近畿地方
関西
2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表(予定)
関西
京都府宇治市にある平等院の阿弥陀堂
藤原頼通 (よりみち) が末法初年にあたり造営,1053年完成。中堂・左右の翼廊・尾廊があり,鳳凰が翼を広げた形に似ているので,鳳凰堂といわれる。屋上にも鳳凰の飾りがある。池畔に建ち,本尊は定朝作の寄木造の『阿弥陀如来像』で,壁画や壁間の『飛天菩薩像』など極楽浄土を思わせ,浄土教芸術の粋を示している。
出典 旺文社日本史事典 三訂版
HP(平等院) https://www.byodoin.or.jp/museum/
参考動画:『えぇトコ 光る君へSP(4)道長・頼通も愛した地~京都 宇治市~』https://plus.nhk.jp/watch/st/270_g1_2024121258184?t=356&playlist_id=d7267c5c-5953-4374-90f4-5768431d70c6
光る君へに出演した矢部太郎と信川清順が宇治を訪れる。
12/12(木) 午後8:15-午後8:41放送
配信期限 :12/26(木) 午後8:41 まで
御香宮神社 - 安産・子育ての社HP→https://gokounomiya.kyoto.jp/
御香宮神社 京都観光オフィシャルサイト 京都観光NAVI →https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=7&tourism_id=287
参考:「御香宮神社」Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%A6%99%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE
御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ、ごこうぐうじんじゃ)は、京都市伏見区御香宮門前町にある神社。旧社格は府社。
伏見区内の伏見・桃山・向島地区の産土神であり、単に「御香宮」、親しみを込めて「ごこんさん」などと通称される。
神功皇后を主祭神とし、夫の仲哀天皇、子の応神天皇ほか六神を祀る。神功皇后の神話における伝承から、安産の神として信仰を集める。
歴史
式内社の御諸神社の論社とする説がある。創建の由緒は不詳であるが、貞観4年(862年)に社殿を修造した記録がある。伝承によるとこの年、御諸神社境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったという。この湧き出た水は「御香水」として名水百選に選定されている。ボトルを持参して取水する地元民も多い。菟芸泥赴によれば筑紫国香椎宮から勧請したという記録がある。
全国にある「香」の名前のつく神社は、古来、筑紫国の香椎宮との関連性が強く神功皇后を祭神とする当社は最も顕著な例である。
豊臣秀吉は、伏見城築城の際に当社を城内に移し、鬼門の守護神とし(現在でも古御香宮として残っており、また伏見宮貞成親王に関係が深かったこともあり、境内は陵墓参考地として指定されている)、社領三百石を寄進した。
慶長10年(1605年)には徳川家康によって元の位置に戻され、京都所司代板倉勝重を普請奉行として本殿が造営された。表門は伏見城の大手門を移築したものである。
明治元年(1868年)に起こった鳥羽・伏見の戦いでは、官軍(薩摩藩)の本営となり、大手筋を挟んで南側にあった幕府軍(会津藩・新選組)の本営・伏見奉行所を砲撃して陥落させている。当社の建物は無事であった。
本殿には、菊の御紋や五七の桐紋、葵の御紋が見られる。
【若一調査隊】秀吉・家康が愛した京都「御香宮神社」伏見の名水ゆかりの古社に湧き出る伝説の水 天才作庭師のコラボ 伏見城の面影が境内に(読売テレビニュースCh.) https://youtu.be/uJkZPyy9mc0?si=iBtzdqJjhaAMcrpb
月桂冠大倉記念館。伏見と言えば酒造り。上質な水。名水ゆかりの神社。境内から香り高い水が湧き出し、朝廷から御香宮の名前を賜ったのがはじまり。その名水は飲むと元気になる、病気平癒にもご利益があると言う言い伝えもある。豊臣家、徳川家とも深くかかわっている。
創建年ははっきりしていないが、平安時代の初めには文献に現れる。
表門は1622年(元和8年)徳川頼房(家康十一男、水戸徳川家祖)が伏見城の大手門をもらい受けて寄進。重要文化財。
秀吉は伏見に伏見城を作り、伏見の城下を整備した。秀吉はまた伏見城内にこの御香宮神社を持って行って祀った。家康が伏見城を再建するにあたり、御香宮神社は今の場所に戻された。境内には伏見城の痕跡が点在しており、大きな石には刻印が彫られているものや石を切り出すときの矢穴もあり、石垣の一部ではないかと想像される。
拝殿は、伏見城の車寄せを移築したもの(1625年)。拝殿には龍神伝説を表す美しい彫刻が施され、破風には葵の門(徳川家)、菊の門(天皇家)がそれぞれ掲げられている。
神社の原点ともいえる「御香水」は、862年9月9日に神社の境内から「香」の良い水が湧出し、御香宮の名を清和天皇から賜ったもの。現在は地下150mからくみ上げられ、本殿横に誰でも無料で飲むことができる場所が設けられている。伏見の水はだいたい中硬水であるが、この御香水は伏見のお酒を造る水と一緒の水脈であり、環境省によって『名水百選』に認定されており、神事・お茶・習字などにも使われる。(御香水を汲むためのペットボトルも購入可能) ほのかな甘みがあり、非常に飲みやすくまろやかとのこと。
境内のソテツは雌株と雄株があるが、樹齢は約400年ほどと言われており、御香宮神社がこの地に戻ってきたころではないかと思われる。400年枯れずに育ったソテツにあやかってソテツの実を使った健康祈願の『蘇鉄守』も準備されている。本殿はソテツが植えられたとみられる同時期の1605年に家康の命を受けて建立された。重要文化財。本殿には神功皇后(応神天皇母)を主祭神とし、9柱の神が祀られている。神功皇后は安産・子育ての神。本殿は五間社造りで、正面だけでなく側面も手の込んだ彫刻がすべて異なるデザインで施されている。牙の生えた象の彫刻や鳳凰・麒麟などの想像上の動物の彫刻もある。
伏見を徳川が盛り上げることでこれからは徳川の世になることを知らしめようとしたのではないかと考えられている。
豊国神社には豊臣秀吉が祀られているが、これは明治天皇が復活させたものである。
御香宮神社には1597年千姫の誕生を祝って徳川秀忠から寄進された貴重なお神輿がある。重さは600貫(約2.3t)ふんだんに金属が使われており日本一重い神輿として知られていたが、1960年までは実際に担がれていた。現在は防火金庫に収納されており、神輿が安置されてから金庫を建てたため、取り出せない作りとなっている。
鳥羽伏見の戦の碑や前田利家が建てた桃山天満宮など伏見にゆかりの深い史跡がある。また、小堀遠州が伏見奉行時代作庭した石庭があり、それは奉行所跡で発見されたものを昭和を代表する作庭家の中根金作が移築・策定したものである。
東大寺・興福寺・春日大社・春日山原始林・元興寺・薬師寺・唐招提寺は→ 日本の世界遺産の項内の「古都奈良の文化財」も参照。
JR・近鉄奈良駅周辺
法相宗大本山 興福寺HP→ https://www.kohfukuji.com/
参考:『興福寺 世界遺産』奈良県観光公式サイト「なら旅ネット」https://yamatoji.nara-kankou.or.jp/01shaji/02tera/01north_area/kofukuji/
参考:『興福寺』奈良市観光協会 https://narashikanko.or.jp/spot/world_heritage/kofukuji/
参考:『興福寺』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E7%A6%8F%E5%AF%BA
興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある法相宗の大本山の寺院。山号はなし。本尊は中金堂の釈迦如来。南都七大寺の一つ。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
南円堂(本尊・不空羂索観音)は西国三十三所第9番札所、東金堂(本尊・薬師如来)は西国薬師四十九霊場第4番札所、菩提院大御堂(本尊・阿弥陀如来)は大和北部八十八ヶ所霊場第62番札所となっている。また、境内にある一言観音堂は南都七観音巡拝所の一つである。
創建
藤原鎌足夫人の鏡王女が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)に山背国山階(現・京都府京都市山科区)で創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。
和銅3年(710年)の平城京への遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。
その後も、天皇や皇后、また藤原氏によって堂塔が建てられ、伽藍の整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営が国家の手で進められるようになった。天平10年(738年)3月28日には山階寺(興福寺)に食封千戸が朝廷から施入されている。
南都北嶺
興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家・藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。平安時代には春日社(藤原氏の氏神)の実権を持ち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺と共に「南都北嶺」と称された。寺の周辺には無数の付属寺院の子院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えた。中でも天禄元年(970年)に定昭の創立した一乗院と寛治元年(1087年)に隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。
参考動画:『興福寺 国宝誕生と復興の物語 発見!天平の美』NHKオンデマンド https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2023126901SA000/
参考動画:『興福寺 国宝誕生と復興の物語 つなぐ!天平の心』NHKオンデマンド https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2023126902SA000/
参考動画:『【若一調査隊】国宝・阿修羅像など数多くの仏教美術が!1300年以上の歴史を誇る世界遺産・興福寺の魅力【かんさい情報ネット ten.】』読売テレビニュース(youtube) https://www.youtube.com/watch?v=rpELk-Stu5w
猿沢池に姿を映す興福寺五重塔。世界遺産。1300年以上の歴史。藤原鎌足の病気平癒を願って創建され、鎌足の子藤原不比等によって現在の地に移され、藤原氏の氏寺として拡大。いっとき大和の国を支配、政治の実権も握る程だった。
興福寺が長い年月の間守り伝えてきた日本有数の文化財は、多くが国宝となっている。
300年ぶり中金堂の再建(2018年)。阿修羅像などが安置される国宝館。至福の時間。
面積は約2万5000坪(甲子園球場約2個分)。猿沢の池は、平城京遷都の際、興福寺が奈良に移ってきて沢山の伽藍を建てた際、伽藍の瓦をふくための粘土を猿沢の池で掘っていたがそのあとが池になったという説がある。
江戸時代までは、春日大社と一体化した高裁な領地が広がっていたが、明治維新の神仏分離令・廃仏毀釈によって、ぐるりと囲む塀も、山門もなくなってしまった。本来は中金堂の前に巨大な南大門があった。今は礎石が残されている。柱の大きさから他店ののかつての威容がわかる。
五重塔(730年光明皇后の発願。室町時代再建)は、奈良県内で最も高い(高さ50.1m)建物である。2位は東大寺大仏殿(高さ48.7m)。
北円堂(国宝)、南円堂(重文)、三重塔(国宝)、東金堂(国宝)、五重塔(国宝)、大湯屋(重文)と現存するすべての建物が国宝、または重要文化財に指定されている。
国宝東金堂:762年聖武天皇が叔母の元正太政天皇の病気平癒のため建立。焼失したが、再建室町時代。柱はケヤキ。本尊は薬師如来(銅造薬師如来像:重文。室町時代。4代目となる)。重文銅造日光菩薩・月光菩薩。24時間体制で衆生を救う。
周囲に国宝仏像18躯。国宝木造四天王像(国宝増長天・持国天など)・国宝木造十二神将立像。寺宝・文化財にも国宝・重文が多い。平家の焼き討ちに遭って興福寺が全焼したため、鎌倉時代の物が多い。鎌倉仏教美術の粋。運慶を初めとした慶派の仏師たち。貴重な仏像を治める金堂が3つ。中金堂・東金堂・西金堂。各金堂にご本尊を安置。710年(天平6)、藤原不比等により建立された中金堂は、江戸時代に焼失後、資金難などで再建されず、仮堂のままだった。2000年から解体・調査に入り、2018年中金堂は、およそ300年ぶりに創建当初の姿に忠実に再建が果たされた。中金堂を支える66本の柱は、このサイズ(約80㎝)の木が日本で手に入らず、遠くアフリカのカメルーンから取り寄せられたもの。槍鉋の跡。
唯識論。現象世界の物はすべて自分の心の深いところが創り出したもので同じ世界を見ているようで一人一人違うもの。そこで以下に悟りを転換していくかを追求する宗教。木造薬上菩薩立像(重文。鎌倉時代)。もともとは西金堂に安置。火災で持ち出された。中金堂は平安時代以降、7回もの焼失・再建を繰り返してきた。再建の際は、創建当初の姿で再建することにこだわってきた。扉は内開き(創建当初はお堂の中に僧侶が入ることはあまりなかったので内開き。室町以降は中に人が入ってくるようになり、中の空間を広くとるために外開きになっていった)。藤原氏の氏寺。先人の残したものを伝えていく。
国宝館。食堂(じきどう)のあった場所。食堂を再現している。5年前にリニューアル。国宝・重文など64点が展示されている。
阿修羅像(国宝・乾漆像)。光明皇后が母橘美千代の一周忌の追善供養に西金堂を発願。像を安置した。乾漆像は中が空洞なので軽く、軽かったために持ち出せて残った。修復して技術をつなぐ。文化をつなぐ。
参考動画:『【約120年ぶりの改修工事】奈良のシンボル“興福寺・五重塔”が大改修 終了は2031年以降予定【関西テレビ・newsランナー】』カンテレNEWS(youtube) https://youtu.be/W5aGrxkVCIA?si=4eU82s_y9PBaNtBL
東大寺公式サイト→ https://www.todaiji.or.jp/
参考:『東大寺』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA
東大寺(とうだいじ、英: Todaiji Temple)は、奈良県奈良市雑司町にある、華厳宗大本山である日本の仏教寺院。山号はなし。本尊は奈良大仏として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)。開山(初代別当)は良弁である。
正式には金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。現在の別当(第224世)は橋村公英。
奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、度々修復を受けており、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代中期の宝永6年(1709年)に規模を縮小して再建されたものである。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。
聖武天皇による東大寺大仏造立後に、国内では鎌倉大仏(現存)、雲居寺大仏(現存せず)、東福寺大仏(現存せず)、方広寺の京の大仏(現存せず)などの大仏も造立され、先発した東大寺大仏・大仏殿の造形、建築意匠・構造は、それらの大仏・大仏殿に対し多かれ少なかれ影響を与えた。ただし江戸時代の東大寺大仏殿再建の際には、上記とは逆に、同時代に京都に存在していた方広寺大仏殿を手本として、東大寺大仏殿の設計がなされた。
江戸時代には上記のうち、東大寺大仏(像高約14.7m)、鎌倉大仏(像高約11.39m)、京の大仏(像高約19m)の三尊が、日本三大仏と称されていた。
東大寺は1998年(平成10年)12月に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界文化遺産に登録されている。
春日大社公式サイト→ https://www.kasugataisha.or.jp/
参考:『春日大社』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%A4%A7%E7%A4%BE
春日大社(かすがたいしゃ、英: Kasugataisha Shrine[1][注釈 1])は、奈良県奈良市春日野町にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。旧称は「春日社」、神紋は「下がり藤」。
全国に約1,000社ある春日神社の総本社である。ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の1つとして登録されている。
奈良時代の神護景雲2年(768年)に平城京の守護と国民の繁栄を祈願するために創建され、中臣氏・藤原氏の氏神を祀る。主祭神の武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。
祭神
主祭神は以下の4柱。総称して春日神と呼ばれ、藤原氏の氏神である。
武甕槌命 - 第一殿。藤原氏守護神(常陸国鹿島の神)
経津主命 - 第二殿。同上(下総国香取の神)
天児屋根命 - 第三殿。藤原氏の祖神(河内国平岡の神)
比売神 - 第四殿。天児屋根命の妻(同上)。ただし、その正体は天照大御神であるとの説がある。
参考:『【若一調査隊】奈良のシンボル若草山の知られざる秘密に迫る!山を覆う芝と鹿との関係は!?山頂にある巨大な〇〇とは!?』読売テレビニュース(youtube) https://youtu.be/SDc2p9Ng58Y?si=3CUsCu6VSukLmDwr
(夏の若草山をハイキング)
奈良公園から若草山が望める。江戸時代には南都八景の一つにも数えられた美しい風景。1月に山焼きが行われるため、雪が積もると真っ白になることが有名だった。今も毎年1月第4土曜日に山焼き行事が開催されている。
若草山は管理されている山で、北のゲートと南のゲート、2か所からのみ入山できる。若草山(標高342m)は、火山の噴火で出来た山が笠が3つ重なった刑場だったことから三笠山ともいわれる。ただし、世界遺産の構成要素である春日山原始林の御蓋山(みかさやま)(春日山)とは違うので混同しないように。
昔、大阪の子供たちは遠足で若草山に登った。斜面にはたくさんの鹿がおり、芝生(ノシバ・鹿との共生のおかげで発芽率のいい若草山だけの固有種となっている)を食べてくれる。
若草山では今、ナンキンハゼ(外来種。1960年代。鹿も食べない)が増えすぎていて、奈良県もその問題について調査中である。
一重目の頂上からは奈良市街地、特に東大寺・興福寺・春日大社・春日山(御蓋山)などの世界遺産群が一望できる。
二重目はさらに高く、平城宮跡まで見渡せる。
山頂には国の史跡(1936年)「鶯塚古墳」が存在する。被葬者不明。仁徳天皇妃説あり。発掘調査はされていない。前方後円墳。前方部前部に陪塚とみられる小さな方墳と円墳がある。
清少納言の『枕草子』に書かれた「うぐひすのみささぎ」と比定する伝説がある。(現在立ち入り禁止)
古墳から恐ろしい幽霊が出るので、幽霊を怖がらせるために山を焼いたという俗説。しかし江戸時代に東大寺に飛び火。奈良奉行所が山焼きを禁止したことがあった。また幕末に放火が続いたため、東大寺・興福寺・奈良奉行所が立ち会って山を焼くようになった。それが、現在の山焼きにつながったという。
参考:『鶯塚古墳』国指定文化財ベース https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/1985
参考:『若草山』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E8%8D%89%E5%B1%B1
参考:『若草山』奈良県 https://www3.pref.nara.jp/park/item/2585.htm
奈良公園を訪れて最初に目に飛び込んでくる景色、それが芝生に覆われた三つ重ねの山、若草山です。
若草山は、標高342メートル
面積33ヘクタールの芝生に覆われた山で、山頂には、5世紀頃に築造されたといわれる史跡鶯塚古墳があります。毎年1月には、若草山焼きがあります。夜空をこがす壮観さはまさに、炎の祭典というのにふさわしい行事です。
交通:
(山麓まで)JR奈良駅、近鉄奈良駅から奈良交通バス(市内循環外回り)
「東大寺大仏殿・春日大社前」 もしくは「春日大社表参道」下車、徒歩約15分
・近鉄奈良駅から徒歩約30分
(山頂まで)車利用で新若草山ドライブウェイ(有料)を経て若草山頂駐車場(駐車料金無料)から徒歩5分
参考:『若草山』奈良市 https://narashikanko.or.jp/spot/nature/wakakusayama/
住所 奈良市雑司町469
アクセス ・JR奈良駅、近鉄奈良駅から 市内循環バス「大仏殿春日大社前」下車、徒歩12分
・奈良奥山ドライブウェイ「新若草山コース」
問合せ 0742-22-0375(奈良公園事務所)
リンク 若草山 奈良県ウェブサイトhttp://www.pref.nara.jp/item/9270.htm#itemid9270
拝観・入館
料金(個人) 大人:150円
大学:150円
高校:150円
中学:150円
小学: 80円
料金(団体) 大人:120円
大学:120円
高校:120円
中学:120円
小学: 60円
団体料金適用 30人以上
身障者割引 身体障害者手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳のご提示により本人と同伴者1名は無料。
その他 開山期間:3月第3土曜日~12月第2日曜日
時間 9:00~17:00(臨時開山を除く)
参考(入山時期確認用): 奈良公園事務所HP(若草山)へ
参考:『春日山(奈良県)』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%B1%B1_(%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C)
春日山(かすがやま)は、奈良県奈良市、春日大社の東側にある標高497メートルの花山(はなやま)もしくは西隣の標高283メートルの御蓋山(三笠山・みかさやま)の通称。御蓋山を「(春日)前山」・花山を「(春日)奥山」と区別する場合もある。また、両山および芳山(518m)などの連峰の総称としても用いられる。
古くから神奈備山として崇敬され、特に平城京遷都以後は朝廷から尊ばれた。例えば、遣唐使は出立に先立ち春日山の付近で天神地祇を祀って航海の安全を願ったことが知られている。768年(神護景雲2年)に藤原永手が祖父・不比等ゆかりの春日山のふもとに氏神である春日大社を創建した(ただし、近年では神社の遺構発掘の成果などから創建年次を同年以前とする説が有力となっている)。藤原氏の勢力伸長とともに春日山一帯に対する藤原氏の支配が強められ、841年(承和8年)には春日大社の神域として狩猟や伐採が禁じられた。春日大社の神体山とみなされるようになった春日山は春日大社及び近接する興福寺の管理下に置かれ、春日山に自生する榊を根扱ぎして春日大社の神霊の依代である「春日神木」と称して、興福寺や春日大社が強訴をする際には神木を押し立てた。
また、山岳信仰の修行場・祈雨の霊場として興福寺をはじめとする奈良の僧侶たちから重んじられ、春日山石窟仏など古代から中世にかけての多くの仏教遺跡が遺されている。また、神山として殺生禁断が守られてきたため、広大な原生林(春日山原始林)が今日まで残されており、古都奈良の文化財の一部として世界遺産にも登録されている。
春日山のスギは春日杉として知られ、明治時代には倒木材を運び出して出荷し、その収益を公園の造成費用に充てていた。
なお、「花山」の名は興福寺がここからシキミの花を採ることに由来する。
奈良市西部
薬師寺公式サイト→https://yakushiji.or.jp/
奈良市にある法相(ほっそう)宗の大本山。南都七大寺の一。天武天皇が皇后の病気平癒を祈願し、天皇没後の文武天皇2年(698)藤原京に完成。平城遷都に伴い、現在の地に移転。たびたび火災などで諸堂を失ったが、昭和51年(1976)に金堂、昭和55年(1980)に西塔が再建された。東塔は創建当時の遺構、東院堂は鎌倉時代の再建で、それぞれ国宝。また、薬師三尊像・聖観音菩薩立像・吉祥天画像・仏足石および仏足石歌碑(いずれも国宝)などを蔵する。平成10年(1998)「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録された。
出典 小学館デジタル大辞泉
参考動画:『【密着14年】甦った「凍れる音楽」東塔 世界遺産・薬師寺 1300年の祈りと悲願達成への足跡【ABCテレビドキュメンタリースペシャル♯34】』ABCテレビニュース(youtube) https://youtu.be/a-nnsrWmkyY?si=bMOpStzm9B5pVtmp
参考動画:『【若一調査隊】壮大な白鳳伽藍から見る国宝の数々!1300年の歴史世界遺産 薬師寺の魅力 日本最古の仏足石 鎌倉建築の和様仏堂 観音像の原点となる仏像など歴史と魅力に迫る』読売テレビニュース youtube
https://youtu.be/-pD108UQmsg?si=yYPwitpdJrZ0xr45
世界遺産の寺として有名。南都七大寺の一つで昔からの大寺院。9件の国宝と26件の重要文化財を持つ。1300年の歴史を持ち、中央の金堂と奥の大講堂、東塔、西塔の2基を持つ伽藍配置は日本初で「薬師寺式伽藍配置」と呼ばれる。境内は広大で飛鳥~奈良時代の白鳳伽藍とそれ以降の玄奘三蔵院伽藍の二つがある。
中門をくぐって中に入るが、1528年の筒井順興の兵火によって中門(ちゅうもん)など東塔以外の建物はすべてなくなるような状態になった。中門は、1980年代にようやく再建された。中門の両側は東大寺南大門のような金剛力士像(仁王像)ではなく、二天王像が左右に配置されている。中門をくぐると壮大な伽藍に圧倒される。
薬師寺は、天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈って発願したが、自身も病に倒れ、そのあとを持統天皇が引き継いで697年に藤原京で建立させた。710年平城京への遷都に伴い、現在の場所に移築された。持統天皇や文武天皇の思いを引き継ぎ、日本の安泰・健康を願うお寺となった。
創建当時建てられた建物の内、現在も残っているのが、東塔。高さは約34m。法隆寺、法起寺に次いで、世界で3番目に古い木造建築。3層にそれぞれ裳階(もこし)がついているため、6階建てに見えるが、裳階は装飾や雨除けのための物であり、実は3階建てである。竜宮城の建物のようであると言う事で、龍宮づくりと呼ばれる。2009年から12年の年月にわたり、全面解体大修理が行われた。解体後の組み立てで9割はもとの木材を使っている。解体で分かった事は、心柱の頂上に仏舎利が埋め込まれていたと言う事であった。この塔は、仏舎利を守るために作られた建物であったのだ。また、心柱は塔のてっぺんまで一本の心柱が使われており、3階建ての建物とはつながっておらず自立しており、各階もそれぞれ下の会の上に載っているだけで、そのため、長い年月にわたって地震にも耐えてきたと言える。東塔相輪上部の水煙(塔の頂上部の先についている火炎のような形の装飾物)は4枚の青銅の水煙は縦190㎝もあり、元々雷や火災から塔を守ると言う祈りをこめたもの。笛を吹いたり、花かごをささげたり、蓮のつぼみを捧げ持ったりと非常に躍動的な姿をしている。解体工事の際に作り替えられたが、3Dで計測されて全く同じものが作られた。
金堂は裳階が複雑に入った2階建てであり、上階には写経が収められている。他の建物と共に金堂も1528年の享禄の兵火で燃えてしまい、江戸時代に郡山城主増田長盛が仮金堂を建てたが、当初の二層の金堂を復興することはかなわなかった。1968年(昭和43年)管主の高田好胤さんが、薬師寺復興のために納経料一巻千円を納めてもらうお写経勧進(百万巻お写経勧進による薬師寺金堂復興)をはじめ、全国を行脚、8年で目標の8万巻を達成し、金堂を再建し、上階にその写経を納めた。再建の際には、いろいろの議論を経て火事天災にそなえて仏さまを納める内陣だけは鉄筋コンクリート造で外側は木造となった。内部には薬師三尊像が置かれているが、薬師如来(薬師瑠璃光如来)像・脇侍の日光菩薩・月光菩薩ともに国宝である。高さは254.7㎝でいわゆる丈六の仏像である。造立当初は鍍金がほどこされ金色に輝いていたが、戦火に焼かれ、現在は一部を除いて漆黒の姿となっている。この薬師如来像はまだ薬壺(やっこ)を持たない古い時代の像である。日光菩薩・月光菩薩は左足に重心を置いて腰とひざと首を曲げた優しい曲線の三曲法と言うポーズをとった美しいものであり、薬師三尊像は白鳳物の至宝と言える。
また、薬師如来台座も国宝であり、ギリシャ由来の葡萄唐草文様・ペルシャ由来の蓮華文様・中国の霊獣である四神など白鳳時代のグローバルな文様が仏像の背面に回って拝見できるようになっている。また日本最古(753年)の仏足石・仏足跡歌碑(いずれも国宝)がみられる。
そして回廊の裏にある東院堂(長屋王の正妃であった吉備内親王が母の元明天皇の冥福を祈って建立)および、東院堂の中に祀られている聖(しょう)観音菩薩像も国宝。光の具合で様々な表情を見せる。
唐招提寺公式サイト→https://toshodaiji.jp/
奈良市五条町にある律宗の総本山。天平宝字3 (759) 年唐僧鑑真の開基。日本最初の戒律専門の寺院として造営された。平安時代に寺勢が衰えたが,鎌倉時代に貞慶,覚真,覚盛らの名僧が輩出して再興。国宝の金堂は本尊『盧舎那仏坐像』をはじめとする諸尊を蔵する奈良時代を代表する建築。その他講堂,宝蔵,経蔵,舎利殿 (鼓楼) などの国宝建造物があり,『鑑真和上像』,金亀舎利塔など奈良,鎌倉時代を代表する名品を所蔵する。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
参考動画:『世界遺産-唐招提寺-』奈良市動画チャンネル https://youtu.be/ZquSB968GfI?si=ULsHuH3LW2tJI2mv
奈良県奈良市丸山にある古墳。形状は円墳。史跡指定はされていない。出土品は国の重要文化財に指定されている。
円墳としては全国で最大規模の古墳で、4世紀後半(古墳時代前期後半)頃の築造と推定される。
墳形は円形で、直径109メートルを測り、円墳としては全国で最大規模になる。墳丘は3段築成。墳丘外表では葺石・埴輪片が検出されているほか、墳丘北東側には造出を有する。墳丘中央の埋葬施設は粘土槨で、内部には割竹形木棺(推定長6.9メートル弱)が据えられたと見られる。出土品には、伝出土品として石製品・鍬形石・合子・管玉・銅製品など(京都国立博物館所蔵)や、同じく伝出土品として三角縁神獣鏡3面(天理大学附属天理参考館所蔵)が知られるほか、発掘調査出土品として武器類・鉄製品類・巴形銅器・形象埴輪がある。なお、発掘調査出土品のうち鍬形石片は、京都国立博物館所蔵の鍬形石と一致することが認められている[1]。築造時期は古墳時代前期後半の4世紀後半頃と推定される。
京都国立博物館所蔵の伝出土品は1957年(昭和32年)に国の重要文化財に指定されている。なお、北東側には小古墳の丸山2号墳・丸山3号墳の築造も認められており、丸山古墳と合わせて現状保存されている。
また、史跡整備調査のうち、国史跡指定を目指すため2018年度(平成30年度)より発掘調査が行われた。2022年(令和4年)10月、墳丘と同じく3段築成の造出から粘土槨の埋葬施設が新たに見つかった。粘土槨は全長約6.4メートル、幅約1.2メートル。内部に木棺が確認され翌月から発掘を開始、2023年(令和5年)1月にその成果が公表された。木棺を覆った粘土層から過去最大の蛇行剣、その下層から今までに例を見ない盾形銅鏡が出土し、「古墳時代の工芸の最高傑作」との評価も受ける大きな発見となった。
参考:『富雄丸山古墳』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E9%9B%84%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
奈良市教育委員会 教育部 文化財課 埋蔵文化財調査センター
富雄丸山古墳は4世紀後半に築造された直径109メートルの造(つくり)出(だ)し付円墳である。令和4年度の年度の第6次調査で造出し上段から未盗掘の粘土槨(ねんどかく)を確認し、南西側の被覆粘土中から古代東アジア最大の鉄剣である長さ237センチメートルの蛇行剣(だこうけん)と類例のない鼉龍文(だりゅうもん)盾形銅鏡が出土した。本年度の第7次調査では、北東側被覆粘土の構造を明らかにするところから調査を開始し、良好に残る割竹形木棺の存在を2月6日に報道発表した。その後、木棺内部の調査を進めて事項に挙げる成果を得た。
参考:『【最新動画公開中】富雄丸山古墳まとめ情報』奈良市HP https://www.city.nara.lg.jp/site/press-release/165641.html
古代の東アジアで最も長いとされる鉄の剣など、貴重な発見が相次いでいる奈良市にある富雄丸山古墳で、木製のひつぎの中から新たに3枚の鏡などが見つかりました。
このうち1枚は大王クラスの巨大な古墳で見つかっている「三角縁神獣鏡」の可能性があるということで奈良市教育委員会はさらに調査を進めることにしています。
4世紀後半に造られたとされる奈良市の富雄丸山古墳では、▼古代の東アジアで最も長いとされる鉄の剣や、▼盾の形をした国内最大級の青銅製の鏡などの貴重な発見が相次いでいます。
ここで長さ5メートルを超える木製のひつぎも見つかり、奈良市教育委員会が2月上旬から土などを取り除き、中を調べていました。
その結果、▼直径20センチほどの青銅製の円形の鏡3枚のほか、▼「竪櫛」と呼ばれる竹製のくし9点が副葬品として納められていたことがわかりました。
鏡の中の1枚は大王クラスの巨大な古墳で見つかっている「三角縁神獣鏡」の可能性があるということです。
さらに、ひつぎの底からは「水銀朱」と呼ばれる赤色の顔料が見つかっていて、色が濃い部分からは、骨に多く含まれるリンが検出されているということです。
奈良市教育委員会は、鏡の種類の特定とともに、リンが検出された場所には骨の一部が残っている可能性もあるとして、今後、詳しく調べることにしています。
参考:『奈良 富雄丸山古墳 ひつぎ調査 貴重な「三角縁神獣鏡」発見か?』NHKニュース(2024年3月13日 17時10分) https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240313/k10014389201000.html
通常は一番上に葬られた人の墓に銅鏡や長剣が副葬されているのが通常であるが、離れたところにそれらがあったことは大きな謎である。
朱:水銀朱の散布。主室の底面全体に水銀朱が広がるが、被葬者の頭位と想定される範囲には特に多くの水銀朱が認められ、真っ赤に染まる。
鏡:青銅鏡3面が出土。直径約20㎝。鏡背面の文様が見えないため現時点(2024/3/13時点)では鏡式不明。発見当時は発掘者の顔が映るほど保存状態は良好。
櫛:堅櫛が出土。主室の南東端から漆塗の堅櫛が9点出土。欠損部分も少なくないが、2点は堅櫛の全形をよくとどめている。全長14㎝・棟幅2㎝の小型品。堅櫛は髪につける装飾具としての機能に加え、葬送儀礼における重要な機能があったと考えられる。
この棺の主と、頂部に葬られた人物の関係を考えられる。日本に1つしかない長い蛇行剣は武器、軍事の象徴的な存在と考えられる。棺の主は女性なのか、女性ならばなぜ長剣を副葬されているのか。
参考:『速報】割竹形木棺の内部を確認!木棺の一部が水銀朱で真っ赤に染まる!鏡と櫛が出土!』奈良市動画チャンネル
富雄丸山古墳第4次調査の様子 動画配信(奈良市)(奈良市埋蔵文化財調査センター)→ https://www.youtube.com/watch?v=N5-7i6mfkIs
明日香村周辺
奈良県中央部,奈良盆地の南端に位置する高市郡の村。西部に近鉄吉野線,国道169号が通じ,中央部を飛鳥川が南北に貫流する。西部から中央部にかけては,日本史上きわめて重要な史跡が数多く点在し,甘樫丘,石舞台古墳,高松塚古墳周辺は国営飛鳥歴史公園として整備されているほか,飛鳥寺,岡寺,橘寺など古刹も多く,これら名所を貸自転車で巡るコースが人気。24.10km2。5856人(2010)。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
飛鳥寺(あすかでら)は、奈良県高市郡明日香村飛鳥にある真言宗豊山派の寺院。山号は鳥形山(とりがたやま)(後世)。本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来。現在は正式には安居院という。開基(創立者)は蘇我馬子で、蘇我氏の氏寺である法興寺(仏法が興隆する寺の意)の後身である。思惟殿は新西国三十三箇所第9番札所で本尊は聖観音である。
飛鳥寺には複数の呼称がある。法号は「法興寺」または「元興寺」(がんごうじ)であり、平城遷都とともに今の奈良市に移った寺は「元興寺」と称する。一方、蘇我馬子が建立した法興寺中金堂跡に今も残る小寺院の公称は「安居院」(あんごいん)である。『日本書紀』では「法興寺」「元興寺」「飛鳥寺」などの表記が用いられている。
飛鳥寺の伽藍については、発掘調査実施以前は四天王寺式伽藍であると考えられていたが、1956年(昭和31年)から1957年(昭和32年)の発掘調査の結果、当初の飛鳥寺は中心の五重塔を囲んで中金堂、東金堂、西金堂が建つ一塔三金堂式の伽藍であることが確認された。
『書紀』によれば、推古天皇13年(605年)、天皇は皇太子(聖徳太子)、大臣(馬子)、諸王、諸臣に詔して、銅(あかがね)と繡(ぬいもの)の「丈六仏像各一躯」の造立を誓願し、鞍作鳥(止利)を造仏工とした。そして、これを聞いた高麗国の大興王から黄金三百両が貢上されたという。『書紀』によれば、銅と繡の「丈六仏像」は翌推古天皇14年(606年)完成。丈六銅像を元興寺金堂に安置しようとしたところ、像高が金堂の戸よりも高くて入らないので、戸を壊そうと相談していたところ、鞍作鳥の工夫によって、戸を壊さずに安置することができたという挿話が記述されている。一方、『元興寺縁起』に引く「丈六光銘」(「一丈六尺の仏像の光背銘」の意)には乙丑年(推古天皇13年、605年)に銅と繡の釈迦像と挟侍を「敬造」したとあり、造像開始の年は一致しているが、挟侍(脇侍)の存在を明記していること、大興王からの黄金が三百二十両であることなど、細部には相違がある。「丈六光銘」によれば、戊辰年(608年)に隋の使者裴世清らが来日して黄金を奉り、「明年」の己巳年(609年)に仏像を造り終えたという。
飛鳥寺(安居院)の本尊で、飛鳥大仏の通称で知られる。1940年(昭和15年)に重要文化財に指定されており、指定名称は「銅造釈迦如来坐像(本堂安置)1躯」である。像高は275.2センチメートル。
『日本書紀』『元興寺縁起』に見える、鞍作鳥(止利仏師)作の本尊像であるが、後述のとおり損傷が激しく、後世の補修を受けている。現存する像のどの部分が鞍作鳥作のオリジナルで、どの部分が後補であるかについては、後述のように諸説ある。鞍作鳥は、法隆寺金堂本尊釈迦三尊像(623年作)の作者であり、同三尊像の光背銘には「司馬鞍首止利」(しばくらつくりのおびととり)と表記されている。
飛鳥寺本尊像の完成は、『日本書紀』によれば推古天皇14年(606年)、『元興寺縁起』によれば推古天皇17年(609年)であるが、本項の「歴史」の節で述べたように後者の609年完成説が定説となっている。
参考:『飛鳥寺』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E5%AF%BA
参考:『【若一調査隊】“日本の歴史のふるさと”奈良・明日香村 聖徳太子、蘇我馬子、中大兄皇子、中臣鎌足…数々の歴史が動いた地に残る謎 日本初の本格的仏教寺院で日本最古の仏像「飛鳥大仏」に迫る』読売テレビニュースCh. https://youtu.be/eciotNfPsKI?si=p6KW6m_BBlDOe-vq
参考:『【現地解説】日本最古の仏像はなぜ“国宝”ではないのか?飛鳥大仏の謎に迫る|飛鳥寺・飛鳥宮跡』河江肖剰の歴史探訪チャンネル
https://youtu.be/gL6vUmdDzT4?si=XA5pFuEJRI5oahot
石舞台古墳(いしぶたいこふん)は、奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳。国の特別史跡に指定されている。
元は土を盛りあげて作った墳丘で覆われていたが、その土が失われ、巨大な石を用いた横穴式石室が露出している。埋葬者としては蘇我馬子が有力視されている。
墳丘は現在失われているが、下部は方形で、20-50センチメートル大の花崗岩の貼石を約30度の傾斜で積み並べられていた。墳丘の周りに幅5.9-8.4メートルの空堀がめぐり、幅約7.0メートルの外堤が設けられている。外堤を復元すれば一辺約80メートルで、高さは約1.2メートルである。
封土(盛土)の上部が剥がされているため、その墳形は明確ではなく、2段積の方墳とも上円下方墳とも、あるいは、下方八角墳とも推測されている。また、一辺51メートルの方形基壇の周囲に貼石された空濠をめぐらし、さらに外提(南北約83メートル、東西81メートル)をめぐらした壮大な方形墳であるという。
埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、西南方向に開口している。花崗岩で作られた石組みである。玄室は、長さ約7.7メートル、幅約3.5メートル、高さ約4.7メートル、羨道は長さ約11メートル、幅2.5メートルの規模を有する。また、石室内部には排水施設がある。約30の石が積まれ、その総重量は2,300トンに達すると推定されている。石は古墳のかたわらを流れる冬野川の上流約3キロメートル、多武峰のふもとから運ばれた。
石室はすでにほとんどの埋葬品が盗掘に遭った後であり、石棺の欠片等が発見されるに留まった。羨道部と外堤から土師器と須恵器や銅の金具などが見つかり、時代が下る宋銭や寛永通宝も出た。
外提の北西隅の外には刳坂(くりぬき)石棺を納めた横穴式石室があり、発見当初は陪塚(ばいちょう)であろうと推測されていた。しかしその後の調査で西側にも7基の横穴式石室が見つかり、いずれも石室内が整地されていたことなどから、石舞台古墳の築造にあたって周辺にあった古墳を削平し、土などを移したものと考えられている。
1952年(昭和27年)3月29日、国の特別史跡に指定された。
参考:『石舞台古墳』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E8%88%9E%E5%8F%B0%E5%8F%A4%E5%A2%B3
参考:『石舞台古墳』国営飛鳥歴史公園HP https://www.asuka-park.jp/area/ishibutai/tumulus/
参考:『【若一調査隊】“日本の歴史のふるさと”奈良・明日香村 聖徳太子、蘇我馬子、中大兄皇子、中臣鎌足…数々の歴史が動いた地に残る謎 日本初の本格的仏教寺院で日本最古の仏像「飛鳥大仏」に迫る』読売テレビニュースCh. https://youtu.be/eciotNfPsKI?si=aRjrXPPJVqveQAPH
2021年日本地理に選択肢として出題。
奈良県高市郡明日香村平田字高松にある円墳。直径約 18m,高さ約 5mで,古墳時代末期のものと思われる。 1972年3月凝灰岩切り石による石槨 (せっかく) が発見された。石槨内の壁面は漆喰が塗られ,その上に彩色による人物像や四神図などが描かれていた。乾漆木棺片や海獣葡萄鏡,大刀装具などが出土。壮年男子1体を埋葬したといわれる。古代中国,朝鮮,日本の関係を知る貴重な資料である。 1973年 10月国宝に指定。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
奈良県高市郡明日香村(国営飛鳥歴史公園内)に存在する古墳。藤原京期(694年 - 710年)に築造された終末期古墳で、直径23 m(下段)及び18 m(上段)、高さ5mの二段式の円墳である。1972年に極彩色の壁画が発見されたことで一躍注目されるようになった。
墳丘は2009年に築造当初の形状に仮整備され、一般に公開されている。一方、壁画が描かれた石室は、2007年に歴史公園内の修理施設に移され、2020年3月に保存修理が完了した。今後は古墳外に新設される施設で管理される予定である。
高松塚古墳の発掘調査は、1972年3月1日から開始された。発掘の始まったきっかけは、1970年の10月ごろ村人がショウガを貯蔵しようと穴を掘ったところ、穴の奥に古い切石が見つかったことである。地元の人達が明日香村に働きかけ、明日香村が資金を捻出し奈良県立橿原考古学研究所が発掘調査することになった。発掘は明日香村が事業主体となり、橿原考古学研究所が実際の発掘を担当した。
発掘調査以降、壁画は現状のまま現地保存することになり、文化庁が石室内の温度や湿度の調整、防カビ処理などの保存管理、そして1981年以降年1回の定期点検を行ってきた。しかし、2002年から2003年にかけて撮影された写真を調べた結果、雨水の浸入やカビの発生などにより壁画の退色・変色が顕著になっていることが2004年に明らかにされた。
高松塚古墳wikipediaから抜粋。
「2001年から2002年にかけて起きたカビの大量発生と西壁の損傷事故」については文化庁の裏側がwikipediaに詳しい。
文化財保護について知るためにもう一度参照のこと。
一部抜粋
第三者による調査委員会は2006年6月19日に報告書を国へ提出。そこでは、文化庁の縦割りセクショナリズムの弊害、情報公開への意識の低さなどが指摘されている。高松塚古墳の場合、特別史跡である古墳自体は文化庁記念物課、国宝である壁画は美術工芸課(2001年1月より「美術学芸課」と改称)の管轄であり、両者の連携が十分ではなかったとされている。2001年2月の天井崩落防止工事に伴うカビの大量発生については、作業員が滅菌した防護服を着用していなかったことが原因とされている。この工事は記念物課が発注したが、現場の管理は美術学芸課にまかせきりで、記念物課の職員は工事に一切立ち会わなかった。東京文化財研究所には工事を実施すること自体が知らされていなかった。また、防護服の着用などを定めた「保存修理マニュアル」の存在も現場に周知されておらず、結果的にカビの大量発生を招いた。しかも、カビ発生の事実が公表されたのはそれから2年も後のことであった。2002年1月には前述のとおり西壁の2箇所に損傷が生じているが、文化庁はこの事実を公表せず、傷が目立たないように補彩していた。補彩は上記の西壁の2箇所以外に東壁、北壁、天井にも行われていたがこれについても公表されなかった。また、西壁損傷事故の2年前の2000年3月21日に撮影された(損傷前の)壁画写真を「最新の写真」と偽って新聞社に提供していたことも明らかになった。
この事態を受けて、文化庁により「国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策」を目的とした古墳の発掘調査が始まり、埋もれていた周溝などが発見されて古墳の本来の形状が明らかにされつつある。また、墳丘からは過去の地震によると思われる亀裂が多数発見されており、虫や雨水の進入経路になったと考えられている。
高松塚古墳(たかまつづかこふん)は、奈良県高市郡明日香村(国営飛鳥歴史公園内)に存在する古墳。藤原京期(694年 - 710年)に築造された終末期古墳で、直径23 m(下段)及び18 m(上段)、高さ5mの二段式の円墳である。1972年に極彩色の壁画が発見されたことで一躍注目されるようになった。
参考:『高松塚古墳』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%BE%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3
7世紀末から8世紀初頭にかけて築造された終末期古墳で、直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳です。
当初は、盗掘を逃れ残っていた銅鏡などから7世紀末から8世紀初めの終末期のものと推定されていましたが、2005年の発掘調査によって、藤原京期(694年~710年)の間と確定されました。被葬者は特定されておらず、3つの主な説があります。
天武天皇の皇子説
臣下説
朝鮮半島王族説
1972年に極彩色の壁画が発見されたことで一躍注目され、その壁画は教科書でもおなじみです。
古墳の姿発掘調査以降、壁画は現状のまま現地保存することになり、文化庁が石室内の温度や湿度の調整、防カビ処理などの保存管理、そして1981(昭和56)年以降年1回の定期点検を行ってきました。
しかし、2002(平成14)年から2003(平成15)年にかけて撮影された写真を調べた結果、雨水の浸入やカビの発生などにより壁画の退色・変色が顕著になっていることが2004(平成16)年に明らかになりました。
壁画は切石に直接描いたものではなく、切石の上に数ミリの厚さに塗られた漆喰層の上に描かれているもので、その漆喰自体が脆弱化しており、剥落の危険性が懸念されていました。
また、1,300年近く土中にあり、閉鎖された環境で保存されてきた石室が開口され、人が入り込むことによって温湿度などの環境変化カビ、虫などの生物による壁画の劣化も懸念されていました。
壁画保護には様々な難しい点がありました。
石室内は相対湿度が100%近い高湿の環境であり、修理や調査のために人が短時間石室内に入っただけでも温度の上昇と湿度の低下が起きてしまいます。
1974年から石室南側の前室部分に空調設備を備えた保存施設の建設が始まり、1976(昭和51)年に完成しました。この保存施設は前室、準備室、機械室からなり、石室内部の温湿度をモニターしつつ、前室内の温湿度をそれに合わせて調整するものでした。
壁画の保存修理工事は1976年9月から第1次、第2次、第3次に分けて実施され、1985年をもって第3次修理が終了しました。この間、1980(昭和55)年にカビの大量発生がおこりましたが、この時は薬品等を用いた除去策で事なきを得ました。
2003年、国宝高松塚古墳壁画緊急保存対策検討会が設置、翌2004年には国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策検討会が発足しました。同年6月20日付け「朝日新聞」大阪本社版朝刊が「白虎」の劣化を大々的に報じたことで壁画の劣化問題が一般にも知られるようになりました。
壁画の劣化防止策や保存方法について種々の検討が続けられ、壁画の描かれている石室をいったん解体・移動して修復し、修復完了後、元に戻すという方式が採用されました。
文化庁により「国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策」を目的とした古墳の発掘調査も始まり、埋もれていた周溝などが発見されて古墳の本来の形状が明らかにされつつあります。
墳丘の発掘調査と石室の解体修理は2006(平成18)年10月2日に開始されました。
2007(平成19)年1月には古墳全体を覆う断熱覆屋が完成、内部の温湿度は10℃、90%に保たれています。
同年3月には歴史公園内に修理施設が完成、石室はいったん解体・搬出した後、この修理施設へ移され、令和元年度まで修復が行われました。 修復された壁画は、引き続き文化庁による保存管理が行われており、年に数回一般公開が行われています。
参考:『高松塚古墳』国営飛鳥歴史公園HP https://www.asuka-park.jp/area/takamatsuzuka/tumulus/
参考:『高松塚古墳』奈良県観光公式サイト「あをによし」
https://yamatoji.nara-kankou.or.jp/03history/06kofun/03east_area/takamatsuzukakofun/
施設名 古墳高松塚古墳
所在地 山の辺・飛鳥・橿原・宇陀エリア〒634-0144 高市郡明日香村平田
お問い合わせTEL 0744-54-3340 (高松塚壁画館)
飛鳥管理センター(0744-54-2441)
URL http://www.asuka-park.go.jp/
https://asukamura.com/sightseeing/506/
https://www.asukabito.or.jp/hekigakan.html
営業時間 高松塚壁画館
開館時間:9:00~17:00(入館は16:30まで)
休日 高松塚壁画館
年中無休(12月29日~1月3日まで休)
料金 (一般)
大人:300円
学生:130円(大学・高校)
小人: 70円(中学・小学)
(団体)
大人:250円
学生:100円(大学・高校)
小人: 50円(中学・小学)
(共通券)
大人:700円
学生:150円
キトラ古墳(キトラこふん)は、奈良県高市郡明日香村の南西部、阿部山に築かれた古墳。国の特別史跡。亀虎古墳の表記もある。
墳丘にある石室内に壁画が発見され高松塚古墳と共に保存事業が進められている。
参考:『キトラ古墳』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%88%E3%83%A9%E5%8F%A4%E5%A2%B3
キトラ古墳は、高松塚古墳に続き日本で2番目に発見された大陸風の壁画古墳です。檜前の集落を越えて阿部山に向かう山の中腹にあります。二段築成の円墳で、上段が直径9.4m、テラス状の下段が直径13.8m、高さは上段・下段あわせて4mを少し超えると推測されています。
名前の由来は、中を覗くと亀と虎の壁画が見えたため「亀虎古墳」と呼ばれたという説、古墳の南側の地名「小字北浦」がなまって「キトラ」になったという説、またキトラ古墳が明日香村阿部山集落の北西方向にあるため四神のうち北をつかさどる亀(玄武)と西をつかさどる虎(白虎) から「亀虎」と呼ばれていたという説など、いろいろな説があります。
1983年11月7日に石室内の彩色壁画のひとつである玄武が発見されて、世間や学会から注目を集めました。2000(平成12)年には国指定史跡に指定され、続いて特別史跡に指定されました。 石室の天井には本格的天文図が、壁には四つの方位を守る神とされる四神や十二支の美しい絵が描かれています。国営飛鳥歴史公園内キトラ古墳周辺地区の南に位置しています。
7世紀末~8世紀初め頃に造られたと推測されています。古墳時代と呼ばれる時代の終わり頃です。この頃の古墳は終末期古墳と呼ばれ、古墳時代前期の巨大な前方後円墳から円墳や方墳へと形が変わり、古墳そのものも小さくなりました。
天武天皇の皇子である高市皇子、高官であった百済王昌成、古墳周辺一帯が「阿部山」という地名であることから右大臣の阿部御主人など、いろいろな人物が想像されています。
また、金や銀を使った副葬品や豪華な装飾をほどこしたと推測できる木棺などから、かなり身分の高い人のお墓であったことがわかります。
キトラ古墳壁画は、石室内部に塗った漆喰の上に繊細な筆づかいで描かれたものです。本格的な天文図や、四神像の全て、動物の頭と人間の体をもった十二支像などが確認されている、学術上、価値の高い文化財です。
高松塚古墳壁画発見の直後、付近の住民から「近くに似たような古墳がある」と知らされ、これがキトラ古墳の発掘調査に繋がる糸口となりました。 1983(昭和58)年にファイバースコープによる探査が行われ、石槨の奥壁に玄武と思われる壁画を発見。 15年後の1998(平成10)年、上下左右に向きを変えるCCDカメラで探査し、青龍、白虎、天文図を発見しました。そして2001(平成13)年の調査ではデジタルカメラを用いて、南壁の朱雀を確認し、獣頭人身十二支像の存在も確認しました。
古墳保存について
文化庁が2003(平成15)年より石室内調査を開始。その結果、壁画は、そのままにしておいてはやがて崩れてしまう極端なもろさであることがわかったため、この壁画を守るため、2004(平成16)年8月より、日本で初めての本格的な取り外しをおこないました。
取り外した壁画は細心の注意をはらって修理、強化処理をおこない保存管理しています。
古墳そのものは石室と同じ石材でふさぎ、埋め戻しました。
壁画および古墳の研究・保存・公開などは奈良文化財研究所が主となって進めています。
「キトラ古墳壁画体験館四神の館」1階の「キトラ古墳壁画保存管理施設」では、期間限定・事前登録制で壁画実物を公開します。
参考:『キトラ古墳』国営飛鳥歴史公園HP https://www.asuka-park.jp/area/kitora/tumulus/
参考:『令和6年度国宝キトラ古墳壁画の公開第32回』 https://www.kitora-kofun.com/
施設名 古墳国営飛鳥歴史公園 キトラ古墳周辺地区
所在地 山の辺・飛鳥・橿原・宇陀エリア〒634-0134 高市郡明日香村阿部山67
お問い合わせTEL 0744-54-5105 (四神の館)
URL https://asukamura.com/sightseeing/510/
営業時間
9:30~17:00(3月~11月)
9:30~16:30(12月~2月)
休日 年末年始(12月29日~1月3日)、4、7、11、2月の第2月曜日(祝日の場合は翌日)
料金 無料
参考:『国営飛鳥歴史公園 キトラ古墳周辺地区』奈良県観光公式サイト「なら旅ネット」
https://yamatoji.nara-kankou.or.jp/03history/06kofun/03east_area/kitorakofun/
参考動画:『【若一調査隊】奇跡の極彩色壁画とは? 奈良・明日香村の特別史跡「キトラ古墳」の謎に迫る!』読売テレビニュース(youtube) https://youtu.be/7WnjFUeOaoQ?si=DcMCGxvpoM3PGnE5
日本には国の史跡が1900か所以上ある。その中で特に学問的・歴史的に重要なものが、国の特別史跡に指定されている。施設の国宝ともいうべき重要なものであるが、全国63件の特別史跡のうち、なんと10件が奈良県に集中している。特に明日香村は村全体が古都保存法の対象エリアで古墳時代後期から飛鳥時代を中心とした歴史的文化的遺産が広範囲に及んでいる。
その中でも、明日香村には、石舞台古墳・高松塚古墳・キトラ古墳・藤原宮跡の4件が登録されている。キトラ古墳が最初に発見されたのは、1983年で、キトラ古墳には極彩色の壁画が描かれているが、このような技術の粋を集めて作られた極彩色の壁画は、高松塚古墳とキトラ古墳しか見つかっていない。
奈良県生駒郡の地名。古代この地方に斑鳩(いかる)が群居したことに由来して命名された。法隆寺(斑鳩寺)、中宮寺、法輪寺、三室山、龍田川など史跡、名勝が多い。
出典 精選版 日本国語大辞典
公式ホームページ http://asukaniimasujinja.jp/
当神社の主祭神八重事代主命〔やえことしろぬしのみこと〕は「於天事代〔あめにことしろ〕 於虚事代〔そらにことしろ〕 玉籤入彦〔たまくしいりひこ〕 厳之事代主神〔いつのことしろぬしのかみ〕」という御尊号をお持ちであり、その御神徳は天地、宇宙、目に見えない世界にまで拡がり八重にも積み重なるとまでいわれる神様であります。神々を導く統率神であり、国民〔くにたみ〕を幸せに導き、更には創造・創作の導き神として芸術に携わる方々からの信仰にも繋がっています。
下照姫命〔したてるひめのみこと〕はその御魂〔みたま〕である加夜奈留美命〔かやなるみのみこと〕と共に祀られ、当社において飛鳥神奈備三日女神〔あすかのかんなびみひめのかみ〕の御神名で鎮まっておられます。事代主神の妹神で、皇室御守護、国民〔くにたみ〕をあたたかく照らす神様です。
高照光姫命〔たかてるひめのみこと〕は五穀豊穣、家内安全、事業安定、国家安泰の神様です。
建御名方命〔たけみなかたのみこと〕は大国主神の御子神であり、武勇掲揚の神様です。
高皇産霊神〔たかみむすびのかみ〕(奥の社)は天照皇大神と共に天上界を主導される造化三神の一柱で、ふさわしきもの同士を結び、産み、育てる「むすびの神様」として大変篤い信仰を受けております。
陽石信仰・産石信仰
日本最大の御神鏡について(公式ホームページ) http://asukaniimasujinja.jp/goshinkyo/index.html
参考:『飛鳥坐神社』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E5%9D%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE
飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ/あすかにますじんじゃ)は、奈良県高市郡明日香村大字飛鳥字神奈備にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は村社。毎年2月のおんだ祭が奇祭として知られる。
創建年代とその由緒は不詳であるが、『出雲國造神賀詞』に「賀夜奈流美命ノ御魂ヲ飛鳥ノ神奈備ニ坐テ皇孫命ノ近守神ト貢置」とあり、大国主神が皇室の近き守護神として、賀夜奈流美命の神霊を飛鳥の神奈備に奉斎したとある。また『日本書紀』朱鳥元年(686年)7月の条に「奉幣 於居紀伊国国懸神 飛鳥四社 住吉大社」とあり、天武天皇の病気平癒祈願のため幣帛が奉られた。『日本紀略』によれば、天長6年(829年)3月、神託により現在の鳥形山へ遷座した。遷座する前の場所については諸説あってはっきりしない。
また、当社がある鳥形山の地は天照大神を初めて宮中の外で祀った地「倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)」であるとする伝承もあり(有力な説は大神神社摂社の檜原神社である)、近世には元伊勢とも称していた。
参考動画:『全長約142センチの鏡は “国内最大の青銅鏡”と判明 「知られない形で伝わっていて驚き」 奈良』読売テレビニュース
https://youtu.be/2P2JhGW-2DM?si=lUx8K9lYDOYlfhbV
奈良県南部
参考:『纏向遺跡ってどんな遺跡?』桜井市纒向学研究センター http://www.makimukugaku.jp/info/iseki.html
参考:『纏向遺跡』文化遺産オンライン(文化庁) https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/275183
参考:『纏向遺跡』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%92%E5%90%91%E9%81%BA%E8%B7%A1
纒向遺跡(まきむくいせき)は、奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯にある弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡・複合遺跡。国の史跡に指定されている。
2世紀末から4世紀前半にかけての遺跡である。一帯は前方後円墳発祥の地とする研究者もいる。邪馬台国の中心地に比定する説があり、最古の巨大前方後円墳とされる箸墓古墳と、それより古い5つの纒向型前方後円墳が分布する。
纏向遺跡の名称は、発掘を担当した石野博信が旧磯城郡纒向村に由来して名付けた。「纒向」の村名は垂仁天皇の「纒向珠城(たまき)宮」、景行天皇の「纒向日代(ひしろ)宮」より名づけられ、その伝承も基礎としたものである。
纒向遺跡は弥生時代から古墳時代への転換期の様相を示す遺跡であり、邪馬台国畿内説を立証する遺跡ではないかとする研究者から、邪馬台国の最有力候補地ともされる。2011年に大型建物跡の約5メートル東側から別の大型建物跡の一部が見つかり、建物跡は造営年代が3世紀後半以降の可能性がある。
遺跡の特徴
纏向遺跡はヤマト王権の初期の都市である。
遺跡内に箸墓古墳があり、これは墳丘長280mにおよぶ巨大前方後円墳である。それに先駆けて築造された墳丘長90m前後の「纒向型前方後円墳」も3世紀においては日本列島最大の墳丘規模を持っている。纒向型前方後円墳は各地にも築造されており、纏向遺跡に王権があり、支配関係があり伝播したと考えられている。
考古学者の中には最古の巨大前方後円墳が箸墓古墳である事から、箸墓は卑弥呼の墓であっても不自然はないとの見解もある(白石太一郎らの見解)。一方、箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160mであるが、魏志倭人伝における卑弥呼の墓の記述と合わないと云う指摘がある。魏志倭人伝には「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」とあり、この大きさは魏志倭人伝に使われている短里の場合、30m前後であり、箸墓古墳は大きすぎるとの意見がある。
2013年になって、3世紀に建造されたとされる建物の柱穴が100箇所以上にわたり検出された。建物を何度も建てたり取り壊したりしたと考えられる。
参考動画:『若一調査隊】邪馬台国の有力候補地 奈良・桜井市「纒向遺跡」衝撃的な大型建物群は卑弥呼の宮殿だったのか?古代史最大の謎に迫る』読売テレビニュース(youtube) https://youtu.be/ikRZdpChMnU?si=JKMuX9j4sZVYRq8b
東西約2km 南北約1.5km。広大な遺跡エリアの中心部にJR巻向駅がある。大型建物跡のある辻地区。3世紀に建てられた。周りを柵で囲まれていた。高さは3階建てのビルに相当。規則性を持った当時唯一の規則性のある方位が正しい建物。祭祀土坑。3000粒の桃の種。発生期古墳(きわめて初期の古墳)。その完成形といわれる箸墓古墳(宮内庁指定:大市墓)。当時最大。倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)。2013年専門家による立ち入り調査。管理区域外の発掘から、3世紀中頃~後半くらい。測量図から見て全く乱れていないので未盗掘とみられる。
水利を利用した町造り。九州から関東までからの持ち込みの土器。列島各地から人々が集まってきたのではないか。農具はほとんど見つかっておらず、農村ではなく「都市」であった。纏向遺跡はまだ2%しか調査が進んでいないので的を絞った調査になると思われる。
纏向遺跡に所在する主な古墳:箸墓古墳、纒向石塚古墳、ホケノ山古墳、勝山古墳、東田大塚古墳、矢塚古墳、メクリ1号墳、南飛塚古墳(桜井市纒向学研究センター)
公式→多武峰 談山神社 https://www.tanzan.or.jp/rekishi.html 多武峰縁起 大化の改新談合の地
参考:『談山神社(たんざんじんじゃ)』奈良しあわせ散歩(パワースポット&カフェ&雑貨大好き女子のよくばりガイド)(近畿日本鉄道) https://www.kintetsu.co.jp/nara/report_powerspot/tanzan.html 大化の改新談合の地。「語い(かたらい)山」。季節ごとに素晴らしい境内、「関西の日光」。恋神社、恋の道。
参考:『花 桜 4月上旬~5月中旬(談山神社)』なら旅ネット(奈良県観光公式サイト) https://yamatoji.nara-kankou.or.jp/023flower_spot/tanzanjinja/0000000001/
参考:『談山神社』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%87%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE
談山神社(たんざんじんじゃ)は、奈良県桜井市多武峰(とうのみね)にある神社。旧社格は別格官幣社で、現在は神社本庁の別表神社。
神仏分離以前は多武峯妙楽寺(とうのみねみょうらくじ)という有力な寺院であった。現在は桜と紅葉の名所として知られる。
祭神
主祭神 - 藤原鎌足公
参考動画:『【若一調査隊】奈良・談山神社「大化の改新」ゆかりの地 中臣鎌足と中大兄皇子が蘇我入鹿を討つためにここで…?』読売テレビニュース(youtube) https://www.youtube.com/watch?v=XHHfKoVv3w0
藤原鎌足ゆかりの神社、大化の改新。歴史の出発点。多武峰バス停で降りて多武峰街道を歩いて談山神社に至るルートで進む。寺川に屋形橋が架かる。江戸時代、240年以上の歴史(現在の物は最近建て直し)。本居宣長、松尾芭蕉。東大門(1803年。総ケヤキ造り。重文)。東大門が神社らしくなのはもともと出来た当時はお寺であった。多武峰妙楽寺。明治まで神仏習合。1868年の神仏分離令で妙楽寺は廃寺。談山神社として残る。門はお寺の名残。
旧多武峰街道。山の辺の道。摩尼輪塔(重文。摩尼とは宝珠のこと。種子アーク(大日如来)梵字がかかれている。談山神社(妙楽寺)への道しるべ。1303年。元々は3m20くらいの高さ)。淡海公十三重石塔。淡海公は藤原不比等。祭神藤原鎌足公の次男藤原不比等がここに葬られているという伝説。藤原一族の原点。野生の鹿。南北朝時代に後醍醐天皇が寄進した灯篭(重文)。
高い階段。3000本の桜や楓。秋には紅葉。一部室町時代、多くは江戸時代に再建された建物。総社本殿(重文)。日本で初めて総社としてまつられた。総社(そうじゃ)とはいくつかの神社の祭神を1か所にまとめて祭った神社。日本最大の黒福寿像。けまりの庭。中臣鎌足が中大兄皇子と初めて出会ったのが飛鳥寺の庭で行われた蹴鞠の会。皇子の脱げた沓を鎌足が拾った。談山神社もけまり会が行われている。語らい山。談山で大化の改新の密談。
木造十三重塔(重文)。
奈良県南部の山岳地帯の汎称。面積は全県の6割にも及ぶが,人口密度はきわめて小さい。吉野川流域の口吉野 (くちよしの) と,熊野川水系の奥吉野とに分れる。大化改新後,吉野郡がおかれ,のち元正,聖武両朝のとき芳野監 (げん) に改められて国に準じられ,さらに大和の一郡となった。平安時代初期に金峯山 (きんぷせん) が開かれ,修験道の本拠になった。交通が不便で隔絶性が強いため,古来亡命地となり,特に南北朝時代,南朝方の根拠地となった。室町時代には,金峯山寺を末寺とする興福寺一乗院の支配となり,近世,その大半は天領となった。 (→大和国 )
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*『宇陀市松山 (奈良県)』重要伝統的建造物群保存地区と各地区の保存・活用の取組み https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/pdf/94105901_75.pdf
宇陀市松山伝統的建造物群保存地区は、城下町から商家町へと発展した町です。
城山と宇陀川の間をのびる通り沿いには、江戸時代から昭和初期に至る様々な年代の建物が並び、戦国時代に整備された地割りを残します。また、地区の南端で宇陀川から引かれた水は、町の中心部では通りの両側を走り、この水の流れが町並みに加わることで、さらに独特な景観をつくりだしています。
平成18年度(2006):宇陀市松山伝統的建造物群保存地区保存計画告示 重要伝統的建造物群保存地区選定
参考:『宇陀松山[重要伝統的建造物群保存地区]』なら旅ネット(奈良県公式観光サイト) https://yamatoji.nara-kankou.or.jp/03history/02old_house/03east_area/rekishitekimachinami-udashiouda/
参考:『松山地区について』宇陀松山観光案内ホームページ https://aknv.city.uda.nara.jp/matuyama/around.html
参考:『ノスタルジック な町並み 『 宇陀松山 』 で町家歩き』奈良県宇陀市の観光ポータルサイト「うだ探訪ナビ」 https://www.uda-kankou.jp/feature/445
参考:『松山(宇陀市)』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B1%B1_(%E5%AE%87%E9%99%80%E5%B8%82)
松山(まつやま)は、奈良県宇陀市大宇陀地域にある広域地名。旧宇陀郡松山町。宇陀松山とも呼ばれる。江戸時代には宇陀松山藩の陣屋町として栄え、現在は一部が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
宇陀松山城の西側の地区は古代は阿騎野と呼ばれた宮廷の狩猟場であった。現在の街区は戦国時代に国人領主秋山氏により築かれた秋山城の城下町を起源とする。その後豊臣秀長配下の大名により現在の町並みの原型が形成され、地名が阿貴町から松山町に改められたとされる。
1600年の関ヶ原の戦い以降は織田信雄以後4代の支配を経て1694年からは江戸幕府の天領となり、商業地として栄えた。
明治時代以降も宇陀郡役所や裁判所がおかれるなど地域の中心として発展し、昭和40年代まで賑わったという歴史をもつ。
中心街は近世初頭の敷地割と江戸時代から明治時代の商家が数多く残り、宇陀松山伝統的建造物群保存地区の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
近鉄奈良駅からのルート→https://maps.app.goo.gl/GjUSZxsndsStMQty7
榛原駅からバスで15分くらい。
参考動画:『【若一調査隊】徳川幕府の国策を支えた場所に、昭和天皇や文豪が愛した名物も!かつての城下町、奈良の重伝建「宇陀松山」の魅力に迫る』読売テレビニュース(youtube) https://youtu.be/MnKLZ9wKn5k?si=TtEF-wYEOse9BjB1
100名城の宇陀松山城が無くなってしまった後、商家町として発展。全国に126地区ある重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
奈良県北部から大阪府にかけて流れる川。全長 64km。上流は初瀬川で,奈良盆地中部で,佐保川,飛鳥川などの諸河川を合流し,生駒山地の南麓を峡谷をつくって西流し,大阪市と堺市の境界で大阪湾に注ぐ。元禄年間 (1688~1704) 以前は柏原市 (大阪府) から北流して淀川に注いでいたが,河内平野での氾濫が激しく,宝永1 (1704) 年江戸幕府の方針で河道を変えた。現在は堺市の上水道,工業用水,流域の灌漑用水に利用されている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
唐古・鍵遺跡は、日本を代表する巨大環濠集落の遺跡である。面積は甲子園球場10個分(約10万㎡)。弥生時代の遺跡で約700年間存在したと考えられている。
現地は大阪から電車(で1時間ほどの奈良県田原本町に所在。1937年から調査、発掘現場は埋め戻され、地中で保存されている。1999年には国の遺跡に指定され、現在は遺跡全体の4分の1ほどが整備された史跡公園となっている。発掘の様子を再現した施設が公園内に作られている。園内に再現された2階建ての楼閣状の建物は、土器に描かれていた楼閣を再現したものである。
また、出土品(実物)400点近くは唐古・鍵考古学ミュージアム(最寄り駅:近鉄田原本駅)で見ることができる。
日本全国で見ても最大規模の集落を築くことが出来たのは地理的な要因が大きい。付近は水が集まりやすい湿地帯で、近くを川が流れ、その水を上手く取り入れて幾重にも環濠で囲み、集落の中にも水路をめぐらしたムラとなっている。水害を避けるための堀であると同時にその水運を活かし、さまざまなものが集められ、また出ていく都市の流通交易機能を備えたムラであった。環濠も吉野ヶ里のように敵を防ぐというよりもあくまで水運のためのものではないかと考えられている。
またこの遺跡の特徴として湿地帯であったため、残りにくい木製の道具、特に木製の農機具がそのままの形で残されている事である。また束ねられた稲穂も残り、この土地を中心に弥生時代に奈良盆地に数百の集落があったと考えられている。
静岡県の登呂遺跡は水田そのものの遺構がみつかり稲作の始まりの地として知られるが、この唐古・鍵遺跡ではさらに古い時代の農機具がみつかり、弥生土器には籾(もみ)あとが残っているなど弥生時代=稲作文化の構図を決定的にした遺構と言える。
絵画土器は全国で約1000点くらい発見されているが、その半数ほどはこの唐古・鍵遺跡で見つかったものである。絵画土器は祭祀に使われた土器とみられ、建物や動物、さらに祈祷師のような女性や男性の姿も彫られている。こうしたことから祭祀が比較的頻繁に行われていたとみられる。
また集落内には様々な工房があり、当時最先端だった銅鐸などの青銅器を作っていた形跡が工房として残っている。いわば弥生時代の最先端技術があった場所と言える。
付近に邪馬台国の候補地として考えられている纏向遺跡があり、唐古・鍵遺跡がその纒向遺跡の原点ともいえる地であったことは十分考えられるようだ。
参考:『【若一調査隊】“邪馬台国”につながる意外な関係性も⁉日本を代表する弥生時代の環濠集落「唐古・鍵遺跡」の魅力を徹底調査!』読売テレビニュースCh.
吉野神宮(よしのじんぐう)は、奈良県吉野郡吉野町吉野山にある神社。祭神は後醍醐天皇。建武中興十五社の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。旧社名:吉野宮。
南朝の後村上天皇は、父の後醍醐天皇が1339年(延元4年)に崩御した後、その像を吉野・吉水院に安置した。
参考:『吉野神宮』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E7%A5%9E%E5%AE%AE
明治22年(1889)、明治天皇により創建。後醍醐天皇を祀る。社殿は昭和7年(1932)の改築で、本殿、拝殿などは全て檜造り。
境内には建武中興の巧臣7人が祀られている摂社3社がある。吉水神社から移された天皇像は、後村上天皇が彫ったものと伝えられている。
施設名 神社吉野神宮
所在地 吉野路エリア〒639-3115 吉野郡吉野町吉野山3226
TEL 0746-32-3088
URL https://twitter.com/yoshinojingu?lang=ja
https://www.instagram.com/yoshino_jingu/
拝観時間 08:30~17:00
休日 無
拝観料 無料
参考:『吉野神宮 奈良県ビジターズビューロー』(なら旅ネット) https://yamatoji.nara-kankou.or.jp/01shaji/01jinja/04south_area/yoshinojingu/
和歌山河川国道事務所の荘司周夫副所長によると「河川法上は水源から河口まで〝紀の川〟です。ただし、河川は昔から地域の生活環境とかかわってきた由来があり、同じ河川でも地域によって名称や愛称が異なることがあります」とのことでした。
上流の奈良県南部では、桜で名高い吉野地方を流れることから、〝吉野川〟で親しまれています。一方で、紀の国・和歌山県では〝紀の川〟で定着しています。河川法では、その川の下流で呼ばれている名前が使われることから、法律上は〝紀の川〟なのです。
同じ川でも上流、下流で名称が異なるケースは全国で見られます。昨年、長野県で氾濫した千曲川は日本で最も長い川、信濃川の上流にあたります。近畿の水がめ、琵琶湖から大阪湾へ流れる淀川は、京都府では宇治川、滋賀県では瀬田川と名前を変えます。
参考:『下流は紀の川、上流は吉野川?』ニュース和歌山 https://www.nwn.jp/feature/200118_kinokawa-yoshinogawa/
吉野山から山上ヶ岳にかけての一帯は、古くから金の御岳(かねのみたけ)、金峯山(きんぷせん)と称され、古代から世に広く知られた聖域とされました。白鳳時代に役行者が金峯山の山頂にあたる山上ヶ岳で、一千日間の参籠修行された結果、金剛蔵王大権現を感得せられ、修験道のご本尊とされました。役行者は、そのお姿をヤマザクラの木に刻まれて、山上ヶ岳の頂上と山下にあたる吉野山にお祀りしたことが金峯山寺の開創と伝えられています。以来、金峯山寺は、皇族貴族から一般民衆に至るまでの数多の人々から崇敬をうけ、修験道の根本道場として大いに栄えることとなりました。明治初年の神仏分離廃仏毀釈の大法難によって、一時期、廃寺の憂き目を見たこともありましたが、篤い信仰に支えられ、仏寺に復興して、現在では金峯山修験本宗の総本山として全国の修験者・山伏が集う修験道の中心寺院となっています。
参考:『金峯山修験本宗総本山 金峯山寺』 https://www.kinpusen.or.jp/about/
参考:『金峯山寺 世界遺産』奈良県観光公式サイトなら旅ネット https://yamatoji.nara-kankou.or.jp/01shaji/02tera/04south_area/kimpusenji/
所 在 地
〒639-3115 奈良県吉野郡吉野町吉野山2498
拝観時間
8:30~16:30 (受付 16:00まで)
交 通
吉野駅→吉野山ロープウェイ吉野山駅下車徒歩約15分
お問合せ
TEL:0746-32-8371
参考:『金峯山寺』パワースポット&カフェ&雑貨大好き女子のよくばりガイド 奈良しあわせ散歩(近畿日本ツーリスト) https://www.kintetsu.co.jp/nara/report_powerspot/kinpu.html
吉野ロープウェイ(吉野大峯ケーブル自動車株式会社) http://www.yokb315.co.jp/
金峯山寺は吉野山のシンボルであり、修験道の総本山。
蔵王堂は正面5間、側面6間、高さ約34m、檜皮葺き(ひわだぶき)の、東大寺大仏殿に次ぐ木造大建築。蔵王権現像(重文)3体がまつられ、本尊は高さ7mにもおよびます。(蔵王堂・仁王門は国宝・世界遺産)
参考:『金峯山寺蔵王堂』吉野山観光協会 https://yoshinoyama-kankou.com/temples/%E9%87%91%E5%B3%AF%E5%B1%B1%E5%AF%BA%E8%94%B5%E7%8E%8B%E5%A0%82/
参考:『奈良 藤原道長が吉野山に納めた自筆の経典 新たに国宝に』NHK(奈良) 2024/3/15 https://www3.nhk.or.jp/lnews/nara/20240315/2050015675.html
大阪府大阪市北区梅田にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅。駅施設は梅田三丁目から大深町まで広がっている。
第1回近畿の駅百選にも選定され、JR西日本で最多の乗降客数を誇る駅である。
大阪最大の繁華街・ビジネス街である梅田の中心に位置する西日本最大のターミナル駅であり、関西一の鉄道交通の拠点である梅田地区の鉄道駅の1つである。JR西日本の駅としては最も利用者数が多く、世界的にも有数の利用者数を誇る。また、駅ビルの大阪ステーションシティは当駅を核に構成される巨大複合商業施設である。
各線の梅田駅との乗り換え駅である。
1874年(明治7年)に大阪駅 - 神戸駅間の鉄道開業と同時に開業した。建設はジョン・イングランド ら英国人技士団の指導の下で進められた。駅舎は赤煉瓦造り2階建てで、現在の四つ橋筋より西側の西梅田スクエア(大阪中央郵便局旧局舎跡付近)にあった。当時の梅田は民家がわずかにあるだけで駅周辺は田圃が広がっていた。大阪駅は1889年(明治22年)の市制施行時でも大阪市に含まれず、1897年(明治30年)まで西成郡曽根崎村に属していた。
2011年、五代目駅舎と、「駅」と「まち」をひとつにした大阪ステーションシティが誕生した。
2014年(平成26年)5月1日:大阪環状線改造プロジェクトの一環で、やしきたかじんの代表曲「やっぱ好きやねん」を大阪環状線ホームの発車メロディとして導入。
乗り入れ線は、大阪環状線と東海道線の2つのみ。また環状線(1,2番線)の起点は天王寺、東海道は神戸なので大阪駅はこれだけの大きさにもかかわらず、通過駅に過ぎない。御堂筋口・中央口(床のデザインが迷路)・桜橋口の3つの出入り口を持ち、それぞれデザインが異なる。中央口は、照明のデザインも一つ一つ違う。売店のガラスには10匹の動物が隠れている。大理石の柱には化石が隠れている。デザインも近未来的で宇宙感がある。
2023年に出来たウメキタ入り口。21番線・22番線和歌山方面(くろしお・はるか)が新設されている。ホームのゲートも停車位置に合わせて全体が動くフルスクリーンホームドアとなっており、駅では世界初導入である。
AI案内機や顔パス入場ゲートを備えているのが特徴。タッチスクリーンの巨大インタラクティブウォール(水の都・大坂をイメージ)で遊ぶこともできる。
まだ周辺開発途中で、2024年には新たな公園や商業施設の開業が順次予定されている。
参考:『大阪駅』Wikipedia 。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E9%A7%85
参考:『【探索】巨大すぎる大阪駅に行ったら最新設備に遊び心あって楽しすぎたw』
富山の遊び場!TV Ch.
https://youtu.be/ASSOIJtk3kg?si=mLcQsiHuiFBrUg-O
大阪駅・梅田駅 各路線の駅周辺を徹底取材。ぜひ廻ってみたくなった。
街を一望のもとに見渡せる屋内と屋外の展望台。レストラン、カフェ、ギフトショップも併設。
所在施設: 梅田スカイビル
所在地: 〒531-6039 大阪府大阪市北区大淀中1丁目1−88 梅田スカイビル
営業時間:
営業中 ⋅ 営業終了: 22:00
電話番号: 06-6440-3855
(Google)
空中庭園展望台 - 梅田スカイビルHP https://www.skybldg.co.jp/observatory/
◎アクセス
JR大阪駅から徒歩7分
阪急大阪梅田駅から徒歩9分
Osaka Metro 梅田駅から徒歩9分
◎営業時間
9:30〜22:30(最終入場22:00)
※営業時間は予告なく変更となる場合があります
※特別営業日がございます
◎料金
大人
1,500円(障がい者750円)
4歳~小学生
700円(障がい者350円)
料金は税込み価格です。(円)
4歳未満は入場無料です。
同数の同伴者にも障がい者料金を適用いたします。
大坂城の歴史等については日本の城を参照。
[大阪城公園]
大阪府大阪市中央区大阪城にある都市公園(歴史公園)である。
本丸に聳える大阪城天守閣は展望台と歴史博物館を兼ねた施設として有料公開されており、最上階からは遠く生駒山から大阪湾、大阪平野を見渡すことができる。
公園内には樹木が多く植えられ、二の丸市正曲輪の梅林、北外曲輪の桃園、西の丸庭園の桜など、花見シーズンには梅・桃・桜の名所となっている。また、杉山地区は森林公園となっており、外濠の水辺に集まる野鳥を眺めて家族連れが憩う姿も見られ、都会のオアシスとして市民から愛されている。日本国外からの観光客も多い。日本さくら名所100選に選定されている。
参考:『大阪城公園』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%9F%8E%E5%85%AC%E5%9C%92
サイト:『特別史跡 大阪城公園』(英語・簡体字・繁体字・韓国語あり)
大阪府大阪市中央区城見にある、超高層ビル群と都市公園で構成された再開発地域。略称はOBP(オービーピー)、古称・別称は弁天島(べんてんじま)。
大坂城の北東に位置し、寝屋川・第二寝屋川・大阪環状線に挟まれた約26haの城見地区を指す。大阪城公園に隣接した地区を経済、商業の一大拠点にしようと、大阪市と大阪府に本社を置く大手企業などの取り組みにより共同で建設された。
1996年には最寄り駅として大阪ビジネスパーク駅(Osaka Metro長堀鶴見緑地線)が完成し、交通アクセスの更なる充実を果たした。
参考:『大阪ビジネスパーク』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E3%83%93%E3%82%B8%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF
OBP(大阪ビジネスパーク)は、読売テレビ、住友生命、KDDI、東京海上日動火災、富士通、日本電気など大手企業がオフィスを構える大阪の新都心。26haの敷地にはTWIN21、IMP(インターナショナル・マーケット・プレース)などオフィスビルをはじめ、西日本最大規模をもつ大阪城ホール、クラシック音楽専用の「いずみホール」、など文化を創造するイベント関連施設、そしてショッピングやスポーツ施設、ホテルなども集中している。最寄り駅はOsaka Metro長堀鶴見緑地線、大阪ビジネスパーク駅から徒歩すぐ。
アクセス
Osaka Metro長堀鶴見緑地線「大阪ビジネスパーク駅」より徒歩1分、JR大阪環状線・Osaka Metro・京阪電鉄「京橋駅」より徒歩5分
住所
〒 540-6131 大阪市中央区城見2-1-61(ツイン21MIDタワー31F)
電話番号
06-6946-1048/06-6946-1310(大阪ビジネスパーク開発協議会事務局)
Fax
06-6946-1048
参考:『OBP(大阪ビジネスパーク)』OSAKA Info https://osaka-info.jp/spot/obp-osaka-business-park/
サイト:『OBP OSAKA BUSINESS PARK』一般社団法人大阪ビジネスパーク協議会
一般的に日本橋 - 大黒橋間において、道頓堀川南岸の道頓堀通沿いに広がる繁華街を指す。なかでも戎橋以東は道頓堀五座(後述)が立地した芝居町にあたる。道頓堀通の南側に芝居小屋、北側に芝居茶屋が並ぶ構造だったため、現在も通の南側に娯楽施設、北側に飲食店が多い。
大阪ミナミの東西基軸となる道頓堀通の両側町で、南は難波と千日前、北は道頓堀川を挟んで島之内の心斎橋筋や宗右衛門町に接する。飲食店が集中し、道頓堀グリコサイン、かに道楽本店、中座くいだおれビル、金龍ラーメン、なんば道頓堀ホテルなど、多種多様な看板やネオン・建物の店舗であふれている。かつてはくいだおれや道頓堀極樂商店街もあった。
道頓堀橋(御堂筋)以東が1丁目、同以西が2丁目となり、1丁目の日本橋(堺筋)以東は一般的に繁華街に含まれない。道頓堀の名前は商人で開墾者の安井道頓に由来し、日本橋北詰交差点には石碑もある。
参考:『道頓堀』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E9%A0%93%E5%A0%80
サイト:道頓堀商店街 http://www.dotonbori.or.jp/ja/
大阪水上バス株式会社(おおさかすいじょうバス、英: OSAKA AQUA BUS LTD.)は、大阪府大阪市中央区に本社を置く京阪グループの企業。「アクアライナー」「サンタマリア」などの遊覧船を運航している。
1983年、大阪城築城400年祭に際して創業し、朝夕は通勤船、日中は観光用の遊覧船とした水上バス「アクアライナー」が運航開始した。旧淀川を航行する通勤船としては1934年以来、遊覧船としては1966年以来の復活であった(その後、通勤船航路は2005年6月23日限りで運航休止となっている)。
その後、1990年に大阪港を周遊する遊覧船「サンタマリア」が就航。このほか「水都号 アクアmini」や、グルメ・ミュージック船「ひまわり」も就航している。
参考:『大阪水上バス』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E6%B0%B4%E4%B8%8A%E3%83%90%E3%82%B9
大阪城や中之島をいく「アクアライナー」
オープン船「アクアmini」
食事もできる「ひまわり」
大阪港を巡る「サンタマリア」
水都大阪を満喫できる4つのクルーズを
ご用意しております!
いくつもの橋をくぐりながら、
歴史あふれる大阪の名所・旧跡の数々を
川面から大阪散策でお楽しみください。
サイト:KEIHAN 大阪水上バス https://suijo-bus.osaka/
京阪モール KiKi京橋 Kぶらっと 公式サイト https://keihan-mall.jp/
毎年4月中旬頃の桜の開花時には、造幣局構内旧淀川沿いの全長約560mの通路を一般花見客のために1週間開放しています。
現在、造幣局にある桜は、関山、松月、普賢象、楊貴妃などの八重桜が主(大半は遅咲きの八重桜)で、満開時の美しさはたとえようもなく、明治16年に開始した「通り抜け」も昭和58年春には100年を迎え、今では浪速の春を飾る風物詩として、人々に愛されています。なお、大手毬、小手毬などは、他ではめったに見られない珍種と言われています。
造幣局 『桜の通り抜け』https://www.mint.go.jp/enjoy/toorinuke/sakura_osaka_news_r6.html
戎橋(えびすばし)は、大阪市中央区の道頓堀川に架かる長さ26m[1]の橋。現在の橋の橋梁部は2007年(平成19年)に完成した。鴻池組施工。
大阪ミナミの繁華街の中心に位置する。北詰は心斎橋筋の南端で心斎橋筋商店街が長堀通まで、南詰は戎橋筋の北端で戎橋筋商店街が南海難波駅前まで伸び、人通りが多い。とりわけ南西袂にあるグリコサインは有名で観光スポットにもなっている。
戎橋は1615年(元和元年)の道頓堀川開削とともに木橋として架橋されたという[3]。戎橋は公儀橋ではなく町人が管理する町橋で、明治時代に鉄橋が完成するまでに13回の修理や架け替えが行われたという[4]。戎橋南詰には人形浄瑠璃の芝居小屋「竹本座」(のちに退転し歌舞伎の浪花座となる)があり、浄瑠璃の全盛期には「操橋(あやつり橋)」の異名もあった。
地元のプロ野球チームである阪神タイガース(セントラル・リーグ)の優勝時やサッカーワールドカップ開催時などには数千人もの人々が橋上で夜を徹する光景が見られた[3]。戎橋から道頓堀川への飛び込みは1985年の阪神優勝時に始まったとされ[5]、同年と2003年の阪神タイガース優勝時、2001年の大阪近鉄バファローズ優勝時、2002年の日韓W杯での日本代表勝利時・決勝トーナメント進出時(試合が長居スタジアムだった)にはこの橋から道頓堀川に飛び込む若者が相次いだ。しかし橋の欄干から水面までの高さは約6メートル、水深は約3.5メートルで、着水時の衝撃で怪我をしたり溺れたりする危険性、岸から遊歩道へ這い上がることが困難であること[5]、水質の汚さ(2007年8月時点で、国の環境基準で水浴に利用できるとされる100 mlあたりの大腸菌数1000 MPNを大きく上回る2400 - 7900 MPNの大腸菌が検出された)、水底のヘドロ、川の中に捨てられた自転車で怪我をする危険性などが指摘されており、2003年の阪神優勝時には飛び込みによる死亡事故が起きている。これを受けて2005年の阪神優勝時には飛び込み防止用のフェンスが設置されたが、同年や2023年の阪神優勝時にもフェンスや警備の警察官たちの存在にも構わず飛び込んだファンが複数いた。このように地元のプロ野球チームが優勝した際に繁華街の橋から川に飛び込む事例としては、中日ドラゴンズのセ・リーグ優勝時に納屋橋(愛知県名古屋市)から堀川へ飛び込んだ中日ファンの例、福岡ソフトバンクホークスのパシフィック・リーグ優勝時に福博であい橋(福岡県福岡市)から那珂川へ飛び込んだホークスファンの例などが見られるが、これらの川も道頓堀川と同様に水質の汚さ、水深の浅さ、水中の廃棄物の存在などから飛び込みは危険であることが指摘されている。また横浜ベイスターズが38年ぶりにセ・リーグ優勝を達成した1998年10月には、横浜駅近くの新田間川に飛び込んだファンが死亡するという事故も発生している。
『戎橋』Wikipediaより
なんばグランド花月(なんばグランドかげつ)は、大阪府大阪市中央区にある、吉本興業が運営するお笑い・喜劇専門の劇場。通称:「NGK(エヌ・ジー・ケー)」。キャッチコピーは「笑いの殿堂」。
老朽化したなんば花月に代わる劇場として、1987年(昭和62年)11月1日に新築開場した。1988年になんば花月が閉館されるまでは両劇場が併用されていた。こけら落としのCMは当時関西で爆発的人気を誇っていたダウンタウンが務めた。
オープンから数年間は当劇場で吉本新喜劇の公演はなかったが、1990年(平成2年)3月31日にうめだ花月が閉館し翌4月1日から毎日公演されている。オープン時にはテレビ番組の収録に使われるスタジオ「NGKホール」(後に「NGKスタジオ」に改称、50坪)があったが、その後「ヨシモト∞ホール大阪」に改装され、吉本興業主催の演芸コンテスト『M-1グランプリ』の準々決勝や『R-1ぐらんぷり』の準決勝大阪会場にも使用された。また関西ローカル番組時代のR-1では決勝戦会場としても使用されていた。2007年3月18日にはスタジオ機器のデジタル化工事が完了し、屋上を含めビル内どこからでもハイビジョン収録・生中継が可能となったが、2012年のリニューアルに伴い閉鎖された。跡地は土産物の販売コーナーに改装されている。
参考:『なんばグランド花月』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%82%93%E3%81%B0%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E8%8A%B1%E6%9C%88
公式サイト:『なんばグランド花月』 https://ngk.yoshimoto.co.jp/
笑いの殿堂 なんばグランド花月とは
1912年、吉本興業は寄席小屋の運営からスタートしました。
その遺伝子を継承し、1987年11月に誕生した演芸場「なんばグランド花月」は、 吉本興業が誇るお笑い⽂化の発信拠点として世の中に笑いを届け続けています。
お笑い劇場としては国内最大の858席の座席を有し、レトロ調の館内は「古き良き日本」を演出、日本の皆様はもちろん、海外の皆様にも人気を博しています。
2016年には年間来場者が100万人を突破、老若男女問わず最高峰のお笑いを楽しむことができる、まさに「笑いの殿堂」です。
Expo 2025 Osaka, Kansai, Japan
日本の大阪府大阪市此花区の夢洲で開催予定の国際博覧会である。開催期間は2025年(令和7年)4月13日-10月13日の184日間。
2025年に日本・大阪府で開催される予定の国際博覧会であり、公益社団法人2025年日本国際博覧会協会が準備から開催運営までを行う。登録博覧会(登録博)に区分されており、総合的なテーマを扱う大規模博覧会として実施される予定である。
テーマ:いのち輝く未来社会のデザイン(英語: Designing Future Society for Our Lives)
サブテーマ:多様で心身ともに健康な生き方・持続可能な社会・経済システム
コンセプト:-People’s Living Lab- 未来社会の実験場
公式キャラクター:ミャクミャク(「細胞」をコンセプトとしたロゴマークが大阪市内のTEAM INARI(シマダタモツ代表)によりデザインされた)
公式テーマソング:「この地球の続きを」 - アンバサダーにも就任しているコブクロが、万博のために書き下ろした。
開催期間:2025年4月13日〜10月13日(184日間)
開場時間:午前9時-午後10時
主催:公益社団法人 2025年日本国際博覧会協会
面積:約155ha(USJ 約3個分)
事業費:3,187億円(内訳:会場建設費2350億円、運営費837億円)
入場料:大人3,700-7,500円 中人2,000-4,200円 小人1,000-1,800円
想定来場者数:2,820万人
日本での国際博覧会開催は2005年日本国際博覧会(愛・地球博)以来20年ぶり6回目で、登録博(旧一般博)としても20年ぶり、3回目である。大阪で開催されるのは登録博(旧一般博)としては1970年に吹田市で開催された日本万国博覧会以来55年ぶり2回目、特別博も含めると1990年に大阪市鶴見区で開催された国際花と緑の博覧会以来35年ぶり3回目である。
2018年11月23日にフランスのパリで開かれた第164回BIE総会で開催国を決める投票の2回目の投票で決定した。
*公式サイト 概要→ https://www.expo2025.or.jp/overview/
*参考:『2025年日本国際博覧会』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/2025%E5%B9%B4%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%8D%9A%E8%A6%A7%E4%BC%9A
大阪府の堺市・羽曳野市・藤井寺市にまたがる巨大古墳群。4世紀後半から6世紀前半にかけて200基を超える古墳が造られ、現在は89基の古墳が残る。墳丘長486メートルに及ぶ仁徳天皇陵古墳は世界でも最大級の大きさで、応神天皇陵古墳(墳丘長425メートル)や履中天皇陵古墳(墳丘長365メートル)など、巨大な前方後円墳が集中している。周囲にある円墳や方墳などは埋葬された人物の地位により大きさや形が異なり、古代日本列島における王権の成り立ちを示す遺跡とされている。2017年7月31日に開かれた文化庁の文化審議会で国連教育科学文化機関(ユネスコ)へ推薦する国内候補に決定し、19年の世界遺産登録を目指している。
(2017-8-3)
出典 朝日新聞出版知恵蔵mini
[百舌鳥・古市古墳群 -古代日本の墳墓群-] (文化遺産オンライン)
世界遺産登録年:2019年
主情報
記載物件名
百舌鳥・古市古墳群‐古代日本の墳墓群‐
構成資産
反正天皇陵古墳、仁徳天皇陵古墳、茶山古墳、大安寺山古墳、永山古墳、源右衛門山古墳、塚廻古墳、収塚古墳、孫太夫山古墳、竜佐山古墳、銅亀山古墳、菰山塚古墳、丸保山古墳、長塚古墳、旗塚古墳、銭塚古墳、履中天皇陵古墳、寺山南山古墳、七観音古墳、いたすけ古墳、善右ヱ門山古墳、御廟山古墳、ニサンザイ古墳、津堂城山古墳、仲哀天皇陵古墳、鉢塚古墳、允恭天皇陵古墳、仲姫命陵古墳、鍋塚古墳、助太山古墳、中山塚古墳、八島塚古墳、古室山古墳、大鳥塚古墳、応神天皇陵古墳、誉田丸山古墳、二ツ塚古墳、東馬塚古墳、栗塚古墳、東山古墳、はざみ山古墳、墓山古墳、野中古墳、向墓山古墳、西馬塚古墳、浄元寺山古墳、青山古墳、峯ヶ塚古墳、白鳥陵古墳
所在地(市町村)
大阪府堺市、羽曳野市、藤井寺市
暫定記載年
平成22年(2010年)
推薦年月
平成30年(2018年)1月
記載年月
令和元年(2019年)7月
評価基準
(ⅲ)(ⅳ)
都道府県所管課
大阪府百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議事務局
自治体等HP:
https://www.mozu-furuichi.jp/ (百舌鳥・古市古墳群世界遺産保存活用会議)
ユネスコ資産ページ:
https://whc.unesco.org/en/list/1593
写真提供:
堺市、羽曳野市教育委員会、藤井寺市教育委員会
関連資料:
解説:
詳細解説
百舌鳥・古市古墳群は、古墳時代の最盛期であった4世紀後半から5世紀後半にかけて、当時の政治・文化の中心地のひとつであり、大陸に向かう航路の発着点であった大阪湾に接する平野上に築造されました。
世界でも独特な、墳長500メートル近くに達する前方後円墳から20メートル台の墳墓まで、大きさと形状に多様性を示す古墳により構成されています。墳丘は葬送儀礼の舞台であり、幾何学的にデザインされ、埴輪などで外観が飾り立てられました。
本資産は、土製建造物のたぐいまれな技術的到達点を表し、墳墓によって権力を象徴した日本列島の人々の歴史を物語る顕著な物証です。
◎設問中の他の選択肢
*岩橋千塚(いわせせんづか)
和歌山市和佐関戸を中心とした大古墳群。古墳時代前期~7世紀初。500基以上。石室の構造の点で他の地域と異なる。1931年(昭和6)国の史跡に指定、52年に特別史跡に指定。豪族紀氏の古墳か。
参考:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
本古墳群は前方後円墳・円墳・方墳で構成されており、円墳が一番多く、前方後円墳は1パーセントである。6世紀後半頃に造営されたと考えられ、それより1~2世代を下ると群集墳が造られなくなっている。なお、これらの群集墳の造墓は、6世紀末を下限としており、7世紀中葉の大化の薄葬令よりも約半世紀前に終わっている。
岩瀬千塚ウィキペディアより抜粋
*西都原古墳群
宮崎県西都市三宅・童子丸・右松にある古墳群。国の特別史跡に指定されている。
標高70メートル程の洪積層の台地上に分布する日本最大級の古墳群である。第81号墳を現状最古として、4世紀初頭から7世紀前半にかけての築造と推定されている。現在、高塚墳319基が現存し、その内訳は前方後円墳31基、方墳2基、円墳286基であるが、他に横穴墓が10基、南九州特有の地下式横穴墓が12基確認されている。
西都原古墳群Wikipediaより抜粋。
古墳群には、墳丘をもつ古墳に加えて、南九州に特有の地下式横穴墓や全国に広く分布する横穴墓が混在する。
参考:『西都原古墳群の概要』(宮崎県立西都原考古博物館)
*高松塚古墳
→このページにある奈良県の項参照
2021年日本地理に百舌鳥・古市古墳群を大阪平野の遊覧飛行の問題中に関連知識として堺市南の岸和田市の祭を問う問題が出題された。
大阪府岸和田市の岸和田地区にある岸城神社(きしきじんじゃ)と岸和田天神宮の例祭。毎年 9月の敬老の日(第3月曜日)直前の土曜日と日曜日に行なわれる。地区各町が威勢よく引き回す「だんじり」で知られ,その名がある。元禄16(1703)年に,岸和田藩藩主岡部長泰(おかべながやす)が京都の伏見稲荷を城内三の丸に勧請し,五穀豊穣を祈る祭りを始めたのが起源と伝えられ,寛延3(1750)年に岸城神社への「だんじり」の宮入り記録がある。岸城神社と岸和田天神宮の祭りが同日に行なわれるようになったのは明治初期のことで,両神社の氏子である各町内から選ばれる年番を中心に運営される。各町では,氏子たちが年齢段階によって割り当てられた役割に従って「だんじり」を運行するが,祭りの花形は両手にうちわを持って屋根の上に乗る大工方で,その指示によって,勢いよく角を曲がるやり回しなどがなされる。初日は岸和田駅前を通るパレードが行なわれ,2日目に岸城神社,岸和田天神宮で,中心行事である氏子町の「だんじり」の宮入りが行なわれる。ただし,春木南の「だんじり」だけは,同日にだんじり祭りを行なっている春木地区の弥栄神社に宮入りする。宮入りの順番はくじ引きで決めるが,岸城神社の宮本町,上町,五軒屋町と岸和田天神宮の沼町,筋海町は,常にこの順で先陣を切って宮入りすることが決まりとなっている。岸和田市内では 10月にもほかの地区で同様のだんじり祭りが行なわれる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[だんじりとは]
*「だんじり」もしくは「だんぢり」とは、日本の祭礼に奉納される山車(だし)を指す西日本特有の呼称。「楽車」・「壇尻」・「台尻」・「段尻」・「山車」·「地車」とも表記される。
主に近畿地方・中国地方・四国地方などの祭礼で登場し、「曳きだんじり」と「担ぎだんじり」の2種類に大別される。地方によっては、太鼓台やふとん太鼓などをこう呼ぶ場合もある。
『だんじり』Wikipediaより
*曳行されるだんじり(地車)は総欅造り(黒檀等を装飾的に用いることもある)、前方に100mほどの1本の綱をつけ、500人程度で地元の町を疾走する。囃子を奏でる大小の和太鼓と鉦が備えられ、そこに篠笛が加わる。欅には女神が宿るなどと言われている。女性がだんじりに乗ることはできないが、女児はその限りではない。成人女性は曳き手として参加することは不可能であり、18歳程度で止めて、後は男性をサポートする立場にまわる者が圧倒的に多い。
近世の岸和田城下において城門を潜る必要性から独自の進化を遂げて行った岸和田型のだんじりを「下だんじり」、以前の形態を残した各種だんじりを「上だんじり」と呼び分けることもある。下だんじりは優美なシルエットと精緻な彫刻で人気を博し、岸和田市内や泉州地域以外にも広まりを見せている。現在は岸和田市、和泉市、忠岡町、貝塚市、熊取町、泉佐野市、田尻町で曳行されるだんじりは全て下だんじりとなっている。
『岸和田だんじり祭』Wikipediaより
参考:『富田林市富田林』「重要伝統的建造物群保存地区一覧」と「各地区の保存・活用の取組み」(文化庁) https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/pdf/93738601_64.pdf
地 区 名 :富田林市富田林
種 別 :寺内町・在郷町
面 積 :約12.9ヘクタール
選定年月日 :平成9年10月31日(追加選定:平成30年8月17日)
特 徴:
富田林寺内町は、永禄年間(1558-70)の初め頃に京都興正寺門跡十六世証秀上人によって創建された宗教自治都市である。
南端は石川の河岸段丘による土居、北端は堀割り(現在は暗渠)によって区画されてお
り、 現在も創建当時の六筋七町の町割りが残されている。
17世紀以後、幕藩体制の中で宗教色は次第に薄れ、周辺地域の農作物の集散と商業
活動による在郷町として発達した。
現在も往時の繁栄を偲ぶ重厚な町家が現存し、歴史的な景観を形成している。
参考:『富田林寺内町』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E6%9E%97%E5%AF%BA%E5%86%85%E7%94%BA ↓
富田林寺内町(とんだばやしじないちょう、とんだばやしじないまち)は、大阪府富田林市にある寺内町。江戸時代から昭和初期の町並みが残ることで知られる。国の「重要伝統的建造物群保存地区」および、旧建設省選定の「日本の道100選」のひとつ。
寺内町は、大阪府の南東部に位置する富田林市の中心にあり、東西に7本、南北に6本の街路で区画された東西約400メートル、南北約350メートル、面積約13.3ヘクタールの楕円形に広がる周辺よりも一段高い台地上に、近世の町割りを残している。周辺の低地との境目は、幅の広い土居が設けられていて斜面の一部に竹藪を残しており、また南の石川と面するところから境域がよみとれる。土居の中にある整然とした街路の両側には、河内風の白壁の土蔵や、格子造りの民家が連なっており、歴史的な街並みをつくっている。町の区画は六筋七町とよばれていて、六筋とは南北方向の通りのことで、東筋、亀ヶ坂筋、城之門筋、富筋、市場筋、西筋の6つの通りをいい、七町とは、北から順に壱里山町、富山町、北会所町、南会所町、堺町、御坊町、林町となっている。
現在も多くの町屋が残り、1997年(平成9年)10月に大阪府で唯一、国の「重要伝統的建造物群保存地区」として選定されている。また、寺内町のほぼ中心を南北に通る城門筋(市道富田林6号線)は、1986年(昭和61年)8月10日に歴史性と親愛性を基準に、「近世の自治都市」として旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された「日本の道100選」にも選ばれている。
富田林寺内町は、戦国時代末期の永禄3年(1560年)、本願寺一家衆興正寺第16世・証秀が、石川西側の河岸段丘上の荒芝地を百貫文で購入し、一向宗興生正寺別院を中核に開発された宗教自治都市であった[1]。周辺4ヶ村(中野・新堂・毛人谷(えびたに)・山中田)の「八人衆」の協力で、芝地の開発、御堂(興正寺別院)の建立、畑・屋敷・町割等を行い、富田林と改めたことに始まるという(興正寺御門跡兼帯所由緒書抜)。 由緒書には上記のように記載されているが、由緒書は江戸時代の編纂物であることから確固たる信憑性を得ることは叶わない。
参考:『興正寺』Wikipedia ↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E6%AD%A3%E5%AF%BA
興正寺(こうしょうじ)は、京都市下京区花園町にある真宗興正派の本山の寺院。山号は円頓山(えんとんざん)。本尊は阿弥陀如来。西本願寺の南隣に位置する。かつて西本願寺の脇門跡であったが、1876年(明治9年)に真宗興正派として独立した際に同派の本山となる。住職は門主の華園家。
参考:『興正寺の沿革』真宗興正派本山興正寺HP https://www.koshoji.or.jp/about_1.html
参考:『興正寺史話一覧』真宗興正派本山興正寺HP
参考:『【若一調査隊】“文化財”を利用したビアホールも!大阪府唯一の“重伝建”富田林市・寺内町 幕末の偉人も訪れた戦国時代の町並みの魅力に迫る!』読売テレビニュースCh. https://www.youtube.com/watch?v=OXmJC_QaYG4
富田林市寺内町は、戦国時代に築かれた一向宗の宗教自治都市である。大阪府内唯一の重要伝統的建造物群保存地区である。今でも江戸時代以降に作られた貴重な建物が軒を連ね、当時の風情を感じることができる。
近鉄富田林駅から徒歩およそ10分。東西約470m、南北400mの広さで約200軒くらいの江戸~唱和中期の建造物がある。中心は城之門筋、歴史ある戦国時代の町割り区画ほぼ当時のままの街並みが続く。日本の道100選にも選ばれている。
約200軒のうち、公開されているのは、旧田中家住宅(登録有形文化財)と旧杉山家住宅(国の重要文化財)の2件だけである。
煙り出しのやぐら、兜屋根など複雑な住居(旧奥谷家)。
用心堀(防火)。うだつと大壁造り(防火)。忍び返し(防犯)。背割り水路(下水路)。井戸(上水)。
富田林興正寺別院が富田林の出発点となった場所。約460年前。京都に本山を置く浄土真宗の寺院。興正寺別院開基 証秀上人が周囲の土地を買い上げ、8人の有力者と共に寺内町を作り上げた。宗教自治都市として発展した。興正寺の門は、伏見城にあった門の一つ(まず京都の本山に移築してさらに別院に移されたと考えられた)である。そのため、その門の前の道を城之門筋と呼ぶ。
浄土真宗寺院の本堂として最古。
寺内町は石川の西岸の高台、河岸段丘に街を作った。当時は荒れ地で開発しやすかったことと宗教都市として防御がたやすいため、開発されたと考えられている。
江戸時代には幕府の直轄地となり、宗教都市としてより、南河内の一大商業都市として発展していく。特に金剛山を水源とした地下水に恵まれたため、酒造業が盛んとなった(旧杉山家)。酒造業の肝いりとして中心になっていたのは、歌人の石上露子(与謝野晶子と共に明星派歌人として活躍)の生家が杉山家。市が管理して一般公開されている。最盛期には1000坪ほどの大邸宅だった。さらに山岡鉄舟、大久保利通など重要人物も訪れる立派な家だったという。中には螺旋階段など洋風の造りもある。
今は新たなアートな店も増えてきたが、番組では古い造り酒屋と日本酒醸造用の井戸をを利用して、自家製のクラフトビールを提供するビアホール(バンリノハルビアホール)を紹介した。
HP→『大阪府交野市 | 磐船神社 | 天の磐船・岩窟めぐり 」https://www.iwafune-jinja.net/
参考:『磐船神社』交野市星のまち観光協会 https://katano-kanko.com/%E7%A3%90%E8%88%B9%E7%A5%9E%E7%A4%BE/
参考:『磐船神社(交野市)』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E8%88%B9%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E4%BA%A4%E9%87%8E%E5%B8%82)
磐船神社(いわふねじんじゃ)は、大阪府交野市にある神社。天野川の渓谷沿いにあり、「天の磐船」(あめのいわふね)と呼ばれる天野川を跨ぐように横たわる高さ約12メートル・長さ約12メートルの舟形巨岩を御神体としている。岩船神社(いわふねじんじゃ)、岩所神社(いわところじんじゃ)とも呼ばれる。神社のすぐ横を磐船街道が通っている。 かつては国道168号線の一部であり、大阪府交野市と奈良県生駒市の県境近くに位置する神社付近では道路幅が狭く、すれ違い渋滞の名所だった。川幅も巨岩が跨ぐほど狭く、過去にはたび重なる天野川の氾濫もあり、防災上のネックとなっていた。1997年(平成9年)に道路改良工事と河川防災工事が竣工し、磐船神社に入る手前で道路と河川がバイパスされ、道路は新磐船トンネルを、河川は天野川トンネルをくぐることとなった。現在では路線バスや付近の住民などを除き大半の車がバイパスを通行している。
参考動画:『【若一調査隊】御神体は巨岩!天孫降臨の地「磐船神社」で岩窟巡り 修験道の一大行場として栄えた神社で“死と再生の修行”』読売テレビニュースch. https://youtu.be/JR82hxxyFCk?si=nGSMFK3dlUibYNQc
最寄り駅は、京阪電車私市(きさいち)駅で車でおよそ10分。磐船神社は、天孫降臨伝説につながる神社。「死と再生」の体験、岩窟巡りを番組では行う。付近には天の川伝説のある天野川が流れ、磐船街道(奈良・生駒市と大阪・枚方市を結ぶ街道)に沿って建つ。磐船神社には、宮崎県の高千穂に天照大御神の孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が降り立つという天孫降臨伝説とはまた違った天孫降臨伝説がある。
饒速日命(ニギハヤヒノミコト・日本書紀では神武東征の先鋒隊の神。先代旧事本紀では天照大御神の孫)が、河内(交野市)の河上哮ケ峯(いかるがみね)の地(現在の磐船神社周辺の一帯地と考えられている)に降臨し、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。
その時に大きな磐船に乗ってきたが、その磐船が磐船神社のご神体である。岩は巨大で狭くなった川筋を覆うほどである。天の磐船がご神体のため、ご本殿は無く拝殿のみがある。巨岩そのものを磐座(いわくら)としてお祀りするという宗教観・自然観を持つ磐座信仰がある。
磐船神社のある私市(きさいち)を支配していた物部氏が進行していた。きさいちの名は、物部氏が天皇家に妃を差し上げたこと(きさい部→きさいち)からつけられた。
その後物部氏の衰退により、一時期磐船神社も衰退したが、中性に生駒・葛城(修験道発祥の地)と地理的に近いところから、修験道の一大行場として栄えた。
岩窟巡り:距離は約300m、所要時間は20~30分。必ず受付(拝観料500円)する。危険なため年齢制限、一人での入場禁止など制約がある。巨岩が連なる狭い道を通る。自然と共鳴・共感しあう中で、自分を大きいものを感じ鍛錬する、修験道・古代神道の修行を体験できる。狭い道をなんとか潜り抜けると空が開ける。一度死んでからの再生を体験する。出口から少し上ると天岩戸と呼ばれる巨岩があり、下ると天の磐船の背後に出る。天の磐船は加藤清正が城づくりに利用しようとなんとか引こうとしたが、びくともしなかったと言う伝説もある。以上。
参考:『日本遺産 日根荘』HP https://hinenosho.jp/
旅引付と二枚の絵図が伝えるまち
―中世日根荘の風景―
日本の玄関口、関西国際空港のある泉佐野市には、約800年前、摂政や関白になった上級貴族である五摂家(近衛家・九条家・鷹司家・二条家・一条家)の1つ、九条家の治める「日根荘」とよばれる荘園があり、その範囲は現在の市域すべてに及んでいました。また、16世紀初めに記された九条政基の日記、「政基公旅引付」に描かれる世界は、大木地区の荘園時代以来の農村景観として今も息づき、訪れる人を魅了します。現地に生きる人びとの営みが絶えることなく進化し、維持されてきたこの魅力ある懐かしい風景は、どのようにして作られてきたのでしょうか。その答えの1つが、日根野地区を開発するために描かれた鎌倉時代の二枚の絵図に隠されています。
2枚の絵図
:日根野村荒野開発絵図(宮内庁書陵部所蔵)
:日根野村・井原村荒野開発絵図(宮内庁書陵部所蔵)
1234年、日根荘が成立します。経営の一番の難題は、広大な未開地の開発でした。1309年、九条家は日根荘の土地調査に着手しますが、その際に作成された二枚の絵図にはきわめて克明に村の水路やため池、寺社などが描かれています。それらは驚くほど現存するものと一致します。
開発の主要プロジェクトが井川水路の整備でした。井川は日根神社と慈眼院の間を通り、段丘面に広がる農地を抜けながら、十二谷池まで続く全長約2.75㎞を高度差わずか約3mで流れるように作られました。その緻密で大がかりな土木工事からは、村人たちの血のにじむような努力が伝わってきます。
当時作られたため池も、今なお田畑に恵の水を注ぎ、人々に実りを与えてくれます。大開発によって発展を遂げた日根荘は、九条家の所有する全国約30カ所の荘園の中で自らが開発した重要な荘園へと成長します。
政基公旅引付(宮内庁書陵部所蔵)
戦国時代、武士によって荘園経営が危うくなり始めたころ、領主である九条政基は、入山田村、当時の大木地区にあった長福寺に1501年から4年間滞在しました。
この4年間の様子や出来事を政基は日記につづっています。
参考:『日根荘遺跡(ひねのしょういせき)とは』泉佐野市 https://www.city.izumisano.lg.jp/kakuka/kyoiku/bunkazaihogo/menu/hinenosyo/hinenosyotowa.html
日根荘は鎌倉時代から戦国時代にかけて、現在の泉佐野市域にあった九条家領(くじょうけりょう)の荘園(しょうえん)です。有力貴族の五摂家(ごせっけ)の一つである九条家により、天福2(1234)年に日根荘が立荘され、宮内庁所蔵の『九条家文書(くじょうけもんじょ)』を中心に当時の様子がわかる「日根野村絵図(ひねのむらえず)」や九条政基(くじょうまさもと)が入山田村長福寺(いりやまだむらちょうふくじ)滞在時に記した『政基公旅引付(まさもとこうたびひきつけ)』などの文書がたくさん残されていることから、当時のことを解明する手がかりがたくさんあり、また絵図で描かれた寺社堂などの建築物やため池、丘陵などの景観が現在でもよく残されていることで、全国的にも有名な中世の荘園遺跡となっています。 この歴史的景観を構成するものの中から、寺社やため池・水路など14か所が平成10年に「日根荘遺跡(ひねのしょういせき)」として国史跡に指定されました。平成17年に領主であった九条政基が滞在したとされる長福寺跡(ちょうふくじあと)が、平成25年10月には土丸・雨山城跡が追加指定され、平成25年10月末現在16か所が国史跡となっています。
参考動画:『「日根荘」で歴史的風土を徹底調査! 大阪唯一の重要文化的景観 日本で唯一“枕の神様”も 大阪・泉佐野市』読売テレビニュース(youtube) https://youtu.be/djFNbmgCWZI?si=7D28KrcqSZZks-GR
のちほど
琵琶湖(びわこ)は、滋賀県にある日本最大の面積と貯水量を持つ湖。一級水系「淀川水系」に属する一級河川である。国土交通大臣から委託を受けて滋賀県知事が管理を担う。湖沼水質保全特別措置法指定湖沼で、ラムサール条約登録湿地でもある。
古くは淡海・淡海の海・水海・近江の海・細波・鳰におの海などとも呼ばれた。
約440万年前に形成された古代湖であり、40-100万年ほど前に現在の位置に移動してきた。内湖ないこを含む多様な地形や多数の固有種を含む豊かな生態系をもっているが、近現代の開発により失われたり減少したりした地形や種もある。古くから近畿地方の水運・水利・漁撈における役割を担い、近江八景などをとおして景勝地としても知られ、作品の題材となることも多いほか、環境保全活動も盛んにおこなわれている。
琵琶湖は鈴鹿山地・伊吹山地・野坂山地・比良山地・甲賀山地といった山々に囲まれた滋賀県の近江盆地に位置する。面積は669.26平方キロメートルで、滋賀県の面積の6分の1を占め、日本最大である。貯水量は275億トンで、こちらも日本一である。
参考:『琵琶湖』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%B5%E7%90%B6%E6%B9%96
参考:『滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべて』(滋賀琵琶湖観光情報)
三井寺(園城寺)公式ホームページ:本朝四箇大寺 三井寺 https://miidera1200.jp/
三井寺Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%92%E5%9F%8E%E5%AF%BA
園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗の総本山の寺院。山号は長等山(ながらさん)。本尊は弥勒菩薩。開基(創立者)は大友与多王。日本三不動の一つである黄不動で著名であり、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所で札所本尊は如意輪観世音菩薩である。また、近江八景の一つである「三井の晩鐘」でも知られる。なお一般には三井寺(みいでら)として知られる。平安時代などの日本古典文学で、何も注釈を付けず「寺」と書かれていれば、この園城寺を指す。
2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産」の構成文化財として日本遺産に認定される。
7世紀に大友氏の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。園城寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争(山門寺門の争い)が激化し、比叡山の宗徒によって園城寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともある。この結果、本尊の弥勒菩薩像や智証大師坐像、黄不動尊などは元園城寺長吏の道澄が自ら住持を務める照高院(現・妙法院の近く。後に北白川に移転)に避難させ、僧も保護したが、ほとんどの仏像や宝物はよその寺院へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に破却、移築された。
慶長3年(1598年)になり、秀吉は自らの死の直前になって当寺の再興をようやく許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな園城寺の祟りを恐れたためともいわれている。秀吉の再興許可を受けて園城寺長吏・道澄が中心となって寺の復興事業が開始される[2]。それに伴って、照高院に避難させていた弥勒菩薩像、智証大師坐像、黄不動尊などを園城寺闕所の際にも存続が許されて残っていた上光院に移している。
伽藍の復興も進められ、寺領4,300石も安堵された。翌慶長4年(1599年)には高台院が金堂(国宝)を寄進し再建を果たした。勧学院客殿(国宝)は慶長5年(1600年)に豊臣秀頼が施主となり、毛利輝元の寄進で建立され、光浄院客殿(国宝)は慶長6年(1601年)に山岡景友の寄進で建立されている[2]。また、同年の3月には徳川家康によって伏見城にあった大門(旧・近江国常楽寺楼門、重要文化財)と三重塔(旧・大和国比蘇寺(現・世尊寺)三重塔、重要文化財)が寄進され、移築されている。
中院
金堂(国宝) - 園城寺全体の、そして中院の中心となる堂宇。園城寺は文禄4年(1595年)に豊臣秀吉により闕所とされ、堂塔が破却された。金堂は織田信長の焼き討ちで壊滅した比叡山延暦寺の復興の一助として延暦寺西塔に移築され、釈迦堂(転法輪堂)とされた。現在の金堂は、園城寺再興を許可した豊臣秀吉の遺志により、高台院が慶長4年(1599年)に寄進したものである[5]。慶長4年(1599年)2月に着工し、翌慶長5年(1600年)3月には完成している。七間四方、入母屋造、檜皮葺の和様仏堂。堂内は外陣、内陣、後陣に区切られ、内陣の中央五間は床を外陣より一段下げて四半瓦敷きにした天台宗本堂の古式を伝えている[6]。建物全体は和様で統一され、木割太く、全体に低めで軒の出深く、重厚さの中に柔らかさを持つ、典型的な桃山形式の仏堂である。本尊は弥勒菩薩。用明天皇の時代に百済より渡来し、天智天皇の念持仏となり、園城寺草創の際に天武天皇が本尊として安置したと伝えられているものである。
鐘楼(重要文化財) - 慶長7年(1602年)再建。金堂の左手前にあり、近江八景の一つ「三井の晩鐘」で知られる梵鐘(滋賀県指定有形文化財)を吊る[7]。この梵鐘は音色の良いことで知られており、日本の音風景100選に選ばれNo.58「三井の晩鐘」として登録されている。また、平等院鐘、神護寺鐘と共に日本三名鐘に数えられている。この梵鐘は慶長7年(1602年)に長吏准三宮道澄が弁慶の引摺鐘の跡継ぎとして鋳造したもので、乳(鐘上部に付けられる突起)が合計百八個あり、近世以降多く造られる百八煩悩に因んだ乳を持つ梵鐘として在銘最古とされている。
天狗杉(大津市指定天然記念物) - 樹齢約千年。相模坊道了が、同郷の了庵慧明が相模国に最乗寺を建立したと聞くと天狗に変化し、この杉の頂部から相模国に飛び立ったという。
閼伽井屋(あかいや、重要文化財) - 金堂の西に接して建つ小堂で、格子戸の奥にある岩組からは霊泉が湧出している。この泉は、天智天皇・天武天皇・持統天皇の三帝が産湯に用いたことから御井や三井と呼ばれ、それがもととなって当寺は御井寺、次いで三井寺と呼ばれるようになった。現在の建物は、この霊泉の履屋として慶長5年(1600年)に金堂と同じく高台院によって建立された。桧皮葺で、三間二間の向唐破風造。随所に桃山風の装飾を施した優美な建造物である。また、正面上部の蟇股には左甚五郎作の龍の彫刻があり、この龍が毎夜琵琶湖に現れて暴れていたので甚五郎が龍の目に五寸釘を打ち込んだという伝説がある。
庭園「閼伽井石庭」 - 日本最古の庭園だとされている小さな石庭。
参考動画:『【若一調査隊】日本を代表する大寺院「三井寺」日本三名鐘「三井の晩鐘」で知られる古刹には、“日本家屋の原点”の国宝や重要文化財の数々!』読売テレビニュースyoutube ch. https://youtu.be/TGTPOsyKOCY?si=djM1xG6x70vYdw-z
三井寺の大門(仁王門・重文・室町時代)は、秀吉があるお寺から伏見城に移築したものを秀吉亡き後、徳川家康が後に三井寺に寄進した。三井寺の正式名称は園城寺、国宝10件、重要文化財52件、甲子園球場約10個分の広さを持つ古刹。日本を代表する『本朝四箇大寺(興福寺・東大寺・延暦寺・三井寺)』の一つでもある。日本三名鐘の一つである三井の晩鐘が有名。
三重塔は徳川家康が寄進したもので、また金堂は豊臣秀吉の正室北政所が寄進するなど歴史と深くかかわってきたお寺と言える。
仁王門をまっすぐ進むと本堂の金堂(国宝)に至る。屋根が独特の傾斜をなす。
三井寺の基を作った智証大師円珍は、比叡山で修業を積んだのち、6年間唐へ渡り研鑽を重ねた。文化財収蔵庫には、円珍が円珍請伝法公験奏上案(国宝・平安時代・唐で学んだことを広く伝えることを朝廷に願い出た文書)が保管されている。唐で学んだことが詳細に記されているため、国宝に指定されたが、ユネスコ「世界の記憶」にも登録された。
入山料(2025/06/11):
大人600円
中高生300円
小学生200円
釈迦堂(重要文化財・室町時代)は、もとは天皇が住まわれた御所の清涼殿であった建物。釈迦如来がお祀りされている。
円珍は、唐から持ち帰った法を伝える場として唐院を建立、伽藍も再興させた。
円珍が亡くなった後、円珍の出身の延暦寺とこの三井寺が抗争状態になる。三井寺を寺門派、延暦寺を山門派といい、三井寺は何度も比叡山に焼かれた。それでもそのたびに復活したので、三井寺は不死鳥の寺とも呼ばれる。
金堂は1599年に再建されたが、寄進したのは上記のように豊臣秀吉の正室ねねである。過去に秀吉が三井寺に闕所命令を下し(原因はわかっていない)、財産を没収し取り潰したためか、秀吉の没後、本堂である金堂を寄進したと言う。
金堂の中は、天台宗の特徴である外陣・内陣・後陣の3か所で区切られている。本尊は絶対秘仏で天智天皇の念じ仏(身に付けたり身辺に置いて拝む仏像)。3寸2分(約10㎝)と伝わる。
番組では内陣まで入ることを許され、本尊の弥勒菩薩がおられる厨子まで撮影。内陣の裏側に当たる後陣には重要文化財を含む20以上の貴重な仏像が安置されており、こちらは誰でも拝観できる。
閼伽井屋(重要文化財・桃山時代)。閼伽と言うのは、仏教の大事な儀式の際に用いる水のこと、井屋は井戸の建物の意味。閼伽井屋の中に湧く水が三井寺の名の原点。のぞくと水の湧くぼこぼこと言う音が聞こえる。この霊水を天智天皇・天武天皇・持統天皇の三天皇の産湯に使ったと伝わる。井戸の寺に御の字をつけて御井寺と呼んだのが始まり。三部灌頂(頭に水を灌ぐ宗教儀式)と言う儀式にも使われる。
三井の晩鍾は三大名鍾の一つに数えられる。三大名鍾とは、姿の良い平等院の鐘、鐘に刻まれた銘がすばらしい神護寺の鐘、そして音の良い三井寺の鐘の三つである。三井寺の鐘は、日本音風景100選にも選ばれている。乳(鐘の上部の突起)が108、煩悩の数だけついている。108の乳がある鐘は、三井の晩鍾が日本でいちばん古い。
書院造は和室の出発点ともいえるが、金堂は書院造の原点ともいえる建造物が三井寺の光浄院客殿(国宝・桃山時代)である。屋根はこけら葺き(薄板を何枚も重ねて葺いた屋根)、左右非対称の独特な建物である。山岡道阿弥により再建された。訪れた武士をもてなす空間。正面の松の障壁画(光浄院客殿障壁画・重要文化財)や襖絵は、伏見城の障壁画も手掛けた狩野山楽の手によるもの。部屋には違い棚、帳台構えを配置、南側には付け書院(当時、大名が書斎として使っていた空間)が作られていて、これらが書院造の先駆けとなった。寝殿造(平安、天井がない。部屋を仕切れない、畳は無く板敷、丸い柱)→主殿造り。縁側に広がる美しい庭園は、国の名勝に指定されており、織田信長も訪れたと言われている。
唐院は三井寺の中で最も重要な聖域と言われる場所で、一番奥深いところに円珍の御廟である唐院大師堂(重要文化財・桃山時代)が祀られているが、普段は外観も公開されていない。
三重塔(重要文化財・室町時代)は徳川家康が寄進した室町時代の物。
観音堂(重要文化財・江戸時代)の本尊は、如意輪観音像だが、秘仏で33年に1度しか公開されない。
三井寺の観音堂は、西国三十三所観音霊場の第十四番。鐘楼・観月舞台・絵馬堂も重要文化財となっている。三井寺では最も参拝客が多い場所であり、お堂に上がれば、御朱印ももらえる。
階段を登れば、松尾芭蕉も訪れたと言う高台があり、琵琶湖と境内が一望できる。
参考:『琵琶湖疏水のご紹介』京都市上下水道局 https://www.city.kyoto.lg.jp/suido/page/0000007153.html
参考:『琵琶湖疏水船』公式ページ→https://biwakososui.kyoto.travel/
参考:『琵琶湖疏水』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%B5%E7%90%B6%E6%B9%96%E7%96%8F%E6%B0%B4
琵琶湖疏水(びわこそすい)は、琵琶湖の湖水を滋賀県大津市から西隣の京都府京都市へ流すため、明治時代に作られた水路(疏水)である。
1996年(平成8年)に国の史跡に指定された[1]。その後、文化庁による日本遺産にも認定される。また、土木学会選奨土木遺産に認定されている。
琵琶湖疏水は、第1疏水(1890年に完成)と第2疏水(1912年に完成)を総称したものである。両疏水を合わせ、23.65m3/s[3]を滋賀県大津市三保ヶ崎で取水する。
参考動画:『【若一調査隊】京都の“再興”をかけた大事業『琵琶湖疏水』 人々の復興への思いと美しい景観に触れる』https://youtu.be/UwFk9Ii_teA?si=nLUZvxUeYYOD12PB
近江八幡の水郷は文化庁による 重要文化的景観 に選定されており、日本遺産の「 琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財です。
近江八幡市内では「水郷めぐり」(4社)・「八幡堀めぐり」(2社)が営業を行っています。
乗船するには定期便か貸切り(要予約)のどちらかになりますが、水郷めぐりの場合は、グループでお越しのお客様には貸切り船の方がお得になります。
貸切り船は年中無休ですが、予約無しの定期船は冬季運休の会社もありますのでご注意ください。
詳細は各社HPをご参照ください。定期船はお一人でも乗船可です。
【乗船時間は、水郷めぐりは60分~80分、八幡堀めぐりは約30分です】
各社の水郷めぐり船発着場は、それぞれバス停が異なりますのでご注意ください(すべての船は乗船したところに戻ってきます)。
いずれの乗り場へも近江鉄道バスで行くことができます。
JR近江八幡駅北口(6番乗り場)から長命寺行きもしくは休暇村近江八幡行きのバスにご乗車ください(バスは1時間に2~3本程度運行しています)。
JR近江八幡駅北口(6番乗り場)長命寺行き、もしくは休暇村近江八幡行きのバスに乗車ください。
各社の水郷めぐり船発着場は右記の通りですが、それぞれバス停が異なりますのでご注意ください。
( )内は近江八幡駅(北口)からの所要(交通事情により延びる場合有り)時間・最寄のバス停名(いずれも下車すぐ)です。
⑥ 八幡堀めぐり 新町浜 (乗車時間~約7分 新町 下車)
⑤ 八幡堀めぐり ㈱和でん (乗車時間~約8分 八幡堀(大杉町)八幡山ロープウェー口 下車)
① 近江八幡和船観光協同組合…(乗車時間~約9分 豊年橋 下車)
② 水郷のさと まるやま………(乗車時間~約11分 円山 下車)
③ 島真珠水郷観光船部…………(乗車時間~約12分 白王口 下車)
④ びわ湖観光株式会社…………(乗車時間~約17分 陶芸の里 下車)
サイト:『水郷めぐり』近江八幡観光サイト https://www.omi8.com/omihachiman/suigo/
滋賀県大津市石山寺にある東寺真言宗の大本山の寺院。山号は石光山。本尊は如意輪観世音菩薩(如意輪観音)。開山は良弁。西国三十三所第13番札所。
2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定される。
11世紀初め、貴族の間で石山詣りが流行し、菅原孝標の女(むすめ)(『更級日記』)、藤原道綱の母(『蜻蛉日記』)、和泉式部(『和泉式部日記』)らも寺に籠ったと記されている。
また、紫式部が参籠した際、源氏物語の『須磨』『明石』の巻の発想を得たとされ、本堂に「紫式部の間」が設けられている。
そうしたことから、2024年のNHK大河ドラマ『光る君へ』第15話では、藤原道綱の母が参籠の際、少女の頃の紫式部と遭遇し、同席するシーンが描かれている。
参考:『石山寺』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B1%B1%E5%AF%BA
参考:NHK大河ドラマ『光る君へ』(NHKオンデマンド) https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2024137577SA000/?spg=P202300378100000
参考:『文学の寺 石山寺』大本山 石山寺HP https://www.ishiyamadera.or.jp/about/literature
公式ホームページ(ご由緒)→https://oumijingu.org/pages/90/
公式ホームページ(境内図と各所案内)→ https://oumijingu.org/pages/96/#page96
滋賀県大津市神宮町にある神社。皇紀2600年を記念して同年に相当する1940年(昭和15年)に創祀された。
日本で初めて水時計(漏刻)を設置した天智天皇を祀る神社として、1941年(昭和16年)の時の記念日(6月10日)に第1回漏刻祭が開催され例年行事となった。境内には各地の時計業者が寄進した日時計や漏刻(レプリカ)などが設けてあり、時計館宝物館と近江時計眼鏡宝飾専門学校が境内に併設されている。
また、『小倉百人一首』の第1首目の歌を詠んだ天智天皇にちなみ、競技かるたのチャンピオンを決める名人位・クイーン位決定戦が毎年1月に行われている。このほかにも高松宮記念杯歌かるた大会・高校選手権大会などが開催されているように、百人一首・競技かるたとのかかわりが深い。競技かるたを題材にした漫画・テレビアニメ・映画『ちはやふる』の舞台ともなった。
参考:『近江神宮』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E7%A5%9E%E5%AE%AE
住所:〒520-0015 滋賀県大津市神宮町1番1号
電話番号:077-522-3725
参拝時間:6:00~18:00
参拝料:無料(時計宝物館9:00~16:30 一般300円、小中学生150円)
アクセス:京阪電鉄「近江神宮前」駅下車 徒歩約9分
駐車場:200台収容(正月以外は無料)。正月は臨時駐車場含め500台(正月は500台)。
近江神宮とは、天智天皇の古都・近江大津宮の跡地に創立された神社です。自然豊かな境内、色鮮やかな楼門、近江造り・昭和造りの社殿など、見どころが多数ございます。 また、百人一首かるたの祖と言われる天智天皇をお祀りしていることから、「かるたの殿堂」と呼ばれることも。毎年多くの参拝客が訪れています。
近江神宮の御祭神は、大化の改新で有名な天智天皇です。滋賀県・近江国の発展は、天智天皇が大津宮に都をおかれたことから始まったとして、古来より近江の人々から篤い崇敬を受けています。
天智天皇は日本国憲法の源をなす「近江令」を制定したり、学校制度を創始、当時の最新科学技術を駆使して産業振興を図られるなど、困難な中で日本の運命を導いてゆかれました。 こうして天智天皇は「開運の神」「導きの神」として崇敬されるように。開運・厄除け・学業・文化・産業に関するご利益が得られると有名になったのです。
実は日本の時刻制度は、1350年前天智天皇の御代に、大津に漏刻(水時計)が設置されたことに端を発します。近江神宮は天智天皇を御祭神としているため、近江神宮境内には多数の時計が。 この数々の時計は、世界中の時計ブランド企業から寄贈されたものとのこと。日本最初の時計と言われる漏刻もご覧いただけます。
天智天皇が詠んだ「秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ」という歌が百人一首の第一番として選出されており、その縁から近江神宮は「かるたの殿堂」と言われています。また、毎年1月になると、競技かるたの「名人位・クイーン位決定戦」が近江神宮で行われており、選手や愛好家たちにとっては憧れの場所です。
百人一首を題材とした映画「ちはやふる」の舞台にも選ばれた近江神宮。聖地巡礼という目的のもと、多くの参拝客が訪れています。 また境内の近江勧学館では、ちはやふるグッズも販売。参拝記念の思い出の品もお持ち帰りいただけます。
参考:『「近江神宮」の観光・見どころ|天智天皇・時計・かるたで名高い神社』BIWAKO HOTEL HP https://www.keihanhotels-resorts.co.jp/biwakohotel/sightseeing/omijingu/#:~:text=%E8%BF%91%E6%B1%9F%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E5%A4%A9%E6%99%BA,%E5%AE%A2%E3%81%8C%E8%A8%AA%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
公式HP(日本三弁財天西国札所第三十番 竹生島 宝厳寺) https://www.chikubushima.jp/
琵琶湖北部にある無人島で、全域が滋賀県長浜市早崎町に属する。琵琶湖では沖島に次いで面積が2番目に広い。琵琶湖国定公園特別保護地区、国の名勝および史跡に指定されている。2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定される。
参考:『竹生島』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E7%94%9F%E5%B3%B6
「パワースポット」竹生島には、日本三大弁才天の一つ「大弁才天」を安置する宝厳寺や、都久夫須麻神社(竹生島神社)があります。2020年5月に修復事業を終えた宝厳寺の国宝の「唐門」や重要文化財の「観音堂」、2000年に350年ぶりに復元された「三重塔」、都久夫須麻神社には伏見桃山城の移行と伝えられている国宝の「本殿」、諸願成就として人気のかわらけ投げができる「龍神拝所」など様々な建築物があります。宝厳寺本堂と観音堂、都久夫須麻神社では、御朱印が頂けます。都久夫須麻神社本殿の内部には桃山時代を代表する、優雅できらびやかな装飾が施されています。「龍神拝所」ではびわ湖に面した鳥居にかわらけを投げ、鳥居の間を通ると願いが叶うとされています。観音堂と都久夫須麻神社本殿をつなぐ「舟廊下」は全長30mで、豊臣秀吉の「日本丸」の一部が使われ、国の重要文化財に指定されています。宝厳寺の「唐門」は大坂城極楽橋の現存する唯一の遺構とも言われています。天気に左右されるクルーズ、お天気サイトを事前にチェックすることがおススメ。島内には水洗トイレもあります。滋賀県長浜市、琵琶湖の北部に浮かぶ、神秘的な神様が済む信仰の島、竹生島へ行ってみよう。
交通:長浜港から クルーズで約30分
住所:長浜市早崎町1664-1
電話番号: 0749-63-4410
参考:『パワースポット「竹生島」の観光情報|びわ湖クルーズ周辺観光』(琵琶湖汽船)
https://www.biwakokisen.co.jp/tourist_info/8768/
滋賀県大津市本堅田にある臨済宗大徳寺派の寺院。山号は海門山(かいもんさん)。本尊は聖観音。琵琶湖畔にあり、湖上に突き出ている浮御堂で知られる。
平安時代に恵心僧都(源信)が琵琶湖から救い上げた阿弥陀如来を祀るため、湖上安全と衆生済度も祈願して建立したという。別名に「千仏閣」、「千体仏堂」とも呼ばれる。
現在の満月寺浮御堂は1934年(昭和9年)に室戸台風によって倒壊し、1937年(昭和12年)に再建されたもので、1982年(昭和57年)に修理が行われている。
歌川広重の「堅田の落雁」で知られており、近江八景に選ばれている。
本尊:聖観音(重要文化財)
参考:『満月寺(大津市)』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E6%9C%88%E5%AF%BA_(%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E5%B8%82)
滋賀県犬上郡甲良(こうら)町池寺にある天台宗の寺。竜応山(りゅうおうざん)と号し、西に大きな池があるので池寺(いけでら)ともよばれる。金剛輪寺(こんごうりんじ)、百済寺(ひゃくさいじ)と並ぶ湖東三山の一つ。834年(承和1)仁明(にんみょう)天皇の勅願により、法相(ほっそう)宗の明詮(みょうせん)(787―868)の弟子、三修(さんしゅ)の創建と伝える。室町時代に僧兵を抱え、多くの堂塔をもったが、織田信長の攻撃を受けて大半を焼失、本堂、三重塔、二天門は残った。徳川家康が寺領300石を寄せ、再興を図った。延宝(えんぽう)年間(1673~81)友閑(ゆうかん)が諸堂を建て、さらに明治以後再建された。鎌倉時代造立の本堂および三重塔は国宝。本堂外陣(げじん)に佐和山城を描く障壁画がある。1407年(応永14)建立の二天門、嘉元(かげん)2年(1304)の刻銘をもつ宝塔、絹本着色十二天像、薬師如来(やくしにょらい)立像、多聞天(たもんてん)・広目天立像、釈迦(しゃか)如来立像、不動明王および二童子像、錦旛(きんぱん)5流は国の重要文化財。庭園は江戸時代の造園で、浄土を表現した池泉観賞式の名園。[田村晃祐]
『『古寺巡礼 近江6 湖東三山』(1980・淡交社)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
滋賀県湖東地方の西明寺、金剛輪寺、百済寺の三つの天台宗寺院の総称。琵琶湖の東側、鈴鹿山脈の西山腹に位置し、百済寺の南東に位置する永源寺と共に紅葉の名所として知られている。
龍應山 西明寺(さいみょうじ) 薬師如来 三修上人 犬上郡甲良町池寺
松峯山 金剛輪寺(こんごうりんじ) 聖観音 (伝)行基 愛知郡愛荘町松尾寺
釈迦山 百済寺(ひゃくさいじ) 十一面観音 (伝)聖徳太子 東近江市百済寺町
室町時代には、敏満寺(犬上郡多賀町敏満寺)、大覚寺(東近江市大覚寺町)と合わせて湖東五山として栄えたが、応仁の乱や織田信長の焼き討ちによって衰退[2]。敏満寺を除いて江戸時代以降それぞれ復興したが、そのなかで広い寺域を保ち、紅葉の名所として著名な西明寺・金剛輪寺・百済寺だけが湖東三山と称されるようになった。
参考:『湖東三山』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%96%E6%9D%B1%E4%B8%89%E5%B1%B1
サイト:『近江湖東の古刹「湖東三山」公式サイト』 https://www.kotousanzan.jp/
西明寺は、平安時代初期の承和元年(834)、三修上人が仁明天皇の勅願により開創され、「日本100の古寺」「近江水の宝」アメリアのニュース専門放送局・CNNのウェブ特集において厳島神社、金閣寺とならび「日本のもっとも美しい場所31選(Japan's 31 most beautiful places)の中に選ばれた天台の古刹です。(西明寺の項参照)
金剛輪寺は奈良時代の中頃、天平13年(741)に、聖武天皇の願いにより行基菩薩が開山されました。11月中旬から下旬にかけては、境内一円が鮮やかな紅葉に彩られ、特に本堂周囲と庭園内の紅葉は「血染めのモミジ」と称されるほど、深紅に染まります。
百済寺(国史跡)は、今から1400年前の推古14年(606)に、渡来人のために聖徳太子さまが創建された近江の最古刹です。その後、鎌倉時代からは「天台別院」と称され、1300人が居住する巨大寺院となりましたが、惜しくも天正元年4月11日に信長の焼討ちに遭いました。しかし、往時の姿は「石垣参道」、棚田のような「坊跡遺構」や「千年菩提樹」をはじめ樹齢数百年の巨杉、山桜、椿群から偲ぶことができます。
長浜:豊臣秀吉ゆかりの地
参考動画:『【若一調査隊】歴史的魅力満載!豊臣秀吉ゆかりの地「長浜」の6つのスポットを一斉調査! 歴史・文化・観光から魅力に迫る』読売テレビニュース youtube https://youtu.be/vBafS5rgOOw?si=ayhyKc6vNrftZ6eH
長浜市は、滋賀県の北部に存在する、観光客数年間600万人を超える人気観光地で歴史の町であり、JR長浜駅から観光スポットが徒歩圏内にあるのも魅力の1つ。その長浜市を長浜城歴史博物館・黒壁スクエア・曳山博物館・慶雲館・長浜鉄道スクエアそして少し離れた場所にある国友鉄砲ミュージアムを足した6つのポイントに絞って紹介する。
[長浜城]:
何といっても秀吉の最初の城・原点なので、市民の熱望で1983年に天守が復元された。しかし羽柴秀吉時代の天守の資料がほとんど残っていないので、本来秀吉が作った城とは別のいわゆる模擬天守である。織田信長が浅井氏を滅ぼした後、秀吉が長浜に初めて城下町を築いて領地経営に乗り出した。1577年ころに長浜城が完成。秀吉は1582年まで罪状していた。本能寺の変後、清須会議を通して柴田勝家の甥の手に渡ったがすぐ秀吉が取り戻して、1583年の「賤ヶ岳の戦い」の際には、長浜城が秀吉の軍事拠点となった。復元された天守は、3層5階建てで歴史資料館となっており、入場料高校生以上410円、小中学生200円(2025年時点)(公式ホームページ)で入城できる。天守閣の最上階からは1337mの伊吹山が一望でき、館内は秀吉などにまつわる展示室となっている。楽市楽座・朱印地(免税特権のあるエリア)を設定して城下町の5分の3くらいを朱印地とした)などを行ったが、徳川時代に入っても、幕府は長浜で朱印地を維持し続けた。館内には筆まめだった秀吉の直筆の書状なども展示されている。
[国友鉄砲ミュージアム]:
長浜城歴史博物館から約5㎞のところに国友鉄砲ミュージアムがあるが、信長も秀吉も国友の鉄砲を使っていた。国友は、江戸時代、堺と並んで日本の二大鉄砲・火縄銃の生産地であった。江戸時代の最盛期には、70軒の鍛冶屋と500人以上の職人がおり、多種多様な鉄砲が作られていた。特徴としては鉄が黒光りしてさびない。
[曳山博物館]:
鉄砲などモノづくりの町として知られる長浜だが、その職人の技術の粋を集めたのが曳山、そのユネスコ無形文化遺産にも選ばれた長浜曳山祭りの曳山を詳しく見られるのが、曳山館である。
鯖街道(さばかいどう)は、若狭国などの小浜藩領内(おおむね現在の福井県嶺南地方に該当)と京都を結ぶ街道の総称である。
主に魚介類を京都へ運搬するための物流ルートであったが、最も割合が高かったのが鯖であったことから、鯖街道と呼ばれるようになった。
鉄道や自動車が普及する以前の時代には、若狭湾で取れたサバは行商人に担がれて徒歩で京都に運ばれた。冷凍技術のなかった当時は、日本海で捕れた生サバを塩でしめて陸送する方法が取られ、京都まで輸送するのに丸1日を要した。京都に着くころにはちょうど良い塩加減になり、京都の庶民を中心に重宝されたといわれている。現代においても、小浜や国道367号沿線などには鯖寿司の製造を生業とした店が多数存在する。
2015年(平成27年)4月24日、文化庁は日本遺産の最初の18件の一つとして「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 〜御食国若狭と鯖街道〜」を選定し、同年日本遺産として認定した
参考:『鯖街道』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AF%96%E8%A1%97%E9%81%93
「甲賀の里忍術村は、広大な敷地内に志能備神社 忍術博物館・からくり屋敷・手裏剣道場といった施設が点在しており、周囲は鈴鹿山麓の原生林にかこまれ、昔ながらの隠れ里の雰囲気をかもしだしております。
甲賀忍者発祥の地で、大自然を満喫しながら…自らが忍者になった気分でお楽しみください。
施設
からくり屋敷
甲賀忍術博物館
忍者道場
手裏剣道場
手作り道場(らくやき絵付け体験)
貸衣装
野外ステージ
志能便神社
売店
霧隠荘・忍茶屋
大仏の手
猿飛佐助の碑
駐車場(料金無料)
西口駐車場/40台
東口駐車場/40台
第三駐車場/420台
喫煙所
売店横喫煙所(1箇所)
授乳・オムツ
売店内スペース(1箇所)
自販機
売店前/2台
売店下/1台
西口横/1台
(いずれも飲料のみ)
売店前/1台
(アイスクリーム) 」
『甲賀の里 忍術村[オフィシャル]』HPより https://koka.ninpou.jp/about.html
忍者の記録である。
秘軍亀六の法 おそらく亀が甲羅に入って隠れるように、普段は隠れていていざと言う時はさっと手足を出してすばやく移動し、ゲリラ戦を展開していく戦術ではないか。
参考:『英雄たちの選択 シリーズ・リアル忍者 戦国忍者“神君伊賀越え”の選択』(2024年7月1日放送) NHKオンデマンド https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2024139634SA000/?np_banID=top_sp0031_139634
参考:『淡海温古録』滋賀県立琵琶湖文化館 http://www.biwakobunkakan.jp/db/db_04/db_04_025.html
江戸時代前期の貞享年間(1684~88)にまとめられた近江国の地誌。作者は、木村源四郎重要と言う人物。地誌と言う体裁を取りながら、中世の土豪・地頭の家系に関することを記した。光秀近江出身節を早くに記していた。
滋賀県甲賀市信楽を中心に作られる陶器で、日本六古窯のひとつに数えられる。一般には狸の置物が著名である。
信楽特有の土味を発揮して、登窯、窖窯の焼成によって得られる温かみのある火色(緋色)の発色と自然釉によるビードロ釉と焦げの味わいに特色づけられ、土と炎が織りなす芸術として“わびさび”の趣を今に伝えている。信楽の土は、耐火性に富み、可塑性とともに腰が強いといわれ、「大物づくり」に適し、かつ「小物づくり」においても細工しやすい粘性であり、多種多様のバラエティーに富んだ信楽焼が開発されている。
素朴さのなかに、日本人の風情を表現したものとして、室町・桃山時代以降、茶道の隆盛とともに「茶陶信楽」として茶人をはじめとする文化人に親しまれ、珍重されてきた、
江戸時代には、商業の発達にともない、茶壺をはじめ、土鍋、徳利、水甕などの日常雑器が大量に生産され、幕末には陶器製灯明具の一大産地であった。将軍に献上する新茶の茶壷に使われ、大名にも重宝された。明治期には、新しく開発された「なまこ釉」を使った火鉢生産がはじまった。その他、神仏器や酒器などの小物陶器や壺、などの大物陶器も生産され、質量ともに大きな発展を遂げた。
参考:『信楽焼』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E6%A5%BD%E7%84%BC
日本六古窯(にほんろっこよう)とは、日本古来の陶磁器窯のうち、中世から現在まで生産が続く代表的な6つの窯の総称。
朝鮮半島や中国からの渡来人の技術によって開始された近世からの窯から区別される。
小山富士夫の命名。圧倒的なシェアを占める美濃焼は含まれない。美濃焼以外にも伝統的な焼物があることを紹介する目的で「六古窯」を選別したためである。
瀬戸焼:愛知県瀬戸市
常滑焼:愛知県常滑市
越前焼:福井県丹生郡越前町
信楽焼:滋賀県甲賀市
丹波立杭焼:兵庫県丹波篠山市今田町立杭
備前焼:岡山県備前市伊部
[日本六古窯] 瀬戸焼・常滑焼・越前焼・信楽焼・丹波立抗(たちくい)焼・備前焼
(小山富士夫選定) 美濃焼は別格とした。
HP→滋賀県埋蔵文化財センター ごあんない https://shiga-mc.sakura.ne.jp/annnai.html
ごあんない~滋賀県埋蔵文化財センターってこんな所~
今からはるか数百万年前、私たちの祖先は、2本の足で歩き、やがて火や道具を使うようになりました。人類の誕生です。
その人類の誕生から今日に至るまでの歴史を、生活の痕跡である集落・住居や、官衙・役所、城、墳墓(ふんぼ)、窯、溝、ゴミ捨て場などの「遺構(いこう)・遺跡(いせき)」と、石や木、骨、貝、土、鉄などによってつくられた工具や農具、漁具、狩猟具、武器、祭器、食器、調理具などの「遺物(いぶつ)」を通じて当時の社会のしくみや生活の様子を明らかにしようとするのが『考古学』です。
考古学が研究の対象にするこれらの遺跡、遺構や遺物の多くは、地中に埋もれているため、我が国では、一般に、「埋蔵文化財」と呼ばれています。
滋賀県は、琵琶湖を中心に自然風土に恵まれているため、湖辺を中心に早くから人々が生活してきました。それだけに県内には多数の埋蔵文化財が眠っています。
滋賀県埋蔵文化財センターでは、昭和55年4月1日の開所以来、県下各地の遺跡や遺物を調査・研究するとともに、発掘された遺物や調査記録を整理・保管しています。
また、広く一般の方々に埋蔵文化財への理解と愛護精神を深めていただくため、『埋文ニュース』や『埋もれた文化財の話』シリーズの編集や、滋賀県内で見つかった埋蔵文化財から滋賀県の歴史を学ぶことに主眼をおいて、センターロビーでの常設展示を行っています。是非一度お立ち寄り下さい。
ご利用案内
ご利用時間 月曜~金曜日 午前9時00分~午後5時00分(入場は午後4時30分まで)
休 業 日 土・日・祝日および年末年始
入 場 料 無料
自家用車:名神高速「草津田上」インターチェンジから5分
公共交通機関:JR琵琶湖線瀬田駅下車、滋賀医大行きバス「文化ゾーン前」または「県立図書館・美術館前」下車、徒歩5分
参考動画:『【若一調査隊】滋賀で出土した最古級土偶&最大の銅鐸の謎に迫る!』読売テレビニュース(youtube) https://youtu.be/76ipG-aq79o?si=6EDzC0K5qusJ5B78
野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館) トップページ https://www.city.yasu.lg.jp/soshiki/rekishiminzoku/museum.html
博物館の基本情報
野洲市歴史民俗博物館は、愛称「銅鐸博物館」。銅鐸や野洲の歴史を紹介。
博物館に隣接する「弥生の森歴史公園」で、弥生時代にタイムスリップ!!
開館時間
午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日
月曜日(祝日・振替休日の場合は開館、その翌日が休館)
祝日の翌日(土曜日・日曜日、祝日の場合は開館)
年末年始(12月28日〜1月4日)
(注意)館内燻蒸作業等による臨時休館があります。
2025年7月15日(火曜日)~17日(木曜日)を予定。
入館料
大人300円 高校・大学生150円 小・中学生100円 (20名以上の団体は各50円割引)
2025年6月21日現在
参考:『銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)』 - 滋賀・びわ湖観光情報(公益社団法人びわこビジターズビューロー) https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/722/
JR野洲駅の北東約3kmにあり、正式名は、野洲市歴史民俗博物館といいます。
近くの大岩(おおいわ)山から明治14年(1881)に出土した銅鐸14個、昭和37年(1962)に出土した銅鐸10個を中心に、弥生時代のカネ、銅鐸に関する資料を展示しています。出土した銅鐸の中には、日本一大きなものが含まれており、野洲市の銅鐸は広く知られています。
館内は、常設展示室が2つと企画展示室が1つあり、企画展・特別展では銅鐸だけでなく、野洲市に関する歴史や民俗文化資料が展示されます。この博物館のテーマは「調べ・考え・集め・残し・見て・学ぶ」で、復元された銅鐸を実際に触ったり、鳴らすことができます。また、隣接する工房では、古代のアクセサリーであるまが玉や土器・はにわ作りなども体験できるので、楽しみながら学ぶことができます。
<弥生の森歴史公園>
銅鐸博物館の前面に広がる弥生の森歴史公園は、銅鐸の時代を実物大で学習することができる公園です。高床倉庫1棟、竪穴住居4棟からなる弥生のムラをはじめ、赤米を栽培する水田、古代の大賀ハスなどがみられます。
さらに、「弥生の森体験学習」では、まが玉づくりをはじめ手軽な体験メニューを用意しています。
参考:『瀬田の唐橋』公益社団法人びわこビジターズビューロー(旧滋賀県観光連盟) https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/23046/
急がば回れ瀬田の唐橋。唐橋を制するものは天下を制す。大橋・小橋は織田信長によって整備。
参考:『瀬田の唐橋』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E7%94%B0%E3%81%AE%E5%94%90%E6%A9%8B
瀬田の唐橋(せたのからはし、瀬田唐橋〈せたからはし〉)は、滋賀県大津市瀬田-唐橋町の瀬田川に架かる橋である。全長223.7メートル(大橋約172 m、小橋約52 m[2])で、滋賀県道2号大津能登川長浜線がこの橋を渡る。2015年時点での調査では平日1日あたり1万1955台の交通量がある。
京都の宇治橋、山崎橋とならんで日本三大橋(日本三名橋・日本三古橋)の1つとされてきた。また、近江八景の1つ「瀬田の夕照(勢田夕照)」として知られる。1986年(昭和61年)8月10日の道の日には、旧・建設省と「道の日」実行委員会により制定された「日本の道100選」にも選ばれている。
参考動画:『【若一調査隊】滋賀県大津市にある瀬田の唐橋にまつわる伝説&建部大社に伝わる2つの重要文化財を歴史散策 「急がば回れ」の語源!?「ムカデ退治伝説」の舞台!?』読売テレビニュース(youtube) https://youtu.be/Mi76W5I7Fnw?si=9-EiOTRZxIUzcQAG
日本三大名橋
瀬田川→宇治川→淀川
急がば回れ 近江八景瀬田の夕照(広重)
近江大津宮遷都 壬申の乱の最後の決戦場。
藤原仲麻呂の乱・治承寿永の乱・承久の乱・建武の戦い→唐橋を制するものは天下を制する←交通の要衝
織田信長時代 瀬田城→本能寺の変後、安土城へ向かう明智勢を防ぐため城主山岡隆景が城と橋を焼いて阻止した→秀吉時代に再建。
俵藤太(藤原秀郷)像 ムカデ退治 龍王宮秀郷社 唐橋の下には龍神・龍王が住んでいる。秀郷の子孫蒲生氏。
雲龍寺 蒲生氏ゆかりの寺 百足供養堂 俵藤太の遺品
参考動画:『【今昔さんぽ】「琵琶湖の水止めたろか!」滋賀には水流コントロールする『洗堰』が本当にあった 滋賀・琵琶湖〈カンテレNEWS〉』カンテレNEWS https://youtu.be/vyw2P72-sfM?si=P9bqTa_pYtHFAP1n
急がば回れの語源になった橋。江戸から今日に向かう時、琵琶湖(南湖)を船で渡るルート(旧矢橋港~打出浜)が距離も短く早かったが、比叡山からの強風(比叡おろし)で危険だった。そのため南側へ大きく迂回し、瀬田の唐橋で瀬田川を渡るルートが安全で確実だったことから、急がば回れのことわざが生まれたと伝えられている。
番組は南郷洗堰(なんごうあらいぜき)の前で肩を組むカップルの古い写真を基に周辺の情報を探っていく。
参考:『瀬田川洗堰』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E7%94%B0%E5%B7%9D%E6%B4%97%E5%A0%B0
瀬田川洗堰(せたがわあらいぜき)は、滋賀県大津市南郷地先に建設された堰(可動堰)である。明治に作られた旧洗堰は南郷洗堰と呼ばれる。なお、当堰上は、2車線道路と歩道が設置されており、滋賀県道108号南郷桐生草津線の起点となっている。
琵琶湖から流れ出る唯一の天然河川である瀬田川の水を堰き止め、利水および治水に供する目的で運用されている。
堰は国土交通省近畿地方整備局琵琶湖河川事務所により管理されている。なお、淀川流域の国土交通省管轄の河川施設のうち天ヶ瀬ダムおよび、水資源機構が設置した、日吉ダム、高山ダム、青蓮寺ダム、室生ダム、布目ダム、比奈知ダムは、淀川ダム統合管理事務所にて総合的に管理されているが、瀬田川洗堰と淀川大堰は各河川事務所により管理・操作されており、淀川ダム統合管理事務所からは情報提供のみ行われている。
かつては、治水目的で全閉操作がなされることが想定されていたが、国土交通省の方針転換により全閉操作は行わないことになった。しかし、2013年(平成25年)9月16日に台風18号による記録的な大雨を受け、下流の宇治川の氾濫を防ぐために41年ぶりに全閉操作がなされた。
参考動画:『【今昔さんぽ】「琵琶湖の水止めたろか!」滋賀には水流コントロールする『洗堰』が本当にあった 滋賀・琵琶湖〈カンテレNEWS〉』カンテレNEWS https://youtu.be/vyw2P72-sfM?si=HqFdr6eVClZcWYra
南郷温泉。一部残った南郷洗堰。水のめぐみ館アクア琵琶。世界最大の雨量である600㎜の雨が体験できる。
120本の川から琵琶湖に雨が流れ込み、唯一の出口である、瀬田川から、京大阪へ宇治川・淀川となって流れ下る。
参考動画:『【若一調査隊】滋賀県大津市にある瀬田の唐橋にまつわる伝説&建部大社に伝わる2つの重要文化財を歴史散策 「急がば回れ」の語源!?「ムカデ退治伝説」の舞台!?』読売テレビニュース(youtube)
https://youtu.be/Mi76W5I7Fnw?si=9-EiOTRZxIUzcQAG
近江の国一之宮。御祭神:日本武尊。日本で初めて千円札に描かれたのは日本武尊と建部大社。1945年。
日本武尊ほか、両親、妻、子供たちなど親族も祭られている。
重文石灯篭(鎌倉時代)、重要文化財女神像(平安時代)
HP 建部大社について https://takebetaisha.jp/about/
ご祭神:日本武尊(やまとたけるのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)
ご由緒:当社は、古くから建部大社や建部大明神と呼ばれ、延喜式内社であると同時に、近江国の一之宮として広く崇敬されてきた歴史ある神社です。
当社の祭神である日本武尊は、熊襲兄弟を倒し、東夷を平定し、30歳で亡くなりました。父である景行天皇は尊の功績をたたえて建部を定め、景行天皇46年(西暦116年)に神勅により御妃 布多遅比売、御子 稲依別王が住んでおられた神前郡武部、鈴鹿郡の能褒野の郷千草嶽に社殿を創建し、日本武尊を斎祭られました。
その後、天武天皇の時代に瀬田に奉還され、大和の国の一の宮の大神神社の大己貴命を奉祀して以来、近江一宮として尊崇されてきました。歴代の皇族や武将たちの信仰を受け、特に源頼朝が平家に捕らわれた際、当社に参拝して前途を祈願したことが平治物語に記されています。
頼朝は後に源氏再興の宿願を果たし、再び社前で祈願し、多くの神宝と神領を寄進しました。
以来、当社は出世開運、除災厄除、商売繁盛、縁結び、医薬醸造の神として信仰を集めています。
近江一宮
参考動画:『【若一調査隊】鎌倉期の国宝本殿に平安時代の風情残る名勝庭園 秋の行楽シーズンに穴場!御上神社と兵主大社を歴史散策』読売テレビニュース(youtube) https://youtu.be/JohtDgRl5hY?si=w4r1R-Cowz2bJRlq
(1)保存地区の概要
●地区名:神戸市北野町山本通
●種別:港町 ●面積:約9.3ヘクタール
●選定年月日:昭和55年4月10日
≪ 特 徴 ≫
六甲山の南麓に広がる北野町・山本通は、外国人居留地を補
完 するため、明治時代に開発された住宅地の1つで、保存地
区はかつての山手雑居地の一部にあたる。
国重要文化財の旧トーマス住宅や小林家住宅をはじめとして、
30件近くの異人館と呼ばれる洋風建築が点在し、さらに明治
末期から昭和初期までに建てられた良質な和風建築も共存し
ている。
伝統的建造物:建築物 65棟(洋風51棟、和風14棟)
工作物 67件(門・塀・柵・街燈など)
必要物件 8件(樹木・石垣・石段など)
国重要文化財:2件
国登録文化財:1件
(2)保存地区のあゆみ
昭和38年度(1963) 旧ハッサム住宅・旧ハンター住宅を地区外へ移築保存
昭和50年度(1975) 北野・山本地区伝統的建造物群調査(文化庁/保存対策事業)
昭和51年度(1976) 異人館修理助成(市単独事業~55年度)
昭和52年度(1977) 北野・山本地区の景観及び異人館等の保全に関する提言
NHK朝の連続テレビドラマ「風見鶏」の放映、観光ブーム
昭和53年度(1978) 神戸市都市景観条例の制定
重要文化財/旧トーマス住宅(風見鶏の館)の公開
昭和54年度(1979) 都市景観形成地域・伝統的建造物群保存地区の決定
昭和55年度(1980) 『重要伝統的建造物群保存地区』選定、修理・修景事業の開始
昭和56年度(1981) 地域活動団体を景観形成市民団体に認定
平成 6年度(1995) 阪神・淡路大震災、伝統的建造物等の災害復旧(~平成9年度)
平成24年度(2012) 防災計画の策定
平成29年度(2017) 伝建地区建築基準法の制限の緩和に関する条例の公布
『神戸市北野町山本通(兵庫県)』 重要伝統的建造物群保存地区 文化庁による
取組など再確認のこと
2019年日本地理出題。
南北朝期~江戸期の城。兵庫県姫路市本(ほん)町にあり、白鷺(しらさぎ/はくろ)城ともよばれる。姫路平野の中央、高さ45メートルの姫山を本丸とした平山城(ひらやまじろ)の典型である。城の歴史は古く、1331年(元弘1)の元弘(げんこう)の乱のとき、播磨(はりま)守護赤松則村(あかまつのりむら)が陣を構えたのに始まり、1346年(正平1・貞和2)則村の子貞範(さだのり)が築城したと伝えられる。赤松氏は目代(もくだい)として小寺(こでら)氏を置いてこの城を守らせた。嘉吉(かきつ)の乱(1441)後、一時山名持豊(やまなもちとよ)(宗全(そうぜん))が入ったこともあるが、1545年(天文14)小寺氏が御著(ごちゃく)城に移ってからは、その臣黒田氏が拠(よ)っていた。1580年(天正8)に羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉が毛利(もうり)氏との戦いの拠点として本格的に改修し、三層の天守閣を築いた。これが現在の姫路城の始めである。天守閣解体修理のとき、現在の大天守の石垣の中から一回り小さい石垣が発見され、秀吉時代の天守閣が同じ位置にあったことが確認されている。しかし、今日みるような建物が建てられ、現在のような規模に拡張されたのはもうすこしあとで、1600年(慶長5)池田輝政(てるまさ)が姫路に入ってからであった。輝政は徳川家康の女婿ということもあり、播磨のほかに備前(びぜん)、淡路(あわじ)を領する大々名として本格的な近世城郭に大改修することを計画した。入封の翌1601年に着工し、9年の歳月をかけて完成したものである。城の曲輪(くるわ)配置は本丸、二の丸、三の丸、西の丸などからなり、内郭、中郭にそれぞれ堀を巡らして螺旋(らせん)形に配しているのが特徴といえる。天守閣をはじめ櫓(やぐら)、門など往時の建造物がほとんど残っており、日本一の城郭遺構で、築城技術がもっとも進歩した慶長(けいちょう)時代の逸品といえる。天守閣の完成したのは1609年で、そのあと1617年(元和3)に池田光政(みつまさ)が鳥取へ転封し、桑名(くわな)より本多忠政(ほんだただまさ)が入り、さらに松平(奥平)、松平(結城(ゆうき))、榊原(さかきばら)、松平(結城)、本多、榊原、松平(結城)と入れ替わり、1749年(寛延2)酒井忠恭(ただずみ)が前橋より転封され、以後明治維新まで世襲した。
姫路城の建造物は、わが国にある城の建造物としては群を抜いて多く、国宝として大小天守4棟と渡櫓(わたりやぐら)4棟、重要文化財として櫓16棟、渡櫓11棟、門15棟、塀32棟がそれぞれ指定を受けている。天守閣は連立式で、大天守、西小天守、乾(いぬい)小天守、東小天守の大小四つからなり、とくに大天守は、高さが33メートルにも及び、外観5層、内部7階の大規模なもので、現存天守としては最大規模を誇っている。国宝および重要文化財として指定されているものに、折廻(おりまわし)櫓、井郭(いぐるわ)櫓、帯の櫓、帯郭(おびぐるわ)櫓、太鼓櫓、化粧櫓のほか、イロハの記号がつけられた渡櫓および櫓があり、また、二の丸大手門である菱(ひし)の門をはじめ、いろはの記号がつけられた門もたくさんある。そのうち、「るの門」はトンネル式の埋門(うずみもん)である。
西の丸にある通称「百間廊下」は、他の城にみられない独特のもので、化粧櫓を起点とし、ヌ、ル、ヲ、ワの櫓と、カ、ヨ、タ、レの渡櫓を連ねたもので、単なる廊下ではなく、廊下の内側に20余の部屋ができているのが特徴である。1993年(平成5)、姫路城は世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。[小和田哲男]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
所在施設: 姫路公園
所在地: 〒670-0012 兵庫県姫路市本町68
営業時間:営業終了: 17:30 電話によって更新(11 週間前)
電話番号: 079-289-4120
運営者: 姫路市; (指定管理者:一般財団法人姫路市まちづくり振興機構)
面積: 33,994平方メートル
姫路城と内堀を挟んですぐ西隣。大手門駐車場前に入り口。
参考:『好古園』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%BD%E5%8F%A4%E5%9C%92
好古園(こうこえん)は兵庫県姫路市の姫路公園(姫路城)内にある日本庭園。正式名は姫路城西御屋敷跡庭園好古園。「好古園」とは、江戸時代に現在の庭園入口付近に存在した藩校「好古堂」に因むものである。
古地図『姫路侍屋敷図』を基に特別史跡地の姫路城西御屋敷跡・旧市之橋で発掘調査で確認された西御屋敷(1618年〈元和4年〉造営)・武家屋敷等の遺構をそのまま生かして作庭された総面積3.5ヘクタールの池泉回遊式庭園群である。9つの日本庭園で構成され、其々が屋敷割遺構どおりに築地塀等で仕切られていることを特徴とする。各庭園入口には長屋門・屋敷門、園内には渡り廊下など江戸時代の建築が再現されていることなどから、時代劇や大河ドラマの撮影地にもなっている。造園学者の中村一ほか、地元の若手造園家の協力により庭園の設計が行われた。運営管理は姫路市。開園は姫路市制100周年にあたる1992年(平成2年)4月29日[1]。好古園入口の扁額は、結城義聞の子息の元東京大学教授・結城令聞の書である。
2017年(平成29年)3月、入場者数が500万人を超えた。
引用元:『姫路城西御屋敷跡庭園 好古園』https://www.himeji-machishin.jp/ryokka/kokoen/origin/index.html
世界遺産・国宝姫路城を借景とした日本庭園。姫路市制百周年を記念して建造された約1万坪の日本庭園で文化財の保全と活用を兼ねた新しい文化の場として平成4年4月29日に開園しました。整備に先立つ7次にわたる発掘調査で、元和4年(1618年)に本田忠政が造営した西御屋敷や武家屋敷、通路などの遺構が確認され、これは酒井家時代の「姫路侍屋敷図」に記されたものとほぼ合致しています。
庭園の計画は、京都大学教授中村一氏の設計監修を受けたものであり、確認された屋敷割や通路の地割を活かした9つの大小庭園群及びアプローチ樹林帯・広場で構成しています。
「好古園」の愛称は、藩校「好古堂」に因んで命名されました。
江戸時代最後の姫路藩主であった酒井家は、前任地上野国厩橋(群馬県前橋市)において元禄5年(1692)に藩校「好古堂」を開校しました。寛延2年(1749)酒井忠恭が姫路藩へ移封されたとき、藩校も姫路城内大名町東南総社門内の元藩会所跡に移設されました。
その後、好古堂は桜町大手門前南側を経て、天保13年(1842)に酒井忠学は、「好古堂」を大手門西側(現在の好古園入ロ付近)に移転拡張しました。このとき、寄宿舎を私学校「仁寿山饗」から移築し、演武場などを新築し、藩校の規模を拡充して文武の基礎を固め、両道の振興を図りました。
好古園入ロの扁額は、酒井藩校「好古堂」の督学であった松平惇典が後に開いた、家塾の塾頭であった結城義聞の子息で元東京大学教授・結城令聞氏の書です。
参考:『【若一調査隊】あの有名映画のロケ地にも!?世界遺産・姫路城望む巨大庭園『好古園』御屋敷跡によみがえる江戸時代の景観』読売テレビニュース youtube https://youtu.be/VYutHmYW6_4?si=YdYj7rmBNKTMwK2w
好古園の庭は、旧姫路藩城主の下屋敷と家臣たちの屋敷群の上に立つ、御屋敷の庭、茶の庭、苗の庭、流れの平庭、夏木の庭、瀬戸内地方の赤松林をイメージした松の庭、花の庭、竹の庭、築山池泉の庭の9エリア。
御屋敷の庭へ入り、太鼓橋のようなふくらみのある渡り廊下を渡ると、広々とした池に面した『潮音斎の観庭台』がある。池の向こうには西の丸が見える。姫路城を借景にした池泉回遊式庭園である。この池は瀬戸内海の島々を模している。隣接してレストラン「活水軒」があり、庭を一望できる。
池の向こうの茂みのさらに向こうには、姫山原始林(姫山樹林)が広がる。
庭は季節ごとに違った景観を楽しめるように設計されている。紅葉時期はライトアップもされる。
徳川8代将軍吉宗の時代、城主の榊原政岑が吉原の遊女高尾太夫を見受けし、この屋敷に住まわせたことがあった。おりしも倹約令下でこの政岑の行動は幕府で大問題になっという。
それぞれの庭には庭に似合うあずまやが作られている。そのうち鷺望亭からは姫路城(白鷺城)の大天守が望める。冬は落葉し、さらに大天守が良く見える。
「花の庭」には、メグスリノ木が植えられている。黒田官兵衛の祖父重隆が目薬「玲珠膏」を開発・販売して財を成し、黒田家再興のきっかけになり、財力で姫路城の城主になったことにちなむ木である。「竹の庭」には珍しいキッコウチク(亀甲竹)など種々様々な竹を楽しむことができる。「茶の庭」には双樹庵と言う裏千家の第十五代家元が直接監修したという本格的な数寄屋造りの茶室で素晴らしい景観と茶が楽しめる。
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ちよろぎも数年前にお邪魔しましたが、設計や背景だけではなく、常に人の手が入って整えられた市民の宝物と言った感じでした。足立美術館にもうかがい、塵一つないすばらしい景観を保つ努力を感じましたが、同じ精神を感じました。ぜひ訪れてほしいと思います。
淡路島は瀬戸内海に浮かぶ島で、人形浄瑠璃で有名です。南あわじ市の淡路人形座では、淡路人形浄瑠璃が上演されています。丘の上には洲本城が再建され、大阪湾が見渡せます。北部は、安藤忠雄が設計し、神戸淡路大震災の後に完成した複合施設、淡路夢舞台があります。ここの見どころのひとつは、階段状に連なる花壇です。淡路島と神戸市は、明石海峡大橋でつながっています。 ― Google
現在の天気: 温度: 19°C、風向: 南東、風速: 8 m/s、湿度: 77% ウェザーニュース
面積: 592.2 km²
最大長: 53 km
座標: 北緯34度09分 - 34度36分東経134度39分 - 135度01分
所在地: 日本
所在海域: 瀬戸内海
最大都市: 南あわじ市
弥生時代後期 鉄器づくりのムラ 一部復元 レプリカを展示室で観覧可能
兵庫県淡路市黒谷にある弥生時代の遺跡。国の史跡に指定されている。弥生時代後期における日本列島最大規模の鉄器生産集落である。
2001年(平成13年)に発見され、2007年(平成19年)から発掘調査が実施された。
遺跡は淡路島の西側海岸線から3キロメートルの距離にある丘陵上に位置している。東西にのびる尾根を中心に、東西500メートル、南北50メートルに広がることが確認されている。現地からは、播磨灘や瀬戸内をい行き交う船を一望でき、その向こうには家島群島の島影や播磨地域を見渡せる。弥生時代後期の1世紀ごろのおよそ150年間にわたり存在したと考えられる。遺跡には鍛冶工房として使われた竪穴建物が復元されている。
弥生時代後期の鉄器生産工房として使われた竪穴建物23軒から成っており、うち12軒から鉄を加工した炉跡の遺構が確認された。また石槌や鉄床石、砥石など、鉄を加工するための石製工具も数多く出土した。1軒の中に10基の鍛冶炉がある建物も発見され、これまで発見された弥生時代の鉄器生産遺跡としては、最大規模であった。住居として使われた竪穴建物は少なく、鉄器製作に特化した特異な遺跡である事が分かった。
参考:『五斗長垣内遺跡』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%96%97%E9%95%B7%E5%9E%A3%E5%86%85%E9%81%BA%E8%B7%A1
「五斗長垣内遺跡活用拠点施設」
所在地
〒656-1601 兵庫県淡路市黒谷1395-3
電話番号 0799-70-4217
FAX番号 0799-70-4217
URL http://gossa-awaji.jp/remains/
定休日 月曜日(祝日の場合は翌平日)、年末年始(12月28日~1月3日)
駐車場 有り
開館時間:9時00分~17時00分
入館料:無料
車でのアクセス:
神戸淡路鳴門自動車道「北淡IC」出口つきあたりを左折(山側へ)。道中案内有り
参考:『五斗長垣内遺跡』(淡路島観光サイト) https://www.awajishima-kanko.jp/manual/detail.html?bid=757
近畿地方では弥生時代の鉄の工房はほぼ発見されておらず、この遺跡が発見されたことで鉄文化の見方が変わった。この工房の頃は倭国大乱の時期と一致する。
また、現地では原材料は採取できず、おそらく朝鮮半島から(鉄鉱石を加工した)鉄の板のような形で入ってきたと考えられている。
参考:『【若一調査隊】淡路島が考古学史を揺るがす!? “鉄器”と“銅鐸”に関する歴史的大発見とその謎に迫る!』(読売テレビニュースCh.) https://youtu.be/vUN6R3ENcek?si=xnzwCuvZqNuM6-57
参考:『特別公開 松帆銅鐸』奈良国立博物館 令和6年(2024)2月10日(土)~3月17日(日)に特別展が行われました。 https://www.narahaku.go.jp/exhibition/usual/20240210_mei_matsuho/
参考:『「舌」まであった淡路島出土の「松帆銅鐸」 奈良博で初めて展示』朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASS2P7284S2JPOMB009.html
参考:『松帆銅鐸』淡路島松帆銅鐸サイト https://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/site/matsuhodotaku/feature.html
兵庫県南あわじ市の玉砂利製造会社の砂山から、祭祀(さいし)などに使われたとされる銅鐸(どうたく)が7個見つかり19日、県教委が発表した。紀元前3~2世紀(弥生時代前期末~中期初頭)に鋳造された古式の銅鐸で、多数確認例では加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)の39個、大岩山遺跡(滋賀県野洲市)の24個、桜ケ丘遺跡(神戸市)の14個に次ぐ4番目。
銅鐸7個の大きさは高さ31・8~22・4センチ。底幅18・5~12・8センチ。3組6個は加茂岩倉遺跡と同様に、大きな銅鐸に小さな銅鐸を入れ込む「入れ子」の状態で、埋納状態を復元する手がかりになるという。また、1個は菱環鈕(りょうかんちゅう)式と呼ばれる最古型式で、11例しか確認されていない。残る6個は外縁付(がいえんつき)鈕式という2番目に古いタイプだった。
3個からは、銅鐸の内側に取り付け、打ち鳴らすための「舌(ぜつ)」と呼ばれる青銅製の棒(長さ約13~8センチ)も3本確認された。青銅の舌が銅鐸と同時に見つかったのは珍しい。舌は摩滅しており、実際に鳴らされたことを裏付けている。
今後、奈良文化財研究所で型式や模様などを詳しく調べる。
銅鐸は4月、玉砂利製造会社の砂山から見つかった。土砂は同市西部の松帆(まつほ)地区を中心に約10年前から集められていたというが、正確な出土地は不明。7個は松帆銅鐸と名付けられた。
参考:『【動画】淡路島で銅鐸7個「数十年に一度の大発見」 土砂選別作業がきっかけ』産経新聞2015年 https://www.sankei.com/article/20150519-ULYSOIBZ2FLR5PZORTUJIOLCGM/
2015年5月南あわじ市のマツモト産業(石材資源の加工)が浜から運んできた砂山の移動作業で銅鐸が見つかった。発見者は西田副工場長。さらに砂山を調査したところ、あわせて7点の銅鐸がみつかった。奈良文化財研究所に運ばれて調査、分析研究が行われた。
(一例:『松帆銅鐸発見を契機とする銅鐸論の再構築』難波洋三など)
そののち銅鐸は南あわじ市に帰り、画家直原玉青の作品を展示する玉青館で現在展示されている。
2300~2100年前(埋納)のもので、銅鐸がこのように7点もまとまって出土することは珍しいという。7点のうち3組が入れ子(大きな銅鐸に小さな銅鐸が入っている)の状態で発見され、最初に砂山で発見された1号銅鐸は「菱環紐式(りょうかんちゅうしき)」(弥生前期~中期初頭)で、最古の銅鐸であったこと(全国で11例のみ)、2~7号は「外縁付紐式(がいえんつきちゅうしき)」(弥生時代中期前半)で、2番目に古いものと最古級に古かった。
銅鐸は五穀豊穣を願う祭祀の道具と考えられており、初めは音を聞く道具であったものが次第に見る銅鐸に変わったものと言われているが、はっきりしたことはわからなかった。しかし、松帆銅鐸では舌(ぜつ)が一緒に発見され(入れ子状態の中に大小の舌が入っていた)、さらに舌の紐(3・6・7号)までセットで残っていたことにより(銅鐸の銅イオンのおかげで腐らずに残っていた)、初期の銅鐸の原点は音を鳴らす道具であったことが分かった。
また、入れ子の中に植物が残っていたため、銅鐸の年代(埋納時期)までが判明した。
なお、玉青館には正確な銅鐸のレプリカが展示されており、鳴らして音を確かめることができる。当時日本列島にはまだ金属がなく、弥生人が初めて聞いたかもしれない金属音が体験できる。また、松帆銅鐸は出雲などで発見された銅鐸と同じ鋳型から作った銅鐸(同笵(どうはん)銅鐸)であることがわかっている。銅鐸の流通から当時の地域間の交流も見て取れるという。
ちなみに兵庫県は全国500店以上の銅鐸の出土数のうち、淡路島の21点を含む、68点が出土しており、全国1位である。
参考:『【若一調査隊】淡路島が考古学史を揺るがす!? “鉄器”と“銅鐸”に関する歴史的大発見とその謎に迫る!』(読売テレビニュースCh.) https://youtu.be/vUN6R3ENcek?si=xnzwCuvZqNuM6-57
兵庫県丹波篠山市北新町にあった日本の城(近世城郭)。篠山盆地の中央部、笹山とよばれる小丘陵に築かれた平山城で、篠山藩の藩庁であった。国の史跡に指定されている。
1609年(慶長14年) - 徳川家康は、松平康重を常陸国笠間城から丹波国八上城に移し、さらに新城の築城を命じた。これは、山陰道の要衝である丹波篠山盆地に城を築くことによって、大坂の豊臣氏をはじめとする西国諸大名のおさえとするのが目的であったとされる。篠山盆地中心部の丘陵である笹山を築城地と定め、藤堂高虎が縄張を担当した。普請総奉行を池田輝政が務め、15か国20の大名の助役による天下普請により6か月で完成した。
築城当初より天守台はあるが天守は建設されなかった。これは石垣や堀をはじめとする城の造りが堅固すぎることを幕府が懸念したためと伝えられている。天守の建てられなかった天守台には、平櫓が南西隅に建っていた。
三の丸に上級武士、外堀沿いに中級・下級武士、外堀南に足軽長屋、街道沿いに町や社寺が配置された。
参考:『篠山城』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%A0%E5%B1%B1%E5%9F%8E
住所 兵庫県丹波篠山市北新町2-3
電話 TEL:079-552-4500 FAX:079-552-5110
開館時間 9:00~17:00 ※受付終了 16:30
休館日 毎週月曜日 年末年始(12月25日~翌年1月1日)
※祝祭日は開館、翌日休館
駐車場 有料駐車場あり
篠山城大書院入館料 大人:400円 / 高校・大学生:200円 / 小・中学生:100円
歴史4館
共通入館券 大人:600円 / 高校・大学生:300円 / 小・中学生:150円
※共通券は2日間有効。 ただし2日目が休館日の場合は当日のみ有効。
※歴史美術館が特別展期間中は、4館共通券の料金が異なる場合があります。
参考:『篠山城大書院』公式ページ(WITH ささやま) https://withsasayama.jp/osyoin/
篠山城は、1609年天下普請で築かれた名城である。藤堂高虎が設計を担当した。笹山と言う固い岩盤の上に作られた平山城。
日本100名城の1つ。桜の名所。600本のソメイヨシノ。
特徴としては、
全国的にも珍しい現存の「馬出(うまだし)」
防御性の高い外堀
篠山城に秘められた家康の思惑
篠山市民の寄付で2000年に復元された大書院(おおしょいん)
が挙げられる。
*出入口(虎口(こぐち))が3か所(2か所現存)あるが、その出入り口を徹底的に守るための馬出。虎口の前に作られているので、敵はまっすぐ城に攻め入ることができない。馬出に兵を待機させて弓矢鉄砲などで縦一列で攻め込んできた敵を一斉攻撃可能。
外堀は土橋で4つに分けられているが、それぞれ高さが異なる。内堀は埋められているが、外堀は昔の趣を残している。春秋の行楽シーズンには手漕ぎボート(丹波篠山観光ボート)で外堀を楽しめる。外堀は幅40m、深さは4mであり、節水面位は石垣、その上には土塁、さらにかつては兵が築かれていた。
天下普請で築城の名手藤堂高虎が陣頭指揮をとって建てられた篠山城であるが、その役割は、姫路城、彦根城、伊賀上野城と共に豊臣秀頼が住む大坂城の包囲網を作り、豊臣方の西側大名ににらみを利かせることにあった。
内堀には広々とした犬走り(石垣下の道で、通常は犬がやっと通れるほどの狭いスペース)がある。半年で行われた普請であったため、どんどん運び込まれる資材の置き場として使われたようだ。急造りの石垣の補強の意味があったともいわれる。
豊臣恩顧の大名たちが城づくりを担当し、15か国20の助役大名の総勢8万人の労力による大工事であった。そのため担当部署で石のタイプ・積み方が異なる。全体としては大津市坂本(滋賀県)を拠点とする石工集団穴太(あのう)衆の指導によって築かれた。石垣に刻まれた刻印が大変多い事でも知られている(1000以上)。
江戸時代前半は松平康茂をはじめとする松平家、後半は青山家が城主として治めた。
天守の準備は進められていたが、天守は作られず、天守台のみ作られた。天守台の広さは姫路城に匹敵する。天守が作られなかった理由としては、名古屋城の築城時期が迫っていたためや、大砲の時代になったので城に天守は必要ないと本田正純などが主張したためと言われる。
明治の廃城令によって城の大半が壊され大書院だけが残っていたが、昭和19年に火災で焼失したものを市民の要望で、残された資料をもとに様々な学術調査が実施され、2000年に大書院が忠実に復元された。杮葺きの屋根は家康が愛した木曽のサワラ(檜に近いような木。竹くぎでおさえられる)で葺かれている。8つの部屋を見学できる。
参考:『【若一調査隊】ナゼ丹波篠山に城が?「徳川家康」が築城を命じた“篠山城”を徹底調査!秘められた家康の思惑に迫る!』読売テレビニュースCh. https://youtu.be/FNJeCnKCh0U?si=fSxkGBRv6Obqfwdi
日本100名城にも選ばれた篠山城の西側と南側のエリアおよび東南側の東西に延びた商業地域は、丹波篠山市 篠山(たんばささやまし ささやま)として重要伝統的建造物群保存地区(武家屋敷)に選ばれている。(平成16年)
御徒町武家屋敷群 茅葺きの典型的な徒士(かち)屋敷
参考:『重要伝統的建造物群保存地区 丹波篠山市 篠山・福住(兵庫県)』 https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/pdf/93738601_67.pdf
参考:『【若一調査隊】篠山城下の「武家屋敷群」と「商家群」、異なる2つの町並みが楽しめる! 兵庫・丹波篠山市の“重伝建”の魅力を徹底調査!』読売テレビニュースCh.
参考:『国宝 浄土寺』兵庫県おの観光ナビ https://ono-navi.jp/spot/463/
「浄土寺」は、鎌倉時代のはじめ、重源上人が建立した寺院です。
敷地中央に八幡神社、その前に池をはさんで浄土堂と薬師堂が向かい合うという珍しい配置となっています。
浄土堂と堂内の阿弥陀三尊立像はともに、国宝に指定されており、このように建物と仏像が国宝指定されているのは、浄土寺をはじめ平等院や東大寺などがあります。
◎住所:兵庫県小野市浄谷町2094
◎問合せ:
歓喜院 TEL: (0794)62-4318
宝持院 TEL: (0794)62-2651
◎拝観時間
9:00〜12:00 / 13:00~17:00
(ただし10月〜3月は16:00まで)
※12月31日・1月1日は堂内拝観出来ません。
◎拝観料
500円
(30名以上の団体は1人:450円)
※小学生以下は無料
◎駐車場
無料(大型バス可)
◎ボランティアガイド
お申込みはこちら
> 観光ボランティアガイド 小野ガイドひまわり
参考:『客番札所 極楽山 浄土寺』新西国霊場 https://shin-saigoku.jp/templ/templ-k05/
極楽山 浄土寺の情報
宗 派:高野山真言宗
開 基:行基菩薩 (復興:重源上人)
本 尊:薬師如来・阿弥陀三尊
創 立:聖武天皇の御宇 (中興:建久五年(1194年))
浄土寺の前身は、現在の浄土寺の西側約2kmの場所にあった広渡寺で、聖武天皇の頃、行基菩薩によって創建されたと伝えられている。その後、広渡寺は兵火にかかり荒廃していたが、重源上人が建久5年(1194年)に現在の場所に復興し、浄土寺と呼ぶようになったという。
中興開山の重源上人が建てた浄土堂(阿弥陀堂)のがっちりとした、しかも美しい構えは何といっても人々をして感銘させるに十分である。わが国における古い天竺様の建物としては、奈良東大寺の南大門とともに全国にただ二つしかなく、天竺様建物は、構造力学的に原理を追求し、実用の中に建築の美を求める合理性を尊重したものといわれている。中には、御本尊の木造阿弥陀如来、観音、勢至の両菩薩の立像が円形の台座に安置してある。
浄土寺の浄土堂の向かい側にあるのが本堂(薬師堂)で薬師如来をまつっている。本堂は、浄土堂と同様、重源上人が建てられたが、その後焼失し永正十四年(1517年)に再建されたものである。
参考動画:『【若一調査隊】国宝2件を有する、兵庫・小野市にある古刹「極楽山 浄土寺」の歴史と魅力を徹底調査!』読売テレビニュースch. https://youtu.be/G4f3OukJX-4?si=YEdogt2Kp7nqtsfJ
小野市は播州そろばん、家庭用刃物など日本を代表する伝統工芸品で栄えた町として有名。兵庫県には国宝の仏像が1件しかないが、その1件がこの小野市の極楽山浄土寺である。作者は鎌倉初期の仏教界を代表する慶派の仏師快慶。国宝の仏像が安置されている建物自体も国宝である。1194年に東大寺の再興の勧進の中心であった重源が建立した。重源は東大寺復興の拠点として全国7か所に東大寺別所を作って復興資金や資材を集めようとしたが、その1つである播磨別所が浄土寺である。
国宝浄土堂は鎌倉初期の物がそのまま残っており、柱の少ない(柱間約6間)構造を補うために「貫(ぬき)」を貫かせた大仏様の建築(てこの原理など)となっている。復興大仏殿も同じ作りだった。平家の焼き討ちからの大仏殿復興に当たって沢山の資材が必要、その資材をできるだけ減らしてかつ上部に支えられるように建てられるように工夫された建築法と、大仏様と合致したとみられている。ただし、復興大仏殿は火災で焼失したために、現在大仏様として残っているのは、東大寺南大門(国宝)とこの浄土寺の浄土同のみとなり、大仏様を知るに当たって貴重な資料ともなっている。
また、仏師快慶は、運慶と共に東大寺南大門の金剛力士像などを制作し、また重源との縁から、僧形八幡神坐像やこの浄土寺の阿弥陀三尊像など数多くの仏像を制作したが、現在国宝指定されているのは4件、そのうちの1件が浄土寺の阿弥陀三尊像であり、快慶の仏像の中で最も大きい。
境内には割り拝殿が特徴の八幡神社があり、拝殿・本殿ともに重要文化財に指定されている。神仏習合の名残である。2024年5月~6月の発掘調査で室町期の炉壁や鋳型が多数出土した。これは、世界遺産や国宝などの「防火対策5カ年計画」を受け、同寺に防火水槽を埋める工事に先立ち、好古館が初の本格調査を実施した際に確認したもので、鋳物師(いもじ)が発注元にわざわざ出向き鋳造する、現場での出張生産が行われた遺構とみられ、当時の浄土寺の力を知る発見であった。
また、阿弥陀堂の向かい側には阿弥陀堂(西方極楽浄土・来世・阿弥陀仏)とほぼ同じ作りの薬師堂(重要文化財)(東方浄瑠璃世界・現世・薬師如来)があり、こちらは一度焼失しているため室町時代(1517)の再建であり和様・唐様・大仏様が混在した折衷様式となっている。また、薬師堂は非公開(番組内で特別に堂内のみ撮影)で、さらに本尊の薬師如来は、最後に見た記録が残っていない完全秘仏である。
阿弥陀堂(国宝)(拝観料500円)の阿弥陀三尊立像(国宝)(阿弥陀如来像・観音菩薩像・勢至菩薩像)は、圧巻。阿弥陀如来像は、高さ5.3m、須弥壇から向背の先端までは約8mもある。脇侍の位置や阿弥陀如来像の下げている手が他の阿弥陀如来像と反対なのは、重源上人が直接南宋にわたり、当時の最新の姿を取り入れたためである。阿弥陀堂を作った快慶は重源上人との交流を通じて、仏師と言うばかりでなく、熱心な阿弥陀信仰の信者となり、快慶の仏像づくりは仏師としての仕事と阿弥陀信仰の信仰者としての造仏であったと言われる。また、この阿弥陀堂は極楽浄土の世界(上品上生・上品中生・上品下生・中品上生・中品中生・中品下生・下品上生・下品中生・下品下生)の配置を再現しているが、阿弥陀三尊立像が本来の上品上生ではなく、中品中生に位置し、かつ前傾姿勢であるのは、できるだけ早く衆生を救いたいという思いの表れであるという。
また、阿弥陀三尊立像の後ろは西方であり、西日がうまく取り入れられる設計となっており、入ってきた西日が一旦床に当たってから天井に当たり、それが天井の朱を反射してまるで火の中に仏さまが立っているように、極楽からの後光の中で金色の仏さまが自ら輝いているように見せる。重源上人と快慶の工夫と言える。
参考:『浄土寺(小野市)』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AF%BA_(%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%B8%82)
浄土寺(じょうどじ)は、兵庫県小野市浄谷町にある高野山真言宗の寺院。山号は極楽山。本尊は薬師如来と阿弥陀三尊。実質的な開山は重源で、建久5年(1194年)の創建である。多数の文化財を所有する古刹として知られ、大仏様建築の浄土堂と仏師快慶の大作「阿弥陀三尊像」は特に著名である。新西国三十三箇所客番札所。
歴史
この地から西に約2キロのところに、奈良時代の僧・行基が建立したとされる広渡寺(現在は国史跡広渡廃寺跡歴史公園)があった。この広渡寺が浄土寺の前身寺院とされる。荒廃していた広渡寺を浄土寺として復興させた実質的な開山は、平安時代末から鎌倉時代の僧で、東大寺大仏・大仏殿の復興に尽力した重源である。治承4年(1180年)、平重衡の軍勢による南都焼討で、東大寺や興福寺は壊滅的な打撃を受け、東大寺の大仏殿も焼け落ちた。この大仏・大仏殿の再興の大勧進(総責任者)となったのが、当時61歳の重源であった。重源は大仏再興事業の拠点として、伊賀国(現・三重県)、周防国(現・山口県)など日本の7か所に東大寺の「別所」を創設した。七別所のうちの「播磨別所」がこの浄土寺である。この地は播磨国大部荘(おおべのしょう)といい、東大寺領であった。
こうして建久5年(1194年)に広渡寺を現在地に移転して寺名を浄土寺へ改めた。建久8年(1197年)に本堂の薬師堂と浄土堂が大仏様で建立された[1][2]。
その配置は池を中心にして、西に浄土堂(阿弥陀堂)、東に薬師堂(本堂)が建つ。この配置は東方浄瑠璃世界の教主・薬師如来と西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来の居所を意味するものである。
薬師堂は明応7年(1498年)に焼失するが、永正14年(1517年)に再建されている。
浄土堂
国宝。浄土寺浄土堂(「阿弥陀堂」ともいう)は重源によって建てられたもので、本尊として快慶作の阿弥陀三尊の巨像を安置する。堂は建久5年(1194年)に上棟し、同8年(1197年)に完成し供養を行ったと記録されている。渡宋経験のあった重源は、大仏殿をはじめとする東大寺諸堂の復興や各地の別所寺院の建築に際し、当時の宋の最新式の建築様式を採用した。これが現代において大仏様(かつては天竺様とも呼んだ)と呼ばれる建築様式で、鎌倉時代以後の寺院建築に大きな影響を与えたが、重源が手がけた大仏様建築で現存するものは他に東大寺南大門と同寺開山堂のみである。
堂は方三間(正面・側面とも1辺に柱が4本立ち、柱間が3つあるという意味)の単純な平面構成になるが、1つの柱間が約6メートルもあり、内部空間は広大である。屋根は宝形造(ほうぎょうづくり、四角錐状の屋根形)、本瓦葺きで平面の大きさの割に立ちが低いことと、屋根の形づくる線にほとんど反りがなく直線的であることが特色である。比較的地味な外観に比し、堂内部は貫(ぬき)、梁(はり)などの構造材をそのまま見せたダイナミックな構成になっている。天井を張らず、屋根裏に空間をつくらず、構造材をそのまま見せて装飾を兼ねる化粧屋根裏となっていること、貫(複数の柱を貫通する水平材)を多用することなどが大仏様建築の特色である。
純大仏様建築の仏殿は浄土寺浄土堂しか現存例がないため、重源が手掛けた東大寺2代目大仏殿や、同時代に造立された鎌倉大仏大仏殿、豊臣氏の造立した方広寺大仏殿(京の大仏)など現在は失われた大仏殿建築の復元検討にあたり、浄土寺浄土堂の建築構造が参考にされることが多い。
阿弥陀三尊像
国宝。浄土堂中央の須弥壇に安置される。仏師快慶の代表作。巨大な三尊像で、阿弥陀如来は像高5m30cm(須弥壇を含めると7m50cm)、両脇侍、右・観音菩薩と左・勢至菩薩の像高は各々3m70cmある。快慶は重源とは近い関係にあり、熱烈な阿弥陀仏信者だったことが知られている。快慶の作品には像高3尺(約1メートル)の阿弥陀像が多いが、本作は珍しい大作である。3体とも立像であり、各像の立つ蓮華座の下には雲が表されていて僅かに阿弥陀三尊が前に傾いていることから西方極楽浄土から飛雲に乗って来迎する情景を表現したものである。また中央の阿弥陀如来像の特徴として、人々に差し伸べられているのは右手、ほかの阿弥陀仏が左手なのとは逆の造りで、爪は長く伸びている。当時流行の宋風が顕著である。
浄土寺の阿弥陀三尊の脇侍は左右逆配置である、この配置は密教寺院に存在する形式で「阿唎多羅陀羅尼阿嚕力経」や「観自在最勝心明経第九品」などの「密教系経典には右観自在・左大勢至とす」云々の記述があり、それを取り入れたものか。
浄土堂は境内の西、すなわち極楽浄土の位置する側に建てられ、阿弥陀三尊は東向きに立つ。堂の背後の蔀戸(しとみど、建物の内側または外側へ跳ね上げる形式の戸)を開け放つと背後からの西光が入り、晴れた日の夕刻には堂内全体が朱赤に深く輝くように染まり、雲座の上に位置する三尊像が浮かびあがって来迎の風景を現す劇的な光の演出効果を備えている。その際、遠方の溜池群が西方の光を運び込む装置として機能することを、作者重源は巧みに計算していたようである。
安藤忠雄に影響
安藤忠雄による設計で1991年(平成3年)に竣工した兵庫県淡路市にある真言密教の寺院で真言宗御室派の別格本山である本福寺本堂の水御堂は、西から入る光が極楽浄土を現出させるこの浄土寺での重源の手法を踏襲したものである[4]。
境内
薬師堂(重要文化財) - 浄土寺の本堂である。もとは建久8年(1197年)創建で、浄土堂と同じ大仏様であったとされる。現在のものは明応7年(1498年)に焼失後の永正14年(1517年)の再建。宝形造、本瓦葺。和様・唐様・大仏様の折衷形式で建てられている。
浄土堂(阿弥陀堂、国宝) - 建久8年(1197年)建立。解説は既出。
鎮守八幡神社 - 石柱の「郷社八幡神社」は陸軍大将本庄繁の筆。
本殿(重要文化財) - 文暦2年(1235年)創建。室町時代中期の再建。
拝殿(割拝殿、重要文化財) - 延応元年(1239年)創建。鎌倉時代後期の再建。
鐘楼堂(兵庫県指定有形文化財) - 創建不明。現在のものは寛永9年(1632年)に加東郡河合郷新部村粟津七右衛門により再建。入母屋造、本瓦葺。
不動堂
開山堂(兵庫県指定有形文化財) - 創建不明。現在のものは明応7年(1498年)に焼失後の永正17年(1520年)の再建。宝形造、本瓦葺。
経蔵
文殊堂
東山四国八十八箇所石仏群 - 江戸時代後期の文化・文政年間(1804年 - 1831年)頃のもの。
あじさい園
宝持院 - 塔頭。
歓喜院 - 塔頭。本尊:大日如来。
伝観阿上人墓所(小野市指定有形文化財) - 石造五輪塔と石造六重塔からなっている。重源上人の弟子観阿の墓所だとされている。『浄土寺開祖伝』によれば浄土寺西北に墓地をつくり、九重塔と五輪塔を造立したと記されている。
文化財
国宝
浄土堂
木造阿弥陀如来及び両脇侍立像 - 建久6年(1195年)、快慶作、阿弥陀如来像高:530cm 両脇侍像高:370cm。
重要文化財
薬師堂
八幡神社本殿
八幡神社拝殿
木造阿弥陀如来立像 - 建仁元年(1201年)、快慶作、像高:266.5cm 来迎会(練り供養)用の仏像で、上半身裸形に作り、行事の際は実物の衣を着せた。裸阿弥陀と呼ばれる。奈良国立博物館寄託。
木造重源坐像 - 天福2年(1234年)以前、像高:81.2cm。奈良で東大寺のものを模刻して作成されたもの。
木造菩薩面 25面、鎌倉時代、快慶工房作。来迎会用の仮面。
銅製鉦鼓 - 「東大寺末寺播磨浄土堂、建久五年(1194年)十月十二日」の刻銘。まったく同形のものが東大寺にも現存している。
銅製五輪塔 - 建久5年(1194年)作。
黒漆蝶形三足卓 2基 - 鎌倉時代初頭。
絹本著色仏涅槃図 - 鎌倉時代。
絹本著色真言八祖像
兵庫県指定有形文化財
開山堂
鐘楼堂
木造菩薩面 2面
木造行道面 2面
木造鬼面 2面 - 鎌倉時代。
小野市指定有形文化財
伝観阿上人墓所 - 石造五輪塔と石造六重塔からなる。
木造阿弥陀如来立像 - 鎌倉時代初期の快慶工房の作と考えられる。
「淨土堂」扁額 - 小野道風の筆だとされる。
浄土堂旧板壁 - 墨書による多数の落書がされている。
大般若経(黄檗版) - 寛政8年(1796年)に小野藩主一柳末英により寄進されたもの。
大般若経(中野氏版)
前後の札所
新西国三十三箇所
28 光明寺 - 客番 浄土寺 - 29 酒見寺
所在地
〒675-1317 兵庫県小野市浄谷町2094
交通アクセス
電鉄小野駅よりらんらんバス 北回り循環ルート小野市役所行き・中谷ルートうぐいす台行き に乗車し、浄土寺下車すぐ
参考:『国宝 朝光寺』一版社団法人 加東市観光協会 https://www.kato-kanko.jp/2017/03/choukouji/
参考:『朝光寺』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%85%89%E5%AF%BA
朝光寺(ちょうこうじ)は兵庫県加東市にある仏教寺院。山号を鹿野山(ろくやさん)と称する。宗派は高野山真言宗、本尊は2躯の十一面千手千眼観世音菩薩立像である。
法道仙人が651年に開基したという伝承をもつ。本堂は国宝に、鐘楼は国の重要文化財に指定されている。
歴史
伝承によれば、651年、法道仙人が権現山に開基したとされる。法道は天竺(インド)から紫の雲に乗って日本へやって来たと伝えられる、半ば伝説上の人物である。法道開基伝承をもつ寺院は兵庫県東部地域に多数あり、当寺もその1つである。当寺の創建の詳しい事情や初期の歴史については、史料が乏しく、あまり明確でない。
1189年 - つくばねの滝近くの現在地に移転、再建
1413年 - 本堂再建。京都・三十三間堂の十一面千手千眼観世音菩薩立像のうちの1躯を本尊(西本尊)として安置
1504~20年 - 赤松義村が再興。
本堂
大正12(1923)年3月、重要文化財(建造物)、昭和29(1954)年3月、国宝に指定。寄棟造、本瓦葺き。厨子裏板の墨書により応永20年(1413年)に本尊を移し、正長元年(1428年)に屋根の瓦葺きが完成したことがわかる。建築年代の明らかな、室町時代密教仏堂の代表作の1つであり、和様に禅宗様の要素を加味した「折衷様」建築の代表例でもある。
堂は桁行(間口)7間、梁間(側面)7間で、正面に3間の向拝を付す(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す用語。以下も同じ)。向拝は文政12年(1829年)に付加されたものである。組物は出組、中備(なかぞなえ)は双斗(ふたつど)とする。堂内は手前の梁間3間分を外陣ととする。その奥は中央の桁行5間×梁間3間を内陣とし、その左右に脇陣、後方に後陣を設ける。内外陣境は下を格子戸、上を菱格子の欄間とする。柱間装置は正面の中央5間と側面の手前から2間目および3間目を桟唐戸とし、正面の左右両端間と側面の前端間を連子窓とする。
文化財
国宝
本堂
重要文化財
鐘楼- 袴腰付、寄棟造
木造千手観音立像(2019年度指定) - 通称西本尊
兵庫県指定文化財
木造千手観音立像 - 通称東本尊
多宝塔
行事
5月5日― 鬼追踊(兵庫県指定重要無形民俗文化財)
山門
山門
鐘楼と鎮守社、護法社
つくばねの滝
近隣情報
吉祥院
朝光寺寺務所
総持院
東条湖
清水寺
交通アクセス
自動車
E2A 中国自動車道ひょうご東条ICから車で約15分
公共交通機関
西日本旅客鉄道(JR西日本)加古川線社町駅からタクシー約20分
西日本旅客鉄道(JR西日本)加古川線社町駅からバスで20分、神姫バス停「上久米朝光寺口」より徒歩約1時間
拝観料:無料
拝観時間:随時
参考動画:『【若一調査隊】美しい滝や堂々たる国宝の本堂 若一さんが足繫く通う古刹 兵庫・朝光寺』読売テレビニュース
https://youtu.be/9W05FGyEfoY?si=0b9Q21uOgCilDRvE
兵庫県には11件の国宝建造物(姫路城5件、一条寺1件、鶴林寺2件、浄土寺1件、太山寺1件)がある。朝光寺はその一つ。
朝光寺は、素晴らしいお寺だが、大変に交通の便が悪い。公共交通機関を使ってくる場合、神姫バス「朝光寺口」より徒歩約50分~1時間(JR加古川線「社町駅」よりタクシーで約20分)かかり、バスの本数も極めて少ない。651年開基。高野山真言宗の古刹である。中でも室町時代初期に建てられた本堂は国宝建造物であり、大変貴重な建物だが、誰でも自由に過ごせるので、親しまれている。
鹿野川に沿った参道を通って参詣する。参道沿いにはまん中から2つに割れた滝がある。つくばねの滝と言う。落差は10m。滝の周りには実が羽子板の羽そっくりの衝羽根(つくばね)が沢山自生している。衝羽根は、加東市の天然記念物に指定されている。滝を右に見て、石段を登ると仁王門。旧参道を進むと、西国三十三所観音霊場の第一番札所の那智山青岸渡寺のご本尊の如意輪観世音菩薩ほか、第三番札所の粉河寺の千手千眼観世音菩薩などの石仏があり、境内の中を歩くだけで、西国三十三所観音霊場めぐりができるようになっている。山の中の参道を10分ほど歩くと国宝の本堂にたどりつく。
朝光寺は、飛鳥時代の651年孝徳天皇の頃の開基。インドから紫雲に乗ってやってきたと言う伝説のある法道仙人と言う高僧が開いたと言う。法道仙人が開いたお寺は、播磨地区に多く、同じく加東市の播州清水寺、加西市の一乗寺(国宝三重塔)などがある。飛鳥時代は北の権現山に建てられた。そして平安時代の終わり、近くの三草山という、源平合戦でゆうめいな場所があるが、源義経が平資盛に夜襲をかけて陣を焼いたときに、権現山にあった朝光寺まで焼いてしまった。1189年鎌倉時代の初めに現在の場所に移って再建されたと言う。なお、山門及び仁王像は、江戸時代に再建されたもの。
どうどうとした本堂は、国宝。室町時代の初期に再建されたもので、1954年に国宝指定されているが、室町時代初期の建築様式(折衷様式)・特性を良くとどめている。和様の建築様式の上に大仏様・禅宗様という鎌倉時代に中国から入ってきた最先端の建築様式が、金剛的に重なって独特なものになっているが、当寺は、室町時代初期の折衷様式の典型的な建物として評価されている。屋根は、四方に向かって傾斜した古式の屋根で寄棟造となっている。正面の入り口も、建築当時最先端だった桟唐戸(さんからど)を取り入れている。
木村拓哉と綾瀬はるかが主演した『レジェンド&バタフライ』(2023)のロケもここで行われた。比叡山延暦寺の焼き討ちシーンを朝光寺の本堂で撮影した。明智光秀役の宮沢氷魚が来て撮影を行った。
ちなみに朝光寺は、自由拝観のため、受付もないので拝観料なしで国宝の本堂まで入れる。管理はすぐ近くに位置する総持院と吉祥院が交替で管理しており、総持院でご朱印などを授かることができる。
多宝塔は鎌倉時代の初めに権現山から移ってきた時からあったものと言われるが、関ケ原後の1601年に姫路城主池田輝政が再建したもの。それが江戸時代に修復された。多宝塔の中は原則的に非公開で釈迦如来と多宝如来が安置されているが、行事等で公開されるときもあると言う。
鐘楼は重要文化財に指定されており、大きな特徴としては寄棟造の屋根の頂に箱棟(はこむね・材料節約のため無垢の木材でなく、大棟を箱型に作ったもの)が載っている事。下には袴腰がついている。この組み合わせは他にはあまり見られないもので1504~1520年に赤松義村が再建したと伝わる。
朝光寺には、県指定重要無形文化財の「鬼追踊(おにおいおどり)」(毎年5月5日)と言う、翁1人と鬼方4人で演じられる奉納儀式が伝わる。五穀豊穣・無病息災を祈る踊りで、室町時代に起源を持つ。
本尊は秘仏で公開されていない。外陣(げじん)の天井には平たい板が打たれているが、これは鏡板と言う禅宗的な要素である。外の屋根は垂木が出ている。これは化粧屋根裏と言う大仏様の天井の作り方である。このように大仏様と禅宗様がほどよくこまかく配置されている。内陣は普段は入れないので写真が飾られているが、内陣内部の厨子の中に2体の千手観音立像が収められている。秘仏(60年に1度だけ開帳される)の西本尊と東本尊である。西本尊は国の重要文化財に指定(2019年指定)されている。厨子も本堂と併せて国宝である。西本尊は、もともと三十三間堂から移したものと言われ、鎌倉時代のものと推定される。1413年にご本尊を2体並べるために厨子を改修した記録がある。東本尊は平安時代後期に造立されたと伝わり、三十三間堂から西本尊が伝わる前は、唯一の本尊であった。
国宝の空間で自由に過ごせる貴重な寺である。
参考:『法華山一乗寺』かさい観光ナビ https://kanko-kasai.com/spot/culture/itijoji/
"国宝三重塔をはじめ文化財の宝庫"
加西市街から、車で約15分。
つづら折りの山道を抜けると法華山一乗寺に着きます。一乗寺は、西国三十三か所第二十六番札所の天台宗の寺院です。
御詠歌にも「春は花 夏は橘 秋は菊 いつも妙なる法の花山」とあるとおり、春、秋の時節には桜、紅葉の名所としても知られており、特に紅葉で境内が彩られると山間の古寺は観光客で賑わいます。
石造の卒塔婆(そとうば)を横に歩を進め、石段を上がっていくと常行堂があり、次の石段をあがると、国宝三重塔が眼前にあらわれます。
この三重塔は平安時代末期、承安元年(1171年)の建立とされており、日本を代表する古塔の一つです。
屋根は、上に行くほど小さくなるように造られおり、安定感のある優美な塔であるのがよくわかります。
その他、石造宝塔、奥の院開山堂等文化財が多く存在しており、特に国宝に指定されている「聖徳太子及び天台高僧画像」は有名です。
指定文化財等 国宝:三重塔、絹本著色聖徳太子及天台高僧像
国指定文化財: 妙見堂、弁天堂、護法堂、五輪塔、本堂、絹本著色阿弥陀如来像、絹本著色五明王像、銅造聖観音立像、木造法導仙人立像、木造僧形坐像、銅造観音菩薩立像
県指定文化財:鐘楼、石造宝塔、石造笠塔婆、三重塔古瓦
市指定文化財:石造九重塔
法華山一乗寺
所在地・住所 兵庫県加西市坂本町821-17
TEL 0790-48-2006
入園料 500円(宝物館の拝観には、別途500円必要)
※宝物館の予約については、2週間前までに連絡要
営業時間 8:00~17:00
定休日 なし
URL http://saikoku33.gr.jp/place/26
参考:『第二十六番法華山 一乗寺』西国三十三所巡礼の旅(ホームページ) https://saikoku33.gr.jp/place/26
孝徳天皇勅願寺。開山法道仙人。御本尊聖観世音菩薩。創建白稚元年(650)。 三重塔(国宝)、聖徳太子及天台高僧像十幅(国宝)など文化財多数。 法華山は古来八葉の蓮華の山に喩えられ、桜・新緑・紅葉が美しい都塵を絶した浄域である。
御詠歌 春は花 夏は橘 秋は菊 いつも妙なる 法の華山
宗派 天台宗 開基 法道仙人
御本尊 聖観世音菩薩 創建 白雉元(650)年
参考:『一乗寺』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%B9%97%E5%AF%BA
一乗寺(いちじょうじ)は、兵庫県加西市にある天台宗の寺院。山号は法華山。本尊は聖観音菩薩。西国三十三所第26番札所。国宝の三重塔は平安時代後期を代表する和様建築の塔であり、日本では屈指の古塔である。境内は春は桜、秋は紅葉の名所として知られる。中世には山内に真言律宗の有力律院も併設されており、宗祖の叡尊(興正菩薩)が播磨国での布教活動の拠点とした他、真言律宗出身の真言僧で後醍醐天皇の腹心だった文観房弘真が仏門に入った地でもある。
本尊真言:おん あろりきゃ そわか
ご詠歌:春は花夏は橘秋は菊 いつも妙(たえ)なる法(のり)の華山(はなやま)
歴史
当寺を開いたとされる法道仙人は、天竺(インド)から紫の雲に乗って飛来したとされる伝説的人物である。『元亨釈書』等の記述によれば、法道は天竺に住んでいたが、紫の雲に乗って隋もしくは唐、百済を経て日本へ飛来し、播磨国賀茂郡(兵庫県加西市)に八葉蓮華(8枚の花弁を持つハスの花)の形をした霊山を見出してそこへ降り立つと、法華経の霊山という意味で「法華山」と号したという。法道は神通力で鉢を飛ばし、米などの供物を得ていたため、「空鉢仙人」と呼ばれていた。法道の評判は都へも広まり、白雉元年(650年)に時の帝であった孝徳天皇の勅願により法道に建てさせたのが一乗寺であるという。
法道仙人が開基したとの伝承を有する寺院は兵庫県東部地域に集中しており、「インドから紫雲に乗って飛来」云々の真偽は別としても、こうした伝承の元になり地域の信仰の中心となった人物が実在した可能性は否定できない。一乗寺には7世紀から8世紀にさかのぼる金銅仏6躯が存在し(うち3躯は重要文化財)、付近には奈良時代にさかのぼる廃寺跡、石仏などが存在することからもこの地域一帯が早くから仏教文化の栄えた地であることは確かである。
創建当時の一乗寺は現在地のやや北に位置する笠松山にあったと推定されている。笠松山の山麓には古法華(ふるぼっけ)石仏と称される奈良時代の三尊石仏(重要文化財)があり、「古法華」とは「法華山一乗寺の旧地」の意味と思われる。現存する一乗寺三重塔は平安時代末期の承安元年(1171年)の建立であるところから、その年までには現在地において伽藍が整備されていたと思われるが、正確な移転時期は不明である。
中世においては山内に真言律宗の律院も併設されていた。真言律宗の宗祖である叡尊(興正菩薩)の自伝『感身学正記』弘安8年(1285年)7月23日条によれば、弘安6年(1283年)頃から法華山は「殺生禁断」の起請文(きしょうもん、神仏へ誓う文)を掲げて叡尊の訪問を要望し、宿老4、5人が真言律宗の本拠地である大和国の西大寺を訪ねること7回に及んだ。そこで弘安7年(1284年)冬に叡尊は僧侶の評定を開いたのち法華山への訪問を決定し、弘安8年(1285年)春には伺うと約束していた[5]。ところが、叡尊は鎌倉幕府・朝廷双方から四天王寺別当という仏教界の重職に就くよう要請され、さすがに勅命を断れず結局弘安8年(1285年)春は四天王寺で活動を行うことになった。そして、遅ればせながら同年7月23日に大和国の西大寺を発ち、28日に法華山に到着した。それから様々な仏教活動が行われ、8月7日には叡尊は2,124人に菩薩戒(出家・在家を問わず守るべき基礎的な規律)を授けた。
また、正応3年(1290年)には後に後醍醐天皇・後村上天皇の護持僧(祈祷で天皇を守護する僧)となる文観房弘真が、この地で真言律宗に入信した。この時、文観は数え13歳の少年で、真言律宗の巌智律師という僧に入室し(=弟子となり)、慶尊のもと得度した(=剃髪して出家した)(『瑜伽伝灯鈔』)。このうち後者の観性房慶尊は叡尊の高弟であり、播磨国での布教活動の指導者格だったと見られる。2年後、文観は正応5年(1292年)に大和国へ留学に旅立ったが、20代後半の時に故郷播磨国に戻ってきて10年間ほど開拓事業に尽力しており、当寺境内にある「一乗寺石造笠塔婆」(正和5年(1316年)12月21日、兵庫県指定文化財)はこの時に文観の監修によって作られ、大覚寺統(後醍醐天皇の皇統)に奉献された物と見られる。
当寺は中世、近世には何度かの火災に遭ったが、平安時代に建築された三重塔などの古建築がよく保存されている。本堂は姫路藩主本多忠政の寄進により、寛永5年(1628年)に再建された。
境内
山間に位置する境内は長い石段が続き、数段に分けて整地されている。バス通りに面した境内入口には山門はなく、正面に石造笠塔婆(兵庫県指定文化財)が立つ。その左方には宝物館(平素は非公開)と本坊の地蔵院がある。右方は公園風に整備され、太子堂、放生池、やや奥まった場所に見子大明神の社がある。
境内入口から最初の石段を上った狭い平地の左手に常行堂があり、次の石段を上ると左手に国宝の三重塔、右手に法輪堂(経蔵)がある。三重塔の直上、さらに階段を上った位置に懸崖造の本堂が建つ。このため、本堂の縁に立つと三重塔を見下ろすことができる。本堂裏手には鎮守社の護法堂、妙見堂、弁天堂(以上重要文化財)、行者堂があり、本堂からさらに200メートルほど登った所に、法道仙人を祀る奥の院開山堂が建つ。
本堂(重要文化財) - 大悲閣または金堂とも称する。入母屋造、本瓦葺き、正面9間、側面8間[注 1]。斜面にせり出した懸造とし、内部は広い外陣と、閉鎖的な内陣、脇陣、後陣からなる、密教仏堂の典型的な平面をもつ。札所寺院として、参拝者用の空間である外陣を広く取っており、外陣天井には巡礼者の打ちつけた木札が大量に残る。『法華山諸堂記』の記載により、寛永5年(1628年)に姫路藩主本多忠政の援助で再建されたことがわかる。内陣には三間の大厨子を置き、中央の間に本尊聖観音立像(重要文化財)、左右の間には不動明王と毘沙門天像を安置するが、いずれも秘仏である。厨子外の左右には二十八部衆と風神・雷神像を安置する。堂は1998年の台風で大きな被害を受け、1999年から2009年にかけて災害復旧を兼ねた半解体修理が行われた。
銅造観音菩薩立像(重要文化財) - 秘仏本尊像は像高72.7 cm、お前立ち像(現在は宝物館に安置)は80.3 cm。いずれも飛鳥時代末 - 奈良時代初(7世紀後半)の金銅仏。直立した姿勢、素朴な顔貌表現、緻密に表現された装身具などに特色がある。秘仏本尊像は、2009年11月1日 - 30日および2010年5月11日 - 30日、22年ぶりに開扉。
三重塔(国宝) - 伏鉢(屋根上、相輪の下部にある半球状の部材)の銘から、承安元年(1171年)の建立と判明した。平安時代にさかのぼり、建立年代の明らかな塔として日本でも稀有の建築物である。塔身部の逓減率(初重から三重に向かって小さくなる率)の大きい点が特色である。
鐘楼(兵庫県指定有形文化財) - 江戸時代初期に再建された。
常行堂 - 元来は聖武天皇の勅願による建立と伝えられ、嘉吉の乱で焼失して天文2年(1533年)に再建されたが、再び焼失し、1868年(明治元年)に再建された。
法輪堂(経蔵)
護法堂(重要文化財) - 本堂裏手、石段上に建つ、一間社春日造の社殿。鎌倉時代に建立された。
妙見堂(重要文化財) - 本堂裏手に建つ、三間社流造の社殿。室町時代に建立された。
弁天堂(重要文化財) - 妙見堂の左に並んで建つ、一間社春日造の社殿。室町時代に建立された。
行者堂
石造宝塔2基(兵庫県指定有形文化財) - 鎌倉時代末期造 。奥の院への参道の右手に立つ。
奥の院
開山堂(兵庫県登録有形文化財)
賽の河原
石造九重塔(加西市指定有形文化財) - 賽の河原にある。
石造五輪塔(重要文化財) - 元亨元年(1321年)の銘がある。境内入口の石段下の右手奥にある。
宝物館 - 境内入口左手にある。公開は年に2日、4月4日と11月5日のみで、それ以外の拝観は事前の許可が必要。
本坊(地蔵院)
歓喜院 - 塔頭。
石造笠塔婆(兵庫県指定有形文化財) - 鎌倉時代末期、正和5年(1316年)12月21日[11]造。境内入口に立つ。文観房弘真の監修による。なお、銘文の奉献先には「金輪聖主」(=天皇)とあり当時の天皇は花園天皇であるが、文観との結びつきを考えれば実際は後宇多上皇かその皇子の皇太子尊治親王(のちの後醍醐天皇)のことを指していると推測される。
太子堂
粟嶋堂
隣聖院 - 塔頭。
山門 - 境内の東に離れて建っている。
文化財
国宝
三重塔
絹本著色聖徳太子及び天台高僧像 10幅 - 平安時代、11世紀後半頃の作。各図とも縦125.6〜131.6 cm、横74.7〜75.8 cm[13]。龍樹、善無畏(以上インド)、慧文、慧思(南嶽大師)、智顗(天台大師)、灌頂、湛然(以上中国)、最澄、円仁(以上日本)の高僧像に聖徳太子像を加えて10幅としたもの。聖徳太子は天台宗で重視する法華経の信奉者であったことに加え、慧思(南嶽大師)の生まれ変わりとする伝承があることから加えられたものとみられる。ただし、元々10幅構成だったのか、更に多数幅だったのが失われて現状のように成ったのかは判然としない。各像とも人物が画面一杯に大きく表され、着衣などに暖色系を中心とした彩色が鮮やかで、立像・坐像、正面向き・斜め向き、横向きなど、変化に富む点が特色である。着衣の文様は彩色のみで表され、持物などに金銀を裏箔で使い截金を一切用いないのは古様である。部分的に補絹・補筆・補彩がされているものの、平安時代に作られたことを考えれば普通で、むしろよく当初の状態を保っており、しかも10幅がまとまって残っているのは極めて貴重である。慧文像と灌頂像の画中短冊形にそれぞれ「法華寺 第三」「法華寺 第六」と記されていることから、平安時代後期には法華寺すなわち現在の一乗寺に制作当初から伝来した可能性が高い。善無畏像と慧文像は東京国立博物館、灌頂像は大阪市立美術館、他の7幅は奈良国立博物館に、それぞれ寄託されている。
重要文化財
金堂(大悲閣、本堂)
護法堂
妙見堂
弁天堂
石造五輪塔
絹本著色阿弥陀如来像
絹本著色五明王像
銅造観音菩薩立像 2躯 - 秘仏本尊像とその前立ち像。
銅造観音菩薩立像 1躯 - 像高48.0 cm。7世紀にさかのぼる古像。頭部を大きく、手足を小さく造るプロポーションに特色がある。
木造法道仙人立像
木造僧形坐像
兵庫県指定有形文化財
鐘楼
石造宝塔2基
石造笠塔婆
三重塔古瓦
兵庫県登録有形文化財
開山堂
加西市指定有形文化財
石造九重塔
前後の札所
西国三十三所
25 播州清水寺 - 26 一乗寺 - 27 圓教寺
播磨西国三十三箇所
32 国分寺 - 33 一乗寺 - 客番 常光寺
播磨天台六山
書寫山圓教寺 - 増位山随願寺 - 八徳山八葉寺 - 文殊山神積寺 - 蓬萊山普光寺 - 法華山一乗寺
神仏霊場巡拝の道
76 赤穂大石神社 - 77 一乗寺 - 78 播州清水寺
所在地
兵庫県加西市坂本町821-17
アクセス
JR山陽新幹線・山陽本線・播但線・姫新線 姫路駅、山陽電気鉄道本線 山陽姫路駅から神姫バス「71 法華山一乗寺・別府経由 社」行きで約37分、法華山一乗寺下車。
姫路駅から「71 別府経由 社」行きで約30分、法華山口下車徒歩約30分。
北条鉄道北条線 法華口駅から神姫バス「71 法華山一乗寺経由「姫路駅」行きで約11分、法華山一乗寺下車。
JR山陽本線(JR神戸線) 宝殿駅から「北条」行きで三口下車徒歩約40分。
JR東海道本線・大阪環状線・おおさか東線 大阪駅桜橋口から中国ハイウェイバス(西日本ジェイアールバス・神姫バス)「北条バスセンター」行きで約70分、アスティアかさい(北条町駅)下車。
アスティアかさい(北条町駅)から神姫バス「高砂」行きで約20分、三口下車徒歩約40分。
アスティアかさい(北条町駅)からタクシーで約20分。
周辺情報
法華口駅 - 登録有形文化財。法華山一乗寺の鉄道における最寄り駅であるため「法華口」と命名された。
法華大豆 - 一乗寺の周辺である加西市坂本町の付近では、ダイズの品種の1つである「法華大豆」が伝統的に栽培されてきた地域である[14]。
古法華寺 - 法華山一乗寺と紛らわしいが、古法華自然公園の側にある別な寺院である。
羅漢寺の五百羅漢
酒見寺
公式HP→ https://flowercenter.jp/
参考動画:『【若一調査隊】ギネス世界記録の食虫植物に、日本唯一の古代鏡の展示館も!多様な魅力「兵庫県立フラワーセンター」を徹底調査』読売テレビニュース https://youtu.be/O-juQeiLt1Y?si=oqO-PlAH69eQp6lO
大阪から車で約20分。日本有数の規模と内容を誇る県立の植物園。1976年に開園し、花や樹木を約4500種類も展示。中でも600種類の食虫植物が見もの。
大人500円、70歳以上250円、高校生以下無料。春はチューリップと桜の時期が賑わう。しかし四季それぞれに花の展示があり、秋は、50種類以上のダリア展、咲いた花はダリアフロートとして水に展示される。菊花展には菊の愛好家たちの菊花も飾られる。
また、花以外で特筆されるのは、古代鏡展示館である。特に中国の夏の時代のものとされる「緑松石象嵌鋸歯縁鏡」(二里島・紀元前17~16世紀)がすばらしい。銅を加工して縁のギザを作り、トルコ石を象嵌にしてはめ込んだもので逸品である。日本に伝わってきたのは弥生時代とみられ、権威の象徴として流通したと考えられる。
園内の大きな池は、亀ノ倉池で鯉や鯰に餌がやれるが、実はフラワーセンターができる前からあったため池である。兵庫県は2万1752か所(令和5年農水省)のため池があり、日本でいちばんため池の多い県である。センターがある加西市もため池が多く、台地縁辺の谷をせき止めたため池が密集している。亀ノ倉池の池底からは農閑期の池の水抜きで縄文時代の石鏃・石器時代の石器が発見されたことがあり、亀ノ池遺跡と言ってもよい由来のある場所である。付近の飯森山付近は古墳も点在している。池周辺は整備され、絶好のウォーキングコースとなっている。
2022年、センターの食虫植物ウツボカヅラが世界最大(捕虫袋)であるとしてギネス認定を受けた。食虫植物の管理・栽培にたけ、食虫植物の神様と呼ばれるほどの土居博文さんが育てたウツボカヅラが、大英帝国のキュー王立植物園のウツボカヅラを超えての認定であった。該当のウツボカヅラは大温室入ってすぐの場所で見られるが、その他にも食虫植物が自生の形で展示されているのが世界的にも珍しい。次世代にも伝えていくというのが目的であるそう。
「お伊勢さん」「大神宮さん」と親しく呼ばれる伊勢神宮は、正式には「神宮」といいます。神宮には、皇室の御祖先の神と仰ぎ、私たち国民の大御祖神として崇敬を集める天照大御神をお祀りする皇大神宮(内宮)と、衣食住を始め産業の守り神である豊受大御神をお祀りする豊受大神宮(外宮)を始め、14所の別宮、43所の摂社、24所の末社、42所の所管社があります。これら125の宮社全てをふくめて神宮といいます。
伊勢神宮は、正しくは「神宮」。「伊勢神宮」は一般的な呼び方であり、「お伊勢さん」としても親しまれています。また、内宮(ないくう)(皇大神宮(こうたいじんぐう))と外宮(げくう)(豊受大神宮(とようけだいじんぐう))があり、それぞれ、約2000年、約1500年の歴史があります。ご祭神は内宮が太陽にも例えられ、また皇室の御先祖である天照大御神(あまてらすおおみかみ)で日本人の総氏神、外宮が天照大御神のお食事を司る豊受大御神(とようけおおみかみ)で、すべての産業の守り神とされます。
内宮のご神体は三種の神器の一つ「八咫鏡」です。
両宮は同等でなく、皇大神宮が神宮の中心であり、お参りは外宮からが習わしとなっています。
公式ホームページ https://www.isejingu.or.jp/about/
日本の三重県伊勢市にある神社。正式名称は「神宮」(じんぐう)である。他の神宮と区別するために、「伊勢」の地名を冠し伊勢神宮と通称される。
「伊勢の神宮」、または親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」とも称される。古来、最高の特別格の宮とされ、現在は神社本庁の本宗(ほんそう。全ての神社の上に立つ神社)であり、「日本国民の総氏神」とされる。
律令国家体制における神祇体系のうちで最高位を占め、平安時代には二十二社の中のさらに上七社の1社となった。また、神階が授与されたことのない神社の一つ。明治時代から太平洋戦争前までの近代社格制度においては、全ての神社の上に位置する神社として社格の対象外とされた。
伊勢神宮には天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ。天照大御神)を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮の二つの正宮があり、一般に皇大神宮は内宮(ないくう)、豊受大神宮は外宮(げくう)と呼ばれる。
広義には、別宮(べつぐう)、摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)、所管社(しょかんしゃ)を含めた合計125の社宮を「神宮」と総称する。この場合、所在地は三重県内の4市2郡に分布する。
交通
内宮まで
鉄道
最寄駅:近鉄鳥羽線 五十鈴川駅
徒歩:約30分
バス:約10分 - 宇治山田駅・伊勢市駅・外宮からの路線
近鉄山田線・鳥羽線 宇治山田駅
バス:約15分
JR東海参宮線・近鉄山田線 伊勢市駅
バス:約15分(路面電車型バス「神都バス」も運行される)
自家用車
伊勢自動車道 伊勢西ICから、三重県道32号伊勢磯部線(御木本道路)を南へ2分、のち「浦田」交差点から伊勢街道を南へ2分。
駐車場:宇治橋周辺の参拝者用駐車場を利用。
混雑時には自家用車は浦田町交差点から内宮方面へ進入禁止の規制が行われるため、宇治浦田町の伊勢市営駐車場や、近隣の三重県営総合競技場(五十鈴公園)に併設されている駐車場などを利用(有料)。
初詣の期間には大晦日深夜より正月三が日を含む数日間は、三重県営サンアリーナ駐車場とバス専用レーンを利用したパークアンドライドが行われている(2003年初詣期間以降)。またゴールデンウイーク期間中も同様にパークアンドライドが実施されている(2010年時点)。
外宮まで
鉄道
最寄駅:JR東海参宮線・近鉄山田線 伊勢市駅 (徒歩約5分)
近鉄山田線 ・鳥羽線 宇治山田駅(バス約6分)
バス
三重交通「外宮前」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)
三重交通「伊勢市駅前」バス停下車 (下車後徒歩5分)
自家用車
伊勢自動車道 伊勢西ICから、三重県道32号伊勢磯部線(御木本道路)を北へ約5分
駐車場:北御門前に434台収容の無料駐車場あり[202]。内宮同様正月の混雑時にはパークアンドライドが行われている。
補足事項
外宮から内宮へは、徒歩で約50分(バス運行あり)。
上記引用:『伊勢神宮』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E5%AE%AE
参考動画『究極ガイドTV 2時間でまわる伊勢神宮』 2018年1月1日放送 −NHKオンデマンド https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2017084363SA000/
鳥羽のうどん屋「阿波幸」の長男として誕生した幸吉は、さまざまな商売を経験するなかで志摩の名産だった真珠の魅力に着目しました。当初は真珠貝の増殖、やがて真珠そのものの養殖へと試行錯誤や失敗を繰り返しながら彼は夢の実現に邁進します。それは自分の作った真珠で世界中の女性を美しく飾ることでした。
銀座に店を構え事業を拡大する一方で、幸吉は故郷伊勢志摩に惜しみない愛情をそそいでいます。事あるたびに幸吉は賓客を志摩の自宅や真珠島に招き、真珠の魅力とともに伊勢志摩の美しい景観を広く紹介しました。日本中を公園にしたい、というその願いは戦後伊勢志摩国立公園として実現します。
日本の真珠産業を築いた人物として、そしてさまざまな逸話に見られる個性豊かな人物として、御木本幸吉の生涯はいつまでも語り継がれることでしょう。
かつて、海女は真珠の養殖にとってなくてはならない存在でした。
海底に潜ってアコヤ貝を採取し、核入れした貝を再び海底へ。また、赤潮の襲来や台風の時には、貝をいち早く安全な場所に移すなど、海女の活躍がなければ養殖真珠の成功はありえなかったことでしょう。
今は養殖技術が発達し、海女の必要性はなくなりましたが、真珠養殖を支えた海女の活躍を記念するために、真珠島では海女の実演を行っています。昔ながらの白い磯着の海女がみられるのはここ真珠島だけになりました。
ミキモト真珠島HP https://www.mikimoto-pearl-island.jp/
海女の実演時間:https://www.mikimoto-pearl-island.jp/%E6%B5%B7%E5%A5%B3%E6%99%82%E9%96%93
養殖真珠発祥の地
鳥羽湾に浮かぶ緑豊かなミキモト真珠島は、明治26年(1893)、御木本幸吉が世界で初めて真珠の養殖に成功した島です。1951年に開島し、以来国内外から多くのお客様をお迎えしています。
約7000坪の島内には、真珠のすべてがわかる真珠博物館をはじめ、真珠王と呼ばれた御木本幸吉の生涯を紹介する御木本幸吉記念館、パールプラザ(ショップ&レストラン)などが点在する他、昔ながらの白い磯着姿の海女が繰り広げる潜水実演などを見学できます。
お得な前売り電子チケット
参考:『ミキモト真珠島』観光三重 https://www.kankomie.or.jp/spot/3180
参考:『ミキモト真珠島』伊勢志摩観光ナビ https://www.iseshima-kanko.jp/spot/1541
三重県鳥羽市の鳥羽湾内に浮かぶ小島。
英虞湾内にある神明浦と並ぶ養殖真珠発祥の地であり、全島が株式会社御木本真珠島 (みきもとしんじゅしま、英: Mikimoto Pearl Museum Co., Ltd.) が経営するレジャー施設となっている。島内では真珠工芸品が展示されている他、海女の実演が催される。
年間観光客数は25 - 26万人で、約1割が日本国外からの来客である。
参考:『ミキモト真珠島』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%AD%E3%83%A2%E3%83%88%E7%9C%9F%E7%8F%A0%E5%B3%B6
公式HP→https://www.suzukacircuit.jp/info_s/
モータースポーツ(世界に誇るレーシングコース)
パーク(自分で操るアトラクションパーク)
バイクとクルマのスクール 安全運転教育の専門施設
他にホテル・レストラン、パークレストラン、プール、コチラファミリー(キャラクター)、グッズ、キャンプ場など
参考:『鈴鹿サーキット』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E9%B9%BF%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%83%E3%83%88
鈴鹿サーキット(すずかサーキット、Suzuka Circuit)は、三重県鈴鹿市にあるレーシングコースを中心としたレジャー施設。F1日本グランプリや鈴鹿8時間耐久ロードレースなどの開催で知られる事から日本モータースポーツファンの聖地でもある。レーシングコースの他に遊園地やホテル等があり、モビリティリゾート(自動車を題材とする行楽地)を形成している。
日本初の全面舗装と観客席の両方を備えたサーキットとして、1962年に本田技研工業(ホンダ)によって建設された。現在はホンダグループでモータースポーツ関連施設を運営する会社、ホンダモビリティランドによって運営されている。
レーシングコースを中心に、遊園地「鈴鹿サーキットパーク」、鈴鹿サーキットホテル、レストラン「THE DINING」、ファミリーキャンプ場などがあり、大型レジャーランドを形成している。サーキットと隣接してホテルがあるために、選手やチーム関係者の宿泊先からサーキット内への移動が容易である。また修学旅行の宿泊地としても歴史がある。
以前はゴルフ練習場や、スノーボードゲレンデ、テニスコートなどもあった。
さらに、交通マナーの向上やドライビングテクニック向上を目的とした「交通教育センター」が設置されており、ホンダ製の自動車やオートバイを利用して自動車やオートバイの運転技術指導を行っている。二輪免許取得教習も行っていたが、2009年3月末日で入校申込を終了している。
参考:『ナガシマリゾートについて』Nagashima Resort https://www.nagashima-onsen.co.jp/resort/about/index.html
路線バス / 高速バス ご案内→https://www.nagashima-onsen.co.jp/resort/access/bus_ets.html
名古屋駅から直通バス!名鉄バスセンター
新幹線/JR/名鉄/バスなどからの乗り継ぎに便利・予約不要で随時運行(高速バス)
参考:『ナガシマスパーランド大特集!人気アトラクションやチケット料金を紹介します。お得情報も!』掲載日:2024.04.19 観光三重
参考:『ナガシマスパーランド』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%AC%E3%82%B7%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
ナガシマスパーランド(英語: Nagashima Spa Land)は、三重県桑名市長島町浦安にある長島観光開発株式会社の運営する遊園地。同社が形成する「ナガシマリゾート」の中核施設である。
所在地
三重県桑名市長島町浦安108-4
概要
西日本有数の絶叫マシンの台数を誇り「東の富士急、西のナガシマ」と並び称されている[1]。2023年1月現在、園内でのローラーコースターの総数は大小含め12機種(スチールドラゴン2000・白鯨・アクロバット(英語版)・嵐(ARASHI)・コークスクリュー・ルーピングスター(英語版)・シャトルループ・ウルトラツイスター(英語版)・ダブルワイルドマウス・ジェットコースター・チルドレンコースター・ピーターラビットコースター)にも及び、2017年にそれまで日本一だった熊本県のグリーンランドの10機種を抜いて日本一となった。この為、地元東海地方に加え、関西地方をはじめとする他地方からの来園者も数多い。夏には屋外プール「ジャンボ海水プール」も開業する。隣接して当地開発の発端となった大型温泉施設「湯あみの島」や、「ホテル花水木」「ガーデンホテルオリーブ」「ホテルナガシマ」のホテル群、アウトレットモール「三井アウトレットパーク ジャズドリーム長島」(2011年9月増床、出店数では国内最大規模となる)がある。
2011年のThemed Entertainment Association発表資料に拠れば、年間利用者数は5,820,000人。これは、全世界のテーマパーク別の年間利用者数で16位についている。日本国内に限れば東京ディズニーランド、東京ディズニーシー、レゴランド・ジャパン、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに次ぐ利用者数でもある。 2017年現在のナガシマリゾート全体の年間入場者数は、約1,510万人であり、東海地方の主要施設の中では11年連続で首位である。
休日とゴールデンウィーク・お盆などは来園者が多く、特に人気の高い白鯨やスチールドラゴン2000は2時間以上待つこともある。しかし平日の特に午前中は空いていて、30分ほどで乗ることができる。
2003年(平成15年)10月よりイメージキャラクターとして「ピーターラビット」のライセンス契約を世界で初めて締結し、園内でサンダル・浮き輪などのグッズ販売も行う。従来より、1978年(昭和53年)頃より1993年(平成5年)までウッディー・ウッドペッカーがイメージキャラクターとして使用されていたが、大阪にユニバーサル・スタジオ・ジャパン (USJ) が開園しUSJのマスコットキャラクターとなるために当リゾートのマスコットキャラクターが変更されたという経緯がある。
石原プロモーションが製作したテレビ朝日系ドラマ『西部警察 PART-II』第37話及び『西部警察 PART-III』(「燃える勇者たち」【正月スペシャル】)では、本施設内でロケーションが行われた。
新アトラクション導入に向けて、関係者が海外の遊園地を何度か視察している。2000年に導入されたスチールドラゴン2000はアメリカミズーリ州のワールド・オブ・ファン(英語版)にある「Mamba(英語版)」に影響を受けて導入された他、2017年に導入された4Dスピンコースター 嵐と2019年に導入されたハイブリッドコースター 白鯨は、アメリカテキサス州の「シックス・フラッグス・フィエスタ・テキサス(英語版)」を視察した際に、「Batman: The Ride(英語版)」と「Iron Rattler(英語版)」に感銘を受けて導入された。
沿革
1965年(昭和40年)11月6日 - 仮開業、大観覧車・飛行塔・回転ブランコ・ティーカップ・ムーンロケット・オクトパス・釣り堀を設置[6]。
1966年(昭和41年)
3月19日 - 本開業。初代ジェットコースター・弁慶号・ダッゼムカー・子供動物園・ウォーターエース・ボートや300羽の鳥類を放し飼いにした中央池を設置。
7月 - シーサイドプール開業。
など
交通アクセス
公共交通機関
桑名駅より三重交通バスで20分
名古屋駅(名鉄バスセンター)より三重交通バスもしくは名鉄バス(共に高速経由)で45分〜55分
栄(オアシス21)より三重交通バス(高速経由)で45分
中部国際空港より三重交通バス(高速経由)で50分(※運休中)
日3往復のみ。桑名駅発着の空港連絡バスが経由する(桑名-長島温泉間の利用はできない)。
豊橋駅より豊鉄バス(高速経由)で120分
日1往復のみ。京都駅八条口発着のほの国号が経由する(長島温泉-京都駅八条口間の利用はできない)。なお、予約がある場合のみ停車する。
JR関西本線長島駅および近鉄長島駅
桑名市コミュニティバス「K-バス」長島ルートに乗車し、白坊主山公園停留所から南へ徒歩1.4km
便数は1日4便のみと少ないが、運賃は三重交通と比較すると非常に低廉である(小学生以上100円・未就学児無料)。また、所要時間は循環方向により異なるが何れも25分程度である。
当駅より北東700mの位置にある三重交通バス・大倉団地停留所から、名古屋長島温泉高速線の利用も可能。運賃は桑名駅からの便より高価。また、大倉団地は名鉄バス運行便は停車しない。
なばなの里までK-バスや三重交通(イルミネーション期間運行の便)に乗車するか、徒歩移動し当路線に乗り継ぐ方法もある。この場合は名鉄バス運行便も利用可能。なばなの里#交通アクセスも参照。
このほか、主要都市より宿泊付き(関西発は日帰りもあり)のバスツアーの発売、関西・関東からは高速バスの運行も行われている。
志摩スペイン村オフシャルサイト https://www.parque-net.com/
参考:『家族旅行にぴったり!志摩スペイン村 with キッズ 2021』志摩市観光協会 youtube https://youtu.be/bQcJ1wN2ci8?si=17kqCkpaLP0NZsJ5
参考:『志摩スペイン村』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E6%91%A9%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E6%9D%91
志摩スペイン村(しまスペインむら)は、三重県志摩市磯部町坂崎にある複合リゾート施設である。
近畿日本鉄道(近鉄)が、総合保養地域整備法(略称法令名: リゾート法)の施行に合わせ1988年に策定された三重サンベルトゾーン構想に基づき、三重県志摩郡磯部町(現・志摩市)の協力を得て開発した施設で、テーマパーク「パルケエスパーニャ」を中核施設に、ホテル志摩スペイン村、天然温泉「ひまわりの湯」の3施設で構成されている。
開発当初は、リゾートマンションやコテージなどを多層的に展開するレジデンシャルゾーンの開発計画もあったが現在は凍結されている。
近鉄が志摩半島での観光開発に着手したのは、伊勢志摩エリアが1946年に国立公園に指定されたことがきっかけである。1951年には戦後初の純洋式ホテル戦後初の純洋式ホテルとして志摩観光ホテルを賢島に開業、そして1960年代初期には東京オリンピック開催に合わせ、ゴルフ場や別荘地等を開発するために広大な土地の取得を始めていた。
本格的に開発が始まったのは1967年に策定された第3次輸送力増強5箇年計画発表以降である。この計画は、1970年の大阪万博の来場者を伊勢志摩まで誘致する目的で、当時孤立線であった近鉄志摩線 (25.4 km) と大阪・名古屋方面と直結している近鉄山田線とを接続する鳥羽線 (13.2 km) を新たに建設し、合わせて志摩線を標準軌化することで、大阪・京都・名古屋から賢島まで特急列車の直通運転を可能にするものであった。この工事は1970年1月に完成し、同年3月に開通した。
志摩スペイン村開発計画にあたっては、自然環境の保全を原則に、基本理念を「こころの再発見」におき、テーマをスペインとした[1]。
バブル崩壊の社会情勢から「もの」から「こころ」へ。経済優先からゆとりという流れの中で、「伸びやかな空間のなかでゆったりとした時間を楽しく過ごす」ことのできる場所が求められるとし、これをスペインの人々のゆとりやおおらかさと、スペインの大地の豊かさ。これらの体験、共感を通して、「人間らしさの回復」や「こころの再発見」をすることを全体コンセプトとした。
テーマとしてスペインが選ばれた理由
月刊レジャー産業やアミューズメント産業などの業界誌に掲載された開業当時の志摩スペイン村経営陣のコメントなどによれば下記のような理由が上げられている。
「三重サンベルトゾーン」計画そのものがスペインをイメージしていたこと。
三重県は観光立県だが、スペインも人口約4千万人に対して約5千万人あまりの観光客がある観光立国であること。
スペインの北部サンティアゴ・デ・コンポステーラは巡礼の地であり、お伊勢まいりと相通するものがあること。
計画当時、バルセロナオリンピックとセビリア万博の開催にあたり、日本でもスペインへの関心が高まっていたこと。
志摩半島の海岸はリアス式海岸だが、リアス式海岸のリアスとはスペイン北西部のガリシア地方でリア(入り江)が多く見られることから命名されたこと(スペイン語でリア(ria) は入り江を意味する)。
敷地面積
志摩スペイン村の全体開発面積は113haで、東京ドーム(建設面積4.67554ha/グラウンド面積1.3ha)に換算すると約24個分(テーマパーク部分だけでも約7.2個分)にも相当する広大なもので、その内100haについては近鉄が1960年代初期に取得した物である。しかし、上下水道や道路などインフラストラクチャーが未整備のため非常に簿価が低い社有地であり開発が中止されていた(志摩スペイン村開発にあたっては、取得済みの社有地100haの他に、周辺の13ha程の敷地を、国土法の特定民間施設の申請をして新たに取得している)。
環境対策
伊勢志摩国立公園内に立地するため、開発段階から高度の生活処理排水施設やゴミ焼却施設を導入し環境対策が行なわれているが、近年は環境対策について地球温暖化対策推進法や食品リサイクル法をはじめ、ごみ焼却時のダイオキシン処理、2003年のロンドン条約(日本国内では2007年度に廃棄物処理法が改定される。)で禁止される汚泥の海洋投棄など、開業当初より高い基準に対応するため新たな処理施設が導入されている。また、三重県生活環境の保全に関する条例第9条第1項に基づく地球温暖化対策計画書を2005年7月1日に県に提出し、三重県地球温暖化対策推進計画の2010年度までに温室効果ガスの排出量を基準年度(2000年度)から14%削減を目指している。
テーマパーク「パルケエスパーニャ」
スペイン語で「パルケ」は公園、「エスパーニャ」はスペインの意味で、直訳すればスペイン公園。パーク内は4つのエリアで構成され、スペイン各地の建物をモチーフとした街並みやアトラクションが配置されており、スペイン人エンターテイナーによるショーやパレードもある。
遊戯施設:24(アトラクション:21施設、展示施設:3施設)※1994年開園時/アトラクション:15施設、展示施設:1施設
エンターテイメント施設:3(うち1施設は夏休みのみ営業)
レストラン・ファーストフード:24(レストラン・FF:16店舗、フードスタンド:8店舗)
ショップ:20
キャラクター
スペインの代表的な文芸作品『ドン・キホーテ』をベースに、動物達をモチーフにした新しい物語を設定。メインキャラクターは、勇気と冒険心にあふれるドンキホーテとそのパートナーであるサンチョパンサ、その他に5人のファミリーキャラクターが設定されている。製作は当初、バルセロナオリンピックのマスコットキャラクター・コビーをデザインしたスペイン人画家のハビエル・マリスカルを予定していたが、スケジュール面で折り合わず、アメリカ・ロサンジェルス在住のデザイナーのトビー・シェルトンに依頼した。トビー・シェルトンは現在はディズニーのOVA製作にも参加しており、オリジナルDVDアニメ『アラジン〜ジャファーの逆襲〜』では、監督として製作の指揮を取っている。
ホテル志摩スペイン村(都ホテルズ&リゾーツ)
白壁・オレンジ色の屋根という、アンダルシア地方をイメージした外観のリゾートホテル。パティオ(中庭)を取り囲み、ロビー・宴会場棟と、3つの客室棟がロの字に建つ。また、コルドバ、セビリア、グラナダと名づけられた各客室棟にもパティオがあり、客室は全て40m2以上で、リゾートホテルにふさわしくゆとりをもった作りとなっている。
志摩スペイン村天然温泉「ひまわりの湯」
ボーリングにより地下約1,800mから湧き出す38.6度の温泉で、泉質はアルカリ性単純温泉。1分間に160リットルの湧出量がある。露天風呂やサウナ(女湯は塩サウナ)もある(加温・循環ろ過式)。
交通アクセス
近鉄志摩線・鵜方駅からバスによるアクセス。三重交通、賢島スペイン線59系統を利用し所要時間約12分。かつては近鉄志摩線・志摩磯部駅からバスによるアクセス。三重交通、磯部スペイン線を利用し所要時間約14分(現在より2分長い)だった。2007年2月限りで志摩磯部駅からの直通バスが廃止、同年3月から鵜方駅からの運行に一本化された。
志摩市内のホテル、旅館などの送迎あり
2002年12月16日までは、三重交通と西武バスによる共同運行で東京池袋 - 志摩スペイン村間で高速夜行バスが運行されていた。それ以降は三重県側は鳥羽発着に短縮されたが、2020年6月1日以降は横浜を経由しない便について磯部バスセンターまで延長されている(大宮・池袋・新宿・立川 - 鳥羽・磯部)。
展示施設
稼動中の展示施設
ハビエル城博物館
設備投資額約11億。フランシスコ・ザビエル(ハビエルはザビエルのスペイン語読み)の生家ハビエル城を再現し内部をミュージアムとしている。スペインの歴史をはじめ、独特の文化や生活を知ることができる。また、「アルタミラ洞窟の壁画」の実物大レプリカが展示されているが、これはハビエル城博物館以外ではアルタミラ博物館(スペイン現地)、国立考古学博物館(スペイン・マドリード市)にしかない大変貴重なものである。
映像シアターでは、プラド美術館への招待(約15分)、スペイン絵画の巨匠たち(約15分)常時上映中。
エンバーシーホール
設備投資額約7億。外観はスペイン北部に見られる建物がモチーフとされ、内部はイベントホールとして多目的に利用できるスペースになっている。
花とワインのギャラリー
ドンキーズシェリーショップ「ビバ・ドンキー」を改装して作られたワインの産地や醸造工程などの基礎知識を紹介するギャラリーだったが、2004年に行なわれた氷の城の常設工事に伴い展示場所をサンタクルス通りの元スペイン工芸館「アルテ」に移設された。
公式:忍者修行の里 赤目四十八滝 https://www.akame48taki.com/
参考:『【赤目四十八滝】赤目渓谷3分間ハイク Akame48falls』赤目四十八滝公式チャンネル https://youtu.be/9SQnzOb3v_k?si=j20c2UJ9gXvIz0zJ
約4Kmの渓谷遊歩道を3分間で楽しめるタイムラプス動画
参考:『【赤目四十八滝】伊賀赤目流忍者-修行“忍者の森”VOL.1 『Forest of Ninja』Village of Ninja training Akame 48 Falls』赤目四十八滝公式チャンネル https://youtu.be/CyrX6OGBaI4?si=H_I04wviarP1wMj2
三重県名張市赤目四十八滝の麓にある『忍者の森』では様々な忍者の修行を体験することが出来ます。
参考:『赤目四十八滝』観光三重 https://www.kankomie.or.jp/spot/1687
参考:『赤目四十八滝』名張市観光協会(なばり観光ガイド) https://www.kankou-nabari.jp/?page_id=3620
参考:『赤目四十八滝』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%9B%AE%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%85%AB%E6%BB%9D
赤目四十八滝(あかめしじゅうはちたき)は、日本に数多く存在する四十八滝の一つで、三重県名張市赤目町を流れる滝川の渓谷にある、一連の滝の総称である。また、谷は赤目四十八滝渓谷(あかめしじゅうはちたき けいこく)と称される。
当地は古より山岳信仰の聖地であり、地元には「滝参り」という呼び方が今も残る(後述の「不動滝」を参照)。奈良時代には修験道の開祖である役行者(役小角)の修行場ともなった。
地名「赤目」の由来は、役行者が修行中に赤い目の牛に乗った不動明王に出会ったとの言い伝えにあるとされる。 また、役行者および修験道と関連するが、忍者の修行場であったとも伝えられている。
滝のある渓谷はおよそ4kmにわたって続き、峠を挟んで香落渓(かおちだに)へとつながっている。 渓谷は四季折々に楽しめるハイキングコースとなっており、紅葉の名所としても知られていて、秋には関西・中京方面などから多くの観光客で賑わいを見せる。2013年(平成25年)の観光入込客数は163,948人。
渓谷とその周辺地域は野生動物と植生の宝庫である。特に渓谷は、世界最大級の両生類の一つであるオオサンショウウオの棲息地として知られ、滝への入り口付近には飼育・展示施設の日本サンショウウオセンターがある。また、テレビ番組でオオサンショウウオを扱う際のロケ地となることも少なくない。
赤目五瀑
赤目四十八滝のうち比較的大きな5つの滝を、赤目五瀑(あかめ ごばく)と言う。
不動滝(ふどうだき)
落差15m。不動明王にちなんで名付けられた滝。「滝参り」はこの滝への参拝を意味する。明治中期以前はここより奥は深山幽谷の原生林で、修験者のみ入ることが許されていた聖地だった。
千手滝(せんじゅだき)
落差15m。
岩を伝って千手のように落水するところからの命名とする説と、千手観音に因むとも言われている。黒い岩肌の滝から流れ落ちる白い水としだれかかるイロハモミジと深い緑の滝つぼが絵のように調和した見事な滝である。
布曳滝(ぬのびきだき)
落差30m。30mの高さから一条の布を掛けたように落ちるこの滝は全国にある布引滝の中での代表格とも言われている。
荷担滝(にないだき)
落差8m。滝の中央に位置する大岩を挟んで流れが二手に分かれる様子が、荷物を綺麗に振り分けて担っているように見えることから、「担いの滝」「荷担い滝」と名づけられた。三滝二淵のこの滝は、渓谷随一の景観と称される。
琵琶滝(びわだき)
落差15m。滝と滝つぼを合わせた形状が楽器の琵琶に似ている。なお、この滝は奈良県との県境に位置する。
「赤目四十八滝」名義で、森・滝・遊歩道・水がそれぞれ、森林浴の森100選(1986年選定)、日本の滝百選(1990年)、遊歩百選(2002年)、平成の名水百選(2008年)に選出されており、重ねて遊歩道は、美しい日本の歩きたくなるみち500選(2004年)に「赤目四十八滝へのみち」の名で選出されている。
アクセス
渓谷内では徒歩のみ。
鉄道
最寄り駅は■近鉄大阪線 ■赤目口駅。現地行きバスあり。
自動車道
路線バス :近鉄大阪線・赤目口駅前バス停より、三重交通の路線バス「11 赤目線 赤目滝行き」に乗車し、約10分で到着。
自家用車 :国道165号を赤目口駅付近より、バスと同じルート(約6km)を走り、約10分で到着。
周辺観光地
日本サンショウウオセンター (所在地:三重県名張市赤目町長坂)
室生赤目青山国定公園 - 赤目一志峡県立自然公園 - 香落渓 - 青山高原 - 曽爾高原
室生寺 - 長谷寺
伊勢湾に注ぐ五十鈴川の三角州地帯。夫婦岩が有名。
五十鈴川河口の西側海岸地域は古来より二見七郷と称され、神宮の御塩を貢進してきた。
二見浦は五十鈴川、勢田川の河口より続く砂浜の東端に位置し、背後に音無山、前面に伊勢湾を隔てて知多、渥美半島に対し、右手に神島、答志島を、左に鈴鹿の連山を望む。
平安朝以来、伊勢の名勝地として知られ、多くの歌にも詠まれ、神宮参拝者が訪れるようになった。
海水浴場としても有名である。
参考:『二見浦』観光三重HP https://www.kankomie.or.jp/spot/1724
二見浦(ふたみがうら)は、三重県伊勢市二見町の今一色から立石崎に至る海岸。立石崎から神前岬までの海岸(神前海岸)もその一部とされることがある。
伊勢湾に注ぐ五十鈴川の河口に形成された三角州状の地帯で、伊勢志摩国立公園に属し、国の名勝に指定され、日本の渚百選にも選ばれている。神宮参拝の禊場でもあった。
立石崎の二見興玉神社内にある夫婦岩は全国的に有名である。
二見浦での風物詩は、夏至の「サンライズ」である。二つの岩の中間がちょうど富士山の方角にあたり、富士山の背後から昇る「日の出」が観測される。
現在では「ダイヤモンド富士」の愛称で呼ばれ、その出現の時刻は4時29分頃になり、約1週間程度観測されると云う。そしてこの方角を静岡県に当てはめると、田貫湖畔になり「ダイヤモンド富士」として親しまれている。
参考:『二見浦』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E8%A6%8B%E6%B5%A6
参考:『考えない旅。感じる志摩。志摩観光ガイドブック「大王埼灯台」』志摩市観光協会Ch. (youtube) https://youtu.be/TSb8ufjnK10?si=thti5LofFubkhw21
参考:『なばなの里』HP https://www.nagashima-onsen.co.jp/nabana/guide/index.html
なばなの里は、花と緑と食のテーマパーク
約30万㎡の広大な敷地には、春には桜やチューリップ、ネモフィラが、夏はあじさいにホタル、秋にはコスモスやダリア、冬にはイルミネーションと、四季を通じて楽しむことができます。1万2千株の花々が1年を通して色鮮やかに咲き誇る「アンデスの花園 べゴニアガーデン」や天然温泉が楽しめる「長島温泉 里の湯」、3種類の地ビールが味わえる「長島ビール園」をはじめ和・洋・中と8つのレストランが揃っています。
住所 〒511-1144
三重県桑名市長島町駒江漆畑270
エリア 名古屋近郊
アクセス 名鉄バスセンターより直通バス(三重交通・名鉄バス)で約30分。
JR関西本線・近鉄名古屋線「桑名」駅下車 東口出口から三重交通直通バスに乗り換えて約10分。
(イルミ期間)近鉄「近鉄長島」駅より直通バス約10分。
TEL 0594-41-0787(なばなの里) (英語での問い合わせ否)
営業時間 10:00~21:00 ※季節・曜日により変動あり
休館日 公式HP参照
料金 ※詳しくは下記の料金ページにてご確認ください。
駐車場 無料駐車場有り(普通車3000台)
※2700台の臨時駐車場有
※バス駐車場有り
クレジットカード 入村料支払いは現金のみ。
参考:『なばなの里|【公式】名古屋市観光情報 名古屋コンシェルジェ』https://www.nagoya-info.jp/spot/detail/178/
三重県桑名市長島町駒江にある植物園である。長島観光開発株式会社の運営するナガシマリゾートの一施設である。
里内には8店舗のレストランがあり(長島地ビール園、ベーカリーレストラン「マルセイユ」、イタリアンレストラン「麦」、とんかつ「かつ○」、中国料理「桃仙」、日本料理「翡翠」、「カフェ・ラ・テラス」、麺料理「芭蕉庵」)、他にもベーカリーショップ10・2・5(テンツーファイブ)や、売店の「村の市」では特産品や地ビール、お土産などを購入できる。また長島温泉を利用した日帰り温泉施設「里の湯」がある。さらには東海地方最大級の「花市場」が隣接してあり、東海地元の野菜や季節のお花が買うことができる。
園の名前は当地の特産品である「なばな」に由来する。
参考:『なばなの里』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%B0%E3%81%AA%E3%81%AE%E9%87%8C
2020年日本地理に、伊勢湾沿岸の三重県の観光地を問う設問があった。
[伊勢湾]
本州中央部の太平洋岸にある大湾。古くは伊勢海(いせのうみ)ともいった。志摩(しま)、知多(ちた)、渥美(あつみ)の3半島に囲まれ、日本海岸の敦賀(つるが)湾との間が、本州の一番狭くくびれた地域である。東側には三河(みかわ)湾があり、伊勢湾とは知多半島、師崎(もろざき)水道、中山水道によって区分されている。東西の最大幅約30キロメートル、南北約60キロメートル、海域面積約1700平方キロメートル、東京湾の約1.7倍、三河湾の約3倍である。地質時代の第三紀末(約300万年前)には東海湖とよばれる一大淡水湖であった。地質時代最後のビュルム氷期(約2万年前)には、海退によって日本列島がアジア大陸と陸続きになり、伊勢湾も全面的に陸化した。次の亜間氷期(温暖な気候)には、海水面が5メートルも高まり、海進によって濃尾(のうび)平野では大垣、一宮付近、岡崎平野では刈谷(かりや)市付近まで海面が広がり、陸地との境付近には漁労生活の縄文人が住み着き、貝塚群を残した。その前面の海に、各河川の運搬した土砂が堆積(たいせき)し、わずかに隆起したのが環伊勢湾の沖積平野で、現在、濃尾、伊勢、岡崎、豊橋などの諸平野の沖積低地となっている。
気候的には氷期と間氷期の繰り返しと海面の海進、海退現象のなかで現在の陸地と海域がつくられたもので、伊勢湾と環伊勢湾周辺の陸地とは無縁な存在ではない。伊勢湾の平均深度は19.5メートル(三河湾は9.2メートル)、最深部は38メートル、関係河川の流域面積約1万3400平方キロメートル。湾口部の伊良湖水道は潮流が激しく、局所的に100メートルの水深となる。湾奥は、木曽(きそ)川、長良(ながら)川、揖斐(いび)川、庄内(しょうない)川が、伊勢平野の沿岸には鈴鹿(すずか)川、安濃(あのう)川、雲出(くもず)川、宮川などの大小河川が流入し、各河川の運ぶ土砂によって遠浅な海となっている。そこに名古屋、四日市、津などの港湾と、埋立て臨海工業地帯がつくられている。とくに湾奥にある名古屋、四日市両港の占める役割は大きく、伊勢湾海域は国際的に重要な海上輸送ルートとなっている。[伊藤郷平]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
[神島(かみしま)]
「かみじま」ともいう。三重県鳥羽市北東方,伊勢湾口にある島。鳥羽港から約 15km,愛知県伊良湖岬から 4kmに位置し,鳥羽市に属する。最高点 171m。周辺は暗礁が多く,伊勢湾屈指の好漁場で,海釣りの好適地。タコの水揚げが多い。伊良湖岬との間は伊良湖水道と呼ばれ,潮流が激しく,海上交通の難所として有名。三島由紀夫の『潮騒』の舞台として知られる。伊勢志摩国立公園に属する。面積 0.76km2。人口 534 (2000) 。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
神島は三重県鳥羽市に属し、鳥羽港の北東約14kmにある、漁業を中心とする島です。
神島の名が示すように、神の支配する島と信じられてきました。
三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台となったことで有名となり、5回の映画化ではロケ地になりました。
映画のクライマックスシーンにも描かれた「監的哨跡」は、戦時中に旧陸軍が伊良湖から撃つ大砲の試着弾を目視して確認するための施設でした。
また、島の八代神社には、古墳時代から室町時代にわたる総数百余点の神宝が秘蔵されています。
毎年元旦未明に行われるゲーター祭りは、南北朝時代の太陽信仰とも言われ、1977年(昭和52年)に三重県の無形民族文化財として登録されています。
その他にも、石灰岩が風化してできた独特の景観の「カルスト地形」があり、白い塔のようにそびえ立つカルスト地形と海の青さのコントラストが神秘的です。
2006年には、愛を誓いプロポーズをするのにふさわしい観光スポットとして、長崎県のハウステンボスや岡山県の倉敷チボリ公園などとともに恋人の聖地の1つに選ばれました。
『神島』(伊勢志摩観光コンベンション機構公式サイト 伊勢志摩観光ナビ)より
[二見浦(ふたみがうら)]
三重県中東部、伊勢市(いせし)二見町の伊勢湾岸にある海岸。五十鈴(いすず)川の河口今一色(いまいっしき)から東へ約4キロメートルの白砂青松の海岸で、東端に二見興玉(ふたみおきたま)神社があり、その前面に有名な夫婦岩(めおといわ)がある。古くから沐浴(もくよく)斎戒の地で、いまも伊勢神宮参拝者などが禊(みそぎ)を行う。明治末年に海水浴場が開設されてから旅館が建ち並び、観光地化した。夫婦岩を結ぶ大注連縄張(おおしめなわはり)神事が5月5日、9月5日、12月中旬の土・日曜日に行われる。[伊藤達雄]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
[賢島]
三重県志摩半島の熊野灘側,英虞 (あご) 湾内にある島。周囲約 7km。志摩市に属する。本土との間は約 20mの水道を橋で結ばれる。島の中央に賢島駅があり近畿日本鉄道志摩線の終点。 1960年,鉄道線路が広軌に改修され大阪,名古屋から直通運行されるようになって以来,奥志摩観光の拠点となった。周辺には高級ホテルや国民宿舎,ゴルフ場,マリンランド (海洋館と水族館) ,水産庁の真珠研究所などがある。駅の南に賢島港があり,湾内の遊覧船や御座,和具方面への定期船が発着する。伊勢志摩国立公園に属する。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[伊勢志摩国立公園]
三重県の志摩半島東部一帯と度会郡の一部を占める自然公園。面積 555.44km2。1946年指定。複雑な変化に富んだ海岸線や入江,岬,大小の島々,伊勢神宮,真珠の養殖などが観光の中心。伊勢神宮は古来信仰の中心地で,内宮・外宮の簡素な神殿と森厳な環境に恵まれている。境内に続く原生林は学術的に価値がある。志摩半島では,的矢湾奥の伊雑浦(いぞうのうら)にある伊雑宮(いざわのみや),五ヶ所湾,英虞湾,鳥羽湾などのリアス海岸と,静かな入江に浮かぶ真珠養殖施設,太平洋の荒波によって荒削りされた安乗崎,大王崎の海食崖などがある。気候が温暖なため,ツバキ,ハマユウなどの南国植物が目につく。イセエビ,アワビなど海の幸に恵まれている。伊勢市,鳥羽市が観光の拠点。賢島にはホテル,ゴルフ場があり,伊勢,鳥羽には旅館が多い。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[英虞湾(あごわん)]
別称真珠湾。三重県志摩半島の熊野灘側,先志摩半島にいだかれたリアス湾入。湾内には賢島 (かしこじま) ,多徳島など大小無数の島が浮び,真珠,ハマチ,タイの養殖筏が群れをなす。これは奥志摩の代表的な景観で,伊勢志摩国立公園の中心をなす。多徳島は御木本幸吉が 1890年代に初めて真珠養殖を始め,1905年真円真珠の養殖に成功したところとして知られる。賢島から湾内遊覧船が出る。湾岸は観光開発が進み,ホテル,別荘,ゴルフ場などがある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
2022年出題
◎鬼ケ城(三重県)
三重県南部、熊野市木本(きのもと)にある海岸景勝地。熊野灘(なだ)リアス海岸最南端にあり、凝灰岩の岩壁が波食を受けたのち隆起したため、大小数十個の洞窟(どうくつ)が連続する奇観となった。千畳敷(せんじょうじき)とよばれる広いものもあり、いかにも鬼か海賊のすみかの観がある。吉野熊野国立公園区域で国の名勝・天然記念物に指定されている。周囲約1キロメートル、探勝路が完備され、展望台、鬼ヶ城センターなどがあり、紀州路観光の名所の一つとなっている。JR熊野市駅からバスの便がある。
[伊藤達雄]
[参照項目] | 熊野(市) | 吉野熊野国立公園
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
各家が要塞のような造り
郡中惣 地域の土豪が集まり、戦国大名たちの支配を受けない自ら合議で地域の自治を行う独立自治の組織。
(馬杉本城)(馬杉中城)(馬杉北城)
参考:『英雄たちの選択 シリーズ・リアル忍者 戦国忍者“神君伊賀越え”の選択』2024年7月1日放送 NHKオンデマンド https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2024139634SA000/?np_banID=top_sp0031_139634
世界遺産を知る・熊野参詣道
2022年の設問に、中央構造線、黒潮、紀伊山地、山岳信仰、修験道、役行者、金峯山寺、鬼ケ城、熊野本宮大社、二見興玉神社、湯垢離(ゆごり)、熊野参詣道、湯の峰温泉、崎の湯(白浜温泉)(つぼ湯)、筏流し(北山村)などが出題。ちなみに選択肢に有ったジップライン・牛車・馬そりは、現在和歌山県にはない模様。
◎中央構造線
フォッサ・マグナ以西の西南日本を,西南日本内帯(北側,日本海側)と西南日本外帯(南側,太平洋側)に分ける地質構造線。ドイツ人地質学者エドムント・ナウマンがフォッサ・マグナとともに指摘した。東端は諏訪湖南方でフォッサ・マグナの西縁,糸魚川-静岡構造線で切られ,赤石山脈西縁―紀伊半島北部―四国北部―九州西岸と約 800kmにわたって続く。構造線は九州では不明瞭であるが,ほかの地域ではほぼ直線状の明瞭な線を示し,愛知県の豊川,和歌山県の紀ノ川,四国の吉野川の谷の方向を決定している。最初の断層の変位は中生代の白亜紀に始まったとみられ,構造線に沿って地下深所の火成作用でできた深成岩やミロナイトとも呼ばれる圧砕岩が存在する。横ずれ断層や活断層も発達している。内帯では高温・低圧型の領家変成帯や花崗岩類が広く露出し,外帯では低温・高圧型の三波川変成帯がみられるなど,両側の地質構造と地殻変動の様式は大きく異なっている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
◎黒潮
フィリピン東方海域より発し、台湾と石垣島との間を通り、吐噶喇とから海峡を抜け、本州の南岸沿いに東方に流れる暖流。日本近海における最大の海流で、一部は対馬つしま暖流となる。高温で塩分が多く、濃い藍色を呈する。黒瀬川。日本海流。→親潮
出典 小学館デジタル大辞泉
◎紀伊山地
近畿地方、紀伊半島の大部分を占める山地。紀ノ川、櫛田川を結ぶ中央構造線以南を東西に延びる。最高峰は仏教ケ岳(八剣山=一九一五メートル)。壮年期の山地で、盆地も河谷、平野もなく、東部の太平洋側斜面は日本最多雨地。スギ、ヒノキの美林が広がる。紀伊山脈。
出典 精選版 日本国語大辞典
◎紀伊山地の霊場と参詣道(さんけいみち)
2004年に登録された日本の世界遺産(文化遺産)で、奈良県、三重県、和歌山県の3県にまたがる、紀伊山地にある。修験道の拠点「吉野・大峯」、熊野信仰の中心地「熊野三山」、真言密教の根本道場「高野山」の三大霊場と、これらの霊場を結ぶ「参詣道(巡礼路)」からなる。おもな登録物件は、吉野・大峯の吉野山、金峯山寺、大峰山寺、吉野水分神社、吉水神社、金峯神社、熊野三山の熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社、青岸渡寺、那智大滝、補陀洛山寺、那智原始林。高野山の金剛峯寺、丹生都比売神社、慈尊院、丹生官省符神社。参詣道の大峯奥駈道、熊野参詣道(小辺路、中辺路、大辺路、伊勢路)、高野山町石道。神道と仏教が結びついた神仏習合思想をよく表していて、自然環境とともに文化的景観を形成し、その景観が1000年以上にわたり保存されてきたことなどが評価され、世界遺産に登録された。◇英名はSacred Sites and Pilgrimage Routes in the Kii Mountain Range
出典 講談社世界遺産詳解
◎山岳信仰
山岳に宗教的意味を与え、崇拝したり儀礼を行ったりすること。古代ギリシャのオリンポスや中国の五岳信仰などにみられる。日本でも古来より土俗信仰として存在し、のちに修験道などを生み出した。山岳崇拝。→修験道しゅげんどう →山岳仏教
出典 小学館デジタル大辞泉
◎修験道
日本古来の山岳信仰と、仏教の密教、道教などが結びついて平安末期に成立した宗教。役行者えんのぎょうじゃを初祖とする。霊験を得るための山中の修行と加持・祈祷きとう・呪術儀礼を主とする。室町期には、真言系の三宝院流(当山派)と天台系の聖護院流(本山派)の二派に分かれた。
出典 小学館デジタル大辞泉
◎役行者
7世紀末に大和国の葛城(木)山を中心に活動した呪術者。生没年不詳。役小角(えんのおづぬ),役君(えのきみ)などとも呼ばれ,後に修験道の開祖として尊崇される。《続日本紀》によると,699年(文武3)朝廷は役君小角を伊豆国に流した。葛城山に住む小角は,鬼神を使役して水をくませ,薪を集めさせるなどし,その命令に従わなければ呪術によって縛るという神通力の持主として知られていたが,弟子の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)が師の能力をねたみ,小角が妖術を使って世人を惑わしていると朝廷に讒訴(ざんそ)したために,流罪が行われたという。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版
◎金峯山寺(きんぷせんじ)
奈良県吉野町所在の金峯山修験本宗。役小角 (えんのおづぬ) の創立と伝えられ,修験道の本山として栄え,山伏修行道場として有名。本堂 (蔵王堂) は室町時代の建築であるが,桃山時代の手が入っている,裳階 (もこし) つきの大建築。康正2 (1456) 年建立の二王門は本堂にふさわしい壮大な二重門で,本堂とともに国宝。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
◎熊野本宮大社
和歌山県田辺市本宮町本宮にある神社。旧官幣大社。主祭神は家都御子神けつみこのかみ。中世、熊野大権現と称し、修験道とともに栄えた。熊野坐くまのにます神社は旧称。熊野三社の一。平成16年(2004)「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として世界遺産(文化遺産)に登録された。熊野本宮。本宮。
出典 小学館デジタル大辞泉
◎二見興玉神社
三重県伊勢市二見(ふたみ)町江(え)に鎮座。祭神は猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)、宇迦御魂大神(うかのみたまのおおかみ)。1797年(寛政9)刊の『伊勢(いせ)参宮名所図会(ずえ)』では注連縄(しめなわ)の張られた立石(現在の夫婦岩(めおといわ))の沖合いに興玉石(おきたまいし)の記載があるが、その後地震によってほとんど水中に沈んだ。当社は、その興玉石を祀(まつ)り、夫婦岩はその鳥居、社殿は遙拝所(ようはいしょ)の役を果たしている。旧村社。祭礼には例祭(7月15日)、藻刈(めかり)神事、大注連縄張(おおしめなわはり)神事(5月5日、9月5日、12月中旬の土・日曜日)などがある。
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
◎湯垢離(ゆごり)
〘名〙 湯で身を清めること。
※永久百首(1116)雑「御熊ののゆこりのまろをさす棹の拾ひ行らんかくていとなし〈源俊頼〉」
出典 精選版 日本国語大辞典
◎熊野参詣道(くまのさんけいみち)(熊野古道)
和歌山県南部の熊野三山への参詣(さんけい)路。紀伊山地をたどる遠隔参詣路で、その道筋はさまざま。熊野街道ともいう。京から難波(なにわ)を経て海岸沿いに田辺(たなべ)へ、田辺から山間を本宮に至るのが紀伊(きい)路で、途中遙拝(ようはい)休憩のための九十九王子社が設けられていた。紀伊路は田辺から山間をたどる中辺路(なかへち)と、さらに海岸を伝う大辺路(おおへち)に分かれる。伊勢(いせ)を回る伊勢路、十津川(とつかわ)路、北山(きたやま)路、高野山(こうやさん)を経る高野路、大峰(おおみね)山中をたどる修験の峰入(みねいり)路などがある。2004年(平成16)「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。[編集部]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
◎湯の峰温泉
和歌山県田辺市の温泉。熊野川支流の湯ノ峰川沿いにあり、熊野本宮参拝者の湯垢離ゆごり場として知られる。泉質は硫黄泉。
出典 小学館デジタル大辞泉
◎崎の湯(白浜温泉)(つぼ湯)
湯の峰温泉の「つぼ湯」と「湯筒」は、和歌山県田辺市本宮町にあり、「日本温泉地域資産」指定の地域遺産〔日本温泉地域文化資産No.89〕。
〈選定ポイント〉温泉文化、熊野詣での湯垢離場、高温自然湧出泉源湯坪、温泉信仰
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」
◎筏流し(北山村)
北山村は、和歌山県東部,熊野川支流の北山川右岸の村。1889年村制。三重県,奈良県に囲まれた和歌山県の飛び地で,かつて北山川上流域で産する木材を筏で新宮(→新宮市)に流送した筏師の村であった。七色峡など奥瀞(→瀞峡(どろきょう))の峡谷美で知られたが,七色ダムの建設により水没。1958年から筏による輸送はトラックに代わった。林業を主とする。吉野熊野国立公園の一部。国道169号線が通る。面積 48.20km2。人口 404(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
◎瀞峡(どろきょう)
和歌山・三重県境を流れる熊野(くまの)川の支流北山川(きたやまがわ)の峡谷。瀞は、深い淵(ふち)では川の流れが静止してみえることをいい、もとは泥、洞の字があてられた。下流から下(しも)瀞、上(かみ)瀞、奥瀞に分けられる。瀞峡の中心をなすのは和歌山県新宮市熊野川町玉置口(たまいぐち)から上流の田戸(たど)(奈良県十津川(とつかわ)村)までの約1キロメートルの下瀞で、瀞八丁として特別名勝・天然記念物に指定されている。熊野川との合流点に近い志古(しこ)からのジェット船による遊覧もこの部分である。中生代珪質(けいしつ)岩を貫いて嵌入(かんにゅう)蛇行し、両岸は20~50メートルの懸崖(けんがい)をなし、滝壺(たきつぼ)の後退によるとの成因説がある。川幅は100メートル前後、水深は最深部約20メートル。柱状節理による奇岩、洞穴、深淵(しんえん)が続き、吉野熊野国立公園のなかでも特筆される雄景である。田戸から2.1キロメートルさかのぼった小松までが上瀞で、下瀞より両岸が低く河床に岩礁が現れ激しい瀬となっている。小松から上流20キロメートルは奥瀞で、七色(なないろ)峡も含まれるが、小松・七色両ダムでほとんど水没した。上瀞には観光用の筏(いかだ)流しがある。
[小池洋一]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
地図や写真が豊富で分かりやすいです。
[吉野・大峯]
吉野山
吉野水分(みくまり)神社
金峯山寺(きんぷせんじ)
金峯神社(きんぷじんじゃ)
吉水神社(よしみずじんじゃ)
大峰山寺(おおみねさんじ)
[熊野三山]
熊野本宮大社
熊野速玉大社
熊野那智大社
青岸渡寺
那智大滝
那智原始林
補陀落(ふだらく)山寺
[高野山]
金剛峯寺(こんごうぶじ)
慈尊院
丹生官省符(にうかんしょうぶ)神社
[参詣道]
(熊野参詣道)
中辺路
小辺路
大辺路
伊勢路
(高野参詣道)
町石道(ちょういしみち)
三谷坂(みたにざか)
京大阪道(きょうおおさかみち)不動坂
黒河道(くろこみち)
女人道(にょにんみち)
参考:『熊野古道』新宮市観光協会 https://www.shinguu.jp/kumanokodo2
わかりやすくておおきなルート地図有り。説明も項目にわたって詳しい。
参考:『熊野古道』熊野本宮観光協会 https://www.hongu.jp/kumanokodo/
わかりやすいルート地図有り
参考:『熊野古道ってなあに?』はじめての熊野古道-なかへち- 龍神自動車株式会社 https://www.ryujinbus.com/tour/kmnc_about/
古道のルートの説明がわかりやすい。語り部さんの魅力の紹介もあり。
参考:『熊野古道・高野参詣道を歩く モデルプラン』和歌山県公式観光サイト https://www.wakayama-kanko.or.jp/plan-your-trip/model-courses/kumano-and-koyasan/
参考:『熊野古道』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E5%8F%A4%E9%81%93
熊野古道(くまのこどう)は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へと通じる参詣道の総称。熊野参詣道ともよばれる。紀伊半島に位置し、道は三重県、奈良県、和歌山県、大阪府に跨る。2004年に世界文化遺産に登録。
熊野古道とは紀伊路(きいじ・きじ)・小辺路(こへち)・中辺路(なかへち)・大辺路(おおへち)・伊勢路(いせじ)・大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)の6道を指す。これらの多くは、2000年に「熊野参詣道」として国の史跡に指定され、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)として登録された。なお、その登録対象には紀伊路は含まれていない。
熊野古道の遺構の特徴として、那智山にある大門坂など舗装に用いられた石畳が残っていることがある。石畳が用いられたのは、紀伊半島が日本でも有数の降雨量の多い地域だからである。また、江戸時代に紀州藩により整備された一里塚が残っている個所もある。
熊野古道の特色は、中世期に日本最大の霊場として隆盛した熊野信仰という一貫した目的のために、1000年以上も使われ続けてきたことである[1]。近世になって、日本最大の霊場としての地位を伊勢神宮にとって代わられてからは、西国三十三所観音巡礼のひとつに姿を変えるようになったが、純粋な徒歩参詣道として熊野古道が残ったため、現在でも独自の形で賑わいを見せている。
熊野周辺は、日本書紀にも登場する自然崇拝の地であった。熊野三山は、天皇から貴族、庶民に至るまであらゆる階層の人々の信仰を集め、皇室で参拝したのは、平安時代中期の延喜7年(908年)に行われた宇多法皇の熊野御幸が最初と言われる。熊野御幸とは、上皇の熊野詣のことで、弘安4年(1281年)の亀山上皇の熊野御幸まで、その期間は374年間、94回行われた。
11世紀から12世紀にわたり、院政期の上皇方が熊野詣でを繰り返すようになった。熊野三山への参詣が頻繁に行われるようになったきっかけは、1090年の白河上皇の熊野御幸からと言われている。白河上皇はその後あわせて9回の熊野御幸を行った。これにより、上皇や法皇に伴われて皇后などの女院方や貴族が同行するようになり活況を呈し、後に京都の貴族の間で単独で熊野詣が行われるようになった。その後、後白河上皇も33回の熊野御幸を行っている。鎌倉時代の建仁元年(1201年)に後鳥羽上皇の熊野御幸に随行した藤原定家の日記によれば、旅は原則徒歩で移動し、荷物は伝馬で運ばせ、それらによって道が整備されていったという当時の様子について記されている。この時代は、源氏や平氏にも信仰され、平安・鎌倉時代の僧侶であった一遍や文覚も参詣した。源頼朝の妻・北条政子も鎌倉から上洛する機会を利用して、熊野参詣を2回行っている。さらに承久の乱(1221年)以後は、地方武士の参詣者も出るようになった。
また、主に12世紀から13世紀にかけて九十九王子が設けられた。これは、熊野古道(特に紀伊路、中辺路)の大阪の基点であった淀川河口の渡辺津(窪津、九品津)から熊野三山までに、100近くの熊野権現を祭祀した末社である。参詣者は、九十九王子で休憩しながら熊野三山まで歩いた。現存するものは少ない。
室町時代になると、貴族のほかに武士や庶民の間でも熊野詣が盛んになり、「蟻の熊野詣」とまでいわれるほど、凄まじいほどの参拝者の大群であったといい、熊野三山の繁栄も頂点に達し、熊野参詣道も広域道路として整備された。
江戸時代に入ると、伊勢詣と並び、熊野詣は、広く庶民が行うようになったといわれている。
1906年(明治39年)末に布告された「神社合祀令」により熊野古道周辺の神社の数は激減。熊野詣の風習も殆どなくなってしまった。
熊野古道自体は、大正から昭和にかけて国道が整備されるまで、周囲の生活道路として使用されつづけた。
現在は、和歌山県観光振興課が中心となり、ルートが整備されスタンプラリーなどもできるように観光化も進んでいる。
参考動画:『超体感 熊野古道 神秘の旅』 4K高細撮影 −NHKオンデマンド(2019年1月1日放送) https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2018094449SA000/index.html
熊野信仰を日本人の信仰の原点とする。映像はさすがに美しい。都人は田辺市から中辺路ルートで熊野三山へ向かった。その道をたどる。
中世院政時に急激に栄えた熊野古道。自らの力を高めたい院たちの参詣。鳥羽上皇21回、後白河上皇34回、後鳥羽上皇28回の熊野詣。貴族たち、そのあとの武士たちも倣って参詣した。牛馬童子。花山法皇。
信仰の原点の那智の滝。神宿る滝。神武天皇。船から見えた一筋の光。ヤタガラスに導かれて即位。
よみがえりの地。熊野に葬られたイザナミノミコト。黄泉の国の入り口。
熊野古道
紀伊路(渡辺津 - 田辺)
小辺路(高野山 - 熊野三山、約70km)
中辺路(田辺 - 熊野三山)
大辺路(田辺 - 串本 - 熊野三山、約120km)
伊勢路(伊勢神宮 - 熊野三山、約160km)
大峯奥駈道 (吉野 - 熊野三山)
藤白神社 https://fujishiro-jinja.net/fujishiro-jinja/
藤白神社は、熊野参詣道(熊野古道)紀伊路の藤白王子跡として、熊野一の鳥居 (熊野の入り口)と称されいます。本殿には神様、藤白王子権現堂には本地仏として仏様が祀られ、神仏霊場、和歌山清浄の道の第7番となっています。
尚、平成27年10月7日に熊野参詣道紀伊路の追加指定地域として藤白王子跡(藤白神社境内、鈴木屋敷跡)が国史跡に指定されています。
藤白王子跡公式webサイト https://fujishiro-jinja.net/
参考:『藤白王子跡』海南市 https://www.city.kainan.lg.jp/kanko/midokoro/bunkazai/fujishirooji.html
参考:『藤白王子(藤白神社)』海南観光ナビ https://www.kainankanko.com/highlight/kodo/%E8%97%A4%E7%99%BD%E7%8E%8B%E5%AD%90%E8%97%A4%E7%99%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE.html
参考:『藤白神社』和歌山県神社庁 https://wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=2001
参考:『藤白神社』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%99%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE
参考動画:『【若一調査隊】全国で2番目に多い「鈴木さん」そのルーツは和歌山県海南市だった!?鈴木姓の原点を大調査!全国に広がったワケとは!?』読売テレビニュースch. https://youtu.be/Stgxcw6zP8o?si=pGs_hcJJjJPaBdZw
日本には約30万種の名字があると言われているが、その中でも日本で2番目に多い姓が鈴木氏(約176万人。2024年10月。名字由来net)である。その鈴木氏は和歌山県海南市であり、鈴木と言う名字が全国に広まるきっかけとなったのが、海南市の藤白神社である。藤白神社には鈴木氏専用のお守りも売られている。
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の那智山にある滝。那智川上流に位置する。那智四十八滝の主瀑(一の滝)で、飛瀧(ひろう)神社のご神体。落差133メートル、幅13メートル。古くから信仰の対象とされてきた熊野修験道の中心地で、1000年以上昔から滝行が行われてきた。1972年、「那智大滝」の名称で国の名勝に指定。1990年、日本の滝100選に選定された。2004年、「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として、ユネスコ世界遺産に登録。
出典 小学館デジタル大辞泉プラス
1854(安政元年)年12月23日M8.4の地震が発生した。
翌日にも前日と同じ大地震が発生した。(安政東海・南海地震=震源地は静岡県沖合・和歌山県沖合)←南海トラフ
最大15m級の大津波で全国で数千人の犠牲者が出た。
広村では醤油商の浜口梧陵が高台への避難を呼びかけ、夜道で目的地を見失う人々のために藁の山に火を放って目印とするなどして村人ほぼ全員1287人を助けた。梧陵は地震後、全長600m高さ海抜5mの防潮堤と千本の津波除けの黒松林を私財をなげうって作った。
昭和南海地震(1946(昭和21)年)ではこの破格の大きさの防潮堤内では犠牲者がいなかったという。
それを記念とし、梧陵のエピソードが様々な教訓を含んでいるとして安政南海地震が発生した11月5日を「世界津波の日」とすることを国連総会で満場一致で採択された。(2015年)
参考:『昭和南海地震』wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%8D%97%E6%B5%B7%E5%9C%B0%E9%9C%87
参考:『安政南海地震』wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%94%BF%E5%8D%97%E6%B5%B7%E5%9C%B0%E9%9C%87
参考:NHK+『明日をまもるナビ 選(111)歴史が伝える 災害と闘った日本人』
https://plus.nhk.jp/watch/st/g1_2024033102703?t=1842
(2024年4月7日まで視聴可能)
公式サイト→ https://www.kintetsu.co.jp/
参考:『近畿日本鉄道』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E7%95%BF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%89%84%E9%81%93
近畿日本鉄道株式会社(きんきにっぽんてつどう、英: Kintetsu Railway Co., Ltd.)は、大阪府・京都府・奈良県・三重県・愛知県の2府3県で鉄道事業を行っている会社である。一般的には略して近鉄(きんてつ、Kintetsu)と呼ばれている(「社名」の節も参照)。日本の大手私鉄の一つで、JRグループを除く日本の鉄道事業者(民営鉄道)の中では最長の501.1 kmの路線網を持つ。近鉄グループホールディングスの子会社である。
近畿日本鉄道の母体ともいえる大阪電気軌道(大軌)は、1910年(明治43年)9月16日に大阪と奈良を結ぶ路線を敷設すべく奈良軌道として設立され、同年10月に大阪電気軌道へ改称した。大軌以前の大阪 - 奈良間の鉄道路線は関西本線(大和路線)や片町線(学研都市線)とも間にある生駒山地を迂回するルートを通っていたため、岩下清周(大軌2代目社長)の発案で両都市を直線的に結ぶために生駒山を貫通するトンネルを建設することを計画する。そして大阪電気軌道や工事を請け負った大林組が倒産しかけるほどの難工事の末に生駒トンネルを完成させ、1914年(大正3年)に最初の路線である上本町駅(現在の大阪上本町駅) - 奈良駅(現在の近鉄奈良駅)間を開業した(現在の奈良線)。
その後、1927年(昭和2年)には天理・橿原神宮方面への路線網を確立した。同年に伊勢を目指すため参宮急行電鉄(参急)を設立し、1931年(昭和6年)に宇治山田まで開通、大阪から伊勢神宮への日帰り参拝を可能とした(現在の大阪線・山田線)。さらに、伊勢電気鉄道(伊勢電)の合併、関西急行電鉄(関急電)の設立により、1938年(昭和13年)には名古屋へのルートを確立した(現在の名古屋線)。
戦時中の陸上交通事業調整法により周辺の鉄道会社と次々に合併し、さらに、大阪電気軌道は参宮急行電鉄や関西急行電鉄などと統合して、1940年(昭和15年)に関西急行鉄道(関急)へ再編され、1府4県に総延長437kmの路線を有する一大私鉄となった。1943年(昭和18年)には現在の近鉄南大阪線などを経営していて、既に関急の資本下に置かれていた大阪鉄道(大鉄)を合併し、この時点で現在の近畿日本鉄道の原型となる路線網が確立された。
↑ 中京圏には近鉄名古屋線も乗り入れているが、近鉄は近畿圏を本拠とする大手私鉄(いわゆる関西私鉄)。
公式→【公式】伊勢鉄道(いせてつ) https://isetetu.co.jp/about/
伊勢鉄道は、名古屋〜紀伊勝浦を結ぶJR関西本線と紀勢本線に挟まれた
河原田駅から津駅までの22.3kmを結んでいます。
JR特急「南紀」や快速「みえ」の長距離列車が乗り入れ、
名古屋と津・松阪・鳥羽・南紀方面を結ぶ役割を担っています。
三重県のローカル鉄道として50年愛され、次の50年へとつないでいきます
↑名古屋と伊勢神宮をつなぐ鉄道に見える。
参考:『伊勢鉄道』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E9%89%84%E9%81%93
伊勢鉄道株式会社(いせてつどう)は、旧日本国有鉄道(国鉄)特定地方交通線の鉄道路線であった伊勢線を運営している、三重県及び関係市町、民間企業が出資する第三セクター方式の鉄道会社である。本社は三重県鈴鹿市。
保有路線の伊勢線は22.3kmと比較的短いが、両端を東海旅客鉄道(JR東海)の関西本線と紀勢本線に挟まれ、本来の建設目的である関西本線の河原田駅と紀勢本線の津駅の間を結ぶ短絡線として、特急「南紀」や快速「みえ」といった中・長距離の速達列車が直通運転を行い、名古屋と津・松阪・鳥羽・南紀方面等を結ぶ路線の一部分を担っている。
乗車券類
TOICA、ICOCA、PiTaPa、manacaなどのICカード乗車券は使用不可。運賃は現金で支払う。連絡運輸範囲のJRグループの駅で乗車券を購入する場合であれば、クレジットカードで購入可能である。
乗車券が発売されていない駅から乗車の場合は、乗車時に整理券を取って乗車し、降車時に現金で運賃箱へ投入するか、降車駅で精算する。
公式サイト→ 名古屋鉄道|名鉄×WAO! https://top.meitetsu.co.jp/
参考:『名古屋鉄道』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E9%89%84%E9%81%93
名古屋鉄道株式会社(なごやてつどう、英: Nagoya Railroad Co.,Ltd.)は、東海地方の愛知県・岐阜県を基盤とする鉄道会社である。通称は名鉄(めいてつ、Meitetsu)。日本の大手私鉄の一つで、民営鉄道としては日本で3番目の歴史を持つ老舗企業である。
本社は愛知県名古屋市中村区名駅1丁目2番4号名鉄名古屋駅上に設けた名鉄バスターミナルビル(名鉄百貨店本店メンズ館ビル)内に置いている。中京圏(名古屋都市圏)では最大の444.2kmの路線規模を擁する。
概要
本業の鉄道業では、愛知・岐阜両県に総営業距離では近畿日本鉄道(近鉄)・東武鉄道(東武)に次いで日本の私鉄第3位(JRを除く)の444.2kmにおよぶ路線網、276駅を擁する、中京圏を本拠とする唯一の大手私鉄である。年間利用人員はおよそ2億9623万5000人(2020年度)、旅客車両数は1,076両(2021年3月31日時点)である。
名古屋鉄道は東海銀行(現・三菱UFJ銀行)・中部電力・東邦瓦斯(東邦ガス)・松坂屋(現・大丸松坂屋百貨店)と共に名古屋経済界の中核名門企業、旧「名古屋五摂家」の1社に数えられる。東海地方を中心に数多くの不動産を所有する企業であり、これらの「開発事業」も経営の重要な柱となっている。レジャー・流通産業など関連事業を中心に多角的な企業展開を行っており、連結決算の対象・非対象あわせて200社以上のグループ企業を擁する名鉄グループの中核的企業である。
2005年(平成17年)に開港した中部国際空港(セントレア)に空港線を通じて空港連絡鉄道として乗り入れる唯一の鉄道会社である。
2024年(令和6年)現在、大手私鉄で唯一、女性専用車両を導入していない。
現在の名古屋鉄道は、太平洋戦争の終結以前に中京圏の多くの鉄道会社が合併して成立したものであるが、その起源は1894年(明治27年)6月に名古屋市内で馬車鉄道を運行する名目で設立された企業の愛知馬車鉄道である。
2005年(平成17年)に開催された『愛・地球博』(愛知万博)を契機として東海地方の交通再編が行われることとなり、その目玉として中部国際空港の開港が決定され、それにともない名鉄も空港輸送を中心とした体制へと再編することになった。空港線の建設は名鉄が直接的な形では行わず、空港の関連事業の一環として「中部国際空港連絡鉄道株式会社」を設立して、同社が建設を行った。名鉄は空港線を第2種鉄道事業者(路線を借り受け運行のみを担当)として営業し、フィーダーとなる常滑線に関しては徹底的に路盤強化・カーブの付け替えなどを行い、空港連絡特急用車を用意するなどの設備投資を積極的に行った。
2013年現在、ANAホールディングス(全日空、旧全日本空輸)の筆頭株主であり、単体で発行済株式の2.07%をもち、前述したようにかつては全日本空輸総代理店業務を行っていた。
公式サイト→ 『阪急電鉄 | 鉄道・沿線おでかけ・ファン向け情報など』https://www.hankyu.co.jp/
参考:『阪急電鉄』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E6%80%A5%E9%9B%BB%E9%89%84
阪急電鉄株式会社(はんきゅうでんてつ、英: Hankyu Corporation[1])は、大阪の梅田を中心に、大阪と神戸・宝塚・京都などを結ぶ鉄道を経営する会社。阪急阪神ホールディングスの子会社で、阪急阪神東宝グループ(旧・阪急東宝グループ)の中核事業会社である。略称は阪急。他の関西の大手私鉄同様に阪急電車とも呼ばれる。日本の大手私鉄の一つである。
本社は大阪府大阪市北区芝田、登記上の本店所在地は大阪府池田市栄町1番1号(阪急宝塚本線池田駅の所在地)である。平均利用者数約177万人/日、営業キロは143.6 km(第二種鉄道事業区間含む)に及ぶ。また、兵庫県宝塚市を拠点に女性のみの団員で構成される劇団「宝塚歌劇団」を運営していることでも知られる。
阪急電鉄が運営している鉄道事業は、1907年(明治40年)に設立された箕面有馬電気軌道が、1910年(明治43年)3月10日に現在の宝塚本線・箕面線にあたる梅田駅(現在の大阪梅田駅) - 宝塚駅間、石橋駅(現在の石橋阪大前駅) - 箕面公園駅(現在の箕面駅)間を開業したのが始まりである。
北浜銀行の岩下清周や三井銀行出身の小林一三などが中心となって設立された。当時の箕面有馬電気軌道は阪神電気鉄道(大阪-神戸)など既に発展している都市間を結ぶ路線と異なり、郊外の田園地帯を走る路線であったため、乗客数は少なく経営基盤は貧弱であった。実質的な創業者である小林一三は鉄道需要を創出して経営を安定させるため沿線開発に力を入れた。当時、人口増加が著しかった大阪市は過密化や工場の公害によって住環境が悪化していた。そこで郊外の自然豊かな自社沿線に住宅地を新たに作り、その居住者を電車で都心へと運ぶアイディアを考案した。路線建設時にもともと地価の安かった沿線の土地を買い上げ、三井銀行出身だった小林一三は日本初の住宅ローンを活用した戸建て住宅地の分譲販売を行った[6]。また終点の宝塚周辺では大阪方面からの客を呼び込むために宝塚新温泉(後の宝塚ファミリーランド)、宝塚唱歌隊(後の少女歌劇団、現在の宝塚歌劇団)などのレジャー事業を行った。このように鉄道などの都市交通事業を中心に、不動産、小売、レジャーなどを多角的に展開した。小林一三は現在では当たり前にもなった鉄道会社が沿線開発を行って、自ら鉄道需要の創出を行うという私鉄ビジネスモデルの基礎を作り上げたという点で特筆される。
続いて阪神間の輸送に参入。1918年(大正7年)、社名を阪神急行電鉄に改称。後に正式社名にも採用され現在まで続く略称の「阪急」はこれに由来する。阪神間に参入したことで、以後既に阪神間を結ぶ阪神本線で都市間連絡電車を営業していた阪神電気鉄道とは競合関係となる一方で駅間隔などで棲み分けがなされ、協調関係ともなった。1920年(大正9年)に神戸本線十三駅 - 神戸駅(後の上筒井駅)間を開業し、1936年(昭和11年)には神戸・三宮に新たに設けた神戸駅(後の三宮駅、現在の神戸三宮駅)へ高架線で乗り入れた。