2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表(予定)
古都京都の文化遺産 一覧
賀茂別雷神社(上賀茂神社)(京都市北区)
賀茂御祖神社(下鴨神社)(京都市左京区)
教王護国寺(東寺)(京都市南区)
清水寺(京都市東山区)
延暦寺(滋賀県大津市坂本本町・京都市左京区)
醍醐寺(京都市伏見区)
仁和寺(京都市右京区)
平等院(宇治市)
宇治上神社(宇治市)
高山寺(京都市右京区)
西芳寺(苔寺)(京都市西京区)
天龍寺(京都市右京区)
鹿苑寺(金閣寺)(京都市北区)
慈照寺(銀閣寺)(京都市左京区)
龍安寺(京都市右京区)
本願寺(西本願寺)(京都市下京区)
二条城(京都市中京区)
分類は京都市HPによる
目次
個々の構成遺産 順不同 各々公式HPより引用
賀茂別雷神社(上賀茂神社:かみがもじんじゃ)公式Webサイト https://www.kamigamojinja.jp/about/
賀茂別雷神社は、通称「上賀茂神社」「上社」の名で親しまれる。
ご祭神は、賀茂別雷大神(かもわけいかづちおおかみ)。
国宝2棟(本殿・権殿)、重要文化財41棟を含む広大な敷地で、敷地はすべてユネスコ世界文化遺産に登録されている。
厄除・方除・開運・八方除・雷除・災難除・必勝・電気・産業守護
参考動画:『特別展「都の神 やしろとまつりー世界遺産 賀茂別雷神社の至宝ー」田中宮司が特別解説!!』國學院大學博物館 Online Museum https://youtu.be/fn4fe9p9Cz4?si=QAnQ57R8mnxJ9IYM
賀茂別雷神社の田中安比呂宮司が特別解説.
*賀茂別雷神社は、京都でも最も古い神社と言われている。平成6年に世界文化遺産に登録された。その初めは神話時代の鎮座であると伝えられ、山城国の一之宮の神社を今日まで保つ。
第1代天皇である神武天皇(神日本磐余彦命(かむやまといわれびこのみこと))が天孫降臨して日向から熊野の地に上陸した際に案内したのが八咫烏に変身した賀茂建角身(たけつぬみ)と言う神であったが(『新鮮姓氏録(しんせんしょうじろく)』『山代国風土記逸文』に書き残されている)、この賀茂建角身命の娘である賀茂玉依(たまより)姫が賀茂川で禊をしていた折に川上から丹塗矢が流れてきたので不思議に思って拾い集め、自宅の枕辺に挿して休んでいたところ、丹塗矢に感応して身ごもった。父親をさがすべく、賀茂建角身命は全国の神を集めて大宴会を開き、生まれた子供に父親に酒を注ぐように申し付けたところ、子供は盃を天井に投げつけ、「わが父は天津(あまつ)神なり」と言って(私の父親は集まったような土地神達ではなく、天にいる天津神である)、雷が落ちてくる中を天に上って行った。その場にいた土地神たちは、「なんと力の強い子だ、雷を分け入って飛んで行った」と言う事で賀茂別雷神と言う名をもらったと言う。
幼い賀茂別雷神がいなくなったので祖父と母親は悲しんでどうかもう一度戻ってきてほしいと天に向かって祈った。或る晩、賀茂別雷神から神託があり、「私に会いたいのなら、阿礼(あれ)と言う神様の降りても良いような場所を探して、そこを葵と桂で飾り、馬を走らせて盛大なお祭りをしたら、降りていきます。」と言うのでそのような盛大なお祭りをしたところ、天から賀茂別雷神が、現在上賀茂神社が鎮座するご本殿のおよそ北2㎞のところにある神の山(今は「こうやま」と呼ばれる)の磐座(いわくら)の上に降りてきた。(「山城国風土記逸聞」) 以前は磐座の前でお祀りをしていたが、山中外でお祀りするのは大変と言う事で、天武天皇の白鳳6年(677)に山城の国費で御殿を作った。そののち現在までに本殿、また、権殿を初め、60棟に及ぶ建物が建てられ、現在の賀茂別雷神社(上賀茂神社)となった。
本殿間近にある細殿(ほそどの)前に「立砂(たてすな)」と言う二つの山が作られているが、賀茂別雷神が降り立った神の山、神山を模したものである。二つの山は陰陽道の考えから陰と陽を合わせて二つが一つなので、元の山は一つだが、立砂は左右二つ設けられている。神様がこの山に下りていただきたいと言う事で(細殿から見て)向かって左には三葉の松、3本の葉が出る松を、向かって右には二様の普通の松を挿してある。
桓武天皇が平安京を造った際、賀茂別雷神社を皇城鎮護の神社とした。それ以来、代々皇室から篤く信仰され、天皇の名代として勅使が賀茂祭(葵祭)に奉仕することが続いている。平安時代、御一条天皇が伊勢神宮に倣って賀茂別雷神社も式年遷宮を行うように命じ、伊勢神宮が20年に一度の遷宮であるので賀茂社は21年毎の遷宮と決めたと言う。その後必ずしも21年毎にではないが、江戸時代まで式年遷宮はずっと続いた。平成27年には42回目の式年遷宮(賀茂別雷神社第四十二回式年遷宮:正遷宮祭)を行ったが、現在では本殿・権殿ともに国宝に指定されており、その他の建物は重要文化財に指定されているので、壊して建て直すと言う事は不可能なため、修復を遷宮として斎行している。42回目の遷宮は、60棟すべての建物の屋根を檜皮(檜の皮)で葺きなおすことで遷宮となった。翌28年に当時の天皇皇后両陛下(現在の上皇陛下・上皇后陛下)が参拝された。
賀茂別雷神社の建物は、江戸時代、2代将軍徳川秀忠、3代将軍徳川家光時代に行われた遷宮によって新しく建てられたものである。正殿・権殿の建物は遷宮で新築されたが、その他の建物は400年前の姿で修復しながら保護している。
賀茂別雷神の父親を探す際に宴会を開いて多くの神を招いて探したと言う逸話から、本殿の中には、神様がお鎮まりになる御帳台(みちょうだい)と共に日常生活をできるものを納めているが、同時に多くの神様へ接待ができるように御角盥(手・口を清めた水を受けるための調度)、御盃・御台、御茶碗・御台などの品々、御神宝も納らている。
賀茂別雷神社は14000点におよぶ古文書群(重要文化財:平成18年指定)を伝えている。例えば、「嘉元三年御遷宮日記」(賀茂経久・鎌倉時代)、「源頼朝下文写」(寿永三年(1184))、「足利尊氏禁制」(観応元年(1350))、「源頼朝下文」(文治二年(1186))、羽柴秀吉判物(天正十一年(1583))など、各時代の為政者の貴重な文書が収められているが、東京大学資料編纂所などの研究者によって研究が進められている。
賀茂祭:5月15日に行われる賀茂祭(葵祭)では、平安時代の衣装を着た500人を超える人々が、京都御所から、下鴨神社、上賀茂神社まで練り歩き、天皇陛下のご名代として勅使が自ら国の繁栄、国民の幸せを祈る。葵の葉を沢山飾ってお祭りをせよと言う御祭神の言葉を今日まで続けているお祭りである。賀茂祭は勅祭(天皇の勅使が派遣されて執行される祭祀)であり、勅使自ら国の繁栄、国民の幸せ、五穀豊穣、疫病退散など平安な日々を人々が過ごせるようにと言う事を祈るものである。勅使の祭文を御殿に収めた後戻ってきて、勅使に返祝詞(かえしのりと)と言う祝詞を奏上する。神意を勅使に伝えるべく、岩上に蹲踞し、返祝詞を奏するが、これは確かに神様に陛下のお祈りを確かに届けましたと言う報告、御神意と言う事で拍手を勅使に1回送る、勅使が拍手を返す、また同じことを繰り返す(打ち交ぜ四(よん)声)を行うが、神様と勅使との中執り持ちを宮司が務めると言うのが賀茂祭独特の祭事である。
下鴨神社HP 『下鴨神社について』 https://www.shimogamo-jinja.or.jp/about
以下、公式HPの下鴨神社についての記載より
正式名称 賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)。
賀茂川と高野川が合流する場所に鎮座します。
賀茂川の下流にあり、古くから賀茂御祖神社を表す際は「鴨」の文字が使用されたことから、
下鴨神社(しもがもじんじゃ)とも呼ばれます。
京都を拓かれた神様として信仰され、平安京遷都以降は国家鎮護の神社として、皇室や朝廷からも篤い崇敬を受けました。
現在では国宝の本殿2棟をはじめとした多くの文化財や、太古からの植生を残す「糺の森」など、古代の息吹きを今に伝える京都の古社です。
正式な名称は「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」。賀茂一族の祖神をお祀りすることから、このように呼ばれます。
京都は鴨川を中心に町づくりがなされておりますが、その上流である賀茂川と高野川の合流地点に祀られます。賀茂川の上流に鎮座する上賀茂神社と同様に、下流にまつられているところから「下鴨神社(しもがもじんじゃ)」とも呼ばれます。
祭神
賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと) 西殿
玉依媛命 (たまよりひめのみこと) 東殿
賀茂建角身命は、古代の京都をひらかれた神さまです。山城の国一宮として京都の守護神としてまつられています。平安京が造営されるにあたって、まず当神社に成功のご祈願が行われました。以来、国民の平安をご祈願する神社と定められました。 山城国『風土記』などに、玉依媛命が鴨川で禊(みそぎ─身を清める儀式)をされているときに、上流より流れ来た丹塗の矢を拾われて床におかれたところ、矢は美しい男神になられ、結婚された。
そしてお子をお生みになったとの神話が伝えられていますので、古くから縁結、子育ての神さまとして信仰されています。当神社は、国家国民の安穏と世界平和をご祈願する守護神であるとともに、厄除、縁結、子宝、安産、子育、交通安全など人々の暮らしを守る神さまです。
賀茂建角身命は、古代の京都を拓かれた神さまです。また、金鵄八咫烏に化身し神武天皇を勝利に導き、日本の建国に力を尽くした神さまでもあります。
京都の守護神として、また勝利や物事の始まりの守護、導きの神として古くから崇敬されています
玉依媛命は、賀茂建角身命の御子神です。山城国『風土記』などには、玉依媛命が鴨川で禊(みそぎ─身を清める儀式)をされているときに、上流より流れ来た丹塗の矢を拾われたところ、ご懐妊され、賀茂別雷大神をお産みになったと伝えられています。
古くから縁結び、妊娠・出産・子育てなど、女性守護の神さまとして信仰されています。
平安京が造営されるにあたっては、まず当神社に成功のご祈願が行われました。
以来、国民の平安をご祈願する神社と定められました。
当神社は、国家国民の安穏と世界平和をご祈願する守護神であるとともに、古くからの文化を今に残す、文化を守る神さまとしても信仰されております。
当神社の正確な創祀は不明ですが、崇神天皇の7年(BC90)に神社の瑞垣の修造がおこなわれたという記録があるため、それ以前の古い時代からお祀りされていたと考えられます。
近年の糺の森周辺の発掘調査では古代の土器や弥生時代の住居跡が発掘され、古代からの信仰を裏付けています。
『続日本紀』の文武天皇二年(698)には、葵祭に見物人がたくさん集まるので警備するように、という命令が出された、という記事があり、このことからも奈良時代より前から当神社が大きなお社で、盛大なお祭がおこなわれていたことがわかります。
平安時代には、国と首都京都の守り神として、また皇室の氏神さまとして賀茂別雷神社とともに信仰を受けておりました。式年遷宮や斎王の制度などが定められたことからも、一線を画した特別な神社として認識されていたことが伺い知れます。『源氏物語』や『枕草子』など王朝文学にしばしば登場いたしますように、この時代の文化、宗教の中心地の一つとして栄えました。
平安時代末期になりますと全国に60余箇所もの荘園、御廚が寄進され神社を支えました。 鎌倉時代、室町時代、そして戦乱の世になっていくにつれ、各地の荘園も連絡が次第に絶えていきますが、代わって国民の信仰が神社を支えていくようになりました。
当神社を舞台とする、数多くの能(謡曲)などでは、そのころの様子がうたわれております。
国の重要な出来事には、かならずご祈願が行われました。 江戸時代にも、国と国民の幸福を祈願する神社として、神社の運営のため幕府より領地が寄せられました。
明治初年、全国の神社の代表として、官幣大社の首位におかれ、今日まで国と国民のための御祈願を日々行っております。
式年遷宮とは?
式年遷宮とは、一定年限で社殿を造り替えることです。
平安時代中ごろ「鴨社正遷宮也、当社廿年一度…定例也」と史書『百錬抄』に記され、長元9年(1036)を第1回として式年遷宮の制度が確立しました。しかし式年の制は在るべき姿ではありましたが戦乱や飢饉・災害によって30年、50年に及ぶこともありました。
しかし、中世から近世、そして近代、現代と時代は変わろうとも、国難を乗り越え常に支障なきよう社殿はお守りされてきました。
いつも「神さまに御不自由をかけまい」とするその思いを制度化したのが、今の21年一度の式年遷宮です。
下鴨神社の式年遷宮
賀茂御祖神社の創始は古く、太古に遡ります。神社境内の糺の森から古代の祭祀遺跡や旧境内から集落跡などが発掘されました。『日本書記」神武天皇2年(BC658)2月の条に御祭神の伝承がみられ、綏靖天皇の御代(BC580頃)に、現在の御蔭祭の始源である御生神事がはじまったとの所伝があります。
社殿が造営された最初の記録は、崇神天皇の7年(BC90)瑞垣を造替したとの記述です。それ以降、奈良時代以前に幾度も社殿が造替されたとの記録がみられ、白鳳6年(677)には山背国司に命じられて造営が行われ、この時から板葺や茅葺の社殿を桧皮葺と瓦葺にかえたとあります。
欽明天皇5年(544年)にはじまった賀茂祭(京都の3大祭の1つ、通称葵祭)は、当時まつりといえば賀茂祭をさしたほど隆盛を極めました。
平安遷都(794)以降は皇都である京都の総鎮護として山城國一の宮となり、皇女が賀茂斎王として神社に奉仕する賀茂斎院の制度が定められるなど朝廷の尊崇厚く、国家国民の安泰を祈願する神社でありました。このことは明治以降も変わらず、官幣大社の筆頭として全国の神社の首位におかれ、このような歴史によって社殿と境内が国指定の文化財となり、平成6年(1994)世界の文化財として世界文化遺産に登録されています。現在では本殿2棟は国宝、社殿53棟は重要文化財といずれも日本の宝として登録されており、全てを新しくすることができません。本来の式年遷宮は、ご神体を除く全ての建物や調度品を新しくする宮移しですが、現在は傷んだところの修理を基本方針としており、21年ごとに修理のため宮移しをするのが現在の式年遷宮です。
具体的に何を行うか?
まず桧皮葺(ひわだぶき)の屋根葺き替えです。70棟に及ぶ屋根の葺き替えの桧皮は膨大な量になります。また寿命が3~40年ですから、未来永劫にわたって葺き替えは無くならないことになります。銅版あるいは新素材で葺くことも可能です。しかし、伝統建築の最高の素材として、古来より神社をはじめとする建物に用いてきました。ほか社殿の飾り金具、漆の傷んだ部分、はげた彩色部分の修理、たとえば神様を守護する獅子、狛犬の修理などです。このほか神様の御生活品や衣装・装束(これらを御神服・御神宝と称します)も修理、もしくは一部が新調されます。
シンボルマーク
気の遠くなるような時間の集積からなる糺の森。古代からの数多の神々・精霊の存在を感じる、たおやかで、柔らかにして、凛とした空気感。鴨川と、糺の森を清らかに流れる小川。氏人達をはじめ、この土地を訪れ、神游の庭で神々と出会った数多の人々のエネルギーの痕跡…
豊かな自然に囲まれた賀茂御祖神社は、生命力=“いのち”を直接的かつ身近に感じる事のできる場です。鴨神道独自の信仰として賀茂御祖神社に伝承される、あらゆる生命を生み出す力、生命の根源のあらわれである“御生(みあれ)”の思想において、社殿の老朽化は穢れを意味します。
それらを新しくすることで神の生命力を活性化する祭儀である式年遷宮をシンボルマーク化するにあたり、よどみなく流れる生命力=“いのち”をテーマとし、それをビジュアル化する過程において、世界文化遺産である賀茂御祖神社の式年遷宮に相応しい品格を感じさせると同時に、賀茂社の特徴である有機的で柔らかな生命感・空気感を表現することを目指しました。
森羅万象、全ての生命を生み出す力“御生”社殿を新しく、清らかにすることで神の力をよみがえらせ活性化する式年遷宮。
このキャッチフレーズは、“御生”の思想と式年遷宮の意義を、平易な言葉でシンプルに表現しています。ひらがなのみで表現することによって、見た目にも、柔らかく親しみやすいフレーズになっています。
参考:『賀茂御祖神社(下鴨神社)]』(京都観光オフィシャルサイト 京都観光Navi) https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=7&tourism_id=498
各社殿について詳しい。
公式HP→「東寺の歴史」世界遺産真言宗総本山 教王護国寺 https://toji.or.jp/about/
東寺は、唯一残る平安京の遺構です。
創建からおよそ、1200年。平成6年、1994年に世界遺産として
登録されました。
平安遷都とともに建立された東寺は官寺(かんじ)、つまり国立の寺院。
その寺院を桓武天皇のあとに即位した嵯峨天皇は、唐で新しい仏教、密教を学んで帰国した弘法大師空海に託しました。
ここに、日本ではじめての密教寺院が誕生します。東寺を託された弘法大師空海は、密教の主尊(しゅそん)である大日如来を境内の中心にすえ、広大な寺域に曼荼羅まんだらを表現しようとしたのかもしれません。
造営にあたって、弘法大師空海は、御影堂(みえどう)の場所に住房を構えました。
御影堂では、いまも毎日、弘法大師空海がいらしたときと同じように、一の膳、二の膳、お茶をお出ししています。
東寺に来られたら、まず御影堂にお参りください。お堂に上がり、ひととき弘法大師空海とお話しください。
東寺の歴史
平安京が遷都されたとき、寺院の建立は、東寺と西寺しか許されませんでした。
西寺も羅城門も、時の流れに消え、現存する平安京の遺構は、唯一、東寺だけになりました。
(以下に示すように羅城門を挟んで東と西に東寺・西寺がおかれたため)
◎平安時代:平安京に左右対称に配置された東寺と西寺
延暦13年、794年。桓武天皇により築かれた平安京は、時代の最先端をゆく都市でした。
都の正門、羅城門から北へまっすぐに朱雀大路が伸び、その先に壮麗な大内裏(だいだいり)がありました。その羅城門を挟んで、両翼を広げたように建立されたのが、東寺と西寺です。
東寺は国の東の王城鎮護、西寺は国の西の王城鎮護を担う、官寺でした。緑色をした緑釉瓦(りょくゆうがわら)に朱の柱、白壁の大伽藍(だいがらん)は、新しい首都を象徴するものでした。
◎平安時代2:弘法大師空海と東寺の出会い 密教寺院の誕生
平安遷都より29年目の冬、桓武天皇のあとに即位した嵯峨天皇は、唐で密教を学んで帰国した弘法大師空海に、東寺を託します。ここに真言密教の根本道場(こんぽんどうじょう)(仏教修行の中心となる場)東寺が誕生します。
弘法大師空海は、まず、密教の中心伽藍となる講堂の建立に着手しました。講堂建立の翌年には、塔建立の材木を東山から運搬して欲しいと、朝廷に願い出た記録が残っています。このことから五重塔の工事は、この頃、はじまったといわれます。
こうして、弘法大師空海は大伽藍建立の大事業をはじめました。いまの東寺は、弘法大師空海がこのとき計画した通りの姿といえるでしょう。
◎鎌倉時代:天福元年、1233年のできごと
源氏と平家の合戦が起こり、平安時代も終わりに近づきます。羅城門は崩れ落ち、東寺、西寺ともに衰退の一途をたどります。やがて、時代が鎌倉へと移り、東寺に復興の兆しが見えてきます。
文覚上人(もんがくしょうにん)の依頼を受け、運慶(うんけい)が諸像の修復に着手。天福元年、1233年には、運慶の子、仏師康勝(こうしょう)により弘法大師空海の坐像が完成。御影堂(みえどう)で法要がはじまりました。さらに、後白河法皇の皇女、宣陽門院(せんようもんいん)が財政の基盤をつくり、東寺は息を吹き返していきました。
一方、西寺は、天福元年、1233年に境内に唯一残っていた五重塔が焼失。以後、西寺が復興することはありませんでした。
◎室町時代・戦国時代:戦乱の痕跡 そして炎上
東大門は、別名、不開門あかずのもんと呼ばれています。なぜ、そう呼ばれることになったのか。答えは、その門に残る矢の痕跡と無関係ではありません。
南北朝時代、足利尊氏は東寺に陣を置き、新田義貞(にったよしさだ)と戦火を交えました。戦場は都から、東寺の近くへと移っていきました。そのとき、足利軍は、東大門の扉を固く閉ざし危機を脱したといわれます。このことから、東大門は不開門といわれるようになりました。東大門には、いまも戦乱の傷痕が残っています。
その後、東寺は、幾多の戦火をかいくぐり、応仁の乱の戦禍も免れることができました。しかし、文明18年、1486年に起こった文明の土一揆で金堂、講堂、廻廊かいろうや南大門(なんだいもんなど)を焼失。東寺創建以来、もっとも大きな痛手を被った事件でした。
◎江戸時代:よみがえった東寺
文明の土一揆のあと、復興できるだろうか、と思われた東寺でしたが、桃山時代になると、焼失した金堂が約100年ぶりに再建。新しい金堂に新しい薬師如来、日光菩薩、月光菩薩も誕生しました。続いて南大門も完成し、焼失後、すぐに再建した講堂も含めて、東寺は、ほぼ元の姿になりました。
その後、落雷によって五重塔が焼失しますが、それも寛永21年、1644年に再建。また、徳川家康は、東寺の子院(しいん)である観智院(かんちいん)を、真言一宗の勧学院に定めました。
◎現代:はじめて開かれた東寺の扉
その時代、時代を生きた人々によって復興を遂げてきた東寺でしたが困窮が続いた時代もありました。しかし、そのなかにあっても法要は続けられ、僧をはじめとして、多くの人々によって東寺は守られてきました。
そして、昭和40年、1965年、秘仏公開。固く閉ざしていた金堂、講堂の扉が開きました。それは、平安時代へと続くタイムカプセルが開けられた瞬間でもありました。
「歴史」音羽山清水寺 開創七七八年 https://www.kiyomizudera.or.jp/history.php
清水寺の物語を紐解く
清水寺の歴史
音羽山清水寺の開創は778年。現代から遡ること約1250年前です。大きな慈悲を象徴する観音さまの霊場として、古くから庶民に開かれ幅広い層から親しまれてきました。古い史書や文学のなかには、多くの人々が清水寺参詣を楽しむ様子が描かれています。
京都の東、音羽山の中腹に広がる13万平方メートルの境内には、国宝と重要文化財を含む30以上の堂塔伽藍が建ち並びます。創建以来、10度を超える大火災にあいそのたびに堂塔を焼失しましたが、篤い信仰によって何度も再建されました。現在の伽藍はそのほとんどが1633年に再建されたものです。1994年にはユネスコ世界文化遺産「古都京都の文化財」のひとつとして登録されました。
観音霊場の由来
清水寺の始まりを記した『清水寺縁起』(「続群書類従」所収)によると、奈良で修行を積んだ僧、賢心(けんしん・後の延鎮)が夢で「南の地を去れ」とお告げを受けたことが清水寺の始まりです。賢心は霊夢に従って北へと歩き、やがて京都の音羽山で清らかな水が湧出する瀧を見つけます。そして、この瀧のほとりで草庵をむすび修行をする老仙人、行叡居士(ぎょうえいこじ)と出会ったのです。行叡居士は賢心に観音を造立するにふさわしい霊木を授け「あなたが来るのを待ち続けていた。私は東国に修行に行く。どうかこの霊木で観音像を彫刻し、この霊地にお堂を建ててくれ」と言い残して姿を消したといいます。賢心はすぐに「勝妙の霊地だ」と悟り、以後、音羽山の草庵と観音霊地を守りました。賢心が見つけた清泉は、その後「音羽の瀧」と呼ばれ、現在も清らかな水が湧き続けています。
それから2年が経ったある日、鹿狩りに音羽山を訪れた武人、坂上田村麻呂が音羽の瀧で賢心と出会います。坂上田村麻呂は賢心に尋常ならぬ聖賢を感じ、大師と仰いで寺院建立の願いに協力を申し出ました。そして、妻の三善高子とともに十一面千手観世音菩薩を御本尊として寺院を建立し、音羽の瀧の清らかさにちなんで清水寺と名付けたのです。
現代社会に必要とされる仏教をめざして立宗された北法相宗
清水寺の宗旨は北法相宗です。清水寺は開創以来、奈良仏教の法相宗を宗旨とし、中世・近世においては法相宗大本山、興福寺(奈良)の末寺でした。清水寺が北法相宗の本山として独立したのは1965年。急速に変化する社会情勢に対応し、これからの時代に社会から必要とされる仏教を模索し続けた当時の清水寺貫主、大西良慶和上によって北法相宗が立宗されました。「『北』法相宗」という名称には、南都と呼ばれた奈良に対して、北に位置する京都で法灯を掲げるという意味が込められています。
大西良慶和上は、その生涯を通じて「仏教の社会的活動」を掲げて観音さまの教えを実践した方でした。老人福祉施設や児童養護施設の開設や運営、災害時の慰霊や復興ボランティアなど、公益のために尽力することが自身と仏教が担う使命だと考えておられました。戦争の時代に生きた仏教者として平和を説き、社会的弱者に優しいまなざしを向け続けました。大西良慶和上は109歳でこの世を去られるまで人々に観音さまの教えを説き続け、清水寺の中興の祖と崇められています。
清水寺の「桧舞台」
本堂の前面に張り出すように広がる舞台は、清水寺に数ある建造物のなかでももっとも有名です。京都の街を眼下にする眺めは見事で、その美しい景色は古くから人々を魅了してきました。「平成の大修理」で張り替えられた166枚の桧板の舞台の床面積は約200平方メートル。崖下の礎石からは約13メートルの高さがあります。日本では、晴れの場所に登場することを「桧舞台を踏む」という表現をします。清水寺の桧舞台がこの言葉の語源となったかは明らかではありませんが、実際にこの舞台は特別な法会などの際に観音さまに芸能を奉納するための場所です。
断崖に建つ木造建築
本堂から張り出した「舞台」の高さは約13メートル。これは4階建てのビルに相当します。本堂は音羽山の急峻な崖に建築されています。これは「懸造り(かけづくり)」と呼ばれる日本古来の伝統工法で、格子状に組まれた木材同士が支え合い建築が困難な崖などでも耐震性の高い構造をつくり上げることを可能にしています。舞台を支えているのは、床下に建てられた18本もの柱です。樹齢400年余の欅を使い、大きいもので長さ約12メートル、周囲約2メートルの柱が整然と並んでいます。その縦横には何本もの貫が通されています。木材同士をたくみに接合するこの構造は「継ぎ手」と呼ばれ、釘を1本も使用していません。現在の舞台は1633年に再建されたものです。歴史上、幾度もあった災害にも耐え、今も日々多くの参詣者で賑わう舞台を支え続けています。
ことわざの語源
日本には「清水の舞台から飛び降りる」ということわざがあります。切り立った断崖に張り出している清水寺本堂の舞台から飛び降りるほどの重大な決意で物事にのぞむことをあらわした言葉です。清水寺の舞台が、古くから高層建築物の代名詞として日本国中に普及していたことがうかがえます。また、清水寺は観音霊場として庶民から篤く信仰され、観音さまに願をかけ、高い舞台をものともせず飛び降りる風習が有名だったからです。「清水の舞台」は今も昔も知らぬ人のいない名所なのです。
本堂の建築様式
本堂の屋根は檜皮葺の優美な曲線が美しい「寄棟造り」。建築様式の随所に平安時代の宮殿や貴族の邸宅の面影が残っています。本堂内部は、巨大な丸柱によって手前から外陣(礼堂)と内陣、内々陣の3つの空間に分かれています。一番奥の内々陣には御本尊が奉祀されており清水寺にとってもっとも神聖な場所です。お参りの際には外陣南側の廊下を進んでください。
『歴史 / 縁起 / 祖師』世界遺産 京都 醍醐寺(公式HP) https://www.daigoji.or.jp/about/history.html
◎歴史/縁起/祖師
総本山醍醐寺200万坪におよぶ広大な境内地にそびえる国宝五重塔は、静かに1,100年以上の時の流れを語り伝えています。
京都御所の東南、東山を越えると山科盆地がひろがり、この地は古くから大和・宇治・近江を経て遠く北陸に到る幹線道路があり、平安京の東南近郊の一地区として注目されて来た場所です。醍醐寺は、この盆地の東側、笠取の山頂にかけての広大な地域に位置し、山頂一帯を「上醍醐」山裾を「下醍醐」と称しています。
平安時代の初期、聖宝理源大師は、自刻の准胝・如意輪両観世音菩薩を開眼供養し、醍醐寺開創の第一歩を上醍醐に標し、以来、醍醐天皇、穏子皇后の帰依のもと、上醍醐に薬師堂を建立、薬師三尊を奉安、鎮護国家のために五大堂を建て、五大明王を奉られました。
醍醐寺縁起は醍醐寺開創について、『ある日、聖宝が深草の貞観寺から東のほうをご覧になると、五色の雲がたなびいているのが見え、その五色の雲に誘われ山に登り山頂に着いたときに「まるで生まれ故郷に帰ったような思いがした」そうです。谷間をご覧になると、一人の老人が湧き出る水を飲んで、「甘露。甘露。ああ醍醐味なるかな」と言っていました。聖宝は老人にこの地に寺院建立をしたいと声をかけられました。老人は、「ここは、諸仏・諸菩薩の雲集する地で、私は地主で横尾大明神である。この地を差し上げ、長く守護してあげる」とおっしゃられ、姿を消されました。』と伝えています。この水は醍醐水と呼ばれ、現在も枯れることなく湧き続けています。
さらに下醍醐に釈迦堂を建立し、山上・山下にわたる壮大な寺院計画がなされました。醍醐天皇の願いは、朱雀天皇・村上天皇に受け継がれ法華三昧堂・五重大塔が建立され一山の尊容が整いました。
平安時代末には、白河上皇・源氏の帰依と共に多くの堂宇が建立され広大なる一山の整備がなされ、鎌倉時代になると真言宗事相の根本道場としてその権威を高め、同時に多くの密教芸術を生み出しました。南北朝には足利尊氏の帰依を一身に集めた賢俊座主、足利義満将軍率いる室町幕府において黒衣の宰相と言われ重んじられた満済准后(まんさいじゅごう)、桃山時代の義演准后は、秀吉の帰依のもと「醍醐の花見」をもって一山を中興、江戸時代の高演座主は、修験道(山伏)3千名を伴い二度にわたる大峯山入峰をなし、修験道興隆を計る等々、歴代磧徳を迎え寺は護られて来ました。
しかし、近代、明治の廃仏毀釈、昭和の農地解放の悲風は容赦なく山内を吹き荒れ、寺領は返還し寺の護持基盤が大きく揺れるなか、歴代相承の什宝は、あたかも浄水を一滴ももらさず器から器へと移すがごとく伝承されました。
今日、一山は永世護持のため全山「史跡」に指定され、さらに平成6年12月には「世界文化遺産」に登録されました。まさに世界的な「木の文化」「紙の文化」の宝庫と認識するとき、着々と伝承される法流血脈のもと祈り続けられる信仰の尊さを思わずにはいられません。
現在、醍醐寺は、総床面積1千坪の霊宝館に於いて、国宝6棟、重文10棟を含む92棟の建造物及び信仰対象の諸尊像を除く一切の文化財を管理保管しています。
祖師 聖宝大師・理源大師
醍醐寺の開山・聖宝は、天長9年(832)讃岐の塩飽諸島の本島(現在の香川県丸亀市本島正覚院)に御誕生、承和14年(847)16歳の時、真雅僧正の室に入り得度・出家されました。以来、東大寺の東僧坊南第2室に住し、元興寺の願暁阿闍梨・円宗阿闍梨に師事し、三論を学び、東大寺平仁阿闍梨のもとで法相を修学されました。さらに東大寺玄永阿闍梨に華厳を、真蔵阿闍梨のもと律を学ばれました。この間、金峯山をはじめ霊山に抖櫢し峰中修行を実修し大きな祈りの世界を感得されました。
当時、日本仏教の主流は、中国から請来された厖大な経論や注疏を解釈し、教理を構成することでありました。聖宝は、この風潮の中で、なにより教理を実践することの重要性を思惟し、教理を実践する具体的な方法を模索されました。40歳になられた貞観13年(871)、師僧・真雅僧正より「無量壽法」を受法されました。道場を荘厳し、行者は威儀を正し阿弥陀如来を観想することに始まる修法の世界は、聖宝の心に教えと祈りの真の融合と映り、これを包括し、深めていくことに教理の実践の道を見出されました。それは、教相と事相を確立し、伝授という具体的な礼儀を通して伝承する姿です。峰中修行で感得された大きな祈りの世界。無量壽法を通して得た修法の世界。この二つは聖宝の祈りの世界に於いて大切なことです。
特に峰中修行で得られた大きな祈りの世界を「霊異相承」という言葉で表現し、「恵印法流」を感得されました。これは山中で神変大菩薩にお会いして、一つの法を授かりましたということで、目に見えない心のお話です。この目に見えない心のお話を大切にすることによって、神変大菩薩が山岳で修行してきた祈りの世界を、密教の祈りと結び付けて、いわゆる山伏、修験道の祈りの形態として開かれたのです。
またまた聖宝は、醍醐寺を開創されて間もなく、東大寺に真言院を建立されました。そして、「真言密教の教法」と「無量壽法」を東大寺へ伝えられました。
聖宝は、その出発点において、自身の心に内在する「霊性」を大切にされる「祈りの実践者」であり、そのお姿は五次元の世界を観想しての大きな思惟です。
聖宝は准胝観世音菩薩と如意輪観世音菩薩の二体の観音像を謹刻され、そして小さな庵を建て醍醐寺を開創されました。この小さな庵に時の帝・延喜帝が大きな御誓願を込められました。ご自分の母方の祖父母が、准胝観世音菩薩に願をかけられた結果、母君の胤子がご自分(延喜帝)を身ごもられたという、出生にまつわるお話をお聞きになって、当時お子様に恵まれなかった延喜帝は、一心に准胝観世音菩薩に祈られ、穏子皇后との間に二人の皇子、後の朱雀天皇、村上天皇がお生まれになりました。
延喜帝はこのご信仰から、ご自身の名を「醍醐」と諡られました。そしてそれ以来、「醍醐天皇」とお呼びするようになりました。
醍醐天皇の御誓願は大きく注がれました。ご自身が祈りを捧げられた准胝観世音菩薩の霊験のもと、聖宝に薬師如来をおまつりし、多くの人々の病の癒しを祈ることを命ぜられました。聖宝は会理というお弟子にこの御誓願を託し、薬師三尊を謹刻なされ祈りを込められました。以来「薬師如来」は、醍醐寺の信仰の一つとなっております。
醍醐天皇の大きな御誓願は、聖宝を通じて醍醐寺一山の信仰として民衆の心の中に生き生きと伝承されています。尊いことです。
栂尾山高山寺HP https://kosanji.com/
年表(同上HP)→https://kosanji.com/about/history/#a_01
鳥獣戯画 https://kosanji.com/chojujinbutsugiga/
高山寺を代表する宝物である。現状は甲乙丙丁4巻からなる。甲巻は擬人化された動物を描き、乙巻は実在・空想上を合わせた動物図譜となっている。丙巻は前半が人間風俗画、後半が動物戯画、丁巻は勝負事を中心に人物を描く。甲巻が白眉とされ、動物たちの遊戯を躍動感あふれる筆致で描く。甲乙巻が平安時代後期の成立、丙丁巻は鎌倉時代の制作と考えられる。鳥羽僧正覚猷(かくゆう、1053〜1140)の筆と伝えるが、他にも絵仏師定智、義清阿闍梨などの名前が指摘されている。いずれも確証はなく、作者未詳である。天台僧の「をこ絵」(即興的な戯画)の伝統に連なるものであろうと考えられている。
参考:『高山寺<右京区栂尾>』京都観光オフィシャルサイト京都観光Navi https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=7&tourism_id=432
自然豊かな世界遺産の寺。鳥獣戯画で知られる文化財の宝庫。
774年(宝亀5)の開創。1206(建永元)年、明恵上人が後鳥羽上皇の帰依を得て高山寺として中興開山した。学問寺として伝わり、現在も国宝・重要文化財1万点余を所蔵している。栄西禅師から贈られたお茶の実を栽培し、苗が宇治へと伝わったことから、お茶の発祥地としても知られる。国宝石水院は、鎌倉時代初期の寝殿造りの面影を残す貴重な遺構。鳥獣戯画4巻(国宝)など、洛西における文化財の宝庫。紅葉の名所。単立寺院。国の史跡登録。1994年(平成6)12月「古都京都の文化財」として、「世界遺産条約」に基づく世界文化遺産に登録された。
■国宝 石水院
明恵上人時代の唯一の遺構として伝わり、国宝に指定されている。希少な鎌倉時代の寝殿造風建築としても知られる。
もとは経蔵兼社殿として使われ、現在は住宅風にあらためられている。
拝殿であった場所には善財童子像が置かれ、南面には後鳥羽上皇より賜った勅額「日出先照高山之寺」が掲げられている。
簡素かつ開放的な造りであり、周囲の自然とよく調和している。
広く開け放たれた南縁の前には、もみじの景色が一面に広がる。
通常公開しており、鳥獣戯画の複製も展示している。
■石水院(五所堂)
貞応3年(1224)、後鳥羽上皇の賀茂の御学問所を賜ったものと伝えられる。
単層、入母屋造の住宅風建築を、後に正面に向拝を付して拝殿風に改めた。創建以来、何度も移築と改造を繰り返し、明治22年(1889)に現在の地に移された。
■茶室 遺香庵
1931年(昭和6年)明恵上人の700回忌を記念して建てられた茶室。
茶祖としても知られる明恵上人の遺徳を後世に伝えるべく、高橋箒庵が総代となり数寄者103名により寄進された。
設計を高橋箒庵、建築を3代目木村清兵衛が担当した。
庭園は、7代目小川治兵衛の晩年の作庭として知られ、京都市指定名勝に登録されている。
塔頭跡地に作られた露地には、苔が豊かに広がっている。
事前予約制にて特別公開している。
■茶園
茶の発祥地として知られる高山寺で現在も営まれている茶園。
「日本最古之茶園」石碑がたつ。
明恵上人が栂尾の山内で栽培した茶が宇治へと伝わったことから、代々宇治茶業組合により維持管理されている。
毎年5月に茶摘みが行われ、11月8日の献茶式の際に明恵上人に新茶が献上される。
事前予約制にて内部を特別公開している。
基本情報
正式名称 高山寺<右京区栂尾>
よみがな こうさんじ
通称名称 栂尾山 高山寺
よみがな とがのおさん こうさんじ
住所・所在地 京都市右京区梅ケ畑栂尾町8
アクセス JRバス「栂ノ尾」下車、徒歩約5分
※JR京都駅始発、四条大宮・二条駅前・円町などを経由
市バス8系統「栂ノ尾」下車、徒歩約5分
※地下鉄烏丸線「四条」駅始発、四条大宮・西院・太秦天神川などを経由
開催日時 -
営業時間 8:30~17:00
定休日 無休
TEL 075-861-4204
ホームページ https://kosanji.com/
『波乱と悠久の歴史』公式ページ https://intosaihoji.com/saihoji/history/
西芳寺のあるエリアには、古代その高い技術力で京の発展に寄与した秦氏の古墳が点在し、聖徳太子の別荘があったと伝えられています。
731年、行基菩薩が法相宗の寺として開山したのを起源に、鎌倉時代初期には法然上人が浄土宗に改宗、さらに1339年に作庭の名手でもあった高僧、夢窓国師が臨済宗の禅寺として再興しました。
足利義満や義政をはじめ西芳寺で坐禅に励んだ者も多く、金閣や銀閣などの庭園の原型になったともいわれています。
法相宗「西方寺」の創建
奈良時代に聖武天皇の詔勅により、行基菩薩が畿内四十九院のひとつとして創建した「西方寺」が西芳寺の起源です。現在の「西芳寺」になったのは室町時代以降のことです。行基菩薩は自作の阿弥陀三尊像を刻み、阿弥陀如来を中心に観音、勢至の両菩薩を脇侍として本尊とし、法相宗の寺として開創しました。
平安時代に入ると弘法大師空海が入山し、境内の黄金池で放生会が行われました。放生会とは、捕えられた魚や鳥などの生きものを解放して殺生を戒める法会のこと。これが、我が国の放生会のはじまりとされています。
荒廃と再興。法然上人により浄土宗へ。
時が過ぎ、西方寺は一時衰微しますが、建久年間(1190~1199年)に入り摂津守中原師員(もろかず)が荒廃した寺を修復し、西方寺と穢土寺に二分して浄土宗の祖の法然上人を迎えました。法然上人は行基菩薩によって祀られた本尊の阿弥陀三尊を金泥で美しく飾ります。これが現在の西芳寺のご本尊です。
その後、法然上人の高弟である親鸞聖人も西方寺にとどまり愚禿堂を建立、また正嘉年間(1257~1259年)には執権北条時頼が桜堂を築くなど、寺運は大いに栄えました。ところが、師員が没すると西方寺は再び荒廃してしまいます。
中興開山、夢窓国師による再興
兵乱による荒廃の後、松尾大社の宮司藤原親秀の招請で、暦応2年(1339年)に当時の高僧であり作庭の名手でもあった夢窓国師が禅寺として再興。寺名は同じ音を残して「西芳寺」と改められ、「西芳精舎」の額がかかげられました。夢窓国師は仏殿を「西来堂」と名付け、庭園の大規模な修復作業にとりかかります。
この時代の庭園の主流は池を主とした池泉庭園でしたが、夢窓国師は石組を庭の主役とし、禅の精神性をもその中に反映させた、革新的なものでした。足利義満や義政をはじめ、西芳寺を訪れて坐禅に励んだ者も多く、後に造営される金閣や銀閣など、室町時代を代表する庭園の原型になったといわれています。
度重なる戦火、洪水を乗り越え
―「苔寺」としての再出発
室町時代、多くの貴人や武将に愛された西芳寺ですが、応仁・文明の乱の戦火は洛外といえど避けられず、建物は全焼してしまいます。さらに、文明17年(1485年)には洪水で痛めつけられ、本願寺の蓮如上人の援助で再建されますが、織田信長の京都進駐を妨害しようとした丹波の柳本勢が谷地に放火したため、ふたたび全焼の憂き目に遭います。信長が天龍寺の策彦周良に命じて西芳寺の殿舎を再興させたため、なんとか存続することができました。
江戸時代に入ってからも、西芳寺川の氾濫によって幾度とない洪水の被害を受け、さらに明治時代に入ってからは廃仏毀釈によって寺地が狭まるなど非常に厳しい時代が続きましたが、有名無名を問わず、数多の先人たちの尽力があったからこそ今日の姿があります。1928年、阪急電車嵐山線の開通と同時に庭園の一般公開を開始します。庭を覆う120余種の苔の美しさは、現在に至るまで「苔寺」として親しまれていますが、庭一面に苔むすまでには実に100年以上もの時間が経過しており、皮肉にも荒廃の歴史が苔の美しさを創り上げた、ともいえるのです。
悲願の本堂再建。
寺院の在り方を見つめなおす
昭和44年(1969年)、応仁・文明の乱で焼失した本堂・西来堂が500年ぶりに再建されました。襖絵は昭和の大画伯、堂本印象による抽象画で、これまでの寺院の襖絵に描かれてきた山水図とは一線を画す、モダンでエネルギッシュな画風が異彩を放ちます。中興開山の夢窓国師が庭園の常識を覆したように、変革を恐れない西芳寺の姿勢が、この襖絵からも見てとれます。
現在は庭園の一般公開を閉ざし、事前申し込みによる少人数参拝のみ、本堂での写経を経ての庭園拝観としています。これは昭和52年(1977年)からのことで、押し寄せるクルマによる交通障害、また心無い人々によって境内の苔が荒らされるのを恐れ、仏教寺院として本来の宗教行事に専心するためです。檀家をもたない西芳寺にとって、参拝者の数を大幅に減らすことは苦渋の決断でしたが、皆様に心静かにお参りいただきたいという願いから、大きく舵を切りました。
2031年、西芳寺は開山1300年を迎えます。これまで、足利義満などの時の権力者をはじめ、川端康成やスティーブ・ジョブズなど、多くの人々に愛され、支えられて参りました。これからも皆様にとって、心調い、閃きの源となるような場であり続けるため、そして後世につないでいくために歩みを進めて参ります。
『歴史の寺 史跡・特別名勝 天龍寺について』臨済宗天龍寺派大本山 世界遺産天龍寺HP https://www.tenryuji.com/about/
◎天龍寺について 天龍寺は京都屈指の観光地嵯峨嵐山に建つ臨済宗の禅刹。
名勝嵐山や渡月橋、天龍寺の西側に広がる亀山公園などもかつては境内地であった。
この地はその昔、檀林皇后と称された嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開創した禅寺・檀林寺の跡地で、檀林寺が廃絶した後、後嵯峨上皇が仙洞御所を造営し、さらに亀山上皇が仮の御所を営んだ。
◎天龍寺の歴史
創建と興隆
その地に足利尊氏を開基とし、夢窓疎石を開山として開かれたのが天龍寺で、その目的は後醍醐天皇の菩提を弔うため暦応2年(1339)に創建された。
造営に際して尊氏や光厳上皇が荘園を寄進したが、なお造営費用には足りず、直義は夢窓と相談の上、元冦以来途絶えていた元との貿易を再開することとし、その利益を造営費用に充てることを計画した。これが「天龍寺船」の始まり。
造営費の捻出に成功した天龍寺は康永4年(1345)に落慶した。南禅寺を五山の上として天龍寺を五山の第一位に、この位置づけは以後長く続いた。
火災と兵火
かつて広大な寺域と壮麗な伽藍を誇った天龍寺は度重なる火災に見舞われた。大きなものだけで延文3年(1358)、貞治6年(1367)、応安6年(1373)、康暦2年(1380)、文安4年(1447)、応仁2年(1468)、文化12年(1815)、元治元年(1864)の8回となる。
この文安の火災と応仁の乱による被害は大きく、天正13年(1585)に豊臣秀吉の寄進を受けるまで復興できなかった。その後秀吉の朱印を受けて順調に復興するが、文化年間に被災、この再建途中の元治元年、蛤御門の変に際して長州軍の陣営となり、兵火のために再び伽藍は焼失した。
以後は歴代の住持の尽力により順次旧に復し、明治9年には臨済宗天龍寺派大本山となった。しかし上地令により嵐山53町歩を始め(このうち蔵王堂境内175坪をのぞく)亀山全山、嵯峨の平坦部4キロ四方の境内はほとんど上地することとなった。その結果現在の境内地はかつての10分の1、3万坪を残すこととなっている。
復興と再建
こうした逆境の中、天龍寺は復興を続け、明治32年には法堂、大方丈、庫裏が完成、大正13年には小方丈(書院)が再建されている。
昭和9年には多宝殿が再建、同時に茶席祥雲閣が表千家の残月亭写しとし、小間席の甘雨亭とともに建築された。翌10年(1935)には元冦600年記念として多宝殿の奥殿、廊下などが建立されほぼ現在の寺観となった。
なお塔頭の松巌寺、慈済院、弘源寺の3か寺は元治の兵火を逃れたため、室町様式あるいは徳川期のものが残る。後嵯峨、亀山両帝の御陵も元治の兵火に全焼したが、東西本願寺がいち早く再建し、方形造の廟堂は周囲の陵地とともに宮内省管轄となっている。
(河原書店「京都・世界遺産手帳」)より
2024年日本歴史の問題として出題。世界遺産「古都京都の文化遺産」の構成要素の臨済宗の寺院として、足利義満の死後、その別邸が寺院となったこととあわせ、「きぬかけの路」という観光道路沿いの三寺などの内容を問う。
足利義満について
南北朝合一
明徳の乱
金閣寺の南西にある衣笠山に縁のある宇多天皇につながる菅原道真について
きぬかけの路沿いで金閣寺と同じく「古都京都の文化遺産」の一つである龍安寺について
おなじく仁和寺について 仁和寺の金堂本尊とその文化について
臨済宗相国寺派 金閣寺HP https://www.shokoku-ji.jp/kinkakuji/about/
正式名称を鹿苑寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つ。
舎利殿「金閣」が特に有名なため一般的に金閣寺と呼ばれています。
元は鎌倉時代の公卿、西園寺公経の別荘を室町幕府三代将軍の足利義満(足利尊氏孫)が譲り受け、山荘北山殿を造ったのが始まりとされています。金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世にあらわしたと言われ、有名な一休禅師の父である後小松天皇を招いたり、中国との貿易を盛んにして文化の発展に貢献した舞台で、この時代の文化を特に北山文化といいます。義満の死後、遺言によりお寺となり、夢窓国師を開山とし、義満の法号鹿苑院殿から二字をとって鹿苑寺と名づけられました。
『鹿苑寺』(京都市情報館) https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000005633.html
権力者の王朝文化への憧れ,金閣
設立年代:14世紀末(1397)
鹿苑寺(ろくおんじ)は,鎌倉時代に造られた貴族の別荘を,足利義満が応永4年(1397)に譲り受けて粋を尽くした別邸北山殿に造り替え,さらに義満の死後応永29年(1422)に,夢窓疎石を開山とする禅寺とされたことに始まります。その後衰微しましたが,江戸時代に金閣および庭園の修理がなされました。
庭園は,衣笠山を借景に,既存の池にさまざまの名石を据え,池に向かって三層の豪華な舎利殿金閣を建て,山上に展望所を建てています。金閣は,屋根をこけら葺とし,第二・三層全面に金箔を押すという,北山文化の象徴となる華麗な建築で,義満の権威と王朝への憧れが示されています。なお,金閣は昭和25年(1950)に火災により焼失しましたが,昭和30年に復元的に再建されました。
◎義満が、騒乱の中で勢力が大きくなった守護達の勢力を削減し、室町幕府の最盛期を作り出すまで。
[土岐康行の乱] 南北朝時代の康応元年(1389年)から明徳元年(1390年)
土岐康行の乱は、室町時代の1389年から1390年にかけて、美濃国の守護大名であった土岐康行が、室町幕府の将軍足利義満に反旗を翻した内紛です。美濃の乱、または美濃土岐の乱とも呼ばれます。三野国・尾張国・伊勢国の守護を兼ねる土岐康行を討伐。
[明徳の乱] 明徳2年12月(1392年1月)
明徳の乱は、1391年(明徳2年)に室町幕府の将軍足利義満と、有力守護大名である山名氏の間で起こった内乱です。山名氏の勢力が増大したことを恐れた義満が、山名氏を挑発したことが原因で勃発しました。山名氏は、西国11か国の守護を兼ね、全国の六分の地を納めることから六分一衆とも呼ばれるほどの強大さを誇っていたが、それを討伐。
[南北朝統一] 1392年(明徳3年)
南北朝の統一は、室町幕府の3代将軍足利義満によって達成されました。南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位することで、分裂していた南北朝が統一されました。
[応永の乱] 1399年(応永6年)
応永の乱は、1399年(応永6年)に、室町幕府の有力守護大名であった大内義弘が、将軍足利義満に対して起こした反乱です。義弘は堺で挙兵し、幕府軍と戦いましたが、敗れて自害しました。この乱は、幕府の権威を高める一方で、守護大名間の対立を深める結果となりました。
[きぬかけの路]
Googleマップ
京都きぬかけの路HP→ https://kinukake.com/#google_vignette
きぬかけの路みちとは
金閣寺(きんかくじ)から龍安寺(りょうあんじ)を経て仁和寺(にんなじ)へ、「きぬかけの路」は三つの世界遺産を巡る全長およそ2.5Kmの観光道路です。金閣寺から龍安寺まで徒歩約18分。 龍安寺から仁和寺まで徒歩約11分。衣笠山麓を抜ける緑豊かなルートは歩いて散策するにも最適で、仁和寺前から嵐電(京福電鉄北野線)に乗れば嵐山の中心まで行くことができます。
『仁和寺を知る・学ぶ』真言宗御室派総本山 仁和寺HP https://ninnaji.jp/about_outline/
仁和寺について
仁和寺は仁和4年(888)に創建された寺院であり、現在は真言宗御室派の総本山です。
境内には五重塔や二王門など江戸時代に建立された建造物が並びます。
同時期に植えられた御室桜は4月中旬に見頃を迎えますが、建物と同様、
当時と同じ姿を現在に伝えています。平成6年には世界遺産に登録されました。
仁和寺概略
*仁和寺の始まり
仁和寺の歴史は仁和2年(886年)第58代光孝天皇によって「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願されたことに始まります。
しかし翌年、光孝天皇は志半ばにして崩御されたため、第59代宇多天皇が先帝の遺志を継がれ、仁和4年(888年)に完成。寺号も元号から仁和寺となりました。
*隆盛と衰退
宇多天皇は寛平9年(897年)に譲位、後に出家し仁和寺第1世 宇多(寛平)法皇となります。以降、皇室出身者が仁和寺の代々住職(門跡)を務め、平安〜鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保ちました。
しかし応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱で、仁和寺は一山のほとんどを兵火で焼失するという悲運に見舞われました。そのような中、本尊の阿弥陀三尊をはじめ什物、聖教などは仁和寺の院家であった真光院に移され、法燈とともに伝えられていきました。
*江戸時代の復興
応仁の乱から約160年後の寛永11年(1634年)、ようやく再興の機会が訪れます。『仁和寺御伝』によれば、同年7月24日、仁和寺第21世 覚深法親王は、上洛していた徳川幕府3代将軍家光に仁和寺再興を申し入れ、承諾されるのです。
さらには慶長時代の御所建て替えとも重なり、御所から紫宸殿(現 金堂)、清涼殿(御影堂)など多くの建造物が下賜され、正保3年(1646年)に伽藍の再建が完了。ようやく創建時の姿に戻ることが出来たのです。
*近世の仁和寺
慶応3年(1867年)、第30世 純仁法親王が還俗したことにより皇室出身者が住職となる宮門跡の歴史を終えます。また、明治20年(1887年)には御殿の焼失がありましたが、大正時代になると再建。
昭和時代に入ると、仁和寺は真言宗御室派の総本山となり、近年では平成6年(1994年)に古都京都の文化財としてユネスコの「世界遺産」に登録され新たな歴史を刻んでいます。
仁和寺の歴史 https://ninnaji.jp/about_history/
仁和寺の文化財 https://ninnaji.jp/about_culturalassets/
仁和寺には、仁和4年の創建以来、本尊の阿弥陀三尊像をはじめ仏画、工芸品など多くの宝物を所蔵しております。 所蔵品は平安時代から現代まで幅広く所蔵されており、一部は霊宝館において公開されています。
所蔵文化財一覧 https://ninnaji.jp/about_culturalassets/list/
金堂・阿弥陀三尊像・薬師如来坐像・孔雀明王像・三十帖冊子・高倉天皇宸翰消息・附 守覚法親王消息・医心方・黄帝内経太素・新修本草・後嵯峨天皇宸翰消息・御室相承記・黄帝内経明堂 巻第一・第二巻・宝相華蒔絵宝珠箱・宝相華迦陵頻伽蒔絵は国宝
拝観・交通案内 https://ninnaji.jp/visit/
御室桜について https://ninnaji.jp/cherry_tree/
*名勝 御室桜
毎年春、仁和寺は満開の桜で飾られます。金堂前の染井吉野、鐘楼前のしだれ桜などが競って咲き誇ります。その中でも中門内の西側一帯に「御室桜」と呼ばれる遅咲きで有名な桜の林があります。古くは江戸時代の頃から庶民の桜として親しまれ、数多くの和歌に詠われております。 また、花見の盛んな様子は江戸時代の儒学者・貝原益軒が書いた『京城勝覧』(けいじょうしょうらん)という京都の名所を巡覧できる案内書にも次の様に紹介されています。
「春はこの境内の奥に八重桜多し、洛中洛外にて第一とす、吉野の山桜に対すべし、…花見る人多くして日々群衆せり…」と記され、吉野の桜に比べて優るとも劣らないと絶賛されております。
そして近代大正13年に国の名勝に指定されました。
*御室桜の特徴
御室桜は遅咲きで、背丈の低い桜です。近年までは桜の下に硬い岩盤があるため、根を地中深くのばせないので背丈が低くなったと言われていましたが、現在の調査で岩盤ではなく粘土質の土壌であることが解りました。
ただ、粘土質であっても土中に酸素や栄養分が少なく、桜が根をのばせない要因の一つにはなっているようです。
あながち今までの通説が間違いと言う訳ではなさそうです。
詳しくは現在も調査中です。
新しい発見がありましたら、おってお知らせしたいと思います。
*与謝蕪村
ねぶたさの 春は御室の 花よりぞ
『銀閣寺について』相国寺HP
*銀閣寺とは
義政の精神を受け継ぐ 、東山慈照寺
正式名称を東山慈照寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つ。
銀閣寺の名の由来は江戸時代、金閣寺に対し、銀閣寺と称せられることとなったといわれています。
室町幕府八代将軍の足利義政によって造営された山荘東山殿を起原とし、義政の没後、臨済宗の寺院となり義政の法号慈照院にちなんで慈照寺と名付けられました。
九歳にして家督を、十五歳にして将軍職を継いだ義政は、生涯をかけ自らの美意識のすべてを投影し、東山文化の真髄たる簡素枯淡の美を映す一大山荘を作り上げました。銀閣寺は美の求道者ともいえる義政の精神のドラマを五百年後の現代にも脈々と伝えています。
*銀閣寺のあゆみ
位置
銀閣寺は金閣寺とともに相国寺の山外塔頭のひとつで、正式には慈照寺といい、山号を東山(トウザン)といいます。京都の東に連なる山々は東山(ヒガシヤマ)と呼ばれ、如意が岳(大文字山)を中心になだらかに続いています。この山なみは古来女性のやさしさにたとえられ、数々の歌にもうたわれ、人々に親しまれてきました。なかでも大文字山と呼ばれる如意ヶ岳は、お盆の八月十六日の夜に点火される送り火で知られています。銀閣寺はこの大文字山の麓にあります。門前には哲学者西田幾多郎が思索の場として散策した哲学の道があり、桜や蛍の名所として人々の散策路になっています。
このあたりは古くから歴史の中に現れたところで、白川の清流が流れており、流域には早くから人が住みつき、縄文遺跡や、奈良朝の北白川廃寺跡も発見されています。またこの一帯には、東に法然院、霊鑑寺、南に黒谷金戒光明寺、真如堂など古くから寺院が営まれてきました。平安時代には、北山と同じく、天皇の御陵、火葬場があり、菩提を供養する寺院が多くありました。平安時代の中期に浄土寺が創建され、この浄土寺跡に東山殿が造営され後に慈照寺となるのです。
東山殿以前
浄土寺は天台の寺院で平安時代円珍が住して浄土寺といい、寛仁の頃に天台座主第二十五世明求(醍醐天皇の孫)が堂宇を再興して住し、浄土寺座主と称したといわれます。
平安時代の終わりごろから寺院の門閥支配が確立して、延暦寺も天台座主は特定の末寺によって独占的に就任するようになります。この特定の分院を門跡(一門の法跡)と呼んでいます。
延暦寺の門跡寺院、金剛寿院の主、天台座主第七十三世円基が承久年中(1219-1222)当時へ住することになり、浄土寺は金剛寿院の配下となります。門主は浄土寺に常住するようになり、浄土寺門跡の住房が営まれました。
時代は下って足利時代に至り、第六代将軍義教の第三子義躬が浄土寺において出家し、義尋と号して門主となります。しかし後に兄義政に呼び戻され、義視と称して将軍の後継者となりました。やがてこれがもとで応仁の乱が起こり、浄土寺は跡形もなく焼失してしまうのです。その跡地に兄義政によって東山山荘が営まれることになるのです。
将軍義政1
義政は永享八年(1436)足利六代将軍義教を父に、贈左大臣日野重光の女重子を母として生まれました。後見として母重子の従弟、烏丸資任(スケトウ)があたり、養育係に幕府の奉行衆大館氏一族の才女といわれた、御今(オイマ)が選ばれました。
父義教は生来の激しい性格から、彼の権威にそむくものは次々と処罰したので、世間では「万人畏怖の人」と恐れられ「悪将軍」と呼ばれました。
義教は皇室を崇敬し、綱紀を粛正して強臣を制圧し、反抗的であった管領持氏を滅ぼし、幕府の権威を伸ばしたのですが、余りに峻厳に過ぎたため多くの反感を招き、ついに嘉吉元年(1441)赤松満祐に殺されます。これは嘉吉の乱といい、当時の風潮であった下克上の現われでもあったのです。
将軍義政2
嗣子義勝が八歳で将軍職を嗣いだのですが、嘉吉三年十才で夭逝したため、次に選ばれたのが後の義政でした。この時八歳であった義政を補佐したのは管領畠山持国でした。しかしかつての義満を支えた力量のある人たちと比べると、人格、力量ともに劣っていました。やがて管領になった細川勝元もこの時十六歳であり、山積みする難問題を解決するには余りにも若すぎました。
また義満のように義政にも五山僧たちとの交流があったのですが、厳しい禅の修業のためというよりは、芸術、文学、といった文化的交流でした。
この頃義政を取り巻く近臣たちはそれぞれ私的な利害関係にはしり、私腹を肥やすものがふえ、母重子や、養父伊勢貞親も政治に干渉して権勢を振るうようになり、混乱に陥っていきます。
荘園領主たちは課税のしわよせを農民たちに押しつけたため、農民の生活は逼迫を極め、やがて土一揆が頻発するようになります。義政の打ち出したさまざまな政策も効果はあがりませんでした。
当時、幕府の財政破綻の建て直しと、社会的混乱を正すことは至難のことであったのです。
このような情勢の中で義政は政治から身を引くことを考えました。義政は康正元年(1455)日野家から十六歳の富子を正室に迎えましたが、富子には男子がなかったので、寛政五年(1464)浄土寺に住して浄土寺殿と呼ばれていた弟の義尋を呼び戻して還俗させ、義視と名乗らせ将軍の後継者としました。
ところが翌年、富子は男子を産むことになります。義熙、後の義尚です。富子はこの義尚を将軍につかせるべく、山名持豊に頼り、義視を支持する細川勝元と積年の私憤も絡んで武力衝突することになります。これが花の都、京都を焦土と化した応仁の乱の始まりでした。この戦いによって相国寺をはじめ多くの寺院が焼失し、義視が住した浄土寺も焼け落ちてしまったのです。
銀閣寺と義政
応仁の乱(1467-1477)の後、義政はかつて弟義視が住し、戦乱で焼けたままになっていた浄土寺跡地を山荘造営地として選考し、文明十四年(1482)に東山山荘造営に着手しました。翌年に常御所(ツネノゴショ)が完成すると、政務を嗣子義尚に譲り、義政はこの地に移りました。そして文明十七年(1485)禅室として西指庵が完成すると落髪して喜山道慶と称して出家したのです。翌、文明十八年(1486)には自身の持仏堂として東求堂ができています。長享元年(1487)には東山殿会所、泉殿(弄清亭)が完成し、長享三年(1489)三月には銀閣(正式名称は観音殿)の立柱上棟が行われました。その年の十月に義政は病に倒れ翌年一月七日銀閣の完成を見ることなくこの世を去ったのです。
義政が想いのままに仕上げていった東山山荘の造営には、常に相談相手となり、協力をした相国寺の禅僧たちがいました。瑞渓周鳳、雲草一慶、心田清播、竺雲等連など、いずれも名だたる五山文学僧たちで、晩年には亀泉集証、横川景三などがいました。
東山殿は特に横川景三を相談相手に義政が好んだ西芳寺(苔寺)を手本に造られたといわれます。しかし観音殿は祖父義満の残した舎利殿(金閣)にならって建てたもので、義政は文明十九年祖父の造った舎利殿を見直すため、不意に鹿苑寺を訪れているのです。
また東山殿の庭園は義政の築造庭園の中でも現在残っている唯一の遺構です。このように優れた趣味に生きた義政の側近には、相国寺の禅僧とともに、実際の工事にたずさわった優秀な作庭家たちがいました。義政がもっとも信頼をして工事を任せたものに河原者の善阿弥がいました。善阿弥は義政の命により蔭涼軒の庭、妙蓮寺の庭園、室町上御所などを担当したことが知られています。
東山文化
足利将軍は初代尊氏以来、代々美術品の蒐集に熱心で、特に義満は対明貿易を積極的に促進し、多くの名品を請来しました。
また日本にもたらされた多くの名画や名器、墨蹟などは、平安から室町にかけて中国へ渡った禅僧たちによって持ち帰られたもので、全国の大禅刹に収蔵されていましたが、これらの多くは歴代の将軍によって献上させられ、将軍家のものとなりました。
これらの名宝が集められて東山殿の宝庫に収蔵され、義政は同朋衆の一人能阿弥とその子芸阿弥に命じてこの東山御物の選定を試みました。義政はこうした東山御物の制定と同時に、東山時代に書院造りの建物が成立するに伴い、書院飾りの法式も能阿弥に命じて作らせ、相阿弥にいたって完成されています。
大文字と銀閣寺
長享三年近江の陣中で二十四歳の義尚はこの世を去ります。義政は悲しみ、その年の新盆を迎えるにあたり、義尚の菩提を弔うため、横川景三の進言によって如意ヶ岳の山面に白布をもって「大」の字を形どるよう近臣芳賀掃部頭に命じます。横川景三は東求堂から山面を望み、字形を定めて火床を掘らせ、お盆の十六日に松割木に一斉に点火して義尚の精霊を送ったのです。これが現在毎年八月十六日、京の夜空を焦がして燃える「大文字の送り火」のはじまりです。
開 創
義政の死後(1490)、遺命により東山山荘を禅寺に改めて夢窓国師を勧請開山とし、寺号を義政の院号慈照院殿に因み当初慈照院と称しましたが、翌年慈照寺と改名されました。
当寺第一世は宝処周財、第二世維山周嘉は義視の第二子将軍義稙の弟で当時まだ十五歳でした。その後歴代の住職は戦国時代を乗り越え、観音殿、東求堂などをまもりぬいたのです。
荒廃と復興
室町幕府の末期、天文十九年(1550)三好長慶と十五代将軍義昭との戦いが慈照寺の周辺で展開され、堂宇は銀閣と東求堂とを残し悉く焼失しました。また織田信長が義昭のため二条城を築いた際、慈照寺庭園の名石九山八海石を引き抜くなど、室町幕府の衰退と共に慈照寺も荒廃していったのです。江戸時代の初期慶長二十年(1615)宮城丹波守豊盛による大改修がなされ、今の銀閣寺の現況はこの慶長の改修によるところが大きいのです。銀閣寺は将軍の山荘として造営されたのですが、改修に当たって、庭園や建築は、禅寺として、禅宗風の趣を取り入れ修復がなされたと思われます。
臨済宗相国寺派
相国寺は臨済宗相国寺派の禅寺です。初祖達磨大師が中国に伝えた、いわゆる禅宗を起源とする一派で、日本に伝わったものは臨済宗をはじめ曹洞宗、黄檗宗などがあります。
臨済宗は、正法とされるお釈迦さまの正しい教えを受け継ぎ、宗祖臨済禅師をはじめ、禅を日本に伝来された祖師方、そして日本臨済禅中興の祖・白隠禅師から今日にいたるまで、師から弟子へ連綿と伝法された一流の正法を教えとしています。そして本来備わる純粋な人間性を、坐禅を通して自覚し悟ることを宗旨とする宗派です。
宗祖である臨済禅師の言葉に「赤肉団上に一無位の真人あり。常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は、看よ看よ」というのがあります。我々に本来備わる、この一無位の真人を自覚することがまさに臨済宗の宗旨なのです。
相国寺の塔頭
金閣寺、銀閣寺がともに相国寺の塔頭寺院であることは、あまり一般に知られていないのではないでしょうか。
相国寺は室町幕府三代将軍 足利義満により創建され、金閣寺もほぼ時を同じくして義満により創建されました。銀閣寺はその後年、同じく室町幕府八代将軍である足利義政により創建されています。足利歴代将軍が創建した禅宗寺院として、本山である相国寺の塔頭寺院となり今に至っています。
そして現在においては、相国寺の山外塔頭として相国寺僧侶が任期制をもって相国寺とともに金閣寺、銀閣寺の運営と後世への継承にあたっています。
『本願寺の歴史』お西さん(西本願寺)HP https://www.hongwanji.kyoto/know/history.html
浄土真宗は、鎌倉時代の中頃に親鸞聖人によって開かれましたが、その後、室町時代に蓮如上人(れんにょしょうにん)によって民衆の間に広く深く浸透して発展し、現在では、わが国における仏教諸宗の中でも代表的な教団の一つとなっています。
もともと、本願寺は、親鸞聖人の廟堂(びょうどう)から発展しました。親鸞聖人が弘長2年11月28日(新暦1263年1月16日)に90歳で往生されると、京都東山の鳥辺野(とりべの)の北、大谷に石塔を建て、遺骨をおさめました。しかし、聖人の墓所はきわめて簡素なものでありましたため、晩年の聖人の身辺の世話をされた末娘の覚信尼(かくしんに)さまや、聖人の遺徳を慕う東国の門弟達は寂莫の感を深めました。そこで、10年後の文永9年(1272)に、大谷の西、吉水の北にある地に関東の門弟の協力をえて六角の廟堂を建て、ここに親鸞聖人の影像を安置し遺骨を移しました。これが大谷廟堂(おおたにびょうどう)です。
この大谷廟堂は、覚信尼さまが敷地を寄進したものでしたので、覚信尼さまが廟堂の守護をする留守職(るすしき)につき、以後覚信尼さまの子孫が門弟の了承を得て就任することになりました。
大谷廟堂の留守職は、覚信尼さまの後に覚恵(かくえ)上人、その次に孫の覚如(かくにょ)上人が第3代に就任しました。覚如上人は三代伝持の血脈を明らかにして本願寺を中心に門弟の集結を図りました。三代伝持の血脈とは、浄土真宗の教えは、法然聖人から親鸞聖人へ、そして親鸞聖人の孫の如信(にょしん)上人へと伝えられたのであって、覚如上人はその如信上人から教えを相伝したのであるから、法門の上からも留守職の上からも、親鸞聖人を正しく継承するのは覚如上人であることを明らかにしたものであります。
本願寺の名前は、元亨元年(1321)ころに公称し、覚如上人の晩年から次の善如(ぜんにょ)上人にかけて親鸞聖人の影像の横に阿弥陀仏像を堂内に安置しました。これを御影堂と阿弥陀堂の両堂に別置するのは、第7代の存如(ぞんにょ)上人のときです。5間四面の御影堂を北に、3間四面の阿弥陀堂を南に並置して建てられました。
室町時代、第8代蓮如(れんにょ)上人は、長禄元年(1457)43歳の時、法灯を父の存如上人から継承すると、親鸞聖人の御同朋(おんどうぼう)・御同行(おんどうぎょう)の精神にのっとり平座で仏法を談合され、聖人の教えをだれにでも分かるようにやさしく説かれました。また本尊を統一したり、「御文章」を著して積極的な伝道を展開されたので、教えは急速に近江をはじめとする近畿地方や東海、北陸にひろまり、本願寺の興隆をみることになりました。しかし蓮如上人の教化は比叡山を刺激し、寛正6年(1465)上人51歳の時、大谷本願寺は比叡山衆徒によって破却されました。難を避けられて近江を転々とされた上人は、親鸞聖人像を大津の近松坊舎に安置して、文明3年(1471)に越前(福井県)吉崎に赴かれました。吉崎では盛んに「御文章」や墨書の名号を授与、文明5年には「正信偈・和讃」を開版し、朝夕のお勤めに制定されました。
上人の説かれる平等の教えは、古い支配体制からの解放を求める声となり、門徒たちはついに武装して一揆を起こすに至りました。文明7年、上人は争いを鎮めようと吉崎を退去され、河内(大阪府)出口を中心に近畿を教化。文明10年(1478)には京都山科に赴き本願寺の造営に着手、12年に念願の御影堂の再建を果たされ、ついで阿弥陀堂などの諸堂を整えられました。上人の教化によって、本願寺の教線は北海道から九州に至る全国に広まり多くの人に慕われましたが、明応8年(1499)85歳で山科本願寺にて往生されました。
この後、山科本願寺は次第に発展しましたが、天文元年(1532)六角定頼や日蓮衆徒によって焼き払われました。そこで蓮如上人が創建された大坂石山御坊に寺基を移し、両堂など寺内町を整備して発展の一途をたどりました。
しかし、天下統一を目指す織田信長が現れ、大きな社会勢力となっていた本願寺の勢力がその障害となったので、ついに元亀元年(1570)両者の間に戦端が開かれました。本願寺は、雑賀衆(さいかしゅう)をはじめとする門徒衆とともに以来11年にわたる、いわゆる石山戦争を戦い抜きましたが、各地の一揆勢も破れたため、仏法存続を旨として天正8年(1580)信長と和議を結びました。第11代顕如(けんにょ)上人は、大坂石山本願寺を退去して紀伊(和歌山)鷺森に移られ、さらに和泉(大阪府)貝塚の願泉寺を経て、豊臣秀吉の寺地寄進を受けて大坂天満へと移られました。
天正19年(1591)秀吉の京都市街経営計画にもとづいて本願寺は再び京都に帰ることとなり、顕如上人は六条堀川の現在地を選び、ここに寺基を移すことに決められました。阿弥陀堂・御影堂の両堂が完成した文禄元年(1592)、上人は積年の疲労で倒れられ、50歳で往生されました。長男・教如(きょうにょ)上人が跡を継がれましたが、三男の准如(じゅんにょ)上人にあてた譲状があったので、教如上人は隠退して裏方と呼ばれました。これには大坂本願寺の退去に際して、講和を受けいれた顕如上人の退去派と信長との徹底抗戦をとなえた教如上人の籠城派との対立が背景にありました。その後、教如上人は徳川家康に接近し、慶長7年(1602)家康から烏丸七条に寺地を寄進され、翌年ここに御堂を建立しました。これが大谷派本願寺の起源で、この時から本願寺が西と東に分立したのであります。
これより先、本願寺は慶長元年(1596)の大地震で御影堂をはじめ諸堂が倒壊し、阿弥陀堂は被害を免れました。翌年に御影堂の落成をみたものの、元和3年(1617)には失火により両堂や対面所などが焼失しました。翌年阿弥陀堂を再建し、18年後の寛永13年(1636)に御影堂が再建されました。このころ対面所などの書院や飛雲閣、唐門が整備されました。ところが元和4年に建立された阿弥陀堂は仮御堂であったので、宝暦10年(1760)本格的な阿弥陀堂が再建され、ここに現在の本願寺の偉容が整備されたのであります。
『二条城の紹介 二条城の歴史・見どころ』世界遺産 元離宮二条城 https://nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp/introduction/highlights/
二条城の歴史・見どころ ~ 概要
二条城は1603年(慶長8年)、江戸幕府初代将軍徳川家康が、天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所とするため築城したものです。将軍不在時の二条城は、江戸から派遣された武士、二条在番によって守られていました。
城内は、後水尾天皇の行幸のため、3代将軍家光の時、大御所の秀忠によって大規模な改修が行われました。二の丸御殿には、狩野探幽の障壁画などが数多く加えられました。壮麗な城に、天皇を迎えることで、江戸幕府の支配が安定したものであることを世に知らしめたものです。1867年(慶応3年)には15代将軍慶喜が二の丸御殿で「大政奉還」の意思を表明したことは日本史上あまりにも有名です。
二の丸御殿、二の丸庭園、唐門など、約400年の時を経た今も絢爛たる桃山文化の遺構を見ることができます。1994年(平成6年)、ユネスコ世界遺産に登録された元離宮二条城は、徳川家の栄枯盛衰と日本の長い歴史を見つめてきた貴重な歴史遺産と言えます。
城内の文化財(全域が世界文化遺産及び史跡)
◆二の丸御殿(6棟)…国宝(建造物)
◆東大手門等(22棟)…重要文化財(建造物)
◆二の丸御殿障壁画(1016面)…重要文化財(美術工芸品)
◆二の丸庭園…特別名勝(庭園)
施設の規模
【総面積】275,000m2
外周 約2km
東西 約600m
南北 約400m
後水尾天皇の行幸
天皇の外出のことを「行幸」と言います。二条城においては、1626年(寛永3年)9月、上洛中の徳川秀忠、家光の招きに応じ、後水尾天皇が行幸しました。2代将軍秀忠の娘であり、天皇の中宮となった和子らと 5日間滞在し、能や和歌などの会が賑々しく催されました。行幸を迎えるにあたって、2年前から城を現在の広さまで拡張し、天守閣や行幸御殿、本丸御殿なども造営されました。また、狩野派の見事な障壁画も行幸に際して新たに描かれたと言われています。その後、行幸御殿等は移築され、天守閣、本丸御殿等は焼失しましたが、二の丸御殿は今も往時の風情を伝えています。
大政奉還
1867年(慶応3年)10月14日、江戸幕府15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上することを申し出て、翌15日に朝廷が許可し、江戸幕府の幕は降ろされました。これを日本史上、大政奉還と呼んでいます。
徳川家康が朝廷から征夷大将軍を宣下されて以来、政治の大権を天皇から徳川家が預かる形で、日本の統治者として君臨してきましたが、幕末、薩摩藩と長州藩が同盟を結んで討幕運動を始め、土佐藩からは慶喜に大政奉還の意見書が提出されました。10月13日、二条城二の丸御殿大広間に、在京していた40藩の重臣を集めて意見を聞き、翌々日、大政奉還が成立したことで、一旦は討幕の動きは弱まりましたが、やがて江戸無血開城へと至りました。 大政奉還
大正天皇即位の大典
大正4年(1915年)、京都御所の紫宸殿で、大正天皇の即位の儀式が行われ、その後の饗宴が二条城で開かれました。この一連の行事のことを「大正大礼」と言います。饗宴には皇室関係者、各国の要人や総理大臣が招かれ、当時、天皇の別荘として利用されていた二条城で、新たな天皇の即位を華やかにお祝いしました。饗宴のために様々な建物が新築されましたが、直後に移築または撤去され、現在は南門だけが残っています。
『平等院を知る』世界遺産 平等院HP https://www.byodoin.or.jp/learn/
古今平等院(年表) https://www.byodoin.or.jp/learn/history/
永承7年(1052)、関白藤原頼通が、父道長から譲り受けた別業を仏寺に改め、平等院を開創しました。
この年は末法初年に当たるとされ、末法思想が貴族や僧侶らの心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行していました。その翌年の天喜元年(1053)には阿弥陀堂(鳳凰堂)が落慶し、堂内には平安時代斎行の仏師 定朝によって制作された丈六の阿弥陀如来坐像が安置し、華やかさを極めたと言います。
約1000年前に建立された建造物や仏像が今に伝えられ、世界遺産にも登録されております。
参考『平等院』宇治市観光施設 公益社団法人 宇治市観光協会 https://www.kyoto-uji-kankou.or.jp/tourism.html
平等院は1052年(永承7)に関白藤原頼通が、父道長より譲り受けた別荘を寺院としたものです。鳳凰堂(阿弥陀堂)と庭園は阿弥陀如来の西方極楽浄土を表わすと言われ、1994年(平成6)世界文化遺産に登録されました。堂内には仏師定朝による阿弥陀如来坐像が安置され、壁や扉には来迎の様子が描かれています。長押の上には阿弥陀如来に従う極彩色の菩薩が音楽を奏で、舞い踊り(雲中供養菩薩像)浄土そのものでした。 境内に設けられた平等院ミュージアム鳳翔館には、鳳凰堂の内部を再現した九品来迎図や国宝の鳳凰や梵鐘、雲中供養菩薩像26体などが収められています。鳳凰堂は十円玉や郵便切手などに使われ、人々の日常生活に溶け込んでいます。
参考動画:「【TVCM】2024年秋「宇治篇」そうだ 京都、行こう。」そうだ 京都、行こう。公式Ch. https://youtu.be/jYy-Ki8O1DU?si=BJ4G3Y5Mrv8uTDya
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参考『宇治上神社』宇治市観光施設 公益社団法人 宇治市観光協会 https://www.kyoto-uji-kankou.or.jp/tourism.html
宇治上神社は、菟道稚郎子、応神及び仁徳両帝(5C頃)を祀っています。
日本書紀によると菟道稚郎子は、応仁天皇の皇子で、兄である仁徳天皇との皇位継承を巡る葛藤から宇治で自殺をしたと記される悲劇の皇子です。
本殿(国宝)は平安時代後期に建てられ、現存する日本最古の神社建築として貴重な存在です。
世界文化遺産 宇治上神社公式ホームページ https://ujikamijinja.amebaownd.com/
宇治上神社公式ホームページ https://www.ujikamijinja.jp/
御祭神
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)
応神天皇(おうじんてんのう)
仁徳天皇(にんとくてんのう)
応神天皇の末の皇子であった菟道稚郎子は幼い頃から博識聡明だった。そのため父君の応神天皇が大切に手をかけて育まれ、皇太子となった。
しかし、応神天皇が亡くなられ、菟道稚郎子は兄である大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)に天皇の位を譲られた。そして、現在の宇治の地に離宮を建て、一線から退かれた。しかし、大鷦鷯尊も「菟道稚郎子が、皇位を継ぐことは、応神天皇が定められたことなので、変えることはできない」と言い、3年間もの間、皇位を譲り合った。
国民は戸惑い、世の中も乱れ始め、菟道稚郎子は自身の行いで、このあり様をご覧になり、悲しまれ、心を痛まれて、「このまま私が生きていれば、世の中が乱れるばかりだ」と、自ら命を絶った。
これを知った大鷦鷯尊は、難波から急遽、宇治へお越しになり、驚きと悲しみの中、菟道稚郎子を手厚く葬られた。
これが、後々になって当社の創建のいわれとなる。
参考:『宇治上神社』京都市情報館(京都市) https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000005624.html
I.宇治上神社
現存する日本最古の神社建築
設立年代:古代,11世紀後期
宇治上神社(うじがみじんじゃ)は,平安時代に平等院が建立されるとその鎮守社となり,その後,近在住民の崇敬を集めて,社殿が維持されてきました。
本殿は,正面一間の流造の内殿3棟を並立させ,それを流造の覆屋根で覆った特殊な形式となっています。建立年代については,蟇股(かえるまた)の意匠及び組物などの細部の特徴から平安時代の後期に造営されたものとみられ,現存する神社本殿としては最古の建築です。
また,拝殿は鎌倉時代の初めに建てられたもので,現存する最古の拝殿です。意匠的には切妻造の母屋の左右に庇(ひさし)をつけた形であり,屋根はその部分が縋破風(すがるはふ)となっていることなど住宅風となっている点に特色がみられます。
神のための本殿に対し,人の使う拝殿には住宅建築の様式が採用されることが多く,ここでは,住宅風の軽快な手法が鎌倉時代の再建にも受け継がれたと考えられます。
HPを見ても、なぜ宇治上神社が世界文化遺産に含まれるのか(ちなみに隣の宇治神社は含まれていない)がわからなかったので、以下の記事を読ませていただいたところ、
本殿と中に含まれる3つ建物が現存する最古の神社の本殿建築である
拝殿が寝殿造という平安時代の住宅様式が取り入れられた建物である
という2点からのようだ。
『世界遺産の価値からみた宇治上神社』 山村純也(Yahoo!ニュース エキスパート)
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/17dfc0614f3dd10ad2fcc602b02aa5e763662608
『延暦寺について』天台宗総本山 比叡山延暦寺HP https://www.hieizan.or.jp/about
日本仏教の母山
百人一首で有名な慈円は、比叡山について「世の中に山てふ山は多かれど、山とは比叡の御山(みやま)をぞいふ」と比叡山を日本一の山と崇め詠みました。
それは比叡山延暦寺が、世界の平和や平安を祈る寺院として、さらには国宝的人材育成の学問と修行の道場として、日本仏教各宗各派の祖師高僧を輩出し、日本仏教の母山と仰がれているからであります。
また比叡山は、京都と滋賀の県境にあり、東には「天台薬師の池」と詠われた日本一の琵琶湖を眼下に望み、西には古都京都の町並を一望できる景勝の地でもあります。
このような美しい自然環境の中で、一千二百年の歴史と伝統が世界に高い評価をうけ、平成6年(1994)にはユネスコ世界文化遺産に登録されました。
比叡山へは、ケーブルやドライブウェイも完備し、諸堂拝観はもとより、自然散策や史蹟探訪にと気軽に親しんでいただくことができます。
日本の天台宗は、今から1200年前の延暦25年(806)、
伝教大師最澄によって開かれた宗派です。
最澄は神護景雲元年(767、異説あり)、近江国滋賀郡、琵琶湖西岸の三津(今日の滋賀県坂本)で、三津首百枝(みつのおびとももえ)の長男として誕生。幼名を広野(ひろの)と呼ばれました。
早くからその才能を開花させ、12歳で近江の国分寺行表(ぎょうひょう)の弟子となり、宝亀11年(780)に得度、延暦4年(785)に奈良の東大寺戒壇院で具足戒(250戒)を受け、国に認められた正式な僧侶となられたのです。
受戒後3ヵ月ほどで奈良を離れ、比叡山に分け入り修行の生活に入られました。そして若き僧最澄は願文を作り、一乗の教えを体解(たいげ)するまで山を下りないと、み仏に誓いました。その後、延暦7年(788)に一乗止観院(後の根本中堂)を創建、本尊として薬師如来を刻まれまし 願文の中で、
「私たちの住むこの迷いの世界は、ただ苦しみばかりで少しも心安らかなことなどない。(中略)人間として生れることは難しく、また生れたとしてもその身体ははかなく移ろいやすい。」
と、世の中の無常と人間のはかなさを自覚されました。
そして、「因なくして果を得、この処(ことわ)りあることなく、善なくして苦を免がる、この処(ことわ)りあることなし。」と因果の厳しさを述べ、だからこそ生きているときに善いことをする努力を惜しんではならないと考え、『願文』の中で五つの心願をたてられたのです。
天台大師智顗の教えを極めたいと願い、桓武天皇の援助を受けて還学生(げんがくしょう)として唐に渡りました。中国天台山に赴き、修禅寺の道邃(どうずい)・仏隴寺の行満に天台教学を学び、典籍の書写をします。その後禅林寺の翛然(しゅくねん)より禅の教えを受けられ、帰国前には越州龍興寺で順暁阿闍梨から密教の伝法を受けられます。こうして、円密一致といわれる日本天台宗の基礎をつくられたのです。
延暦24年(805)に帰朝してすぐに、高雄山寺で奈良の学僧達に日本で初めて密教の潅頂を授けるなどして、入唐求法の成果を明らかにされました。
当時、「仏に成れるもの、仏に成れないものを区別する」という説もありましたが、最澄は、「すべての人が仏に成れる」と説く『法華経』に基づいて、日本全土を大乗仏教の国にしていかねばならないとの願いが募り、『法華経』の一乗の精神による人材の養成を目指しました。
こうした最澄の努力と熱意が通じ、延暦25年(806)1月26日、年分度者(国家公認の僧侶)2名認可の官符が発せられました。このことから、1月26日を天台宗開宗の日としています。
2名の年分度者とは、天台教学を学ぶ者(止観業)1名と、密教を学ぶ者(遮那業)1名でした。
その後最澄は、真俗一貫の大乗菩薩戒こそが真に国を護り人々を幸せにすると考え、弘仁9年(818)から翌年にかけて山家学生式(さんげがくしょうしき)と呼ばれる一連の上表を行います。さらに弘仁11年(820)、『顕戒論』を著わして比叡山に大乗戒独立の允許を求めたのでした。
そして弘仁13年(822)6月4日に最澄は遷化され、その7日後、比叡山独自に大乗菩薩戒を授けることの勅許が下されたのです。
最澄亡き後、一乗止観院は「延暦寺」の寺額を勅賜され、比叡山延暦寺と呼ばれるようになりました。翌年、弟子の義真が伝法師(後世の天台座主のこと)として後を継ぎます。
第3世座主円仁によって、延暦寺では横川(よかわ)が開かれ、東塔地区も整備されていきます。また、9年間に亘る入唐求法の成果をもとに、天台教学の中に浄土教を取り入れ、密教を拡充していくなど、その功績は多大なものでした。
円仁の没後ほどなく、貞観8年(866)、最澄には「伝教大師」、円仁には「慈覚大師」という諡号(しごう)を清和天皇より賜りました。これは日本における初めての大師号であり、最澄・円仁による天台宗の確立が、いかに日本仏教の発展に寄与したかを示すものであります。
また、第5世座主の円珍(智証大師)や五大院安然らによって密教も体系的に整備され、後に東密(真言宗の密教)に対して台密(天台宗の密教)と称されるようになりました。
その後も多くの人材が比叡山で研鑽に励み、学問も修行も充実していきます。平安時代中期には、第18世座主の良源(慈恵大師)によって諸堂の再建と整備がなされ、論義が盛んに行われて教学の振興がはかられました。さらに弟子の源信(恵心僧都)によって『往生要集』が著わされ、これが後の日本の浄土教発展の基礎となりました。
また、『法華経』や浄土教信仰などは知識人の間に浸透し、『源氏物語』や『平家物語』に代表される古典文学の底流をなしています。円仁が中国からもたらし大成した声明は、日本伝統音楽の源流となり、また能・茶道にも天台の仏教思想が深く入り込んでいるといわれています。
平安末期から鎌倉時代はじめにかけては、法然・栄西・親鸞・道元・日蓮といった各宗派の開祖たちが比叡山で学びました。こうして後に比叡山は日本仏教の母山と呼ばれるようになったのです。
比叡山延暦寺は1200年余りの歴史の中、武家をはじめとする権門との衝突により、幾多の法難に遭遇しましたが、そのつど伝教大師の法灯を受け継ぐ人々と、多くの人々の信仰に支えられ、旧観に倍し今日その法灯を伝えています。