2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表(予定)
沖縄県は、項目が多くなる見込みなので琉球・沖縄県の別項を設けました。
画像出処:国土交通省 九州地方整備局
九州地方全体の概略は、日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク)に詳しいので確認の事。
福岡
小倉
日本新三大夜景とは、夜景観光コンベンションビューローが主催する『世界夜景サミットin札幌(平成30年10月5日)』で上記夜景観光コンベンションビューローの会員「夜景観光士」6000人が選んだ夜景の名所。
北九州市皿倉山は、札幌市、長崎市とともに認定された。
皿倉山に登るには、ケーブルカーとスロープカーが運航しており、HPがあるが、安全が保障されていないと表示されるので、ここではリンクを載せないでおく。
参考:『皿倉山』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%BF%E5%80%89%E5%B1%B1
参考:『日本新三大夜景、長崎・札幌抑え「工業都市」が初の1位』読売新聞オンライン
https://www.yomiuri.co.jp/national/20220407-OYT1T50267
参考:『世界新三大夜景・日本新三大夜景に選ばれました』(2021年12月記事)(長崎市HP) https://www.city.nagasaki.lg.jp/kanko/850000/p027652.html#:~:text=%E5%B9%B3%E6%88%9030%E5%B9%B410%E6%9C%88,%E3%81%AB%E8%AA%8D%E5%AE%9A%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
福岡県北九州市八幡東区にある私営の藤園である。
敷地面積3000坪の広さがあり、春の藤と秋の紅葉の時期のみ入園できる。藤棚は長さ80mと110mの藤のトンネル、藤のドーム、藤棚、大藤棚があり花下面積は1850坪になる。 周りには約700本の紅葉の木がありその中には樹齢70-80年の木が18本ある。
1977年(昭和52年)4月に樋口正男が初回開園する。
春は4月下旬から5月中旬の藤の開花時期に開園する。その年の藤の開花状況次第で開園期間は変動する。
多くの観光客が来ると藤を痛めるという理由でCM等の宣伝は一切しておらず、テレビや雑誌の取材も受け付けていない。この為情報は口コミしかなかったが、2012年に海外のインターネットサイトに「実在する世界の美しい場所10」「世界の絶景10」として掲載、TwitterやFacebookで高評され情報が広がった。
『河内藤園』Wikipediaより抜粋
太宰府など
福岡県太宰府市宰府に所在する。祭神は菅原道真公で、学問の神様として広く知られる。北野天満宮と共に全国天満宮の総本社かつ菅公(菅原道真)の霊廟として篤く信仰されている。
宇多天皇に重用されて右大臣にまで上った菅原道真であったが、左大臣藤原時平らの陰謀で昌泰4年(901年)に筑前国の太宰府に員外帥として左遷された。現太宰府天満宮の宮司によれば(下のインタビュー動画参照)、太宰府と言うのは外交上大変重要な役所であるが、道真の場合は名前だけで実際はほぼ軟禁状態にあり、食事もとれない日々であったという。失意のうちに翌翌年延喜3年(903年)に同地で死去した。
一方、都では疫病や異常気象、藤原時平が39歳で亡くなるなど不吉なことが続き、道真の祟りとして御霊を鎮めるために太宰府の道長の墓所の上に社殿を造営し、安楽寺天満宮となった。全国でも墓所の真上に神社があるのは珍しいそう。
しかし、その後も次々に皇太子が亡くなるなど「道長の祟り」は収まらず、朝廷は亡くなった道真を生前の右大臣に復職させたり、位階を追贈したりした。その後、清涼殿落雷事件の衝撃で天皇(直前に譲位していたが)・法皇もなくなり、本来は天皇・皇族をまつる神社の社号である「天満宮」も併用されるに至った。寛和2年(986年)、道真の曾孫菅原輔正によって鬼すべ神事が始められるようになった。
寛弘元年(1004年)、一条天皇が初めて北野天満宮へ行幸されて、太宰府へも勅使をつかわせて以来、士庶の崇敬を広く集め、とくに承徳元年(1097年)、大江匡房が太宰権帥に任ぜられてからは神幸祭など、祭祀が厳かになったという。明治以降、『宮』号が皇族を祭神とする神社のみに使われるようになり、太宰府神社と称するようになったが、戦後昭和22年(1947年)に太宰府天満宮に戻った。
参道を登りつめた先には延寿王院があり、ここは幕末維新の策源地といわれ、三条実美たち公卿5人が3年半余り滞在した所である。土佐脱藩の土方久元や中岡慎太郎も滞在しており、薩摩の西郷隆盛や長州の伊藤博文、肥前の江藤新平、坂本龍馬なども来訪している。
太宰府天満宮・北野天満宮・防府天満宮を合わせて「三天神」と呼ぶ。三天神には諸説あり、太宰府と北野天満宮までは共通するものの、あとの一つを大阪天満宮等とする説も存在する。
2023年5月より、124年ぶりとなる本殿の改修が行われており、終了までの約3年間、菅公の御神霊は仮殿に移されている。仮殿の設計は建築家の藤本壮介が手掛け、黒を基調とし、屋根の上にも梅などの森が広がる現代的かつ斬新なデザインとなっている。
なお、境内には伝説の飛梅にちなんで、200種類6000本の梅の木があり、1月中旬から3月上旬まで境内を彩っている。『ご神木の飛梅(とびうめ)』は、道真が左遷された際に、慣れ親しんだ庭の梅の木に「東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」と歌を詠んで別れを告げたが、その後一夜のうちに京都から道真を慕って梅の木が飛んできたという伝説を持つ。梅の実を切った断面を見ると、まるで道真公が座っているような姿に見えるところから天神様が梅の実の中に宿るとされて梅干しを大切にしてきた。天満宮の一角には梅の種を納める納めどころも江戸時代から設けられているほどである。
樹齢1500年を超えるクスノキなど自然も豊かで1100年以上にわたって多くの人々が訪れて祈りをささげられた場所であるために現在でもパワースポットとして知られている。
参考:『【太宰府天満宮の知られざる歴史と不思議①】太宰府天満宮 宮司 西高辻󠄀 信宏氏』([公式]チャンネル九州塾) Youtube
参考:『【太宰府天満宮の知られざる歴史と不思議(2)】太宰府天満宮宮司西高辻信宏氏 』([公式]チャンネル九州塾) Youtube
参考:『【太宰府天満宮の知られざる歴史と不思議(3)】太宰府天満宮宮司西高辻信宏氏 』([公式]チャンネル九州塾) Youtube
太宰府天満宮は全国1万社以上ある天神社の総本社。祭神が菅原道真と言う実在した人物のため、また、御墓所と言う事で、道真公がまだ生きているという形で、寝殿造であったり、外から水を引いて池が門内に作られたり、更衣祭(天神様の衣替えの行事)のお祭りがある。
また、黒田官兵衛が福岡城が完成するまでの間、道真公を慕って天満宮の中に住んだことがある。その際、夢で『夢想之連歌』「発句」という詞を道真公にいただいたと伝わる。「発句」は、歴史上初めて『福岡』と言う名前が登場する、歴史的資料でもある。黒田官兵衛が寄付したという灯篭も残る。
太宰府 撮影:ちよろぎ
2019年10月ちよろぎ撮影
太宰府天満宮仮殿(2028年まで)
写真出処:wikipedia
水だらけのプール - 投稿者自身による著作物, CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=141959699による
200種類6000本の梅 1月中旬から3月の上旬まで境内を彩る。
飛梅 極早咲「色玉垣」
飛梅御守 一生一代
梅花祭 二月二十五日(道真公御命日) 飛梅の舞
梅花紋 全国の天満宮では梅鉢紋(太鼓のばちと梅を重ね合わせる)だが、太宰府のみ梅花紋。
梅上げ 初老(数え40)の男性と還暦の男女が厄除けに献梅する。梅守(うめもり) 梅ちぎり 天神様の梅
梅の種の納所
参考:『天神様と梅』全国天満宮総本宮太宰府天満宮
太宰府天満宮の項でも触れたが、藤原時平との政争にやぶれた菅原道真公は、西の鎮西太宰府に左遷された。左遷されたことは教科書にも記載されているが、任ぜられたのは、太宰府外帥(がいのそち)であり、員外の職であったので、実際は役所の仕事どころか、役所に立ち入ることもできず、俸禄もなく、雨漏りのする自宅で軟禁状態かつ衣食にも不自由していた。
ある老婆が、その状態を見かねて餅を梅の枝にさして格子越しに差し出したところ道真公がたいそう喜ばれた。梅が餅はそれを再現したものとされ、太宰府参道には梅が枝餅の手焼き(一部機械焼きもある)の店頭製造販売の店が30軒ほど並び、辺りに良いにおいが漂い、太宰府参詣の『名物』となっている。
道真公と言えば、「東風吹かば匂いおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」の歌が大変有名だが、その差し入れられた梅の枝につく花を見て都の贅沢な自宅に咲く梅の花を思い起こされたと勝手に想像すれば、たいそうロマンチックかつ涙をさそうシーンである。
太宰府に店舗を構えている店全てが「梅ヶ枝餅協同組合」に加入し、登録商標取得、価格統一をおこなっている。また餡は粒あんで、甘さは微妙に異なる。その場で焼いているのですぐ食べると、外はパリパリ、中はしっとりで二度楽しめる。また、お土産にも最適で冷凍品は空港などでも販売されている。
持ち帰った梅が枝餅はビニールに包まれているので柔らかいのでフライパンなどで表面をあぶるとパリッとする。冷凍品は表示の通りに電子レンジで温めてからやはりフライパンやオーブントースターで外側を仮っとさせると美味しい。
参考:『やす武』HP https://umegaemochi.com/umegaemochi/
参考:『知ってる?梅ヶ枝餅の豆知識』(太宰府観光協会・太宰府だより)
『まんがで紹介 梅ヶ枝餅の由来』(太宰府観光協会(太宰府観光情報ポータルサイト))
梅が枝餅とおばあさん 太宰府まほろば絵巻
令和の都だざいふ 公式Ch.
[上の動画でのメモ]太宰府駅も駐車場もあえて太宰府天満宮から遠くに作った。街づくり。町も潤う。車の普及をボストン留学で見通していた。
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「さいふまいり」とは、学問・文化の神として人々の信仰を集める太宰府天満宮に参詣し、それとともに、太宰府周辺の名所旧跡をめぐること。
江戸時代、庶民は自由に移動することは出来なかったが、社寺の参詣は許されたので、町人たちの経済活動の発展によって、参詣を兼ねた物見遊山(観光ツアー)が盛んになった。それに伴い、菅原道真公の墓参の旅として、はるか西方の太宰府天満宮を訪れ、道真公ゆかりの地を巡るようになった。
「社家」とよばれる代々天満宮に奉仕した家が、全国各地で参拝の誘致を行い、参拝に訪れる人々の宿泊先の提供を行っていた。
また町内の代表としてさいふまいりに来るものも多く、梅が枝餅は良い土産となり、また、上記の社家が全国を回る際の良い手土産になった。
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九州国立博物館は、九州人百年の夢と呼ばれる悲願であった。明治6年に始まったその夢は、太宰府天満宮の宝物や県内外の新古物品を収蔵展示して東京や京都に負けることなく、人々の知識を磨く先達となりたいという画期的な取り組みだった。その中心になった西高辻信厳氏は、菅原氏の嫡流、直系の子孫であった。社僧から廃仏毀釈によって神職となった西高辻氏は、天満宮の存続と太宰府の町の発展に心を砕いた。
また、世界遺産「宗像沖ノ島」に考古学観点から注目したのも西高辻氏であった。
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1902年(明治35年)5月15日に設立された太宰府馬車鉄道により建設された路線である。そのため、西鉄では最も歴史のある路線ともいえる。当初は初代九州鉄道(国有化により鹿児島本線となる)二日市駅と太宰府の間を結ぶ軌間914mmの馬車鉄道として建設された。その後、馬力から蒸気動力への動力変更を経て2代目九州鉄道(現在の西鉄天神大牟田線の前身)の傘下に入り、1927年(昭和2年)には太宰府 - 二日市(現在の西鉄二日市駅)間が1435mm軌間に改軌と同時に電化され九州鉄道の支線的存在となった。
参考:『「さいふまいり」について』(だざいふなび)
参考:『博物館運動の先がけ』(太宰府人物志)(太宰府市HP) https://www.city.dazaifu.lg.jp/uploaded/attachment/4235.pdf
参考:『西鉄太宰府線』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%89%84%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E5%BA%9C%E7%B7%9A
参考:『近代における地方鉄道と地域構造 : 福岡県太宰府地域を事例として』(Author(s) 堤, 研二)
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/56475/mrj_034_046A.pdf
明治以来5代の太宰府天満宮宮司の西高辻家など地元民が中心に140年かけて誘致。
明治5年から九州に国立博物館設立の必要を訴えるために、3年にわたって3度の太宰府博覧会を開いた。
また、明治26年(1893年)には太宰府天満宮の敷地を提供しての鎮西博物館の設立を太宰府天満宮宮司らが中心になり、計画した。しかし、内務省の許可は得たものの日清戦争の勃発により、計画は凍結された。
戦後、昭和43年に政財界一体の「国立九州博物館設置期成会」が発足し、再び九州に博物館を設置しようという気運が高まった。
昭和46年(1971年)に太宰府天満宮が敷地を寄贈するなどして現在の位置に敷地を確保した。
2002年着工、2004年完成。2005年10月16日開館。
太宰府は古来より海外との交流の舞台として重要な役割を果たしており、古くは「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれていたことも踏まえ、「日本文化の形成をアジア史的観点から捉える」をコンセプトにしており、平常(常設)展では特に「海の道、アジアの路」、アジアとの交流の歴史に重きを置いている。1階にはアジア文化の体験施設「あじっぱ」も設置されている。
また、2階と中2階の東側には博物館科学の関連諸室があり、博物館環境・保存処理・保存科学の基礎分析などを行う文化財保存科学部門の実験室を設けているのが特徴。また、地元の太宰府や筑紫独特の水城などについても研究している。
建築面積2万8,000平方メートル。東京国立博物館平成館の1.5倍の巨大建築物。設計は菊竹清訓建築設計事務所。地上5階、地下2階。
参考:『九州国立博物館のあゆみ』(九州国立博物館) https://www.kyuhaku.jp/museum/museum_info02.html
参考:『九博だより』(九州国立博物館)
https://www.kyuhaku.jp/museum/museum_info02-3.html
参考:『13.太宰府博覧會目録(外) だざいふはくらんかいもくろく』(福岡大学図書館)
枡型本一巻一冊 明治六年(1873)四月刊 荒巻武七(あらまき・ぶしち)、
小野田次三郎(おのだ・じさぶろう)、安藤圭次郎(あんどう・けいじろう)板
https://www.lib.fukuoka-u.ac.jp/e-library/tenji/kyusyu/kyo/13-1.htm
参考:『九州国立博物館』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8
宝物殿がメイン会場だが、境内全体に作品を置き、境内全体を美術館に見立ててアートシーンになるように仕掛けている。同時に参道のお店もその趣意に賛同して改装をする際にはデザイン的、アート的なものに心配りをしているという。
参考:【太宰府天満宮の知られざる歴史と不思議②】太宰府天満宮 宮司 西高辻󠄀 信宏氏(チャンネル九州塾公式YouTubeチャンネル)
宝満山のふもとに位置する縁結び・厄除けの神様玉依姫命が祭られている。創建1350年。100年後にもスタンダードで古びない姿を目指して、日本を代表するインテリアデザイナーの片山正通さんがデザインした。
山の中腹で寒いため、参拝客のため、授与所が屋内型、かつガラス張りになっている。
大宰府政庁の北東にあるが、西に向いており、大宰府が一望できる。
参考:『玄昉の墓』(太宰府観光協会)
参考:玄昉wikipedia
養老元年(717年)遣唐使に学問僧として随行し入唐。先に新羅船で入唐していた智達・智通らと同じく、智周に法相を学ぶ、在唐は18年に及び、その間当時の皇帝であった玄宗に才能を認められ、三品に準じて紫の袈裟の下賜を受けた。約20年後の天平7年(735年)、次回の遣唐使の帰国に随い、経論5000巻の一切経と諸々の仏像を携えて帰国した。
聖武天皇の母藤原宮子の病気を雑密の孔雀王咒経の呪法祈祷により回復させ、栄達を得、聖武天皇の信頼も篤く、吉備真備とともに橘諸兄政権の担い手として出世したが、人格に対して人々の批判も強く、天平12年(740年)には藤原広嗣が吉備真備と玄昉を排除しようと九州で兵を起こした(藤原広嗣の乱)。この乱は失敗に終わった。
しかし、藤原仲麻呂が勢力を持つようになると橘諸兄は権勢を失い、玄昉も天平17年(745年)筑紫観世音寺別当に左遷。封物も没収され、翌年、観世音寺造立供養の日に謎の死を遂げた。政敵藤原広嗣の霊に殺されたと伝えられている。
[玄昉の墓]
所在地 太宰府市観世音寺5-9-33
アクセス 西鉄太宰府駅下車 徒歩約20分
コミュニティバスまほろば号 観世音寺前下車
2020年日本地理。
福岡県南西部,筑紫平野の南部,筑後川の河口近くに位置する市。 1954年大川町と三又 (みつまた) ,川口,大野島,田口,木室 (きむろ) の5村が合体して市制。中心市街地大川は宝暦1 (1751) 年に久留米藩主有馬氏が開港して以来,筑後川水運と,有明海航路を結ぶ物資の集散地,水運の要地として発展。戦国時代に起源をもつ木工業が次第に発達し,現在では全国有数の家具・建具工業地として知られる。かつては上流域の日田 (大分県) 材を多く使用していたが,60年頃からはフィリピンのラワン材,アラスカの檜材などを利用。農村部は筑後川三角州特有のクリーク地帯で,米作のほか,イグサ,イチゴなどの栽培,ノリ養殖,採貝,げんしき網など有明海の沿岸漁業や筑後川特産のエツ漁も行われる。 64年不知火 (しらぬい) ・有明・大牟田新産業都市の一部に指定され,家具工業の近代化を推進。風浪宮 (ふうろうぐう) があり,本殿・石造五重塔などが重要文化財に指定されている。国道 208号線,442号線が通る。面積 33.62km2。人口 3万2988(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
福岡県中部の筑豊地方に地盤を置く地方財閥、麻生・貝島・安川を指す。それぞれ麻生太吉、貝島太助、安川敬一郎が創始者。
参考:『麻生の足跡~地域と共に 筑豊石炭鉱業組合』(麻生グループ) https://www.aso-group.jp/history/achievement_18.html#:~:text=%E7%AD%91%E8%B1%8A%E5%BE%A1%E4%B8%89%E5%AE%B6%E3%81%A8%E5%91%BC%E3%81%B0,%E3%81%AB%E8%A1%8C%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
参考:『筑豊御三家』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E8%B1%8A%E5%BE%A1%E4%B8%89%E5%AE%B6
別府
(大分県別府市)
「重要文化的景観」指定の地域遺産。
別府市では高温の沸騰泉はそのまま利用することができず、気液分離装置によって温泉水と温泉蒸気とに分けられる。温泉水は配管から集落へ、温泉蒸気は「湯けむり」として空中放出される。湯けむりの下で営まれる温泉資源の多面的な利用の在り方を示す文化的景観
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」
2020年日本地理出題。地獄めぐりの温泉。
「別府八湯とは市内8つの代表的温泉地の総称です。
これらはもともと独立した温泉場として栄え、古いものは8世紀初めに遡る歴史を持つ温泉もあります。
明治時代以降、交通の便が確保され温泉場の開発も進み、大正時代には現在の8つの温泉地に「由布院」、「塚原」を加えた「別府十湯」と呼ばれていました。
その後の町村合併等で大正13年に市制施行されるまでに現在の「別府八湯」の名称が定着したようです。
8つの温泉地は市内全域に点在しているので、同じ市内でも泉質が異なり風景も温泉地ごとに趣があります。
温泉の入浴形態も様々なので一度にいろいろな温泉を満喫することができます。」
◎浜脇温泉
別府温泉発祥の地。浜から温泉→浜わき。朝見八幡の門前町・港町・温泉町。花街の名残。
◎別府温泉
伊予風土記『速水の湯』。温泉としては江戸期から。別府湾の築港・日豊本線・別大電車の開通などで施設が増加。竹瓦温泉。
◎亀川温泉
豊国紀行(江戸時代)「里屋に温泉有り、塩湯なり里屋村を又亀川村という」と記される。天然砂湯。豊前国らへの交通の要衝。旅人の湯治場だった。
◎鉄輪(かんなわ)温泉
別府を象徴する景色のおびただしい湯けむり。鎌倉時代「玖倍理湯の井」といわれた荒地獄を一遍上人が開発。別府の代表的温泉地。
◎観海寺温泉
温泉場としては鎌倉時代に発見され、江戸時代の豊後国志に「観海寺に行くには交通は極めて不便だが、景勝は壮観なので浴客が盛んに訪れている」とあり、海抜150m別府八湯のうちでも一番見晴らしが良い。昭和6年の大火後、復興し観光温泉場として急速に発展。現在では別府を代表する大型リゾートホテルが連立し、レジャーの殿堂となっている。又、地熱の利用も盛んで、照明、暖房等に活用しているホテルもある。
◎堀田(ほりた)温泉
湯治場として江戸時代に開かれ、その頃立石の湯から堀田温泉と呼ばれるようになった。豊富な温泉に恵まれていた堀田温泉は、湯布院・日田あるいは太宰府等へ通じる交通の要衝であったため、長旅の疲れを癒す旅人たちの憩いの場として栄えた。
◎柴石(しばせき)温泉
895年に醍醐天皇が、1044年には後冷泉天皇が病気治療のためご湯治されたと伝えられている。江戸時代に柴の化石が見つかり、「柴石」と呼ばれるようになった。森林遊歩道。
◎明礬温泉
わらぶきの「湯の花小屋」からは白い噴煙が立ちのぼり訪れる人を楽しませてくれる。江戸時代は「明ばん」の採取地で質量とも全国一になり、採取事業の隆盛とともに湯治場として発展した。
今は名産の「湯の花」とともにザボン湯も有名で湯の香りと甘酸っぱい香りが鼻孔をくすぐり、肌もつるつるになると大好評。
「別府八湯ガイド」別府市HPより抜粋。
別府は盆地で文字通り海に向かって東から西に向かって扇型に広がっている。扇のかなめが鶴見岳・由布岳などの火山であり、伽藍岳のふもと塚原温泉一帯では今も噴煙が上がっている。そして扇の両脇を地形の裂け目が通っており、それが地上に出たのが別府八湯である。
北側:(海に向かって)明礬・鉄輪・柴石(しばせき)・亀川
南側に(海側に向かって)堀田・観海寺・別府・浜脇
どれも良いお湯です。
参考:『別府八湯温泉道』 https://onsendo.beppu-navi.jp/
大分県別府市の別府温泉に多数存在する様々な奇観を呈する自然湧出の源泉「地獄」を、定期観光バスなどで周遊する定番の観光コースである。また、これらの地獄の総称としても使われる。海地獄、血の池地獄、白池地獄、龍巻地獄は、2009年(平成21年)7月23日に、別府の地獄として国の名勝に指定されている。
別府温泉には、含有物によって青、赤、白などの様々な泉色を呈する温泉や、間欠泉などの特色のある源泉が点在する。また、温泉の熱を利用して飼育・育成した動植物を展示する施設を併設したものもある。このような、入浴ではなく、観覧を主な目的とした温泉は地獄と呼ばれ、別府観光の目玉のひとつとなっている。
地獄という呼び方がいつ頃始まったのかは定かではないが、1694年(元禄7年)に貝原益軒が著した『豊国紀行』では随所で「地獄」という呼称が使われている。
かつてはやっかいもの扱いされて誰も手をつけないでいた地獄だが、温泉付き別荘地の開発をきっかけに温泉給湯の源泉として整備され人が安全に近づけるようになると、湯治客が地獄を覗き見するようになったという。それが観光施設として商業化されるようになったのは、1910年(明治43年)に、海地獄が施設を整えて入場料を徴収するようになったのがはじまりである。
大正時代に入ると自動車が遊覧に用いられるようになり、昭和初期にかけて小噴気孔を掘削して大噴出を誘導することが盛んに行われて、鉄輪地獄(1922年)、龍巻地獄(1923年)、無間地獄(1924年)、鶴見地獄(1925年)、八幡地獄(1928年)、鬼石地獄(1930年)、白池地獄(1931年)、鬼山地獄、金龍地獄(1932年)、かまど地獄(1926年)、雷園(1927年)と次々に新たな地獄が出現した[3]。ところが鉄輪地獄地帯においては大小の地獄の開発が相次ぎ、それが近接していたことで在来の泉源の湧出量が低下する事態となり、新規の持続開発は差し止められ、1920年代にて頭打ちとなった。
現在の定期観光バスによる地獄めぐりは、別府駅を起点として鉄輪の海地獄から柴石の龍巻地獄まで時計回りに行われている。ところが、昭和30年代までは南立石の鶴見地獄・八幡地獄、明礬の紺屋地獄等も非常に有名であり、今よりも地獄めぐりの範囲が広かった。つまり、現在は海から別府を見たときに右側(北側)の山手(御幸・野田)に地獄が集中しているのに対して、昔は左側(南側)の山手(南立石)や中央の山手(明礬)にも有名な地獄があり、別府の各地に散らばる地獄を遊覧するために、1917年(大正6年)頃に初めてハイヤーを使った遊覧が行われたが、団体客の輸送に十分に対応することはできなかった。
1928年(昭和3年)に別府市で中外産業博覧会が開催されることになり、博覧会を機に別府を訪れる多数の観光客に対応するため、本格的な交通インフラの整備が急務とされた。まず、1921年(大正10年)12月別府温泉の繁華街流川を起点として、流川 - 霊泉寺(鶴見地獄) - 鉄輪 - 柴石 - 亀川駅の間に地獄循環道路が整備される 。続いて 1924年(大正13年)、広島瓦斯電軌が地獄循環道路の流川8丁目〜鉄輪間に軌道敷設特許を出願し、別府遊覧電気軌道が設立される。しかし計画は頓挫し博覧会までの開通には至らなかった。
そこで、亀の井ホテルの創業者・油屋熊八が、1928年(昭和3年)1月に亀の井自動車(現在の亀の井バス)を設立し、地獄めぐり遊覧バスを運行することとなった。当時の遊覧バスは、午前7時半(冬期は8時半)から午後4時までの25分毎に発車し、乗客は途中の地獄で自由に降車し、他のバスに再乗車することができた[3]。今日、全国で見られる女性バスガイドは、この際に熊八が考案したことに始まる。2009年(平成21年)に亡くなった村上アヤメは当時採用された第一号ガイドの一人である。若い女性の採用と、七五調による観光案内を行い、大好評を博したこの遊覧バスの成功が、地獄めぐりの人気を決定的なものとした。
そして、現在も亀の井バスにより運行されている『別府地獄めぐり』は、国内で最も長い歴史を持つ定期観光バスであり、女性バスガイドによる昔ながらの七五調の観光案内も一部交えて、地獄組合加盟の8つの地獄を約2時間半で巡ることができる。
以上、別府地獄めぐりWikipediaより
参考:別府地獄めぐり(定期観光バス) 亀の井バスHP
午前便:北浜バスセンター 9:15 別府駅前4 9:20
午後便:北浜バスセンター13:55 別府駅前4 14:00 (2023年9月現在)
予約→北浜バスセンターまたは別府駅前のワンダーコンパス(旧:観光案内所)で支払いの上乗車。
没年:昭和10.3.27(1935)
生年:文久3.7.16(1863.8.29)
大正昭和期の実業家。九州別府温泉観光開発の先覚者。伊予国(愛媛県)宇和島城下の米問屋油屋正輔の長男。米問屋の経営、町議会議員などを経て,大阪堂島の相場師となるも挫折し,渡米。帰国後は「聖書を読む相場師」となったが、見切りをつけ別府の人となり,亀の井旅館を経営。大正13(1924)年法人組織の亀の井ホテルに発展させ斬新なホテル経営を展開した。いわゆる地獄めぐりに初めて女性バスガイドを乗せた大型バスを導入し定期乗合遊覧バス事業を開始し人気を博す。さらに別府とその周辺地域の総合的な観光開発をはかり広域観光の先駆者となる。大分,熊本,長崎を結ぶ今日の「九州横断道路」の建設をすでに昭和3(1928)年に提唱していたことは注目すべきである。
<参考文献>志多摩一夫『別府観光開発の偉人 油屋熊八伝』薬師寺知隴『油屋熊八翁略歴』(天野雅敏)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
参考資料:『油屋熊八翁の実像を探る』(三重野勝人氏)(別府大学・別府大学短期大学部)(PDF)→ http://bud.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/bs01805.pdf?file_id=168
中外博覧会を見込んで別府周回バスを提案、遊覧バスに少女ガイド(車掌)を乗り込ませる。富士山に別府の宣伝を建てる
「山は富士 海は瀬戸内 湯は別府」
「地獄めぐり遊覧バス発祥の地」の碑
撮影:ちよろぎ
『中外産業博覧会』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%A4%96%E7%94%A3%E6%A5%AD%E5%8D%9A%E8%A6%A7%E4%BC%9A
昭和3年4月1日~5月20日
会場 第一会場 別府公園(旧) 第二会場 浜脇海岸
主宰 別府市
内容 別府市の市制5周年を記念して大々的に行われた。
会場の別府公園は現在の別府公園とは異なり、別府市霊泉寺の裏手にある鶴見地獄やトキハインダストリー鶴見園店を広く含む一帯であった。園内には鶴見地獄の温泉を引いた保養施設や滝までもあり、数々の展示館があり、大規模なものであった。
また、この博覧会の人出を見越した油屋熊八が、高温の温泉を自噴する奇観を巡る『地獄』と博覧会場を巡る地獄めぐりの遊覧バスの運行を始めた。熊八はバスに少女車掌と呼ばれる日本初の女性バスガイドを採用し、観光客を案内させた。残っている音声によると、「山は富士~ 海は瀬戸内~ 湯は別府~」「次はその名も~ 珍しき~ 海地獄~」などと七五調のセリフは、現在で言えば、百人一首大会の読み手の節回しのようなゆったりしたものであった。
その様子は、今も運行されている「別府地獄めぐり」定期観光バスで聞くことができる。
定期観光バス「別府地獄めぐり」(亀の井バス) https://kamenoibus.com/sightseeing_jigoku/
海地獄・鬼石坊主地獄・かまど地獄・鬼山地獄・白池地獄・血の池地獄・龍巻地獄の7つの地獄のセット券付き、バスガイド付き。
2024年3月現在 午前午後2便運航。
参考:「第8章 温泉観光の過去と現在」(別府市HP) https://www.city.beppu.oita.jp/doc/gakusyuu/bunkazai/yukemuri_keikan/02_08.pdf
参考:別府の文化財NO.38平成19年3月 「別府市中央公民館の復元に向けて」(別府市HP 冊子『べっぷの文化財』)
https://www.city.beppu.oita.jp/doc/gakusyuu/bunkazai/booklet/no38.pdf
大分県別府市にある鶴見岳(標高1,374.5m)の山麓と山頂をつなぐロープウェイ。標高約500mの別府高原駅から標高約1300mの鶴見山上駅の高低差約800m(792.5m)、線路長1,816mの急こう配を約10分で運行している。支柱は4基、鋼索は支索直径58㎜、曳索直径28㎜、ゴンドラの定員は101名(コロナ後は減員)、運転速度は毎秒4.1mである。
別府高原駅ではさまざまな土産物を販売しているほか、別府高原駅横に広がる、鶴見岳自然公園「四季の里」は、桜や紅葉の名所で、様々な種類の樹木があり、四季折々の風景を楽しむことができる。
鶴見山上駅では、展望台から、別府湾を囲む雄大な景色が一望できる。また、別府方面からは背後になる、由布岳の雄姿も見られる。
また、別府高原駅、鶴見山上駅とも車いす用階段昇降機を設置しているので車いすに乗ったまま、ロープウェイに乗車できる。高原駅にはオスメイト対応の多目的トイレも利用可能。
また、鶴見山上では、起伏のある山上遊歩道沿いに福禄寿・大黒天・布袋尊・寿老人・恵比寿天・弁財天・毘沙門天の七福神めぐりや札所めぐりが楽しめる。
参考:『施設のご案内 ロープウェイについて』別府ロープウェイHP
大分県中部,別府湾奥に位置する市。 1924年市制。 56年南端村の一部を編入。市域のほぼ中央を横切る断層線上の南部に別府,浜脇,観海寺,堀田 (ほりた) ,北部に亀川,柴石 (しばせき) ,鉄輪 (かんなわ) ,明礬 (みょうばん) の8温泉場があり,古くから別府八湯として知られた別府温泉郷を形成。明治以後は温泉掘削技術の進歩,水陸交通の発達などにより急激に発展して,現在では宿泊施設約 1000,年間利用客約 1000万をこえる大観光保養温泉都市となった。この間,第1次世界大戦後の好況期には別府駅西方の山手扇状地が高級住宅・別荘地域として開けるなど,市街地は次第に周辺に延びたが,1960年の別府国際観光港の開設,64年の九州横断道路開通などを契機として,市街地の中心はやや北に移動している。中心商店街には銀座街,銀天街など6つの遊歩商店街がある。北部の鉄輪周辺には坊主地獄,海地獄,血の池地獄,竜巻地獄などと呼ばれる特色のある大泉源があり,観光客を集めている。研究施設としては九州大学温泉治療学研究所,京都大学付属地球物理学研究施設,大分県温泉熱利用農業研究所などがあり,周辺では温泉熱を利用した野菜・花卉栽培も行われる。式内社火男火売 (ほのおほのめ) 神社,朝見八幡社,吉弘神社などがある。鬼の岩屋古墳は史跡。市域西部の鶴見岳周辺は阿蘇くじゅう国立公園に属する。 JR日豊本線,九州横断道路,国道 10号線が通じ,大分自動車道のインターチェンジがある。別府港からは広島,松山 (高松) -神戸-大阪,八幡浜などへのフェリーが発着する。面積 125.34km2(境界未定)。人口 11万5321(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
国東半島
2020年日本地理
大分県北東部,両子山 (720m) を中心とする大きな円錐形火山からなる半島。古くから仏教文化が栄え,特に平安時代後期には宇佐神宮の弥勒寺 (神宮寺) として開かれた 100をこす寺院 (六郷満山と総称される) が半島全域を覆った。富貴寺 (大堂は国宝。極彩色の内陣壁画や国の重要文化財の如来坐像がある) ,真木大堂 (伝乗寺。国指定重要文化財の仏像9体がある) をはじめ,数多くの寺院,石仏,国東塔,板碑,五輪塔などが各地に残されている。中央部は瀬戸内海国立公園に属し,その周辺から真木大堂にいたる山地一帯,および奈多,黒津崎,住吉浜など有名な海水浴場を含む海岸線の大部分は国東半島県立自然公園に指定されている。国道 213号線が海岸を一周し,半島東部に大分空港があり,大分市,別府市とをエアクッション艇 (ホバークラフト) が結ぶ。農業は米作のほか,ミカン栽培などが行なわれる。観光開発が進められている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*ホーバークラフトは、いったん廃止されたが、2024年再開予定。
参考:NHK『来年の運航再開目指すホーバークラフト1番船 大分空港で公開』など
六郷満山とは、国東半島の6つの郷(来縄・田染・伊美・国東・武蔵・安岐)の谷々で発展した寺院群で、活動の目的から3つのカテゴリー(本山→学問、中山→修行、末山→布教)に分かれていました。
国東半島は宇佐神宮・弥勒寺に伝わった天台宗の実践の場として、九州ではいち早く仏教が栄えた地域であり、宇佐・八幡神の影響を強く受けながら、厳しい地形での修行を好む山岳宗教との融合を経て、独特の六郷満山文化を花開かせました。
そのため、六郷満山では神仏習合の文化が色濃く、神社と寺院とが一体となって存在していたり、神社の規模が寺院と同等であったりします。また、寺院によっては後背の耶馬(岩峰)の中に多くの修行の場(岩屋・無明橋など)が設けられています。
六郷満山の文化財で最も有名なのが、国宝に指定されている「富貴寺大堂」です。富貴寺大堂の中には、中央の木造阿弥陀如来坐像(国重文)や大堂壁画(国重文)によって、平安時代の人々が思い描いた極楽浄土の世界が表現されています。
六郷満山では平安時代後期に仏像製作に取り組んでおり、各寺院に平安時代の仏像が残されています。富貴寺大堂と同じように阿弥陀如来像(富貴寺本堂・真木大堂・霊仙寺・小両子岩屋(鬼会の里))や、厳しい形相で衆生を教え諭す不動明王像(真木大堂・長安寺(太郎天)・応暦寺・無動寺)が多く残っています。その他には、日本最大の木造大威徳明王像(真木大堂)、木造薬師如来坐像 附十二神将(無動寺)など、地方の仏像では最高峰のものが多数残されています。(下記国東市の記載による)
参考:『〜大分県国東半島宇佐地域 六郷満山〜大分県宇佐・国東地域に広がる神と仏の神秘・・・』豊の国千年ロマン観光圏 https://www.millennium-roman.jp/rokugou1300/
参考:『国東半島が誇る文化遺産「六郷満山」について』国東市 https://www.city.bungotakada.oita.jp/site/bunkazai/2105.html
参考:『六郷満山』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%83%B7%E6%BA%80%E5%B1%B1
2020年日本地理
地区名:杵築市北台南台
種別:武家町
面積:約16.1ヘクタール
選定年月日:平成29年11が28日
特徴:杵築市北台南台伝統的建造物群保存地区は、南北に分けられた台地にあり、北部は北台、南部は南台と呼ばれている。杵築藩の上層藩士の居住区で、藩政期の地割をよく残した武家町である。近世武家住宅の主屋と門及び、その形式を受け継いだ近代の住宅を伝統的建造物としてよく残し、高低差のある地形を生かして、坂を巧みに配した武家地は、石垣や石段、土塀などによって、雄大で独特な景観を形成している。
『杵築市北台南台』重要伝統的建造物群保存地区(文化庁)より
大分県宇佐市南宇佐にある神宮。旧官幣大社。応神天皇、比売神(ひめがみ)、神功皇后を一殿ごとにまつる。欽明天皇三二年、馬城(まき)峰(=御許山(おもとやま))山頂に創祀。神亀二年(七二五)現在地に社殿を建立。伊勢神宮と並んで二所宗廟といわれた。八幡造りの本殿は国宝。全国二万四〇〇〇余の八幡宮の総本社。豊前国一の宮。宇佐宮。宇佐八幡宮。八幡大菩薩。
出典 精選版 日本国語大辞典
大分県宇佐市大字南宇佐に鎮座。豊前(ぶぜん)国宇佐郡の延喜式内(えんぎしきない)大社である八幡大菩薩宇佐宮(はちまんだいぼさつうさのみや)、比売神社(ひめのじんじゃ)、大帯姫廟(おおたらしひめのびょう)神社に符合するもので、第一殿に八幡大神(おおかみ)(誉田別尊(ほんだわけのみこと))、第二殿に比売大神(ひめおおかみ)、第三殿に神功(じんぐう)皇后(大帯姫)を祀(まつ)る。八幡大神は応神(おうじん)天皇とされ、神功皇后は応神天皇の生母である。比売大神は八幡大神の配偶神であるが、宇佐氏の氏神とする説もある。社名は宇佐の地名を冠したもので、1873年(明治6)に定められた。八幡大神の神徳、由来については、応神天皇に比定されるまでは諸説多く一定しない。「八幡」も当初は「やはた」と読み、菩薩号を与えられてからは「はちまん」とも読んだ。記紀などに記される神功皇后の新羅(しらぎ)(三韓(さんかん))出兵の物語が八幡大神への信仰の基底となり、武神、鎮護国家神として崇敬される一方、外来の仏教とも容易に習合しうる特異性がある。たとえば新羅の朝貢物の奉献、東大寺大仏造立への神助、道鏡の専横を和気清麻呂(わけのきよまろ)が阻止した神託などが著例といえよう。そして天皇の即位、国家に大事があるときには「宇佐和気使(わけつかい)」が差遣されることになった。平安初期には京都に石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)、鎌倉初期には鎌倉に鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)が創祀(そうし)され、八幡大神は伊勢(いせ)の神宮とともに「二所宗廟(にしょのそうびょう)」と仰がれ、また武士階級の守護神として崇敬されるに至った。そのため八幡大神は全国各地に祀られ、現在約2万4000社の八幡宮の総本社である。これは八幡大神の神意は託宣によって示されるという特色にも起因する。旧官幣大社。例祭(宇佐祭)は3月18日。2月13日の鎮疫祭(心経会(しんぎょうえ))、7月31~8月2日の神幸祭、10月9~11日の仲秋祭(放生会(ほうじょうえ))がおもな神事。本殿は八幡造の祖型とされ国宝に、境内は国の史跡に指定されている。社宝としては征西将軍懐良(かねよし)親王奉納の白鞘(しらさや)入剣、天復銘の古鏡、銅鐘(朝鮮鐘)などが重要文化財に指定されているほか、宇佐大鏡、『宇佐八幡宮託宣集』をはじめ、到津(いとうづ)・永弘(ながひろ)・小山田(おやまだ)文書、境内古図があげられる。[二宮正彦]
宇佐八幡宮領
一般に有力神社領は神郡(しんぐん)、封戸(ふこ)、荘園(しょうえん)に区分されるが、宇佐八幡宮の場合、神郡が存在したことを示す明確な史料はない。封戸を初めて給されたのは740年(天平12)のことで、藤原広嗣(ひろつぐ)の乱平定の祈請(きせい)に対する報賽(ほうさい)として20戸が与えられた。『続日本紀(しょくにほんぎ)』には750年(天平勝宝2)、大仏造立助成の功により八幡大神に封800戸、位田80町、比売(ひめ)神に封600戸、位田60町が寄進されたことが記されている。その後、封戸の返納、回復を繰り返したが、『新抄格勅符抄(しんしょうきゃくちょくふしょう)』には798年(延暦17)、宇佐八幡宮の封戸として1410戸があげられている。平安時代に入ると、これらの封戸は徐々に荘園化し、「十郷三箇荘」とよばれるようになった。十郷とは豊前(ぶぜん)国宇佐郡の封戸(ふべ)、向野(むくの)、高家(たけい)、辛島(からしま)、葛原(くずはら)、下毛(しもげ)郡の大家(おおえ)、野仲(のなか)、豊後(ぶんご)国国東(くにさき)郡の安岐(あき)、武蔵(むさし)、来縄(くなわ)の各郷で、三箇荘とは豊後国緒方(おがた)荘と日向(ひゅうが)国の宮崎(みやざき)荘、臼杵(うすき)荘である。以上の封戸の系譜を引く荘園のほかに、平安中期以降、「本御荘十八箇所」とよばれる荘園群が一円荘(いちえんしょう)として成立した。このほか各地域の領主が開発し寄進した「国々散在常見名田(くにぐにさんざいつねみみょうでん)」があり、これらを合計すると宇佐宮領は九州一円に120か所余り分布していたことになる。これらの社領は南北朝期以降、武士の押領(おうりょう)により有名無実のものとなり、太閤(たいこう)検地による石高(こくだか)制の成立によって最終的に消滅したが、1646年(正保3)徳川家光(いえみつ)の朱印状により1000石が保証され、近世の社領が確立した。
[海老澤衷]
『中野幡能著『八幡信仰史の研究』上下(増補版・1975・吉川弘文館)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
*飯沼賢司(別府大学特任教授)氏によれば、古代における宇佐神宮の領地は、九州の3分の1だったそう。
宇佐神宮 国宝拝殿
ちよろぎ撮影
大分市
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。キリシタン大名でもある。大友氏の21代当主。宗麟(そうりん)の法号で知られている。洗礼名は、ドン・フランシスコ。豊後の王と称された。
父は20代当主・大友義鑑。母は公家の坊城氏の娘(後室)とする説(*大内義興のWikipediaには娘が義鑑(よしあき)(宗麟父)に嫁いで義鎮を産んだとある)がある。 弟に大内義長、塩市丸、親貞など。子に義統(吉統)(よしむね。秀吉の名前の吉をもらって改名)、親家(キリシタン)、親盛など。
中国明朝への遣明船の派遣をはじめ、琉球、カンボジア、ポルトガルを相手とした海外貿易による経済力、優れた武将陣、巧みな外交により版図を拡げ、大内氏や毛利氏をはじめとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国時代の北九州東部を平定した。
当初は禅宗に帰依していたが、後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。最盛期には九州6か国を支配して版図を拡げた。しかし、薩摩から北上した島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名となった。
大友氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて、少弐氏・島津氏と共に九州の幕府御家人衆の束ね役として権勢を振るい、室町時代に入ってからは大内氏の九州進出に対し、少弐氏と結び大内氏と抗争していた。大友氏は豊後国と筑後国の守護に幕府より代々補任される、いわゆる守護大名であった。
天文9年(1540年)2月3日、塩法師丸は元服し、室町幕府の第12代将軍・足利義晴から一字拝領を受け、義鎮と名乗った[5]。
義鎮20歳の頃、父の義鑑は義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ることを画策して、傅役の入田親誠らと共に義鎮の廃嫡を企んだ。
天文19年(1550年)2月、義鎮を強制的に別府浜脇に湯治に行かせ、その間を利用して義鎮派(田口鑑親(蔵人佐)、津久見美作(実名不明)や齋藤長実、小佐井大和守ら)の粛清が計画されたが、この動きを察知した義鎮派重臣が反撃を起こした。
2月10日、塩市丸とその母は殺害され、義鑑も負傷して2月12日に死去した(二階崩れの変)。義鑑の遺言により、義鎮が家督を相続し、大友氏21代目の当主となった。同時に入田ら反義鎮派は「義鑑暗殺」の首謀者として粛清された。
天文20年(1551年)に周防国の大名大内義隆が家臣の陶隆房の謀反により敗走自害すると、陶隆房の申し出を受けた義鎮は、実弟の晴英(大内義長)を大内氏の新当主として送り込んだ。これにより大友氏は、室町時代を通した大内氏との対立に終止符を打つと共に、北九州における大内氏に服属する国人勢力が同時に大友氏にも服属することになり、さらに周防・長門国方面にも影響力を確保した。特に筑前博多の支配権を得たことは、大友氏に多大な利益をもたらした。弘治3年(1557年)に連合で派遣した遣明船で、義鎮は倭寇禁制使の蔣洲を護送して勘合頒布を求め、義長は倭寇被虜人を送還するとともに大内氏所有の「日本国王」印(毛利博物館現存)を用いて朝貢した。
参考:『大友義鎮(よししげ)』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%BE%A9%E9%8E%AE
大友宗麟とポルトガルを結んだのは、宣教師フランシスコ・ザビエルであった。ポルトガルのコインブラ新大聖堂(イエズス会)の聖具室には大友宗麟(豊後王)とザビエルの出会いの図が飾られている。
リスボン宮殿に併設されたアジュダ図書館には、「なによりまず最初に改宗させるべきは、『豊後の王(Rey de bungo)』である。彼は我らの大いなる友人で、宣教師たちを厚遇している。」と記されたイエズス会の宣教師の書簡が収められている。
それは宣教師たちが自分たちの功績を大きく見せてスペイン・ポルトガルの援助をより多く引き出すものであったが、彼らの言葉がヨーロッパ人の宗麟のイメージを大きくはっきりさせたことは間違いない。ドイツヴァイセンシュタイン城でも宗麟とザビエルの対面を描いた絵が見つかっている。同時に宗麟が治める豊後へのイメージも膨らみ、戦国時代にヨーロッパで描かれた地図にはI(J)apanとBungo の文字が並んで書かれている。当時日本の状況が宣教師からの情報に頼るしかなかった、かつザビエルの功績を称えるためのものとはいえ、こうして宗麟は世界から強大な力を持つ王として認識されることになった。
リスボンの科学学士院図書館には、セバスティアン(1世)王が宗麟に送った国書の写本が収められている。そこには「あなたがキリストの教えを受け入れることを望みます。」と改宗を強く促した。そして「もし神の教えを受け入れてくれるのならば、わが名においてあなたが望むものすべてに応じるようとりはからいましょう。」と約束している。
デマルカシオン(世界分割)、ポルトガルとスペインは地球に線を引き、勝手に2分割を定めたが、ポルトガルの東の境界線は日本を通り、アジアの大部分はポルトガルの物とした。ポルトガルはアジアやその他の地域にキリスト教を布教して支配や貿易を円滑に行うための狙いがあった。そのためセバスティアン王の書簡には布教の事がかかれていた。「回収する人は身分が高ければ高いほど良い、彼らを模範にしてより多くの人が聖なる教えを受け入れるだろう。」
1563年大村純忠(長崎城主)が改宗。領民6万人がキリシタンとなった。ヨーロッパ人が九州で広大な領地を治めると考えていた宗麟を改宗させられれば、キリシタンを一気に増やせるはずと考えられた。しかし、宗麟は改宗を拒んだ。もともと宗麟が治める豊後では禅宗や神道の力が強く、家臣団が猛烈に反対した。1562年宗麟は出家して仏門(宗麟は法名)に入ってしまった。宗麟は当時広く南蛮貿易を行っており、キリシタンへの改宗と普及をカードに使いながら、非常に大きな経済力を獲得していた。
かつ、宗麟は宣教師たちに「私が大砲を得る資格のあるものだとポルトガルに伝えてほしい」と大砲を要求し手に入れていた。大砲はポルトガルやスペインの軍事力の要となっていたが、日本全国の戦国大名で大砲を手に入れていたものは他にはなかった。それはポルトガル人たちが宗麟に大きな期待を抱いていた証拠であると考えられている。宗麟は北九州一帯を治める存在になった。
ちなみに宗麟はポルトガル王に黄金で装飾された短刀を送っている。当時、短刀は日本刀を指し、ヨーロッパで最も人気のある工芸品であったという。火薬の原料の硝石は当時輸入に頼るしかなかったが、宗麟は自分に敵対する大名(例:毛利元就)にはお金はいくらでも出すから提供しないように宣教師に依頼していた。
宣教師ルイス・フロイス「日本史」(ルイス・フロイスは宗麟当時豊後に滞在)の1578年の記述には、「豊後の王が修道士に胸中を打ち明けた。神のしもべになるため、洗礼を受けたい。」
堺で出土した宗麟の時代の壺に豊後(大分)で産出した7kgの硫黄が詰まっていた。宗麟は豊後で産出した硫黄を鉄砲の産地である堺に運んだとみられている。その壺と同じ壺が大分でも発見されているが、大分産ではなく、タイのメナムノイで作られた壺であった。壺の中に南蛮貿易の品を入れて持ってきたもの(コンテナとしての用途)であるという。壺に入っていたと思われるものの一つは、鉄砲の玉の原料である鉛であった。
しかし、東南アジア貿易をさかんに行う宗麟に、島津がライバルとして宣教師を迎え入れ始めた。島津が豊後に向かう中継点である日向を狙い始めた。
1578年、宗麟はキリスト教を受け入れ、フランシスコと名乗った。フランシスコ・ザビエルから取ったものである。貿易線を守るため、イエズス会の外交的支援を受けるための受洗のカードを切ったと思われる。
1578年、宗麟は島津征伐に出陣。ポルトガルから贈られた赤い十字の旗を掲げ、4万の大軍にポルトガルの大砲も帯同しての出陣だった。
しかし、家臣団はキリシタンを拒否し、敵と戦うよりキリシタンを否定する方に熱心だったとフロイスの『日本史』には書かれている。結局家臣団や島津との国境の小領主たちに、大友家への忠誠の証としてキリシタン改宗を求めたところ、応じきれない者たちが離反していき大敗、日向から撤退。耳川の合戦に負けた1578年を境に宗麟の勢いは急速に衰えた。9年間島津と戦い、最後には秀吉に援軍を求め、秀吉の九州進出をうながした。
参考:『歴史探偵 戦国ご当地大名シリーズ 大友宗麟』(NHKプラス) 6/26午後10:44まで配信。 https://plus.nhk.jp/watch/st/g1_2024061915232?playlist_id=0d655b99-cc85-4201-a1d0-b0a9253e5ff6
参考:『大友氏館跡庭園』(大分市) https://www.city.oita.oita.jp/o204/20200605teienopen/2000605teienopen.html
発掘調査と復元整備の様子が詳しく書かれています。庭園は1998年(平成10年)の発掘調査により発見された。庭園は後世の改修により原型をとどめていないのが通常であるが、大友遺跡の庭園は池の遺構がそのまま発見され、復元整備されているため、発見された石などはそのままの位置で復元され、当時の様子がよくわかるように整備されており、令和2年から公開されている。
将来的には大友館自体を復元・見学ができるようにし、また周辺地域も歴史地区、史跡公園地区として整備していく予定とされている。
参考:『大友氏遺跡』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E6%B0%8F%E9%81%BA%E8%B7%A1
大分県大分市顕徳町一帯にあった大友氏館(大友館)を中心とする中世の遺跡。2001年(平成13年)8月13日に「大友氏館跡」(おおともしやかたあと)として国の指定史跡に指定された後、累次追加指定が行われており、2005年(平成17年)3月2日に旧万寿寺跡地区が追加された際に名称が「大友氏遺跡」に改められた。2014年(平成26年)10月6日には上原館跡の一画が、また、2015年(平成27年)10月7日には推定御蔵場跡が追加指定されている。
中世の府内は東西約0.7キロメートル、南北約2.2キロメートルに及び、その中心となる大友氏館は一辺約200メートルの四辺形で、典型的な守護館であったと推定されている。
最盛期にはほぼ九州一円を支配した大友宗麟はキリスト教を保護し、明との貿易や南蛮貿易を行った。戦国時代の府内は、大友氏の城下町として、また、外国との貿易港として栄え、1557年(弘治3年)には日本で初めての西洋式の病院が開設され、1580年(天正8年)にはコレジオ(神学院)が設置されるなど、南蛮文化が花開いた。しかし、ルイス・フロイスの『日本史』によれば、府内は1586年(天正14年)の島津家久の侵攻の際に焼き討ちに遭い、壊滅したとされる。
かつては、大友氏の居館は本遺跡の南側の上野丘陵に位置する上原館(うえのはるやかた)であったと考えられてきたが、1990年代後半から行われている発掘調査によって、その北側の平地に位置する大友氏館の存在が明らかになった。この発掘調査では、15世紀から16世紀にかけての庭園遺構や整地層、掘立柱建物跡等が発見され、大型の建物の存在が推定されている。また、周囲からは明との貿易や南蛮貿易によってもたらされた華南や東南アジアの多数の陶磁器や、キリシタンの遺物であるコンタツ(ロザリオ)やメダイ(メダル)が出土している。出土した陶磁器の多くには、炎熱の痕が認められ、大友氏館周辺が焼き払われたことを物語っている。
大分市では大友氏館跡について、2019年(令和元年)度までに庭園を、また、2029年(令和11年)度を目途に館の中核施設(主殿)を復元するなど、歴史公園として整備する方針である。このうち庭園の公開は2020年(令和2年)4月を予定している。
大分県大分市(豊後国府内)にあった日本の城(平山城)。大分城(おおいたじょう)、荷揚城(にあげじょう)、白雉城(はくちじょう)とも呼ばれる。
府内城は、大分市街の中心に位置する梯郭式平城である。安土桃山時代後期、府内に12万石で入封した福原直高が府内の荷落に築城を始めたが、福原氏は改易され、早川長政の府内領再封を経て、関ヶ原の戦いの後に3万5千石で入封した竹中重利が完成させた。なお、府内城は海城でもあるが、豊臣氏政権時代から徳川氏政権初期段階において九州地方に入部した大名は海城を居城としていることが多く、その一例である。
江戸時代には府内藩2万1000石の藩庁が置かれていたが、明治初期に本丸・東丸・西丸の建造物以外は破却され、堀の一部が埋め立てられた。さらに第二次世界大戦時の大分空襲により大手門、櫓が3棟が焼失した。
現在、城跡は大分城址公園となっている。本丸跡北西隅に人質櫓(二重櫓)と西丸に宗門櫓(平櫓)が現存し、石垣、土塀、堀とともに大分県の史跡に指定されている。県の史跡に指定された以外の部分は、大分市の史跡に指定されている。また、3棟の二重櫓と大手門、が外観復元、土塀、廊下橋が木造復元されている。三の丸跡には、大分県庁・大分市役所などがある。又、天守、櫓、門、土塀の木造復元計画はある。
西丸跡には1966年に大分文化会館が建てられたが、2013年(平成25年)10月に閉館し、その後、解体された。文化会館跡地の利用方法は未定で、城址公園も含めて今後検討される。なお、大分市は1993年(平成5年)に、文化会館を解体した後の構想として、中期的に発掘調査、城内整備を行った後、長期的には天守閣再建を含めた府内城の復元を行うとする府内城整備基本構想を策定しているが、経済情勢の変化等のために実現の目途は立っていない。2017年(平成29年)2月には大分城址公園整備・活用基本計画が策定され、天守等については将来的に調査・研究の成果に応じて整備をめざすとされた。
参考:『府内城』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9C%E5%86%85%E5%9F%8E
参考:『府内城』大分市 https://www.city.oita.oita.jp/o204/bunkasports/shitebunkazai/1352943146749.html
1.福原直高段階
慶長二年(1597)に福原直高は豊臣秀吉の命により、「要害」としての城を築くため、府内を見て廻り、「荷落(におろし)」と呼ばれていた河畔を築城地に定め、城造りに懸かります。
直高は、国元にいるときは築城工事を監督し、木材を領内の大分郡だけでなく、土佐国にまで求めたり、また他国の商船に領内(高崎など)の石材を運ばせていました。
朝鮮出兵などで、築城の中断がありましたが、約二年の歳月を経て、慶長四年(1599)に本丸に続き、二の丸と三の丸が完成しました。直高は「荷落」の地名を嫌い、「荷揚(にあげ)城」と名づけました。また、新年の祝賀をお城で執り行ったと言われています。
2.竹中重利段階
慶長七年(1602)から、竹中重利は、家康の許可を得て、四層の天守と諸櫓・門・武家屋敷・北西砦(山里丸)を造りました。その際、石垣の築造に、加藤清正の石工を、大阪や伏見から大工や瓦師を招くなど、当時の城造りの先端技術を導入しました。
城下町は、南北九町、東西十町の碁盤の目状に区画され、町の北西側には京泊と呼ばれる船着場が造られ、水上交通や物資の輸送を担っていたと思われます。
1.天守台
慶長7年(1602)に、四層櫓の天守が築かれていたが、寛保3年(1743)の大火により焼失。以降再建されることなく、現在に至っており、現在の「府内城址」と呼ばれている部分は、本丸の内堀を埋め立て、西丸城壁を壊して通用路が作られたものです。
2.人質櫓
寛保3年(1743)の大火により、天守をはじめ城内の多くの建物が焼失した。その後も明和6年(1769)の大地震、安政元年(1854)の大地震、昭和20年(1945)の空襲により、損壊した建物が多いが、再建されたものは少なく、江戸時代の建物は人質櫓と宗門櫓のみとなっています。現在の人質櫓は、文久元年(1861)に再建されたものです。
3.大手門
府内城の玄関口であるため大手門と呼ばれていますが、正確には「多聞櫓門(たもんやぐらもん)」という名称になります。昭和20年(1945)の空襲により焼失し、現在の建物は昭和41年(1966)に復原建築されたものです。
4.宗門櫓
人質櫓とともに現存する江戸時代の建物になります。現在の建物は安政6年(1859)に再建されたものですが、当初の建物の規模・工法を引き継いでの修理であったと考えられています。城の外から見ると平櫓に見えますが、城内からは二重に見える建物で、平地に石垣を積んで築城する際、櫓の部分に櫓台を設けていないため、このような地階を付けています。
5.お宮
天守台の下にお宮を祀った祠があります。これは、福原直高が築城の際、度重なる水害に工事が進まず人柱を立てることになり、上野六坊に住む孝行娘のお宮が一家を救うため、弁財天の木像を抱いて人柱となり、その後、築城は順調に進み、お宮は弁財天とともに鎮守としてあがめられたと伝えられています。
6.廊下橋
かつて茶の湯や能、月見など諸芸能の営まれた山里丸と西の丸を結ぶ渡り廊下。大分市発足30周年記念事業である府内城再発見事業により、平成7年度に復元しました。古絵図に描かれていた、大手門の廊下橋の意匠を元にしています。
7.慶長の石垣
廊下橋復元に伴う発掘調査によって確認された、築城当時の石垣。現在見ることができるよう、整備をしています。
8.竹中重利の墓
慶長6年(1601)府内に入部した、府内城主竹中重利の墓。重利は、建築中であった府内城を完成させ、府内城下町を建設した人物であり、府内藩の基盤が形成されたと言えます。
9.帯曲輪
元来直接河口に面していた本丸を囲うように、北方の砂州中島を基点とし東北から東にかけて人工の堤を築き、内側を石垣とし、堤上に松などの樹木を植えて区画した場所。
豊後国で年に一度開催された西日本三大市のひとつ浜之一(『大分市史 中巻』(昭和62年(1987)))を描く。
浜之一は現在の大分市浜の市一丁目(生石浜西端の祓川付近)で開かれていた江戸時代の市。
生石浜では古くから柞原八幡宮の放生会が行われていた。放生会の8月14日をはさんだ8月11日~9月1日が市日となり、300軒ほどが小屋掛けしたという大規模なものであった。
江戸時代、多くの仮設小屋が建つ中、そこで芝居、曲芸、手品が欠かせなかった様子が描かれている。
参考: 平凡社「日本歴史地名大系」
大分県東部、別府湾(べっぷわん)と臼杵湾(うすきわん)を分けるくさび形の半島。大分市域にあたる。愛媛県佐田岬半島(さだみさきはんとう)とともに瀬戸内海南西部の門戸をつくり、九州―四国間の陸橋をなしている。おもに、蛇紋(じゃもん)岩を伴う三波川(さんばがわ)結晶片岩からなる、標高300~400メートルの樅木(もみき)山地の地塁で、主農副漁の集落が沿岸に点在し、米麦、ミカンなどをつくる。頸部(けいぶ)をJR日豊(にっぽう)本線が走り、国道197号と217号が海岸を巡る。先端に近く、漁港と製錬所のある中心地区関がある。佐賀関港と三崎港(愛媛県)との間にフェリーボートが通っている。[兼子俊一]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
[関あじ・関さば]
参考:大分県漁業協同組合 佐賀関支店 https://sekiajisekisaba.or.jp/
大分県と愛媛県との間,太平洋と瀬戸内海を結ぶ海域。北は速吸瀬戸 (豊予海峡) ,南は愛媛県の高茂崎と大分県の鶴御崎にいたる東西約 50km,南北約 40kmの海域。水深は中央部で 80~90m,速吸瀬戸の南東の最深部で 300~400m。両岸は典型的なリアス海岸で,東側には日振島,戸島,西側に高島,無垢島などが点在。イワシ,カツオ,マグロなど外洋性魚族とタイ,カレイ,ヒラメなどの内湾性魚族が多い。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[速吸瀬戸(はやすいのせと) (豊予海峡)]
大分県東部,佐賀関半島の関崎と愛媛県佐田岬半島の佐田岬との間にある海峡。別称豊予海峡。幅約 13km。瀬戸内海と豊後水道を上下する潮流は激しく,海底には深さ約 300mと 400mの海食釜が形成されている。佐賀関側の潮流は激しく,瀬戸中の高島には海食崖が発達し,ウミネコの生息地として知られる。瀬戸内海国立公園に属する。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
2020年日本地理
[高崎山]
大分県中部,別府湾に面し,大分,別府両市の境にそびえる溶岩円頂丘 (鐘状火山) 。標高 628m。古くは四極 (しはつ) 山とも呼ばれ,大友氏の城がおかれたこともある。古くから野生のニホンザルの群れが生息していたが,1952年東麓にある万寿寺の別院境内で餌づけに成功した。サルの共同社会の生態が観察でき,天然記念物に指定されている。高崎山自然動物園として 53年瀬戸内海国立公園の一部に編入。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[高崎山自然動物園]
大分県大分市にある自然公園。高崎山山中に生息するニホンザルを餌付けしており、自然の姿のサルを観察できる。同山のサルは生息地とともに国の天然記念物に指定されている。
出典 小学館デジタル大辞泉プラス
ゆふいん
大分県中部,由布市北西部の旧町域。大分川上流域の由布院盆地を中心とする。 1955年由布院町と湯平村が合体して発足。 2005年挾間町,庄内町と合体して由布市となる。盆地底や大分川河谷の米作と原野利用の畜産が主産業で,温泉を利用した野菜や花卉の促成栽培も行なわれる。温泉が豊富で,北には塚原温泉,中央に由布院温泉,南に湯平温泉の温泉郷がある。特に由布院温泉は全国的に知名度が高く,1959年には国民保養温泉地に指定された。 1964年の九州横断道路 (やまなみハイウェー) 開通以来,各地で観光地化が著しい。由布岳から南西の山下池までの帯状の地域は阿蘇くじゅう国立公園に属する。樹齢 1000年をこえる大杵社の大スギは国の天然記念物。明治時代の西洋建築である旧日野医院は国の重要文化財。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
JR九州が運営する特急観光列車。博多駅(福岡県)から別府駅(大分県)を結ぶ。1989年運行開始。
出典 小学館デジタル大辞泉プラス
詳しくは→『特急 ゆふいんの森』JR九州 D&S(DESIGN&STORY)列車の旅HPへ
大雨により不通になっていましたが、2023年7が20日から全列車通常運転しています。
『久大本線の線路災害に伴うゆふいんの森号運転再開についてのお知らせ』(JR九州)
大分県南部
大分県臼杵市の中尾(なかお)、深田(ふかた)、前田(まえだ)の3地区に所在する平安時代末から室町時代にかけての石仏群。1952年(昭和27)国の特別史跡に指定された。指定名称は「臼杵磨崖仏(まがいぶつ)」。このうち中尾・深田地区の石仏群は、ホキ第1群(堂ヶ迫(どうがさこ))、ホキ第2群、山王山、古園(ふるぞの)、木原、観音の6群からなり、磨崖仏(摩崖仏とも書く)など60余躯(く)がある。前田地区には、1群のみ7躯の磨崖仏がある。
磨崖仏は、凝灰岩の斜面を利用し、丸彫り手法により彫られている。木彫仏に類似した臼杵石仏の容姿と立体感は、日本石仏中の優品の一つといわれる。深田地区では、1976年から82年まで石仏周辺の環境整備に伴う発掘調査が臼杵市教育委員会によって実施され、石仏に関連する寺院跡の存在が確認された。
臼杵石仏のうち、中尾・深田地区のホキ第1群、ホキ第2群、山王山、古園の石仏4群59躯は、1962年国指定重要文化財となり、95年(平成7)には石仏としては初の国宝に指定された。なお、1980~94年に保存修復工事が行われ、修復後石仏の保存施設として覆屋を設置。また、それまでは古園石仏の中尊である大日如来坐像(だいにちにょらいざぞう)の仏頭が地上に安置されていたが、このときの修復により仏頭は本来の位置に戻された。[菊田 徹]
『賀川光夫編『臼杵石仏 よみがえった磨崖仏』(1995・吉川弘文館)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
最寄り駅はJR臼杵駅。臼杵駅と大分駅を結ぶバスもあるので、時間と料金がかかるが大分からも直行できる。国宝に指定されるだけあって必見の観光地。時間があれば、無料ガイドさんに案内してもらった方が面白い。
参考:『国宝臼杵磨崖仏の保護・保存』臼杵市
https://www.city.usuki.oita.jp/docs/2015101700023/
「国宝臼杵磨崖仏」は、今から約9万年前に熊本県の阿蘇山が噴火した際に流れてきた火砕流が冷えてできた「阿蘇溶結凝灰岩(あそようけつぎょうかいがん)」という地層に彫られています。
この地層は、大変柔らかく水分を多く含むという特徴をもっていますので、仏体の彫刻面にコケやシダなどの植物が生えやすいのです。
これらの植物が生えたままにしておくと、仏体が彫刻されている面を傷め、最終的には仏体の表面がボロボロになってしまいます。
そこで臼杵市では、この貴重な文化財である「国宝臼杵磨崖仏」をより良い状態で後世に伝えていくために、様々な保護保存事業を行っています。
毎年秋から冬にかけてで行われている仏体のクリーニング作業もその1つです。
岩には影響のない紫外線を、コケやシダなどの植物に照射することで、仏体を傷つけることなく、植物を枯らすことができ、植物を枯死させた後には専門家の手作業で、植物の除去や、植物が生えづらくなる作業を行っています。
この作業は、ここ「国宝臼杵磨崖仏」で全国で初めて技術開発された方法です。
文化財の保護・保存の大切さを伝えるため、これらの修復作業について、修復期間中に何度か修復現場の特別公開を実施しています。
修復期間中には、修復に必要な機材を置いていますので、観覧にご迷惑おかけすることもありますが、貴重な文化財の保護、保存のため、ご理解とご協力をお願いします。
「国宝臼杵磨崖仏」修復現場特別公開は、毎年10月~1月頃にかけて行いますので、公開予定日が決まりましたら当ホームページのトップページにあります「新着情報」にてお知らせします。(臼杵市HP)
臼杵城(うすきじょう)は、大分県臼杵市にあった日本の城。城跡は大分県の史跡に指定されている。戦国時代、大友宗麟により臼杵城の前身となる「丹生島城(にうじまじょう)」が築かれ、大友氏の拠点となった。江戸時代には臼杵藩の藩庁が置かれた。
丹生島は北、南、東を海に囲まれ、西は干潮時に現れる干潟の陸地でつながるのみという天然の要害をなしていた。なお、「丹生」とは丹(に、鉱物の辰砂)が採取される土地を指し、丹生島とは「金属鉱石の産出する島」という意味である。大友義鎮(宗麟)は、この島一つを城郭化して干潟を干拓して城下を形成した。
城には3重の天守と31基の櫓が上げられた。総二階造り(上下階の平面が同規模)の重箱櫓と呼ばれる形状をした二重櫓が特徴的であった。廃藩後は天守以下建物は一部を残し取り壊され、周囲の海も埋め立てられた。現在、城郭主要部は都市公園として整備され、石垣、空堀が残る。また、二の丸に畳櫓が、本丸に切妻造りの卯寅口門脇櫓が、それぞれ現存する。
通説では永禄4年(1561年)、毛利氏との戦いに敗れた大友義鎮は、翌永禄5年(1562年)に臼杵湾に浮かぶ丹生島に新城を築き、大分府内大友館から移ったとされている。だが、1557年10月29日に宣教師のガスパル・ヴィレラからイエズス会に送られた書簡(『耶蘇会士日本通信』)には家臣の反乱(小原鑑元らによる「姓氏対立事件」)を避けるために丹生島に移った事が記されており、その後永禄年間初頭までの大友氏関係文書を分析しても義鎮が要人との会談や家臣の呼出を臼杵において行っており、そのまま「在庄(庄=丹生島がある臼杵庄)」していた可能性が高いことが裏付けられる。従って、具体的な時期を断定する史料は存在しないものの、義鎮自身は弘治3年(1557年)前後には臼杵へ拠点を移していたと考えられている。府内では既得権益が障害となり、大友氏が十分な経済的権益を確保できなかったが、新たに臼杵に本拠を移すことで、臼杵の湊と城下町が一体化した経済都市を創り出し、安定的に直接支配する体制を構築しようとしたと推測されている。
ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの記録によると、城下には多くのキリスト教の施設が建立され城内には礼拝堂もあったとしている。その後、田原親貫の反乱鎮圧のために天正7年(1579年)から2年ほど府内に政庁を戻しているものの一時的な措置であり、大友氏の改易まで臼杵に本拠地が置かれていたと考えられている。
天正14年(1586年)の島津軍の侵攻(丹生島城の戦い)に対して「国崩し」と呼ばれたポルトガルから入手の大砲、「フランキ砲」を動員するなどして島津軍を退けたが、城も城下も大きく損失した。その翌年、大友義鎮は死去した。
参考:『臼杵城』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%BC%E6%9D%B5%E5%9F%8E
参考:『臼杵城跡』臼杵市観光協会 https://www.usuki-kanko.com/sightseeing/%E8%87%BC%E6%9D%B5%E5%9F%8E%E8%B7%A1
参考:『臼杵城』臼杵市教育委員会(臼杵市歴史資料館)所蔵資料データベース
参考:『豊後キリシタン小史』カトリック大分司教区 https://oita-catholic.jp/publics/index/130/
本丸、二の丸は公園地に指定され、現在は2つの櫓と書院の庭園の一部、石垣などを残すだけで桜の名所として知られ公園として市民の憩いの場所になっている臼杵城跡であるが、、城内には建物の場所とその説明が諸所にあり、当時の城の様子を視覚的にしのばせるようになっている。
また、上記の臼杵市歴史資料館を訪れると宗麟当時や江戸時代の臼杵城の姿が多く示されて、現在は埋め立ててわかりにくくなった、海に囲まれた海城の様相、天然の要害である事をより感じることができる。
また、城の大手門から続く大通りの先にキリシタンの施設(教会?)を置いたのは、ヨーロッパの街が、小高い丘にある城館に双をなすように教会が作られるのを模したものと臼杵市の教育委員会の担当者は見ているという。実際、「日本史」を著したルイス・フロイスは、臼杵の事を『豊後のローマ』と記している。
参考:『信長でも秀吉でも家康でもない…「東洋のローマ」を作り、当時の欧州で初めて絵画に描かれた戦国武将の名前』PRESIDENT online
ふるさと納税は、名物のふぐと九州中のみそ・しょうゆ・調味料を作っているフンドーキン社のみそ・しょうゆ。なんといってもミシュラン三ツ星のふぐは逸品。
大分県北部
参考:中津耶馬渓観光協会 『中津城(奥平家歴史資料館)』
https://nakatsuyaba.com/?introduce=nakatsujyo
中津城は、福岡県境の中津川のほとりに建てられており、堀の水は海水であり、水門から海水が入って堀の水かさは潮の干満で上下する水城で、高松城、今治城とともに日本三大水城の1つと言われる。
模擬天守閣は昭和39年(1964年)建てられ(鉄筋コンクリート5重5層)、中は奥平氏の資料館となっている(江戸時代の絵図には天守閣は描かれておらず、三重櫓のみが描かれている)。
石垣は、江戸時代初めの建築で、黒田官兵衛時代、細川忠興時代の創建当時の石垣が残っており、その違いが面白い。黒田時代の石垣は丸い石を使って積まれているが、これは対岸の福岡県上毛町川上にあった7世紀の城唐原山城の神籠石を運ばせたものである。重なるように細川時代の石垣が詰まれているが、これは四角く切り出した石を積んでいる。
中津城は、黒田氏→細川氏→小笠原氏→奥平氏が治めた。
なお、中津城・歴史博物館(中津城向かい側)・福沢諭吉旧宅(歩いて約5分)の共通観覧券がある。
「城下町周遊観覧券」(2024年2月21日現在大人700円)→ https://nakatsuyaba.com/?introduce=kanranken
撮影:ちよろぎ
2019年11月
*中津耶馬渓観光協会「青の洞門」→ https://nakatsuyaba.com/?introduce=doumon0815
*大分県観光情報公式サイト日本一のおんせん県おおいた味力もいっぱい「青の洞門」→ https://www.visit-oita.jp/spots/detail/4696
青の洞門は、大分県中津市本耶馬溪町にある隧道(トンネル)である。山国側に面し、そそり立つ競秀峰の裾に位置する。隧道の長さは約342メートル、うちトンネル部分の延長が約144メートル。
江戸時代、荒瀬井堰が造られたことによって山国川の水がせき止められ、樋田・青地区では川の水位が上がったことにより、川岸が通れなくなり、旅人は競秀峰のはるか高いところに作られた細い道を鉄の鎖のみを頼りに通ることになった。
諸国巡礼の旅の途中に耶馬渓へ立ち寄った禅海和尚(Wikipedia)は、この危険な道で人馬がはるか下の川に落ち、命を落とすのを見て心を痛め、享保20年(1735年)から自力で岩壁を掘り始めた。ノミと槌だけで30年かけて掘り抜いた。初めは知らぬ顔をしていた付近の民も次第に禅海和尚の熱意と根気に打たれ、次第に共に掘り進めたと言われ、今も手掘りの跡が残る(自動車道路のわきに手掘りの跡を見られる場所が残されている)。
寛延3年(1750)には第1期工事落成記念の大供養が行われ、以降は「人は4文、牛馬は8文」の通行料を徴収して工事の費用に充てており、日本初の有料道路とも言われている。
後にこの禅海和尚をモデルに菊池寛が小説『恩讐のかなたに』を書いたため、青の洞門の逸話は有名になった。(ただし、菊池がかなり脚色している)
参照:青の洞門Wikipedia
参考:日本遺産耶馬渓公式サイト→ https://yabakei-yuran.jp/
参考:耶馬渓wikipedia
参考:中津耶馬渓観光協会→https://nakatsuyaba.com/?introduce=hitomehakkei
大分県中津市にある山国川の上・中流域及びその支流域を中心とした渓谷。日本三大奇勝として知られ、日本新三景(1916年(大正5年))に選定され、名勝に指定されている。耶馬日田英彦山国定公園に含まれる。
(日本三大奇勝:大分県中津市耶馬渓・香川県小豆島寒霞渓・群馬県妙義町妙義山)
新生代第四紀の火山活動による凝灰岩や凝灰角礫岩、熔岩からなる台地の侵食によってできた奇岩の連なる絶景である。凝灰岩や凝灰角礫岩の山には風食作用や河川の洗掘作用によってできた洞窟も多い。
1818年(文政元年)に頼山陽が擲筆峰周辺(耶馬溪町柿坂地区)を訪れ、当時の「山国谷」という地名に中国風の文字を宛て、「耶馬渓天下無」と漢詩に詠んだのが、耶馬渓という名前の起こりである。
頼山陽が耶馬渓と命名したのは、現在単に「耶馬渓」と呼ばれている辺りだけであるが、その後周辺の渓谷についても「耶馬渓」という名称が使われ、本耶馬渓・裏耶馬渓・深耶馬渓・奥耶馬渓などと称している。
耶馬渓
羅漢寺(らかんじ)は、大分県中津市本耶馬渓町にある曹洞宗の寺院である。山号は耆闍崛山(ぎじゃくっせん)。本尊は釈迦如来。日本国内の羅漢寺の総本山である。
羅漢山の中腹に位置する。岩壁に無数の洞窟があり、山門も本堂もその中に埋め込まれるように建築されている。洞窟の中に3,700体以上の石仏が安置されており、中でも無漏窟(むろくつ、無漏洞とも)の五百羅漢は五百羅漢としては日本最古のものである。無漏窟の釈迦三尊像、五百羅漢像などの石仏群は2014年8月21日に国の重要文化財に指定された。
参考:中津耶馬渓観光協会「羅漢寺」https://nakatsuyaba.com/?introduce=rakanji-2
入山が厳しくなったようです。
↓
中津耶馬渓観光協会
●令和5年10月1日(日)より、羅漢寺の入山方法が変更になります
・羅漢寺へ入山される際は、入山許可証が必要となります。
・仁王門前の受付で入山料志納後に、当日のみ有効の入山許可証が渡されますので、許可証をお持ちのうえ入山をお願い致します。
・なお、雨天、悪天候、山内整備時の関係で予告なく閉門する場合がございますので、ご注意ください。
●参拝にあたってのお願い(令和5年11月28日・改)
1、写真撮影禁止 カメラ等は持ち込み不可
2、携帯電話の使用禁止
3、動物同伴不可
4、飲酒者・喫煙不可
5、外国の方は要通訳同伴
6、持ち込みの食事不可
7、5名以上での団体の方は前日までに必ず事前連絡
8、登山(参拝)に適さない服装及び靴での入山不可
9、お寺内のトイレの使用不可。体調には十分留意
10、身体の優れない方やご不自由の方(急な石段が続き、緊急時の対応に時間がかかるため)
羅漢寺は入山許可証を得た後、耶馬渓リフトで上れます。
大分県日田市市街地北部の花月川沿いにある地区。江戸時代以降に建てられた建築群が現存し、国の重要伝統的建造物群保存地区(以下「重伝建地区」という)に、2015年4月24日には、「近世日本の教育遺産群-学ぶ心・礼節の本源-」の構成文化財として日本遺産に認定されている。
江戸時代の初頭に開かれた、御幸通り、上町通りの南北2筋の通り、東西5筋の通りで構成されている城下町または陣屋町である。筑後川水運の便もあり、市街南部の隈町とともに九州における商業、金融の一中心地として栄えた。江戸時代の商家や土蔵が多く残り、古い町並みが保存されている。
御幸通りでは、電柱を撤去し地下に埋める工事を行い、より伝統的町並みを再現している。それにより、国土交通省より2001年度(平成13年度)の美しいまちなみ大賞を受賞。2004年(平成16年)には重伝建地区に選定され町並み保存が行われている。
クランク状の道路は、旧城下町によく見られる枡形と呼ばれる造りで、わざと見通しを悪くして侵入者(敵)を待ち伏せするためとも、距離感を狂わせるためともいわれている。
江戸時代初めに小川氏・石川氏が城下町を作ったが、1639年(寛永16年)には、一部を除く日田郡は幕府直轄地となり、日田役所(日田陣屋、代官所)が置かれた。1767年(明和4年)には代官より格上の西国筋郡代が置かれ、江戸幕府の西国統治の拠点として重きをなした。
1772年(安永元年)、1887年(明治20年)の豆田大火で多数の商家を焼失するものの復興した。
1983年(昭和58年)には、豆田地区町並み保存推進協議会を設立し、町並み保存運動が行なわれた。
参考:おいでひた『豆田町』https://oidehita.com/archives/29493
参考:『日本一の「おんせん県」おおいた 味力も満載』大分県観光情報公式サイト→ https://www.visit-oita.jp/spots/detail/9217
参考:大分県日田市 『水が磨く郷』(公式サイト) ひたで食す→ https://oidehita.com/syokusu
山紫水明の里「水郷日田」で知られる日田市は、古くから鰻や鮎といった川魚料理が親しまれていました。
日田市内では、代々受け継がれてきた秘伝のタレで焼き上げる蒲焼や香りのよいセイロ蒸し、三つの味が楽しめる、ひつまぶしならぬ「ひたまぶし」など、こだわりの鰻料理が味わえます。
その他
北部
高千穂町観光協会→ https://takachiho-kanko.info/
高千穂峡(たかちほきょう)は、宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井にある五ヶ瀬川にかかる峡谷である。国の名勝、天然記念物に指定されている(五箇瀬川峡谷(高千穂峡谷))。真名井の滝、玉垂の滝、あららぎの滝などが有名である。
大噴火による阿蘇カルデラをつくった火山活動によって、約12万年前と約9万年前の2回に噴出した高温の軽石流(火砕流の一種)が、当時の五ヶ瀬川の峡谷沿いに厚く流れ下った。この火砕流堆積物が冷却固結し溶結凝灰岩となり、柱状節理が生じた。溶結凝灰岩は磨食を受けやすいため、五ヶ瀬川の侵食によって再びV字峡谷となったものが高千穂峡である。高さ80〜100mにも達する断崖が7kmにわたり続いており、これを総称して五ヶ瀬川峡谷(高千穂峡)と呼ぶ。
昭和9年(1934年)11月20日に名勝、天然記念物に指定された(「五箇瀬川峡谷(高千穂峡谷)」)。昭和40年(1965年)3月25日には祖母傾国定公園に指定された。
高千穂の夜神楽(たかちほのよかぐら)は、宮崎県西臼杵郡高千穂町に伝わる民俗芸能。毎年11月中旬から2月上旬にかけて、町内のおよそ20の集落でそれぞれ氏神を民家等に迎えて奉納される神楽の総称である。幸多き秋の実りに感謝し、来年の豊穣を祈願するため神々に33番の神楽を奉納する。その他、一般向けに天岩戸神社の「天岩戸夜神楽33番大公開まつり」(11月3日)や高千穂神社の「神話の高千穂夜神楽まつり」(11月22・23日)としても披露され、高千穂神社の神楽殿では年間を通じて毎夜観光客向けに代表的な4番を演じている。国の重要無形民俗文化財。
現在は神道信仰に基づく行事として行われているが、実態は狩猟採集文化や農耕文化の名残を留めつつ、修験道、陰陽道、仏教の影響、さらに国学による修正もうかがわれ、日本の文化を織り成す多様な要素が混在する。
伝承では、いわゆる岩戸隠れの神話の中で天照大神が岩窟天岩戸に篭った際、その前で天鈿女命が舞った舞に起源を持つと伝えるが、これは全国各地の神楽に対して一般に語られることである。
地元に残る文献資料としては文治5年(1189年)の「旭大神文書」(高千穂神社所蔵)にある「七日七夜のごじんらく」との記述が「神楽」に相当する語の、長禄4年(1460年)の「桑之内二神外宮宣命之状」(高千穂神社所蔵)が「神楽」の語の、宝暦4年(1754年)の古文書(五ケ所村庄屋の御用控帳)が「夜神楽」の語のそれぞれ初出であるとされる。
南部
鵜戸神宮公式サイト→ https://www.udojingu.or.jp/
宮崎県日南市にある神社である。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社に指定されている。 日向灘に面した断崖の中腹、東西38m、南北29m、高さ8.5mの岩窟(海食洞)内に本殿が鎮座し、参拝するには崖にそって作られた石段を降りる必要があり、神社としては珍しい「下り宮」となっている(←これは、大変珍しい)。境内地を含む付近の海岸は、波の浸食を受け形成された海食洞や波食棚が多くあり名勝に指定されている。
宮崎県串間市大納に属し、太平洋に面する岬。志布志湾の東端かつ日向灘の南端。
砂岩及び泥岩が互層となった山地が突出し、周囲は絶壁となっている。
野生の御崎馬が棲息することで知られ、「岬馬およびその繁殖地」として国の天然記念物に指定(昭和28年(1953年))されている。この野生馬は江戸時代に高鍋藩が軍用馬飼育のため、放牧を始めたものが、後に半野生化したものである。(詳しく下記串間市観光物産協会サイト「都井岬について」)
都井岬wikipediaより
参考:『都井岬』串間市観光物産協会サイト→ https://kushima-city.jp/toi/about/
野生馬ガイド→ https://toimisaki.wixsite.com/website
都井岬観光交流館PAKALAPAKA(休憩スペース)
九州南部に連なる霧島山の韓国岳、蝦野岳、白鳥山、甑岳に囲まれた盆地状の高原である。
標高は約1,200mあり、宮崎県えびの市の南東部に位置する。狭義のえびの高原は韓国岳北西斜面に広がる面積約0.8平方キロメートルのなだらかな火山性扇状地を指すが、広義では韓国岳、蝦野岳、白鳥山、甑岳に囲まれた面積約5平方キロメートルの盆地全体を指す。
霧島錦江湾国立公園の一部となっており、年間約80万人の観光客が訪れる。高原北部に不動池、六観音御池、白紫池(びゃくしいけ)などの火口湖が点在し、池を巡る自然研究路は「美しい日本の歩きたくなるみち500選」に選定されている。また、ここから韓国岳や大浪池への登山道が延びており、霧島山登山拠点の一つともなっている。温泉が湧出する保養地でもある。
地質は韓国岳火口から噴出した凝灰角礫岩や、硫黄(いおう)山、不動池、六観音御池、白紫池から噴出した完新世溶岩などで覆われている。地下4-5メートル付近に倒木が埋没している地層があり、火山活動と森林化が繰り返されたことを示している。
えびの高原wikipediaより
「西都原古墳群」宮崎公園協会→ https://mppf.or.jp/saito/about/
「西都原古墳群の概要」宮崎県立西都原考古博物館→ https://saito-muse.pref.miyazaki.jp/web/guidance.html
宮崎県西都市三宅・童子丸・右松にある古墳群。国の特別史跡に指定されている。
標高70メートル程の洪積層の台地上に分布する日本最大級の古墳群である。第81号墳を現状最古として、4世紀初頭から7世紀前半にかけての築造と推定されている。
現在、高塚墳319基が現存し、その内訳は前方後円墳31基、方墳2基、円墳286基[2]であるが、他に横穴墓が10基、南九州特有の地下式横穴墓が12基確認されている。
1912年(大正元年)から1917年(大正6年)にかけて日本で初めて本格的学術調査が行われた地としても有名である。調査は1912年(大正元年)12月25日から翌1913年(大正2年)1月6日に第1次調査、同年5月に第2次調査、1914年(大正3年)8月に第3次調査、1915年(大正4年)1月に第4次調査、1916年(大正5年)1月に第5次調査、同年12月から翌1917年(大正6年)1月に第6次調査が実施された。
1914年(大正3年)、出土品を収蔵するため宮崎県立史跡研究所が設立された。同研究所は後に市に移管され、1952年(昭和27年)に博物館法指定を受けた西都市立博物館となった時期を経て、現在は再び県立の西都原考古博物館として出土品の保管と展示を行っている。
1934年(昭和9年)に国の史跡に、1952年(昭和27年)に国の特別史跡に指定され、1966年(昭和41年)から1968年(昭和43年)にかけて、風土記の丘第1号として整備が進められた。
宮崎県日向市細島にある名勝である。
地元では昔から特徴的な海岸の景観から「十文字」と呼ばれていたが観光資源の開発に伴い、細島で民宿を経営していた原田一郎がポルトガル語で「十字」を意味する「クルス」に「海」を加えた「クルスの海」という名称をつけた。その後、海岸と岩礁が「叶」という漢字に見えることから観光地として「願いが叶うクルスの海」という名前が正式に制定された。
日豊海岸国定公園の日向岬に属しており、約1,500万年前の九州東部で起こった大規模な火山活動によって形成された柱状節理の地形にある。柱状節理が波浪による侵食で削り取られ、上空から見ると東西に200メートル、南北に220メートルに裂けた岩場と運河上になった海が十字に見えるところが特徴である。また、この地点には「願いが叶うクルスの鐘」が日向市によって設置されている。
また、当地は日向岬に属する馬ヶ背に並ぶ主要な観光スポットとして日向市に広報されている。特に近年はメディアでの露出が多く、ドライブスポットであるためHondaやSUBARUなど国内自動車メーカーのCMを始め、Audiなどの海外メーカーのプロモーションなどのロケ地として採用されている。
青島神社HP→ https://aoshima-jinja.jp/history/
青島神社(あおしまじんじゃ)は、宮崎県宮崎市青島にある、青島のほぼ中央に鎮座する神社で、周囲1.5kmの青島全島を境内地とする。旧社格は村社で、現在は神社本庁の別表神社。
青島は全島が熱帯・亜熱帯植物の群生地として、国の特別天然記念物に指定されている。
祭神
天津日高彦火火出見命(あまつひだかひこほほでみのみこと。彦火火出見命とも)とその妃神 豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、そして塩筒大神(しおづつのおおかみ)を祀る。
いずれも山幸海幸神話に因む神で、縁結び、安産、航海安全の神として信仰を集めている。
由緒
元来は海洋に対する信仰によって創祀されたと考えられ、古くから青島自体が霊域として崇められており、そこから後述するように江戸時代まで全島が禁足地とされていた。社伝によれば、山幸海幸神話で、彦火火出見命が海神宮(わたつみのみや)から帰還した際に青島に上陸して宮を営んだため、その宮跡に命と上記2柱の神を祀ったのに始まると伝えるが、寛文2年(1662年)の大地震で旧記古文書類を失った為に創祀の古伝の詳細はあきらかでない。
神社の旧記によれば、平安時代の日向国の国司の巡視記とされる『日向土産』なる書に「嵯峨天皇の御宇に奉崇(あがめまつる)青島大明神」と記され当時既に崇敬されていたと伝え、その後文亀3年(1503年)に伊東尹祐によって再興されて以降、伊東氏飫肥藩の篤い崇敬を受け、大永3年(1523年)、天正6年(1578年)、貞享4年(1687年)、寛保2年(1742年)、明和4年(1767年)、文化5年(1808年)と6度にもわたる社殿の造営・改修や、境内の保全事業が行われた。また、飫肥藩時代は藩士の中で土器(かわらけ)格の者1人を島奉行に任じ[注 2]、島内の樹林や磯辺を監守させた他、牛馬を渡島させたり発砲を禁じたりと一切の汚穢を警戒させていた[3]。元文2年(1737年)まで入島は神職と島奉行のみに限られ、村民は対岸の尖浜(現青島海水浴場)に拝所を設けて遙拝していたが、当時の神主であった長友肥後が藩主に解禁を申請し、以来一般人の渡島参詣が可能になった。
1871年(明治4年)、村社に列し、戦後は神社本庁の別表神社に指定された。
1881年(明治14年)に神社所有の境内地が上地され国有地となったが、戦後、神社が宗教法人となり、1949年(昭和24年)5月17日に国から境内地が返還されている。
青島神社wikipediaより
チキン南蛮(チキンなんばん)は、小麦粉と溶き卵を絡めた鶏肉を油で揚げ、甘酢(南蛮甘酢ダレ)に浸した宮崎県延岡市発祥の鶏肉料理である。
タルタルソースを掛けて提供されることも多い。
サンメッセ日南(宮崎観光ナビ) → https://www.kanko-miyazaki.jp/spot/1072
カツオと、| 宮崎県日南市カツオ一本釣り漁業 | 日本農業遺産→ https://nichinan-katsuo.com/
飫肥Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AB%E8%82%A5
2022年日本地理に出題。
[桜島(町)]
鹿児島県,桜島西部を占める鹿児島郡の旧町。大隅半島と陸続きになった1914年の大正噴火後,サツマイモ,サトウキビ,タバコ作から果樹・野菜栽培に転換し,ウンシュウミカン,桜島小ミカンをはじめビワ,桜島ダイコンなどを栽培。桜島港のある袴腰は島内観光の中心で,対岸の鹿児島港とフェリーで結ばれる。2004年11月鹿児島郡吉田町,揖宿郡喜入町,日置郡松元町,郡山町と鹿児島市へ編入。32.20km2。4782人(2003)。
出典 株式会社平凡社
2019年9月ちよろぎ撮影
霧島錦江湾国立公園→日本の国立公園の項へ
鹿児島市
2022年日本地理に出題。
現在地名:鹿児島市吉野町 磯
尚古集成(しようこしゆうせい)館の北隣にある。別名磯(いそ)庭園。万治年間(1658~61)鹿児島藩主島津光久によって島津氏別邸として築かれた。当地は桜島に面し、姶良(あいら)カルデラの絶壁を後背地として奇岩奇石が多く、中国竜虎山の仙巌に似ているところから仙巌園と名付けられたという。その後島津吉貴の時に曲水の庭や孟宗竹林が設けられ、さらに嘉永元年(一八四八)島津斉興は海岸を埋立て造園を大規模に行い、現在のような回遊式庭園が完成された。この庭園の特色は磯山を背景に前面に鹿児島湾と桜島の自然を取入れた借景庭園であることにある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」より
参考:仙巌園HP→ https://www.senganen.jp/
→集成館の項、参照。
仙巌園庭園 借景は鹿児島湾と桜島と雄大
2019年ちよろぎ撮影
仙巌園は薩摩藩主島津家の海浜別邸。
2022年日本地理に出題。
鹿児島県鹿児島市吉野町にある工場跡。幕末に薩摩藩28代藩主、島津斉彬(なりあきら)が造った近代工場群の跡。1959年(昭和34)に国の史跡に指定された。斉彬は1852年(嘉永5)に磯邸(吉野町磯)の竹林を切り開いて銑鉄を溶かす反射炉の建設に着手後、多くの工場を建設し、1857年(安政4)にこれらを総称して集成館と命名。反射炉のほか、大砲鋳場、木炭倉庫、溶鉱炉、機械所、役所、砲身に穴をあける鑚開台工場、製薬所、鍋釜製造所、ガラス(薩摩切り子)製造場などがあった。これらの工場では毎日約1200人の職人が働いていたといわれているが、斉彬の死後事業は縮小され、1863年(文久3)の薩英戦争で反射炉以外はほとんど焼失。この戦争によって西洋文明の優位を知った29代藩主・島津忠義は集成館の再興に着手し、さらに充実した工場群を建設したが、1871年(明治4)の廃藩置県後に官有となり、陸軍省の大砲製造所、海軍の造船所となった。1877年(明治10)の西南戦争では私学校の生徒が占拠。その後、1889年(明治22)に再び島津家の所有となり、1915年(大正4)に閉鎖。これら工場群のうち、1865年(慶応1)に竣工した蒸気鉄工機械所の建物が残され、島津家の歴史資料館・尚古集成館として活用されている。JR鹿児島本線ほか鹿児島駅から鹿児島交通バス「仙巌園前」下車、徒歩すぐ。
出典 講談社国指定史跡ガイド
旧集成館機械工場
2019年9月ちよろぎ撮影
尚古集成館 2024年9月まで休館。
元は機械工場として建てられたものでしたが、現在は、工場時代の機械や、薩摩切子、島津家の資料などが展示される博物館となっています。
明治日本の産業革命遺産 日本の世界遺産の項へ
2019年9月ちよろぎ撮影
中身が映っていなくてすみません。友人が是非に、とお薦めしてくれただけのことはあったです。美味でした。
薩摩半島
2022年日本地理に出題。
「重要伝統的建造物群保存地区一覧」と「各地区の保存・活用の取組み」(文化庁)
[南九州市 知覧] より
地区名:南九州市知覧
種別:武家町
面積;約18.6ヘクタール
選定年月日;昭和56年11月30日
南九州市は鹿児島県薩摩半島の南中央部に位置する。 江戸時代,薩摩藩は藩内を113の外城に分け統治し,各外城 には,麓と呼ばれる武家集落が形成された。 南九州市知覧伝統的建造物群保存地区もその麓の一部で, 江戸時代中期に整備されたと伝わる。御仮屋と呼ばれる行政 庁を中心に道路割をなし,防衛を兼ねた城塁型の地割をよく残 している。また,各屋敷には庭園が築かれ,主屋とよく調和して いる。通りに面した石垣の上に大刈込の生垣が続き,地域全体 が自然をよく取り入れた庭園都市的な造りとなっている。 庭園のなかでも特に意匠の優れたものは,昭和56年2月に知 覧麓庭園として国の名勝にも指定されている。
[知覧特攻平和会館]
知覧特攻平和会館(ちらんとっこうへいわかいかん)は、鹿児島県南九州市知覧町郡(旧川辺郡知覧町)にある歴史博物館。第二次世界大戦末期に編成された大日本帝国陸軍航空隊の特攻に関する資料を展示している。また、知覧特攻平和会館が建てられている場所とその周辺は、知覧平和公園として整備されている。
当時の戦闘機(引き揚げられたもの、レプリカなど)や三角兵舎が設置され、館内には遺品約4,500点、特攻隊員の遺影1,036柱などが展示されている。
まだ少年の面影のある特攻隊員たちの最後の手紙が展示されているが、読むにつけ、胸が痛く涙を誘う。また、少年たちの出発の思いをボランティアが伝える試みもなされている。
参考:知覧特攻平和会館Wikipedia(もう一度読んでおくこと)
参考:
2019年9月ちよろぎ撮影
2019年9月ちよろぎ撮影
2019年9月ちよろぎ撮影
2019年9月ちよろぎ撮影
参考:いぶすき観光ネット https://www.ibusuki.or.jp/spa/
参考:指宿温泉Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%87%E5%AE%BF%E6%B8%A9%E6%B3%89
参考:指宿砂むし温泉「砂むし会館 砂楽」http://ibusuki-saraku.jp/
参考:『ブラタモリ 「鹿児島・指宿~指宿のわっぜぇ火山は歴史を動かす!?~」 -NHKオンデマンド 』https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2024137026SA000/?np_banID=top_sp0012_137026
(有料。再生期限があります)
鹿児島県の西側の半島である薩摩半島の東端指宿市にある温泉郷。対岸の大隅半島と対している。温暖な亜熱帯気候であり、風光明媚。
砂蒸し風呂で知られ、上記の砂むし温泉施設のほか、ホテルにも砂むし施設がある。
高温の温泉蒸気が砂の下を通り、上から温泉成分が含まれた砂をさらにかけてもらうことにより、体全体があたたまり、筋肉痛・関節炎などに良い。腰や肩も楽になる。背後の開聞岳(薩摩富士)など火山銀座?の火山活動を身をもって体験できる。
付近の坊津は日本三津であり、諸外国と薩摩藩の交易の主要港であった。当地は薩摩藩、ひいては日本全体の南端にあるため、古来より諸外国の文化が入り混じる、先進地域であった。
付近にはほかに開聞岳、池田湖(湖竜イッシー)、知覧武家、知覧特攻平和会館など見どころが多い。
鹿児島県指宿市十二町(じゅうにちょう)にある縄文時代から平安時代にかけての複合遺跡である。
大正時代、ここで縄文土器と弥生土器が川の土手で発見されたが、大正時代まで明確でなかった縄文時代と弥生時代以降の時代の前後関係を初めて学術的に明らかにした遺跡である。大正時代までは縄文土器と弥生土器の違いは年代の違いではなく、使う民族の違いと考えられてきた。
しかし、ここで発見された縄文土器と弥生土器(現在では古墳時代後期と判明)の層と層の間に火山灰の層があったために、縄文土器と弥生土器は年代による違いだと分かった。歴史的大発見の地である。
なお、遺跡に隣接して「指宿市考古博物館時遊館coccoはしむれ」が建てられており、約1500年前の古墳時代のムラを実物大で再現して光と音の演出で当時の1日を追体験できるようになっている。
参考:ブラタモリ「鹿児島・指宿~指宿のわっぜぇ火山は歴史を動かす!?~」https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2024137026SA000/?np_banID=top_sp0012_137026
参考:橋牟礼川遺跡Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E7%89%9F%E7%A4%BC%E5%B7%9D%E9%81%BA%E8%B7%A1
参考:指宿市考古博物館時遊館coccoはしむれHP https://www.minc.ne.jp/cocco/display/displaypage2.htm
開聞岳
長崎鼻より開聞岳を望む
2019年9月ちよろぎ撮影
琉球から伝えられたサツマイモであるが、コメが育ちにくい開聞岳から降った徳光地区のスコリア土壌でよく育った。スコリア土壌は多孔質のため、通気性が良いがあたたかさを逃さない、サツマイモの生育に適していた。
江戸時代は何度も飢饉が起こっているが、薩摩藩だけはサツマイモのおかげで餓死者が出なかった。そこに目を付けたのが八代将軍徳川吉宗である。吉宗の代に享保の大飢饉が起こった。吉宗はサツマイモを救荒作物として重要視し、青木昆陽に小石川御薬園(現・小石川植物園)で研究させ、栽培の方法を全国に広めさせた。サツマイモは江戸時代の全国の飢饉に苦しむ人々を救ったといえる。薩摩から来た芋と言う事でサツマイモと呼ばれるようになった。
なお、指宿市にはサツマイモを琉球から伝えた前田利右衛門を祀る徳光神社がある。
参考:『ブラタモリ 「鹿児島・指宿~指宿のわっぜぇ火山は歴史を動かす!?~」 -NHKオンデマンド』(有料・公開期限有り) https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2024137026SA000/?np_banID=top_sp0012_137026
参考:『サツマイモ』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%84%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A2
参考:『徳光(とっこう)神社』(鹿児島県観光サイト「かごしまの旅」) https://www.kagoshima-kankou.com/guide/10687
九州で最も大きい湖。
鰻池の大ウナギ
2019.9ちよろぎ撮影
←↑
池田湖
2019.9 ちよろぎ撮影
指宿温泉の南の元々がマール地形(火山噴火の後の穴)だった山川港は、マール地形であるゆえに水深が深く、大型船が入りやすい天然の良港。しかも九州南端であるため、古くから国際貿易港として栄えていた。特に南蛮貿易や江戸時代の琉球貿易の拠点として知られる(琉球国との貿易が唯一認められた港だったので、現在も沖縄の石敢當が山川の町の至る所にある。貿易品は当時貴重な黒糖などで、その利益で藩の財政を再建させた)。
明治以降は遠洋漁業の基地として栄えたが、排他的経済水域の影響を受け、漁獲量は減少傾向にある。1984年に水産加工団地が作られ、練り物などの海産物の加工産業の場ともなった。
以前タモリさんがブラタモリで舐めた石は、細かい穴が多くなめるとしたが吸い付くような感じがするであるが、山川漁港付近でとれる山川石である。山川港付近で外壁によく使われるほか、滑らかさを愛した島津家の殿さまの墓石にも使われている。山川石は、柔らかくて細工がしやすく、黄色で美しく、風化もしないところが使われた理由とみられている。
参考:『山川漁港』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B7%9D%E6%BC%81%E6%B8%AF
参考:NHK『火山が生んだ良港が歴史を変えた?』(NHKアーカイブス ブラタモリ)
https://x.com/nhk_archives/status/1766735746726056019?s=20
参考:山川町漁業組合HP http://jf-yamagawa.jp/
池田湖が噴火した際に火砕流堆積物が積もってできた崖(積もった堆積物を海水の波が浸食した海食崖。地上30m・地下70m)が砕けて白っぽい砂浜ができている。崖の頂上に自噴する温泉が、砂浜に滝になって落ちている様はまさに生きた火山体験。
断層によって連続したカルデラ湖の池田湖や鰻池を初めとする3つのマール(水蒸気マグマ爆発の中でも激しい爆発が起こった時に作られる火山地形(吹き飛んだあとの穴。火口)が同時に噴火し、この大噴火で流れた火砕流が指宿の土地の基盤を形成した。
この海岸の堆積は指宿温泉の方まで続き、断層の通り道から熱い温泉が湧き、それが指宿温泉の源と言える。
参考:『伏目海岸』(海と港の恵み 指宿まるごと博物館) https://www.city.ibusuki.lg.jp/marugoto/spot/%E4%BC%8F%E7%9B%AE%E6%B5%B7%E5%B2%B8/
参考:『ブラタモリ 「鹿児島・指宿~指宿のわっぜぇ火山は歴史を動かす!?~」 -NHKオンデマンド』(有料・掲載期限があります) https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2024137026SA000/?np_banID=top_sp0012_137026
参考:火山学者に聞いてみよう -トピック編- 『身近の火山:九州・南西諸島 鰻池』
指宿市と対岸の大隅半島まで含む巨大カルデラがあった。
霧島温泉郷(鹿児島県観光サイト) https://www.kagoshima-kankou.com/guide/10092
霧島温泉郷wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%A7%E5%B3%B6%E6%B8%A9%E6%B3%89%E9%83%B7
2019.9 ちよろぎ撮影
鹿児島・九州・JR最南端の駅 2003年の沖縄都市モノレール線(ゆいレール)が開業するまでは日本最南端の駅であった。
直売所などがあるほかは、駅の周りは畑であった。
大隅半島
諸島
屋久島は鹿児島県大隅半島佐田岬から南西約60㎞に位置する円形に近い島。ほぼ全域が山地であり、1000m~1900m級の山が連なる。中央部には九州最高峰の宮之浦岳(1936m)がそびえている。ただし、島の周囲は高い崖で囲まれているため、中央部の山地は外からは見えない。屋久島は海の湿った風が山にぶつかり、大量の雨を降らせる。また山頂部には積雪がみられることがある。降水量が多いため、安房川、宮之浦川などの川が丸い屋久島を放射線状に流れている。そのため島の電源は水力発電に頼っている。また河川は急流が多く、大川の滝、千尋の滝、竜王滝などの名滝がある。
1992年3月13日に1992年3月13日に世界遺産条約の国会提出が閣議決定、6月30日に条約受諾書をユネスコへ送付。1992年10月1日、屋久島が世界遺産委員会へ推薦された。1993年12月11日、コロンビアのカルタヘナで開催された世界遺産委員会で、世界遺産リストに登録された。姫路城・法隆寺・白神山地とともに日本初であった。
登山・カヤック・沢登り・ダイビング・ウミガメ体験・満天の星空観察などのアウトドア体験ができるほか、古い集落や民俗資料館、屋久杉自然館などで「森と人の歴史」を知ることができる。食体験としてはサバやトビウオ等の海の幸、ヤクシカなどの山の幸、タンカンなどの郷の幸、焼酎などが味わえる。(上記のように雪が積もることもあるので登山準備はしっかりすること。下記屋久島観光協会のHPを熟読すること(←かなり親切)。登山届の提出、保険の加入など)
屋久島は1990年代、全国に先駆けてエコツーリズムを導入している。恵まれた自然環境を保護をしながら学びや体験ができることを目指している。少人数ツアーで自然の本質を知ってもらう取り組みだ。知ることで守りたくなる、を目指す。そのために町の条例で定められた「公認ガイド」がいる。ボランティアガイドではなく、研修で育て、職業として社会的な地位を確かなものとし、地元の雇用も創出している。
[屋久島へのアクセス] 飛行機・高速船・フェリー
[島内の交通手段] 路線バス、レンタカー、レンタルバイク、タクシー
参考:屋久島観光協会 https://yakukan.jp/spot/
参考:『世界遺産・屋久島が模索する「経済と環境のバランス」の着地点』(Globe +)
https://globe.asahi.com/article/13615450
参考:NHK『ブラタモリ』
参考:屋久島パンフレット・マップ(屋久島観光協会) https://yakukan.jp/safe-travel/brochure-download.html
参考:屋久島観光協会 https://yakukan.jp/spot/
参考:『世界遺産・屋久島が模索する「経済と環境のバランス」の着地点』(Globe +)
https://globe.asahi.com/article/13615450
参考:NHK『ブラタモリ』
屋久島の標高500mを超える山地に自生している杉を屋久杉(樹齢1000年を超えるような巨木を屋久杉、若い屋久杉を小杉)と呼ぶ。日本の自然景観の重要な要素であり、固有植物である杉のすぐれた生育地であることが評価されたことも、屋久島が世界自然遺産に選ばれた重要な要素である。
杉はもともと寿命が長く、500年くらいの樹齢を持つものがあるが、屋久杉の樹齢は抜群に長く、例えば、秀吉に伐採されてしまった『縄文杉』や2020年に倒壊した『翁杉』のように樹齢2000年を超えるものもある。
屋久杉は、屋久島中央にある、巨大な花崗岩の塊の上に生えるので栄養が乏しく大変ゆっくりと育つことで知られる。そのため材質が緻密(木目がつまっている)で樹脂分が多く、腐りにくいので長命なのだと言われる。そのため巨木が育つという。
また、1970年頃から自然保護の観点から屋久杉の保護運動が始まり、また、1993年に屋久島が世界自然遺産に指定されたことをきっかけに屋久杉の伐採には制限が設けられ、台風などによる倒木や伐採後の切株である土埋木(どまいぼく)のみが最終可能であったが、2019年土埋木も搬出が禁止となった。現在取引されているのはそれ以前に採集されたもののみである。
有名な屋久杉:
◎縄文杉 大株歩道沿いにある。1966年発見。幹周:16.4m、樹高:25.3m、樹齢:推定2,000年~
◎ウィルソン株 ウィルソン株 縄文杉登山ルート大株歩道沿いにある。幹周:13.8m、樹高:推定42m、樹齢:推定2,000年余。周囲には立ち入れないが、中には入れる。中から外を除くと空がハートの形に見えることで有名。
◎紀元杉 紀元杉 安房林道沿いにある。幹周:8.1m、樹高:19.5m、樹齢:推定3,000年。唯一車窓から見える場所にある。
◎大王杉 縄文杉登山ルート大株歩道沿いにある。幹周:11.1m、樹高:24.7m、樹齢:推定3,000年
参考:『屋久杉ってなあに?』(屋久杉自然館) http://www.yakusugi-museum.com/data-yakushima-yakusugi/203-about-yakusugi.html
参考:『屋久杉』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%8B%E4%B9%85%E6%9D%89
池田湖付近の専門店の屋久杉
保護規制の為、以前取れたものだけを売ることができるそう。
横にあるA2サイズくらいのポスターと比べると大きさがわかるかと思います。
鹿児島県、屋久(やく)島北東部にある渓谷。宮之浦川の支流、白谷川上流の標高600~700メートル付近に位置する。推定樹齢3000年の弥生(やよい)杉をはじめとする屋久杉や、花崗(かこう)岩の間を流れ落ちる滝などが見られる景勝地。面積4.24平方キロメートルの自然休養林がある。
出典 小学館デジタル大辞泉
一帯には豊富な雨量による花崗岩の浸食によって形成された太鼓岩などの巨岩が広がり、原生林に蔽われる。この原生林は一般に知られる屋久杉の密集地帯に移行する段階で、照葉樹林の仲間であるウラジロガシ、イスノキ、タブノキなどと共にツガ、モミなどの常緑樹林が混生する。弥生杉は樹齢3000年を誇る杉の巨木で、同渓谷のシンボル。
古くから景勝地として知られており、楠川歩道は江戸時代に花崗岩を駆使して設けられた歩道で、現在も散歩コースの一つとして活用されている。今日では屋久島の世界遺産登録によって、訪れる観光客は大幅に増え、九州を代表する渓谷の一つになった。また、至る所に杉が伐採された痕が見られるが、これは江戸時代に杉を伐採した名残である。
屋久島自然休養林に含まれる。しかし、霧島屋久国立公園の指定区域には含まれていない上、世界遺産の緩衝地帯(バッファゾーン)にも含まれていない。
『白谷雲水峡』Wikipediaより抜粋
*参考『World natural heritage 屋久島の世界自然遺産について』屋久島自然学校様
島の面積の約21%が世界遺産登録地域に当たります。実は有名な観光スポット白谷雲水峡やヤクスギランドは世界遺産登録地域には含まれていません。この二箇所は自然休養林といって林野庁所管の国有林内に設けられたレクリエーションのための森林エリアになります。自然環境の保全に配慮しつつも、標識類や散策道および休憩所等の整備を行い、比較的容易に屋久島の森を鑑賞できる場所です。つまり世界遺産の登録エリアを保護しながら屋久島の森を楽しんでもらうため国が推進している場所です。世界遺産登録地域ではありませんが、誰が見ても屋久島特有の【自然美(苔むした森や屋久杉の巨木】を堪能することができますのでおすすめのコースです。
<鹿児島県資料>
鹿児島県観光サイト(かごしまの旅)→パンフレット PDFダウンロード可能ページ
熊本県北東部、阿蘇郡にあった旧町名(阿蘇町(まち))。現在は阿蘇市の西部を占める。旧阿蘇町は1954年(昭和29)内牧(うちのまき)町と山田、黒川、尾ヶ石(おがいし)、永水(ながみず)の4村が合併して改称。町名は阿蘇郷(ごう)、阿蘇山に由来する。2005年(平成17)、一の宮町、波野(なみの)村と合併、市制施行して阿蘇市となった。旧阿蘇町域は阿蘇谷に位置し、JR豊肥(ほうひ)本線が通じる。開発が古いだけに、陸路(豊後(ぶんご)街道、国道57号、豊肥本線)は整っており、阿蘇駅付近、国道沿いに住宅が増えつつある。そのなかで内牧地区は、温泉街として阿蘇観光の基地的役割をいまなお担っている。周辺の火口原部では、水田裏作のほか、野菜栽培が本格化している。また、火山灰土壌に覆われた斜面部では「肥後の赤牛」の飼育が盛んである。昭和初期まで舞われていた「阿蘇の虎舞(とらまい)」(県指定無形民俗文化財)は、農村阿蘇の豊年祝いの舞である。[山口守人]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
2021年日本地理に阿蘇山が取り上げられ、阿蘇山の火山活動によって形成された大規模な凹地の名称を問う問題が出題された。
九州地方中部,熊本県北東部にある典型的な複式火山。活火山で,常時観測火山。最高点は高岳の標高 1592m。阿蘇くじゅう国立公園の中心。過去にはきわめて大規模な噴火活動があり,噴出溶岩は,直径約 200kmの範囲,北は山口県宇部市,東は大分県臼杵市,西は天草諸島の下島,長崎県佐世保市,南は人吉市にまで達した。東西約 18km,南北約 25kmの世界最大級のカルデラを擁し,標高約 900mの外輪山とカルデラ内に噴出した中央火口丘からなる。外輪山の外側斜面は緩傾斜で森林,畑,放牧地に利用されている。中央火口丘には,高岳,中岳(1506m),根子岳(1433m),烏帽子岳(1337m),杵島岳(1326m)の阿蘇五岳のほか,米塚,蛇ノ尾などの岩滓丘がある。中岳は 553年以来きわめて多くの爆発を記録し,今日も噴煙を上げている。高岳の鷲ヶ峰を中心とする北尾根は急峻な岩峰で,根子岳の天狗岩とともにロッククライミングに好適な岩場が多い。火口原は中央火口丘により北の阿蘇谷と南の南郷谷に二分され,それぞれ黒川と白川が流れる。両川は立野で合流し,白川本流となって,外輪山を破り熊本平野へ流出する。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[大観峰]
大観峰(だいかんぼう)は、熊本県阿蘇市にある山である。標高は935.9m。
阿蘇北外輪山の最高峰であり、阿蘇カルデラやそのカルデラ壁、そして中央火口丘である阿蘇五岳をはじめ、九重連山も一望することができる。至近には国道212号がカルデラ内外を繋いでおり、「ミルクロード」(熊本県道45号)沿いの当山へのアクセスは容易で、駐車場も整備されている。阿蘇エリアで一、二を争う人気の展望スポットとして知られており、多くの観光客を集める。
「大観峰」の名は、1922年(大正11年)5月に、熊本県出身の明治の文豪・ジャーナリスト、徳富蘇峰によって命名されたもの、古くは「遠見ヶ鼻」と呼称されていた。
2021年、城山展望所から外輪山を超えて湯布院方面に向かう道路名を問う問題が出題された。
大分県別府市の九州横断道路入口から、熊本県の一の宮を結ぶやまなみハイウェイは、 全長約58kmの交通の幹線道路である。正式名称を別府一の宮線といい、大分県別府市から始まり、湯布院町、九重町を通って、熊本県一の宮町へと至る。1964年6月の開通以後30年間、有料(全線1850円)であったが、1994年6月に全線無料開放されている。
山あいの高原地帯を貫くこの道路は、交通面で重要な幹線道路であると同時に、九州屈指のパノラマロードでもある。その中でも、特に美しい景観を見せるのがくじゅう・阿蘇地域である。この地域は、九重連山や阿蘇五岳といった山々と、ゆるやかに広がる高原の織りなす景観が非常に美しく、毎年、多くの観光客がここを訪れている。加えて、やまなみハイウェイの沿線沿いに、別府温泉、湯布院温泉、黒川温泉、長湯温泉など、数多くの温泉地が点在することも、多くの観光客が訪れる要因のひとつとなっている。
◎城山展望所(阿蘇市観光協会)→https://www.asocity-kanko.jp/spot/shiroyama/
◎阿蘇山公園道路→阿蘇山公園道路Wikipedia 熊本県阿蘇郡南阿蘇村から阿蘇市に至る有料道路である。
選択肢
◎エンゼルライン→福井県道107号泊小浜停車場泉Wikipedia(通称エンゼルライン) 福井県小浜市泊から同市駅前町に至る一般県道である。
◎ビーナスライン→ビーナスラインWikipedia 長野県茅野市から、同県上田市の美ヶ原高原美術館に至る全長約76キロメートルの観光道路である。
熊本県熊本市にある平山城。銀杏城ともいう。室町時代中期に菊池氏の一族出田氏が千葉城を築城し,のち鹿子木親員(かのこぎちかかず)が改築,隈本城と改称した。天正15(1587)年,豊臣秀吉の九州征伐後,佐々成政が入城したが,翌 16年,成政の死後,加藤清正が入城した。慶長6(1601)年,清正は大規模な築城工事を起こし,同 12年に竣工したといわれ,同時に熊本城と改称した。工事の監督には飯田覚兵衛,森本儀太夫があたり,城の全容は,7層の一ノ天守閣をはじめ,二ノ天守閣,櫓 49,櫓門 18,城門 29,これを擁するに,坪井川を内堀とし,白川と井芹川を外堀とする周囲 9kmに及ぶ豪壮なものとなった。銀杏城の名は清正が築城記念に 2本のイチョウを本丸前に植えたのに由来する。清正の子加藤忠広が,寛永9(1632)年出羽国庄内に配流になると,細川忠利が城主となり,以後明治維新にいたるまで細川氏の居城となった。明治4(1871)年ここに鎮台が置かれ,1877年西南戦争に際し,谷干城以下の籠城戦下において,宇土櫓を残し主要な建造物は焼失した。第2次世界大戦後,天守閣その他が再建された。2016年熊本地震が発生し,建物の損壊や石垣の崩落など大きな被害を受けた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
熊本城HP→特別公開の見どころ(15個の見どころ紹介動画つき)
[熊本城おもてなし武将隊]
↑↑ 現在の熊本城。平成28年(2016)4月14日・4月16日の熊本地震で大きく崩壊。30年計画で修復するとされており、2017年本格復旧に着手後、2021年天守閣(内部はエレベーター付き資料館になっている)が復旧完了した。
写真は、左上:直線で242mの長さを持つ長塀(国指定重要文化財)(熊本地震で倒壊したが2021年復旧)・右上:数寄屋丸二階大広間(平成元年再建)を眺めながら金属製の特別公開通路を進む・左下:崩落してシート+漆喰がかぶせられて雨を防いで再建を待つ有名な清正の6連続の曲がり角。四方を囲まれて標的になるクランクが6つもある・右下:2021年に復旧が完成した天守。大天守と小天守があるのが特徴。天守の前は広い舗装空間になった(2023年9月2日撮影:ちよろぎ)
熊本市中央区水前寺公園にある江戸初期の池泉回遊式庭園。肥後(ひご)藩主細川忠利(ただとし)は1632年(寛永9)熊本に入国したが、まもなく豊前(ぶぜん)(大分県)耶馬渓(やばけい)の羅漢寺(らかんじ)の僧玄宅和尚(げんたくおしょう)を開山として、水前寺をこの地に創建した。その後、寺院を他に移建し、その跡を忠利の別邸としてお茶屋を設け、1637、1638年ごろから築庭に着手した。作者は細川家の茶道役であった菅野甚斎を中心にした二、三の人で、完成は正保(しょうほう)から慶安(けいあん)にかけて(1644~1652)と思われる。その後、1670年(寛文10)細川綱利(つなとし)により手が加えられて今日の規模となり、陶淵明(とうえんめい)の詩からとって成趣園と名づけられた。面積約1万8265坪(約6万0275平方メートル)、池泉のみで約3600坪(約1万1880平方メートル)ある。池泉から清水が湧(わ)き、東部に富士形の大築山(つきやま)が連なり、池泉には三島を設ける。明治になって一般にも開放され、1912年(大正1)には、細川幽斎(ゆうさい)ゆかりの古今伝授(こきんでんじゅ)の間が京都から移築復原された。1925年(大正14)から水前寺公園の名で市民に親しまれ、国の指定名勝および史跡になっている。[重森完途]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
2021年日本地理に阿蘇の伏流水が湧出する池を中心にした庭園名を聞く設問があった。
国の名勝・史跡に指定されている、桃山式の回遊式庭園。
江戸初期の寛永9年(1632年)、肥後細川家・初代忠利公が御茶屋を建てたのが始まりで、その後、三代目・網利公の時に庭園が完成。中国の詩人・陶淵明の詩に由来して「成趣園」と呼ばれるようになりました。阿蘇の伏流水が静かに湧き出る園内には、能楽殿や大正元年(1912年)に京都御所内から移築された古今伝授の間も建っており、池を中心に築山、松などを眺めながら優雅に散策ができます。
また、3月下旬~4月上旬頃にかけては、散策路に沿って咲く桜が満開に。多くの花見客で賑わいます。
水前寺江津湖湧水群は、平成の名水百選にも認定されています。
引用:『水前寺成趣園(水前寺公園)』 熊本県公式観光サイトもっと、もーっと!くまもっと。
九州旅客鉄道の線路名称。熊本―大分間148.0キロメートル、全線単線。大分―下郡信号場(しもごおりしんごうじょう)間2.2キロメートルが交流電化。九州横断鉄道の一つ。熊本平野より白川の河谷沿いにさかのぼり、阿蘇(あそ)山の火口原を横断、阿蘇外輪山の分水嶺(ぶんすいれい)を越えて大野川流域に入り、竹田盆地を経て大分平野に達する。このため阿蘇高原線の愛称がある。大分側より犬飼(いぬかい)軽便線(1922年より犬飼線)、熊本側より宮地(みやじ)軽便線(1922年より宮地線)の名称で建設を進め、前者は1914~1925年(大正3~14)大分―玉来(たまらい)間を、後者は1914~1918年熊本―宮地間を開業したが、1928年(昭和3)玉来―宮地間の開業により両線が結ばれ、統合されて豊肥本線となった。阿蘇外輪山を越える部分に33‰(パーミル)の急勾配(こうばい)区間があり、火口原を横断する区間の景観は雄大である。1987年(昭和62)、日本国有鉄道の分割民営化に伴い、九州旅客鉄道に所属。
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
2016年4月の熊本地震で甚大な損害を受け、肥後大津駅 - 阿蘇駅間で不通となっていたが[9]、2020年8月8日に全線で運転を再開した。
JR豊肥線、4年4カ月ぶり全線開通 熊本地震から復旧(朝日新聞) 2020年8月8日 11時23分
→https://www.asahi.com/articles/ASN883QW1N88TIPE007.html
他の選択肢は、久大本線(久留米~大分)、筑豊本線(福岡県内を走る九州旅客鉄道の線路名称。若松―飯塚(いいづか)―原田(はるだ)間66.1キロメートル)、肥薩線(九州南西部を南北に貫く鉄道。 JR九州。全長 124.2km。八代 (熊本県) から人吉を経て鹿児島の北東部を通り,隼人で日豊本線と連絡する)
2020年日本地理。
熊本県北部,阿蘇郡南小国町にある温泉。九重(くじゆう)山(久住山)西麓の瀬ノ本高原の西方約5kmに位置し,筑後川の上流田原川沿いの溶岩の裂け目や河床から湯が豊富に湧出している。食塩泉,硫黄泉,47~96℃。外傷に特効がある湯として知られる。1964年九州横断道路(やまなみハイウェー)が開通してから近代的な旅館がふえたが,地蔵湯,薬師湯などには古くから湯治場として利用されてきたなごりがある。【岩本 政教】
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版
(一社)長崎県観光連盟 長崎県文化観光国際部観光振興課「ながさき旅ネット」→ https://www.nagasaki-tabinet.com/guide
長崎県参考動画
『(長崎県)大石賢吾知事 対談①(まちづくりや五島の魅力を熱弁)【わくわく観光経済講座】』【公式】チャンネル九州塾-九州観光機構-(youtube) https://youtu.be/FDw23_6bY2c?si=rS56AhTq4ninJNpl
『(長崎県)大石賢吾知事 対談②【わくわく観光経済講座】(政治家になるきっかけの出来事とは⁉ 100年に一度の転換期をに迎える長崎の今)』【公式】チャンネル九州塾-九州観光機構-(youtube)https://youtu.be/b6D6eMNx_vY?si=tz2p574ZIgfzzU0x
『(長崎県)大石賢吾知事 対談③【わくわく観光経済講座】(大石知事の人柄が垣間見える質問がぞくぞく!)』【公式】チャンネル九州塾-九州観光機構-(youtube)https://youtu.be/9bLwF2Qr5-0?si=O1XFrThT3R_DC56R
離島の多さ日本一。島の面積は、「島」が県土の4割。薬をドローンで五島に飛ばしている。ワーケーション、豊富な体験で長期滞在してもらう。五島うどんは日本三大うどん。繁殖・肥育。断トツの移住者。地元の熱量。
長崎市
毎年冬に長崎県長崎市で行われるイベントである。
長崎中華街の人々がまちの振興のため、中国の春節(旧正月)を祝う春節祭を取り入れて、春節祭に使う真っ赤な中国提灯(ランタン)を施設の前、公園、通りなど、町中に飾り、「長崎に息づく異国CHINA 再発見」をコンセプトに春節を祝う。
1986年に始められ、観光客たちに好評だったため、1987年から毎年開かれるようになった。
参考:『長崎ランタンフェスティバル』長崎観光サイト
2020年2月1日ちよろぎ撮影
商店街も道筋川筋もホテルもレストランも公的建物も真っ赤な提灯でいっぱいです。
参考:長崎市公式観光サイト「出島の歴史と現代の楽しみ方」 https://www.city.nagasaki.lg.jp/shimin/190001/192001/p000535.html
参考:出島阿蘭陀館跡(長崎市HP) https://www.city.nagasaki.lg.jp/shimin/190001/192001/p000535.html
参考:『出島』Wikipedia
長崎出島ワーフHP→ http://dejimawharf.com/
江戸時代の出島については、日本歴史-江戸時代の項へ
長崎旅ネット眼鏡橋Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%BC%E9%8F%A1%E6%A9%8B
『眼鏡橋』長崎旅ネット https://www.nagasaki-tabinet.com/guide/95
長崎眼鏡橋
2020年2月1日 ちよろぎ撮影
2021年日本地理問題に選択肢として出題。
長崎県の浦々で行われる競漕(きょうそう)行事。ペーロンの語は、「白竜(パイロン)」「飛竜(フェイロン)」「剗竜(チャンロン)」などの中国語の訛(なま)り。端午(たんご)の節に屈原(くつげん)の霊を慰めるために行ったという中国の競漕が伝えられたもので、江戸時代初期の長崎開港後まもなく始められた。船の大きさ・形態、漕(こ)ぎ手の人数、競技距離は浦々や時代によって一定ではない。現在長崎市で行われているものは、舷側(げんそく)に太陽、竜(りゅう)、波形などを描いた長さ13.5メートルの和船に、33名以内(漕ぎ手28名のほかに舵(かじ)取り、太鼓打ち、銅鑼(どら)たたき、閼伽汲(あかく)みなどが加わる)が乗り組むもので、6月第1日曜日から市内の各町内で予選が始まり、7月第4日曜日に長崎港内のグラバー邸の下あたりで、1950メートル(往路1200、復路750)の距離で決勝が行われる。熊本県水俣(みなまた)・津奈木(つなぎ)や兵庫県相生(あいおい)などでも行われている。西日本では船競技が盛んであるが、ペーロンの漕法上の特徴は、櫓(ろ)ではなく、漕ぎ手が前向きになって櫂(かい)を操作する点にあり、その点、沖縄県のハーリー、島根県美保や和歌山県熊野の諸手船(もろたぶね)神事や御船祭のものと似ている。現在では単なる熱狂的な競技となっているペーロンも、元来は竜神信仰などを基底とする農耕儀礼とかかわるものがあったのではないかといわれる。[田中宣一]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
長崎市以外
参考:『端島』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%AF%E5%B3%B6_(%E9%95%B7%E5%B4%8E%E7%9C%8C)
参考:『端島(軍艦島)』ながさき旅ネット https://www.nagasaki-tabinet.com/guide/51797
交通:
*長崎駅→長崎電軌1系統(路面電車)→大波止→長崎港ターミナル→周遊船→端島
(長崎電気軌道会社系統図→file:///C:/Users/dell/Downloads/202301040030217290.pdf)
*長崎駅→バス→大波止→長崎港ターミナル→周遊船→端島
*長崎駅から大波止までは徒歩10分~15分なので徒歩も可能そう。
◎Googleマップストリートビューで軍艦島を体験(GoogleJapanblog)→https://japan.googleblog.com/2013/06/blog-post_28.html
九州有数の炭鉱である端島の岩礁の周りを埋め立てて補修し、海底炭鉱の町として作られた人口島。
当時珍しかった高層階の鉄筋コンクリート造の高僧集合住宅が立ち並び、最盛期の1960年ころには東京以上の人口密度であったという(Wikipedia)。島内には小中学校、病院完備、パチンコホールや映画館などもあったという。水は海中に管を通して補給していた。
主要エネルギーが石炭から石油に代わって需要が少なくなったことで1974年(昭和49年)閉山。閉山に伴い、住民が退去して以来は無人の島となった。
2015年(平成27年)、国際記念物遺跡会議(イコモス)により、端島炭坑を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」がユネスコの世界文化遺産に登録された。
雲仙岳(うんぜんだけ)は、長崎県の島原半島中央部にそびえる火山。半島中央部にある20以上の山々の総称であり、山体の中心部は半島の中央を東西に横断する雲仙地溝内にある。島原市、南島原市、雲仙市にまたがる。現代でも火山活動が続いており、1991年5月から1996年5月に9432回の火砕流が観測された。特に1991年6月に発生した大規模火砕流では43人、1993年6月の火砕流でも1人が死亡し、慰霊活動が行われている。被災家屋は251棟、経済被害は約2300億円に達した。
雲仙岳wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B2%E4%BB%99%E5%B2%B3
雲仙地獄(ながさき旅ネット) https://www.nagasaki-tabinet.com/guide/62911
雲仙天草国立公園→日本の国立公園の項へ
はらじょう・はるのじょう
長崎県南島原市南有馬町乙にあった日本の城。国の史跡。別名、春城、志自岐原城、日暮城、有馬城。2018年6月30日に世界遺産登録が決まった長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産の構成遺産である。
1983年(昭和58年)開園した、現・長崎ハウステンボスのルーツ。オランダの町を再現したコンセプトは現・長崎ハウステンボスに受け継がれた。
ハウステンボス開園以降は、ハウステンボスのサテライトパークとして営業を続けたが、ハウステンボスの不振により、2001年閉園、跡地を西海市が購入してキャスビレッジ、ポートホールン長崎、再び長崎オランダ村として復活したが、2021年、施設の老朽化やコロナ禍による利用者減少により休園となり、惜しまれている。
参考:『ハウステンボス』長崎旅ネット(Googleストリートビュー有り) https://www.nagasaki-tabinet.com/guide/259
参考:『ハウステンボス』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%82%B9
参考:ハウステンボス公式サイト:https://www.huistenbosch.co.jp/
参考:『九州の礎を築いた群像 ハウステンボス編 (1)~』産経新聞社 連載
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長崎県佐世保市のテーマパーク 。1992年開園。ハウステンボスは「森の家」と言う意味で、もともと針尾工業団地として同地を県が開発したが、石油ショックと重なり工場誘致がうまくいかず、前身の長崎オランダ村の駐車場とすることになった。長崎オランダ村の創業者は、西彼町役場職員であった神近義邦氏であったが、「長崎県にゆかりの深いオランダの街並みを、路面に敷かれたレンガ一つまで忠実にそっくりそのまま大村湾の入江に再現する」という大胆なコンセプトで巨額な融資を受けて、かつオランダの専門家の指導の元で忠実にオランダの町並みが再現され、オランダ女王の公式来日の翌年に開園した。(女王は、居所であるハウステンボス宮殿の忠実な再現及び同名の命名を許している)
しかし、ハウステンボスは1992年の開業以来赤字続きで、2003年には会社更生法を申請して経営が破綻した。野村ホールディングス傘下の野村プリンシパル・ファイナンス(26年3月解散)が親会社となり、再建を目指すことになったが、2010年撤退。その後、旅行業者のH.I.Sが再三の佐世保市長の要請にこたえ、参入、再建に取り組んだ。
北松浦半島西岸に連なるリアス式海岸の群島である。全域が西海国立公園に指定されている。
参考:九十九島パールシーリゾート https://www.pearlsea.jp/99islands/introduction/
参考:九十九島(西海国立公園)Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%8D%81%E4%B9%9D%E5%B3%B6_(%E8%A5%BF%E6%B5%B7%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E5%85%AC%E5%9C%92)
2023年日本地理試験で、有田焼の名前を問う設問があった。
[有田焼]
有田焼(ありたやき)は、佐賀県有田町を中心に焼かれる磁器である。その積み出しが伊万里港からなされていたことにより、「伊万里(いまり)」や伊万里焼とも呼ばれる。泉山陶石、天草陶石などを原料としているが、磁器の種類によって使い分けている。作品は製造時期、様式などにより、初期伊万里、古九谷様式、柿右衛門様式、金襴手(きんらんで)などに大別される。また、これらとは別系統の献上用の極上品のみを焼いた作品があり藩窯で鍋島藩のものを「鍋島様式」、皇室に納められたものを「禁裏様式」と呼んでいる。江戸時代後期に各地で磁器生産が始まるまで、有田は日本国内で唯一、長期にわたって磁器の生産を続けていた。1977年(昭和52年)10月14日に経済産業大臣指定伝統工芸品に指定。
JR佐世保線有田駅-上有田駅間の沿線から煙突の立ち並ぶ風景が見られ、その町並みは『有田内山』として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
[有田焼と伊万里焼]
近世初期以来、有田、三川内(長崎県)、波佐見(長崎県)などで焼かれた肥前の磁器は、江戸時代には積み出し港の名を取って「伊万里」と呼ばれていた。また英語での呼称も "Imari" が一般的である。寛永15年(1638年)の『毛吹草』(松江重頼)には「唐津今利の焼物」とあり、唐津は土もの(陶器)、今利(伊万里)は石もの(磁器)を指すと考えられている。
明治以降、輸送手段が船から鉄道等の陸上交通へ移るにつれ、有田地区の製品を「有田焼」、伊万里地区の製品を「伊万里焼」と区別するようになった。有田を含む肥前磁器全般を指す名称としては「伊万里焼」が使用されている。
肥前磁器の焼造は17世紀初期の1610年代から始まった。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、有田を含む肥前の領主であった鍋島直茂に同行してきた陶工たちの一人の李参平は、1616年(元和2年)(1604年説あり)に有田東部の泉山で白磁鉱を発見し、近くの上白川に天狗谷窯を開き日本初の白磁を焼いたとされ、有田焼の祖である。李参平は日本名を「金ヶ江三兵衛(かながえさんべえ)」と称し、有田町龍泉寺の過去帳などにも記載されている実在の人物である。有田町では李参平を「陶祖」として尊重し祭神とする陶山神社(すえやまじんじゃ)もある。
有田は小山に囲まれた盆地にあり、この泉山の白磁鉱はもともとは茶褐色の火山性の流紋岩で、それが近くの英山(はなぶさやま)の噴火で蓋をされて、長い時間をかけて温泉効果で白色に替わり、「変質流紋岩火砕岩」と呼ばれている。この岩石を盆地に流れ混む小川に水車を応用して、細かく砕き陶土(磁器用土)として、また坂を利用して登り窯を作りやすかったという。
当時の有田では窯の中で生地を重ねる目積みの道具として朝鮮半島と同じ砂を用いており、胎土を用いる中国とは明らかに手法が違うことから焼成技術は朝鮮系のものとされる。一方で17世紀の朝鮮ではもっぱら白磁が製造され、染付や色絵の技法は発達していなかったため、図柄は中国製品に学んだと考えられ、絵具の呉須も中国人から入手したものと考えられている。
1637年(寛永14年)に鍋島藩は、伊万里・有田地区の窯場の統合・整理を敢行し、多くの陶工を廃業させて、窯場を有田の13箇所に限定した。こうして有田皿山が形成された。この頃までの有田焼を美術史・陶芸史ではしばしば初期伊万里と称する。陶石を精製する技術(水漉)が未発達だったことから、鉄分の粒子が表面に黒茶のシミ様となって現れていること、素焼きを行わないまま釉薬掛けをして焼成するため柔らかな釉調であること、形態的には6寸から7寸程度の大皿が多く、皿径と高台径の比がほぼ3対1の、いわゆる三分の一高台が多いことが特徴である。
17世紀後半、1660年代から生産が始まったいわゆる柿右衛門様式の磁器は、濁手(にごしで)と呼ばれる乳白色の生地に、上品な赤を主調とし、余白を生かした絵画的な文様を描いたものである。この種の磁器は初代酒井田柿右衛門が発明したものとされているが、研究の進展により、この種の磁器は柿右衛門個人の作品ではなく、明の海禁政策により景徳鎮の陶磁器を扱えなくなった肥前国平戸生まれの鄭成功が有田に目を付け、景徳鎮の赤絵の技術を持ち込み有田の窯場で総力をあげて生産されたものであることが分かっており、様式の差は窯の違いではなく、製造時期および顧客層の違いであることが分かっている(日本国内向けの古九谷様式に対し、柿右衛門様式は輸出に主眼が置かれていた)[3]。17世紀後半には、技術の進歩により純白に近い生地が作れるようになり、余白を生かした柿右衛門様式の磁器は輸出用の最高級品として製造された。
参考:『有田焼』wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E7%94%B0%E7%84%BC
参考:『有田焼とは』有田観光協会 ありたさんぽ https://www.arita.jp/aritaware/
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参考:『佐賀県の陶磁器』佐賀県(中学生向け郷土学習資料「佐賀巡り」) PDF https://www.pref.saga.lg.jp/kiji00366322/3_66322_123044_up_vqsbgrvt.pdf
参考:『唐津焼』唐津観光協会「旅Karatsu」https://www.karatsu-kankou.jp/guide/karatsu/
桃山時代から遡り、古い歴史を誇る伝統工芸「唐津焼」。諸説ありますが、近年の研究によると、1580年代頃、岸岳城城主波多氏の領地で焼かれたのが始まりとされています。その後、豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、朝鮮陶工を連れて帰り、その技術を取り入れたことで唐津焼は生産量を増していきます。
唐津港から積み出される唐津焼は京都・大阪をはじめとする西日本に広がり、焼き物のことを総称して「からつもの」と呼ぶほどに。また、茶道の世界では古くから「一井戸二楽三唐津」と言われるように、茶人たちから愛される茶陶としてその地位を確立していました。
参考:『唐津焼』Wikipedia ↓
唐津(からつやき)は、近世初期以来、現在の佐賀県東部・長崎県北部造された陶器の総称。日常雑器から茶器までさまざまな器種があり、作風・技法も多岐にわたる。茶碗は古くから「一楽二萩三唐津」と称されて名高い。分派の武雄古唐津焼と共に、日本の伝統的工芸品に指定されている。
唐津焼は、近世初頭から肥前国(現在の佐賀県および長崎県)に散在する諸窯で生産された陶器の総称である。唐津焼の名称は、製品が唐津の港から積み出されたことに由来するともいわれるが、定かではない。古唐津の窯跡は、現行の唐津市域のみならず佐賀県武雄市・伊万里市・有田町、長崎県佐世保市・平戸市などを含む広範囲に分布している。唐津市南部の旧・北波多村、旧相知町の区域には初期の古唐津の窯跡が残っているが、平成17年(2005年)の市町村合併以前の旧・唐津市の区域には古唐津の窯跡はほとんど残っていない。
伊万里、唐津などの肥前の陶磁器は、文禄元年(1592年)から慶長3年(1598年)に至る豊臣秀吉による朝鮮半島への出兵、いわゆる文禄・慶長の役(壬申倭乱)の際に、朝鮮半島から同行してきた陶工たちが祖国の技術を伝え、開窯したというのが通説になっていた。しかし、窯跡の調査、堺など消費地での陶片の出土状況などから、唐津焼の創始は文禄・慶長の役よりはやや早く、1580年代に開始されたとみられている。
天正19年(1591年)に没した千利休が所持していた道具の中には奥高麗茶碗(唐津焼の一種)の「子のこ餅」(ねのこもち)があったことが知られている。また、長崎県壱岐市の聖母宮(しょうもぐう)には天正20年(1592年)銘のある黒釉四耳壺があり、これが唐津の在銘最古遺品とされている。以上のことから、唐津焼の生産開始は遅くとも1591年以前であることがわかる。
文献上は、古田織部の慶長8年(1603年)の茶会記に、「唐津足有御水指」「唐津焼すじ水指」とあるのが、唐津焼の記録上の初見とされている。寛永15年(1638年)成立の松江重頼の俳論書『毛吹草』には「唐津今利ノ焼物」という文言があり、「唐津」が土もの(陶器)、「今利」(伊万里)が石もの(磁器)を意味すると解されている。瀬戸内海沿岸や山陰、北陸などの日本海沿岸の地域では、他地方で「せともの」と呼ぶ陶器質のうつわのことを「からつもの」と呼称することがあり、「唐津」は肥前産の陶器の代名詞であった。
参考:『佐賀県の陶磁器』佐賀県(中学生向け郷土学習資料「佐賀巡り」) PDF https://www.pref.saga.lg.jp/kiji00366322/3_66322_123044_up_vqsbgrvt.pdf
佐賀県唐津市呼子町呼子朝市通りで開かれる朝市。石川県輪島市の輪島朝市、千葉県勝浦市の勝浦朝市、岐阜県高山市の宮川朝市に次ぐ規模と歴史を有し、日本四大朝市とも称される。市道の通称「朝市通り」と名づけられた200mほどの通りに開かれる。
もとは呼子や近隣の島々の住民の生活型朝市だったが、国定公園の指定(玄海国定公園)やイカのブランド化など観光客が集まる観光型朝市となっている。朝市には魚介類、季節の野菜や花、果物などの品が並べられる。
「呼子のイカ」(国土交通省) https://www.mlit.go.jp/common/001253356.pdf
・・・呼子のイカとは?
九州北西部の佐賀県唐津市呼子町は、玄界灘で獲れた新鮮なイカが水揚げされている天然の良港です。
ここで獲れたとれたてのイカは、やはり活造りが一番!半透明に透き通った身、そして独特のコリッとした食感と甘みは至福の旨さです。
ぜひ一度本場の味をお楽しみ下さい!
また、沿岸漁業や離島航路、遊覧船など船が行き交う活気ある「みなとまち」である呼子では、町中いたるところに天日干しされたイカがならび、みなとまちの風情を感じさせます。
・・・日本三大朝市「呼子朝市」
「みなとオアシスよぶこ」の構成施設でもある「呼子朝市」では、元旦を除く毎朝7:30~12:00に朝市が開かれ、買い物客で賑わっています。店先のおばちゃんとのふれあいも、朝市ならではの魅力のひとつです♪
吉野ケ里遺跡
2023年7月25日撮影(chiyorogi)
大淀川(2024年出題)・筑後川は日本の川の項へ