奈良通検定2級
工事中
2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表
工事中
奈良まほろば検定に挑戦します。
奈良まほろばソムリエ検定は、「奈良まほろばソムリエ」「奈良通1級」「奈良通2級」の3グレード実施されています。
参照「奈良検定について」奈良まほろばソムリエ検定HP https://www.nara-cci.or.jp/narakentei/about/#about01
参照 奈良通2級 過去問+α(X(旧Twitter)) https://x.com/Naratsu2Q
『ロープウェイのご案内』吉野大峯ケーブル自動車株式会社HP http://www.yokb315.co.jp/ropeway.php
ロープウェイのご案内
桜のシーズンを除き、朝の9時から夕方まで。上り・下り共に毎時間4本を運行しております。 日本最古のレトロな車内から見える吉野山の景色は、四季を問わず絶景です。
昭和初期
「人を運ぶロープウェイ吉野山に作りたい」この思いを有言実行したのが内田政男氏である。
当初、世間の目は冷たく「空中を走るとはとんでもない」と非難の声があがり、協力してくれるひともいなかった。
しかし独力で資金かき集めた。
そして地元の有志達と共にケーブル建設にのりだした。
資金集めをしながら、吉野山千本口~霊場・大峯山まで約21kmの免許を申請した。
申請から2年後
役所から試験的に、現在の千本口駅~吉野山駅までの349mが認められた。
昭和3年
吉野大峯ケーブル自動車株式会社のケーブル建設工事が、安全索道商会の手によって建設開始。
昭和4年
3月12日、開業。当時の片道運賃は15銭だった。
初めは怖がっていたお客さまも、次第に足を運んでくれるようになり、行楽シーズンには多くの人が足を運んでくれた。
第二次世界大戦
約10年の間で営業も波に乗ってきた頃、戦時色が強まり雲行きが怪しくなってきた。
大戦に突入すると、「鉄材として提供してほしい」と軍からの、半ば強制的な要望があった。
しかし「我が子同然のケーブルを手放すわけにはいかない」と抵抗し、何とかケーブルを生き残らせることが出来た。
昭和41年
20人乗りの客車から28人乗りの客車に交換された。
この客車は、3代目として活躍した。ロープウェイ イメージ
平成24年7月
機械遺産に認定。機械遺産証 イメージ
平成24年10月
貸切バスの運行を開始。 ※現在は中止。
現在
昭和3年から四季の移り変わりを見てきたこのケーブルは、駅舎・支柱・外壁など丁寧に補修を加えてきたおかげで、開通当時の姿で山を見守る事が出来ている。また、運輸開始以来大きな事故もなく、安全に運行されている。手動式であるからこそ、お客様を運ぶ重みがより伝わってくるのかもしれない。このたび先代達から受継がれ続けている当施設・設備が2012.7.23 機械遺産 に認定された。これからも安全運行と施設の保全に努め、歴史を積み重ねていきたいと考える。
【公式】三輪明神 大神神社 (おおみわじんじゃ)HP https://oomiwa.or.jp/jinja/
ご祭神の大物主大神(おおものぬしのおおかみ)がお山に鎮まるために、古来本殿は設けずに拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し三輪山を拝するという原初の神祀りの様を伝える我が国最古の神社です。
当社の創祀そうしに関わる伝承が『古事記』や『日本書紀』の神話に記されています。『古事記』によれば、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が出雲の大国主神(おおくにぬしのかみ)の前に現れ、国造りを成就させる為に「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ」と三輪山に祀まつられることを望んだとあります。
また、『日本書記』でも同様の伝承が語られ、二神の問答で大物主大神は大国主神の「幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)」であると名乗られたとあります。そして『古事記』同様に三輪山に鎮まることを望まれました。この伝承では大物主大神は大国主神の別の御魂みたまとして顕現けんげんされ、三輪山に鎮しずまられたということです。
この様に記紀ききの神話に創祀そうしの伝承が明瞭に記されていることは貴重なことで、当社が神代に始まった古社中の古社と認識されており、ご祭神さいじんの神格が如何に高かったかを物語っていると言えます。
そして、ご祭神さいじんがお山に鎮しずまるために、当社は古来本殿を設けずに直接に三輪山に祈りを捧げるという、神社の社殿が成立する以前の原初げんしょの神祀りの様を今に伝えており、その祭祀さいしの姿ゆえに我が国最古の神社と呼ばれています。
「大神」と書いて「おおみわ」と読むように、古くから神様の中の大神様として尊ばれ、第十代崇神すじん天皇の時代には国造り神、国家の守護神として篤あつく祀まつられました。平安時代に至っても大神祭(おおみわのまつり)、鎮花祭(はなしずめのまつり)、三枝祭(さいくさのまつり)が朝廷のお祭りとして絶えることなく斎行され、神階は貞観じょうがん 元年(859)に最高位の正一位しょういちい となりました。延喜式えんぎしきの社格は官幣大社かんぺいたいしゃ で、のちに大和国一之宮やまとのくにいちのみやとなり、二十二社の一社にも列なるなど最高の待遇に預かりました。
中世には神宮寺じんぐうじであった大御輪寺だいごりんじ や平等寺を中心に三輪流神道が広まり、 広く全国に普及し人々に強い影響を及ぼしました。近世に入ると幕府により社領が安堵あんど されて三輪山は格別の保護を受け、明治時代にはその由緒によって官幣大社かんぺいたいしゃとなりました。現在も国造りの神様、生活全般の守護神として全国からの参拝があり、信仰厚い人々に支えられて社頭は賑わっています。
「三輪山の神語り」https://oomiwa.or.jp/jinja/kamigatari/#linktop わかりやすい
1.おだまきの糸
2.高橋活日(たかはしのいくひ)美酒を醸す
3.一休さんと杉玉
4.なで兎と卯の日
5.大神穀主(タネヌシ)と三輪素麺
6.蛇体の神と卵
「四季のおまつり」https://oomiwa.or.jp/omatsuri/
きっしょうそうじ
『吉祥草寺』役行者御誕生所 吉祥草寺HP
大和盆地の南部、西に金剛・葛城の山並を間近に望む御所市茅原の地に伽藍を構える吉祥草寺は、山号が茅原山、金剛寿院吉祥草寺と称する古刹です。この地は修験道の開祖役行者神変大菩薩の出生地とされ、当時は役行者(小角)の創建と云え、境内の一角には産湯の井戸がのこされています。西に聳える葛城山系は、若き日の小角の修行の場であり、その主峰葛城山(現在の金剛山)は、小角が鬼神を使って金峯山(大峯山)との間に石橋を架けさせようとした所です。後に葛城山系の峰々には、法華経が一品(いちぼん)ずつ埋納され(葛城廿八宿)、葛城修験の舞台となったのです。
その後当時は、役行者縁りの名刹として隆盛を見せ、平安時代の前期には、理源大師聖宝が勅を奉じて当寺を再建しています。ところが南北朝時代の貞和五年(一三四九)、兵火によって悉く灰燼に帰してしまいました。現在の堂宇はすべてこれ以降の再建になりますが、広い境内地には古い伽藍が立ち並び、古刹としての風格を伝えています。
本堂は兵火後の応永年間(一三九四~一四二八)の再建と云え、外陣の護摩札に寛文五年(一六六五)の墨書きが記され、この頃改築されたことが判ります。堂内には不動明王を中心とする五大尊が本尊として祀られ、この他薬師如来立像や地蔵菩薩立像といった平安から鎌倉時代の作とされる木彫像を安置しています。隣の開山堂には、等身を超える木造の役行者倚像・前後鬼坐像を祀り、これは恐らく本堂が改築された江戸初期の作と考えられます。この役行者像は顎髭がなく、若き日の役小角の姿を写した珍しい像で、同じく堂内に祀る木造役行者母公坐像も、他に遺品の少ない貴重な作例です。また観音堂には千手観音立像等を祀り、鎮守社には熊野権現を勧請しています。これらの堂宇はいずれも近世後期の建立と考えられますが、本堂と同様に痛みが激しいことは否めません。この他当寺伝来の文化財としては、応永七年(一四〇〇)在銘の銅製鰐口や、役行者が感得したと云える三宝荒神の画軸(室町時代)といった遺品が特筆されます。
『茅原のトンド(吉祥草寺)』なら旅ネット https://yamatoji.nara-kankou.or.jp/01shaji/02tera/02west_area/kisshosoji/event/zva5a5lt38/
役小角の生誕地といわれる吉祥草寺で行われるトンドは奈良県内最大であり、1300年の伝統を誇ります。
雄、雌一対の高さ6mを超す巨大な松明が20時頃に点火され、五穀豊穣を願って多くの人で賑わいます。
※奈良県指定無形文化財
1月