を迎えた。浮世絵は江戸時代の民衆の生活を主題とし,美人画,役者絵,相撲絵,あぶな絵,春画,歴史画,風景画,花鳥画などに分類される。浮世絵作家としては,菱川師宣,宮川長春,懐月堂安度,鳥居清信,奥村政信,石川豊信,鈴木春信,鳥居清長,喜多川歌麿,東洲斎写楽,一筆斎文調,勝川春章,歌川豊国,国貞,国芳,葛飾北斎,歌川広重などが有名であるが,明治初年の小林清親らを最後としてその芸術的生命を終えた。錦絵はヨーロッパにもたらされて,フランスの印象派の成立に影響を与えた。
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〇丹絵(たんえ)
浮世絵用語。墨摺絵 (すみずりえ) に丹 (紅殻) を主色として緑,黄,藍などの簡単な色を加え,筆彩色した一枚絵の浮世絵。延宝~天和頃から貞享,元禄,宝永,正徳頃に流行。主要作品は鳥居清信筆『筒井吉十郎の槍踊』,鳥居清倍筆『義経と静』,奥村政信筆『七夕祭』『劇場図』など。
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享保5年(1720年)頃になると丹の代わりに紅を使用した紅絵が描かれ始めた。(Wikipedia)
〇紅絵(べにえ) (享保)
浮世絵版画様式の一つ。墨摺絵の上に紅を主とする色を筆彩色したもの。享保年間 (1716~36) を中心に行われた。なお紅摺絵は紅を主とする色板を用いて摺刷したもので,紅絵とは異なる。しかし今日ではまぎらわしいため紅絵という名称はあまり用いず,墨摺筆彩と呼んだり,厳密には異なるが漆絵の一種として扱う場合が多い。
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<平成30年(2018年)の問題>
琳派尾形光琳(江戸時代中期を代表する画家(1658 ~1716))の作品は、『燕子花図屏風(下記)』『紅白梅図屏風』『八橋蒔絵螺鈿硯箱(メトロポリタン美術館蔵)』
選択肢の作品の作者はそれぞれ、
*舟橋蒔絵硯箱 : 桃山~江戸初期の書家・陶芸家・蒔絵市・茶人の本阿弥光悦(1558-1637)の作。国宝。リンクはe国宝)
*風神雷神図屛風 : 俵屋宗達(生没年不詳。江戸初期の画家)の作。建仁寺像→ただし、尾形光琳・酒井抱一も模倣作品を制作している)、
*燕子花(かきつばた)図屏風(燕子花図) : 尾形光琳の代表作。国宝。根津美術館蔵。
*
☆建築
◎寺社・霊廟 近世にあっては、木割りや規矩の技術が発達し、職人の諸技術が解析されて技術書が刊行されて広く普及し、台鉋や大鋸などの大工道具も発達したため、寺社建築では全国規模の技術革新がみられ、その技術は均一化して地域的格差が縮小した一方、その高度な技術が駆使されて各地の風土や嗜好にあわせた地方色豊かな建築が各地でみられた。(元禄文化Wikipedia)
*長谷寺本堂、東大寺金堂(重源再興も松永久秀によって再び焼失していた)、善光寺本堂(総檜皮葺の仏殿建築 )、萬福寺大雄宝殿などはこの時代の建造物である。
*輪王寺大猷院霊廟(3代将軍家光を祀る霊廟)
☆工芸
工芸分野では桃山時代に端を発した清新大胆なデザインが町人の創意を加えていっそう洗練され、とくに蒔絵・陶磁・染織では高いレベルに達した。また、各藩の産業振興策とあいまって地方工芸が発達し、大衆生活のなかへ普及していった。
〇陶器
*野々村仁清(京焼・貴族趣味を漂わせる富裕層むきの高級奢侈品 )
色絵雌雉香炉、石川県立美術館
色絵梅花図茶壺、石川県立美術館
色絵金銀菱文茶碗、MOA美術館
色絵輪宝羯磨文香炉、藤田美術館
色絵輪宝羯磨文香炉、岡田美術館
色絵鱗波文茶碗、北村美術館
色絵瓔珞文花生、仁和寺霊宝館
銹絵水仙文茶碗、京都・天寧寺
色絵釘隠 21個、京都国立博物館 伝仁清
色絵牡丹文水指、東京国立博物館
色絵芥子文茶壺、出光美術館
色絵鳳凰文共蓋壺、出光美術館
色絵法螺貝形香炉、静嘉堂文庫美術館
色絵法螺貝形香炉、大阪・法人蔵
色絵吉野山図茶壺、静嘉堂文庫美術館
色絵若松図茶壺、文化庁
*酒井田柿右衛門(赤絵付け) 伊万里焼(有田)
柿右衛門様式は、主に大和絵的な花鳥図などを題材として暖色系の色彩で描かれ、非対称で乳白色の余白が豊かな構図が特徴である。上絵の色には赤・黄・緑、そして青・紫・金などが用いられる。また、器の口縁に「口銹」と言われる銹釉が施されている例も多い。同じ有田焼でも、緻密な作風の鍋島様式や、寒色系で余白の少ない古九谷様式と異なり、柔らかく暖かな雰囲気を感じさせる。
六代(1690年 - 1735年)は意匠・細工に優れた叔父の渋右衛門にも助けられ、食器類のほか花器、香炉など様々な磁器製品を高い水準で量産することに成功したため、中興の祖とされる。
*尾形乾山 滋味豊かな情趣美に持ち味 (←→) 尾形光琳(明快な造形美) 「乾山の銀」 →『色絵紫陽花文角皿』(ギメ美術館)
〇織物 高級織物や生糸は長きにわたって中国からの重要輸入品であったが、この時代には国内養蚕業の発達により上質な生糸がつくられ、西陣で高級織物がつくられるなど国産化が進んで求めやすくなったことと経済成長によって需要も増えたことで染織の技術も進展した。宮崎友禅斎 友禅染め。光琳風の精巧優美な模様「元禄模様」
〇蒔絵・漆工 工芸分野でとくに技術の発展が著しかったのは蒔絵である。寛永期の本阿弥光悦は蒔絵に新局面をひらき、その影響を強く受けた尾形光琳もまた装飾的画風をいかしたすぐれた意匠の作品を残した。ことに、「八橋蒔絵螺鈿硯箱」は古典の『伊勢物語』における八橋とカキツバタの意匠を用いた優品で、上段が硯箱、下段は料紙箱となっている。他に、「住の江蒔絵硯箱」、「紅葵硯箱」、「松に山茶花蒔絵硯箱」など、江戸時代のみならず日本工芸史をかざる逸品である。
なお、輪島塗、会津塗、津軽塗、出羽能代や飛騨高山の春慶塗、若狭塗、城端塗など地方の漆芸も、この時期以降、生活に根ざした庶民的な工芸品として各地で多彩な発達をみせた 。
☆庭園
江戸期に入ると、伝統的な池庭の様式に桃山文化期に確立された露地のはたらきや意匠が付加され、さらに東山文化期成立の枯山水の要素も複合されて総合的庭園様式とも称すべき「回遊式庭園」が成立する。これは、一定の共通認識や教養を有する上層の武家や公家、僧侶などの階層相互において、茶事や宴を催す社交の場であった。
回遊式庭園は、池を中心に築山や平場が設けられ、御殿や茶亭、四阿(あづまや)などの建物が配置された。
京都では、桂離宮や仙洞御所につづき明暦から万治にかけて修学院離宮が造営され、その御殿や庭園は宮廷文化のサロン的社交の場となった。
江戸にあっては、将軍が大名屋敷を訪れる御成の回数が増え、大名の側も屋敷に趣向をこらした回遊式庭園を設けるようになり、これを大名庭園と呼んでいる。明暦の大火後、幕府がリスクの分散のために各大名に複数の屋敷をもつよう奨励されてのちは、いっそう庭園がつくられるようになった。
小石川の水戸藩邸にある小石川後楽園は、初代水戸藩主徳川頼房が将軍家光から拝領した広大な屋敷地に造営され、その名も設計思想も、明より亡命した朱舜水の儒教思想の影響がみられる。綱吉の側用人として重視された柳沢吉保の屋敷にある六義園も現存する名園であり、その名称は、紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(和歌の六つの基調を表す語)に由来している。楽壽園(旧芝離宮恩賜庭園)、および浜御殿の庭(浜離宮恩賜庭園)は、それぞれ臨海都市である江戸の立地を活かした「汐入の庭」である。
大名庭園は江戸のみならず、地方の城下町でもつくられた。後楽園(岡山市)は、藩主池田綱政が家臣津田永忠に命じて造らせたものであり、金沢の兼六園、水戸の偕楽園とともに日本三名園といわれる。他に、熊本市の水前寺成趣園、彦根市の玄宮園、広島市の縮景園、宇和島市の天赦園、高松市の栗林荘(栗林公園)などは、現在も良好な状態で保たれている。
寺院庭園では、清水寺本坊(京都市東山区)の成就院庭園や観音院庭園(鳥取市)などがこの時代のものとして著名である]。これら庭園文化はさらに旗本はじめ各地の上級武家に広がり、江戸時代も中期以降になると、豪商・豪農の屋敷にも拡がっていった
◎儒教の興隆 中国の孔子が創始した儒教は、日常の人間関係を実践的に考える教えである。そして、その政治思想的な側面は、日本では古くから儒学として研究対象となってきた。江戸幕府は家康以来、幕藩体制支配の思想的裏づけとして儒学を重んじ、幕藩体制はまた儒学のもつ意義を増大させた。ここでは、社会における人びとの役割(職分)が説かれ、上下の身分秩序を重ずるべきこととし、「忠孝・礼儀」が尊ばれていたからである。
幕府は林家を中心に朱子学を教学として保護したが、諸藩でも幕府にならって藩士らの教育のために藩学(藩校)や郷学(郷校)を設立するところがあらわれた。岡山藩の池田光政による花畠教場、会津藩主保科正之が横田俊益につくらせた稽古堂などは、その古い事例といえる。
〇朱子学 朱子学は南宋の朱熹によって体系化された儒学で、宋学とも呼ばれる。日本では京都五山で仏教とともに学ばれていた。
儒学のなかにあっても特に朱子学は、大義名分論を基礎とし、主従・父子の別や上下の秩序、礼節を重んじ、身分制度や家族制度など封建的秩序を自然秩序と同様に定まったものとみたので、文治政治をすすめるうえで好適な教学であるとして江戸幕府や諸大名に歓迎された。幕藩体制は、基本的には農村を基礎とする封建的割拠体制であり、鎖国令にいたるまでは比較的自由にふるまえた商業資本もまた、「貴穀賤金」の理念にしたがって農民の下に位置づけられ、農業を本とし、商業を末とする本末論のかたちを有し、この体制を維持すべきものとして朱子学が根本にすえられたのである。
家康は、相国寺の学僧であった藤原惺窩(京学)をまねいて『貞観政要』『吾妻鏡』などを講じさせ、惺窩の推挙によって、その門人である林羅山(道春)(林家:代々幕府の文教政策にたずさわったが、儀礼や外交文書・武家諸法度の起草、刑罰の典礼など )をみずからの侍講(君主に仕えて学問を講義すること)として登用した。 湯島聖堂。南村梅軒(南学)。朱舜水(水戸学派・歴史重視・大義名分論)。福岡藩貝原益軒『養生訓』。
〇陽明学 陽明学は、明の王陽明(守仁)が朱子学の観念性を批判して提唱した実践を重んじる学問で、行為よりも知識を重んじる朱子学に対し、知識と行為の一致すなわち知行合一の立場で現実を批判してその矛盾を改めようとするなど革新性をもっていた。 「近江聖人」といわれた中江藤樹は、当初朱子学を学んだが、それにあきたらず、家父長的な家族倫理である「孝」を中心とした実践倫理を唱え、晩年には陽明学の致良知・知行合一の思想に近づいた。
藤樹書院に学んだ熊沢蕃山は、藤樹の学問を尊信した岡山藩主池田光政につかえ、藩政に参画して実績をあげた。32歳で3,000石取りの番頭(ばんがしら)という高い役職に取り立てられた蕃山は、新田開発に成果をあげ、藩校のもととなる花畠教場の設立にかかわり、その校則にあたる「花園会約」をつくったといわれている。
〇古学
〇私塾と藩校
◎宗教
〇神道
〇仏教
◎学問
〇歴史学 大日本史
〇古典研究
〇実学・自然研究
医学・本草学・農学・天文学・暦学・世界地理・
ほっ‐きょう〔‐ケウ〕【法橋】
1 《「法橋上人位」の略》僧位の第三位。法眼に次ぐ。僧綱の律師に相当し、五位に準ぜられた。
2 中世以後、医師・仏師・絵師・連歌師などに僧位に準じて与えられた称号。
ほう‐きょう〔ホフケウ〕【法橋】
1 仏語。仏の教えを、人を彼岸に渡す橋にたとえていう語。法のりの橋。
2 ⇒ほっきょう(法橋)
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
江戸時代後期,文化文政時代 (1804~30) に江戸を中心として展開した文化をいう。同じ町人文化でも,元禄文化が上方を中心としたのと対比される。武士を含めた町人層が,生産を離れた消費生活のなかで生み出した享楽的色彩の強い文化で,とりわけ文芸の面では,安永・天明期 (1772~89) の洒落本,黄表紙のあとをうけて,読本 (滝沢馬琴,山東京伝) ,滑稽本 (十返舎一九,式亭三馬) ,人情本 (柳亭種彦,為永春水) が盛んとなり,それらが歌舞伎と結びつき,また上方落語が江戸に移植され,川柳,狂歌などとともに庶民層に歓迎された。洋学が普及して幕府も蕃書和解御用をおき,また都市中心の文化が,地方に普及した。 (→江戸文学 , 大御所時代 )
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『化政文化』
[文化文政時代]
化政期ともいう。江戸時代末期の文化~文政年間 (1804~30) をさし,江戸幕府 11代将軍徳川家斉が,将軍職を家慶に譲ったのちも大御所として幕府の実権を握っていた時期である (→大御所時代 ) 。商品流通が進み,生活は豪奢放恣となって空前の繁栄を示したが,幕府や諸藩の財政は窮乏し,外圧も次第にきびしくなり,幕藩体制の矛盾は一層深化していた。政治,経済,文化の中心は上方から江戸に移り,町人文化が栄えた。遊芸,芝居,遊里,絵画,通俗小説の流行は一世を風靡し,遊蕩的気分が強く,粋 (いき) に象徴される世界や虚無的風潮を生じた。 (→化政文化 )
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『文化文政時代』
2025年日曜大河ドラマが蔦屋重三郎の人生と化政期がテーマのため、NHKを中心としてそれらに関する番組・書物・youtube動画は数多い。各美術館でも一斉に浮世絵関連とくに歌麿関連の特別展を開いています。
日曜美術館 蔦重と歌麿・写楽・北斎 5/4(日) 午前9:00-午前9:45放送
https://www.nhk.jp/p/nichibi/ts/3PGYQN55NP/episode/te/Q23VVP16KV/
アイエムインターネット美術館 浮世絵特別展 https://www.museum.or.jp/tag/9/event
『蔦屋重三郎』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%A6%E5%B1%8B%E9%87%8D%E4%B8%89%E9%83%8E
蔦屋 重三郎(つたや じゅうざぶろう、1750年2月13日〈寛延3年1月7日〉- 1797年5月31日〈寛政9年5月6日〉)は、江戸時代中期から後期にかけて活動した版元。
安永3年(1774年)に北尾重政の『一目千本』を刊行して以降、江戸日本橋の版元として化政文化隆盛の一翼を担い、大田南畝、恋川春町、山東京伝、曲亭馬琴、北尾重政、鍬形蕙斎、喜多川歌麿、葛飾北斎、東洲斎写楽など多数の作家、浮世絵師の作品刊行に携わった[5]。本姓は喜多川(生誕時の本姓は丸山)、本名は柯理(からまる)[6]。通称は「蔦重」、「重三郎」といわれる[5][6]。号は蔦屋[4]、耕書堂[2]、薜羅館など[2]。商標は「富士山形に蔦の葉」とされた[4]。自らも狂歌のほか戯作の制作も行っており、「蔦唐丸(つたのからまる)」と号した[4][2]。その他、俳諧では「蔦十」と号して句を寄せている[7]。
生涯
吉原時代
重三郎は遊郭街のあったことでも知られた「吉原の里」で産まれたとされている[8]。石川雅望が撰した『喜多川柯理墓碣銘』や大田南畝が浅草正法寺に建てた実母顕彰碑文に拠れば、父は尾張の丸山重助、母は津与といい江戸の広瀬氏出身となっている[6][8][2]。父親の職業はわかっていないが、吉原という特殊な地域に関係のある仕事に就いていたと考えられている[6]。重三郎の本名は柯理(からまる)で、(おそらく数えの)7歳の時に父母と別れて、商家であった喜多川氏の養子となった[6][8][2]。「蔦屋」は喜多川氏が経営していた店の屋号で、重三郎はそこで幼年期を過ごした[8]。
『籬の花』(1775年)
蔦屋が出版した最初の吉原細見
安永2年(1773年)には吉原五十間道に面した「蔦屋次郎兵衛店」を間借りし、書肆(しょし、本屋)「耕書堂」を営むようになった[8][9]。書店では鱗形屋孫兵衛が中心となって刊行していた吉原細見『這婥観玉盤』の卸し、小売りを始めた[10][2][11]。吉原細見とは吉原に点在する妓楼やそこに所属する遊女のランク付け、芸者や引手茶屋などを記した略地図などが掲載された、現代で言う風俗情報誌で、春秋の年2回刊行されていた[8]。安永3年(1774年)の正月に鱗形屋が刊行した吉原細見『細見嗚呼御江戸』内の刊記に初めて「蔦屋重三郎」の名が確認できる[12]。『細見嗚呼御江戸』の序文は福内鬼外と号した平賀源内が担当しており、重三郎と源内の間で何らかの関係性があったと指摘する研究者も存在する[12]。
さらに同年7月には版元として初めての出版物となる北尾重政を絵師に起用した『一目千本』を刊行した[13][11]。『一目千本』は遊女の名を列記した生け花を相撲の東西取組に見立てて競う趣向の遊女評判記で[注釈 1]、安永4年(1775年)秋の『籬の花』巻末には「君たちの生たまひしゐけ入の図をせううつしにいたし」という広告が掲載されている[13]。『一目千本』に続いて安永4年(1775年)の吉原俄に合わせて刊行された『急戯花の名寄』は、遊女の箱提灯に桜の花をあしらった挿絵とともに当該遊女の評を記した評判記で、吉原俄を見物に来た客の購買需要を見込んで刊行されたものと考えられている[14]。重三郎は出版業そのものに関心を置いていたとみられ、鱗形屋が重版事件によって処罰され、吉原細見の刊行が困難となった安永4年(1775年)の秋からは、自ら『籬の花』と題した吉原細見の刊行を始めた[8]。生まれも育ちも吉原だった重三郎が刊行する吉原細見は他の追随を許さない充実度を誇り、「蔦屋」の版元としての地位を確固たるものに押し上げた[15]。
『雛形若菜の初模様』「たまや内 しづか」(1775年、礒田湖龍斎画、ボストン美術館所蔵)。
右下に「耕書堂」の版元印が確認できる[16]。
安永4年(1775年)には老舗の版元西村屋与八と共同で礒田湖龍斎の『雛形若菜の初模様』シリーズを刊行し、大判錦絵での遊女絵の先駆けとなった[17]。掲載される遊女の多くは突き出し(デビュー)などの記念行事に合わせて選定されたと考証されており、出版業界と吉原内部の動向を知る重三郎が橋渡し的な活動を見せたものとされている[17]。高価な紅の絵の具が多様されている華やかな作品に仕上がっており、吉原遊郭が出版費用を提供した入銀物であった可能性が指摘されている[16]。『雛形若菜の初模様』は天明初期までに140図を超える作品が刊行された人気シリーズとなったが、重三郎が関わったのは主に安永4年前半の12図のみであり、これは両版元の関係悪化によって重三郎の手を離れたものと考えられている[17]。
安永5年(1776年)に入ると、山崎屋金兵衛と組んで北尾重政と勝川春章を起用した彩色摺絵本『青楼美人合姿鏡』を刊行した[注釈 2][13]。『青楼美人合姿鏡』は吉原の13の妓楼で名をはせた68人の遊女の姿を、四季の移ろいをテーマに色鮮やかに描いた入銀物で、序文を重三郎自身が手掛けていることから、企画の発案や主導は彼が行ったとみられている[19]。また、鱗形屋が手掛けた恋川春町の『金々先生榮花夢』をはじめとした黄表紙や戯作本が流行したことに刺激を受けたと見られ、安永6年(1777年)からは戯作本、安永9年(1780年)からは黄表紙の刊行にも着手するようになった[20]。この時期に刊行を手掛けた作品としては洒落本『娼妃地理記』(道蛇楼麻阿[注釈 3]、安永6年)、黄表紙『伊達模様見立蓬萊』(作者不明、安永9年)、『身貌大通神畧縁記』(志水燕十作、喜多川歌麿画、安永10年)などがある[20]。特に『身貌大通神畧縁記』の作画を手掛けた歌麿は、大成前の北川豊章を名乗っていた時代であり、重三郎と組んでの仕事は大きな転機となった[20]。さらには浄瑠璃の富本節をまとめた富本正本の刊行にも着手し、蔦屋の基幹出版物として人気を博した[22]。天明3年(1783年)1月に入ると、鱗形屋の吉原細見株を買収し、『五葉松』という名で新たな吉原細見を刊行するようになった[23]。その他、恋川春町や朋誠堂喜三二、志水燕十、四方赤良(大田南畝)、雲楽山人、唐来三和などを起用した黄表紙や洒落本、狂歌本の作品が刊行され、蔦屋重三郎は一線級の版元として認知されるようになった[24]。文学研究者の鈴木俊幸は、この年に豪華な顔ぶれを揃えて正月新版を大々的に喧伝した背景には、同年の日本橋進出を視野に入れた事前宣伝の狙いがあったのではないかと指摘している[25]。
日本橋時代
蔦屋を示す「富士山形に蔦の葉」
日本橋の通油町(とおりあぶらちょう)は、古くから重三郎と付き合いのあった版元の鱗形屋孫兵衛だけでなく、鶴屋喜右衛門、西村屋与八など錦絵創始の老舗版元が多数店を構える江戸の出版界の中心と言える地域であった[26]。吉原において版元としての地盤を確固たるものとした重三郎は天明3年(1783年)9月、丸屋小兵衛の店を買い上げ、この地に進出した[2][26]。重三郎は転居のタイミングで丸屋が所持していた地本問屋の株も入手した[27]。吉原の店を手代の徳二郎に任せ、重三郎は実父母も招き、通油町の耕書堂が本拠となった[26][23]。この顛末は曲亭馬琴『近世物之本江戸作者部類』の中でも言及されており、天明年代に通油町にあった丸屋を買い取って耕書堂の本店とし、一代にして蔦屋が繁盛したと伝えており、重三郎については「世の中に吉原で遊んで財産を失う者は多いが、吉原から出てきた者で大商人として成功を収める者はなかなかいない」と評している[28]。
顧ふに件の蔦重は風流もなく文字もなけれと、世才人に捷れたりけれは当時の諸才子に愛顧せられ、その資によりて刊行の冊子みな時好に称ひしかは、十余年の間に発跡して一二を争ふ地本問屋になりぬ。世に吉原に遊ひて産を破るものは多けれと吉原より出て大賈になりたるはいと得かたし。
— 『近世物之本江戸作者部類』より[29]
恋川春町作画『吉原大通会』(天明4年)。著名な狂歌師を吉原に呼び集めるというシーン。左下で硯箱を差し出しているのが蔦唐丸(重三郎)と解釈される[30]。
重三郎は大田南畝との知己を得たことを契機に天明3年(1783年)より蔦唐丸と号して狂歌師としての活動も開始し、著名な狂歌師たちとの繋がりを持つようになった[31]。狂歌師の集まりである吉原連所属し、『いたみ諸白』(朱楽菅江撰、天明4年)や『狂歌百鬼夜狂』(平秩東作編、天明5年)をはじめとした複数の狂歌本に重三郎の作品が確認できる[31]。また、狂歌師らを連れて吉原で派手に遊びまわった記録も残されており、幅広い交際を持ったことが推察される[31]。こうした活動によって蔦屋の狂歌本は他の追随を許さない程のシェアを獲得し、さらに巨大な版元へと成長していった[31]。
しかし、天明2年(1782年)から続く大飢饉によって世情は不安定な状況であり、これを打破するため田沼意次に代わり老中となった松平定信は、天明7年(1787年)に寛政の改革を断行した[32]。飢饉に備えて質素倹約が奨励され、娯楽を含む風紀取締りも厳しくなった[32][2]。重三郎はこれを受けて朋誠堂喜三二作、喜多川行麿画の黄表紙『文武二道万石通』を翌天明8年(1788年)に上梓し、定信の改革を痛烈に風刺した[32]。馬琴の『近世物之本江戸作者部類』にはこの黄表紙が未曽有の売れ行きを見せたと記録されている[32]。その他、佐野政言と田沼意知の刃傷事件を取り扱った『時代世話二挺鼓』(山東京伝、天明8年)をはじめ、『鸚鵡返文武二道』(恋川春町、寛政元年)、『天下一面鏡梅鉢』(唐来参和、寛政元年)、『奇事中洲話』(山東京伝、寛政元年)といった政治風刺を含んだ黄表紙を相次いで制作し、発禁処分の扱いを受けた[32]。こうした事態を受けて幕府は寛政2年(1790年)に問屋、版元に対して出版取締り命令を下し、出版物の表現内容や華美な着色、装飾などに対して規制を強めていった[32]。
寛政3年(1791年)には山東京伝の黄表紙『箱入娘面屋人魚』、洒落本『仕懸文庫』『青楼昼之世界錦之裏』『娼妓絹籭』が摘発され[33]、京伝は手鎖50日、重三郎は重過料により身上半減の処分を受けた[2][注釈 4][注釈 5]。
喜多川歌麿『当時三美人』(寛政5年頃)。左からおひさ、おきた、おひな。
処罰を受けたことにより重三郎は、戯作の出版を控える方向に転換し、地本問屋だけでなく書物問屋としての出版事業の地固めを行うようになった[36]。重三郎は天明8年(1788年)頃よりいわゆる大衆向けの「地本」だけでなく、和算書や暦書、仏書、文法書、国学書といった「物之本」と呼ばれる硬派な学術書の出版を増やしていき、寛政3年(1791年)には書物問屋の株を取得し、書物問屋の組合である中通組に加入している[37]。
さらに、喜多川歌麿を大々的にプロモーションし、美人画の錦絵を多数刊行し、別分野からの巻き返しを企図した[36]。大首絵と呼ばれる顔を大きく捉えて半身や胸像の構図で表現する様式を美人画に初めて取り入れ、積極的に展開した[36]。歌麿は重三郎の意図を汲み取り、表情や仕草から画題となった女性の心情が思い浮かぶような、大衆の心を惹きつける作品を量産した[36]。市井で美人と評判の町娘などをモデルに採用し、特に浅草随身門脇の水茶屋「難波屋」のおきた、両国薬研堀米沢町の煎餅屋「高島長兵衛」の娘おひさ、吉原玉村屋抱えの芸者で浄瑠璃富本節の名取の富本豊雛は「寛政三美人」(または「当時三美人」)と呼ばれ、大いに流行した[36]。しかし、こうした隆盛に対し、当時の幕府は「一枚絵などに評判娘などの女の名前は入れてはいけない」といった町触れを出すなど、重三郎の動向に対して厳しい目を向けていた[38]。重三郎はこうした規制を回避するため、町娘の名を判じ絵にして刊行するなどの対策を行ったが、こうした趣向も寛政8年(1796年)には禁じられるようになった[39]。幕府の規制に対する考え方の違いなどにより重三郎と歌麿は次第に疎遠になっていき、その後の重三郎は東洲斎写楽を起用した役者絵へと傾注していくこととなる[39]。
東洲斎写楽『市川蝦蔵の竹村定之進』(寛政6年)。河原崎座で上演された『恋女房染分手綱』に取材し、竹村定之進を演じる市川蝦蔵を描いている。
現代においても謎の浮世絵師として多くの美術史家が様々な考察を巡らせている東洲斎写楽は、寛政6年(1794年)5月に江戸の歌舞伎である都座、桐座、河原崎座に取材し、大判大首絵二十八図を携えて大々的に画壇に登場した[40]。黒雲母摺の豪華な背景に主役級だけでなく端役も含めて取りそろえたラインナップには重三郎の役者絵に対する並々ならぬ執着が垣間見える[40]。しかしこの刊行は長くは続かず、翌年正月の第4期刊行を以て写楽を起用した役者絵刊行は終了した[41]。これは、写実的に役者の特徴を描き出そうとするあまり、役者の欠点的な特徴までもが強調される作風になっていたことが役者のファンや役者自身にとって不評だったためではないかと推察されており、当時の動向を見ていた大田南畝は自著『浮世絵類考』の中で「これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行われず、一両年にして止む。」と述べている[40]。
写楽を失った重三郎は歌麿との関係修復に尽力し、不採算事業の版木を売却するなど、寛政の改革によって吹き荒れる出版界の冬の時代を乗り越えようと悪戦苦闘していたが、寛政8年(1796年)の秋ごろより体調が悪化し、伏すようになった[42]。重三郎は寛政9年(1797年)5月6日に47歳で没した[43]。死因は馬琴の『近世物之本江戸作者部類』などから脚気と伝えられている[44]。馬琴は『近世物之本江戸作者部類』の中で「惜むべし、寛政九年の夏五月脚気を患ひて身まかりぬ。享年四十八歳なり」と重三郎の死を伝え、『自撰自集』の中で「夏菊にむなしき枕見る日かな」と、主が不在となった枕に哀愁の意を込めた重三郎を悼む歌を捧げている[45]。法名は幽玄院義山日盛信士で、吉原にほど近い台東区の正法寺に葬られた[43]。
馬琴に拠れば二代目蔦屋を襲名したのは日本橋周辺の版元伊賀屋勘右衛門の妻の従弟で、初代の番頭となった婿養子の勇助とされている[2][43]。二代目は書物問屋としての家業を中心に展開していたが、初代の時代から狙っていた浮世絵師葛飾北斎を起用した作品作りを本格化させていくこととなった[43]。初代没後の数年間で『男踏歌』(1798年)、『東遊』(1799年)、『東都名所一覧』(1800年)、『遠眼鏡』(1801年~1803年ごろ)、『絵本狂歌山満多山』(1804年)など、葛飾北斎の作品を立て続けに刊行している[46]。こうして重三郎が立ち上げた蔦屋は書物問屋、地本問屋として四代目(文久元年(1861年))まで続いた[2]。店舗は通油町から横山町一丁目、小伝馬町二丁目、浅草並木町雷門内、浅草寺中梅園院地借市右衛門と転々とし、菩提寺に残された過去帳によれば、五代目重三郎は小売のみの営業を明治初めまで続けていたとされる[47]。
年表
ここに取り上げた年表で特に脚注の無い記述は 田中優子『蔦屋重三郎 江戸を編集した男』の「関連年表」を参照している[48]。
寛延3年(1750年)1月7日、蔦屋重三郎、新吉原で誕生[49]。
宝暦7年(1757年・7歳)前年に実母が家を出たことにより、重三郎は喜多川氏の養子になる。
安永2年(1773年・23歳)新吉原の大門口五十間道に貸本、小売りの店舗を開店する。朋誠堂喜三二の洒落本『当世風俗通』刊行。
安永3年(1774年・24歳)吉原細見の改め『細見鳴呼御江戸』編纂に携わる。「蔦屋」の名で初めて北尾重政の評判記『一目千本』刊行。
安永4年(1775年・25歳)洒落本『青楼花色寄』刊行。吉原細見『籬の花』の刊行が始まる。
安永5年(1776年・26歳)北尾重政、勝川春章の彩色摺絵本『青楼美人合姿鏡』刊行。
安永6年(1777年・27歳)『明月余情』『手ごとの清水』[50]『娼妃地理記』刊行。
安永9年(1780年・30歳)朋誠堂喜三二の黄表紙、四方赤良の『虚言八百万八伝』などを刊行。
天明元年(1781年・31歳)志水燕十の黄表紙『身貌大通神畧縁記』刊行。作画を手掛けた北川豊章が初めて歌麿を名乗る。
天明3年(1783年・33歳)9月に日本橋通油町に進出し、耕書堂を開業する[26]。狂歌師としての活動を開始し、「蔦唐丸」を名乗る[26]。喜多川歌麿画の『燈籠番附 青楼夜のにしき』、四方赤良編の『通詩選笑知』刊行。吉原細見の株を独占し、『五葉松』を刊行する(序文は朋誠堂喜三二)[11][51]。
天明4年(1784年・34歳)北尾政演画の『吉原傾城新美人合自筆鏡』、四方赤良編の『通詩選』刊行。
天明5年(1785年・35歳)山東京伝の黄表紙『江戸生艶気樺焼』、洒落本『息子部屋』、狂歌集『故混馬鹿集』『狂歌百鬼夜狂』『夷歌連中双六』などを刊行。
天明6年(1786年・36歳)山東京伝の洒落本『客衆肝照子』、北尾政演画、宿屋飯盛編の狂歌絵本『吾妻曲狂歌文庫』、喜多川歌麿の絵入狂歌本『絵本江戸爵』刊行。
天明7年(1787年・37歳)山東京伝の洒落本『通言総籬』、喜多川歌麿の絵入狂歌本『絵本詞の花』、四方赤良編の狂歌集『狂歌才蔵集』、北尾政演画、宿屋飯盛編の狂歌絵本『古今狂歌袋』刊行。
天明8年(1788年・38歳)山東京伝の洒落本『傾城觿』、喜多川歌麿の絵入狂歌本『絵本虫ゑらみ』刊行。
寛政元年(1789年・39歳)喜多川歌麿画の『潮干のつと』刊行。恋川春町の黄表紙『鸚鵡返文武二道』刊行[26][注釈 6]。
寛政2年(1790年・40歳)山東京伝の『小紋雅話』、洒落本『傾城買四十八手』刊行。
寛政3年(1791年・41歳)山東京伝の黄表紙『箱入娘面屋人魚』、洒落本『仕懸文庫』『青楼昼之世界錦之裏』『娼妓絹籭』が摘発される。重三郎は身上半減の重過料が課される。
寛政4年(1792年・42歳)曲亭馬琴が番頭として蔦屋で働き始める。10月、母の津与が死去[53]。この年より翌年にかけて喜多川歌麿の美人大首絵を多数刊行。戯作制作を断念し、書物問屋として学術関連の書物刊行を始める[53]。
寛政5年(1793年・43歳)結婚を機に曲亭馬琴が退職[53]。
寛政6年(1794年・44歳)この年より翌年にかけて東洲斎写楽の役者絵を多数刊行。十返舎一九が蔦屋に寄宿、黄表紙『心学時計算』刊行。
寛政7年(1795年・45歳)版元蔦屋重三郎として確認されている最後の錦絵(東洲斎写楽作)が刊行[40]。本居宣長の随筆集『玉勝間』刊行[40]。
寛政9年(1797年・47歳)前年秋ごろより体調が悪化する[40]。3月危篤[54]。5月6日、脚気により死没。正法寺に葬られる[43]。
文久元年(1861年)蔦屋耕書堂廃業。
人物
山東京伝『吉原傾城新美人合自筆鏡』(天明4年)。吉原の裏舞台を画題に山東京伝画、太田南畝序、朱楽菅江跋で蔦屋の人脈を遺憾なく発揮して刊行した作品となった[55]。
性格
重三郎の性格について、江戸後期の叢書燕石十種の『戯作者小伝』の中で喜多川雪麿の話として次のように伝えられている[56]。
唐丸は頗侠気あり。故に文才ある者の若気に放蕩なるをも荷担して、又食客となして財を散ずるを厭はざれば、是がために身をたて名をなせし人々あり。蜀山老翁うた麿馬琴抔其中也。又己が名をあらはれたるも其人によりてなりとぞ。
— 『戯作者小伝』より[57]
これは絵師や作家などとパトロン型の付き合いを行っていたことを示しており、重三郎は才能に目を付けた場合は投資を惜しまない性格であったと言える[58]。具体的には喜多川歌麿や十返舎一九などが該当し、食客として自身の店で衣食住を世話した記録が残されている[58]。美術史家の松木寛は、自著の中で伝統的な版元であった西村屋与八と重三郎の、芸術家との付き合い方の違いを指摘している[59]。西村屋がその版元の権威と影響力を最大限に行使し、ともすれば殿様商売とも言えるような強気の姿勢で経営を行っていたのに対し[56]、重三郎は低姿勢で恩と縁を巧みに活用して経営を行っていた[58]。こうした交際に強い力を発揮したのが生来より強いコネクションのあった「吉原」で、重三郎は多数の芸術家、知識人と吉原で遊んだという記録が残されている[58]。松木はこうした「恩人」である重三郎の依頼を最大限に制作に転化したことで、蔦屋の出版物に秀作が多いという結果に繋がったのではないかと推論している[58]。
狂歌師の石川雅望は重三郎のことを「秀れた気性をもち、度量が大きく細かいことにこだわらず、人に対しては信義を尊重する。」と評価している[60]。歌麿や写楽の才能を発掘したり、南畝や京伝の傑作を生む下地を作るなど、文学や絵画に対する理解力は人並み以上に優れていたといえる[60]。
北尾重政『絵本吾妻抉』(寛政9年)。恵比寿に祈願する重三郎とその妻子。
家族
重三郎の出生について記した資料は先に述べた通り、石川雅望の『喜多川柯理墓碣銘』や大田南畝が浅草正法寺に建てた実母顕彰碑文であるが、どちらも震災や戦災の影響で実物は失われている[61]。しかし、江戸後期の儒者である原念斎が著した『史氏備考』に『喜多川柯理墓碣銘』が転写されていたことから、その記述をもとに研究が進められた[62]。
これらの記述から、父親は尾張から江戸へ出てきた丸山重助、母は江戸に住む広瀬津与とされている[6]。兄弟があったかどうかについては不明となっている[6]。その後重三郎は喜多川氏へ養子へ行くことになるが、後年、日本橋通油町に進出した後に父母を迎え入れていることから、良好な親子関係であったことが推察される[60]。母の津与は教育熱心であったとされ、大田南畝の碑文には母の教育により強い意志を持ったことが重三郎の成功の一因だったと記されている[63]。なお、重三郎の養子先の喜多川氏(蔦屋)については、どのような商いを行っていたかは明らかではなく、養父については吉原仲之町の茶屋「蔦屋利兵衛」や吉原江戸町二丁目の「蔦屋理右衛門」などの説が推察されているが、確証には至っていない[60][63]。
また、重三郎自身に妻子がいたかどうかついての詳細はわかっていない[64]。二代目を継いだ番頭の勇助が養子になったとみられる[47]。歴史学者安藤優一郎の書籍には、重三郎の死に際に別れの言葉を交わしたこと、文政8年(1825年)に妻が死去したことが記されており[65]、正法寺の過去帳に記された「錬心妙貞日義信女 文政8年10月11日」が重三郎の妻にあたると見られている[47]。
『吾妻曲狂歌文庫』より四方赤良と朱楽菅江。
主要関係人物
狂歌師
四方赤良
大田南畝、杏花園、四方山人、蜀山人などと号した狂歌師、戯作者で、蔦屋からは『狂歌狂文 老莱子』『狂歌新玉集』『狂歌才蔵集』を始め多数の狂歌本、黄表紙を刊行したほか、序文や跋文を寄せるなど幅広い活躍を見せた[31]。その他、蔦屋の墓碑に撰文を寄稿するなど、深い関係性がうかがえる[31]。内山椿軒門下で、唐衣橘洲、朱楽菅江らとともに天明狂歌三大家と称された[66]。
唐衣橘洲
酔竹庵と号した四方赤良の同門で、四谷連の中心人物として活躍した狂歌師[66]。蔦屋からは『俳優風』『狂歌初心抄』『狂歌部領使』などの撰者として記録されている[66]。
朱楽菅江
准南堂、貫立、朱楽館などとも号した朱楽連を率いた内山椿軒門下の狂歌師で、洒落本の刊行も行っている[66]。蔦屋からは『鸚鵡盃』『潮干のつと』を始め多数の狂歌本、狂詩本、洒落本を刊行している他、序跋寄稿も多く残されている[66]。
宿屋飯盛
石川雅望、六樹園、五老斎などと号した狂歌師、戯作者で、蔦屋からは『吾妻曲狂歌文庫』『古今狂歌袋』『絵本虫ゑらみ』『龢謌夷』などを刊行している[66]。
鹿津部真顔
恋川春町に師事して黄表紙などを制作していたが、四方赤良に習い狂歌師として四方連を率いた狂歌師で、蔦屋からは『狂歌網雑魚』『狂歌才蔵集』『狂歌部領使』などに撰者として参加している[66]。
『吾妻曲狂歌文庫』より恋川春町(酒上不埒は狂歌師名)。
戯作者
朋誠堂喜三二
久保田藩江戸留守居役、平沢常富の号で、他に手柄岡持、気三次、道陀楼、韓長齢などと号した[67]。安永以降、蔦屋から多数の黄表紙を刊行し、恋川春町とともに蔦屋の双璧と称されたが、天明8年に刊行した『文武二道万石通』が絶版となったことで藩主の命により筆を断った[67]。
恋川春町
鱗形屋孫兵衛の刊行した黄表紙『金々先生栄華夢』で一躍人気となり、黄表紙というジャンルを開拓した戯作者で、挿絵や狂歌も嗜んだ[67]。他に寿山人、寿亭などとも号し、多数の黄表紙を蔦屋から刊行したが、寛政元年の『鸚鵡返文武二道』が寛政の改革を風刺したとして発禁となり幕府から呼び出しを受けるも応じず、死没した[67]。
山東京伝
北尾政演と号して浮世絵の制作も手掛けた戯作者で、蔦屋からは多数の黄表紙、洒落本を刊行し、『江戸生浮気樺焼』『息子部屋』『総籬』などがその代表作として知られる[67]。寛政3年に刊行した『仕懸文庫』『青楼昼之世界錦之裏』『娼妓絹籭』などが摘発され、手鎖五十日の刑に処されたが、その後も活発な制作活動を続けた[67]。
唐来参和
武士の出であったが放浪の身となり、後に重三郎の義弟になったとされる戯作者[68]。他に唐来山人、唐来参人、伊豆亭などとも号したほか、四方赤良の門人となり質草少々として狂歌も嗜んだ[68]。志水燕十と同一人物とする説もある[68]。『通神孔釈 三教色』を蔦屋から刊行して以降、寛政末まで多数の黄表紙を刊行した[68]。
曲亭馬琴
10歳で滝沢家を継いで浪々としていたが、山東京伝に弟子入り後、重三郎に認められて蔦屋の番頭になった[68]。蔦屋退職後から本格的に戯作者として活動を開始し、黄表紙などを刊行した[68]。他に蓑笠翁、信天翁、大栄山人、著作堂主人などとも号した[68]。文化年間に発表した読本『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』などで大家として名を成した[68]。
十返舎一九
素性は諸説あり定かではないが、『初役金烏帽子魚』で京伝の黄表紙に挿絵を描くなどしている他、『心学旹計草』『新鋳小判𫆓』『奇妙頂礼胎錫杖』などを蔦屋から刊行しており、この頃から蔦屋に寄宿していたとみられる[68]。享和2年から刊行を始めた『東海道中膝栗毛』で名が知られるようになった[69]。
鳥文斎栄之による『喜多川歌麿肖像』(1815年)。
浮世絵師
喜多川歌麿
鳥山石燕に師事した浮世絵師で、豊章と号して役者絵などを描いていたが、蔦屋で『身貌大通神畧縁記』に挿絵を描いて以降、歌麿と改号した[70]。天明3年ごろより蔦屋に寄宿していたとみられ、一時期は蔦屋の専属絵師として多数の挿絵や錦絵を制作していた[70]。寛政3年ごろより制作しはじめた美人大首絵によって美人画家の第一人者と目されるようになった[70]。
東洲斎写楽
寛政6年5月から翌1月にかけて149作品もの役者絵を蔦屋から一気刊行した浮世絵師であるが、その伝歴は不明なままとなっている[70]。
北尾重政
独学で浮世絵を学んだ絵師で、蔦屋最初の刊行本『一目千本』を出すなど、蔦屋との関係は深く、北尾一派で多数の作品を刊行している[70]。
北尾政美
北尾重政の門人であり、鍬形蕙斎の名でも知られる浮世絵師で、寛政6年まで毎年多数の黄表紙の挿絵を担当した[70]。
窪俊満
北尾重政の門人であり、石川雅望に師事して狂歌も嗜んだ浮世絵師である[71]。蔦屋では黄表紙や狂歌本の挿絵を担当したほか、錦絵『六玉川』を制作した[71]。
評価と影響
多数の作家、絵師を世に送り出し、後世に残る作品を数多く刊行した重三郎について、文学研究者の鈴木俊幸は「当時を代表する錦絵や草紙類を世に出したというだけではなく、文芸の史的展開に深く関与したという点でも注目すべき板元」であると評している[4]。一方で商人として見た場合は個々の事業における具体的な売り上げが不透明である点などから評価をつけることは困難であると指摘している[72]。
また、歴史学者の渡邊大門は、「多くの戯作者や絵師らとの交流を通して、稀代のプロデューサーとなった」と評し、庶民に飽きられないよう流行の最先端を追い求め、新しいもの、おもしろいものに積極的に飛びつき、形にしていった人物であるとしている[73]。美術史家の狩野博幸は、須原屋市兵衛と並ぶ江戸を代表する版元であったと評したうえで、天明後期から寛政中期の江戸文化界を席巻したと賞賛している[5]。浮世絵研究者の小林忠は、歌麿や写楽、馬琴、十返舎一九といった多くの逸材を世に送り出し、時代の嗜好を適切に読み取る企画力を持った版元であったとし、その実績は幕府が出版統制の見せしめとして槍玉にあげるほどであったと評している[74]。同じく浮世絵研究者の田辺昌子は、同じような仕事を行った版元が多数いたが、当時も今も蔦屋重三郎ほど注目を集めた版元はいないと断言したうえで、他の版元との違いについて指摘している[75]。
その他、作家の増田晶文は重三郎について「彼ほどカタカナ業種がぴったりくる江戸人は珍しい」と評したうえでその能力を現代の職業に転換し、パブリッシャーとエディター、プランナー、スカウトマンなどを兼務した「江戸のメディア王」であると評している[76]。重三郎を主役としたNHKの大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』や主要人物として描かれる映画『HOKUSAI』で時代考証に携わった歴史作家の山村竜也は、江戸時代に流行した黄表紙を漫画の元祖であるとし、盛り上がりを見せる出版界に彗星のごとく登場し、先頭に立って牽引した人物が重三郎であると評している[77]。日本人であるなら知らない者はいないほど著名な歌麿と写楽という巨匠を世に送り出したことが重三郎の最大の功績であるとし、江戸文化史において欠くことのできない人物の一人であるとした[78]。
主要刊行作品
ここに取り上げた作品で特に脚注の無い記述は太田記念美術館『蔦屋重三郎と天明・寛政の浮世絵師たち』の「耕書堂・蔦屋重三郎版本総目録(未定稿)安永3年~寛政10年迄」を参照している[79]。
版本
吉原細見
『籬の花』(安永4年)
『籬の花 後編 深見艸』(安永4年、三升菴金鯉 述、哥川國満 画)
『名華選』(安永5年、柳栢山人 序、春章 画)、1776年。
『〈吉原細見〉家満人言葉 : 吉原細見やまとことば』(安永5年、柳栢山人序、春章画)
『四季の太夫』(安永6年、春章画)
『三津の根色』(安永6年、柳白散人序、しゅんせう画)
『人来鳥』(安永7年、朋誠堂序、けいし画)
『秋の夕栄』(安永8年、朋誠堂序)
『五街の松』(安永9年、朋誠堂序)
『勝良影』(安永9年、朋誠堂序)
『身通の始』(天明元年、朋誠堂序)
『人松島』(天明2年、朋誠堂序)
『饒の貢』(天明2年、朋誠堂序)
『新吉原細見』(天明3年~寛政2年、寛政4年~5年)[注釈 7]
『吉原細見五葉松』(天明4年、朋誠堂序)
『吉原細見』(寛政3年、寛政6年~寛政10年)
黄表紙
『通者云此事』(安永9年、政演画)
『鐘入七人化粧灑返柳黒髪』(安永9年、喜三二作、重政画)
『鐘入七人化粧 : 3巻』(安永9年、喜三二作、重政画)
『廓花扇観世水』(安永9年、喜三二作、政演画)
『竜都四国噂』(安永9年、喜三二作)
『虚言八百万八伝』(安永9年、四方屋本太郎作、鳥居清経画)
『夜野中狐物』(安永9年、王子風車作、政演画)
『伊達模様 見立蓬莱』(安永9年)
『威気千代牟物語』(安永9年)
『嗚呼不尽 世之助噺』(安永10年、喜三二門人婦人亀遊作、鳥居清長画)
『見徳一炊夢』(安永10年、喜三二作、重政画)
『漉返柳黒髪』(天明元年、喜三二作、重政画)
『其後瓢様物』(天明元年、風車作、政演画)
『運開扇子花』(天明元年、喜三二作、政演画)
『息子妙薬一流萬金談』(天明元年、喜三二作、政演画)
『身貌大通神畧縁記』(天明元年、志水燕十作、忍岡哥麿画)[注釈 8]
『我類人正直』(天明2年、恋川春町作画)
『雛形意気真顔』(天明2年、恋川春町作画)
『網大茲大悲換玉』(天明2年、喜三二門人宇三太作、重政画)
『芳野の由来』(天明2年、南陀伽紫蘭作、政演画)
『恒例形間違曽我』(天明2年、喜三二作、重政画)
『景清百人一首』(天明2年、喜三二作、重政画)
『三太郎天上廻』(天明3年、喜三二作、重政画)
『誤興大和功』(天明3年、喜三二作、重政画)
『廓𦽳費字儘』(天明3年、恋川春町作画)
『猿蟹遠昔噺』(天明3年、恋川春町作画)
『啌多雁取帳』(天明3年、奈蒔野馬乎人作、忍岡哥麿画)
『源平惣勘定』(天明3年、四方山人作、忍岡哥麿画)
『万載集著微来歴』(天明4年、恋川はる作画)
『梶原再見 二度の賭』(天明4年、四方作、うた麿画)
『漢国無体 此奴和日本』(天明4年、四方作、北尾政美画)
『君大判秘蔵小判 八重山吹色都』(天明4年、四方赤良作、北尾政美画)
『太平記万八講釈』(天明4年、喜三二作、重政画)
『大千世界牆の外』(天明4年、唐来参和作、重政画)
『従夫以来記』(天明4年、竹杖為軽作、うた麿画)
『化物二世物語』(天明4年、志水ゑん十作)
『亀遊書双帋』(天明4年、喜三二門人婦人亀遊作、哥麿画)
『大通箱入之疳癪』(天明5年、恋川春町作画)
『蛸入道佃沖』(天明5年、喜三二作、哥麿画)
『長者の飯食』(天明5年、すきまち作、喜田川哥麿画)
『元利安売鋸商内』(天明5年、恋川好町作、哥麿門人千代女画)
『嘘皮初音鼓』(天明5年、桜川杜芳作、喜多川千代女画)
『向島佐々木久物』(天明5年、喜三二作、喜多川行麿画)
『鬼堀大通話』(天明5年、喜三二作、哥麿門人行麿画)
『八被般若角文字』(天明5年、京伝作、まさのぶ画)
『侠中侠悪言鮫骨』(天明5年、京伝作、政演画)
『天地人三階図絵』(天明5年、山東京伝作、政演画)
『大悲千禄本』(天明5年、芝全交作、まさのぶ画)
『売鉄砲排灯具羅』(天明5年、竹杖為軽作、まさのぶ画)
『新義経細見蝦夷』(天明5年、万象作、まさのぶ画)
『頼光邪魔入』(天明5年、唐来参和作、北尾政美画)
『雙帋五牒夢』(天明5年、唐来参和作、北尾政美画)
『昔々噺問屋』(天明5年、恋川すき町作、北尾政美画)
『涎繰当字之清書』(天明5年、恋川好町作、北尾政美画)
『莫切自根金生木』(天明5年、唐来参和作、千代女画)
『書集芥の川々』(天明5年、唐来参和作、道麿画)
『四牒半飛令茶人』(天明5年、恋川好町作)
『梅花おりは乞目』(天明5年、鹿津部真顔作、北尾政美画)
『其由来光徳寺門』(天明5年、四谷牛後作、栄し画)
『上州七小町』(天明6年、喜三二作、北尾政美画)
『通町御江戸鼻筋』(天明6年、唐来参和作、北尾政美画)
『天道大福帳』(天明6年、喜三二作、北尾政美画)
『手練偽なし』(天明6年、四方山人作、北尾政美画)
『明七変目景清』(天明6年、山ひがし京伝作、まさのぶ画)
『江戸春一夜千両』(天明6年、京伝作、北尾政美画)
『去程扨其後』(天明6年、唐来参和作、北尾政美画)
『通言武者揃』(天明6年、芝全交作、重政画)
『仮名手本混曽我』(天明6年、万象亭作、北尾政美画)
『持来糠長目』(天明6年、好町作、北尾政美画)
『鳩八幡豆兼徳利』(天明6年、好町作画)
『亀山人家妖』(天明7年、喜三二作、重政画)
『三筋緯客気植田』(天明7年、京伝作、政演画)
『王札附息質』(天明7年、唐来参和作、北尾政美画)
『芝全交智恵之程』(天明7年、芝全交作、まさのぶ画)
『御年玉』(天明7年、万象作、式亭柳郊画)
『日本一癡鑑』(天明7年、万葉亭好町作、北尾政美画)
『鬼堀大通語』(天明7年、朋誠堂喜三二作、喜多川行麿画)
『嶋台眼正月』(天明7年、社楽斎万里作、まさのぶ画)
『悦贔屓蝦夷押領』(天明8年、恋川春町作、北尾政美画)
『文武二道万石通』(天明8年、喜三二作、歌挺門人行麿画)
『狂言末広栄』(天明8年、京伝作、うた麿画)
『時代世話二挺鼓』(天明8年、京伝作、哥麿門人行麿画)
『模文画今怪談』(天明8年、唐来山人作、ゑいし画)
『雪女廓八朔』(天明8年、京伝門人山東唐洲作、哥麻呂画)
『吉野屋酒楽』(天明8年、京伝作、北尾政美画)
『鸚鵡返文武二道』(寛政元年、春町作、北尾政美画)
『奇事中洲話』(寛政元年、京伝作、北尾政美画)
『早道節用守』(寛政元年、京伝作、政演画)
『嗚呼奇々羅金鶏』(寛政元年、山東京伝作、うた麿画)
『照子浄頗梨』(寛政元年~2年、山東京伝作、政演画)
『天下一面鏡梅鉢』(寛政元年、唐来参和作、栄松斎長喜画)
『冠言葉七目十二支記』(寛政元年、東来三和作、哥麿画)
『玉麿青砥銭』(寛政2年、京伝作、うた麿画)
『雄長老寿話』(寛政2年、定丸謹作、うた麿画)
『即席耳学問』(寛政2年、通笑作、北尾政美画)
『忠孝遊仕叓』(寛政2年、通笑作、うた麿画)
『本樹真猿浮気噺』(寛政2年、蔦唐丸作、喜多川歌麿画)
『箱入娘面屋人魚』(寛政3年、京伝作、歌川豊国画)
『蘆生夢魂其前日』(寛政3年、京伝作、重政画)
『人間一生胸算用』(寛政3年、京伝作画)
『世上洒落見絵図』(寛政3年、京伝作、菊亭主人画)
『花春虱道行』(寛政4年、馬琴作、勝川春朗画)
『桃太郎発端話説』(寛政4年、京伝作、春朗画)
『実語教幼稚講釈』(寛政4年、京伝作、春朗画)
『梁山一歩談』(寛政4年、京伝作、紅翠斎画)
『天剛垂楊柳』(寛政4年、京伝作、紅翠斎画)
『貧福両道中之記』(寛政5年、京伝作、春朗画)
『四人詰南片傀儡』(寛政5年、京伝作、重政画)
『先開梅赤本』(寛政5年、京伝作、重政画)
『宿昔語笔操』(寛政5年、京伝作、重政画)
『江戸生浮気樺焼』(寛政5年、京伝作、政演画)
『登坂宝山道』(寛政5年、曲亭作、北尾政美画)
『荒山水天狗鼻祖』(寛政5年、馬琴作、北尾政美画)
『世上廻親子銭独楽』(寛政5年、唐来三和作、重政画)
『花之笑七福参詣』(寛政5年、山東京伝作、重政画)
『早道節用守』(寛政5年、京伝作、重政画)
『人唯一心命』(寛政5年、唐来舎三和作、勝川春英画)
『再会親子銭独楽』(寛政5年、三和作、政よし画)
『三筋緯客気植田』(寛政5年、京伝作、政演画)
『堪忍袋緒〆善玉』(寛政5年、京伝作、重政画)
『小人国毇桜』(寛政5年、京伝作、重政画)
『智恵次第箱根詰』(寛政5年、春道草樹作、春朗画)
『忠臣蔵前世幕無』(寛政6年、京伝作、重政画)
『根無草笔芿』(寛政6年、京伝作、重政画)
『金々先生造化夢』(寛政6年、京伝作、重政画)
『福寿海旡量品玉』(寛政6年、曲亭馬琴作、勝川春朗画)
『高慢斎行脚日記』(寛政6年、恋川春町作画)
『三福対紫曽我』(寛政6年、恋川春町作画)
『親敵打腹鼓』(寛政6年、喜三二作、恋川春町画)
『鼻峯高慢男』(寛政6年、喜三二作、恋川春町画)
『長生見度記』(寛政6年、喜三二作、恋川春町画)
『太平記万八講釈』(寛政6年、喜三二作、重政画)
『天道大福帳』(寛政6年、喜三二作、北尾政美画)
『夫従以来記』(寛政6年、竹杖為軽作、うた麿画)
『初役金烏帽子魚』(寛政6年、山東京伝作、一九画)
『善悪邪生大勘定』(寛政7年、三和作、重政画)
『心学旹計草』(寛政7年、十遍舎一九作画)
『新鋳小判𫆓』(寛政7年、十遍舎一九作画)
『奇妙頂礼胎錫杖』(寛政7年、一九作画)
『諺下司話説』(寛政8年、京伝作、重政画)
『人心鏡写絵』(寛政8年、京伝作、重政画)
『四遍摺心学草帋』(寛政8年、曲亭馬琴作、重政画)
『化物小遣帳』(寛政8年、一九作画)
『化物年中行状記』(寛政8年、一九作画)
『怪談筆始』(寛政8年、一九作画)
『昔語狐娶人』(寛政8年、菊丸門人誂々道景則作、重政画)
『花闘戦梅魁』(寛政8年、笑丸作画)
『星兜八声凱』(寛政8年)
『和荘兵衛後日話』(寛政9年、京伝作、重政画)
『虚生実草紙』(寛政9年、京伝作、重政画)
『竜宮苦界玉手箱』(寛政9年、曲亭馬琴作、重政画)
『北国順礼唄方便』(寛政9年、馬琴作、重政画)
『楠正成軍慮智輪』(寛政9年、曲亭馬琴作、重政画)
『彦山権現誓助剣』(寛政9年、傀儡子作、重政画)
『武者合天狗俳諧』(寛政9年、傀儡子作、重政画)
『身体開帳略縁起』(寛政9年、蔦唐丸作、重政画)
『弌刻価万両回春』(寛政10年、京伝子作、重政画)
『凸凹話』(寛政10年、京伝子作、重政画)
『家内手本用心蔵』(寛政10年、唐来三和作、子興画)
『曽我物語嘘実録』(寛政10年、三和作、重政画)
『大雑書抜萃縁組』(寛政10年、曲亭馬琴作、重政画)
『鼻下長生薬』(寛政10年、曲亭馬琴作、重政画)
『増補獮猴蟹合戦』(寛政10年、曲亭門人傀儡子作、重政画)
『賽山伏批狐修怨』(寛政10年、唐丸子作、重政画)
『須臾之間方』(寛政10年、故人恋川春町作、重政画)
『唐来参和名剣徳』(刊年未詳、柳原向作、栄し画)
『江戸生艶気樺焼』(刊年未詳、京伝作、重政画)
『江戸春一夜千両』(刊年未詳、京伝作、まさのぶ画)
『三筋緯客気植田』(刊年未詳、京伝作、政演画)
『狂言末広栄』(刊年未詳、京伝作、うた麿画)
『時代世話二梃鞁』(刊年未詳、京伝作、哥麿門人行麿画)
『奥州源氏忠臣録』(刊年未詳)
『敵打羽宮物語』(刊年未詳、富川吟雪作画)
『鞍馬山天狗礫』(刊年未詳)
『吹童子』(刊年未詳)
『渋谷金王出世桜』(刊年未詳)
『桃太郎昔噺』(刊年未詳)
『静一代記』(刊年未詳、鳥居清長画)
『阿部晴明一代記』(刊年未詳)
『実盛一代記』(刊年未詳)
『西行法師一代記』(刊年未詳)
『仙台萩東伽羅男』(刊年未詳)
『苅萱一代記』(刊年未詳、鳥居喜満画)
『人麿一代記』(刊年未詳、鳥居喜満画)
『二代鉢之木』(刊年未詳、鳥居喜満画)
『面向不背珠』(刊年未詳)
『大江山 酒呑童子』(刊年未詳)
『三廻縁組帯』(刊年未詳)
狂歌本
『狂歌網雑魚』(天明3年、赤松金鶏詠)
『浜のきさこ』(天明3年、四方赤良編)
『通詩選笑知』(天明3年、四方山人編)
『前編栗の本 大本の生限』(天明4年、宿屋飯盛編、北尾政美画)
『後編栗の本 太の根』(天明4年、うた麻呂画)
『年始御礼帳』(天明4年、哥麿門人千代女画)
『早来恵方道』(天明4年、北尾政美画)
『金平子供遊』(天明4年、四方赤良序、歌麿門人千代女画)
『道外百人一首』(天明4年)
『狂歌狂文 老莱子』(天明4年、四方山人著)
『いたみ諸白』(天明4年、朱楽菅江撰)
『通詩選』(天明4年、四方山人編)
『故混馬鹿集』(天明5年、漢江撰)
『狂哥天河』(天明5年、古瀬勝雄、飛塵馬蹄編)
『狂歌百鬼夜狂』(天明5年、平秩東作編)
『十才子名月詩集』(天明5年、宿屋飯盛編)
『狂歌新玉集』(天明6年、四方赤良撰)
『俳優風』(天明6年、朱楽菅江編、頭光画)
『高橋琳李古稀賀集』(天明6年)
『吾妻曲狂歌文庫』(天明6年、宿屋飯盛撰、政演画)
『絵本江戸爵』(朱楽館主人 著、蔦唐丸 編、喜多川歌麿 画)、1786年(天明6年) エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明)。
『絵本吾妻からげ』(天明6年、書林から丸編、重政画)
『絵本八十宇治川』(天明6年、四方山人編、北尾紅翠斎画)
『千里同風』(天明7年、四方山人撰)
『狂歌才蔵集』(天明7年、四方赤良撰)
『古今狂歌袋』(天明7年、宿屋飯盛撰、政演画)
『絵本詞の花』(天明7年、重三郎編、喜多川歌麿画)
『狂歌芋の葉』(天明7年、赤良撰)
『鸚鵡盃』(天明8年、朱楽菅江撰)
『狂歌 すきや風呂』(天明8年、真顔編)
『画本虫ゑらみ』(天明8年、宿屋飯盛撰、喜多川歌麿画)
『絵本百千鳥1』(天明8年、赤松金鶏撰、喜多川歌麿画)
『絵本百千鳥2』(天明8年、赤松金鶏撰、喜多川歌麿画)
『絵本譬喩節』(寛政元年、つふり光作、喜多川哥麿画)
『龢謌夷』(寛政元年、宿屋飯盛撰、喜多川哥麿画)
『狂月望』(寛政元年、紀定丸撰、喜多川歌麿画)
『絵本百囀』(寛政元年、奇々羅金鶏撰、喜多川哥麿画)
『普賢像』(寛政2年、つふり光序、喜多川歌麿画)
『狂歌初心抄』(寛政2年、唐衣橘洲作)
『絵本吾妻遊』(寛政2年、歌麿画)
『絵本駿河舞』(寛政2年、喜多川歌麿画)
『銀世界』(寛政2年、宿屋飯盛撰、喜多川歌麿画)
『絵本あまの川』(寛政2年、宿屋飯盛撰、喜多川歌麿画)
『狂歌新玉集』(寛政3年、鹿津部真顔編)
『狂歌部領使』(寛政3年、唐衣橘洲、宿屋飯盛他編)
『絵本福寿草』(寛政3年、寝語軒美隣編、北尾紅翠斎画)
『狂歌上段集』(寛政5年、桑楊庵編)
『どうれ百人一首』(寛政5年、鹿都部真顔編、政演画)
『癸丑春帖』(寛政5年、桑楊庵光編、等琳他画)
『新古今狂歌集』(寛政6年、もとのもくあみ編)
『四方の巴流』(寛政7年、狂歌堂撰、蕙斎政美他画)
『春の色』(寛政7年、桑楊庵編、窪俊満他画)
『花ぐはし』(寛政7年、鹿津部真顔撰、重政画)
『二妙集』(寛政7年、酔竹園橘洲編、北尾紅翠斎画)
『狂歌立春抄』(寛政8年、元杢網撰)
『金撰狂歌集』(寛政8年、黒羽二亭金埒撰、蕙斎政美画)
『狂歌かひあはせ』(寛政8年、巴水亭貞三他撰、探泉画)
『百さへつり』(寛政8年、後巴人亭光編、窪俊満他画)
『狂歌柳の絲』(寛政9年、浅草庵撰、北斎宗理他画)
『晴天戦歌集』(寛政9年、後巴人亭光編、哥麿画、仁義道守画)
『男踏歌』(寛政10年、浅草菴撰、北斎宗理他画)
『言葉のもとすゑ』(寛政10年、元木網編)
『狂歌春輿』(刊年未詳、有耳亭常恒画)
『百千鳥』(刊年未詳、赤松金鶏序、勝川春潮画)
『絵本千代の秋』(刊年未詳、狂夫金鶏序、勝川春潮画)
『絵本紅葉橋』(刊年未詳、金鶏序、勝川春潮画)
『潮干のつと』(あけら菅江 編、喜多川歌麿 画)、寛政初期 エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明)。
洒落本
『青楼花色寄』(安永4年)[80]
『娼妃地理記』(安永6年、道蛇楼麻阿作)
『大通客 一騎夜行』(安永9年、志水燕十作)
『大通人好記』(安永9年、在原持麿作)
『東西南北 突当富魂短』(天明元年、西奴作)
『滸都酒美撰』(天明3年、志水燕十作)
『通神孔釈 三教色』(天明3年、唐来参和作、うた麿画)
『傾情手管 智恵鑑』(天明3年、雲楽山人作、忍岡うた麿画)
『彙軌本紀』(天明4年、島田金谷作)
『息子部屋』(天明5年、京伝作、まさのぶ画)
『和唐珎解』(天明5年、唐来参和作)
『客衆肝照子』(天明6年、山東京伝作、政演画)
『総籬』(天明7年、山東京伝作、山東けいこう画)
『野夫鑑』(天明7年、東湖山人作、哥麻呂画)
『吉原やうし』(天明8年、山東京伝作)
『傾城觿』(天明8年、山東京伝作画)
『曽我糖袋』(天明8年、唐洲作、うた麿画)
『女郎買之糖呆増汁』(天明8年、赤蜻蛉作、千杏画)
『新造図彙』(寛政元年、山東京伝作画)
『傾城買四十八手』(寛政2年、山東京伝画)
『仕懸文庫』(寛政3年、山東京伝作、山東画)
『娼妓絹籭』(寛政3年、山東京伝作)
『錦之裏』(寛政3年、山東京伝作、山東画)
『古契三娼』(刊年未詳、山東京伝作、政演画)
『夜半の茶漬』(刊年未詳、山東鶏告作、山東唐洲作、京伝画)
『田舎芝居』(刊年未詳、万象亭作)
『浮世仮宅夕口舌』(刊年未詳、赤蜻蛉作、千杏画)
『役者三台図会』(刊年未詳)
噺本
『現金安売ばなし』(安永4年、蔦唐丸作、鳥居清経画)
『青楼吉原咄』(安永8年、黒蝶亭可立作)
『気のくすり』(安永8年、黒狐通人作)
『舛落はなした子』(安永9年、黒蝶亭可立作)
『口合はなし目貫』(安永9年、黒蝶亭可立作)
『柳巷訛言』(天明3年、物からのふあんど作、恋川はる町画)
『落咄人来鳥』(天明3年、清遊軒作、政演画)
『わらふ門』(天明6年、清遊軒編、北尾政美画)
『夷可美』(天明6年、莞津喜笑顔編、北尾政美画)
『わらひ男』(天明6年、うき世伊之介編、北尾政美画)
『笑袋』(天明6年、北尾政美画)
『笑南枝』(天明6年、北尾政美画)
『御臍の煮花』(寛政元年、莞津喜笑顔作、北尾政美画)
『新米牽頭持』(寛政元年、清遊軒作、北尾政美画)
『炉開噺口切』(寛政元年、うき世伊之介作、うた麻呂画)
『樽酒聞上手』(寛政元年、哥麿門人千代女画)
『太郎花』(寛政元年、京伝作、北尾政美画)
『福種笑門松』(寛政2年、山東京伝作、うた麿画)
『冨貴樽』(寛政4年、曼鬼武作)
『笑府衿裂米』(寛政5年、曲亭馬琴作、北尾政美画)
『梅の笑』(寛政5年、村瓢子作)
『華ゑくほ』(寛政5年、おに武作)
『落はなし』(寛政6年、蔦重編、北尾政美画)
『落はなし』(寛政6年、恒斎編、まさのぶ画)
『おとし咄紙鳶』(寛政6年、恒斎編、まさのぶ他画)
『滑稽即興噺』(寛政6年、山東京伝編)
『かうとくじ』(寛政7年、栄し画)
『落咄人来鳥』(寛政7年、清遊軒作、政演画)
『落噺百囀』(寛政7年、清遊軒作、政演画)
『一雅三笑』(刊年未詳)
『おとし咄の問屋』(刊年未詳、唐丸作、北尾政美画)
『戯話睦通記』(刊年未詳、竹杖為軽作、うた麿画)
『落咄 きゝもの』(刊年未詳、まさのぶ画)
評判記
『一目千本』(安永3年、紅塵陌人序、重政画)[注釈 9]
『急戯花の名寄』(安永4年、耕書堂序)
『江戸しまん評判記』(安永6年、柳荷五瀾作)
『燈籠番附 青楼夜のにしき』(天明3年、喜多川歌麿画)
『古今いろは評林』(天明5年、八文舎自笑作)
『青楼夜のにしき』(天明5年)
『よるのにしき』(刊年未詳)
滑稽本
『指面草』(天明6年、山東京伝作、まさのぶ画)
『小紋新法』(天明6年、山東京伝作、政演画)
『初衣抄』(天明7年、京伝作、政演画)
『小紋雅話』(寛政2年、山東京伝作画)
『松魚智慧袋』(寛政5年、山東京伝作画)
俳諧本
『鶉衣』(天明8年、横井也有作)
『鶉衣』(寛政元年、半掃庵他作)
『絵本多能志美種』(寛政8年、一陽井編、清泉画)
『絵本許の色』(刊年未詳、一陽井素外序、門生花藍画)
『絵本花累葉』(刊年未詳、雪中庵序、北尾紅翠斎画)
『絵本玉池水』(刊年未詳、谷素外編、北尾氏画)
『絵本世吉の物競』(刊年未詳、素外編)
『絵本琵琶海』(刊年未詳、雪中庵完来編、重政画)
読本
『青楼奇事 烟花清談』(安永5年、葦原駿守中作、鄰松画)
『通俗醒世恒言』(寛政2年、南畝序、逆旅主人作)
『高尾船字文』(寛政8年、曲亭馬琴作、長喜画)
『指面草』(刊年未詳、山東京伝作)
川柳本
『古今前句集』(寛政9年)
和歌本
『万葉集略解』(寛政8年、橘千蔭作)
狂歌俳諧本
『麦生子』(天明7年、四方山人等序、歌麻呂他画)
『友なし猿』(寛政9年、白猿詠、三升画)
狂詩本
『通詩選諺解』(天明7年、四方山人編)
狂文
『四方のあか』(天明8年、宿屋飯盛序、四方山人作)
謡曲
『小謡百二十番』(寛政6年)
浄瑠璃本
『夏衣裳鴈染』(刊年未詳)
随筆
『玉かつま』(寛政7年、本居宣長作)
『乗穂録』(寛政8年、岡田挺子編)
絵本物
『商家必要 万手形案文』(寛政7年)
生花本
『手ごとの清水』(安永6年、清水景澄作、重政画)
類書
『彼此合符』(寛政8年、岡田挺子編)
和算本
『利得算法記大成』(天明8年、志水裡町斎撰)
暦本
『暦日諺解』(寛政元年、平安柳精子作)
『こよみ便覧』(寛政5年、太玄斎著)
『こよみ便覧』(寛政10年)
仏書
『解難 釜斯幾』(寛政5年、烏有道人作)
儒教書
『考経平仮名附』(寛政9年、石川雅望作)
『考経小解』(刊年未詳、熊沢了海作)
文法
『文字竅』(寛政6年、石成金天基作)
国学
『出雲国造神寿後釈』(寛政8年、本居宣長)
辞書
『常語藪』(寛政8年、岡田挺之編)
『物数称謂』(寛政8年、岡田挺子編)
浮世絵
絵本
『青楼美人合姿鏡』(安永5年、耕書堂作、重政画、勝川春章画)
『明月余情』(安永6年、朋誠堂序、恋川春町画)
『商売往来』(安永9年、天明5年)
『新撰 耕作往来千秋楽』(安永9年)
『女今川艶紅梅』(天明元年)
『年中用文至宝蔵』(天明2年)
『実語教童子教』(天明2年、天明4年)
『百姓今川准状』(天明2年、寛政元年)
『貞永 御成敗式目』(天明3年、寛政元年)
『本朝千字文』(天明3年)
『手習本女教平生珠文庫』(天明3年)
『京内詣』(天明3年)
『庭訓往来』(天明3年)
『吉原傾城 新美人合自筆鏡』(天明4年、四方山人序、朱楽館主人跋[55]、政演画)
『通俗画図勢勇談 天』(天明4年、志水燕十作、鳥山石燕画)
『通俗画図勢勇談 地』(天明4年、志水燕十作、鳥山石燕画)
『用文章』(天明4年)
『静世政勢 武家諸法度』(天明4年、狩野探幽画)
『古湊道中記』(天明4年、南畝跋、哥麿画)
『文宝古状揃万歳鑑』(天明5年)
『年中用文至宝蔵』(天明5年)
『万用手形鑑』(天明5年)
『泰平江戸往来』(天明5年)
『絵本武将一覧』(天明6年、北尾紅翠斎画)
『慶子画譜』(天明6年、洛の自笑編)
『人遠茶懸物』(天明6年、一仏斎序)
『絵本武者蛙』(天明7年、宿屋飯盛序、重政画)
『竜田詣』(天明8年)
『歴代武将通鑑』(寛政元年、北尾紅翠斎画)
『古状揃』(寛政2年)
『絵本武将記録』(寛政2年、耕書堂作、北尾紅翠斎画)
『西洋銭請』(寛政2年、源竜橋作)
『新撰銭請』(寛政2年、源竜橋作)
『彩雲堂蔵泉目録』(寛政2年、竜橋公作)
『宝珠庭訓往来如意文庫』(寛政5年、重政画)
『絵兄弟』(寛政6年、山東京伝作画)
『略解千字文』(寛政6年、蛾術斎作)
『智学古状揃宝蔵』(寛政6年)
『女用文書千代寿』(寛政6年、重政画)
『絵本名所江戸桜』(寛政7年)
『絵本松のしらべ』(寛政7年、春章画)
『価附銭鑒』(寛政7年、中村伝兵衛著)
『分量考』(寛政7年、竜橋公作)
『万物名数往来』(寛政7年)
『江戸往来』(寛政7年)
『弄銭奇鑑』(寛政8年、竜橋公作)
『春栄百人一首姫鏡』(寛政9年)
『絵本二十四孝』(寛政9年、石川雅望作、松斎画、茂木寛画)
『和漢 古今泉貨鑑』(刊年未詳)
『絵本番附』(刊年未詳、歌麿画)
大判錦絵
『雛形若菜の初模様』(安永4年、礒田湖龍斎画、西村屋との共同出版)[81]
『青楼仁和嘉女芸者部』(天明3年、喜多川歌麿画)[82]
『三保の松原道中』(天明7-8年頃、喜多川歌麿画)[83]
『三囲参詣の往来』(天明7-8年頃、鳥居清長画)[84]
『六玉川』(天明末年-寛政3年頃、窪俊満画)[85]
『扇屋内』(寛政3年、喜多川歌麿画)[86]
『婦人相学十躰』(寛政4-5年頃、喜多川歌麿画)[87]
『婦女人相十品』(寛政4-5年頃、喜多川歌麿画)[88]
『当時三美人 富本豊ひな 難波屋きた 高しまひさ』(寛政4-5年頃、喜多川歌麿画)[89]
『井筒中居かん、藝子あふきやふせや』(寛政4-5年頃、栄松斎長喜画)[90]
『六玉川』(寛政5年、喜多川歌麿画)[88]
『高級遊女集』(寛政5年、喜多川歌麿画)[88]
『高島おひさ』(寛政5年頃、喜多川歌麿画)[91]
『難波屋おきた』(寛政5年頃、喜多川歌麿画)[88]
『四季の美人』(寛政5年頃、栄松斎長喜画)[92]
『難波屋の店先』(寛政5年頃、栄松斎長喜画)[93]
『三代目市川高麗蔵 三代目坂田半五郎 初代中山富三郎』(寛政5年頃、勝川春英画)[94]
『歌撰恋之部』(寛政5-6年頃、喜多川歌麿画)[95][96]
『遊女三幅対』(寛政5-6年頃、喜多川歌麿画)[97]
『当世踊子揃』(寛政5-6年頃、喜多川歌麿画)[96]
『市川蝦蔵の竹村定之進』(寛政6年、東洲斎写楽画)[40]
『初代市川男女蔵の奴一平』(寛政6年、東洲斎写楽画)[98]
『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』(寛政6年、東洲斎写楽画)[99]
『三代目佐野川市松の祇園町の白人おなよ』(寛政6年、東洲斎写楽画)[100]
『中島和田右衛門のぼうだら長左衛門と中村此蔵の舟宿かな川やの権』(寛政6年、東洲斎写楽画)[101]
『四代目松本幸四郎の新口村孫右衛門と初代中山富三郎の傾城梅川』(寛政6年、東洲斎写楽画)[102]
『初代中山富三郎の宮城野』(寛政6年、東洲斎写楽画)[103]
『役者舞台之姿絵』(寛政6年、歌川豊国画)[104]
『青楼十二時』(寛政6年頃、喜多川歌麿画)[105]
『名取酒六家選』(寛政6年頃、喜多川歌麿画)[106]
『袖が浦の亀吉』(寛政6-7年頃、喜多川歌麿画)[107]
『高輪の女』(寛政6-7年頃、喜多川歌麿画)[107]
『霞織娘雛形』(寛政6-7年頃、喜多川歌麿画)[107]
中判錦絵
『幼童云此奴和日本』(寛政3年頃、鳥居清長画)[108]
小判錦絵
『仁和嘉狂言』(寛政3年、勝川春朗画)[109]
細判錦絵
『三代目坂田半五郎の旅僧 実は鎮西八郎為朝』(寛政3年、勝川春朗画)[110]
『三代目市川八百蔵の八幡太郎義家』(寛政6年、東洲斎写楽画)[93]
『三代目沢村宗十郎の曽我の十郎祐成』(寛政6年、東洲斎写楽画)[93]
『二代目中村仲蔵の荒牧耳四郎』(寛政6年、東洲斎写楽画)[111]
『三代目瀬川菊之丞の傾城かつらぎ』(寛政6年、東洲斎写楽画)[112]
『市川鰕蔵の日本廻国の修行者良山』(寛政6年、東洲斎写楽画)[113]
間判錦絵
『近江屋錦車 初代中山富三郎のさざなみ辰五郎女房おひさ』(寛政6年、東洲斎写楽画)[103]
『吉原仁和嘉』(寛政7年、喜多川歌麿画)[107]
『風俗浮世八景』(寛政7年頃、喜多川歌麿画)[114]
『婦人職人分類』(寛政7年頃、喜多川歌麿画)
小奉書全紙判錦絵
『新吉原仮宅両国之図』(天明4年、喜多川歌麿画)
参考動画:『【べらぼう】蔦屋重三郎がプロデュースした男たち 3/4◎安藤優一郎氏|『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』PHP 研究所』歴史街道|PHP研究所 https://youtu.be/QMoZGmxeBMk?si=9skGvrXTx9ISWPwv
【蔦重の夢が息づく台東区】江戸新吉原耕書堂がオープンしました
台東区公式チャンネル https://youtu.be/Usz710bUZaU?si=Gz0_ZB6H2fFdEa7y
台東区を代表する「江戸」文化と、当時の名称「新吉原」を合わせて『江戸新吉原耕書堂』と名付けました。蔦屋重三郎が開業した「耕書堂」を模した施設です。
蔦重ゆかりの地巡りの拠点として、ぜひお立ち寄りください!
▼詳しくはこちらをご覧ください
https://taito-tsutaju.jp/features/know-satellite
蔦屋重三郎が新吉原の大門前に開業した「耕書堂」を模した施設です。台東区を代表する「江戸」文化と、当時の名称「新吉原」を合わせて『江戸新吉原耕書堂』と名付けました。
江戸新吉原耕書堂では、吉原に特化した観光案内や、お土産品の販売などを行います。また、夜間はシャッターに描かれた浮世絵をライトアップしており、営業時間終了後もお楽しみいただけます。
蔦重ゆかりの地巡りの拠点として、ぜひお立ち寄りください!
江戸新吉原耕書堂の概要
〇場所
台東区千束4-24-12
〇期間
2025年1月18日(土)から2026年1月12日(月・祝)
〇営業時間
午前10時から午後5時まで
〇休館日
毎月第2月曜日(第2月曜日が祝日の場合は翌日)、
年末年始等
〇アクセス
東京メトロ日比谷線三ノ輪駅1b出口から徒歩13分
『戯作』Wikipedia
戯作(げさく、ぎさく、けさく、きさく)とは、近世後期、18世紀後半頃から江戸で興った通俗小説などの読み物の総称。戯れに書かれたものの意。明治初期まで書かれた。戯作の著者を戯作者という。
種類
戯作は、洒落本、滑稽本、談義本、人情本、読本、草双紙などに大きく分けられる。さらに草双紙は内容や形態によって赤本、黒本、青本、黄表紙、合巻に分けられる。
洒落本
洒落本とは、遊所での遊びの様子を書いたもの。山東京伝の『傾城買四十八手』などがある。
滑稽本
滑稽本とは、おかしみのある話。式亭三馬『浮世風呂』、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』などが代表的。
談義本
談義本とは、滑稽さと教訓を合わせ持っていた、滑稽本のはしり。
人情本
人情本とは、主に恋愛を描いたもの。為永春水の『春色梅児誉美』や『春告鳥』などに代表される。
読本
読本とは、口絵や挿絵もあったが、文章中心の読み物であるところから読本と呼ばれた。中国文学の白話小説から影響を受けて生まれた。史実に取材することがあっても基本的にフィクションであり、勧善懲悪思想などを中心に据えた読み物であった。娯楽性も強いが、草双紙などと比べ文学性の高いものと認識されており、初期読本は知識人層によって書かれた。印刷技術や稿料制度など出版の体制が整っていたこともあり多くの読者を獲得したが、発行部数などは草双紙に及ばない。江戸や大坂で上田秋成、曲亭馬琴、山東京伝といった作者が活躍した。
代表的な読本には、秋成の『雨月物語』や馬琴の『南総里見八犬伝』などがある。
歴史
「戯作」の言葉自体は中国に古くからあり、その影響から日本でも江戸時代以前から使われていた。正当な表現に対するパロディや軽く茶化した表現のことを戯作と呼ぶようになった。
江戸時代の戯作
荻生徂徠などの影響で、当時の中国文学の口語小説の紹介・研究が進み、その影響を受けて読本などが書かれるようになった。また、『風流志道軒伝』などを書いた平賀源内は戯作者の祖と言われる。初期の戯作者の多くは大田南畝などの武士階級であった。18世紀中盤から洒落本や、草双紙の中でも黄表紙が栄えた。
しかし寛政の改革の弾圧によってそれまでの戯作に影が差すと、替わって庶民の中から式亭三馬や十返舎一九などの戯作者が現れ、読本や人情本、草双紙では合巻が多く流通するようになった。さらに天保の改革によって人情本が衰退すると、その穴を埋めるように合巻の刊行点数が増大した。
原稿料は安く、現代のアルバイトやパート並みで、印税制度もなかったため、全て買い取りだった。実績がない戯作者は数百文から一分の相場で、中には吉原で接待の馳走にあずかるだけで、一銭も入らない場合もあった。
明治時代の戯作文学
滑稽な内容のものは歓迎されなくなり、一時期プロの作家は仮名垣魯文ら5人にまで減少した。 しかし政治的背景を元にした古典文芸の復権があった他、新聞の連載小説形式や活版印刷技術などの登場を機に明治10年頃から合巻が再び脚光を浴びるなど戯作は明治期にも続けられていた。 坪内逍遥らが近代文学を成立させるためにはそれまでの戯作に対する批判をする必要があった。
明治期には江戸時代の戯作の流れを汲んだジャンルとして「講談速記本」(講談本)が登場し、後に書き講談(『立川文庫』など)や新講談(『講談倶楽部』)を経て大衆文学に発展した。
『狂歌』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%82%E6%AD%8C
狂歌(きょうか)とは、社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込み、五・七・五・七・七の音で構成した諧謔形式の短歌(和歌)。
歴史
狂歌の起こりは古代・中世に遡り、狂歌という言葉自体は平安時代に用例があるという。落書などもその系譜に含めて考えることができる。独自の分野として発達したのは江戸時代中期で、享保年間に上方で活躍した鯛屋貞柳などが知られる。
特筆されるのは江戸の天明狂歌の時代で、狂歌がひとつの社会現象化した。そのきっかけとなったのが、明和4年(1767年)に当時19歳の大田南畝(蜀山人)が著した狂詩集『寝惚先生文集』で、平賀源内が序文を寄せている。明和6年(1769年)には唐衣橘洲の屋敷で初の狂歌会が催されている。これ以後、狂歌の愛好者らは狂歌連を作って創作に励んだ。朱楽菅江、宿屋飯盛らの名もよく知られている。
狂歌には、『古今和歌集』などの名作を諧謔化した作品が多く見られる。これは短歌の本歌取りの手法を用いたものといえる。
明治以降は、1904年(明治37年)頃から読売新聞記者の田能村秋皐(筆名は朴念仁もしくは朴山人)が流行語などを取り入れた新趣向の狂歌を発表し、「へなぶり」という呼称で人気ジャンルとなった。
現代でも愛好者の多い川柳と対照的に、狂歌は近代以降衰えた。しかし石川啄木をはじめ近代の大歌人たちも「へなぶり」に感化をされており、近代短歌の精神の中に狂歌的なものは伏流しているという指摘が吉岡生夫らによってなされている。
狂歌の例
ほとゝぎす自由自在に聞く里は酒屋へ三里 豆腐屋へ二里(頭光(つむりのひかる))
花鳥風月を常に楽しめるような場所は、それを楽しむための酒肴を買う店が遠くて不便だという意味で、風流趣味を揶揄している。
ほとゝぎす鳴きつるあとにあきれたる後徳大寺の有明の顔(大田蜀山人)
百人一首の徳大寺実定の歌(ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる)が元歌。
歌よみは下手こそよけれ天地の 動き出してたまるものかは(宿屋飯盛)
古今和歌集仮名序の「力をもいれずして天地を動かし…」をふまえた作。
世わたりに春の野に出て若菜つむ わが衣手の雪も恥かし
百人一首の光孝天皇の歌(君がため春の野に出でて若菜つむ わが衣手に雪は降りつつ)が元歌。
はたもとは今ぞ淋しさまさりけり 御金もとらず暮らすと思へば
享保の改革の際に詠まれたもので、旗本への給与が遅れたことを風刺している。
百人一首の源宗于の歌(山里は冬ぞ寂しさまさりける 人目も草も枯れぬと思へば)が元歌。
白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき
寛政の改革の際に詠まれたもの。松平定信の厳しい改革より、その前の田沼意次の多少裏のあった政治の方が良かったことを、定信の領地であった白河とかけて風刺している。大田南畝作という説もあったが、本人は否定している。別の寛政の改革批判の狂歌である「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといふて夜も寝られず」も 詠み人知らずとされているが、南畝作の説が有力である。
泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず
黒船来航の際に詠まれたもの。上喜撰とは緑茶の銘柄である「喜撰」の上物という意味であり、「上喜撰の茶を四杯飲んだだけだが(カフェインの作用により)夜眠れなくなる」という表向きの意味と、「わずか四杯(ときに船を1杯、2杯とも数える)の異国からの蒸気船(上喜撰)のために国内が騒乱し夜も眠れないでいる」という意味をかけて揶揄している。
名月を取ってくれろと泣く子かな それにつけても金の欲しさよ
下の句を「それにつけても金の欲しさよ」に付け合うことで、どんな風雅な句も狂歌の体に収斂させてしまう言葉遊びを「金欲し付合」という[2]。江戸中期に流行した。
世の中に寝るほど楽はなかりけり浮世の馬鹿は起きて働く(読み人知らず)
道教、足るを知ること、等に通じる高尚なところもあり、怠け者の自己弁護のようなところもある有名な歌。
世の中に蚊ほどうるさきものはなし 文武といって夜も眠れず(読み人知らず)
世の中に蚊ほど(これほど)うるさいものはないよ。ブンブン(文武)と(口うるさく)言って夜も寝られない。
狂歌連
大田南畝の率いる山の手連、唐衣橘洲らの四谷連など武士中心の連のほか、町人を中心としたものも多く、五代目市川團十郎とその取り巻きが作った堺町連や、蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)ら吉原を中心にした吉原連などもあった。
著名な狂歌師
狂歌師は洒落に富んだ狂名を号した。
狂名 別名 生没年 素性 補足
朱楽菅江(あけら かんこう) 山崎郷助景貫 1740-1800 御家人 朱楽連、狂歌三大家
四方赤良(よも の あから) 大田直次郎覃、南畝、蜀山人 1749-1823 御家人 山手連、狂歌三大家
唐衣橘洲(からころも きっしゅう) 小島源之助謙之 1743-1802 旗本 四谷連、狂歌三大家
宿屋飯盛(やどや の めしもり) 糠屋七兵衛、石川雅望 1753-1830 小伝馬町の旅籠 伯楽連、狂歌四天王
鹿都部真顔(しかつべ の まがお) 北川嘉兵衛 1753-1829 数寄屋橋の汁粉屋 数奇屋連、狂歌四天王
頭光(つむり の ひかる) 岸宇右衛門、一筆斎文笑 1754-1796 日本橋亀井町町代 狂歌四天王
銭屋金埒(ぜにや の きんらち) 大坂屋甚兵衛 1751-1807 数寄屋橋の両替商 狂歌四天王
元木網(もと の もくあみ) 大野屋喜三郎 1724-1811 京橋北紺屋町の湯屋 落栗連
大屋裏住(おおや の うらずみ) 白子屋孫左衛門 1734-1810 更紗屋、貸家業 元町連
浜辺黒人(はまべ の くろひと) 三河屋半兵衛 1717-1790 本芝の本屋 芝連
加保茶元成(かぼちゃ の もとなり) 大文字屋市兵衛 1754-1828 新吉原の遊女屋 吉原連
花道つらね 5代目市川團十郎 1741-1806 歌舞伎役者 堺町連
山道高彦(やまたか の みちひこ) 山口彦三郎 ????-1816 幕臣 小石川連
便々館湖鯉鮒(べんべんかん こりふ) 大久保平兵衛正武 1749-1818 旗本 琵琶連
文々舎蟹子丸(ぶんぶんしゃ かにこまる) 久保泰十郎有弘 1780-1837 御家人 葛飾連
節藁仲貫(ふしわら の なかぬき) 吉田十五郎 ????-???? 高松藩士 赤松連
六帖園雅雄(ろくじょうえん まさお) 桐屋三右衛門 1794-1830 上州高崎の商人 水魚連
浅草市人(あさくさ の いちひと) 伊勢屋久右衛門 1755-1821 浅草田原町の質屋 壺側
平秩東作(へづつ とうさく) 稲毛屋金右衛門 1726-1789 内藤新宿の煙草屋
白鯉館卯雲(はくりかん ぼううん) 木室七左衛門朝濤 1708-1783 旗本
手柄岡持(てがら の おかもち) 平沢平格常富、朋誠堂喜三二 1735-1813 久保田藩士
酒上不埒(さけのうえ の ふらち) 倉橋寿平格、恋川春町 1744-1789 小島藩士
山手白人(やまのて の しろひと) 布施弥二郎胤致 1737-1787 旗本
智恵内子(ちえ の ないし) 内田すめ 1745-1807 元木網の妻 三内子
竹杖為軽(たけつえ の すがる) 森羅万象、森島中良、桂川甫粲 1754-1808 医師
腹唐秋人(はらから の あきんど) 中井嘉右衛門、董堂 1758-1721 日本橋本町の紙屋番頭
多田人成(ただ の ひとなり) 島崎金次郎 ????-???? 御家人 四方赤良の弟
紀定丸(き の さだまる) 吉見儀助義方 1760-1841 旗本 四方赤良の外甥
橘八衢(たちばな の やちまた) 加藤又左衛門千蔭 1735-1808 御家人
奈蒔野馬鹿人(なまけ の ばまひと) 鈴木庄之助、志水燕十 1726-1786 御家人
門限面倒(もんげん めんどう) 高橋徳八 ????-1804 館林藩士
星屋光次(ほしや みつつぐ) 山口治部之助 ????-???? 高松藩士
大の鈍金無(だいのどん の かねなし) 河野新右衛門通秀?、蓬莱山人帰橋 1760?-1789? 高崎藩士
軽少ならん 土山宗次郎孝之 1740-1788 旗本
心種俊(こころ の たねとし) 高屋彦四郎知久、柳亭種彦 1783-1842 旗本
ひまの内子 小余綾磯女 ????-1852 紀州藩士の妻 三内子
花江戸住(はな の えどずみ) 山口政吉 ????-1805 町人
節松嫁々(ふしまつ の かか) 小宮山まつ 1745-1810 朱楽菅江の妻
質草少々(しちぐさ しょうしょう) 和泉屋源蔵、唐来参和 1744-1810 本所松井町の遊女屋
鑿釿言墨曲尺(のみちょうなごん すみかね) 和泉屋和助、烏亭焉馬 1743-1822 本所相合町の大工
仙果亭嘉栗(せんかてい かりつ) 三井治郎右衛門高業、紀上太郎 1747-1799 大坂の為替商人
土師掻安(はじ の かきやす) 榎本治右衛門 ????-1788 町人
紫檀楼古喜(したんろう ふるき) 伊勢屋古吉 1767-1832 羅宇問屋
大木戸黒牛(おおきど の くろうし) 初代鶴賀若狭掾 1717-1786 浄瑠璃太夫
通小紋息人(とおしこもん いきんど) 3代目市川雷蔵 ????-???? 歌舞伎役者
桜田のつくり 初代桜田治助 1734-1806 歌舞伎役者
御贔屓つみ綿 3代目瀬川菊之丞 1751-1810 歌舞伎役者
蔦唐丸(つた の からまる) 蔦屋重三郎 1750-1797 日本橋通油町の版元
筆綾丸(ふで の あやまる) 喜多川歌麿 1753?-1806 浮世絵師
身軽折輔(みがる の おりすけ) 京屋伝蔵、山東京伝 1761-1816 商人、浮世絵師
一節千杖(ひとふし せんじょう) 窪田易兵衛、窪俊満 1757-1820 浮世絵師
棟上高見(むねあげ の たかみ) 扇屋宇右衛門 1744-1801 新吉原の遊女屋
3代目加保茶元成(かぼちゃ の もとなり) 三浦屋源兵衛、三亭春馬 ????-1852 新吉原の遊女屋
垢染衣紋(あかしみ の えもん) 鈴木いなぎ 1760-1825 棟上高見の妻
秋風女房(あきかぜ の にょうぼう) 村田まさ 1764-1826 加保茶元成の妻
その他の狂歌師
冷泉為守 - 鎌倉時代後期の貴族。狂歌師の祖といわれる。
曽呂利新左衛門 - 豊臣秀吉に仕えたとされる伝説的な人物。
松永貞徳 - 江戸時代前期の文人、歌学者。歌集に『貞徳百首狂歌』『狂歌之詠草』がある。
英甫永雄 - 安土桃山時代の禅僧。歌集に『雄長老詠百首狂歌』がある。
花村政一 - 江戸時代初期の勾当。伊達政宗から与えられた屋敷跡地が現在の勾当台公園である。
半井卜養 - 江戸時代前期の医師。家集に『卜養狂歌集』『卜養狂歌集拾遺』がある。
石田未得 - 江戸時代前期の商人。江戸五哲の一人。家集に『吾吟我集』がある。
正親町公通 - 江戸時代中期の貴族。歌集に『雅筵酔狂集』がある。
生白堂行風 - 江戸時代中期の大坂町人。浪速狂歌中興の祖。
参考:「平沢常富」Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B2%A2%E5%B8%B8%E5%AF%8C
平沢 常富(ひらさわ つねとみ、ひらさわ つねまさ)は、江戸時代中期から後期にわたる出羽国久保田藩(現在の秋田県)の定府藩士で江戸留守居を務めた。朋誠堂 喜三二(ほうせいどう きさんじ)の筆名で知られる戯作者、手柄 岡持(てがらの おかもち)の狂名で知られる狂歌師でもある。通称は平角(平格とも)、字は知足、号は愛洲。金錦佐恵流(きんきん さえる)の筆名も使った。
隠居号は平荷。なお、上記のほか、青本では亀山人、笑い話本では道陀楼麻阿(どうだろう まあ)、俳号は雨後庵月成(うごあん つきなり)、朝東亭など多くの筆名や号を使い分ける。
略歴
江戸の武士、西村久義(平六)の三男として誕生。14歳で母方の縁戚にあたる久保田藩士・平沢常房の養子になった。なお、養家初代の愛洲通有は愛洲陰流剣術の祖であった愛洲移香斎に連なり、2代目の小七郎宗通(元香斎愛洲宗通)は永禄7年(1564年)に常陸国(当時)を治めた佐竹義重に仕えた。3代目常通は西那珂郡に賜った地所の「平沢」に合わせて姓を改めたと伝わる。
天明の頃、藩の江戸留守居役の筆頭を任された平沢常富は120石取りであった。当時のその役職は江戸藩邸を切り盛りし、幕府や他藩との交渉を担い、現代の外交官に相当した。40年あまり続いた亀田藩との藩境争いを解決するなど活躍した。
平沢は若い頃から「宝暦の色男」と自称して、また役職柄、情報交換の場として一種の社交サロンでもあった吉原通いを続けた。勤めの余技に手がけた黄表紙のジャンルで多くのヒット作を生んだ。おりから「天明狂歌」といわれる狂歌ブームが沸き起こった田沼時代であり、武士・町人の間に数多くの連(サークル)が作られ、常富も手柄岡持や楽貧王という名で狂歌の連に参加していた。
しかし、松平定信の文武奨励策(寛政の改革)を風刺した黄表紙『文武二道万石通』を天明8年(1788年)に上梓すると、執筆者の平沢は久保田藩9代藩主・佐竹義和より叱責されたと見え、以降は黄表紙から手を引くと、もっぱら狂歌作りに没頭した。
子の為八や孫の左膳(初名は重蔵)も江戸留守居を勤め、用人にも就任した。
代表作
発行年順。
『親敵討腹鞁』2冊、黄表紙。安永6年(1777年) 恋川春町 画
『案内手本通人蔵』2巻。安永8年(1779年)
『見徳一炊夢』3巻。安永10年(1781年)
『文武二道万石通』3冊。天明8年(1788年) 喜多川行麿 画
『後(のち)はむかし物語』随筆、1803年(享和3年)序
恋川 春町(こいかわ はるまち、延享元年(1744年)- 寛政元年7月7日(1789年8月27日))は、江戸時代中期の戯作者、浮世絵師である。安永4年(1775年)『金々先生栄花夢』で黄表紙といわれるジャンルを開拓し、黄表紙の祖と評される。
本名は倉橋 寿平(くらはし じゅへい)。諱は初め勝睴、後に格(いたる)。本姓は源氏、幼名は亀之助、通称は初め隼人、後に寿平。号は寿山人・寿亭、春町坊。狂名は酒上不埒(さけのうえのふらち)。筆名は、江戸藩邸のあった小石川春日町に由来するとともに、当時の人気絵師勝川春章を踏まえたものである。
駿河小島藩・滝脇松平家の年寄本役として藩中枢に関与し、石高は最終的に120石に及んだ。安永天明期に自画自作の黄表紙を多数残し、洒落本や滑稽本などの挿絵も見られるが、錦絵は希少である。
経歴
延享元年(1744年)に紀州徳川家附家老の安藤次由(帯刀)の家臣である桑島勝義(九蔵)の次男として誕生[1]。宝暦13年(1763年)に召しだされて金6両2人扶持で小島藩士となり、中小姓格右筆見習書役兼帯となる。同年、同じく小島藩士で父方伯父の倉橋勝正の養子となる。明和4年(1767年)に通称を隼人から寿平と改名。
その後、小納戸格、刀番となり、明和8年(1771年)に藩主松平昌信が死去して松平信義が藩主になるとさらに出世して、『高慢斎行脚日記』を執筆した安永5年(1776年)には取次兼留守居添役となる。同年、養父の隠居を受けて家督を相続し、石高100石となる内用人に就任。1781年(天明元年)側用人兼用人方助ヶ、用人、年寄格加判之惣となり、藩政中枢に参与するようになる。1782年(天明2年)ごろから酒上不埒という名で狂歌に熱中し、自ら一派を立てた。天明5年(1785年)の小島藩年貢割付状には、倉橋寿平名義の署名がある。天明7年(1787年)には年寄本役、石高120石となる。
しかし、その翌年に執筆した黄表紙『鸚鵡返文武二道』が松平定信の文武奨励策を風刺した内容であることから、寛政元年(1789年)幕府から呼び出しを受ける。春町は病気として出頭せず、同年4月24日には隠居し、まもなく同年7月7日(1789年8月27日)に死去したという。自殺と推測する説もある。享年46。墓は東京都新宿区新宿二丁目の成覚寺にあり、新宿区指定史跡となっている。法名は寂静院廓誉湛水居士[1]。子は倉橋敬忠(忠蔵、生没年は天明元年(1781年)-享和3年(1803年))。
人物・交流
鳥山石燕について浮世絵を学び、勝川春章にも私淑していた。
10歳近く年上の狂歌・戯作仲間の朋誠堂喜三二(久保田藩江戸留守居の平沢常富の筆名)とは特に仲がよく、喜三二の文に春町の画というコンビ作も多い。再婚相手も喜三二の取り持ちという。鹿津部真顔は門弟。
代表作
『当世風俗通』 洒落本 朋誠堂喜三二作 (1773年)
『金々先生栄花夢』{きんきんせんせいえいがのゆめ} 黄表紙 (1775年) 自画作
『高慢斎行脚日記』{こうまんさいあんぎゃにき} 黄表紙 (1776年) 自画作
『其返報怪談』{そのへんぽうばけものがたり} 黄表紙 (1776年) 自画作
『鸚鵡返文武二道』{おうむがえしぶんぶのふたみち} 黄表紙 (1788年)
『悦贔屓蝦夷押領』{よろこんぶひいきのえぞおし} 黄表紙 (1788年) 自作、北尾政美画
『無益委記』{むだいき} 黄表紙
『詩句市窓』{しくしそう} 黄表紙
「布袋川渡りの図」 細判 錦絵
刊本
「金々先生栄花夢」水野稔訳『古典日本文学全集 第28 (江戸小説集 上)』筑摩書房 1960年
『黄表紙集1』水野稔編 古典文庫 1969年
「うどん・そば 化物大江山」「古今名筆 其返報怪談」「参幅対紫曽我」「夫八本歌是八狂哥 万載集著微来歴」「吉原大通会」「其昔竜神噂」
「遺精先生夢枕」『国文学解釈と鑑賞臨時増刊 秘められた文学4』尾崎行信監修、至文堂、1970年
『評釈江戸文学叢書』第8巻 講談社 1970年(1935年刊の復刻)
「金々先生栄花夢」「夫ハ楠木是ハ嘘木無益委記」
『日本古典文学全集 黄表紙・川柳・狂歌』小学館、1971年
「金々先生栄花夢」「夫ハ楠木是ハ嘘木無益委記」「鸚鵡返文武二道」浜田義一郎校注
「金々先生栄華夢」杉森久英訳『日本の古典 25 (江戸小説集 2)』河出書房新社 1974年
「金々先生栄華夢」「化物大江山」『江戸の戯作絵本』第1巻 小池正胤ほか編 社会思想社・現代教養文庫 1980年
「万載集著微来歴」同第2巻、1981年
「悦贔屓蝦夷押領」同第3巻、1982年
「高漫斉行脚日記」「参幅対紫曽我」「吉原大通会」同続第1巻、1984年
「風流裸人形、大通惣本寺杜選大和尚無頼通説法」『洒落本大成』第8巻 中央公論社 1980年
『新編日本古典文学全集 黄表紙・川柳・狂歌』小学館、1999年
「金々先生栄花夢」「鸚鵡返文武二道」棚橋正博校注
参考:『太田南畝』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%8D%97%E7%95%9D
大田 南畝(おおた なんぽ、寛延2年3月3日〈1749年4月19日〉- 文政6年4月6日〈1823年5月16日〉[1])は、天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人。
名は覃ふかし、字は子耕、南畝は号である。通称、直次郎、のちに七左衛門と改める。別号、蜀山人しょくさんじん、玉川漁翁、石楠齋、杏花園、遠櫻主人、巴人亭、風鈴山人、四方山人など。山手馬鹿人やまのてのばかひと、も別名とする説がある。狂名、四方赤良よものあから。また狂詩には寝惚ねとぼけ先生と称した。法名は杏花園心逸日休。
勘定所勤務として支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚であった一方で、文筆方面でも高い名声を持った。膨大な量の随筆を残す傍ら、狂歌、洒落本、漢詩文、狂詩、などをよくした。特に狂歌で知られ、唐衣橘洲・朱楽菅江と共に狂歌三大家と言われる。南畝を中心にした狂歌師グループは、山手連(四方側)と称された。
生涯
寛延2年(1749年)、江戸の牛込中御徒町(現在の東京都新宿区中町)で、御徒の大田正智(吉左衛門)、母利世の第三子で長姉・次姉についで嫡男として生まれた。
内山賀邸に入門
下級武士の貧しい家だったが、幼少より学問や文筆に秀でたため、15歳で江戸六歌仙の1人でもあった内山賀邸(後の内山椿軒)に入門し、札差から借金をしつつ国学や漢学の他、漢詩、狂詩などを学んだ。狂歌三大家の1人、朱楽菅江とはここで同門になっている。17歳で父に倣い御徒見習いとして幕臣となるが学問を続け、18歳の頃には荻生徂徠派の漢学者松崎観海に師事した。また、作業用語辞典『明詩擢材』五巻を刊行した。
寝惚先生文集が評判に
19歳の頃、それまでに書き溜めた狂詩集が同門の平秩東作に見出され、明和4年(1767年)狂詩集『寝惚先生文集』として刊行。これが評判となった。これは師匠であった松崎観海の漢詩集『観海先生集』を捩っている。さらに作者名を陳奮翰子角(ちんぷんかんしかく)、編集者を安本丹親玉(あんぽんたんおやだま)などとする徹底した漢字遊びが随所に見られる。これが漢詩を学ぶ武士には大いに評判となった。平賀源内は「戯家(たわけ)の同士」と巻頭序文を寄せている。江戸の狂詩流行のきっかけを作ったとも言われる。
狂歌流行のきっかけをつくる
この後数点の黄表紙を発表するも当たり作はなかったというが、内山賀邸私塾の唐衣橘洲の歌会に参加した明和6年(1769年)頃より自身を「四方赤良」と号し、自身もそれまでは捨て歌であった狂歌を主とした狂歌会を開催し「四方連」と称し活動しはじめた。それまで主に上方が中心であった狂歌が江戸で大流行となる『天明狂歌』のきっかけを作り、自身も名声を得ることになった。
当時は田沼時代と言われ、潤沢な資金を背景に商人文化が花開いていた時代であり、南畝は時流に乗ったとも言えるが、南畝の作品は自らが学んだ国学や漢学の知識を背景にした作風であり、これが当時の知識人たちに受け、また交流を深めるきっかけにもなっていった。
安永5年(1776年)には、落合村(現新宿)周辺で観月会を催し、さらに安永8年(1779年)、高田馬場の茶屋「信濃屋」で70名余りを集め、5夜連続の大規模な観月会も催している。翌安永9年には、この年に黄表紙などの出版業を本格化した蔦屋重三郎を版元として『嘘言八百万八伝』を出版、山東京伝などは、この頃に南畝が出会って見出された才能とも言われている。
万載狂歌集を編む
天明3年(1783年)、四方赤良(南畝)と朱楽菅江の共編で『万載狂歌集』を編む。題名から知られるように『千載和歌集』のパロディであり、200人以上の詠んだ狂歌を集めたもの。
この頃から田沼政権下の勘定組頭土山宗次郎に経済的な援助を得るようになり、吉原にも通い出すようになった。天明6年(1786年)ころには、吉原の松葉屋の遊女三保崎を身請けし妾とし自宅の離れに住まわせるなどしていた。
寛政の改革下で筆を措く
天明6年(1786年)に老中首座の田沼意次が失脚すると、田沼寄りの幕臣たちは「賄賂政治」の下手人として悉く粛清されていき、南畝の経済的支柱であった土山宗次郎も公金横領の罪が発覚して出奔する(翌天明7年(1787年)12月に捕縛され斬首)。これを機に、南畝は狂歌の筆を措いてしまい、幕臣としての職務に励みながら、随筆などを執筆するようになった。天明7年(1787年)には新たに老中首座となった松平定信により、田沼政治の否定と緊縮財政、風紀取締りによる幕府財政の安定化を目指した寛政の改革が始まるが、同年正月に出版された四方連の人々による南畝編の狂歌集『狂歌千里同風』の南畝自筆の識語には「文月の比(ころ)何がしの太守新政にて文武の道おこりしかば、この輩(四方連の人々)と交わりをたちて家にこもり居りき」とあり、またやはり同年正月に出版されたとみられる南畝編の『狂歌才蔵集』からは、出奔した土山を匿って処罰された平秩東作の狂歌を削除している。
幸い南畝には咎めがなかったものの、周囲が断罪されていくなかで風評も絶えなかった。政治批判の狂歌「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶと夜もねられず」の作者と目されたことや、田沼の腹心だった土山と親しかったことで目を付けられたという逸話は有名になっている。さらに「処士横断の禁」(処士は学があるのに官に仕えず民間にいる者。彼らによる幕府批判を防ぐための策)が発せられて風紀に関する取り締まりが厳しくなり、南畝の版元の重三郎や同僚の京伝も処罰を受けた。天明7年(1787年)には横井也有の俳文集『鶉衣』を編纂、出版。天明8年(1788年)には重三郎版元で喜多川歌麿画の『画本虫撰』狂歌画集に四方赤良の「毛虫」を題とした「毛をふいて きずやもとめんさしつけて きみがあたりにはひかかりなば」が掲載されている。
学問吟味を受験
寛政4年(1792年)9月、44歳の南畝は「学問吟味」が創設されたのを機に試験を受験するよう命を受け、「紀事」一条と「呉子胥論」の答案を書くも落第すという[18][19]。南畝が「呉の国の子胥か、伍氏子胥か」と出題の揚げ足取りをしたために落第したと噂されたという。以後、寛政6年(1794年)2月に第2回目の試験を受けるようとの命を受けて受験、5次試験まであった。その当時小姓組番士だった遠山景晋とともに、御目見得以下の甲科及第首席合格となる。
世間では狂歌の有名人であった南畝は出世できないと揶揄していたが、及第の2年後の寛政8年(1796年)には、支配勘定に任用された。
孝義録 50巻出版のための渉外事務と執筆
寛政11年(1799年)、正月16日に、大坂銅座御用として大坂赴任を命じられたが、その直後に変更命令が出て、孝行者・奇特者を表彰する幕府の孝義録編纂事業担当実務者として孝行奇特者取調御用への出役を命ぜられる。各地からの報告書の吟味・問い合わせを行い、なおかつ出版物の原稿まで執筆した。孝義録 50巻は、南畝のこのような超人的筆力をもって出版されるにいたった。
併行して御勘定所諸帳面取調御用も
寛政12年(1800年)、御勘定所諸帳面取調御用を命ぜられる。江戸城内の竹橋の倉庫に保管されていた勘定所の書類を整理する役で、整理しても次から次に出てくる書類の山に対して、南畝は「五月雨の日もたけ橋の反故しらべ今日もふる帳あすもふる帳」と詠んでいる。
大坂銅座に赴任
享和元年(1801年)、大坂銅座に赴任。この頃から、中国で銅山を「蜀山」といったのに因み「蜀山人」の号で再び狂歌を細々と再開する。大坂滞在中、物産学者の木村蒹葭堂や国学者の上田秋成らと交流していた。赴任中の日記が『蘆の若葉』である。『難波鑑』『伏見鑑』『摂津名所図会』などの鑑・図会を買い込み、参考にして市中を歩きまわり、当時の京・大坂の風物を描写した。
長崎奉行所へ赴任
文化元年(1804年)、長崎奉行所へ赴任する。『瓊浦又綴けいほゆうてつ』は長崎での見聞を記した随筆でコーヒーを飲んだ体験が書かれており、日本でもっとも初期の頃のコーヒー飲用記である。
文化4年(1807年)8月、隅田川に架かる永代橋が崩落するという事故を偶然に目の当たりにし、自ら様々な記事や風聞を取材して証言集『夢の憂橋』を出版。
文化5年(1808年)、堤防の状態などを調査する玉川巡視の役目に就く。
文化9年(1812年)、息子の定吉が支配勘定見習として召しだされるも、心気を患って失職。自身の隠居を諦め働き続けながら、狂歌集『放歌集』を出版。
辞世
文政6年(1823年)、元旦に「生きすぎて 七十五年食ひつぶし かぎり知られぬ天地の恩」と詠む[35]。登城の道での転倒が元で死去。75歳。辞世の歌は「今までは人のことだと思ふたに俺が死ぬとはこいつはたまらん」と伝わる。墓は小石川の本念寺(文京区白山)にある。
著作
方広寺大仏(京の大仏)は寛政10年(1798年)に落雷による火災で焼失したが、『半日閑話』に焼失の経過が詳述されている。
上述した著作以外の主なものは以下のとおり。
半日閑話(随筆)
市井の見聞雑事を記したものであり、全25巻の内、12巻から16巻までの300余条の記事は「街談録」の名で流布していた[37]。当時の世相を窺い知ることのできる史料として史料価値が高い。例を挙げると京都の方広寺大仏(京の大仏)の焼失についての記述がある。方広寺大仏は当時大仏として日本一の高さを誇っていたが、寛政10年(1798年)に落雷のため焼失してしまった。その時何があり、どのような経過を辿って焼失したかについて、風聞に基づくものと思われるが詳細な記述がある[38][39]。「(大仏は)御鼻より火燃出、誠に入滅の心地にて京中の貴賎、老若、其外火消のもの駆け付け、此時に至りいたし方なく感涙を催し、ただ合掌十念唱えしばかり也」という一文が著名である。なお「半日閑話」の作者について、すべて南畝の手によって書かれたものではなく、南畝作のものをベースに他の者が次々と記事を加筆していき、現在残るような形(大著)になったとする説もある。
甲駅新話(洒落本)
馬糞中咲菖蒲の作(南畝の変名とされる)。「甲駅」とは甲州街道の宿場で内藤新宿のこと。
浮世絵類考
写本で伝わったもので、浮世絵研究の基礎資料。
調布日記
文字通り、調布あたりの散策記。「野暮天」の語源となった狂歌が収録されている(参考「谷保天満宮」)。
四方のあか
近世における個人の狂文集め最初のもの。戯作精神にあふれている。
一話一言(随筆)
全56巻。
草双紙とは 草双紙(くさぞうし)は、江戸時代中頃から江戸で出版された絵入り娯楽本、赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻の総称である。絵草紙(えぞうし)・絵双紙(えぞうし)・絵本(えほん)とも呼んだ。江戸の大衆本・江戸地本の中心を占めた。
美濃判二つ折りの半分の大きさ(ほぼB6判)で、1冊5丁単位で、2-3冊ないし5-6冊で1編となることが多い。各丁の大部分が絵で占められ、絵の周囲にひらがなを中心とした文が描かれる。赤本・黒本・青本・黄表紙は各冊の表紙に書名を示す絵題簽が貼られ、合巻では多色刷り木版の絵を表紙とする錦絵摺付表紙が定着する。
『草双紙』Wikipedia より https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E5%8F%8C%E7%B4%99
草双紙
草双紙とは、絵に仮名で筋書きが書き込まれた物語。絵草紙(絵双紙)または単に絵本と呼ばれることもあった。子供向けのものが多かったが、次第に大人向けの洒落・滑稽な内容のものが書かれるようになった。表紙の色と内容によって分類される。
赤本 - 子供向け。桃太郎などの昔話ほか。
黒本 - 敵討ちなどの忠義や武勇伝など。
青本 - 少年や女性向けで、芝居の筋書きを書いたもの。
黄表紙 - 大人向けの、娯楽性が強い本。筋書き以上に、言葉や絵の端々に仕組まれた遊びの要素を読み解くことに楽しみがあった。表紙の色は黄色だったが、当時は青本と区別されていなかった。後年の研究者によって分類された。
合巻 - 話が長く、三冊以上の分冊になったものを一巻に綴じたもの。絵入りだが、内容も比較的読本に近い。草双紙と言えば合巻のことを指すこともある。
『戯作』Wikipediaより
庶民文芸の中で、主に女性や子ども向けの出版物としては、草双紙があげられます。草双紙は本文10ページほどの簡易な作りのものでしたが、さし絵と平仮名だけのやさしい画面構成は、江戸中期から後期にかけて、女性や子どもの間で絶大な人気を得ることになりました。
草双紙の行程過程(的中(あたりやした)地本問屋)(十返舎一九):版元が作品の良くできる薬を一九に飲ませる→出来上がった作品を版木屋に彫らせる→摺り師(すりし)が摺る→摺り上がった草紙を順番に並べる→前後天地を裁ちそろえる→拍子をとりながら、表紙を掛ける→草紙を綴じる→売り出し→版元が作者にそばをふるまう→売り切れ続出
『江戸絵本とその時代』国立国会図書館国際子ども図書館より https://www.kodomo.go.jp/gallery/edoehon/era/index.html#S3
赤本:「赤本」とよばれた、おとぎ話を主体にした草双紙は、ここで私たちが「江戸絵本」として取り上げた作品にあたるものですが、「桃太郎」「舌切り雀」「はちかづき姫」「ぶんぶく茶釜」「さるかに合戦」など、現代の子どもたちにも読み継がれている有名な作品が、数多く含まれています。
赤本は、表紙が赤いのでそのように呼ばれているのですが、草双紙は時代が下るにつれて、黒本・青本・黄表紙と呼び名が変わり、江戸後期には、数冊を合本にした「合巻」と呼ばれるものが登場します。
江戸時代の子どもたちに喜ばれた赤本は、どんな売られ方をしていたのでしょうか。二代目団十郎が演じた「年玉扇売り」の台詞のなかに、お年玉用品として売られた品々、たとえば扇・たばこ・筆・袋菓子などと並んで、「読み初め赤本」という言葉がでてきます。 新年早々、刊行されたばかりの赤本が、子どもたちへのプレゼント用として扱われていた様子がうかがえます。赤本の結末におめでたいお話が多いのは、そのような理由があったのかもしれません。
もう一つ忘れてはならないことは、江戸庶民の識字率の高さです。経済力を得た商人の師弟を中心にして、女子を含むかなりの数の子どもたちが、民間教育機関であった寺子屋に通っておりました。『寺子短歌』という作品には、その寺子屋の様子が生き生きと描かれております。子どもたちはそこで、「読み書きそろばん」の基本教育を受けておりました。これは世界でも類を見ないことだと言われております。
また江戸時代も中期以後になると、江戸は人口100万人の都市になりました。これは当時のロンドンやパリに並ぶ規模ですが、ここに貸本屋が800軒以上もあったということです。草双紙のような庶民向けの出版が盛んに行われたのも、このような教育の普及と、読者層の拡大という背景なしには、考えられなかったことでした。 (♪) 絵本の歴史を振り返るとき、私たちは常に、近代以降の作品に注目してきました。しかし、これまであまり知られることのなかった江戸時代の絵本にも、私たちの興味をひく作品が、数多く残されています。そして、それら草双紙のなかの赤本や豆本のなかには、現在でも読み継がれるべき作品が、たくさんあるのです。
『江戸絵本とその時代』国立国会図書館国際子ども図書館より
https://www.kodomo.go.jp/gallery/edoehon/era/index.html#S3
版元
『版元』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%88%E5%85%83
「版元」とは印刷物を製作するために不可欠な「版」を持っている事業主のことを指す。これは必ずしも書籍の出版者のみを示すものではない。例えば、江戸時代には版木の製作から印刷・販売までが一貫して行われており、版木を所有していた書物問屋(一般書)や地本問屋(浮世絵)などを指して「(板いたの元もと)で『板元(はんもと)』」と呼んでいた。後に板が木を使わなくなり「版」に変わる。各問屋ごとに株仲間を作って活動していた。
板株(版権)
『版権』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%88%E6%A8%A9
近代以前の日本の著作に関する権利
日本においては明治時代に福澤らによって版権の概念が紹介される以前は日本には著作者に著作物に関する権利はほとんどなかったとされている。
江戸時代以前において、出版物に関する権利を有していたのはその出版物の文字や絵が刻み込まれていた版木を製作した者あるいは所有していた者であった。当時は1枚の版木に文字や絵を刻んで作った版木を元に木版印刷を行って出版物を制作していたが、版木は一字一句でも刻み間違いがあれば無価値となるため、1冊の本を出版するまでに多額の費用と時間がかかった。そのため、版木自体への財産的価値が認められるとともに、そこから生み出される出版物に対する権利も派生すると考えられた。従って、版木の製作及び印刷を実際に行う版元(書物問屋・地本問屋)もしくはそのために資力を出した者、あるいは彼らから版木自体を購入した者がその版木と出版物に関する権利を有すると考えられていた。これに対して、版木に刻む文字や文章、絵の図案そのものを考案した著作者の権利は間接的に考慮されるに過ぎなかった。
重版
『重版』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E7%89%88
出版文化と重版
日本の出版文化
日本では、江戸時代の木版のときには、そのままの版木を使って刷り直すことが普通であった。ただし、挿絵などで、薄墨を使ったぼかしなどは、再版のときには再現されないことが多く、それを基準に版の前後を判定することも可能である。版木は出版者の財産として、大切に保管された。
類版
元板から一部を抜き書きしたり、外題をすりかえただけの模倣書物
参考:『重板と再板は大違い、本屋の用語 』第8回 江戸の特殊な出版事情 成蹊大学日本文学科 日本探求特別講義B
http://www.book-seishindo.jp/2012_tanq/tanq_2012B-08.pdf
◎参考動画:『日曜美術館 ジャポニスム 西洋を変えた“美の波” 』−NHKオンデマンド https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2025148642SA000/
◎『浮世絵』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%AE%E4%B8%96%E7%B5%B5
浮世絵(うきよえ)は、日本の江戸時代初期に成立した、絵画のジャンルのひとつ。
概要
芸術より娯楽に徹し、後に風景画や花鳥画が流行るも、販売することに特化して製作された。
江戸時代までの絵画は公家、大名などの庇護による土佐派や狩野派が主であった。その中で風俗画も描かれていたが承応年間頃(1654年)には衰退し、庶民階級による風俗画が描かれるようになった。
これは、土佐派や狩野派から転身した者や庶民階級から出現した絵師が浮世絵の源流を形作ることになったことによる。明暦の大火により江戸の町が焼き尽くされた後、町人の経済力は強くなり風俗画はその階級の気風の要求に応えるものに変化していった。岩佐又兵衛の工房による風俗画はそれまでの風俗画と浮世絵を繋ぐものであり、菱川師宣に至り風俗画を1枚の独立した絵画作品としたことで浮世絵の始祖と呼ばれている。
浮世絵の作品形態は、肉筆画(筆で直に描いたもの)と木版画(印刷物)に分かれ、後者は一枚摺と版本(書籍)に分かれるが、庶民に広まった背景として、大量生産とそれによる低価格化が可能な版画形式があげられる。商業資本たる版元の企画の下での、絵師(作画)、彫師(原版彫)、摺師(印刷)の分業体制が確立され、まとまった部数を摺ることによって、廉価で販売、版本の場合は貸し出すことが出来た。
題材は、大名や武家などの支配階級ではなく庶民町民階級からみた風俗が主であり多岐に及ぶ。初期には歌舞伎や遊郭などの享楽的歓楽的世界が対象となっており多くの役者絵や美人画が描かれていった。後に武者絵や風景画(名所絵)など数多くの題材に拡がっていった。同時に流行や報道的な社会性を帯びていることから、江戸幕府に対する体制批判や風俗の乱れを封じるために度々内容に規制をかける禁令が幕府より出される事態にもなった。
19世紀後半になるとパリ万国博覧会(1867年)に浮世絵も正式出品され反響を呼び、ジャポニスムのきっかけにもなり印象派の画家たちに影響を与えた。 20世紀以降では、変化・消失した名所、人々の生活や生業、文化などを伝える歴史資料としても活用されている。
語源
「浮世絵」の語の初出は、1681年(延宝9年)の俳書『それそれ草』での「浮世絵や 下に生いたる 思ひ草 夏入」である。
「浮世」とは、平安時代初期に見られる「苦しい」「辛い」を意味する「憂し」の連体系である「憂き」に名詞の「世」がついた「憂き世」が語源であり、一例として『伊勢物語』では「つらいことの多い世の中」という意味で用いられる。一方で、同時代の「古今和歌集」「後撰和歌集」「拾遺和歌集」の三代集では「世のうき時」「うき世の中」といった表現が多く未だ語句として定まっておらず、「うき世」が多用されるのは平安時代中期の「後拾遺和歌集」以降である。平安時代末期になると定めない無常の世という観念が付加され「浮き世」と表記されるようになるが、これには漢語「浮生」の影響もあったとされる。
中世末・江戸時代初頭になると、前代の厭世的思想の裏返しとして享楽的に生きるべき世の中と逆の意味で使われるようになる。そこから「浮世絵」に代表されるように当代流行の風俗を指す「当世風」といった意味でも用いられるようになる。
『柳亭記』(1826・文政9年頃)において、「浮世といふに二つあり。一つは憂世の中、これは誰々も知る如く、歌にも詠て古き詞なり。一つの浮世は今様といふに通へり。浮世絵は今様絵なり。」と説明している。
歴史
江戸前期 – 慶長・元和年間(1596年-1624年)から宝暦年間(1751年-1764年)、約150年
江戸中期 - 明和元年(1764年)から寛政年間(1789年-1801年)、約35年
江戸後期 - 享和年間(1801年-1804年)から慶応年間(1865年-1868年)、約70年
明治以降 - 明治元年(1868年)以降
江戸前期
浮世絵の始まりは、遊里や芝居町の遊女や役者を描いたものとされる。最初期の浮世絵には、版画がなく、肉筆画のみであった。桃山期の「洛中洛外図屏風」と比べ、岩佐又兵衛の同屏風(通称「舟木本」。慶長19年-元和元年〈1614-15年〉)は、民衆の描写が目立つようになり、そこから寛永年間(1624-44年)頃に「彦根屏風」「松浦(まつら)屏風」(3点とも国宝)といった、当世人物風俗を全面に出す作品が生まれた。「湯女図」(MOA美術館蔵。重要文化財)での、左から三番目の桜花柄小袖の女に見る、体を「く」の字に折る姿勢は、後の菱川師宣や、懐月堂派らの見返り美人図の原型になったとの指摘がある。
美人画は、風俗画からの発展だけでなく、禅寺にあった明朝の楊貴妃像を日本女性にあてはめた説があるが、落款に「日本絵師」「大和絵師」と書したのが、菱川師宣である。安房国の縫箔(金銀箔を交えた刺繍)屋出身。「見返り美人」(東京国立博物館蔵)に代表される掛物(掛け軸)のほかに、巻子(かんす。まきもの。)、浮世草子、枕絵などの版本と、多彩な活動をした。師宣の登場は、17世紀後半に、江戸の文化が、上方のそれに肩を並べる契機となる。版本は、最初は墨一色だが、後期作品として、墨摺本に筆で彩色する「丹絵」が表れ、一枚摺りも登場する。 師宣没後、奥村政信は、赤色染料を筆彩した紅絵や、墨に膠を多く混ぜ、光沢を出す漆絵、柱絵に浮絵も創始し、2・3色摺りを可能にした紅摺絵や、拓本を応用した、白黒反転の石摺絵の創始にもかかわった。そして、絵師だけでなく、版元「奥村や」を運営し、自由な作画と販売経路を得た。また、自身の作品を取り扱うだけでなく、他の版元と商品を卸しあい、商機を広めた。活動期間も半世紀に渡った。
歌舞伎は江戸初期に生まれ、幕府の禁令もあり、成人男性のみが演ずる形になった。歌舞伎の役者絵に特化したのが鳥居派である。「瓢箪足蚯蚓描(ひょうたんあし みみずがき)」と呼ばれる、瓢箪のようなくびれた足に、蚯蚓が這いまわったような強い墨線を生かした描写、「大々判」という大きな判型(約55×33センチ)で知られた。鳥居派は現在も継承されており、歌舞伎座の看板を手がけている(鳥居清光)。
懐月堂安度ら懐月堂派は、工房で肉筆の美人画を量産した。庶民を購入層とし、安価な泥絵具を用いた。
1720年(享保5年)に8代将軍徳川吉宗が禁書令を緩和し、キリスト教に関係のない蘭書の輸入を認めたことで、遠近法を用いて描かれた銅版画等を見る機会が生まれた。遠近法は、奥村らによる浮絵を生むこととなる。
江戸中期
明和元年(1764年)、旗本など趣味人の間で絵暦交換会が流行した。彼らの需要に応えたのが鈴木春信である。彼らの金に糸目をつけない姿勢が、多色(7・8色)摺り版画を生みだすこととなった。錦のような美しい色合いから「錦絵」(東・吾妻錦絵)と呼ばれる。上述の奥村政信らが、重ね摺りの際、ずれを防止する目印、「見当」を考案したことと、高価で丈夫な越前奉書紙が用いられたことが、錦絵を生み出す要因となった。錦絵は明和以降、「江戸錦絵」と呼ばれ、江戸の特産品として発展した。
春信の錦絵は、絵暦以外でも、和歌や狂歌 、『源氏物語』『伊勢物語』『平家物語』などの物語文学を、当世風俗画に当てはめて描く「見立絵」が多く、教養人でないと、春信の意図が理解できなかった。高価格の摺物であり、ユニセックスな人物描写も含め、庶民を購入対象としていなかった。
墨の代わりに露草等の染料を用いた「水絵」(みずえ)が、明和年間初頭に流行り、春信らの作品が残るが、現存する作品は、大部分が褪色してしまっている。
勝川春章は安永年間(1772-81年)に細判錦絵にて、どの役者か見分けられる描写をし、役者名が記されていなければ特定不能な、鳥居派のそれを圧倒した。同様の手法で、相撲絵市場も席巻した。天明年間(1781-89年)には、肉筆美人画に軸足を移し、武家が購入するほど、高額でも好評であった。弟子の春好は、役者大首絵を初めて制作した。
鳥居清長は書肆(しょし。書店のこと。)出身で、屋号の「白子屋」をそのまま号とした。天明年間(1781-1789年)に、長身美人群像を大判横2・3枚続きで表現した。前景の群像と後景の名所図は、違和感なく繋がり、遠近法の理解が、前世代の奥村らより進んだことが分かる。鳥居派として、役者絵も描いたが、上述の組み合わせを応用し、役者の後ろに出語り(三味線と太夫)を入れ込む工夫をした。春画『袖の巻』は、12.5×67センチという、小絵のように極端な横長サイズに、愛する男女をトリミングして入れ込んだ、斬新な構図である 。
喜多川歌麿が名声を得るのは、版元蔦屋重三郎と組み、1791年(寛政3年)頃に、美人大首絵を版行してからである。 雲母摺りの「婦人相学拾躰」、市井の美人の名前を出せないお触れが出たので、絵で当て字にした「高名美人六家撰」、顔の輪郭線を無くした「無線摺」、花魁から最下層の遊女まで描く等、さまざまな試みを蔦重の下で行った。また絵入狂歌本『画本虫撰』『潮干のつと』等では、贅を尽くした料紙、彫摺技術がつぎ込まれた 。1804年(文化元年)、『絵本太閤記』が大坂で摘発され、手鎖50日の刑を受け、その2年後に没した。
寛政2年(1790年)、「寛政の改革」の一環として、改印(あらためいん)制度ができた。以降も松平定信が老中を辞す寛政5年(1793年)まで、浮世絵への取り締まりが度々行われた。上述の歌麿が受けた、「市井の美人の名前を出せないお触れ」もその一つである。改印制度自体は、明治5年(1872年)まで続く。
寛政7年(1795年)5月、蔦屋重三郎が、東洲斎写楽による大首役者絵28点を一挙に版行する。無名の絵師に、大部でかつ高価な黒雲母摺大判を任せるのは異例である。版元の判断だけでなく、何らかのスポンサーがいたのではと考えられる。また当時、歌舞伎座が不況にあえいでおり、鳥居派もそのあおりを食らっていた。その間隙を縫ったのが蔦重である。それまでの役者絵は、贔屓客に買ってもらう為、役者を美化して描いたが、写楽は、悪役の醜さや、女形の老いを描いた。28点の当時の評価については、記録が無いが、その後の作品からは、写実描写が影を潜め、定紋や屋号の誤りも見られるようになり、大田南畝ほか『浮世絵類考』(享和2年・1802年)に記されるように「あまりに真を画かんとてあらぬさまに書なせしかば長く世に行はれず。一両年にして止む」こととなった。活動期間は10か月以下だった。
対して、歌川豊国は、典型的な美化した役者絵や、曲亭馬琴・山東京伝らの読本挿絵を描いて、商業的成功を得る。『絵本太閤記』で歌麿と共に摘発されたが、歌麿没後は、美人画でも彼の隙間を埋めることとなる。多くの弟子を得、浮世絵最大流派となる歌川派の基礎を築く。
江戸後期
渓斎英泉は遊女屋や白粉屋の経営をしていた経験があり、それが美人画に活かされたのか、「婀娜あだ」と呼ばれる、「鼻筋が通った面長で、つり目で受け口の歪曲された顔貌表現」といった、その時代特有の美を示した。
英泉と同時代の祇園井特は、京で廃頽的な美人肉筆画を描いた。文化・文政期(1804-30年)には、下唇が緑色に見える笹紅が流行する。
葛飾北斎は、勝川春章の下で役者絵を描き、その後、俵屋宗理(そうり)を名乗り、独自の肉筆美人画様式を得、そして北斎を名乗る。銅版画を真似た名所絵木版実験作を発刊、曲亭馬琴の読本『椿説弓張月』で挿絵を担当し、馬琴との共著が続くこととなり、絵師としての名声を得る。その後『北斎漫画』もヒットし、版元西村屋与八と組んだ『富嶽三十六景』で輸入染料ベロ藍を用い、藍一色摺りや拭きぼかしを駆使し、斬新な構図も含め、広く世間に受け入れられる。その後西村屋と『諸国瀧廻り』『諸国名橋奇覧』や、版本『富嶽百景』も版行し、名所絵という新ジャンルを確立した。90歳で亡くなるまで絵師であり続けた。娘応為 は、晩年の父の作画を手伝ったとされ、自身も明暗を強調した肉筆画を残した 。
歌川広重は、『東都名所』(文政13-天保2年・1830年-31年)以降、ベロ藍を用いるが、北斎に比べ、抑えた色使いであった。天保5年(1834年)頃、版元保永堂から『東海道五十三次』全55枚揃えを版行する。残存枚数及び版木の消耗具合から、相当売れたことが推察できる。また、全揃いを画帖に仕立てたものもあり、武家や豪商の購入が考えられる。『富嶽三十六景』と版行時期が近く、版元と広重が、北斎を意識していたと考えられる[90]。安政3-5年(1856年-58年)に、版元魚屋(さかなや・ととや )栄吉の下、目録を含め120枚揃い(うち1枚は二代広重筆)の『名所江戸百景』が版行される。
本シリーズでは、ベロ藍に加え、洋紅も用いられるが、『東都名所』同様、色使いは抑制される。また広角レンズで覗いたような、前景を極端に大きく画く「近接拡大法」を、多くの作品で採用している。全て縦長であることも、これまでの名所絵には無いもので、『東海道五十三次』同様、画帖仕立の為と考えられる。
歌川国貞は豊国門下で名を上げ、三代豊国を襲名する。柳亭種彦と組み、『偐紫田舎源氏』等の合巻の挿絵で成功を得る。役者絵や美人画でも人気を得、最晩年、版元恵比寿屋庄七での、役者大首絵シリーズ全60図は、生え際の彫りや空摺り・布目摺り、高価な顔料を用いる等、手間暇がかけられており、一枚百数十文から二百文で売られたようだ。市場の成熟ぶりが見られるが、このシリーズでは、出資者に関する史料が残っている。浮世絵師として、最も多くの作品を残したといわれる。
元 ・明期に成立し、日本でも読本に取り入れられて人気を得た「水滸伝」は、当然のごとく、浮世絵でも取り扱われる。歌川国芳は、版元加賀屋吉右衛門での『通俗水滸伝豪傑百八人』シリーズで人気を得る。2・3枚続きもあり、国貞の役者絵同様、高価だったと思われる。天保14年(1843年)の「源頼光公館土蜘作妖怪図(みなもとの よりみつこうの やかたに つちぐも ようかいを なすの ず)」は『太平記』に記される平安時代中期の逸話だが、版行後、「 天保の改革」での贅沢禁止を揶揄し、12代将軍家慶 と 老中 水野忠邦を描き込んだと噂が立ち、加賀屋は摺物を回収、版木を削り落としたが、海賊版が横行した。 なお、江戸時代は、大坂冬の陣・夏の陣 や、島原の乱を除けば、泰平の世であり、かつ織豊期以降の時代風刺は禁じられていた ので、それ以前の史実を、当世の暗喩として表現する方法を取った。暗喩の有無を問わず、これらの作品を「武者絵」と呼ぶ 。
国芳は役者絵以外に、「戯画」も多く作画し、「金魚づくし」シリーズ等、動物を擬人化したり、「みかけハこハゐがとんだいゝ人だ」のように、複数の裸の男を組み合わせ、顔を表現したり、天保の改革で役者絵が禁止されたので、「荷宝蔵壁のむだ書」のように、壁のひっかき傷で役者をひそかに表現したりした。改革に抵抗し、笑い飛ばす姿勢が窺える。
安政2年(1855年)10月、江戸で大地震が発生し、その直後、「鯰絵」が多くの版元から版行された。ナマズが地震を起こすという言い伝えは、江戸時代中期からあった。ナマズは日本列島を下から支え、その頭部が鹿島神宮にあたり、神宮境内に鎮座する「要石(かなめいし)」でナマズを押さえていたと考えられたが、地震当日は神無月だった為、鹿島明神が出雲大社 での神々の会議で出払っていたせいで、地震を抑えられなかったと江戸の人々は考えた。
その為、鹿島明神がナマズを要石で押さえつける鯰絵が緊急版行された。それ以外にも多くの図柄があり、ナマズが町人に地震を起こしたことを謝ったり、家屋の普請を手伝ったりする絵もある。緊急版行なので、改印および版元・絵師印は皆無だが、画風から歌川派作品が多いと推測される。前向きに生きていこうとする町人の勢いが垣間見える。
嘉永7年(1854年)3月、 日米和親条約により、200年以上に渡る「鎖国」は終焉した。安政5年(1858年)には 日米修好通商条約及びオランダ・ ロシア・フランス・イギリスと、同等の条約が結ばれ、和親条約で定められた 下田・ 函館2港に加え、4港開港とそこでの居住が許された。その内、江戸から最も近い横浜は、翌安政6年(1859年)に開放され、江戸・神奈川の人々は、これまでに見たこともない、外国人の顔貌や服装、建造物に興味を引かれた。その結果生まれたのが「横浜絵」である。1860年(安政7・万延元年)から1872年(明治5年)にかけて、大部分が江戸の版元から版行された。絵師は 歌川芳虎 ・ 芳員ら、国芳門下が多い。また、五姓田芳柳らによる、居留者の似顔を、絹地に在来顔料で陰影を付けて描き、それに和装姿をモンタージュした「絹こすり絵」(絹本肉筆画)も、横浜絵に含まれる。
慶応2-3年(1866年-67年)に、国芳の門人である月岡芳年と、芳年の弟子である落合芳幾による「英名二十八衆句」が版行された。これらの28点は、鶴屋南北作『東海道四谷怪談』の歌舞伎ものや、史実から取られ、全点が殺戮を描く「血みどろ絵」である。同時期に、土佐国の町絵師絵金が、芝居の題材を元に、「血みどろ絵」二双屏風(二つ折りの屏風)を残した。これらの作品が生まれたのは、その時代、実際に切り捨てられた屍骸を見たためではと指摘される。
明治以降
慶応3年(1867年)、徳川慶喜の大政奉還により、徳川幕府260年余の歴史は終わる。その後、反幕府側の薩摩藩が、慶喜に圧力を掛けたため、翌慶応4年(1868年)に、鳥羽・伏見の戦い、後の戊辰戦争 に至る。それらを版行したのが「戦争画」であり、江戸期の「武者絵」とは区別する。特に江戸が戦場となった、上野山での、彰義隊と新政府軍との戦いが多く版行された。旧幕府側には、旧来の「改め」をする力は無く、新政府側にとっては、自派の宣伝になるのだから、版行を黙認した。それ以降も、佐賀の乱、台湾出兵(ともに明治7年・1874年)、西南戦争(明治10年・1877年)、日清戦争(明治27年-28年・1894年-95年)、日露戦争(明治37年-38年・1904年-05年)が版行された。
1868年(慶応4年)7月、江戸は「東京」に改められ、9月に明治に改元、翌明治2年(1869年)2月に天皇が旧江戸城に入り、名実ともに日本の首都となる。明治5年(1872年)には、新橋-横浜間に鉄道が開通し、日本橋周辺に、木造に石材を併用し、2階建て以上、バルコニー付きの「擬洋風建築」が建てられてゆく。それに人力車・馬車やガス燈など、東京の変遷ぶりを描いたのが「開化絵」である。三代広重や、国輝らの歌川派が代表例で、「洋紅」を多用した、どぎつい色調のものが多い。
小林清親は、下級武士として、将軍家茂・慶喜に従い、鳥羽・伏見の戦いに加わり、旧幕府敗北後、謹慎する慶喜に従い、静岡へ。明治7年(1874年)、東京に戻り、絵師として立つ。光を意識した東京名所図を描き、「光線画」と呼ばれる。都市を描く点では「開化絵」の要素もあるが、絵師ごとの個性が乏しいそれとは、物の見方や色使いが異なる。
幕末に血みどろ絵を描いた月岡(大蘇)芳年は、明治10年代半ばになると、「歴史画」に注力する。
開国・新政府成立により、欧化政策が勧められ、明治9年(1876年)には、工部省が「工部美術学校」を設立し、イタリア人画家・彫刻家・建築家を招聘する。しかし政府は、輸出品として、ヨーロッパの真似ではなく、在来の工芸品の方が売れることを認識する。そして、国内体制を強固にするには、天皇の権威を高め、「国史」の重要性を認識し、歴史画が尊ばれることとなる。また、欧化政策によって冷や飯を食わされていた狩野芳崖・橋本雅邦らは、文部官僚の岡倉天心と、政治学・哲学のお雇い教師 として来日したが、その後日本美術に開眼し、天心と行動を共にするアーネスト・フェノロサの、洋画と南画を排斥した、新しい絵画を生み出す主張に同調する。
その時代に注目されたのが、菊池容斎の『前賢故実』(全10冊。天保14年-明治元年・1843年-68年)である。神武天皇から南朝時代の後亀山天皇時代までの公家・貴族・僧・武士・女房ら571人の故実と、彼らに見合う装束と顔貌を見開き一丁(2ページ)に描いたもので、明治10年代以降、画家の「粉本」として盛んに引用される。浮世絵師を含む在来画家に限らず、洋画家も『前賢故実』を参照して描くことになる。
日清・日露戦争後、新聞や雑誌、石版画・写真に絵葉書が普及し、浮世絵師は、挿絵画家などへの転向を余儀なくされる。明治40年(1907年)10月4日朝刊の朝日新聞「錦絵問屋の昨今」には、「江戸名物の一に数へられし錦絵は近年見る影もなく衰微し(略)写真術行はれ、コロタイプ版起り殊に近来は絵葉書流行し錦絵の似顔絵は見る能はず昨今は書く者も無ければ彫る人もなし」とある。鏑木清方は、かろうじて大正時代まで絵草紙屋があったと語る。
逆風のなか渡辺庄三郎は、1905年(明治38年)に摺師と彫師を雇用して、版元を興す。当初は古版木摺り、及び良質な摺り物からの版木起こしと、復刻品だけだったが、大正に入り、絵師と交渉して、新版画を制作するようになる。橋口五葉・伊東深水・川瀬巴水・山村耕花らを起用し、また彼らも木版画による表現に刺激を受けた。
1923年(大正12年)、関東大震災 によって、渡辺も壊滅的な被害を負い、多くの版元が廃業に追い込まれた。しかし彼は再起し、渡米経験のある吉田博を起用、欧米で売れる作品を版行した。渡辺は昭和37年(1962年)に亡くなるが、彼の版元は21世紀でも健在である。また、アダチ版画研究所も同様の制作・営業を行っている。
浮世絵の画題
→「Category:浮世絵の種類」も参照
大久保(1994)[142]を参考に、区分する。そこに記載されていない「死絵」「長崎絵」「歴史画」「おもちゃ絵」を追加した。大久保(1994)以外の文献を用いた場合は、注を付す。
死絵。八代目市川團十郎。1854年。涅槃図の見立て。32歳で自死し、約300種の死絵があるとされる。[143]。
美人画
成人女性を描いたもので、遊女や茶屋の看板娘が多く描かれた。
見立絵
和漢の故事や謡曲の場面を当世装束に当てはめて描いたもの。和歌や漢詩は記されても、細かな説明はない。
春画
枕絵とも呼ぶ。男女(同性同士もある)の営みを描いたもの。非合法であり、絵草紙屋(書店)に並ぶことはなく、富裕層が肉筆画を注文したりした。
役者絵
歌舞伎の人気役者や上演場面を公演ごとに描いたもの。
死絵
人気役者が亡くなった時、報道を兼ねて出されたもの。歌川広重・歌川国貞のものもある[144][145]。
名所絵
明治以降の、画家が良いと思った所ではなく、人々に広く知られたところを描いた。絵師は取材せずに、既にある絵から写したものが多い。
浮絵
蘭書の挿絵を見た絵師が、そこでの線遠近法を誇張して建造物等を描いたもの。
相撲絵。写楽「大童山土俵入」1794年。取組はしない見世物の肥満少年。
花鳥画
主要画題ではなかったが、喜多川歌麿・葛飾北斎・歌川広重・小林清親らが質の高い作品を残した。
武者絵
故実だけでなく、当世事情を織豊期以前の武将に当てはめ(直接表現はご法度だった)、ひそかに幕府批判をする例があった。
戯画
葛飾北斎『北斎漫画』の他に、歌川国芳が得意とした。浮世絵#江戸後期参照。
相撲絵
力士や土俵入り、取り組みを描いたもの。役者絵同様、興行ごとに新作が出る。
長崎絵
蘭船や出島でのカピタンや唐人、彼らの風習を描いた。一枚絵は合羽摺が多く、長崎の版元から売り出された[146]。
長崎絵。カピタンと彼に仕える少年。18世紀後半。合羽摺。
鯰絵
1855年(安政2年)の大震直後に出た絵。浮世絵#江戸後期参照。
横浜絵
開国後、横浜を舞台にした外国人の風俗を描いたもの。浮世絵#江戸後期参照。
開化絵
維新後の東京での、洋館・鉄道・馬車・人力車・ガス燈などを描いたもの。浮世絵#明治以降参照。
戦争絵
戊辰戦争から日露戦争までの戦争を描いたもの。浮世絵#明治以降参照。
新聞錦絵
1874(明治7年)、東京日日新聞別刷りに落合芳幾が描き、商業的成功を得、郵便報知新聞は月岡芳年を起用、追随する。純粋な新聞には速報性で劣るので、殺人など、過激な題材をどぎつい色を用いて描写した[147][148]。
歴史画
明治10-20年代に、国民意識を高めることを意識した、歴代天皇やその血族、忠君を描いたもの。浮世絵#明治以降参照。
おもちゃ絵
上方で組み立て模型「立板古」(たてばんこ)が流行し、江戸でも18世紀末に受け入れられる。明治期には歌川芳藤がおもちゃ絵専門絵師として活躍[149][150][151]。
主な版元
木版 1862年
→「地本問屋」も参照
娯楽出版物を扱う地本問屋(じほんといや・とんや)が浮世絵の版元となっている。「地本」とは、上方から齎されたものではなく、江戸独自のものであることを示す[152]。
松会三四郎 - 江戸最古の版元といわれる。菱川師宣の絵本などを出版。
鱗形屋三左衛門 - 菱川師宣の絵本、浄瑠璃本を出版。
伊賀屋勘右衛門 - 懐月堂度繁などの作品を出版。
鶴屋喜右衛門(鶴屋) - 老舗の一つ。『東海道五十三次』を途中まで出版。
奥村屋政信(鶴寿堂) - 自らの作品などを出版。
和泉屋市兵衛(甘泉堂・泉市) - 天明-明治初期の代表的版元。喜多川歌麿、歌川広重、歌川国貞などの作品を手がける。
西村屋与八 - 『冨嶽三十六景』など葛飾北斎の作品を多く手掛ける。
蔦屋重三郎 - 喜多川歌麿、東洲斎写楽らを輩出。
三平 ‐ 歌川広重の団扇絵を出版している。
伊場屋仙三郎 / 伊場屋久兵衛(伊場仙 / 伊場久) - 東海道張交図絵(歌川広重)。元は幕府御用の和紙・竹製品店。それにもかかわらず、風刺絵や役者絵禁止令が出された後にも「落書き」と称して役者絵を出版している。団扇絵を多く手掛け、現在は日本橋で団扇、扇子、カレンダー業を営み、新宿伊勢丹、日本橋三越、銀座伊東屋などに出店している。
有田屋清右衛門 - 「東海道五十三次・有田屋版」(歌川広重)
伊勢屋利兵衛 - 「東海道五十三次 絵本駅路鈴」(葛飾北斎)
魚屋栄吉(魚栄) - 歌川広重、歌川国貞らの作品を手がける。
上村与兵衛(上ヨ / 上村) - 後発の新興版元。22歳の歌川国政を抜擢し、鮮烈なデビューを飾らせた。
川口屋正蔵 ‐ 歌川広重、歌川国芳の錦絵を出版。
蔦屋吉蔵 - 「東海道五十三驛之図」、「東海道・蔦屋版」(歌川広重)
西村屋祐蔵 - 「富嶽百景」(葛飾北斎)
藤岡屋彦太郎 / 藤岡屋慶次郎 - 「東海道風景図会」(歌川広重・文:柳下亭種員)
浮世絵版画の制作法
浮世絵版画の工房。
浮世絵版画の版木。
この章は、安達・小林(1994年)[153]池田(1997年)[154]を基に記述する。
企画を立てる人を版元、版元からの注文で描く人を絵師と呼ぶ。絵師が描いた下絵を版に彫るのが彫師、版木に色具を付け、紙に摺るのが摺師である。版元と絵師の名だけが作品に記されることが多いが、彫師・摺師の名が入ることもある。
版元が企画を立案し、絵師に作画を依頼する。
絵師が版下絵を描く。
絵師は墨線だけを用いて主版(おもはん)の版下を描く。
版元は版下絵を、絵草子掛りの名主に提出、出版許可の印を捺してもらい、彫師に渡す。
彫師が主版を彫る。
版材には、サクラの板目材を用いる。版の大きさは、18世紀終盤になると、「大判」と呼ばれる、奉書紙を縦に半切した大きさ(約39cm×約26.5cm)が主流となる。彫師は版下を版木に裏返しに貼り付け、主版を彫る。この工程で、絵師が描いた版下絵は、彫られて消滅する。
この工程で出来上がった主版を校合摺り(きょうごうずり)という。
摺師は主版の墨摺り(校合摺り)を10数枚摺って絵師に渡す。
絵師は校合摺りに各色版別に朱で色指定をする。また、着物の模様などの細かい個所を描き込む。
指示に従い、彫師は色版を作る。
色指定された校合摺りを裏返して版木に貼り、刀入れを行う。まず三角刀で各版に模様を彫り込むが、墨版については各色版の部分も含めて彫りを加える(無駄彫りという)。この無駄彫り版で摺った紙を版木に貼り付けて色数に応じた色版を彫る。無駄彫り版と色版とを絵合わせし、調整後、無駄彫り版の墨以外の部分を削り取る。
次に各版の不要な部分をのみと木槌で大まかに削り、さらに細いのみで仕上げ彫りを行う。
仕上げ彫りの工程で見当合わせ用の「鍵」と「引き付け」を残しておく。多色刷りの際に色がずれないように紙の位置を示す「見当」(トンボ)を作る。
摺師は絵師の指示通りに試し摺りを作る。
墨は固形のものを半年間水につけて乳鉢で細かくしたものを用いる。また、絵具には岩絵具に膠と水を混ぜて作る。紙は越前奉書が多く用いられ、滲み防止のため、膠とミョウバンの混合液「ドウサ(礬砂)」を塗っておく。
版木に墨及び顔料を刷毛(21世紀ではブラシ)で摺り込む。版木の表面に顔料を乗せるのではない。
絵師の同意が得られれば、初摺り200枚を馬楝で摺る。
絵草子屋から作品を販売する。
値段
浮世絵の値段は、しばしば「そば一杯」と同じとされる。実際の価格を調べると、浮世絵の形式や年代などによってバラつきがあるが、19世紀前後の大判錦絵の実勢価格は約20文前後で、19世紀半ばになっても総じて20文台で推移した事が、当時の史料や日記、紀行類などで裏付けられる。そば代は幕末で16文だったことから、ほぼ同等と見なせる[155]。
山東京伝の黄表紙『荏土自慢名産杖』(文化2年〈1805年〉刊)には、「二八十六文でやくしやゑ二まい 二九の十八文でさうしが二さつ 四五の廿なら大にしき一まい」というくだりがあり、しばしば諸書で引用される。なお、2枚で16文の役者絵とは、用紙もやや劣る細版の事だと考えられる。時代が遡った宝暦頃(1751-61年)の細判紅摺絵の役者絵は、1枚4文だったと記されている(随筆『塵塚談』文化11年〈1814年〉刊)が、これは紅摺絵が僅か2,3色摺りで、紙質も薄い分安価だったからだと考えられる。
寛政7年(1795年)の町触では、20文以上の錦絵は在庫限りは売ってよいが、新たに制作するものは16文から18文に制限されている(『類聚撰要』)。天保の改革では、色摺りは7,8回まで、値段は1枚16文以下に規制を受けている。この数字は採算割れすら招きかねない厳しい数字だったらしく、『藤岡屋日記』天保14年〈1843年〉春の記事には、紅を多用した極彩色の神田祭の錦絵は売れはしたが、16文の値段では売れば売るほど赤字になったという話が記されている。
鈴木春信の中版は、65文程度で売られ、代表作である「座舗八景」は8枚揃いで桐箱に入れられ、金1分(=銭1000文)もした[注釈 26]。他にも、天保の改革の風刺との風評が立った歌川国芳の大判三枚続『源頼光公館土蜘作妖怪図』は、商品回収のうえ、版木は削られる憂き目を見たが、歌川貞秀の模刻は、密かに100文で売られた(『藤岡屋日記』)り、同じく国芳の大判三枚続『八犬伝之内芳流閣』(1840・天保11年)は、1枚38文、3枚揃いで118文で売られ、曲亭馬琴は割高だと感じつつも、色版を多く使い通常より手間がかかっているからと聞き及んで、それを買い求めている(馬琴日記)[157]。
北斎研究家の永田生慈が、『北斎漫画』の版元であった名古屋の永楽屋東四郎に、値段を聞いたところ、「当時(幕末明初)の出版物は猛烈に高くて、普通の人が簡単に本を買いましょうという値段ではなかった」と証言している[158]。
明治になると出版条例改正によって定価表示が義務付けられ、浮世絵の値段がわかる。総じて1枚2銭、2枚続・3枚続でもこれに準じ、手間がかかるものはこの基準価格に5厘から1銭程度割増価格で売られている[159]。
展示と保存法
現代の美術館では、中性紙の厚紙(マット)の中央をくりぬき、もう一枚のマットと挟み込んで、保存する。展示時はそれを額装する[160]。紫外線による褪色を防ぐため、直射日光を避け、紫外線カットの照明下で展示すべきである。通年展示してはならない[161][162]。
展示しないときの保存方法としては、額から外し、水平に置くことが望ましく、変色を防ぐため、防虫剤の入っていない桐箪笥など、湿度調整が効く箱に仕舞うことが良い[163]。
絵具
葛飾北斎『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』
三代目歌川広重『新橋駅』
浮世絵版画に用いられたのは、植物由来の染料や鉱物由来の顔料であるが、19世紀になると、化学染料が輸入、使用される[164][165][166]。
黒は墨が用いられ、多色刷り版画では以下の顔料・染料が用いられる。
赤色系
染料
紅:紅花から精製される
顔料
弁柄(紅殻):酸化第二鉄
丹(鉛丹・光明丹):酸化鉛
朱:硫化水銀
黄色系
染料
ウコン:根茎から抽出
黄檗:黄蘗(オオバク)の樹皮から抽出
籐黄:ガンボージ
顔料
石黄(生黄):硫化砒素
青色系
染料
露草青:露草の花弁絞り汁を濃縮したもの
藍:藍葉を発酵させたもの
顔料
ベルリンブルー(ペルシャンブルー):ベルリン酸塩(ベロ、ベロ藍とも)
などがあり、中間色はこれらを混ぜ合わせて表現した。
その他、版画の表現に以下のものが用いられた。
雲母:ケイ酸化合物(背景に用いたものは雲母刷(きらずり)と呼ばれる[167]。
金属:金、銀、銅を粉や箔として。高価な為、商業用ではなく、パトロン対象の「摺物」で使用。
白色顔料は、「摺物」を除き、和紙の地の色を生かし、ほとんど用いられなかった。
後世の評価・収集
葛飾北斎『富嶽三十六景 凱風快晴』
(左)歌川広重『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』
(右)ゴッホによる模写(油彩画)
19世紀以降、多量の作品が国外に渡り、ヨーロッパの芸術家たちに影響を与えた。当時写実主義かつ神秘主義の影響を受けている形に嵌った芸術が多かった中で、浮世絵の自由な構図、市政や虫や小鳥を題する生命への礼賛、余白による静の描写など当時のヨーロッパの芸術家にはどれも新鮮だった[168]。ボストン美術館には約5万点[169]、ヴィクトリア&アルバート博物館には約3万8000点[170]、大英博物館には2万点[170]、プーシキン美術館には約3万点[要出典]、その他ドイツ、イタリアなど、欧米美術館[170]、大学等教育機関収蔵品、個人コレクションなど、海外にはおよそ50万の浮世絵が収蔵されており、これは国内の30万を超えるとされる[171]。
一方で、国内の評価は明治期になると「卑しきもの」の風潮が支配的となり、明治25年(1892年)に小林文七が開催した日本初の「浮世絵展」の品目序文の中で、美術商の林忠正は「日本では浮世絵版画を卑しい紙絵と見下している。このままでは日本から浮世絵は失われてしまうだろう」と危機感を露にしている。また林の協力の下で、1896年に『北斎―― 一八世紀の日本美術』を刊行したエドモン・ド・ゴンクールも、代表的な浮世絵師であった葛飾北斎を引き合いに「日本では今もって北斎を軽蔑している」と綴っている。これら明治期の日本人の浮世絵や浮世絵師に対する低評価について、浮世絵研究家の鈴木重三は「日本人に審美眼が丸っきりなかったためではなく、その頃の世の中がそちらまで目を向ける余裕がなかっただけのこと」だと論じている[172]。
版木を所蔵している美術館や博物館、図書館などもある。版木は使用後に破棄されることが多かったため、貴重な文化遺産であり、版木の調査・修復、さらに所蔵施設との許可を得て、摺りを再現する版画家もいる[173]。
日本の主要な個人コレクション
国内では、大名家や実業家のコレクションがある。
津島コレクション:房総浮世絵美術館
浦上コレクション:山口県立萩美術館・浦上記念館
小針コレクション:光記念館
酒井コレクション:日本浮世絵博物館
高橋コレクション:慶應義塾図書館
松方コレクション:東京国立博物館
青木コレクション:那珂川町馬頭広重美術館
氏家武雄コレクション:鎌倉国宝館
出光コレクション:出光美術館
大谷コレクション:旧ニューオータニ美術館[注釈 27]
太田コレクション:浮世絵 太田記念美術館
今西コレクション:熊本県立美術館
平木コレクション:平木浮世絵美術館 UKIYO-e TOKYO
松井コレクション:礫川浮世絵美術館
日本国外への影響
ゴッホ『タンギー爺さん(1887年夏)』
浮世絵がヨーロッパに最も早く渡った例として、1798年(寛政10年)に、カピタンらが葛飾北斎に日本人男女の一生を図した巻子を注文し、故国に持ち帰ったことが挙げられる。またシーボルトは多量の日本資料を持ち帰り、1832-52年に『Japonica』20分冊を刊行するが、そこには『北斎漫画』が掲載されている[174]。
1856年、ブラックモンが、日本から輸入された陶磁器の包み紙に使われていた『北斎漫画』を見せ回ったことで、美術家に知られるようになったとの「逸話」は、1990年以降では、疑問視されている[174][175]。
ゴッホが『タンギー爺さん』の背景に浮世絵を描き込んだり、歌川広重の作品を模写した。エドゥアール・マネ、エドガー・ドガ、メアリー・カサット、ピエール・ボナール、エドゥアール・ヴュイヤール、ロートレック、ゴーギャンらにも影響を与えた(ジャポニスム)[176]。
日本美術を取り扱っていたビングは、自身の工芸作品に浮世絵表現を取り入れた[177]。
クロード・ドビュッシーは、葛飾北斎の神奈川沖波裏を所蔵し、同図の波の形状を、『交響詩“海”』の楽譜表紙に採用した[178][179][注釈 28]。
浮世絵師(うきよえし)とは、浮世絵を描く絵師のこと。画工とも。
概要
浮世絵師の祖は菱川師宣とされる。師宣は肉筆浮世絵のみならず、版本挿絵も手掛け、後に挿絵を一枚絵として独立させた。浮世絵版画は当初墨一色の表現(墨摺絵)だったが、その後、筆で丹を彩色する丹絵、丹の代わりに紅で彩色する紅絵、数色の色版を用いた紅摺絵、多くの色版を用いる錦絵、と発展した。
浮世絵師は江戸時代寛文期(1661年 - 1673年)に登場し、その終焉は明治時代で、日清日露戦争(1904年-明治37年から翌年にかけて)の後といわれる。
画題としては、役者絵、美人画、武者絵、名所絵、春画などがあり、幅広い画題に秀でた浮世絵師や、特定の分野が得意な浮世絵師がいた。
浮世絵版画における浮世絵師の役割
浮世絵版画では、一般に作品は浮世絵師の名前だけが知られるが、作成においては、版元、浮世絵師、彫師、摺師の協同・分業によっていた。浮世絵師の役割としては、
版元からの作画依頼を受ける
墨の線書きによる版下絵の作成
版下絵から作成した複数枚の主版の墨摺(校合摺)に色指し(色指定)する
摺師による試し摺の確認を版元と共に行う
があげられる。
浮世絵師の系譜
主な浮世絵師の系譜としては、以下のような系列がある[1]。
菱川派(菱川師宣)
鳥居派(鳥居清信)
宮川派(宮川長春)
勝川派(勝川春章)
葛飾派(葛飾北斎)
北尾派(北尾重政)
鳥文斎派(鳥文斎栄之)
歌川派(歌川豊春)
国貞系(歌川国貞)
国芳系(歌川国芳)
ある一門に弟子入りした者は、絵手本を利用して絵の描き方を学習する。多くの浮世絵師は、読本挿絵を担当することで絵師としての実力をその師から認められ、絵手本に登場する絵が、錦絵の作品中へと転用されていることもある。
『浮世絵師』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%AE%E4%B8%96%E7%B5%B5%E5%B8%AB より
『岩佐又兵衛』Wikipedia より https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E4%BD%90%E5%8F%88%E5%85%B5%E8%A1%9B
岩佐 又兵衛(いわさ またべえ、天正6年(1578年) - 慶安3年6月22日(1650年7月20日))は、江戸時代初期の絵師。又兵衛は通称で、諱は勝以(かつもち)。
武家出身ながら画家になり、京都・福井・江戸を巡り屏風・絵巻に傑作を残した。異名に「浮世又兵衛」「吃の又平(どもりのまたへい)」がある。
略歴
幼少期
摂津国河辺郡伊丹(現在の兵庫県伊丹市伊丹)の有岡城主、荒木村重の末子として生まれる。
誕生の翌年の天正7年(1579年)、村重は織田信長の家臣であったが、信長に反逆を企て、失敗する(有岡城の戦い)。落城に際して荒木一族はそのほとんどが斬殺されるが、数え年2歳の又兵衛は乳母に救い出され、石山本願寺に保護される。『岩佐家譜』では「西本願寺」と記されているが、当時はまだ西本願寺はなく、石山本願寺か京都の本願寺関連寺院だと推測される。
天正15年(1587年)に豊臣秀吉主催の北野大茶湯には誰かの供をして参加したらしく、その時の秀吉の思い出を後に又兵衛は自筆の紀行文『廻国道之記』に記している。成人した又兵衛は母方の姓とされる岩佐姓を名乗り、信長の息子・織田信雄に仕えたという。文芸や画業などの諸芸をもって主君に仕える御伽衆のような存在だったと考えられる。秀吉を慕っていた又兵衛が信雄に長く仕えたとも思われず、他にパトロンもさまざまに替えたと思われる。関白二条昭実の屋敷にも出入りしていたことがあり、『廻国道之記』では京都を「古郷」とし、「わかく盛んなる時、みやこに久しく住なれ、其の上二条は関白前太政大臣昭実公の御所に立ち入りし時、折節は詩歌のあそび、或る時は管弦、様々なりしを見もし聞きもするが」と記している。浪人となった又兵衛は勝以を名乗り、京都で絵師として活動を始めたようである。
福井へ移住
元和2年(1616年)、大坂の陣の翌年に、後に岩佐氏の菩提寺になる興宗寺第10世心願との出会いがきっかけで、京都を離れて北の庄(現福井県福井市)に移住する。背後に京都の文化人を誘致しようとした越前北ノ庄藩(福井藩)主松平忠直の意向があったとされるが、又兵衛は御用絵師として忠直に仕えたわけではなく、2人の関係は明らかでない。又兵衛の死後25年の延宝3年(1675年)に黒川道祐が出した随筆『遠碧軒記』で、福富立意という老人からの証言を書き留めた文章に「越前一白殿(忠直の号)御目かけられ候て」とあり、又兵衛が忠直と面識があったことが推定されるが、やはり詳しいことは分からない。
福井移住から7年後の元和9年(1623年)、忠直が不行跡により豊後へ配流された後、弟の松平忠昌に代替わりしても福井に留まり、20余年をこの地で過ごす。忠昌との関係も不明だが、少なからず関わりがあったと推測され、真宗高田派本寺の正統性を巡り一身田専修寺と争った法雲寺が寛永10年(1633年)に忠昌へ提出した請願書を筆記、請願書は又兵衛の署名付きで現存している。また福井在住期は作品を多数制作、忠直時代は古浄瑠璃絵巻群以外に「旧金谷屏風」「三十六歌仙画冊」「人麿・貫之像」が確認され、続く忠昌時代は「池田屏風」「太平記 本性房振力図」「和漢故事説話図(和漢故事人物図巻)」などが確認されている。これらの活動を通じて又兵衛の名声は福井から外に広まり、弟子たちの助けを借りて多くの注文をこなしていったと推察される。
福井から江戸までの旅行
寛永14年(1637年)、又兵衛は妻子を残して福井を離れ、京都に立ち寄ってから東海道を旅して江戸へ向かった。理由は忠直・忠昌兄弟の従弟の江戸幕府3代将軍徳川家光の招きがあったからとされ、『岩佐家譜』は又兵衛の名声を耳にした家光が娘の千代姫が尾張藩2代藩主徳川光友に嫁ぐ際の装具を描くために呼び寄せたとしている。福井から江戸までの旅行は旅日記・廻国道之記に書いている。
廻国道之記では最初の部分が欠落、柴の庵を出て近くの九十九橋(現福井県福井市)を通る所から文章が始まり、湯尾峠で大雪に悩まされ榛原(葉原、現敦賀市)に着いたことが書いてある。道中は氣比神宮を参詣して敦賀を出発、西近江路の荒道山を越えて海津(現滋賀県高島市)に到着、そこからは琵琶湖西岸を歩いて大津宿に宿泊、逢坂山を超えて京都へ入った。京都では二条油小路(現京都府京都市中京区)の友人と再会、懇切なもてなしを受けて10日余り滞在した間に京都のあちこちを見物、四条河原で浄瑠璃芝居や若衆踊りを見物し方広寺大仏殿・三十三間堂・豊国神社を訪れ、感慨に耽った文章を残している。北野大茶湯や二条昭実の屋敷での思い出も綴り懐かしい思い出に浸ったかと思えば、現在の自分の年齢と境遇(耳順・数え年60)や京都の変わりように嘆く一面も書いている。3月5日に友人たちと別れの酒を酌み交わして京都三条大橋を出発、再び逢坂山を越えて大津宿を再訪、旅の様子を綴りつつ大津から瀬田の唐橋に近付いた所で欠落、鈴鹿峠を超えて関宿に向かう所で文が続いている。
関宿からは東海道を進み亀山宿、庄野宿、石薬師宿、四日市宿、桑名宿まで陸路、桑名宿と宮宿の間を船で渡った(七里の渡し)。それから再び陸路で歩き行く先々で歌を詠んだり、石薬師寺・熱田神宮・富士山などの名所を訪れ、天竜川・大井川・富士川などの大河を渡り、八橋や小夜の中山など伊勢物語や西行にまつわる名所にも触れて感想を書いたりして旅を続け、三嶋大社へ参詣した所で廻国道之記は途切れている。又兵衛が江戸に到着した時期は不明だが、砂川幸雄は寛永14年4月初旬頃としている。
晩年
寛永14年、前述の通り家光の招き、あるいは大奥で地位のあった同族の荒木局の斡旋で、幕府の御用絵師狩野探幽・尚信兄弟が多忙という事情も相まって又兵衛に声がかかり、千代姫の婚礼調度制作を命じられ、江戸に移り住む(千代姫は2年後の寛永16年(1639年)に嫁いだ)。徳川美術館所蔵の婚礼調度は又兵衛が意匠を手掛けたとされる。また寛永15年(1638年)に焼失した仙波東照宮の再建に際し、拝殿に「三十六歌仙図額」を奉納する仕事を命じられ、作業が遅れたため再建工事を指揮する大工頭木原義久から催促の手紙を送られたが、寛永17年(1640年)6月17日の新社殿落成に間に合い、無事三十六歌仙図額を奉納出来た。諸大名からの注文も殺到したらしく、近江仁正寺藩主市橋長政が又兵衛に送った屏風一双と袷の描き絵2枚、達磨・霊照二幅が届いたことへのお礼の手紙が残っている。
江戸では多忙な日々を送ったらしく、現存する又兵衛の宛先不明の手紙では金銭のトラブルや病気など苦労が綴られている。そうした中でも制作を続け、三十六歌仙図額の他に「布袋図」「月見西行図」「四季耕作図屏風」「瀟湘八景図巻」「楊貴妃図」が江戸在住期の作品とされている。晩年に描いたとされる自画像も伝わり(MOA美術館蔵)、『岩佐家譜』によれば、病にかかり回復の見込み無しと観念した又兵衛が、故郷の妻子へ送った絵とされる。
10年余り江戸で活躍した後、慶安3年(1650年)6月22日、73歳で波乱に満ちた生涯を終える。家は福井に残した息子岩佐勝重が継いだ。また、長谷川等伯の養子になった長谷川等哲も又兵衛の子といわれる。勝重は又兵衛が形成した岩佐派を率いて福井藩御用絵師として活動、息子で又兵衛の孫岩佐以重(陽雲)も絵師になったが貞享3年(1686年)に福井藩の領地半減に伴い解雇、以重は接客役である御坊主として福井藩の支藩・松岡藩に仕え、絵師には同族の岩佐貞雲が任じられた。以後岩佐氏は幕末まで福井藩士として続いたが絵師にはならず、岩佐派も以重の解雇で終焉を迎えた。
墓所は福井県福井市の興宗寺。寺が移転した時は福井市宝永小学校の敷地内に残されたが、昭和62年(1987年)に墓も寺に移され現在に至る。その際墓の中から骨壺2個が発見、うち1個は「荒木」と墨書されていて、この骨壺に又兵衛の骨が入っているとされる。
浮世又兵衛の由来
黒川道祐の『遠碧軒記』で福富立意が又兵衛と忠直について証言した記事では、狩野三甫(狩野山楽の弟子)・後藤左兵衛という画家と共に又兵衛が「浮世又兵衛」の名で掲載されていた。前者は中院通村の日記『中院通村日記』元和3年(1617年)の記事に、後者は『鹿苑日録』寛永13年(1636年)8月の記事に書かれていることから、生前既に浮世又兵衛と呼ばれていたようだが、宝永5年(1708年)上演の近松門左衛門作の人形浄瑠璃で、歌舞伎や文楽の人気演目である『傾城反魂香』の主人公「吃の又平」こと浮世又平との混同が生じたせいで、伝説化しつつあった又兵衛の事績が混乱していった。江戸時代で又兵衛は浮世絵(風俗画)の元祖として語り継がれ、江戸時代の画家のうち英一蝶は又兵衛を菱川師宣の前にいる風俗画家として捉え、谷文晁は著作『本朝画纂』で勝以の作品を又兵衛だと知らずに紹介していたが、事績の混乱で又兵衛の実像は分からないままだった。
明治に入り、アーネスト・フェノロサが『国華』で、岡倉天心が東京美術学校の講義で又兵衛を紹介し、段々又兵衛に関する情報が世間に広まり始めた。明治31年(1898年)になると、仙波東照宮の三十六歌仙図額裏の署名に「土佐光信末流岩佐又兵衛尉勝以図」とあるのが国華に紹介され、それまで別人として認識されていた岩佐勝以が、従来浮世又兵衛の名で呼ばれていた画人その人であることが判明した。しかし浮世又兵衛については依然として分からず、同年の『早稲田文学』で林田春潮が吃の又平と浮世又兵衛を別人と断定、国華では廻国道之記を紹介した斎藤謙が、又兵衛の作とされる彦根屏風を否定すると共に、浮世又兵衛は空想上の人物と結論付けた。
以後も又兵衛の研究は続き、藤原作太郎は又兵衛に低評価、アーサー・モリスン、大村西崖は高評価を与えた。また浮世絵に魅了された岸田劉生は、大正15年(1926年)に発表した論文「初期肉筆浮世絵」で浮世絵の定義と魅力を語り、又兵衛の時代を初期の肉筆浮世絵時代と呼び、浮世絵の歴史上最も発達し生き生きとした時代と高評価だったが、又兵衛本人については浮世絵として最上ではないとしている。
辻惟雄は「勝以」印の諸作品を探して作風を検討し、又兵衛の風俗画屏風を探索して浮世又兵衛と呼ばれた由縁(又兵衛が風俗画家であったか)を解き明かすことに尽力、昭和59年(1984年)に福井県立美術館で開催された又兵衛展覧会に持ち込まれた「花見遊楽図屏風」を又兵衛の風俗画だと認め、又兵衛浮世絵元祖説が復活した。又兵衛の作品かどうかはっきりせず、彼の作品だとなかなか認めなかった別の風俗画「洛中洛外図屏風(舟木本)」も又兵衛作だと認め(後述)、又兵衛浮世絵元祖説はこの2点の風俗画で裏付けられた[52][53]。辻は舟木本を浮世又兵衛の名の由来と捉え、浮世絵の元祖を二期に分けて又兵衛を第一期の元祖、菱川師宣を第二期の元祖に位置付けた。
画風
絵の師匠は、村重の家臣を父に持つ狩野内膳という説があるが、よくわかっていない。俵屋宗達と並ぶ江戸初期を代表する大和絵絵師だが、牧谿や梁楷風の水墨画や、狩野派、海北派、土佐派など流派の絵を吸収し独自の様式を作り上げた。今日では分割されてしまったが、『金谷屏風』には和漢の画題と画技が見事に融合しており、その成果を見ることが出来る[58][59]。人物表現にもっとも又兵衛の特色が現れ、たくましい肉体を持ち、バランスを失するほど極端な動きを強調する。相貌は豊かな頬と長い顎を持ち「豊頬長頤(ほうぎょうちょうい)」と形容される。これは中世の大和絵で高貴な身分の人物を表す表現であるが、又兵衛はこれを誇張し、自分独自のスタイルとしている。古典的な題材が多いが、劇的なタッチとエネルギッシュな表現が特色のその作品は、しばしば浮世絵の源流といわれる。
又兵衛の作品は「洛中洛外図屏風(舟木本)」や「山中常盤物語絵巻」「浄瑠璃物語絵巻」など1人では到底描き切れない長大な絵巻群、又兵衛印のある作品でも表現の微妙な差異が見られることから、又兵衛の制作を支えた又兵衛工房と言うべき絵師集団の存在が挙げられている。活動の実態を示す資料は無いが、制作は又兵衛が指揮を執って作品の構想を練り、下書きを行い彩色・文様など作品の企画・指示を出す、それを基に画風に習熟した優れた絵師が下の絵師を使いながら彩色や背景の処理を分担して進める、最後に又兵衛が仕上げやチェックを行い、必要によって落款を入れ作品を完成させるという流れが想定される。工房は京都時代、舟木本を制作した時期の慶長19年(1614年)頃に組織され、又兵衛は移住先の福井と江戸にも工房を持ち、数多くの注文をこなしていたと考えられる。京都の工房は福井に移転または残されたとされ、福井の工房は江戸出府に際し勝重に引き継がれたとされる。又兵衛死後、工房および所属していた絵師たちの消息は不明だが、「源氏物語図屏風」(出光美術館蔵)を描いた岩佐勝友、「江戸名所風俗図」(江戸名所図屏風とも。出光美術館蔵)を描いた名称不明の絵師など、又兵衛の影響がある絵師の作品が残されている。
代表作としては舟木本や山中常盤物語絵巻、三十六歌仙図額、肉筆「職人尽」が挙げられる。初期風俗画の先駆者の一人であった。
又兵衛作品の真贋論争
昭和3年(1928年)、雑誌編集者で第一書房の創業者長谷川巳之吉は「山中常盤物語絵巻」が海外流出される寸前だと聞くと、家財を抵当に入れてまで捻出した金で絵巻群12巻を買い取り流出を防いだ。この絵巻群は忠直の子孫が治める津山藩に伝わり、大正14年(1925年)に売りに出された後、流出寸前の所を長谷川に渡った経緯を辿った。これを機に又兵衛作と伝わる他の絵巻も世に出され、「堀江物語絵巻」「浄瑠璃物語絵巻」「小栗判官絵巻」も紹介され、長谷川の絵巻公開など大々的なキャンペーンも相まって、これら「又兵衛風絵巻群(古浄瑠璃絵巻群)」とも言われる作品群は脚光を浴びた。
しかし、昭和4年(1929年)7月23日の大阪朝日新聞に又兵衛作肯定論の記事を出した春山武松に対して、早くも評論家笹川臨風が雑誌『美之国』8月号にて又兵衛作に疑問を出し、翌昭和5年(1930年)5月10日には帝室博物館学芸委員の藤懸静也が國民新聞で否定論を出したことによりセンセーションが巻き起こり、又兵衛作品の真贋論争(又兵衛論争)が始まった。同年5月16日の國民新聞で藤懸の主張に反論した長谷川を始め、21日から24日まで國民新聞に藤懸の主張への疑問を投稿した野口米次郎、昭和6年(1931年)に再び又兵衛作肯定論を出した春山、昭和7年(1932年)9月に春山の肯定論に反論して否定論に加わった田中喜作など、又兵衛論争は新聞・雑誌のインタビューや出版本などで繰り広げられた。やがて昭和9年(1934年)に肉筆浮世絵偽造事件(春峯庵事件)が発覚すると、長谷川は贋作グループから又兵衛の贋作を持ち込まれ、出版までしたことが明らかになり、笹川は贋作グループから鑑定料を受け取ったことが発覚して面目を失い、公職から身を引いた。それにより又兵衛論争も沙汰止みになり、話題に上らなくなった又兵衛風絵巻群は世界救世教始祖の岡田茂吉が収集、現在は彼が建てた熱海美術館(現MOA美術館)に保管されている。
それからの又兵衛風絵巻群の真贋検討は辻惟雄が行い、MOA美術館に通い詰めて絵巻群を見比べて検討した末、山中常盤物語絵巻は又兵衛の真作、他の絵巻は工房作と結論付けた。
代表作(工房作を含む)
京都在住時代
「洛中洛外図屏風」(国宝)。東京国立博物館、1614年 - 1615年。
又兵衛の最高傑作にして、浮世絵の源流ともなった美術史上の記念碑的作品。
元は滋賀県長浜市の舟木家で発見されたため、他の洛中洛外図と区別する必要もあって舟木本とも呼ばれる。昭和24年(1949年)秋、美術史家・源豊宗が長浜の医師舟木栄の家に立ち寄った際に客間に立ててあり、源は「紛らう方なき岩佐勝以の特徴的な野生的躍動的な作風が歴然としている」とし又兵衛の初期作と直感した。舟木によれば彦根の某家の旧蔵であったものという。その後昭和32年(1957年)に国所有となり、東京国立博物館管理となった。又兵衛研究の権威であった辻惟雄は「又兵衛前派」の作として50年近くに亘り又兵衛作を否定してきたが、辻自身の変心により又兵衛作が定説となり、平成28年(2016年)に「岩佐勝以筆」として国宝指定された。
源によれば、「新しく夜明けを迎えた庶民の生活感に溢れた自由闊達な姿が生き生きと描写され、生を謳歌する巷の声が騒然とひびいている。勝以画の人物独特の豊頬長頤で、反り身の姿態、裾すぼまりの服装など彼ならではの強靭な弾力を帯びて画かれている」と評されている。
黒田日出男により、右隻の豊国神社に描かれた豊国定舞台で演じられている能楽は慶長19年8月19日、翌慶長20年(元和元年・1615年)に破却されるこの舞台で能楽が演じられた最後の日の最後の演目『烏帽子折』(長ハン)であることが判明した。この日がこの屏風作成年代の上限である。右隻の五条橋で踊る老後家尼は、豊国神社での花見から帰る高台院(秀吉の後家、北政所)と特定された[86]。また、二条城で訴訟を主宰し、女の訴えを聞いている人物は羽織の紋様(九曜紋)から京都所司代板倉勝重と特定された[87]。二条城の大手門を潜ろうとしている公家は慶長18年(1613年)7月3日、共に公家衆法度の作成に尽力した勝重から振舞いに招かれた武家伝奏・広橋兼勝と特定された[88]。左隻の中心軸上に描かれている印象的な武家行列の主は駕籠舁きの鞠挟紋から、勝重の次男にして徳川家康の近習出頭人・板倉重昌と特定された。
このように注文主は板倉家または板倉家と繋がりが深い人物であることが予想されるが、黒田による資料の博捜と精密な読解により、注文主は下京室町の呉服商で勝重の呉服所となっていた「笹屋(半四郎)」と特定された。ただし反論もあり、平成29年(2017年)刊行の『別冊太陽』に掲載された佐藤康宏と辻惟雄の対談で佐藤は笹屋注文主説に異議を唱え、笹屋が屏風を注文する理由が不明な点を挙げて武家が注文主ではないかと推測、辻は勝重が注文主だが金は笹屋が出したので、舟木本で笹屋を描かせてもらったと推測した。
「豊国祭礼図屏風」(重要文化財)。徳川美術館、1614年 - 1616年。
豊臣秀吉の七回忌に当たる、慶長9年(1604年)8月12日から18日にかけて盛大に行われた臨時大祭の光景を描いた作品。舟木本と比べ、人体表現に不自然な写し崩れや歪みが見られる事から、舟木本の後に制作されたと考えられる。狩野内膳の同名の作品(豊国神社本)と区別され、徳川美術館本とも呼ばれる。
公式記録画の趣きがある豊国神社本と比べ、大祭の記録に無頓着で、混沌とした熱狂的エネルギーを画面いっぱいに描き出した風俗画となっている。千切れるような金雲の表現、高い視点で俯瞰的に描く豊国神社本に対して低い視点で前面の騎馬行列と踊り狂う群衆を描く、豊国神社と方広寺は一部しか描かれていないなど豊国神社本との違いがそこかしこに見られる。また右隻は周囲にかぶき者同士の喧嘩や男女の逢引を描き、左隻は風流踊を類まれな群像表現と緻密さと色彩で克明に描き、祭礼の狂騒をエネルギッシュに描き出している。右隻の馬揃えの場面は『平治物語絵巻』の巻頭から巻末に至る群像をいくつかのまとまりで分節・再構成することで出来上がっている。
右隻六扇目中央左、上半身裸の男が持つ朱鞘には「いきすぎたりや、廿三、八まん、ひけはとるまい」と記されている。これは慶長17年(1612年)、江戸で処刑されたかぶき者の頭領大鳥逸兵衛(一兵衛)の鞘の銘「廿五まで 生き過ぎたりや 一兵衛」を模したと言われ、戦乱が終わろうとしている時代に生まれた当時の若者の気持ちを表すとしてしばしば言及されたが、近世史家の杉森哲也は「廿三」とは豊臣秀頼の死没年齢であることを指摘し、黒田日出男はこの場面に描かれているのはかぶき者の喧嘩に見立てた大坂の陣であり、23歳の秀頼と母・淀殿の滅亡であったとしている(朱鞘の男は秀頼、男の上方で倒れた駕籠の中から手を出している女は淀殿、側で破れ傘を持って飛びのいている老後家尼は高台院、朱鞘の男と喧嘩しようとしている男は徳川秀忠とされる)。また、この場面から橋を渡った向こう側(男女の視線が微妙に交差する世界)には戦乱(大坂の陣)の終息とともに訪れた「浮世」を現出している。
この屏風の発注者は、黒田によれば高野山光明院に伝来していることや、左隻二扇目下段の豊国踊りの場面に「太」の字(太閤)とともに卍紋がはっきりと描かれていることから、光明院に関係の深い秀吉愛顧の大名蜂須賀家政であり、慶長19年の秀吉十七回忌に際して、自らの隠居屋敷にほど近い中田村に豊国神社を創建した際に発注、元和2年頃に完成した屏風を手元に置いたとされる。また黒田は屏風が蜂須賀氏から光明院へ移った時期も想定し、寛永15年12月30日(1639年2月2日)に家政が亡くなった後、翌寛永16年に遺骨と共に屏風も光明院へ納められたのではないかと想定している。屏風は明治21年(1888年)に火災に遭った高野山へ再建費用を援助した蜂須賀氏へ移ったとされるが、昭和8年(1933年)に蜂須賀正氏が屏風を競売に出し、落札した徳川義親が徳川黎明会に保管、徳川美術館所蔵として現在に至る。
福井在住時代
旧金谷屏風 元和末から寛永初年頃
元々、福井の豪商金谷家に伝わっていた紙本・六曲一双の押絵貼屏風(屏風の一扇一扇に一枚ずつ絵を貼ったもの)。「官女観菊図」付属の伝来書によれば、忠直と忠昌の弟松平直政が幼少期に養育してくれた金谷家当主に下賜したものだという。現在は一扇ごと軸装され、12枚のうち10枚が諸家に分蔵されているが、2枚は所在不明。しかし屏風の旧状を写した古写真を基に再現した12枚貼りの屏風が福井市立郷土歴史博物館にある。
左右の端に龍虎、その間に源氏物語と伊勢物語や、中国の故事人物を隣合わせに描き並べた構成は他に類を見ない。手法を見ても龍虎のような水墨画と、官女観菊図のような土佐派的白描画が、同一筆者による屏風絵の中に、いずれも本格的なものとして共存しているのは異例である。また、その水墨画も、海北派や長谷川派、雲谷派の画法を取り入れたあとが見られる。下に右隻一扇目から順に、画題と現在の所蔵先を記す。
「虎図」 墨画 東京国立博物館
「源氏物語・花の宴(朧月夜)図」 着色 所在不明
「源氏物語・野々宮図」(重要美術品) 淡彩 出光美術館
「龐居士図」(重要美術品) 着色 福井県立美術館
「老子出関図」 淡彩 東京国立博物館
「伊勢物語・烏の子図」(重要美術品) 着色 東京国立博物館
「伊勢物語・梓弓図」(重要文化財) 着色 文化庁
「弄玉仙図」(重要文化財) 着色 摘水軒記念文化振興財団寺島文化会館蔵
「羅浮仙図」(重要美術品) 着色 個人蔵
「唐人抓耳図」 着色 所在不明
「官女観菊図」(重要文化財) 淡彩 山種美術館
「雲龍図」 墨画 東京国立博物館
池田屏風(旧樽谷屏風)
旧岡山藩池田氏(侯爵)に伝わった着色・八曲一隻の腰屏風押貼絵を分割したもの。旧称「樽谷屏風」の名前の由来は不明。大正8年(1919年)の売り立てで分割された[107]。下に一扇目から順に、画題と現在の所蔵先を記す。
「貴人の雪見」 所在不明
「王昭君」 サンフランシスコ・アジア美術館(ブランデージコレクション)
「寂光院」(重要文化財) MOA美術館
「伊勢物語・花の宴」 所在不明
「伊勢物語・梓弓」 所在不明
「伊勢物語・五十三段」 出光美術館
「僧をたずねる武人」 所在不明
「職人尽・傘張りと虚無僧」(重要美術品) 根津美術館
「三十六歌仙画冊」 紙本著色 36面 福岡市美術館
落款・印章は無いが、極端に誇張・変形された身体表現を用いて一人一人の個性が巧みに描き分けられており、福井時代初期の又兵衛作だと推定される。図上に書かれた和歌が全て削り取られているが、理由は不明。上野精一旧蔵品。
「三十六歌仙図」 紙本著色 22面 福井県立美術館
豊頬長頤と生彩溢れる表情が特徴。勝以の署名と碧勝宮圖の印章があり、そこから制作時期は福井時代前半、旧金谷屏風や人麿・貫之像と同時期と推測される。小林家旧蔵品。
「人麿・貫之像[5]」(重要文化財) MOA美術館
「太平記 本性房振力図」 東京国立博物館
「和漢故事説話図(和漢故事人物図巻)」
元は12図を繋げた画巻だが、一図ずつ切り離されて軸装された状態で展示されている。福井県立美術館所蔵は7図が確認されている。
「平家物語 鵜川の軍図」 福井県立美術館
「平治物語 悪源太雷電となる図」 福井県立美術館
「源氏物語 須磨図」 福井県立美術館
「源氏物語 夕霧図」 福井県立美術館
「源氏物語 浮舟図」 福井県立美術館
「唐土故事図」 福井県立美術館
「布袋と寿老の酒宴」 福井県立美術館
「武者絵」(重要美術品) 紙本着色 ニューオータニ美術館
「花見遊楽図屏風」 四曲一隻 個人蔵
「伊勢物語 鹿と貴人図」 紙本著色 一幅 MOA美術館
「在原業平図」 紙本著色 一幅 出光美術館
「平家物語 通盛小宰相図」 紙本著色 一幅 個人蔵
「維摩図」 紙本著色 一幅 個人蔵
古浄瑠璃絵巻群
「堀江物語絵巻」 MOA美術館に12巻で完結。他に香雪美術館3巻、京都国立博物館1巻、長国寺1巻、個人像1巻で、これらは元はMOA本より前に作られ長大にした全24巻の絵巻の一部と見られる。
「山中常盤物語絵巻[9]」(重要文化財) MOA美術館 12巻
「浄瑠璃物語絵巻[10]」(重要文化財) MOA美術館 12巻
「小栗判官絵巻」 宮内庁三の丸尚蔵館 紙本著色 15巻 総長約324メートル。
元岡山藩家老池田長準が所有していたが、明治27年から28年(1894年 - 1895年)まで日清戦争のため広島大本営に逗留した明治天皇が鑑賞したこの絵巻を気に入ったため、長準が皇室へ献上、尚蔵館へ収められた。小栗判官絵巻が池田屏風・和漢故事説話図と共に池田氏に伝わった経緯は不明で、辻は千姫が注文主で、岡山藩主池田光政に嫁いだ娘の勝姫を慰めるため絵巻を注文し、岡山へ届けさせたとする仮説を立てている[115][116]。これに対して黒田は辻の説明に反論、小栗判官絵巻は津山藩に伝来していたが、岡山県内に流出した所を長準が入手したのではないかと想定している。
「村松物語絵巻」 海の見える杜美術館・チェスター・ビーティ・ライブラリー蔵 15巻
「熊野権現縁起絵巻」 津守熊野神社蔵 13巻
これらの絵巻には、古浄瑠璃、とりわけ室町時代の御伽草子を元とした浄瑠璃を詞書とする共通点があり、「古浄瑠璃絵巻群」と呼ばれる。優れた作品であると同時に、その詞書は物語の古様を伝えるものとして、文学上でも貴重である。特に観る者を圧倒する極彩色の画面や、群像表現に優れる。画風の特徴は一貫しているが、人物の大きさや描法に様々な違いが見られ、複数の画工が関わったことがわかる。しかし、主要な場面を中心に見受けられる巧みな構図や、卓越した画技は、又兵衛自身が指導して仕上げられたことを示している。
山中常盤物語絵巻・浄瑠璃物語絵巻・堀江物語絵巻は忠直からの注文であったとされ、又兵衛は弟子たちを動員して絵巻群を制作したと考えられている。ただし浄瑠璃物語絵巻・堀江物語絵巻は又兵衛の関与が少ないとの見解もあり、制作時期も忠直配流後とされる。これは辻の見解だが、黒田は異論を唱え、浄瑠璃物語絵巻と堀江物語絵巻も忠直配流前に彼の注文を受けて又兵衛を中心とする工房が制作したと考え、御伽草子やそれらを元にした古浄瑠璃を好む忠直の意向をうかがいながら古浄瑠璃絵巻群を制作したと推定している。小栗判官絵巻・村松物語絵巻・熊野権現縁起絵巻も古浄瑠璃絵巻群に含まれるが、こちらは画風が異なり、又兵衛の流れをくむ絵師が描いたと考えられる。
黒田は寛永5年(1628年)2月吉日に忠直が配流先の豊後津守で熊野権現縁起絵巻を津守熊野神社へ奉納したことを指摘、又兵衛工房に依頼して絵巻を描かせ神社へ奉納したと仮定した。制作年代の特定も行い、下限を寛永5年2月吉日に特定、上限は同年初頭か前年の寛永4年(1627年)末と推定している。合わせて絵巻群の順番と制作年代も推定、順番は堀江物語絵巻(残欠本)、山中常盤物語絵巻、浄瑠璃物語絵巻、小栗判官絵巻、堀江物語絵巻(堀江巻双紙)、村松物語絵巻、熊野権現縁起絵巻と推測、制作年代の上限は又兵衛が来た元和2年、下限は寛永5年2月吉日に定めている。
江戸在住時代
「布袋図」 東京国立博物館
「月見西行図」 群馬県立近代美術館
「三十六歌仙図額」(重要文化財) 仙波東照宮、1640年。
三十六歌仙画冊などに発揮された奔放な表現は影を潜め、硬直したような人物表現になったが、これは幕府への配慮とされる。明治19年(1886年)、同社の宮司山田衛屋がこの扁額裏に「寛永十七年六月七日 絵師土佐光信末流岩佐又兵衛尉勝以図」という銘があるのを発見した。これにより「勝以」と又兵衛が同一人物であるのが確かとなり、それまで謎に包まれていた又兵衛の伝記が明らかになる切っ掛けとなった。
「三十六歌仙図額」 宮若市・若宮八幡宮所蔵 福岡市美術館寄託 紙本著色 36面 宮若市指定文化財
中古三十六歌仙を全て絵画化した珍しい作品。落ち着いて奇を衒うような表現は影を潜めていることから、60歳代の晩年の作品だと推定される。なぜ若宮八幡社宮に伝来したかは不明だが、本作制作時期に近い頃に若美八幡宮を再建する任に当たった福岡藩黒田氏家老・黒田一成(美作)が関与した可能性がある。
「四季耕作図屏風」(重要美術品) 六曲一双 紙本墨画淡彩 出光美術館
「瀟湘八景図巻」 一巻 紙本墨画淡彩 出光美術館
「楊貴妃図」 MOA美術館
「伝岩佐又兵衛自画像[11]」(重要文化財) MOA美術館
参考:『洛中洛外図屏風(舟木本)』文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/468436
参考:『豊国祭礼図屏風』文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/18957
参考:『山中常盤物語絵巻』MOA美術館 https://www.moaart.or.jp/collections/043/
『菱川師宣』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%B1%E5%B7%9D%E5%B8%AB%E5%AE%A3
菱川 師宣(ひしかわ もろのぶ、元和4年〈1618年〉? - 元禄7年6月4日〈1694年7月25日〉)は、江戸時代の画家、菱川派の祖。生年は寛永7年から8年(1630年 - 1631年)ともいわれる。享年64-65あるいは77。浮世絵の確立者であり、しばしば「浮世絵の祖」と称される。
来歴
それまで絵入本の単なる挿絵でしかなかった浮世絵版画を、鑑賞に堪え得る独立した一枚の絵画作品にまで高めるという重要な役割を果たした。初めは無記名で版本の挿絵を描いており、初作は寛文11年(1671年)刊行の噺本「私可多咄」(無款)また浮世絵役者であるとされ、翌寛文12年(1672年)、墨摺絵本「武家百人一首」(千葉市美術館所蔵)においてその名前(絵師 菱川吉兵衛)を明らかにした。その後、次第に人気を博し、墨摺絵入り本・絵本を数多く手がけた。「浮世百人美女」、天和2年(1682年)刊「浮世続」(国立国会図書館所蔵)、天和3年(1683年)刊「美人絵づくし」(ボストン美術館所蔵)などに市井の女たちを描写し評判高く、生涯において100種以上の絵本や50種以上の好色本に筆をとっている。
祖父は藤原七右衛門と云い、京都在住であったが、父の吉左衛門は菱川を称し、安房国平郡保田本郷(現・千葉県鋸南町)に移住、道茂入道光竹と号した。師宣はここで暮らす縫箔師の家に生まれた。俗称を吉兵衛、晩年は友竹と号す。明暦の大火(明暦3年)の後、万治年間に海路によって江戸に出て狩野派、土佐派、長谷川派といった幕府や朝廷の御用絵師たちの技法を学び、その上に市井の絵師らしい時代感覚に合った独自の新様式を確立した。はじめは古版絵入り本の復刻の挿絵、名所絵などで絵師としての腕を磨いている。江戸に出て初めは縫箔を職として上絵を描いていたが、生来絵が巧みであったので遂に絵画を職としたのであった。江戸では堺町、橘町、人形町などに転住していた。また、京都へ行ったことも考えられる。
寛文後期から延宝前期には、無署名本がほとんどであったが仮名草子、浄瑠璃本、吉原本、野郎評判記、俳書などの挿絵を中心に活動し、画技の研鑽に励んだ。やがて延宝中期、後期になると絵入り本、絵本で吉原もの、歌舞伎もの、名所記などや風俗画その他で個性を現し、絵本や枕絵本を刊行、師宣様式の確立という大きな転換期を迎えた。枕絵本は延宝3年(1675年)刊行の無署名『若衆遊伽羅之縁』、同3、4年頃刊行の『伽羅枕』、延宝5年(1677年)刊行の『小むらさき』などが早期の作品である。『伽羅枕』では「絵師 菱河吉兵衛」、『小むらさき』では「大和絵 菱川吉兵衛」と署名する。延宝5年にはほかにも近行遠通撰の地誌絵本『江戸雀』十二巻12冊などの挿絵を描いている。
その後、延宝6年(1678年)刊行の役者絵本『古今役者物語』1冊、絵本『吉原恋の道引』や、元禄4年(1691年)刊行の絵本『月次(つきなみ)のあそび 』1冊、師宣没後の元禄8年(1695年)刊行の絵本『和国百女』三巻1冊などを著している。また天和元年(1681年)刊行の半井卜養の狂歌絵本『卜養狂歌集』二巻2冊の挿絵をしたことも知られている。これらを通して上部に文章、中・下部に絵という師宣絵本の基本形式が整ってきており、延宝8年(1680年)正月刊行の『人間不礼考』、同年5月刊行の『大和絵つくし』に至ると、上部3分の1乃至4分の1に文章、下部に絵という形式が確立される。当世絵本、風俗絵本の分野においての師宣の評価は動かし難いものとなったのであった。『大和絵つくし』は古代中世の故事、伝記、説話を大和絵で表現し、「大和絵師 菱川吉兵衛尉」と署名するなど、当世の大和絵師、菱川師宣の立脚点をも示した作品として記念碑的意味を持つものといえる。天和に入るとその活躍は一層目覚しいものとなり、悠揚迫らぬ美女群が画面一杯に闊歩する。この天和を挟んだ約10年間が師宣の最も充実した時期であった。天和2年(1682年)に大坂で井原西鶴の『好色一代男』が著されると、2年後の江戸刊行の際には師宣が挿絵を担当した。また、同じ天和2年刊行の絵本『浮世続』、『浮世続絵尽』(財団法人東洋文庫所蔵)、天和4年(1684年)刊行の絵本『団扇絵づくし』も知られている。
貞享3、4年頃からは円熟味と引換えに様式の固定化が目立つようになった。明暦の大火直後の再建の槌音も高い江戸市民の嗜好に、師宣ののびのびとして翳りのない明快な画風もマッチしていた。『吉原恋の道引』、『岩木絵つくし』、『美人絵つくし』などを見ても線が太く若々しいものであった。その好色的な図柄も開けっ広げで、健康的なのは時代の目出度さと思える。落款に「大和画工」や「大和絵師」という肩書きをつけているのも、その自負、自覚の表れである。また、絵図師の遠近道印(おちこち どういん)と組んで制作した『東海道分間絵図』(神奈川県立歴史博物館所蔵)は江戸時代前期を代表する道中図として知られている。大衆の人気を得た師宣は好色本を主に次々と絵入り本を刊行、やがてその挿絵が観賞用として一枚絵として独立、墨一色による大量印刷により、価格も安く誰でも買えるものになった。「吉原の躰」、「江戸物参躰」、「大江山物語(酒呑童子)」や、無題の春画組物など墨一色で、稀に筆彩された独自の様式の版画芸術が誕生し、ここに浮世絵が庶民の美術となったのであった。
師宣は屏風、絵巻、掛幅と様々な肉筆浮世絵も描いており、それらは江戸の二大悪所といわれた歌舞伎と遊里、隅田川や花見の名所に遊び集う人々や遊女であった。その大らかで優美な作風は浮世絵の基本的様式となっていった。なかでも、「見返り美人図」は師宣による一人立ち美人図であるという点で珍しい作例で、歩みの途中でふと足を止めて振返った印象的な美人画様式は、まさに榎本其角の『虚栗』において「菱川やうの吾妻俤」と俳諧で謳われたそのものであるとみられる。師宣は肉筆浮世絵では「日本繪」と冠していることが多い。
元禄7年(1694年)6月4日、師宣は江戸の村松町(現・東日本橋)の自宅で死去し、浅草において葬儀が行われた。終生故郷を愛した師宣の遺骨は房州保田の別願院に葬られた。菩提寺は府中市紅葉丘の誓願寺。法名は勝誉即友居士。
門人には、師宣の子、菱川師房、菱川師永、菱川師喜の他に古山師重、菱川友房、菱川師平、菱川師秀ら多数おり、工房を形作っていたといわれる。故郷の千葉県鋸南町には菱川師宣記念館がある(外部リンク先を参照のこと)。
作品
肉筆浮世絵
『見返り美人図』
作者 菱川師宣
完成 17世紀
種類 絹本著色、肉筆浮世絵
主題 女性
寸法 63.0 cm × 31.2 cm (24.8 in × 12.3 in)
所蔵 東京国立博物館、東京都台東区上野公園
所有者 国立文化財機構
登録 1011-0
ウェブサイト 東京国立博物館名品ギャラリー『見返り美人図』
「見返り美人図」(みかえりびじんず)
代表作にして、師宣の代名詞的1図。美人画。肉筆画 (絹本[4] 著色[5])。緋色の衣裳を身につけた美人の女性が、ふと振り向く(見返る)様子を描いたもので、世界的に著名な肉筆浮世絵である。女性像の人気さは、「師宣の美女こそ江戸女」と称されるほどであった。昭和23年(1948年)発行、および平成3年(1991年)発行の「切手趣味週間」、平成8年(1996年)発行の「郵便切手の歩みシリーズ・第6集」の各図案にそれぞれ採用されている。現在は東京国立博物館蔵[6]。女性は、17世紀末期当時の流行であった女帯の結び方「吉弥結び(きちやむすび)」と、紅色の地に菊と桜の刺繍を施した着物を身に着けている。それらを美しく見せる演出法として、歩みの途中で後方に視線を送る姿で描かれたものと考えられる。
同時代で年下の絵師・英一蝶は本作に刺激を受けてか対抗するかのように、構図等に類似点の多い1図「立美人図」を描いている。
文化7年(1810年)の山東京伝による箱書があることから、おそらく幕末には好事家の間で知られていた可能性が高い。また博物館に収蔵された時期も早く、60番という若い列品番号がそれを物語っている。
現代日本では昭和23年(1948年)11月29日発行の記念切手(「切手趣味週間」額面5円)の図案に採用され、これが日本の記念切手の代表的かつ高価な一点となったことも本作が大衆に周知されるに少なからず影響した。
「歌舞伎図屏風」 (かぶきず びょうぶ)[7]
風俗画。歌舞伎小屋の様子を描いた、六曲一双(紙本金地著色)の屏風。東京国立博物館蔵。重要文化財。無款であるが師宣の作として扱われる代表作の一つ。向かって右から、芝居小屋の表から始まり、華やかな舞台と賑やかな客席が描かれた右隻と、雑然とした楽屋と隣接する芝居茶屋での遊興の様子を描いた左隻からなる。小屋の櫓に掲げられた銀杏の紋と入り口の役者名の看板から、元禄5年(1692年)以降の中村座の様子を描いたものと判明できる。あらゆる階層・年齢の人物、総勢285名の表情や姿態を臨場感をもって巧みに描かれており、その完成度の高さから最晩年の作品と考えられる。
「北楼及び演劇図巻」[1] 絹本着色 一巻 東京国立博物館所蔵
「浮世人物図巻」 紙本着色 絵巻 東京国立博物館所蔵
「大江山鬼退治絵巻」 紙本着色 三巻 藤田美術館所蔵
「不破名護屋敵討絵巻」 紙本着色 一巻 浮世絵太田記念美術館所蔵
「虫籠美人図」 絹本着色 城西大学水田美術館所蔵
「見立石山寺紫式部図」 絹本着色 城西大学水田美術館所蔵
「髪梳図」 絹本着色 城西大学水田美術館所蔵
「秋草美人図」 絹本着色 出光美術館所蔵
「遊楽人物図貼付屏風」 絹本着色 6曲1双 出光美術館所蔵
「遊里風俗図」 絹本着色 一巻 出光美術館所蔵 寛文12年(1672年)
「遊里風俗図」 絹本着色 出光美術館所蔵
「遊里風俗図」 絹本着色 出光美術館所蔵
「江戸風俗図巻」 絹本着色 二巻 出光美術館所蔵
「二美人図」 絹本着色 出光美術館所蔵(伝菱川師宣)
「浄瑠璃芝居看板絵屏風」 紙本着色 6曲1双 出光美術館所蔵(伝菱川師宣)
「長者観桜酒宴の図」 紙本着色 たばこと塩の博物館所蔵
「元禄風俗図」 絹本着色 ニューオータニ美術館所蔵 無款 伝菱川師宣筆
「紅葉狩図」 絹本着色 ニューオータニ美術館所蔵
「江戸風俗絵巻」 紙本着色 MOA美術館所蔵
「振袖美人図」 絹本着色 奈良県立美術館所蔵
「立美人図」 紙本着色 奈良県立美術館所蔵
「桜下二美人図」 絹本着色 鎌倉国宝館所蔵
「角田川舞台図」 絹本着色 千葉市美術館所蔵
「上野・隅田川遊楽図屏風」 紙本着色 6曲1双 千葉市美術館所蔵 無款
「室内遊楽図」 絹本着色 千葉市美術館所蔵
「天人採連図」 絹本着色 千葉市美術館所蔵
「秋草美人図」 絹本着色 菱川師宣記念館所蔵
「行楽美人図」 絹本着色 菱川師宣記念館所蔵
「職人尽図巻」 絹本着色 大英博物館所蔵
「地蔵菩薩図」 紙本着色 大英博物館所蔵
「歌舞伎(中村座)図屏風」 紙本着色 6曲1隻 ヴィクトリア&アルバート博物館所蔵 無款
「上野花見・隅田川舟遊図屏風」[2] 紙本着色 6曲1双 フリーア美術館所蔵
「上野花見図押絵貼屏風」[3] 絹本着色金泥 6曲1隻 ボストン美術館所蔵
吉原・「歌舞伎(中村座)図屏風」[4][5] 紙本金地着色 6曲1双 ボストン美術館所蔵 無款
「変化画巻」[6] 紙本着色 1巻 ボストン美術館所蔵 貞享2年(1685年)作 菱川師宣及び菱川師房ら弟子達よる寄合書
「花鳥・物語図帖」 1帖 絹本着色 心遠館(プライス・コレクション)所蔵 無款
「吉原風俗図巻」 1巻15図 紙本着色 ジョン・C・ウェーバー・コレクション 延宝末年頃[8]
組物・一枚絵
「酒吞童子」 横大判19枚組 延宝8年頃 鱗形屋三左衛門版[9]
「大名行列」 横大判10枚(12枚組か) 鱗形屋三左衛門版[9]
「上野花見の躰」 横大判13枚組 天和頃 山形屋市郎右衛門版[9]
「江戸物参躰」 横大判の組物 山形屋市郎右衛門版[9]
墨摺絵
『拾弐図』の内「衝立の陰」 菱川師宣 画
菊の花を揺らす秋風を感じ、小川のせせらぎを聞きながら、衝立の陰で若い男女が睦み合おうとしている場面。
1670年代後期から1680年代初頭の頃(延宝年間)に描かれた春画。大判・墨摺絵筆彩(墨摺りの木版画に筆で着彩したもの[10] であり、浮世絵・草創期の古態)。春画揃物『拾弐図』の第1図。同じ揃物には他に第2図「低唱の後」などあり。春画揃物では通常、第1図・第2図での露骨な性描写は控えられる。これらの絵はそういった種類のものである。
「よしはらの躰」 横大判 12枚揃 東京国立博物館所蔵 延宝後期頃
「江戸物参躰」 横大判 12枚揃 延宝後期から天和頃
「衝立のかげ」 筆彩 横大判 慶應義塾図書館所蔵 無款
「低唱の後」 筆彩 横大判 慶應義塾図書館所蔵 無款
「よしはらの躰 揚屋の遊興」 横大判 12枚組物のうち 千葉市美術館所蔵
「延宝三年市村竹之丞役者付」 大判 無款 城西大学水田美術館所蔵
「大江山物語絵図」 筆彩 横大判 12枚揃 天和から貞享頃
丹絵
「蹴鞠」 大判 東京国立博物館所蔵 無款
版本
「観音経和談鈔」 初刻寛文11年孟春 再刻天和3年3月 鱗形屋三左衛門版[9]
「私可多咄」 初刻寛文11年孟春 鱗形屋三左衛門版[9]
「若衆遊伽羅枕」 初刻延宝3年4月 鱗形屋三左衛門版[9]
「恋の息うつし」 初刻延宝6年孟春 鱗形屋三左衛門版 (再刻?)貞享2年松会三四郎版[9]
「百人一首像讃抄」 初刻延宝6年正月 再刻天和3年7月 鱗形屋三左衛門版[9]
「武者絵づくし」 初刻(延宝8年頃) 再刻天和3年9月 鱗形屋三左衛門版[9]
「大和絵つくし」 初刻延宝8年5月 鱗形屋三左衛門版 再刻(天和3,4年頃)[9]
「大和侍農絵づくし」 初刻延宝8年5月 鱗形屋三左衛門版 再刻天和4年正月[9]
「倭国美人あそび」 延宝期 鱗形屋三左衛門版[9]
「浮世恋くさ」 初刻天和2年正月 鱗形屋三左衛門版[9]
「岩木絵つくし」 初刻天和2年正月 再刻初刻天和3年7月 鱗形屋三左衛門版[9]
「浮世続絵尽(wikidata)」(「当風品絵づくし」)初刻天和2年正月 鱗形屋三左衛門版 再刻天和4年正月[9]
「小袖のすがたみ」 初刻天和2年3月 鱗形屋三左衛門版[9]
「団扇絵づくし」 初刻天和2年5月 再刻天和4年正月 鱗形屋三左衛門版[9]
「花鳥絵づくし(wikidata)」 初刻天和3年5月 鱗形屋三左衛門版[9]
「美人絵づくし(wikidata)」 初刻天和3年5月 鱗形屋三左衛門版[9]
「奈良名所八重桜」 初刻延宝6年2月 柏屋二右衛門・柏屋与一版[9]
「ざっしょ枕」 初刻延宝6年立春 柏屋二右衛門・柏屋与一版[9]
「和合同塵」 初刻延宝6年中夏 柏屋二右衛門・柏屋与一版[9]
「人間無礼考」 初刻延宝8年正月 柏屋二右衛門・柏屋与一版[9]
「余景作り庭の図」 初刻延宝8年3月 再刻元禄4年5月 柏屋二右衛門・柏屋与一版[9]
「月次のあそび」 初刻延宝8年7月 再刻元禄4年 柏屋二右衛門・柏屋与一版[9]
「うき世百人女絵」 初刻天和元年11月 柏屋二右衛門・柏屋与一版[9]
「床の置物」 初刻延宝末~天和初頃 柏屋二右衛門・柏屋与一版[9]
「貞徳狂歌集」 初刻天和2年初秋 柏屋二右衛門・柏屋与一版[9]
「大和のおほよせ」 初刻天和3年 柏屋二右衛門・柏屋与一版[9]
「恋のみなかみ」 初刻天和3年正月 柏屋二右衛門・柏屋与一版[9]
「鹿野武左衛門口伝はなし」 初刻天和3年9月 柏屋二右衛門・柏屋与一版[9]
「おさななじみ」 初刻天和3年10月 柏屋二右衛門・柏屋与一版[9]
「武家百人一首」 初刻寛文12年孟春 鶴屋喜右衛門版[9]
「心学男女鑑」 初刻延宝3年正月 鶴屋喜右衛門版[9]
「江戸雀」 初刻延宝5年中春 鶴屋喜右衛門版[9]
「恋のむつごと四十八手」 初刻延宝7年3月 鶴屋喜右衛門版[9]
「小むらさき」 初刻延宝5年正月 松会市郎兵衛・松会三四郎版[9]
「伊勢物語頭書抄(wikidata)」 初刻延宝7年3月 松会市郎兵衛・松会三四郎版[9]
「千代の友つる」 初刻天和2年正月 松会市郎兵衛・松会三四郎版[9]
「このころくさ」 初刻天和2年正月 松会市郎兵衛・松会三四郎版[9]
「伽羅枕」 延宝期 本問屋[9]
「恋の品枕絵」 初刻延宝5年仲春 本問屋[9]
「吉原恋の道引」 初刻延宝6年3月 本問屋[9]
「古今役者ものかたり」 初刻延宝6年3月 本問屋[9]
「小倉山百人一首(wikidata)」 初刻延宝8年初夏 本問屋[9]
「屏風掛物絵鑑」 初刻天和2年正月 再印元禄14年 山形屋市郎右衛門版[9]
「女歌仙新抄」 初刻天和2年正月 山形屋市郎右衛門版[9]
「まくら絵大ぜん」 初刻天和2年3月 山形屋市郎右衛門版[9]
「和国名所鑑」 初刻天和2年4月 再印元禄9年 山形屋市郎右衛門版[9]
「恋の楽しみ」 初刻天和3年初春 山形屋市郎右衛門版[9]
「大和万絵つくし」 初刻延宝9年7月 鷲屋版[9]
「西行和歌修行」 初刻天和2年正月 酒田屋版[9]
「狂歌たび枕」 初刻天和2年初秋 酒田屋版[9]
「東叡山名所」 初刻天和2年2月 三河屋七右衛門版[9]
「姿絵百人一首(wikidata)」 元禄8年 木下甚右衛門
「和国諸職絵つくし(wikidata)」
「当世雛形(wikidata)」 延宝5年
「和国百女(wikidata)」
「ぶんしやう物語(wikidata)」 貞享2年
挿絵本
「東海道分間絵図(wikidata)」(遠近道印作、師宣画)
「好色一代男 江戸版(wikidata)」(鶴屋南北作、師宣画)
「身延鑑」(作者不明、師宣画、西宮新六開板)、貞享2年初版
参考:『鳥居清信』wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85%E6%B8%85%E4%BF%A1
鳥居 清信(とりい きよのぶ、寛文4年〈1664年〉 - 享保14年7月28日〈1729年8月22日〉)とは、江戸時代中期の浮世絵師。鳥居派の祖。
来歴
鳥居清元の次男。通称は庄兵衛。鳥居庄兵衛、絵師鳥居庄兵衛、大和鳥居庄兵衛「清信」、和画工鳥居庄兵衛清信などと号す。大坂の生まれで、幼少時、京都に出て吉田半兵衛に浮世絵を学んだ。貞享4年(1687年)に父とともに大坂から江戸難波町にくだり、24歳で若衆歌舞伎に関係して職を得、ここに鳥居家と芝居道が結ばれたのであった。父の清元が市村座をはじめとする様々な座の看板絵を描いていて評判になっていたことにより、清信もそれを始めた。青年期には菱川師宣の『古今役者物語』に接し、師宣の影響の強い作品を描いていた。清信は江戸歌舞伎において「荒事」と呼ばれる豪傑、神仏、妖魔などの超人的な強さを表現するために、顔や手足に隈取をし、鬘、衣装、小道具、動作、発声などを全て様式的に表現するという荒々しい演技の表現に努め、看板絵の効果という必要性と合わせて「ひょうたん足みみず描き」といわれる画法を凝らした。それは元禄から享保期(1688年から1735年)に新しい風を吹き込み、当時の市民の風潮、好みとも合致して鳥居派の様式的な基礎を作った。しかしその一方で、柔軟な色気のある美人画や枕絵もあって才能の広さを知ることが出来る。美人画には懐月堂派風の影響も見られるが、より明快で艶美な作品になっている。また鳥居派の絵師の中では肉筆画も良く描いている。
清信の署名および刊行年の見られる最初の作品は元禄10年(1697年)の浮世草子『好色大福帳』と『本朝廿四孝』であった。さらに同年、『参会名護屋』、『兵根元曾我(つわものこんげんそが)』という絵入り狂言本を無署名により出している。これらの画風を見ると既に島居派の発達した様式をかもし出している。元禄13年(1700年)刊行の役者絵本『風流四方屏風』二冊、同年刊行の遊女絵本『娼妓画牒』(けいせいえほん)などを著している。ただし『娼妓画帳』は現在伝わっていない。清信による芝居描写は非常に装飾的で曲線が多い格好であり、上方のより洗練された優美な演出から出ている点は疑念がない。ただし、その筆線は看板絵のように大胆かつ厚みがあるため、同時期の鳥居清倍のものと区別することは難しい。元禄11年(1698年)から享保12年ごろ(1727年)までの間に当時の流行の遊女や役者を描いたと見られる一枚絵が最低でも25点知られている。菱川師宣の影響がみられる肉筆美人画や役者絵などもよくして、狩野派や土佐派も学び、それらを合わせ、独自の画法を展開し鳥居派の基礎を築いた。代表作としては元禄末年-宝永初年ごろの墨摺絵「立美人」(東京国立博物館所蔵)、正徳(1711年-1716年)ごろの作とされる絵馬「大江山図」(福島・田村神社所蔵)、享保前期の肉筆美人画「傘持美人図」(東京国立博物館所蔵)などがあげられる。また「早川はつせの和国 中村七三郎の千原左近いの助」など多数が重要美術品になっている。享年66。墓所は豊島区の染井墓地(法成寺墓地)にあったが現在は妙顕寺に移されている。法名は浄源院清信日立信士。
なお、二代目鳥居清信は三男が継いだといわれているが、鳥居清倍と同一人物だという説もある。通称を庄兵衛と言い、宝暦2年6月1日(1752年7月11日)に没している。他の門人に鳥居清倍、鳥居清倍2代目、鳥居清春、鳥居清重、鳥居清忠、鳥居清朝らがいる。『鳥居画系譜』には他に鳥居清経、二代目鳥居清元、鳥居清朗らの名前も清信の門人として見られるが、現在、作品は残存していないといわれる。また、『浮世絵類考』が奥村政信や西村重長、近藤清春などを清信の門人としているのは、彼らの作品が島居派のものにあまりにも酷似していることによる誤解であるといわれる。他にも羽川珍重、懐月堂安度、常川重信などのようなわずかな版画作品を残した同時期の絵師にも多くの影響を与えている。
作品
版画
「蚊帳の内外」 墨摺筆彩 大判 ベルリン国立アジア美術館所蔵
「立美人図」 墨摺絵 大々判 東京国立博物館所蔵
「沢村小伝次の露の前」 丹絵 ウースター美術館所蔵
「上村吉三郎の女三の宮」 丹絵 大々判 シカゴ美術館所蔵
「滝井半之助」 丹絵 大々判 シカゴ美術所蔵 宝永3年〜宝永6年
「初代大谷広次のはしば久吉と二代目三条勘太郎の若衆」 漆絵 細判 キヨッソーネ東洋美術館所蔵
「五良時むね市川団蔵 せうせう藤村半太夫」 漆絵 細判 慶応義塾所蔵 享保6年(1721年)
「初世市川門之助」 漆絵 細判 東京国立博物館所蔵 享保前期
肉筆画
作品名 技法 形状・員数 所有者 年代 落款 備考
大江山図 板地着色 絵馬 田村神社(福島県) 宝永年間 「日本画工鳥居清信図」落款印章 福島県指定重要文化財
傘差し美人図 紙本着色 1幅 東京国立博物館 款記「鳥居清信筆」/「清信」朱文方郭円印
節分図 紙本淡彩 扇面1本 東京国立博物館 宝永から正徳 「清信」印 上弦44.3 下弦18.1 径16.8
立姿役者図 紙本着色 1幅 出光美術館 伝初代鳥居清信
坂東一寿曽我七草の段図 紙本着色 1幅 フリーア美術館 宝永年間
好色花合せ 紙本着色 1巻 ボストン美術館(ビゲロー・コレクション) 宝永年間 款記「絵師鳥居清信圖」/「清信」朱文方郭円印 春画
春秋絵巻 絹本着色 2巻 個人 正徳年間 無款 春画。上記の「好色花合せ」と共通する図様が多いが、これよりやや下る時期の作品と考えられる。
嵐三五郎の後面の所作図 紙本着色 1幅 ミネアポリス美術館 正徳年間
坂東一寿曾我七草の段図 紙本着色 1幅 フリーア美術館 正徳5年(1715年)
太夫と禿 絹本着色 1幅 シカゴ美術館 「清信」朱文方郭円印 Gift of Mr. and Mrs. Harold G. Henderson
調髪美人図 1幅 MOA美術館 17世紀
参考:『奥村政信』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E6%9D%91%E6%94%BF%E4%BF%A1
奥村 政信(おくむら まさのぶ、貞享3年〈1686年〉 - 宝暦14年2月11日〈1764年3月13日〉)とは、江戸時代前期の浮世絵師、版元。
来歴
「芝居狂言浮絵根元」 当時の劇場の様子を浮絵の手法で描く。破風下の柱に「篠塚五関破り」とあるところから、寛保3年(1743年)11月中村座の顔見世『艤貢太平記』の一番目大詰を描いたものであることがわかる(『歌舞伎年表』第二巻)。政信画。
姓は奥村、名は源八、または源八郎。江戸の生まれ。芳月堂、丹鳥斎、文角、梅翁、親妙などと号し、通常はこれら複数の号をいくつか組合わせて使用している。また「日本畫師」、「風流倭畫師」、「日本畫工」、「東武大和畫工」、「おやま畫工」などと肩書きしたり、「正名奥村文角政信正筆」と落款したものもある。このうち「正名」や「正筆」と記したのは当時、政信の絵が流行し、偽版が多く出回ったためと考えられる。
鳥居派及び菱川派の画風を独学で学んで、菱川師宣、鳥居清信の影響を受けながらも、独自の画風による美人画、役者絵を描いた。また肉筆浮世絵にも手腕を発揮している。作画期は元禄末期から宝暦期までの五十余年にわたり、版画形式も錦絵誕生の直前まで墨摺絵、丹絵、紅絵、漆絵、紅摺絵、石摺絵などあらゆるジャンルの浮世絵版画を様々な形式で描いている。各時代時代の流行、社会的要請によって、少しずつ画風は変化しながらも、同時代の他の浮世絵師とは異なる画風で常に自己の表現を堅持した。 また政信は、俳諧を立羽不角に学び、掛詞や比喩を用いてユーモラスな句調を特色とする化鳥風に親しんだ俳人でもあり、芳月堂文角という号は師の名前にちなんでつけたものであった。
鳥居清信の絵本を模写した元禄14年(1701年)刊行の遊女絵本『娼妓(けいせい)画牒』(仮題)が初筆である。さらに、翌々年の元禄16年(1703年)に『好色花相撲』という浮世草子を出すなど、徐々に浮世絵師としての地歩を固め、宝永・正徳期には鳥居派に対抗して、多くの丹絵、墨摺絵を上梓している。なかでも「風流…」、「浮世…」と題して、見立を用いて俳諧を加味し、機知に富んだ風俗画の組物を数多く刊行して浮世絵の画域を広げたことは特筆される。画風は清信様式に宮川長春風を加え、生動感を抑えた柔和でふっくらした優しさの滲み出たものとなっている。その後、多くの浮世草子、草双紙の挿絵を描き、享保期には美人画の他、一枚摺の役者絵、風景画、武者絵、花鳥画と多様な分野に活躍、相当な量の紅絵、漆絵を残した。また文筆にも秀で、六段本、好色本なども自ら描き、「色子三幅対」などの三枚組形式や、婦女子が弄ぶ小箱などに貼る貼箱絵というものを工夫し、「源氏物語」シリーズを刊行したのもこの頃であった。画風はふっくらした優しさが後退して、雄々しさ、力強さが加わり、細判にあわせてこぢんまりとしてくる。
元文、寛保、延享、寛延、宝暦と高年になってからも、政信の創作意欲は衰えず、柱絵、中国絵画の遠近法を見て浮絵を初めて制作し、大判の紅摺絵に健筆をふるう。またこの時期、元文5年(1740年)に刊行された「絵本小倉錦」などのように絵本も数多く手がけた。
政信は肉筆浮世絵も比較的多く描いており、美人画が大半を占めている。代表作として「小倉山荘図」、「西行と遊女図」、「文使い図」などがあげられ、享保以降の政信美人画の優品はこれら肉筆画に多く見られる。政信は版画という小さい画面の制約から開放されたかのように伸び伸びと筆を走らせ、艶麗さでは長春に一歩譲るが、中小画面の構成力では、師宣に匹敵する力量を示した佳品が少なくないといえる。
享保中期頃より「浮世絵一流版元」と称して、日本橋通塩町(現・馬喰町)の版元奥村屋源八(源六)(商標・赤ひょうたん)の経営に参画し、一枚摺では柱にかけて装飾にする幅広柱絵、透視遠近法を用いた浮絵、三幅対風の組物など、新形式の開拓に積極的に努めた。そして人気を得た新商品はすぐに真似されるため、自作に「はしらゑ根元」、「浮絵根元」と記し、政信が本家本元であることを明記した。細判の役者絵にトレードマークの瓢箪印と、「通塩町絵問屋べにゑ ゑさうし あかきひやうたんじるし仕候 奥村」と記すなど、宣伝にも工夫を凝らすアイデアマンであった。政信が一枚摺における錦絵創始以前の浮世絵美人画の洗練に果たした役割は大変大きい。 享年79。門人に奥村利信、奥村政房、奥村政利らがいる。
作品
版本
『好色花相撲』 浮世草子 元禄16年
『男女比翼鳥』 浮世草子 東の紙子作 宝永4年
『絵本小倉錦』 絵本 元文5年
『絵本美人顔之雛形三十二相』 絵本 寛延‐宝暦ころ
木版画
「遊色三福つい」 大々判墨摺絵 東京国立博物館所蔵(重要文化財)
「浮世あふぎうり」 横大判墨摺絵 神奈川県立歴史博物館所蔵
「遊色張果郎」 大々判丹絵 正徳‐享保前期
「鼠の相撲」 大々判丹絵 正徳ころ
「色子三幅対」 細判3枚組漆絵 享保7年ころ
「浮絵天神祭」 横大判丹絵 東京国立博物館所蔵
「佐野川市松の人形遣い」 幅広柱絵判紅絵 東京国立博物館所蔵 ※「おどり行 末の松山 夕時雨」の句あり
「新吉原大門口中之町浮絵」 横大判紅絵 キヨッソーネ東洋美術館所蔵
「坂東彦三郎と小姓吉三郎」 大々判漆絵 東京国立博物館所蔵
「市川海老蔵の助六」 大々判 東京国立博物館所蔵 ※「若やぎて 海老らの梅や 二度のかけ」の句を添えて記す。
「がくの小さん」 細判漆絵 たばこと塩の博物館所蔵 奥村源六版
「芝居狂言浮絵根元 中村座 仮名手本忠臣蔵」 横大判漆絵 日本浮世絵博物館所蔵 宝暦6年
「両国涼見」 三枚続紅摺絵 東京国立博物館所蔵
「禿三幅対」 横大判紅摺絵 千葉市美術館所蔵
「染色のやま 閨の雛形」 横大判漆絵 1組12図 寛保年間 春画
「物見窓」
肉筆画
作品名 技法 形状・員数 所有者 年代 落款 備考
小倉山荘図 絹本着色 1幅 東京国立博物館 「奥村政信圖」/「政信」朱文方郭内円印
遊女と禿図 紙本着色 1幅 東京国立博物館 「芳月堂奥村政信画」/「奥邨」白文瓢形印 画賛「土手の籠 口舌もなしや 秋の暮」
西行と遊女図 絹本着色 1幅 東京国立博物館 「奥村政信圖」/「政信」朱文方郭内円印
文使い図 絹本着色 1幅 出光美術館 「奥村政信圖」/「奥邨」朱文円印・「政信」白文方郭内印
中村座歌舞伎芝居図 紙本着色 六曲一隻 出光美術館 享保16年(1731年) 「享保十六辛亥七月上旬出来 日本畫 奥村政信圖」/「奥邨」白文瓢形印
遊女と嫖客図 紙本着色 1幅 出光美術館
人形を使う佐野川市松図 絹本着色 1幅 浮世絵太田記念美術館
客待つ遊女図 絹本着色 1幅 浮世絵太田記念美術館 賛有り
文かく遊女図 紙本着色 1幅 浮世絵太田記念美術館
花魁と禿図 絹本着色 1幅 浮世絵太田記念美術館
団十郎 高尾 志道軒円窓図 絹本着色 1幅 浮世絵太田記念美術館
男女遊楽図 紙本着色 1幅 たばこと塩の博物館
当流遊色絵巻 紙本着色 2巻 鎌倉国宝館
武者絵 紙本着色 1幅 鎌倉国宝館
見立七夕二星図 絹本着色 1幅 奈良県立美術館
女万歳図 紙本着色 1幅 林原美術館
蚊帳美人之図 絹本着色 1幅 ロシア国立東洋美術館
閨の色衣 紙本着色 1巻10図 ボストン美術館(ビゲローコレクション) 正徳年間 款記「奥邨政信圖」「奥邨」朱文方印・「政信」白文円郭印 春画
参考:『鈴木春信』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E6%98%A5%E4%BF%A1
鈴木 春信(すずき はるのぶ、享保10年〈1725年〉? - 明和7年6月15日〈1770年7月7日〉)は、江戸時代中期の浮世絵師。細身で可憐、繊細な表情の美人画で人気を博し、浮世絵というとまず思い浮かべる木版多色摺りの錦絵誕生に決定的な役割を果たし、後の浮世絵の発展に多大な影響を及ぼした。
来歴
「中納言朝忠(文読み)」
京都に出て西川祐信に学び、後に江戸に住んだといわれる。または西村重長の門人とも伝わる[1]。姓は穂積、後に鈴木を名乗る。通称次郎兵衛。長栄軒、思古人とも号す。江戸神田白壁町(現・鍛冶町 (千代田区) )の戸主(家主)で、比較的裕福だったと考えられる。近所には平賀源内が住んでおり、友人として親しく、共に錦絵の工夫をしたという。宝暦10年(1760年)3月上演の芝居に基づく細判紅摺絵の役者絵「市川亀蔵の曾我五郎と坂東三八の三保谷四郎」が初作とされており、この後亡くなるまでの10年間浮世絵師として活躍した。初期には紅摺絵の役者絵も知られている。宝暦年間はこのような役者絵、美人画の他、古典的画題の紅摺絵、水絵[注 1]を制作、現在役者絵だけでも30点余り、水絵も30点以上知られている。
錦絵誕生
錦絵が大流行するきっかけになったのが、1600石取りの旗本・大久保甚四郎(俳名 巨川)と1000石取りの阿部八之進(俳名莎鶏)が、薬種商の小松屋三右衛門(俳名百亀)らと協力して、金に糸目をつけずに画期的な多色摺りの技術を開発し、明和2年(1765年)以降に開催した絵暦交換会である(当時の太陰暦では毎年、30日ある大の月・29日の小の月が変わるため、絵で月の大小を表したものが絵暦)。また、彫師や摺師と協力、木版多色摺りの技術開発、色彩表現の可能性を追求、様々なデザインの絵暦が競って作られ、やがて錦絵の流行に発展していった。春信の「座敷八景」に「巨川工」とあるのはこのアイデアの考案者を表しており、この場合、大久保巨川を指している。また春信の作品が当時の知識人をパトロンとし、彫師、摺師との緊密な協力による制作であることをも示している。大正8年(1919年)に有志によって建てられた碑が台東区谷中の大円寺にある。法名は法性真覚居士。
錦絵の草創期に一世を風靡したため、多数の追随者を出した。春信の門人に鈴木春重(司馬江漢)、鈴木春広(「礒田湖龍斎)、駒井美信、鈴木春次、益信、光信、仲国信など[2]。次代の一筆斎文調、勝川春章、北尾重政、鳥居清長などにも影響を与え、浮世絵黄金期を直接導くものになったといってもよい。
作品
現存する作品数は、1000点ほどとされる。後世の人気浮世絵師たちと比べると、1図あたりの残存数が少なく、しかも主要作品の多くが海外にある。浮世絵版画の数と比べると、肉筆浮世絵の遺作は極めて少ない。版型は中判が標準的だが、柱絵も少なからず残る。春信の作品からは、江戸になかった上方風及び中国美人画の影響が見て取れる。具体的には、構図や構成は上方の西川祐信の版本を参考にするところが多く、その美人の容姿は明の時代の中国版画の仇英に影響を受けている。その他『古今和歌集』や、古今東西の故事説話から得た題材を当世風俗に置き換えた「見立絵」の作品が多い。また錦絵の技法としてもその創始の時期にかかわらず、多様な技法を案出、その芸術性を高めるものになった。
春信の描く美人は、人物が一般に小柄で手足もか細く、色彩も胡粉を混ぜた中間色を使っており、その叙情性も幻想的にさえなる。代表作として「風流四季歌仙」、「座敷八景」、「風流やつし七小町」、「風俗六玉川」などのシリーズの他、笠森おせんなど、当時の高名な江戸美人も描いている。
「風流七小町やつししみづ」図:清水寺
「風流やつし七小町・関寺」
「雨夜の宮詣」笠森おせん
他にも「鷺娘」や「髪洗い二美人」などなどといったすぐれた作品も多く、後世にまで大きな影響を与えている。「瀬川菊之丞図」は柱絵の縦に長い画面を生かして菊之丞のすらりとした細みのある身体を収めている。図の上部には内山賀邸による「深き渕はまるひいきにあふ瀬川 音にもきくの上手とはしれ」という狂歌が添えられている。
代表作
紅摺絵
「風流やつし七小町」細判 7枚揃 宝暦末頃 関でら(東京国立博物館所蔵)など
「見立三夕 「定家 寂蓮 西行」」 大判(細判3丁掛) 宝暦末期 ボストン美術館所蔵
「馬上の朝鮮人」 細判 明和元年頃 ボストン美術館所蔵
「朝鮮人行烈」 細判 明和元年頃 ボストン美術館所蔵
錦絵
「夕立」 中判 明和2年の絵暦で、洗濯物の模様に「メイワ二 大二三五六八十」とあり、同年の大の月が表されている。 シカゴ美術館、ボストン美術館など所蔵
「座鋪(ざしき)八景」 鏡台の秋月、あふぎの晴嵐、台子(だいす)の夜雨、琴路の落雁、あんとう(行燈)の名勝、手拭かけの帰帆、塗桶の暮雪など8図からなる。初めは大久保巨川が案をだして春信に描かせた配り物であった。中判 摺物 明和2年頃、シカゴ美術館など所蔵
「清水の舞台より飛ぶ美人」 中判 明和2年の絵暦で、女性の着物に描かれた貝の模様に「大、二、三、五、六、八、十」の文字がデザイン化され、同年の大の月が表されている。
「夜の梅」 中判 明和3年頃 メトロポリタン美術館所蔵
「雪中相合傘」雪の降る中を白衣の娘と黒衣の若衆がひとつの傘に収まって歩く姿。画題は烏鷺道行である。中判 明和4年頃 大英博物館など所蔵
「団扇売り」 中判 明和4年~明和5年頃 江戸東京博物館、ボストン美術館、ベルリン東洋美術館所蔵
「水売り」 中判 絵暦 明和2年 東京国立博物館所蔵 中判絵暦と錦絵の改版物がある。
「雪中縁端美人」 東京国立博物館所蔵
「鞠と男女」 中判 千葉市美術館所蔵 明和4年頃
「鶴上の遊女」 中判 慶応義塾大学三田情報センター所蔵 明和中期
「梅の枝折り」 中判 山種美術館所蔵 明和2年~明和7年頃
「お仙の茶屋」 中判 東京国立博物館所蔵 明和2年~明和7年頃
「柳屋見立三美人」 大判 東京国立博物館所蔵 明和5年~明和6年
「風流四季歌仙 二月水辺梅」 中判 慶応義塾所蔵 明和5年頃
「見立菊慈童」 横中判 東京国立博物館など所蔵 明和3年~明和4年頃
「見立夕顔」 中判2枚続 絵暦 ホノルル美術館所蔵 明和3年
「六玉川」 中判 揃物 数種あり
「風俗四季歌仙」 中判 揃物 立秋など
「縁先物語」 中判
絵本
『絵本花葛蘿』 明和1年
『絵本千代松』 墨摺半紙本3冊 千葉市美術館所蔵 明和4年正月刊
『絵本青楼美人合』 彩色摺美濃本5冊 国立国会図書館所蔵 明和7年 吉原在住の遊女166名を四季風俗に沿って描く。
肉筆浮世絵
作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款・印章 備考
見立白衣観音善財童子図・見立玄宗皇帝楊貴妃図 絹本着色 双幅 摘水軒記念文化振興財団(千葉市美術館寄託) 明和年間後期 款記「鈴木春信画」 渡辺霞亭旧蔵
二代瀬川菊之丞図 絹本着色 1幅 94.5x9.3 浮世絵太田記念美術館 款記「鈴木春信畫」/「春信」白文方印 内山賀邸賛「深き淵 はまるひいきに あふ瀬川 音にもきくの 上手とはしれ」
桜下遊君立姿図 絹本着色 鎌倉国宝館
井出の玉川図 絹本着色 1幅 37.1x57.2 MOA美術館 款記「鈴木春信畫」/「春信」白文方印
玄宗皇帝楊貴妃図 絹本着色 1幅 44.6x64.8 MOA美術館 款記「鈴木春信」/「春」「信」白文連印
猿と美人図 絹本着色 奈良県立美術館
浴後の母子図 紙本着色 1幅 75.6x26.3 個人 款記「春信畫」/「春信」白文方印
隅田河畔春遊図 絹本着色 1幅 32.7x54.5 ボストン美術館 明和年間 款記「鈴木春信画」/「春信」白文方印
参考:『勝川春章』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E5%B7%9D%E6%98%A5%E7%AB%A0
勝川 春章(かつかわ しゅんしょう、享保11年〈1726年〉[1]または寛保3年〈1743年〉 - 寛政4年12月4日[2]または12月8日〈1793年1月15日または1月19日〉)とは、江戸時代中期を代表する浮世絵師。役者絵では役者個人の特徴を捉えた似顔絵風作画の先鞭をつけ、肉筆の美人画でも細密優美な作風で高い評価を得た。
来歴
本姓不詳、「藤原」とする説もあるが確かではない。諱は正輝、字は千尋。俗称は要助、安永3年(1774年)に春祐助と改む。画姓は初め宮川、または勝宮川、後に勝川、勝と称した。号は春章、旭朗井、李林、六々庵、縦画生、酉爾。江戸の人といわれるが、台東区蔵前の西福寺に伝わる過去帳には春章以前の父祖の名が記されていないので、春章の代で他所から江戸に来た可能性が指摘されている。ただし春章とは知己の高嵩月が記した『画師冠字類考』(岩瀬文庫蔵)には春章の略歴があり、それによれば春章の父は医者で葛西にいたという。
明和年間から没年までを作画期とする。絵を宮川春水に、また高嵩谷にも学び、英一蝶風の草画もよくしている。北尾重政とは家が向かいで親しく、その指導を受けたという(『古画備考』)。春章は立役や敵役の男性美を特色とし、容貌を役者によって差別化しない鳥居派の役者絵とは異なる写実的でブロマイド的な役者似顔絵を完成させ、大衆に支持された。そのはじめとなったのは、一筆斎文調との合作として明和7年(1770年)に刊行した『絵本舞台扇』である。その後文調と比較して、明快な色彩と、素直で誇張のない表現で、人気を博した。特に「東扇」(あずまおおぎ)の連作は、人気役者の似顔絵を扇に仕立てて身近に愛用するために、扇の形に線が入っており、大首絵の先駆的作品とされる。ほかに代表作として「かゐこやしない草」があげられる。
春章には勝川春好、勝川春英をはじめとして勝川春潮、勝川春林、勝川春童、勝川春常、勝川春泉、勝川春暁、勝川春朗(のちの葛飾北斎)など多くの弟子がいた。春章を祖とする勝川派は役者似顔絵を得意として隆盛したが、春章自身は天明後期には勝川派を代表する座を弟子の春好と春英に譲り、晩年は肉筆画に専念してゆく。特に細密な美人画は当時から称賛されていたようで、大名や豪商から多くの注文があり、安永4年(1775年)六月序の洒落本『後編風俗通』に「春章一幅価千金」と讃えられた。この語句は従来「一幅」という語句から春章の肉筆美人画を讃えたものと解釈されているが、安永4年当時春章は未だほとんど肉筆美人画を制作しておらず、これは現在数点確認されている柱隠しの錦絵美人画のことを指すことは注意する必要がある[4]。肉筆画の代表作としては美人画の「雪月花図」(MOA美術館所蔵)がある。肉筆画において優れた美人画を数多く残したのは、宮川長春、春水の影響であろうとされる。
人形町の地本問屋林屋七右衛門の家に寄寓し、同店の仕切り判を画印に使用したことから「壺屋」、「壺春章」ともいわれた。俳諧もたしなみ俳名を酉爾(または西示)、のちに宣富と称し、当時江戸で出された句集にいくつかの句を残している。また松平西福寺の過去帳によれば勝川春橋は孫に当たるが、春橋が実際に祖父である春章から絵を学んだのかどうかは不明である。
墓所は現在松平西福寺となっているが、もとは同寺内の子院である存心院にあり、明治になって存心院が退転したので移されたという。墓石には辞世として「枯ゆくや今ぞいふことよしあしも」の句を刻む。法名は勝誉春章信士。
なお春章の享年は一般には67歳とされているが、これは『名人忌辰録』(関根只誠著、1894年)でそのように記されたのが濫觴となっている。しかし春章の作品も含めた江戸時代の資料において、春章の享年について67歳であると記したものは一切見当たらず、関根只誠がいかなる資料や根拠によって67歳としたのかは不明である。生年の享保11年というのもこの67歳から逆算したものである。同志社大学教授の神谷勝広は上述の『画師冠字類考』に春章の享年が「年五十歳」と記されていることから、通説よりも17歳若返ると指摘している。また『画師冠字類考』では没年を「寛政四年十二月四日」としており、寛政4年12月8日とする過去帳や墓石とは日付に違いがあるが、「死亡日が『四日』で葬儀日が『八日』だったのかもしれない」と推測している。
作品
絵本
『絵本舞台扇』 明和7年 文調と合作
『風流錦絵伊勢物語』 安永2年(1773年)刊行
『錦百人一首あつま織』 安永4年
『青楼美人合姿鏡』 安永5年 北尾重政と共画
役者絵
「四世市川団十郎の暫」 大判錦絵 明和5年
「かゐこやしなひ草」 中判12枚揃 錦絵 安永1年ころ 北尾重政と合作
「南駅秋風」 大判揃物 安永4年‐安永5年ころ
「東扇 初代中村仲蔵の斧定九郎」 間倍判錦絵 東京国立博物館所蔵 ※連作「東扇」のひとつ。安永4,5年 - 天明元,2年(1775,6年 - 1781,2年)頃
「五代目市川団十郎の股野五郎 三代目沢村宗十郎の河津三郎 初代中村里好の白拍子風折実八鎌田正清娘」 細判錦絵3枚続 太田記念美術館所蔵
「五世市川団十郎の楽屋」 大判 天明2年 - 天明3年ころ
「二代目市川八百蔵の富士左近助行家 四代目松本幸四郎の浅間左衛門照政」 細判錦絵2枚続 城西大学水田美術館所蔵
「三代目瀬川菊之丞」 細判錦絵 城西大学水田美術館所蔵
「九代目市村羽左衛門」 ホノルル美術館所蔵
「初世尾上松助の門兵衛 初世中村仲蔵の意休 初世中村里好の揚巻 五世市川団十郎の助六 三世沢村宗十郎の白酒売」 細判5枚続 錦絵 天明2年
「中村仲蔵の頼豪阿闍梨」 細判
肉筆画
作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款・印章 備考
婦女風俗十二ヶ月図 絹本著色 10幅 115.0x25.7(各) MOA美術館 天明期 款記「旭朗井勝春章画」/「酉爾」朱文方印 重要文化財。松浦家伝来。当初の12幅中1月と3月の2幅が失われており、歌川国芳が補作したが、それも1月が失われている。
雪月花図 絹本著色 3幅対 93.0x32.3 MOA美術館 重要文化財
竹林七妍図 絹本着色 1幅 東京藝術大学大学美術館
吾妻風流図 絹本着色 1幅 東京藝術大学大学美術館
美人愛猫愛犬図 絹本着色 1幅 城西大学水田美術館
美人鑑賞図 絹本着色 1幅 出光美術館 款記「勝春章画」/「縦意」白文方印
桜下三美人図 絹本着色 1幅 出光美術館 款記「勝春章画」/朱筆花押
柳下納涼美人図 絹本着色 1幅 出光美術館 款記「勝春章画」/朱筆花押
雪中傘持美人図 絹本着色 1幅 出光美術館 款記「勝春章画」/朱筆花押
観梅美人図 絹本着色 1幅 鎌倉国宝館
美人活花図 絹本着色 1幅 鎌倉国宝館
読書図・習字図 絹本着色 双幅 49.1x35.4 東京国立博物館
遊女と燕図 絹本着色 1幅 111.7x32.1 東京国立博物館 款記款「勝川春章画(花押)」 四方赤良賛
花魁図 絹本着色 1幅 浮世絵太田記念美術館 馬耳山人賛
子猫に美人図 絹本着色 1幅 浮世絵太田記念美術館
美人と達磨図 絹本着色 1幅 浮世絵太田記念美術館
桜下詠歌の図 絹本着色 1幅 浮世絵太田記念美術館
桜下花魁図 絹本着色 1幅 浮世絵太田記念美術館
立姿美人図 絹本着色 1幅 ニューオータニ美術館
紫式部図 絹本着色 1幅 ニューオータニ美術館
初午図 紙本着色 1幅 ニューオータニ美術館
紅葉狩二美人逍遥之図 絹本着色 1幅 川崎・砂子の里資料館
花下の遊女図 絹本着色 1幅 千葉市美術館
遊女と禿図 絹本着色 1幅 千葉市美術館
婦女風俗十二ヶ月図 雛祭 紙本着色 1幅 千葉市美術館
雨中幽霊図 紙本着色 1幅 123.5x47.7 徳願寺 (市川市)[9]
勿来の関図 絹本着色 1幅 日本浮世絵博物館
鉢かづき姫図 紙本淡彩 1幅 奈良県立美術館
遊女と禿図 絹本着色 1幅 金刀比羅宮絵画館
桜下花魁道中図[10] 絹本着色 1幅 85.2x38.0 熊本県立美術館
春遊柳蔭図屏風 紙本着色 六曲一双 140.9x341(各) ボストン美術館 寛政前期 款記「勝春章圖」[11]
桜下太夫之図 絹本着色 1幅 ロシア国立東洋美術館
双美人図 絹本着色 1幅 心遠館
美人間娯図 1幅
参考『生誕290年記念 勝川春章 -北斎誕生の系譜』太田記念美術館 https://www.ukiyoe-ota-muse.jp/2015_katsukawashunsho/
北斎の師匠にして、写楽のルーツ
1. 写楽のルーツ ―役者絵のパイオニア
2.飽くなき挑戦-相撲絵・美人画・武者絵など
3.北斎の師匠―勝川派を率いたリーダー
参考:『北尾重政』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%B0%BE%E9%87%8D%E6%94%BF
北尾 重政(きたお しげまさ、元文4年〈1739年〉 - 文政3年1月24日〈1820年3月8日〉)とは、江戸時代中期の浮世絵師。北尾派の祖。
来歴
本姓は北畠で、戦国大名北畠氏の末裔だという。幼名を太郎吉。俗称を久五郎、後に佐助といった。諱は兼儔、字は非羸。画姓を北尾と言い、重政(繁昌、恭雅とも)、碧水、紅翠軒、紅翠斎、一陽井、台嶺、北峰、北鄒田夫、時雨岡逸民、恒酔天、酔放逸人、了巍居士と号す。また俳名や画号として、花藍、華藍と称している。
江戸小伝馬町の書肆(しょし、本屋)須原屋三郎兵衛の長男として生まれる。父の三郎兵衛はもと須原屋茂兵衛という大店の版元に長年年季奉公した功により、のれん分けを許された。重政は本に囲まれて育ったわけで、長じて浮世絵師になったのは、本人の絵心以外にこうした環境が影響していると推測される。既に10歳半ばには、暦の版下などを書いたという。その頃出版されていた紅摺絵は甚だ稚拙で、これくらいなら自分も描けると思ったのが絵師になる切っ掛けだったという。絵は師匠につかず独学で学んだ。しかし北尾の画姓は上方の浮世絵師北尾辰宣に由来し、本姓の北畠に読みが近いことも影響していると考えられる。辰宣は「自分の思いのまま、ほしいままに描く」という意味の「擅画」という語を用いたが、重政もこうした作画姿勢に共感したと思われる。浮世絵師になってからは大伝馬町三丁目扇屋井筒屋裏に住んでいたが、後に金杉中村の百姓惣兵衛地内に永住した。
重政は谷素外に師事して俳諧を学んでおり、花藍の号を受けたといわれ、プロの文字書きで師承は不明であるが書道に通じ三体篆書隷書をよくし、暦本の版下、祭礼や年中行事の際に掲げられる幟の文字などに有名書家たちに混じり揮毫、重政の書も大書されていたという。このような才能によって浮世絵を描き、一派の祖となった。
宝暦末頃から西川祐信や鳥居清満風の紅摺絵の役者絵を描き、試行錯誤を重ねていった。明和2年(1765年)の摺物に花藍の号をもって参加、錦絵創製の有力絵師として活躍し始め、安永、天明の頃には画風が出来上がり、無款による美人画のほか、浮絵や草双紙の挿絵も多数描いた。
一枚絵よりはむしろ版本における活躍が目立ち、手がけた絵本は60点を超え、黄表紙挿絵は100点以上あるといわれる。なかでも安永5年(1776年)に勝川春章と合作した絵本『青楼美人合姿鏡』は、実在の花魁をもとに吉原風俗を描いた代表作として良く知られている。他には同じく春章と合作した錦絵「かゐこやしない草」、洋風画の影響の見られる「写真花鳥図会」などが著名である。また、歌川豊春とも合作するなど、安永・天明期の浮世絵黄金時代における一方の雄であった。天明期以降は専ら絵本や挿絵本の仕事を主とし、肉筆浮世絵も描いた。後年名が売れたあとも、次第に浮世絵の流派が定まっていく中で、若輩が担当することが多くなっていった版本挿絵の仕事を継続的にこなしているのは、重政の本好きを表しているといえる。肉筆では天明期の「摘み草図」(東京国立博物館所蔵)、天明5年(1785年)作画「美人戯猫図」(浮世絵太田記念美術館所蔵)などが挙げられるが、作品数は非常に少ない。
享年82。墓所は台東区西浅草の善竜寺。法名は了巍居士。
重政は次の天明期に美人画において活躍する鳥居清長に影響を与え、若き頃の喜多川歌麿を弟子のようにその面倒を見ている。また教養のある重政のもとには北尾政演、北尾政美、窪俊満、式上亭柳郊のような文学的教養のある門人が集まった。大田南畝は『浮世絵類考』で「近年の名人なり。重政没してより浮世絵の風鄙しくなりたり」と高く評価している。喜多川歌麿や葛飾北斎などにも影響を与えている。
作品
版本挿絵
『絵本吾妻花』 絵本 ※明和5年
『絵本三家栄種』 絵本 ※明和8年
『青楼美人合姿鏡』 絵本 ※安永5年、春章と合作
『時花兮鶸茶曾我』 黄表紙 ※芝全交作、安永9年
『絵本吾妻抉』 絵本 ※天明6年
『花鳥写真図彙』初編 ※文化2年
紅摺絵
『小姓吉三郎 坂東彦三郎 八百屋お七 瀬川菊之丞』 宝暦11年(1761年) ボストン美術館所蔵
『小のゝ小町 嵐ひな次』 細判 明和2年(1765年) 平木浮世絵財団所蔵
『しづか 瀬川菊之丞』 細判 明和4年(1767年) 早稲田大学演劇博物館所蔵
『瀬川菊之丞 小山田太郎』 細判 明和4年 シカゴ美術館所蔵
錦絵
「屏風前の二美人」 大判 ベルリン国立東洋美術館(英語版)所蔵 ※無款
「浮世六玉川 第五 陸奥 能因」 細判6枚揃のうち 城西大学水田美術館所蔵
「芸者と箱屋」 大判 ホノルル美術館所蔵 ※安永6年頃
「東西南北之美人」 大判揃物 ※無款、安永6年頃
「品川君姿八景」 大判揃物 ※無款、安永6年頃
肉筆画
作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款 印章 備考
摘み草図 絹本着色 1幅 79.0x133.0 東京国立博物館
渡し場図 1幅 117.6x38.8 東京国立博物館
遊女図 1幅 東京国立博物館
ほたる狩図 絹本著色 1幅 98.1x27.0 ニューオータニ美術館 天明後期から寛政初期 「北尾重政画」 花押
美人戯猫図 絹本著色 浮世絵太田記念美術館 1785年(天明5年) 「乙巳林鐘 東都叡嶽後園北尾紅翠齋書」 花押
見立普賢菩薩図 絹本著色 浮世絵太田記念美術館 真巌賛
月見る美人 紙本著色 1幅 93.7x23.6 光ミュージアム 1781-1801年(天明から寛政年間) 花藍画 花押 美人のスラリとした姿態は重政画と距離があり、作者には検討の余地がある[5]。
久米仙人図 絹本著色 1幅 94.5x29.2 ハンブルク工芸美術館 1781-1789年(天明年間) 「北尾紅翠齋画」 花押 狩野永徳高信との合作で、重政が美人を、高信が久米仙人をそれぞれ描く。絵の主役である美人を卑賤の身分である浮世絵師が描き、絵師の中で最も身分の高い奥絵師筆頭格である高信が美人の魅力に負けて空から落ちる仙人を描くという、当時の常識では考えられない価値観の転倒が絵の中で起こっている。
参考:『鳥文斎栄之』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E6%96%87%E6%96%8E%E6%A0%84%E4%B9%8B
鳥文斎 栄之(ちょうぶんさい えいし、宝暦6年〈1756年〉 - 文政12年7月2日〈1829年8月1日〉[2][3])、または細田栄之(ほそだ えいし) は、江戸時代後期の浮世絵師、旗本。寛政から文化文政期にかけて活躍した。
来歴
生い立ち
姓は細田、名は時富。俗称は弥三郎、民之丞。鳥文斎と号す。治部卿とも称した。肉筆画に、華暎、独有の印が見られる。栄之は後に従六位に叙せられている。江戸本所割下水(現・墨田区亀沢)に拝領地を有し、初め浜町に住み、後に本所御竹蔵の後方に移ったという。父は細田時行、母は境野氏の出とされるが、妾腹ではないかともいわれている。細田家は500石取りの直参旗本で、栄之の祖父時敏は勘定奉行を務めている。
栄之自身は時行の長男として生まれ、安永元年(1772年)9月6日に17歳で家督を継いでいる。絵は初め狩野典信に学び、師の号「栄川院」より「栄」の一字を譲り受け栄之と号した。後に浮世絵に転じたため、師の栄川院より破門を言い渡されたが、栄之の号だけは永く使用していた。その後諸役を務め、天明元年(1781年)4月21日から天明3年(1783年)2月7日まで西の丸にて将軍徳川家治の小納戸役に列し絵の具方を務め、家治が絵を好んだので御意に叶い、日々お傍に侍して御絵のとも役を承っていた。天明元年(1781年)12月16日には布衣を着すことを許可されている。上意によって栄之と号し奉公に励んだが、天明3年(1783年)12月18日辞して無職の寄合衆に入っている。天明6年(1786年)には将軍家治が死去、その三年後の栄之34歳の時、寛政元年(1789年)8月5日には病気と称して致仕、隠居した。しかしこれは将軍が病死であったことにより、憚ってのこととであるとされる。そして妹を養女として迎え、これに和三郎を婿入りさせて時豊と名乗らせ家督を譲った。
浮世絵師へ
絵は狩野典信に学ぶ。浮世絵は鳥居文竜斎に学び、画号も文竜斎に由来すると言われるが、実否は不明である。狩野から破門されたとする説もある。
すでに天明(1781年 - 1789年)後期頃から浮世絵師として活動を始めており、初作は天明5年(1785年)刊行の黄表紙『其由来光徳寺門』の挿絵である。初期の作品は、天明期の美人画界の巨匠・鳥居清長の影響が強く、清長風の美人画などを描いている。寛政元年に家督を譲った後は本格的な作画活動に専心し、寛政(1789年 - 1801年)期には栄之独自の静穏な美人画の画風を打ち立てた。特に女性の全身像に独自の様式を確立、十二頭身と表現される体躯の柔らかな錦絵美人画を寛政後期まで多数制作している。栄之の描線は細やかで優美、その女性像は背丈のスラッとした優雅なもので、当時ライバルだった喜多川歌麿作品に見られる色っぽさや淫奔さとは、はっきりと一線を画したものであった。栄之は遊里に生きる女性を理想像に昇華し、清長よりもほっそりとして、歌麿のような艶麗さがなく、容貌は物静かといった栄之独自のスタイルを確立している。また『源氏物語』などの古典の題材を当世風に描いた3枚続「風流略(やつし)源氏」のように、彩色は墨、淡墨、藍、紫、黄、緑といった渋い色のみを用いた「紅嫌い」と呼ばれるあっさりとした地味なもので、それでいて暖かみを感じさせる独特の雅趣のある表現を好んでいた。
この「紅嫌い」の創案者は栄之であるといわれる。栄之はこの作風をもって一枚絵で歌麿とその人気を競った。中判や柱絵にも優れた作品があるが、錦絵の代表作ではシリーズ物の「風流略(やつし)六哥仙」、「風流名所十景」、「青楼美撰合」、「青楼芸者撰」、「青楼美人六花仙」などがあげられる。
なかでも「青楼美人六花仙」のシリーズは黄潰しの背景に花魁の座像を気品高く描いており、栄之ならではの傑作とされている。反対に歌麿が得意とした美人大首絵は全く手掛けておらず、あくまで全身像にこだわる栄之の姿勢が窺える。栄之は細田氏であったが画姓としてはこれを用いず、別に細井氏を名乗っているものがあり、その一例として寛政13年(1801年)、葛飾北斎と共作した西村屋版の豪華な色摺り絵本『新版錦摺女三十六歌僊絵尽』に「細井鳥文斎筆」とあるのをあげられる。これも家柄を憚ってのことと思われる。
肉筆画へ転向
栄之は寛政10年(1798年)頃には錦絵の一枚絵の制作を止める。江戸期の記録には「故在りてしばらく筆を止む」「故障ありて錦絵を止む」などの記述が見られ、版画作品の発表を取りやめざるを得ない事情があったことが想定できる。享和(1801年 - 1804年)・文化(1804年 - 1818年)期にかけてはもっぱら肉筆の美人風俗画を手がけており、気品のある清雅な画風で人気を得た。江戸時代は、木版画の下絵を手懸ける者「画工」より、肉筆画専門の「本絵師」のほうが格上と見られており、栄之の転身も彼の出自と、当時の身分意識が影響していたとみられる。
寛政12年(1800年)閏4月、妙法院宮真仁法親王(門跡)が江戸に下向した折、将軍が栄之に命じて評判の隅田川の図(おそらくは肉筆による絵巻物)を描かせるということがあった。京に帰った妙法院宮は、それを絵を好んだ後桜町上皇に江戸土産としたところ、上皇は殊のほかお喜びになり、ついには仙洞の御文庫に納められたという。これを伝え聞き名誉に感じた栄之は、「天覧」と刻んだ印章を作り、記念としたのであった。ついに浮世絵が帝の叡覧に供せられるという誉れに浴した瞬間であった。評判となったこの一事によって栄之の画名を高めるとともに、以降自作に対し大いに矜持を抱いたといわれる。さらにこのことが当時広く知られるようになったため、隅田川を描いたそれと同趣向の作品の揮毫を各方面から次々と求められたとみられ、同様の「吉原通い図巻」がおよそ21点ほど確認されている。
その後は栄之は没年まで優れた肉筆画を描いており、学んだ絵の骨格がしっかりしているので晩年の肉筆画にも佳作が多く、ただ美人画のみではなく風景画にも優れた作品が残されており、特に隅田川の風景を好んで描いている。ただし、絹本の作例には同じ下絵を使い回した同工異曲の作品も多く、弟子たちを動員して工房的な量産体制があったことが類推できる。その一方で、極めて稀だが肉筆画の落款に、「治部卿栄之藤原時富筆」と位や肩書きをつけて署名することがあり、これらは名だたる大名からの需めに応じて描いたものであると思われる。「遊女立姿図」(東京国立博物館所蔵)や「美人図」(大和文華館所蔵)などに「治部卿栄之藤原時富筆」という落款がされている。
文政12年(1829年)、74歳で死去した。 墓所は台東区谷中の蓮華寺。既に合祀墓に移されていて墓石は存在しない。法名は広説院殿皆信栄之日随居士。
令和6年(2024年)1月6日より千葉市美術館にて「サムライ、浮世絵師になる!鳥文斎栄之展」開催 。
細田派
栄之は細田派という流派を創始した。一門には鳥橋斎栄里、鳥高斎栄昌、鳥園斎栄深、一楽亭栄水、一掬斎栄文、栄鱗、文和斎栄晁、鳥喜斎栄綾、鳥玉斎栄京、鳥卜斎栄意、酔月斎栄雅、桃源斎栄舟、葛堂栄隆、栄波、春川栄山、一貫斎栄尚、酔夢亭蕉鹿、五郷など多くの優秀な門人を輩出している。
作品
版本
『芋世中』 黄表紙 新江作 寛政1年
『狂歌江戸紫』 絵入狂歌本 江戸花住編 寛政7年 歌麿、宗理(北斎)、栄波、栄綾らと共画
『男踏歌』 絵入狂歌本 浅草庵市人序撰 寛政10年 歌麿、北尾重政、北斎らと共画
「青楼芸者撰 いつとみ いつ花 おはね」 大判3枚続 東京国立博物館所蔵 重要文化財
「風流七小町 あふむ図」 大判 東京国立博物館所蔵
「青楼美撰合 初買座敷の図 扇屋瀧川」 大判 東京国立博物館所蔵
「略六花撰 喜撰法師」 大判 城西大学水田美術館所蔵、大英博物館所蔵
「難波屋店先」 柱絵 城西大学水田美術館所蔵
「風流略六哥仙 小野小町」 大判 プルヴェラー・コレクション(ドイツ)
「風流略六哥仙 喜撰法師」 大判 平木浮世絵美術館 UKIYO-e TOKYO所蔵
「風流略六哥仙 在原業平」 大判 ヴィンツィンガー・コレクション(ドイツ)
「青楼美人六花仙 扇屋花扇」 大判 ベルリン国立東洋美術館(英語版)所蔵
「浮世三幅対 小式部」 大判 フォッグ美術館所蔵
「若那初衣裳 扇屋花人」 大判 フォッグ美術館所蔵
「風流やつし源氏 松風」 大判3枚続 大英博物館、シカゴ美術館、ネルソン・アトキンス美術館所蔵
「風流やつし源氏 若菜巻上」 大判3枚続 山口県立萩美術館・浦上記念館所蔵
「風流やつし源氏 蛍」 大判 スペンサー美術館所蔵
「見立 筒井筒」 大判3枚続 1791年/1792年 ポートランド美術館所蔵 西村屋与八版
「見立忠臣蔵七段目」 大判 千葉市美術館所蔵
「てうじや内ときわづ」 大判 スペンサー美術館所蔵
「夏宵遊興」 大判3枚続 バウアー財団東洋美術館(英語版)、ボストン美術館、シカゴ美術館所蔵
「浮世源氏八景 松風夜雨」 大判 アムステルダム国立美術館所蔵 西村屋与八版
「新六歌仙 黒主」 大判 ベルギー王立美術歴史博物館(英語版)所蔵
「新六歌仙 小町」 大判 ベルギー王立美術歴史博物館所蔵
「風流十二月 七月」 中判 東京国立博物館、エルミタージュ美術館所蔵
「風流十二月 南呂」 中判 シカゴ美術館所蔵
「風流十二月 陽後」 中判 大英博物館所蔵
「六玉川」 間判3枚続 ホノルル美術館、ポートランド美術館所蔵 高野玉川、千鳥玉川、井手玉川
「妻夏之色」 小判 高橋誠一郎コレクション
「初たか大叶」 小判 たばこと塩の博物館所蔵
「あふき屋内華扇」 細判
「菅公像」細判 東京国立博物館所蔵
「てうし屋内ひな鶴」 細判
「屋根船美人」 柱絵 東京国立博物館所蔵
「化粧」 柱絵 東京国立博物館所蔵
「夕涼み」 柱絵
「傘さす遊女と丁稚」 柱絵 ウィーン国立工芸美術館所蔵
肉筆画
作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 款記 印章 備考
朝顔遊女図[7] 絹本着色 1幅 91.8x34.8 千葉市美術館 1795年(寛政7年) 「乙卯初秋 栄之圖」 「華映」朱文円印 栄之の肉筆画では早期の作。松浦静山賛「我ならでした紐とくな朝顔の 夕かげまたぬ花にハ有とも」(樋口信孝(1599年‐1658年)詠)あり
三福神吉原通い図巻 絹本着色 1巻 31.6x860.0 千葉市美術館 文化年間
美人夏姿図 絹本着色 1幅 香雪美術館
座敷万歳図 絹本着色 1幅 国立歴史民俗博物館
遊女図 絹本着色 1幅 群馬県立近代美術館
美人図 絹本着色 1幅 98.8x30.4 東京芸術大学大学美術館 「鳥文斎栄之藤原時富筆」 「栄之」朱文方印
桜下遊女と禿図 1幅 89.6x35.1 東京国立博物館 「栄之圖」 「華映」朱文円印
遊女図 絹本着色 1幅 101.8x27.9 東京国立博物館
文読み美人図 絹本着色 1幅 東京国立博物館
大田南畝像 絹本着色 1幅 87.7x27.1 東京国立博物館 1814年(文化11年) 「鳥文齋榮之筆」 「榮之」白朱文徳利形印
楊貴妃夏冬牡丹図 着色 3幅対 83.6x29.8(各) 東京国立博物館 「鳥文齋榮之筆」(各)
隅田川舟遊び図[14] 着色 1巻 84.7x28.7 東京国立博物館 「鳥文齋榮之筆」
隅田川図[15] 着色 1巻 30.1x411.4 東京国立博物館 「鳥文齋榮之筆」 「榮之」朱文方印
二美人図 絹本着色 1幅 出光美術館
蚊帳美人図 絹本着色 1幅 出光美術館 朱楽菅江賛
雪中太夫歩行図 絹本着色 1幅 出光美術館
乗合船図 絹本着色 1幅 出光美術館
吉原通い図巻 絹本着色 1巻 出光美術館 頓證翁墨庵序
舟遊図 絹本着色 1幅 出光美術館
吉原十二時絵巻 絹本着色 1巻 浮世絵太田記念美術館
桜下遊女の図 絹本着色 1幅 浮世絵太田記念美術館
桜下花魁図 絹本着色 1幅 浮世絵太田記念美術館
見立胡蝶の夢図 絹本着色 1幅 浮世絵太田記念美術館
春草摘図 絹本着色 1幅 浮世絵太田記念美術館
吉原女芸者図 絹本着色 1幅 浮世絵太田記念美術館
吉原仲之町桜図 絹本着色 1幅 95.5x37.1 ニューオータニ美術館 文化年間 「鳥文齋榮之画」 「榮之」朱文方印
富士山図 絹本着色 1幅 83.5x31.6 ニューオータニ美術館 1804-23年(文化年間~文政6年) 「鳥文齋榮之画」 「榮之」朱文方印 太田南畝賛「東には淡雪とうふ両国の はしの西にはふしのしらゆき」。なお「淡雪とうふ」とは両国橋東詰めにあった日野屋の名物で、柔らかい豆腐のあんかけ。
隅田川風物図屏風(右隻・左隻) 紙本着色 六曲一双 166.7x361.2(各) 江戸東京博物館 文政9年(1826年)
石山寺四季之景図 紙本墨画淡彩 二曲一双 151.8x115.6 深大寺
立美人図 絹本着色 1幅 90.5x32.0 摘水軒記念文化振興財団 邦枝完二旧蔵
御殿山花見絵巻 絹本着色 1巻 29.0x162.5 鎌倉国宝館 1811年(文化8年) 「文化八未年末夏 鳥文齋榮之筆」 「榮之」朱文鼎印
柳下二美人図 絹本着色 1幅 101.6x34.0 鎌倉国宝館 1804-18年(文化年間)頃 「鳥文齋榮之筆」 「榮之」朱文鼎印 中田忠太郎旧蔵
唄姫図 絹本着色 1幅 MOA美術館
円窓九美人図 絹本着色 1幅 MOA美術館
雪戯美人図 絹本着色 1幅 MOA美術館
楊貴妃図[20] 絹本著色 1幅 111.8x55.6 愛知県美術館 晩年の作
官女観梅図 絹本着色 1幅 日本浮世絵博物館
三福神吉原通い図巻 絹本着色 1巻 日本浮世絵博物館
美人図 絹本着色 1幅 大和文華館
伏見城落城・関ヶ原合戦絵巻 紙本着色 2巻 上巻:37.8x915.6
下巻:37.9x677.9 奈良県立美術館 上巻は伏見城落城から大垣城攻撃まで、下巻に関ヶ原の戦いを描く。
関ヶ原合戦図絵巻 2巻 名古屋市博物館
楊貴妃牡丹図 絹本着色 三幅対 熊本県立美術館(今西コレクション) 「鳥文斎栄之筆」(各) 「榮之」朱文重郭方印(各)
桜下花魁図 絹本着色 1幅 熊本県立美術館(今西コレクション) 「鳥文斎栄之筆」 「榮之」朱文壷印 画賛あり
鶏図 絹本着色 1幅 熊本県立美術館(今西コレクション) 「榮之筆」 「榮之」朱文方印
桜下美人逍遙図 絹本着色 1幅 118.0x54.0 熊本県立美術館(今西コレクション)
窓の眺め図 絹本着色 1幅 88x35 個人 「鳥文斎栄之筆] 「榮之」白朱文徳利形印
立美人図 絹本着色 1幅 インディアナポリス美術館
三幅神吉原通い図巻 「全盛季春遊戯」絹本著色 1巻 33.3x890.4 メトロポリタン美術館バークコレクション 19世紀初め 「鳥文齋榮之筆」
雪月花図 絹本著色 3幅対 約82.2x30 メトロポリタン美術館バークコレクション 19世紀初め 大田南畝賛
Courtesan with a Letter in Her Mouth[30] 絹本著色 1幅 80.4x33.2 メトロポリタン美術館 「鳥文斎栄之圖」
Woman in a Dark Kimono 絹本著色 1幅 75.2x26.0 シンシナティ美術館 「鳥文齋榮之筆」
遊女と蛍図 絹本著色 1幅 89.2x32.8 ファインバーグ・コレクション 「鳥文齋榮之筆」 「栄之」白文鼎印
文讀む遊女図 絹本著色 1幅 88.0x31.5 ファインバーグ・コレクション 「鳥文齋榮之筆」 「栄之」白文鼎印
円窓官女図 絹本著色 1幅 89.2x32.8 ギッター・コレクション 「鳥文齋榮之筆」 「栄之」白文鼎印
四季競艶図 4幅対 ミカエル・フォーニツコレクション 寛政期 春画。4幅全てに栄之の落款が入っていることから、当初から四季四幅対として制作されたと推測される。なお、肉筆春画は巻物や画帖など手元で鑑賞する形式が多いが、本図のように床の間という衆人環視の空間に置かれる掛け軸形式は珍しい。
夜咄 絹本着色 1幅 個人 1815年(文化12年)正月 春画。本図と同じ冬の性交図を含む四季の性技図巻が存在していることから、その絵巻が画題見本となり、その図を気に入った分限者の趣味人が特別注文したものだと考えられる。
源氏物語春画巻 紙本着色 2巻 22.0x772.1 個人 春画。林原美術館に異本(絹本著色)あり。
大江山酒呑童子|歌川国芳
参考動画:日曜美術館 蔦重と歌麿・写楽・北斎 5/4(日) 午前9:00-午前9:45 配信期限 :5/11(日) 午前9:45 まで
https://plus.nhk.jp/watch/st/e1_2025050419362?t=207&playlist_id=0d655b99-cc85-4201-a1d0-b0a9253e5ff6
『喜多川歌麿』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%9C%E5%A4%9A%E5%B7%9D%E6%AD%8C%E9%BA%BF
喜多川 歌麿(きたがわ うたまろ、1753年(宝暦3年)? - 1806年10月31日(文化3年9月20日)は、江戸時代の日本で活躍した浮世絵師。
来歴
本姓は北川、後に画姓は喜多川を名乗る。幼名は市太郎、のちに勇助(または勇記)と改める。名は信美。 生年、出生地、出身地などは不明。生年に関しては、通説の享年、数え54歳からの逆算で1753年(宝暦3年)とされることが多い。出身に関しては、川越説(関根只誠)と江戸市中(『浮世絵類考』)の2説が有力。しかし、墓所の専光寺は、寛政2年(1790年)8月26日、妻「戒名:理清信女」死去の際に菩提寺が無く神田白銀町の笹屋五兵衛の紹介で檀家となり[7]、地方出身との意見もあり、他にも京、大坂などの説もある[2。
初めの号は石要で、次に豊章といい、天明初年ごろから歌麻呂、哥麿と号す。生前は「うたまる」と呼ばれていたが、直接本人を知るものが居なくなった19世紀過ぎから「うたまろ」と呼ばれるようになったようだ。俳諧では石要、木燕、燕岱斎、狂歌名は筆綾丸ふでのあやまる、紫屋。「筆綾丸」号では蔦屋重三郎「蔦唐丸」号とともに狂歌・吉原連に属した。そして天明5年の『四方春興、夷歌連中双六』で画号にも用いた。
鳥山石燕のもとで学び、初作は1770年(明和7年)、「少年 石要画」とある石要名義の、絵入歳旦帳『ちよのはる』挿絵「茄子」1点[8]。同ページ他、別人の「少年」付記の2人の弟子号の画があり、子供に画を教えていたとみられる。豊章名義で制作年代が特定の初作品は、富本浄瑠璃正本『四十八手恋所訳』(安永4年)下巻表紙絵。「歌麿」名義では、吉原俄(にわか)を描いた1783年(天明3年)の「青楼仁和嘉女芸者部」「青楼尓和嘉鹿嶋踊 続」が最初期と言われ、このころは鳥居清長が天明末期から寛政初期期の全盛期に描いたすらりとした姿態描写の清長流の美人画だった。しかし、安定した構図と配色、衣装の緻密さに高い技量が窺える[18]。天明6年(1786年)から寛政2年(1790年)にかけて、蔦屋重三郎を版元として、当時流行していた狂歌に、花鳥画を合わせた狂歌絵本を13種刊行し、特に天明8年ごろ『画本虫撰(えほんむしゑらみ)』[注釈 4]、寛政元年ごろ『汐干のつと』、同2年ごろ『百千鳥狂歌合』などが優れている。 天明8年(1788年)8月23日には、師・鳥山石燕が死去している。
蔦屋重三郎の製作助力で、それまで全身画しかなかった美人画に、大首画を採用し、歌麿は背景を省略して、技法として白雲母を散りばめた絵とした。これにより、美人画の人物の表情に繊細な表現を付け、仕種や着衣、髪型の微妙な変化で、従来の美人画には見られなかった喜怒哀楽の感情や性格や心の様子を詳細に描くことが可能になった。
これを深めて、寛政2-3年(1790-91年)から描き始めた「婦女人相十品」「婦人相学十躰」といった「美人大首絵」で人気を博した。両作は、女性を相学的[注釈 5]に判断し十種に描き分ける趣向で、署名に「相見歌麿画」や「相觀歌麿考画」とあり、歌麿が女性の仕種や化粧、着衣などの外見的要素から性格を描き分け、各自の女性美を表現するという姿勢を押し出している。これで「婦人相学十躰 浮気之相」では、「浮気」を陽気で派手な性格として恋する多情な女性を湯上りの姿で表現している。寛政5-6年(1793-1794年)ごろの「歌撰恋之部」では、さらに女性の様相画を深め近接した三分身女性像で恋する女性の心境と諸相を描き分けた揃物を刊行した。蔦重との連携の下「無線摺」「朱線」「ごま摺り[注釈 6]」といった彫摺法を用いて、肌や衣裳の質感や量感を工夫した。「青楼仁和嘉女芸者部」のような、全身像で精緻な大判のシリーズや、「当時全盛美人揃」「娘日時計」「北国五色墨」など大首美人画の優作を刊行した。「娘日時計」では、木版画の常識の体の強い輪郭線ではなく、背景の色画面だけで肌の柔らかさを表現する画期的な画法が使われた。摺技法は「無線空摺」を使用し、鼻筋も無線摺りにした。この間に寛政3年蔦屋重三郎が山東京伝洒落本『仕懸文庫』が寛政の改革の禁令に触れ家財半分没収となり大きな打撃となり、山東京伝も手鎖50日の刑となる。
一方、歌麿は名声が上がり、上村屋、近江屋など他の多くの版元から依頼された。それで、蔦屋との美人画の題材を離れ、もっと身近な官能的な写実性をも描き出そうとした。吉原最下層の切見世「北国五色墨」の「川岸」「てっぽう」「おいらん」「切の娘」「芸妓」で内面的な退廃美を描く。さらに全身像の「紅つけ」「化粧二美人」、揃物「青楼十二時」で外形的な官能美を描く。寛政10年ごろまでの美人画には美化だけでなく醜さや生活なども描いている。決して美しさだけではなく、生々しさや、汚濁もある実際の人を描いている。やがて揃物・判じ絵『五人美人愛敬競』寛政7年-8年ごろ(1795年-1796年、美術館展示譜)の「兵庫屋花妻」手に持つ書状に"ひきうつしなし自力絵師"と書き「自成一家」印を使用し「正銘歌麿」と落款し下には「本家」と印するほどまでに、美人画の歌麿時代を現出した。また、絵本や肉筆浮世絵の例も数多くみられる。寛政7年(1795年)「吉原仁和嘉」、「風俗浮世八景」、「婦人職人分類」が蔦屋から刊行されているが、複数の人物を一画面の全身像で判型が小ぶりの間判サイズでかなり表現力が落ちて蔦屋との関係にずれが生じているとの説がある。翌年には目立った揃物の刊行がなくなり、寛政9年(1797年)蔦屋重三郎が死去する。
歌麿は遊女、花魁、さらに茶屋の娘などを対象としたが、歌麿が取り上げることによって、モデルの名はたちまち江戸中に広まった。これに対して江戸幕府は、「評判娘の名を錦絵に記してはならない」との寛政5年(1793年)の禁令を発令する。これに、歌麿は名前を判じ絵にした「高名美人六家撰」などで抵抗した。しかし、寛政8年(1796年)にはこの判じ絵も削除を命じられる。
しかし寛政7-8年(1795-96年)ごろには依頼される版元40を数え、濫作で女の背が高くなりしもぶくれの顔と類型化の様子を見せてくる[33]。これで次の展開として「山姥と金太郎」シリーズであり、美人画に対する規制逃れの意味もある。
1804年(文化元年)5月、豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした「太閤五妻洛東遊観之図」(大判三枚続)を描いたことがきっかけで、幕府に捕縛され、入牢3日・手鎖50日の刑を受ける。1804年(文化元年)「絵草紙取締令」で天正時代以降の武者たちを描くことが幕令で禁じられ、家紋・合印や人物の実名などの表示も禁止されていたが、秀吉の氏名・紋所、淀殿・北政所氏名、石田三成氏名とも描かれていた。これ以降、歌麿は病気になったとされる。版元たちは回復の見込みがないと知ると、逆に依頼が殺到したという。
2年後の1806年(文化3年)死去した。墓所は専光寺(移転前当時・浅草新堀端菊屋西側)現・世田谷区烏山。戒名は秋円了教信士。
作品
錦絵
『婦人相学十躰・婦女人相十品』 大判 揃物 寛政3年‐寛政4年ごろ
『歌撰恋之部』 大判5枚揃 寛政5年ごろ
『娘日時計』 大判5枚揃 寛政6年ごろ
『北国五色墨』 大判5枚揃 寛政7年ごろ
『青楼十二時』 大判12枚揃 寛政中期
『教訓親の目鑑』大判10枚揃 享和1年‐享和2年
「針仕事」 大判3枚続 寛政7年ごろ
「風流七小町」
「当時全盛美人揃 越前屋内唐土」 大判 東京国立博物館所蔵
「当時全盛美人揃 玉屋内しつか」 大判
[40]
「相合傘」大判 東京国立博物館所蔵
「歌枕」
「針仕事」 大判3枚続の左 城西大学水田美術館所蔵
「山東京伝遊宴」 大判 錦絵3枚続 城西大学水田美術館所蔵
「音曲比翼の番組」 小むら咲権六 間判 城西大学水田美術館所蔵
「橋下の釣」 長判 城西大学水田美術館所蔵
「北国五色墨 切の娘」 大判 日本浮世絵博物館所蔵
「高島おひさ」 大判 大英博物館所蔵
「高島おひさ」 細判 ホノルル美術館所蔵 寛政5年ごろ 両面摺(一枚の紙の表面におひさの正面、裏面に後ろ姿を摺分けている。)
「歌撰恋之部 稀二逢恋」 大判 大英博物館所蔵
「見立忠臣蔵十一だんめ」 大判2枚続 東京国立博物館所蔵 寛政6年‐寛政7年ごろ 画中に歌麿自身が描かれている。
「青楼十二時 丑の刻」 大判 寛政6年ごろ ブリュッセル王立美術歴史博物館所蔵
「婦人相学十躰 浮気之相[41] 大判 寛政4年‐寛政5年ごろ 東京国立博物館所蔵
「婦人相学十躰 ぽっぴんを吹く娘」 大判 寛政4年‐寛政5年ごろ ホノルル美術館所蔵
「歌撰恋之部 物思恋」 大判 寛政4年‐寛政5年ごろ ギメ美術館所蔵
「当時三美人」 大判 寛政5年ごろ ボストン美術館所蔵
「婦人泊り客之図」 大判3枚続 寛政6年‐寛政7年ごろ 慶応義塾所蔵
「化物の夢」 大判 寛政12年ごろ フィッツウィリアム美術館所蔵
「当世踊子揃 三番叟」 大判 バウアー財団東洋美術館所蔵
「姿見七人化粧 鬢直し 」 大判 東京国立博物館所蔵
「遊君出そめ初衣裳」 大判 文化初期 総州屋与兵衛版
ボストン美術館のスポルディング・コレクションは、歌麿の浮世絵383点を所蔵。公開を長く禁止したため非常に保存状態が良く、すぐに退色するツユクサの紫色もよく残っている[42]。
絵本
『画本虫撰』 絵入り狂歌本 天明8年
『歌まくら』 彩色摺艶本 天明8年
『潮干のつと』 絵入り狂歌本 寛政1年‐寛政2年ごろ
『[1] 狂歌江戸紫』 絵入り狂歌本 寛政7年 花江戸住編 歌麿は「奴凧図」を描く
肉筆浮世絵
作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 制作年 落款 印章 備考
雨中湯帰り図 絹本著色 額1面(元は1幅) 個人蔵(アメリカ) 天明中期 「哥丸舎豊章画」 「魚水有清言」朱文方印[43]
品川の月図 紙本著色 額1面(元は1幅) 147.0x319.0 フリーア美術館 天明末期 無 無 吉原の花、深川の雪との連作。
遊女と禿図 絹本著色 1幅 ボストン美術館 寛政初期 「哥麿画」 「岸識之印(?)」朱文方印・「字子華白(?)」朱文方印
かくれんぼ図 絹本著色 1幅 鎌倉国宝館 寛政初期 「哥麿画」 「岸識之印(?)」朱文方印・「字子華白(?)」朱文方印 特殊な落款・印章が一致することから、上記の遊女と禿図と双幅か、3幅対のうちの2点だと推測される。
吉原の花図 紙本著色 額1面 186.7x256.9 ワズワース・アシニアム美術館(米国) 寛政3-4年ごろ 無 無 品川の月、深川の雪との連作。
遊女と禿図 絹本着色 1幅 城西大学水田美術館 寛政3-5年ごろ 「歌麿画」 「歌麿」朱文円印
女達磨図 紙本着色 1幅 栃木市 寛政3-5年ごろ 「歌麿画」 「歌麿」朱文円印 中国から輸入された竹紙が使われている。
文殊菩薩図 絹本着色 1幅 寛政3-5年ごろ 「本朝画師歌麿源豊章筆」 「歌麿」朱文円印
三福神の相撲図 紙本墨画淡彩 1幅 栃木市 寛政3-5年ごろ 「歌麿画」 「歌麿」朱文円印
鍾馗図 紙本墨画 1幅 栃木市 寛政3-5年ごろ 「喜多川歌麿源豊章画」 方印未読
万才図額 絹本著色 4面(二曲一隻) 鎌倉国宝館 寛政3-5年ごろ 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印 元は引き手襖。
福禄寿三星図 絹本著色 1幅 日本浮世絵博物館 寛政3-5年ごろ 「歌麿源豊章図」 「歌麿」朱文円印
西王母図 絹本着色 1幅 84.3x35.7 ウェストン・コレクション 寛政3-5年ごろ 歌麿画 「歌麿」朱文円印[44]
遊女と禿図 紙本墨画 1幅 117.6x46.3 個人 寛政3-5年ごろ 「喜多川歌麿源豊章画」 「歌麿」朱文円印 山東京伝賛[45]
雨宿り図 紙本墨画淡彩 1幅 39.0x56.5 個人 寛政3-5年ごろ 「喜多川歌麿源豊章画」 「歌麿」朱文円印[46]
納涼立美人図 絹本著色 1幅 105.4x32.3 個人 寛政6-8年ごろ 「歌麿画」 「歌麿」朱文円印 重要美術品
花魁道中図 紙本墨画淡彩 1幅 ミシガン大学付属美術館(米国) 寛政6-8年ごろ 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印 山東京伝賛
遊女と禿図 絹本墨画淡彩 1幅 千葉市美術館 寛政6-8年ごろ 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
美人夏姿図 絹本着色 1幅 101.5x31.9 遠山記念館 寛政6-8年ごろ 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印 重要美術品[47]
立姿美人図 絹本著色 1幅 87.6x32.2 個人蔵(国内) 寛政6-8年ごろ 「歌麿筆」 「歌麿」朱文円印 重要美術品
納涼美人図 絹本著色 1幅 39.5x65.6 千葉市美術館 寛政6-8年ごろ 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印 重要美術品
美人読玉章図(びじん たまずさをよむず) 絹本著色 1幅 84.3x29.3 浮世絵太田記念美術館 寛政6-8年ごろ 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
美人と子供 紙本墨画 1幅 個人 寛政6-8年ごろ 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印[48]
入浴美人図(寒泉浴図) 絹本著色 1幅 MOA美術館 寛政後期ごろ 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印 鶯谷吏隠(垣)(大田南畝)賛「蘭湯灧々昭儀坐其中 若三尺寒泉浸明玉 録飛燕別集語」。一般的には両者の関係から寛政後期の作とされるが、南畝が「鶯谷吏隠(垣)」の号を用いるのは文化元年2月に小石川金剛寺坂(現在の文京区春日2丁目)に転居した後とされるので[49]、歌麿最晩年の可能性がある[50]。
桟橋二美人図 絹紙本著色 1幅 MOA美術館 寛政後期ごろ 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
遊女と禿図 絹本着色 1幅 旧ハラリー・コレクション 寛政後期ごろ 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印 禿は団扇をもつ
三美人図 絹本著色 1幅 岡田美術館 寛政後期ごろ 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
雪兎図 絹本著色 1幅 個人 寛政後期ごろ 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
遊女と二人の禿図 絹本著色 1幅 キヨッソーネ東洋美術館 寛政後期ごろ 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
三美人図 絹本著色 1幅 海の見える杜美術館 寛政後期ごろ 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印 麻生工芸美術館旧蔵。歌麿の寛政後期の基準作
杭打ち図 紙本墨画淡彩 1幅 寛政後期ごろ 「行年四十三才 哥麿筆」 「歌」「麿」朱文方形連印
琴を弾く遊女 紙本着色 扇1面 ウェーバー・コレクション 寛政後期ごろ 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印(別印)
美人と若衆図 絹本着色 1幅 ニューオータニ美術館 1802年(享和2年)ごろか 「哥麿筆」 「きた川歌麿」朱・白文方印 重要美術品(1938年(昭和13年)認定)。印章は中央に白文で「歌麿」とあり、その左右に朱文のくずし字で「きた・川」という他に類例がない珍しい印である[51]。
二美人図 絹本著色 1幅 メトロポリタン美術館 享和期ごろ 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
朝粧美人図 絹本著色 1幅 大英博物館 享和期ごろ 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
男と娘(つぼみ)図 絹本著色 1幅 個人 享和期ごろ 「哥麿筆」 「歌」「麿」朱文方形連印 春画。
娘と子ども図 絹本着色 1幅 出光美術館 享和期ごろ 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
花魁道中図 絹本着色 1幅 享和期ごろ 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
芸妓図 絹本着色 1幅 岡田美術館 享和期ごろ 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
ほととぎす図 絹本着色 1幅 享和期ごろ 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
浴後、犬を見る美人 紙本着色 1幅 享和期ごろ 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
男女遊愛図 絹本著色 1幅 個人 享和-文化初期 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印 春画。歌麿の肉筆春画は、上記の「男と娘図」と本作の2点しか確認されていない。
更衣美人図 絹本着色 1幅 117.0x53.3 出光美術館 文化年間初期(1804年 - 1805年) 「歌麿筆」 「歌麿」朱文円印 重要文化財
三味線を弾く美人図 絹本著色 1幅 41.5x83 ボストン美術館 享和-文化初期 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印 紺屋安染・三八市成・山吹多丸・根事良白音・通用亭賛
遊女と禿図 絹本着色 1幅 享和-文化初期 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印 禿は鞠をもつ
花魁道中図 紙本墨画淡彩 扇1面 東京国立博物館 享和-文化初期 「哥麿筆」 「歌」「麿」朱文方形連印
月見の母と娘図 絹本著色 1幅 香雪美術館 享和-文化初期 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
更衣美人図 絹本着色 1幅 享和-文化初期 「哥麿画」 「歌麿」朱文円印 着賛
芥川図 絹本著色 1幅 ロシア国立東洋美術館 享和-文化初期 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
三美人図 紙本着色 1幅 享和-文化初期 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
三番叟図 紙本着色 1幅 享和-文化初期 「哥麿筆」 「歌麿」朱文円印
三味線を弾く遊女図 絹本著色 1幅 フリーア美術館 享和-文化初期 「歌麿筆」 「歌麿」朱文円印
文読む遊女図 紙本著色 1幅 125.6x53.5 大英博物館 文化2-3年ごろ 「歌麿筆」 「歌麿」朱文円印 中国の画仙紙を用いている[52]。
深川の雪図 紙本著色 1幅 198.8x341.1 岡田美術館hue 享和-文化初期 無 無 品川の月、吉原の花との連作。
喜多川歌麿 雪月花三部作 歌麿の集大成
喜多川歌麿の最高傑作「雪月花」。《吉原の花》来日で《深川の雪》と日本で138年ぶりの夢の再会(美術手帖)
https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/6114
「雪月花」三部作は、美人画で知られる江戸時代の絵師・喜多川歌麿によって描かれた肉筆画の大作で、《深川の雪》《品川の月》《吉原の花》の3点からなる。それぞれ大きさは異なるが、大きいものでは横幅約3.4メートルにもおよぶ大画面に、華やかな江戸の遊郭や料亭の様子が綿密に描き込まれており、歌麿の最高傑作とも言われる。
この三部作が揃って展示されたのは、記録に残る限りでは1879年(明治12年)の1回のみ。その後、三部作は美術商の手により日本からパリへ渡り、《深川の雪》だけが1939年に日本へ帰国。さらに長年の行方不明を経て2012年に再発見され、岡田美術館の収蔵となった。《品川の月》と《吉原の花》は、ともにアメリカにあるフリーア美術館とワズワース・アセーニアム美術館にそれぞれ収蔵されている。
本展では、《吉原の花》をアメリカから迎え、岡田美術館が収蔵する《深川の雪》とともに展示する。日本でこの2作品が同時に展示されるのは、実に138年ぶりとなる。所蔵するフリーア美術館の創設者の遺言により門外不出となっている《品川の月》も、原寸大の高精細複製画を制作して展示。三部作を同時に見ることができる貴重な機会となる。
風俗三段娘・中品之図|喜多川歌麿
公式HP→ https://tochigi-utamaro.com/
栃木県栃木市(関東地方)の項でも述べたが、小江戸の栃木市では、歌麿を中心として町おこしが行われている。
このホームページは、歌麿関連の情報がたくさん詰め込まれていて、大変参考になると思われる。
日曜美術館 蔦重と歌麿・写楽・北斎 5/4(日) 午前9:00-午前9:45放送
https://www.nhk.jp/p/nichibi/ts/3PGYQN55NP/episode/te/Q23VVP16KV/
『東洲斎写楽』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B4%B2%E6%96%8E%E5%86%99%E6%A5%BD
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、とうじゅうさい しゃらく、生没年不詳)は、江戸時代後期の浮世絵師。
約10か月の短い期間に役者絵その他の作品を版行したのち、忽然と姿を消した謎の絵師として知られる。その出自や経歴については様々な研究がなされ、阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、宝暦13年(1763年) - 文政3年(1820年))とする説が有力。
来歴
三代目澤村宗十郎の大岸蔵人(寛政6年5月都座上演の『花菖蒲文禄曽我』より)
画業
写楽は寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年(1795年)1月にかけての約10か月の期間(寛政6年には閏11月がある)内に、145点余の作品を版行している。
寛政6年5月に刊行された雲母摺、大判28枚の役者の大首絵は、デフォルメを駆使し、目の皺や鷲鼻、受け口など顔の特徴を誇張してその役者が持つ個性を大胆かつ巧みに描き、また表情やポーズもダイナミックに描いたそれまでになかったユニークな作品であった。その個性的な作品は強烈な印象を残さずにはおかない。代表作として、「市川蝦蔵の竹村定之進」、「三代坂田半五郎の藤川水右衛門」、「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」、「嵐龍蔵の金貸石部金吉」などがあげられる。この時期の落款は全て「東洲斎写楽画」である。
寛政6年7月から刊行された雲母摺、大判7枚の二人立ちの全身像、1枚の一人立ち図及び細判の単色背景による一人立ち図30枚から成る第2期の落款は「東洲斎写楽画」である。いずれも緊張感のある画面構成であった。寛政6年11月からの第3期は顔見世狂言に取材した作品58図、役者追善絵2点、相撲絵2種4図(3枚続1種と一枚絵1種)の合計64図を制作、間判14図及び大判3枚続相撲絵以外の47図は全て細判であった。何れの作品も雲母は使用せず、背景の描写が取り込まれており、その背景が連続した組物が多い。芸術的な格調は低く、「東洲斎写楽画」及び「写楽画」の2種の落款がみられる。第4期は寛政7年正月の都座、桐座の狂言を描いた細判10枚の他、大判相撲絵2枚、武者絵2枚の合計14図を刊行、落款は全て「写楽画」である。
役者絵は基本的に画中に描かれた役者の定紋や役柄役処などからその役者がその役で出ていた芝居の上演時期が月単位で特定できることから、これにより作画時期を検証することが現在の写楽研究の主流をなしている。
写楽作品はすべて蔦屋重三郎の店から出版された(挿図の左下方に富士に蔦の「蔦屋」の印が見える)。その絵の発表時期は4期に分けられており、第1期が寛政6年(1794年)5月(28枚、全て大版の黒雲母摺大首絵)、第2期が寛政6年7月・8月(二人立ちの役者全身像7枚、楽屋頭取口上の図1枚、細絵30枚)、第3期が寛政6年11月・閏11月(顔見世狂言を描いたもの44枚、間版大首絵10枚、追善絵2枚)、第4期(春狂言を描いたもの10枚、相撲絵2枚を交える)が寛政7年(1795年)1・2月とされる。写楽の代表作といわれるものは大首絵の第1期の作品である。後になるほど急速に力の減退が認められ、精彩を欠き、作品における絵画的才能や版画としての品質は劣っている。前期(1、2期)と後期(3、4期)で別人とも思えるほどに作風が異なることから、前期と後期では別人が描いていた、またあまりに短期間のうちに大量の絵が刊行されたことも合わせて工房により作品が作られていたとする説もある。
作品総数は役者絵が134枚、役者追善絵が2枚、相撲絵が7枚、武者絵が2枚、恵比寿絵が1枚、役者版下絵が9枚、相撲版下絵が10枚確認されている。2008年に写楽作とみられる肉筆の役者絵が確認された。
写楽の役者絵には勝川春章、鳥居清長、勝川春好、勝川春英及び上方の流光斎如圭、狩野派、曾我派などの画風の影響が指摘されている。
写楽の正体
『江戸名所図会』などで知られる考証家・斎藤月岑が天保15年(1844年)に著した『増補浮世絵類考』には、「写楽斎」の項に「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也」(通名は斎藤十郎兵衛といい、八丁堀に住む、阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者である)と書かれている。長くこれが唯一の江戸時代に書かれた写楽の素性に関する記述だった[注 3]。当時の八丁堀には、徳島藩の江戸屋敷が存在し、その中屋敷に藩お抱えの能役者が居住していた。また、蔦屋重三郎の店も写楽が画題としていた芝居小屋も八丁堀の近隣に位置していた。“東洲斎”という写楽のペンネームも、江戸の東に洲があった土地を意味していると考えれば、八丁堀か築地あたりしか存在しない。
しかし、長らく斎藤十郎兵衛の実在を確認できる史料が見当たらず、また能役者にこれほどの見事な絵が描ける才能があるとは考えづらかったことから、「写楽」とは誰か他の有名な絵師が何らかの事情により使用した変名ではないか[注 4]という「写楽別人説」が数多く唱えられるようになった。蔦屋が無名の新人の作を多く出版したのは何故か、前期と後期で大きく作品の質が異なるうえ、短期間で活動をやめてしまったのは何故か、などといった点が謎解きの興味を生んだ。
別人説の候補として絵師の初代歌川豊国、歌舞妓堂艶鏡、葛飾北斎、喜多川歌麿、司馬江漢、谷文晁、円山応挙、歌舞伎役者の中村此蔵、洋画家の土井有隣、戯作者でもあった山東京伝、十返舎一九、俳人の谷素外、版元の蔦屋重三郎、西洋人画家など、多くの人物の名があげられた。
しかし以下の研究によって斎藤十郎兵衛の実在が確認され、八丁堀に住んでいた事実も明らかとなり、平成時代には再び写楽=斎藤十郎兵衛説が有力となっている。その根拠は以下の諸点である。
能役者の公式名簿である『猿楽分限帖』や能役者の伝記『重修猿楽伝記』に、斎藤十郎兵衛の記載があることが確認されている。
蜂須賀家の古文書である『蜂須賀家無足以下分限帳』及び『御両国(阿波と淡路)無足以下分限帳』の「御役者」の項目に、斉藤十郎兵衛の名が記載されていたことが確認されている。
江戸の文化人について記した『諸家人名江戸方角分』の八丁堀の項目に「号写楽斎 地蔵橋」との記録があり、八丁堀地蔵橋に“写楽斎”と称する人物が住んでいたことが確認されている[注 7]。なお、国立国会図書館に所蔵される同書の写本には文政元年(1818)7月5日に書写された旨の奥書があるが、八丁堀地蔵橋の写楽斎の項には当該人物が故人であることを示す記号が付されており、斎藤十郎兵衛が文政3年(1820年)まで存命であったことと齟齬をきたしている。
埼玉県越谷市の浄土真宗本願寺派今日山法光寺の過去帳に「八丁堀地蔵橋 阿州殿御内 斎藤十良(郎)兵衛」が文政3年(1820年)3月7日に58歳で死去し、千住にて火葬されたとの記述が平成9年(1997年)に発見され、阿波藩に仕える斎藤十郎兵衛という人物が八丁堀地蔵橋に住んでいたことが確認されている。斎藤十郎兵衛が住んでいた八丁堀地蔵橋は現在の日本橋茅場町郵便局の辺りになる。
以上のことから、阿波の能役者である斎藤十郎兵衛という人物が実在したことは間違いないと考えて良さそうだが、齋藤月岑の記した写楽が斎藤十郎兵衛であるという記述を確実に裏付ける資料は発見されていない[注 11]。ただし、『浮世絵類考』の写本の一部[注 12]には「写楽は阿州の士にて斎藤十郎兵衛といふよし栄松斎長喜老人の話なり」とある。栄松斎長喜は写楽と同じ蔦屋重三郎版元の浮世絵師であり、写楽のことを実際に知っていたとしてもおかしくはない(長喜の作品「高島屋おひさ」には団扇に写楽の絵が描かれている)。
なお八丁堀の亀島橋たもとにある東京都中央区土木部が設置した「この地に移住し功績を伝えられる人物」の案内板には、東洲斎写楽と伊能忠敬が紹介されている。
作品
二代目沢村淀五郎の川連法眼と初代坂東善次の鬼佐渡坊(寛政6年5月河原崎座上演の『義経千本桜』より)
第一期
都座『花菖蒲文禄曽我』取材作品
「二代目瀬川富三郎の大岸蔵人の妻やどり木」 大判 寛政6年 東京国立博物館、城西大学水田美術館、山口県立萩美術館・浦上記念館、ギメ東洋美術館、ブリュッセル王立美術歴史博物館、大英博物館などが所蔵、現存確認数11点
「二代目嵐龍蔵の金貸石部金吉」 大判 寛政6年 東京国立博物館、山種美術館、平木浮世絵美術館 UKIYO-e TOKYO、中右コレクション、城西大学水田美術館、ホノルル美術館、ブルックリン美術館、シカゴ美術館、ウースター美術館、イェール大学美術館、ギメ東洋美術館、大英博物館などが所蔵、現存確認数22点
「三代目佐野川市松の祇園町の白人おなよ」 大判 寛政6年 大英博物館所蔵
「三代目瀬川菊之丞の田辺文蔵妻おしづ」 大判 寛政6年 山口県立萩美術館・浦上記念館所蔵
「三代目沢村宗十郎の大岸蔵人」 大判 寛政6年 大英博物館所蔵
桐座『敵討乗合話』取材作品
「松本米三郎のけはい坂の少将実はしのぶ」 大判 寛政6年 城西大学水田美術館、中右コレクション、ボストン美術館、メトロポリタン美術館、ホノルル美術館、キヨッソーネ東洋美術館、ユゲット・ベレスコレクション、ギメ東洋美術館、大英博物館などが所蔵、現存確認数17点
「四代目松本幸四郎の山谷の肴屋五郎兵衛」 大判 寛政6年
「三代目市川高麗蔵の志賀大七」 大判 寛政6年 大英博物館所蔵
「中山富三郎の宮城野」 大判 寛政6年 東京国立博物館所蔵
「初代尾上松助の松下造酒之進」 大判 寛政6年
「中島和田右衛門のぼうだら長左衛門と中村此蔵の舟宿かな川やの権」 大判 寛政6年 大英博物館所蔵
河原崎座『恋女房染分手綱』、『義経千本桜』取材作品
「四代目岩井半四郎の乳人重の井」 大判 寛政6年 東京国立博物館、城西大学水田美術館、中右コレクション、ギメ東洋美術館、大英博物館などが所蔵、現存確認数13点
「初代谷村虎蔵の鷲塚八平次」 大判 寛政6年 東京国立博物館、城西大学水田美術館、平木浮世絵美術館 UKIYO-e TOKYO、ホノルル美術館、ハーバード大学美術館、大英博物館などが所蔵、現存確認数13点
「岩井喜代太郎の鷺坂左内妻藤波と坂東善次の鷲塚官太夫妻小笹」 大判 寛政6年 浮世絵 太田記念美術館、城西大学水田美術館などが所蔵、現存確認数3点
「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」 大判 寛政6年 東京国立博物館、大英博物館所蔵
「市川鰕蔵の竹村定之進」 大判 寛政6年 慶應義塾所蔵 重要文化財
第二期
都座『傾城三本傘』
「三代目瀬川菊之丞の傾城かつらぎ」 細判 寛政6年 城西大学水田美術館などが所蔵、現存確認数6点
「二代目嵐龍蔵の不破が下部浮世又平」 細判 寛政6年 城西大学水田美術館などが所蔵、現存確認数3点
「篠塚浦右衛門の都座口上図」 大判 寛政6年 東京国立博物館所蔵
桐座『神霊矢口渡』、『四方錦故郷旅路』取材作品
「八代目森田勘弥の由良兵庫之介信忠」 細判 寛政6年 城西大学水田美術館などが所蔵、現存確認数5点
「三代目市川高麗蔵の亀屋忠兵衛と中山富三郎の新町のけいせい梅川」 大判 寛政6年 東京国立博物館所蔵
河原崎座『二本松陸奥生長』取材作品
「三代目大谷鬼次の川島治部五郎」 細判 寛政6年 東京国立博物館所蔵
「市川男女蔵の富田兵太郎」 細判 寛政6年 シカゴ美術館所蔵
第三期
桐座『男山御江戸盤石』取材作品
「天王寺屋里好」 間判 大英博物館所蔵
「三世瀬川菊之丞の大和万歳実は白拍子久かた」細判
「二世中村仲蔵の才蔵実は荒巻耳四郎」 細判
「六世市川団十郎の荒川太郎」 間判
「二世中島三甫右衛門と中村富十郎 二世市川門之助」 間判2枚続
「大童山土俵入り」 大判3枚続 相撲絵
第四期
「市川鰕蔵の工藤祐経 三世市川八百蔵の十郎祐成 六世市川団十郎の五郎時宗」 細判3枚続
「大童山の鬼退治」 大判
肉筆画
「四代目松本幸四郎の加古川本蔵と松本米三郎の小浪」(ギリシア国立コルフ・アジア美術館収蔵)
2008年、ギリシャの国立コルフ・アジア美術館が収蔵する浮世絵コレクションに対して日本の研究者(小林忠ら)が学術調査を行い、写楽の署名のある肉筆扇面画『四代目松本幸四郎の加古川本蔵と松本米三郎の小浪』が確認された、と発表した。絵柄の場面は寛政7年5月(1795年6月)に江戸河原崎座で上演された『仮名手本忠臣蔵』の配役と一致することから、従来写楽が姿を消したと思われていた1795年初頭以後に描かれたものと推定されている。画中に筆跡から後世の持ち主が書き加えたと見られる、四代目幸四郎を五代目幸四郎とし、小波ではなく妻・戸無瀬に言う台詞を書き付けるなど「明らかな誤記」が見られる。また、筆致は繊細で、少なくとも二度は改装され若干周囲を切り取られており、現在の状態では窮屈な印象を受ける。しかし、写楽の版画作品に通じる美化を捨象した面貌表現、二人の人物の感情表現の的確さ、絵の具の鮮麗さ配合の妙、など鑑定上の不自然さが感じられない。特に写楽画のほぼ全てに共通する耳の描き方も、線が一本化している部分がある以外は全く同じ描法で、幸四郎の他の顔の皺の本数や特徴も、四代目幸四郎を描いた写楽の版画作品4点と同様である。描かれている場面も、通常は描かれていない特異な場面で、後世の捏造の可能性は低い。落款も花押の終筆部分に筆者が故意につけた三つ葉のクローバーのような突起を持ち、この特異な特徴は後述の「老人図」と共通する。写楽筆と伝わる肉筆画は数点知られているが、多くの専門家が確実と認めた作品はこれのみとされる。
反面、この肉筆扇面画の鑑定に疑問を呈する見解もある。『新版 歌舞伎事典』の「東洲斎写楽」の項目は鑑定した小林忠の執筆だが、「版下絵とされる役者群像9点と相撲絵10点の素描、および若干の肉筆画が報告されているが、写楽真筆と公認されるまでには至っていない」と、自説が受け入れられていないのを認めている。
中嶋修は『〈東洲斎写楽〉考証』で、明治以降写楽の贋作が版画・版下絵・肉筆画問わず大量に作られたことを指摘した上で、ギリシャの扇面画ではないものの『老人図』の発見状況を取り上げ、「瀬川菊之丞、団十郎白猿、芳澤あやめ、宮古路豊後掾などの歌舞伎界諸名人の自筆短冊も一緒に出て来た」という設定自体、明治以降の写楽評価に基づくもので、真筆の可能性は皆無としている[37]。こうした見解を受けてか、『最新 歌舞伎大事典』の「東洲斎写楽」の項目でも、「写楽の作品は、2008年に発見の扇面画をはじめ真贋が十分に検討されているとは言い難く、歌舞伎資料として利用するには注意を要する」と、鑑定に慎重な姿勢を示している。
評価
写楽は寛政6年5月の芝居興行に合わせて28点もの黒雲母摺大首絵とともに大々的にデビューを果たしたが、絵の売れ行きは芳しくなかったようである。特定の役者の贔屓からすればその役者を美化して描いた絵こそ買い求めたいものであり、特徴をよく捉えているといっても容姿の欠点までをも誇張して描く写楽の絵は、とても彼らの購買欲を刺激するものではなかったのである。しかも描かれた役者達からも不評で、『江戸風俗惣まくり』(別書名『江戸沿革』、『江戸叢書』巻の八所収)によれば、「顔のすまひのくせをよく書いたれど、その艶色を破るにいたりて役者にいまれける」と記されている。
全作品の版元であった蔦屋重三郎と組んで狂歌ブームを起こした狂歌師の大田南畝は、「これは歌舞妓役者の似顔をうつせしが、あまり真を画かんとてあらぬさまにかきなさせし故、長く世に行はれず一両年に而止ム」(仲田勝之助編校『浮世絵類考』より)、役者をあまりにもありのままに描いたからすぐに流行らなくなったと写楽の写実的な姿勢を評している。ただし南畝の著した原撰本の『浮世絵類考』には岩佐又兵衛から始まって三十数名の絵師の名と略伝を記すが、そのなかで写楽のことを取り上げたのは、少なくとも南畝から見て写楽は無視できない絵師だったことを示しているという見方もある。
ドイツの美術研究家ユリウス・クルトはその著書『SHARAKU』(明治43年(1910年))の中で、写楽のことを称賛し、これがきっかけで大正頃から日本でもその評価が高まった。しかし写楽の役者絵が版行された当時においては、写楽よりも同時代の初代豊国描くところの役者絵が受け入れられたのであり、中山幹雄は勝川春英や初代豊国、歌川国政などの描いた役者絵と比べた上で、写楽を次のように評している。
江戸期当時の役者絵の流れは、勝川派から豊国へと移ってゆくのが主流で、写楽は、あくまでも孤立した存在であったことを確認しておくべきであろう。(中略)これまで写楽の諸説を発表してきた人は、その役者絵を論じながらも江戸時代の歌舞伎にあまり造詣のない美術研究家かコレクターや好事家といった人たちで、一方、歌舞伎の専門家であっても絵を見る範囲の限られた人が写楽を追ってきた。美術評論もすると同時に、歌舞伎の研究や舞台現場の経験もある者は、写楽をそれほど高く評価しないにちがいない。(中略)写楽を捨て、豊国を選んだ江戸庶民の眼を、高く評価したい[41]。
影響
写楽の役者絵は歌舞妓堂艶鏡、水府豊春、歌川国政などに影響を与えている他、栄松斎長喜も写楽に似た画風の役者絵を制作している。
かつてイギリスで制作された人形特撮番組サンダーバードでは、トレーシー家のラウンジでジェフが座る背後上部に「二代目瀬川富三郎の大岸蔵人の妻やどり木」、向かって右壁面に「四代目岩井半四郎の乳人重の井」、更にデスク脇のサイドパネル部分には「中村勘蔵の馬子寝言の長蔵」が、それぞれ飾られている[42]。
世界三大肖像画家の真偽
一般には写楽の評価に関して、ドイツの美術研究家ユリウス・クルトがその著書『Sharaku』のなかで、写楽のことをレンブラントやベラスケスと並ぶ「世界三大肖像画家」と称賛し、これがきっかけで大正頃から日本でもその評価が高まった、との説明が流布している。
しかし、『Sharaku』の1910年刊行初版、1922年刊行改訂増補版、及び1994年刊行の日本語訳版『写楽 SHARAKU』のいずれにおいても、クルトによる序文並びに本文に「世界三大肖像画家」「レンブラント」「ベラスケス」に関する記述は見られない。日本語訳版『写楽 SHARAKU』においては楢崎宗重の推薦文(帯)並びに翻訳者定村忠士による解題に「世界三大肖像画家」への言及はあるが、これは一般論として述べたものであり、クルト自身の文章を引用したものではない。
『Sharaku』以外のクルトの著作や、明治・大正頃の国外の浮世絵文献からも同趣旨の文言は見つかっておらず、後述のようにこの評価は根拠がない。
岸文和(同志社大学文学部)は2002年論文で次のように指摘している。
いったい何時、誰によって、この文言がクルトに帰せられるトポスになったかについては、現時点で、不明である。しかし、この文言がクルトのテクスト――初版/増補版とも――に見当たらないことは確実なのである。
『写楽 SHARAKU』の日本語訳に当たった定村忠士は、1995年に別の書籍で次のように指摘している。
実際に『写楽』にあたってみると、そんな言葉はどこにも書かれていない。クルトは『写楽』以外にも『日本木版画史』(1925~29年)など浮世絵に関する論文を多数発表している。おそらくそのどこかで、こうした趣旨の言葉を書いたものが、いつのまにやら『写楽』のなかの言葉として語られるようになったと推察するが、少なくともこうしたまことしやかな紹介のしかたでは、どこまで本当にクルトの『写楽』を吟味したのか、まことに覚束ない。私には、写楽論議の危うさがここに現れているように思えてならない。
中嶋修は「調べることができた中で」と断った上で「レンブラント、ベラスケス」という言葉が入った写楽論文の初出として 仲田勝之助「東洲斎写楽」(『美術画報』1920年6月号)を挙げている。
佐々木幹雄も、仲田勝之助の著書『写楽』(アルス、1925年)で、仲田個人の見解としてレンブラントやベラスケスに比肩する世界的肖像画家として写楽を紹介したことが「クルトが認定した三大肖像画家」に改変されて一人歩きを始めてしまったと指摘している。アルス美術叢書による巻末の広告には「浮世絵史上の重鎮として独逸のクルト博士の詳しい研究により写楽が一躍レンヴラントやベラスクエスさへ比肩すべき世界的一大肖像画家たる栄誉を負ふに至つた」という仲田勝之助の本文中にはない一文が存在する。
及川茂は「こういう文章はクルトの著作には存在せず、後世の粉飾の気配がある」と断っている。
美術編集者富田芳和は「クルトの『写楽』ではひとことも書かれていない文言が、日本人のだれかによって、クルトの写楽観を象徴する言葉としてつくり上げられ、一人歩きし、いつの間にか研究者の間で使い回しされる」という事態が生まれたと論じている。
作家高井忍は、1950年代に近藤市太郎が前述の仲田勝之助の評をクルトの見解だと取り違えて紹介し、「世界三大肖像画家」の評価の出典をクルトの著書とする説明が日本国内に広まって定着するのは榎本雄斎の著作『写楽――まぼろしの天才』(新人物往来社、1969年)以降だと主張している。
世界三大肖像画家をクルトの言説だと紹介した最も早い事例には藤森成吉著『知られざる鬼才天才』(春秋社、1965年)所収の「宮川長春」がある。藤森は高橋誠一郎の著書『浮世絵二百五十年』(中央公論社、1938年)の写楽記事を引用した上で、次のように述べている。
クルトの発見的功績は高く評価するが、写楽を「レンブラント及びヴェラスケスと並んで世界三大肖像画家中の一人」とする限定は承服しがたい。写楽の役者絵が二重写し的肖像画たることを、ぼくは『渡辺崋山の人と芸術』中に指摘したが(この二重写し的肖像画論はさらに評論する必要がある)、世界肖像画家を論じるなら、クラナッハやホルバインやヴァン・ダイクを措くとしても、いや、崋山やルーベンスを措くとしても、デューラーやゴヤやファン・アイクを逸することはできない。「三大肖像画家」なぞときめるのは、写楽への陶酔的軽率か無知というほかない。
しかし、現存するクルトの著作にはこうした言説はなく、高橋もクルトの説だったとは書いていない。藤森は高橋による評価をクルトの著作からの引用だと誤認して、クルト自身は主張していない言説に対して批判を加えたのである。仮にこの言説の初見が藤森の著作をさかのぼることができないなら、世界三大肖像画家をクルトの言説だとする誤認は写楽を過大評価として批判する立場の側から広がったということになる。
瀬木慎一は、「世界三大肖像画家」については言及していないものの「読みもしないで、クルト、クルトとしきりに援用するのは危険である」と苦言を呈している。
英語版WikipediaのSharaku(英語版)の項には"Kurth ranked Sharaku's portraits with those of Rembrandt and Velázquez"との記載があるが、出典として挙がっているのはクルトの著作ではなく、東洋美術史家ヒューゴ・ムンスターバーグ(1916-1995)の1982年の著作『The Japanese Print: A Historical Guide 』と近藤市太郎の1955年の著作の英訳『Toshusai Sharaku』である。スペイン語版WikipediaのTōshūsai Sharaku(スペイン語版)の項にも同趣旨の記載があるが、出典として挙がっているのは日本国内のイベントの広報[62]である。
「世界三大肖像画家」として写楽を紹介することは1930年代から前述の高橋誠一郎らの使用例がある[注 27]。評価が定着する以前には、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ベラスケスと共に「世界三大肖像画家」とする説や、レンブラントやデューラーにも比すべき偉大さを認められたとする説、クルトの『SHARAKU』によって「世界最大の肖像画家レムブラント、或は、彼以上の肖像画家」と賞賛されたとする説などがあった。
ジェームズ・ミッチェナーは1954年の著書『The Floating World』の中で、写楽の作品をレンブラント、ベッリーニ、ベラスケス、ホルバインに匹敵する肖像画だと賞賛している。
なお、「世界三大肖像画家」をベラスケスに替えてルーベンスを加える説も流布している。
『赤絵』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%B5%B5
赤絵(あかえ)とは明治時代に摺られた浮世絵版画の一種。
概要
明治初期の浮世絵版画には、毒々しいまでの輸入染料 、アニリン紅が多用されている。特に空の表現に多用された。安政年間(1854-60年)から使用されているが、当時の使用量は多くない。3代目歌川広重らに代表される、これらの深紅に染められた一連の作品群は、当時の購買層にとって最も身近に感じられた西洋の息吹として美しく捉えられた。文明開化を描いた開化絵も赤絵に含まれることがある。