2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表
参考:『富士山と信仰』富士見市 https://www.city.fujinomiya.lg.jp/1015150000/p001611.html
1, 古から繰り返された噴火
古から日本人は、噴火や溶岩の流出を繰り返す富士山は、恐ろしく且つ神秘的な山と考えられたために、古くから遥拝の対象であった。
富士山周辺には、富士山を意識したとされる(学説)1万3千年前~1万4千年前の住居址や配石遺構がいくつか発見されている。その後、日本における古代国家の統治システムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰り返す噴火を鎮めるため、富士山そのもの或いは富士山に鎮座する神を「浅間大神」として祀るようになり、各地に遥拝所としての浅間神社が建立され、国家の宗教政策の一端に位置づけられるようになった。
2, -修験道- 日本古来の山岳信仰と外来宗教の習合及び普及
12世紀頃より噴火活動が沈静化したことで富士山は日本古来の山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が習合した修験道の道場ともなり、修験者などが山中に分け入り、霊力を獲得するための修行する山へと変化していった。
この頃修行を行った人物として、数百度登山し、山頂に大日寺を構えたとされる末代上人(まつだいじょうにん)が有名である。
当時一般的であった神仏習合思想(本地垂迹説)により、山頂部は仏の世界(または仏が神の形となって現れる場所)として認識され、山頂部に至ることが重要な意味を持つようになった。この結果15~16世紀には、修験者に引率された衆人による信仰登山が盛んになり、登拝する山として一般に広く知られるようになった。登山道はいずれも14~15世紀後半に開かれたとされている。この頃には参詣の道者のための宿坊も出来始め、大勢の登山者のための整備が整い始めた。
八ツ子ノ梯子(目録)
参考:『富士山の基礎知識 7.富士山頂富士「八葉」の歴史』富士砂防事務所 https://www.cbr.mlit.go.jp/fujisabo/bosai/fuji_info/chisiki/c07/index.html
富士山頂部には「八葉」と呼ばれる8つの峰があります。古来、仏教でいう八葉蓮華(はちようれんげ:仏が坐(すわ)る八枚の弁をもつ蓮華座)にたとえられていたことに由来するもので、この八葉はこれまで様々な呼び名で呼ばれており、資料ごとでその名称が異なっています。明治時代の神仏分離令の影響を受け、富士山においても廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が起こり、富士山中の仏教系地名が神道系の名称に変えられました。
現在「お鉢巡り」と呼んでいる火口の周りを一周することも、この八葉の峰をめぐる「お八めぐり」が転化したものと考えられます。
この「八葉」の名称の歴史的名称の変化と、現在の「八葉」の名称及びその背景を紹介します。
●「八葉」の名称の由来
富士山の八葉についてはいくつかの由来があります。
・頂上の峰々を蓮の花の八弁に例えた説。
・富士山を蓮花に見立てたり、芙蓉峯と言ったりしたのは、
その姿が秀麗なところからきた説。
・八つの峰があることから芙蓉(蓮花)と称した説。
・芙蓉といわれることから「八朶」とつけた。
注)芙蓉とはハスの花の別称で美人の例え。富士山の雅称として芙蓉峰と呼ばれた。
●歴史的資料に見られる八葉の名称
歴史的な古文献(古図)等に見られる富士山頂の「八葉」は表-1の名称で呼ばれていた。
●現在の八葉の峰の名称由来と関係のある神仏
明治時代の廃仏毀釈前の神仏と関係の深い名称(表-1の名称)と現在の名称を繋ぐ山頂名と神仏との関係を表-2に示す。
[朝霧高原]
静岡県富士宮市(ふじのみやし)北方、富士山西斜面の裾野(すその)に広がる高原。標高500~900メートル。新富士溶岩やマサとよばれる固結した火山礫(れき)層からなる乏水地域で、三里ヶ原ともよばれた。第二次世界大戦中は戦車演習地であったが、戦後は開拓が進み、1954年(昭和29)集約酪農地域の指定を受け、放牧地、牧草地も広い。静岡県畜産技術研究所がある。駿河(するが)湾から暖湿な空気が南東の風で運ばれるときに霧が発生しやすい。国道139号が通り、観光地化も進み、野外スポーツ施設のある朝霧高原グリーンパークもある。JR富士宮駅からバス40分。[北川光雄]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
左が知多半島・右が渥美半島
三河湾も含め、位置再確認。既出問題。
愛知県南部、知多(ちた)、渥美(あつみ)両半島に抱かれた内湾。面積539平方キロメートル。知多半島寄りの知多湾、渥美半島寄りの渥美湾に区別してよぶこともある。伊勢(いせ)湾とは知多半島によって分けられ、水深は湾口の師崎(もろざき)水道、中山水道を除くと大部分が20メートル以下の浅海、湾岸は5メートル以下の遠浅の海で、埋立てによる臨海工業地帯の適地が多く、衣浦(きぬうら)港、三河港には広大な埋立地がつくられ、工業地帯となっている。湾内には島嶼(とうしょ)も多く佐久(さく)島、日間賀(ひまか)島、篠(しの)島をはじめ竹島、大島など小島が散在、それぞれ特色のある観光地となり、内湾、沿岸を含めて三河湾国定公園に指定されている。[伊藤郷平]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
本州ほぼ中央部太平洋岸の湾入。伊勢海ともいう。東は愛知県の渥美半島,西は三重県の志摩半島によっていだかれ,広義には三河湾,知多湾をも含んだ東西約 30km,南北約 60kmの広さとなる。狭義には知多半島と渥美半島先端を結ぶ線より以西の海域をさす。中央部で深さ約 30mの盆地状の海底をなすが,湾口は潮流に浸食され,水深 100mにも達する。更新世の間氷期には海進により内陸深くまで湾が入り込み,古伊勢湾を形成していたが,氷期には今日よりも狭かったことなどが,湾底の浸食谷によって知られる。湾奥部は濃尾平野,西岸は伊勢平野で,湾岸は名古屋市,四日市市,鈴鹿市の各市を中心とする臨海工業地域。水産物が豊富で,貝類は全国屈指の生産額を誇る。イセエビ,アマノリは特産。湾口付近は伊勢志摩国立公園,三河湾国定公園に属する。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
愛知県南部にある半島。知多半島とともに三河湾をいだく。基盤は赤石山脈の延長で,古生層から成る。その上を洪積層がおおい,全体に台地を形成。最高点は大山 (328m) 。台地は太平洋側が高く三河湾側が低い。太平洋側は海食が著しく,東部では 78mの高さに及ぶ海食崖が発達し,100年間におよそ 100mも海岸が後退した。かつてはシラス,カタクチイワシの地引網漁業が栄えたが,現在は行われていない。大山山麓南部から半島西端は温暖な気候を利用してエンドウ,ダイコン,花卉などを多産し,電照菊,メロン,トマトの温室園芸も盛ん。一部は 1958年三河湾国定公園に,また一部は 68年渥美半島県立自然公園に指定された。伊良湖岬のシーサイドゴルフ場や国民休暇村など観光開発が盛ん。半島中央部を国道 259号線が通じる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
2021年日本地理に愛知県の設問があり、伊勢湾と三河湾を隔てている半島名を聞く設問があった。
愛知県南部,伊勢湾に突出した半島。東部の渥美半島とともに三河湾を囲む。南北 40km,東西の幅は最大 14km,最小 5km。尾張丘陵の延長で,洪積台地や新第三紀層の丘陵が多く,標高は平均 100m前後。近世以来尾張藩の保護を受けて海運業が発達。半田の醸造業,常滑の窯業,知多の木綿工業などがある。1961年半島を南北に走る愛知用水が完成。この用水が北部の酪農,中部の花卉園芸,南部のミカン栽培に役立っている。名古屋市南部臨海工業地域の形成と関連して,北部丘陵地域の宅地化が著しい。南知多は気候温暖で風景が美しく,海水浴,潮干狩り,ミカン狩り,海釣りなどに名古屋から行楽客が多く集まる。三河湾国定公園,南知多県立自然公園に属し,国指定天然記念物の「羽豆神社の社叢」(ウバメガシなど),「鵜の山ウ繁殖地」や大御堂寺(通称野間大坊)などがある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
愛知県知多半島西岸の市。1954年市制。名鉄常滑線および空港線が通じる。平安時代中期に起源をもつ常滑焼で有名な窯業都市で,建築陶器,衛生陶器,陶管,鉢類,花器,茶器等を生産し,市の製造品出荷額の約4割(2003)を占めている。農村部では知多木綿を特産。愛知用水が通じ,ミカン,野菜の栽培も盛んである。北部の大野は近世江戸,大坂への回船の本拠地であった。伊勢湾岸にヨットハーバーや海水浴場がある。沖合には2005年2月に中部国際空港(セントレア)が開港,東海地方における空の玄関口となる。55.89km2。5万4858人(2010)。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
[中部国際空港](セントレア)
伊勢湾東部の海上を埋め立てて建設された国際空港。2008年の空港法で定められた拠点空港の会社管理空港で,旧第1種空港にあたる。愛知県常滑市の沖合い約 3kmに位置する。愛称セントレア。市街地にあるため大幅な拡張が難しい名古屋空港に代わって建設されたもので,騒音問題を避けるため海上への建設を計画,海流に与える影響を考慮して沖合人工島の設計を行なうなど,環境問題への配慮がなされた。1998年に経営主体となる中部国際空港株式会社が設立された。2000年8月に着工し,面積 5.8km2の人工島に 3500mの滑走路が完成,2005年2月17日に開港した。滑走路は 24時間の利用が可能で,中部地方におけるハブ空港を目指している。空港としての機能に加え,充実した商業施設を併設。近郊主要都市とは中部国際空港連絡道路(セントレアライン),名古屋鉄道空港線,フェリー航路で結ばれている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
2021年日本地理に赤レンガ建物でかつて製造されて、今復刻販売されているその品物名を答える出題があった。
愛知県知多(ちた)半島東岸にある市。1937年(昭和12)半田、亀崎(かめざき)、成岩(ならわ)の3町が合併して市制施行。JR武豊線(たけとよせん)、名古屋鉄道河和(こうわ)線が通り、衣浦(きぬうら)湾対岸の碧南(へきなん)市へは海底トンネルが通じる。国道247号、366号、南知多道路が南北に走り、知多半島横断道路が通じる。半島中央の丘陵上を愛知用水が貫流し、酪農、花卉(かき)栽培が行われる。古くから清酒、酢、みそなどの醸造業が盛んで、成岩地区は知多晒(さらし)(知多木綿)が特産。酒造は江戸中期に始まり、海運業の発達とともに発展した。1957年(昭和32)半田、亀崎、武豊、大浜など衣浦湾内8港が統合されて重要港湾衣浦港となり、臨海埋立地には金属、機械、繊維、食料品などの工業地帯が造成された。そのなかにあって伝統工業の醸造、繊維業も着実な発展を続けているのが注目される。文化財も多く国指定の重要文化財に常楽寺(じょうらくじ)の木造阿弥陀如来(あみだにょらい)立像、天王町の旧中埜(なかの)家住宅があり、重要無形民俗文化財(およびユネスコ無形文化遺産)に亀崎潮干(しおひ)祭の山車(だし)行事がある。面積47.42平方キロメートル、人口11万7884(2020)。[伊藤郷平]
『『半田市誌』全6巻(1968~1977・半田市)』▽『『新修半田市誌』全3冊(1989・半田市)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
[半田赤レンガ建物]
「半田赤レンガ建物」は、明治31(1898)年、横浜赤レンガ倉庫や日本橋(装飾部)なども手掛けた明治建築界の三巨匠の一人、妻木頼黄(つまきよりなか)の設計によるビールの製造工場として誕生しました。中空構造を持つ複壁や多重アーチ床など、現在ではほとんど例を見ない極めて貴重な建造物として、国の登録有形文化財、近代化産業遺産にも登録されています。
そして平成27(2015)年に耐震補強などの改修工事を終えてリニューアルオープンした「半田赤レンガ建物」。
建物内の「カフェ&ビアホール Re-BRICK」では地元の食材をつかった料理とともに、なんと“生”カブトビールが味わえます。
愛知県の公式観光ガイド AichiNow 『半田赤レンガ建物(旧カブトビール工場)』
◎醸造蔵のまち・武豊さんぽ
武豊町は、知多半島の中央部にある小さなまちです。JR武豊線の開通や衣浦港(武豊港)の開港によって醸造業が飛躍的に発展し、「みそとたまりの町」と呼ばれるようになりました。現在でも当時の歴史が色濃く残っている地域があり、ぶらり歩きにはもってこい。武豊駅から歩いて行ける蔵町さんぽ、新しい発見をお楽しみあれ。
◎黒板塀の続くノスタルジックなまち
温暖な気候と良質な水に恵まれた知多半島には、半田や常滑など醸造業の盛んな町が多くあります。その中でも武豊町は、昔ながらの製法が今も受け継がれている味噌蔵のまち。味噌蔵といえば、全国にある多くの蔵がステンレスタンクを使い、3か月ほどの温醸速醸で作られているのに対して、ここ武豊では、昔ながらの杉樽を使って2~3年もの月日をかけて天然醸造を行っています。しかもそのような蔵が、この時代にもかかわらず、5軒もあるというから驚きです。
◎「中定商店」で武豊の醸造文化を学ぶ。
小迎地区にある味噌・たまり蔵「中定商店」では、実際に使われていた蔵を醸造に関する展示施設「醸造伝承館」として公開しています。ここでは、味噌やたまりを醸造するときに使っていた道具や様々な資料が展示され、まるで小さな歴史民俗博物館のよう。
この「醸造伝承館」を、六代目当主・中川安憲さんに案内していただきました。
豆味噌は、大豆を蒸しあげて味噌玉にした後、種麹をまぶし、味噌玉麹を作るところからはじまります。中定商店では、「醸造物の味や香りの要となるのは、麹作りである」と、代々その研究に心血を注いできました。実際の味噌玉を見せていただきましたが、岡崎で見た八丁味噌の味噌玉よりもずっと小さいものであり、そのわずかな違いからも、異なる味わいを生んでいるのがわかります。
こうしてできた麹は、塩水を加えてもろみを作り、杉桶で3年熟成されます。様々な菌が棲みついた蔵や木桶を使うので、温度管理は非常に難しいものの、他にはない味わいが生まれます。とはいえ、それだけで美味しいものができるはずもありません。
冬場は仕込み、夏場は汲みかけと、職人が菌の働きをこまごまと手助けしながら、菌の育ちやすい環境を代々守り継いでいるからこそ、妥協のない美味しい味噌が生まれるのです。
そして、たまりも、豆味噌と同様の作り方をします。昔は味噌を作って、そこでできるたまりも同時に抽出し、販売していたそうですが、現在では別々に仕込んでいるそうです。
唯一違う点としては、底から上までつながっている筒を入れて、上がってきたたまりを表面にかける「くみかけ」。この作業を夏場は毎日、冬場は週に1回程度繰り返して、熟成の度合いを均一にしていきます。不思議なことに夏場には、天敵のカビから守るように、液が石より上まであがってくるのだとか。中川さんは、そういった瞬間に、菌はつくづく生き物だなと、より愛おしく感じるそうです。
この巨大な木桶は、大杉の八尺桶(高さ約2.4m)。これは、他の蔵で通常使われる六尺桶より約2.5倍も大きいサイズですが、中定商店では、20本も使われているそうです。
これだけの数を揃えている蔵は、全国的にみても珍しいといいます。
これらの立派な桶を見て思い出したのは、かつて、酒蔵を訪れた時に聞いた「今では桶やタガを作る職人さんがいない」という話。心配になって、こちらでは大丈夫ですか、と聞いてみたのですが、意外に問題ないとのこと。
そもそも江戸時代に栄えた知多の酒造業が廃業し、明治期にその蔵や杉桶、道具を再利用してはじまったのが、味噌やたまりの醸造業。これらは酒造りと違って桶が痛みにくく、何百年と長持ちするものだとか。
花子とアンロケ地
花子とアンの撮影時の花子の実家や教会が蔵座敷付近に移築されている。
参考:『韮崎宿豪商の蔵座敷』(山梨県韮崎市)(民俗資料館)
https://www.city.nirasaki.lg.jp/soshikiichiran/kyoikuka/bunkazaitanto/1_1/1/1364.html
名古屋市および周辺
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1610年(慶長15)、
大坂の豊臣方への備えとして、名古屋城の築城を開始します。
築城を命じられたのは、加藤清正、福島正則など、豊臣家に従ってきた西国大名20家。
これを天下普請(てんかぶしん)といいます。
徳川の威信をかけて築かれた名古屋城は、金鯱を頂く巨大な天守、絢爛豪華な本丸御殿、
広大な二之丸庭園、高い石垣と深い堀、堅固で巧妙な縄張などを備え、近世城郭の完成形
といえるものでした。
名古屋城は、江戸260年を通じて御三家筆頭・尾張徳川家の居城として栄えます。
築城にあわせて清須から町ぐるみの引越し「清須越」が行われ、現在の名古屋の街の原型となる、碁盤割(ごばんわり)の城下町が形成されました。
名古屋城は往時の姿をよく伝える国内屈指の城郭として、国の特別史跡(※)に指定されています。
名古屋のまちづくりの原点であり、名古屋文化を物語る名古屋城。
次代に語り継ぐべき、近世城郭の真髄に出会えます。
※特別史跡とは、文化財保護法により指定された史跡のうち、特に価値が高いと認められるもので、国宝と同格とされます。
ホームページ→ 『特別史跡 名古屋城公式ウェブサイト』(名古屋市) https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/
参考:『名古屋城』(【公式】名古屋市観光情報 名古屋コンシェルジェ) https://www.nagoya-info.jp/spot/detail/1/
参考:『名古屋城」Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%9F%8E
参考:『【名古屋城】お城博士と巡る「近世城郭の到達点」〜千田嘉博先生が解説(河江肖剰・戦国時代・徳川家康・加藤清正・エジプト・考古学・遺跡・歴史)』河江肖剰の歴史探訪Ch. https://youtu.be/iwNL8l93deE?si=1yXezcfihi7p2W0u
参考:『【本丸御殿】まさかのピラミッド発見!? 豪華絢爛の内部を“お城博士”こと千田嘉博先生が解説(名古屋城・河江肖剰・戦国時代・江戸時代・徳川家康・エジプト・考古学・遺跡・歴史)』河江肖剰の歴史探訪ch. https://youtu.be/BS-kio5j2V0?si=AU2BLkuQzhKCOi5y
2024年NHK朝ドラ『虎に翼』の舞台の一つ、東京地裁としてたびたび登場する。同じく名古屋市(昭和区)の鶴舞公園は、当時の日比谷公園、市役所本庁舎は大学校舎として登場する。同所は、過去にNHKドラマ『白洲次郎』『坂の上の雲』、TBSドラマ『VIVANT』にも登場した。なお、市政資料館は22年~79年に名古屋高裁・地裁として実際に使用されており、主人公のモデルである三淵嘉子も女性初の判事として地裁時代に勤務していた。
参考:『朝ドラ「虎に翼」のロケ地はどこ? あさイチでも話題「裁判所は…」』(毎日新聞) https://mainichi.jp/articles/20240411/k00/00m/200/403000c
熱田神宮の創祀は、三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)の鎮座に始まります。
第12代景行天皇の御代に、日本武尊(やまとたけるのみこと)は神剣を今の名古屋市緑区大高町火上山に留め置かれたまま三重県亀山市能褒野(のぼの)でなくなられました。
尊のお妃である宮簀媛命(みやすひめのみこと)は、神剣をここ熱田の地にお祀りになられました。
以来、伊勢の神宮につぐ格別に尊いお社として篤い崇敬をあつめ、延喜式名神大社・勅祭社(※)に列せられ
国家鎮護のお社として特別のお取り扱いを受ける一方、「熱田さま」「宮」と呼ばれ親しまれてきました。
約6万坪の境内には、樹齢1,000年を越える大楠が緑陰を宿し、宝物館には信仰の歴史を物語るものとして、
皇室を初め全国の崇敬者から寄せられた6,000余点もの奉納品が収蔵展示されています。また、剣の宝庫 草薙館では、当神宮に奉納された名刀約450口を順次展示しています。
境内外には本宮・別宮外43社が祀られ、主な祭典・神事だけでも年間70余度、昔ながらの尊い手振りのまま今日に伝えられています。
祭神の熱田大神とは、三種の神器の一つである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を御霊代(みたましろ)としてよらせられる天照大神のことです。
天照大神は、言うまでもなく、皇室の祖神とも至高至貴の神とも仰がれ、人々にいつくしみの徳をあたえられる神です。又、相殿神は「五神(ごしん)さま」と呼ばれ、草薙神剣とゆかりの深い神々で、宮簀媛命、建稲種命は尾張氏の遠祖として仰がれる神々です。
当神宮の鎮座は、日本武尊の御事蹟と深い関係があります。御父・景行天皇から信任を授かった日本武尊は、東征の帰途、尾張国造の御子(みこ)である宮簀媛命をお妃とされ、やがて草薙神剣をこの国に留めておなくなりになります。宮簀媛命は尊の御遺志を重んじて、神剣を今の熱田の地に祀られました。今からおよそ1,900年前になります。
公式HP https://www.atsutajingu.or.jp/jingu/about/
愛知県名古屋市熱田区神宮にある神社。式内社(名神大社)、尾張国三宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。宮中の四方拝で遥拝される一社。神紋は「五七桐竹紋」。古くから「熱田さん」と呼ばれて親しまれている。
名古屋市南部の熱田台地の南端に鎮座する。古くは伊勢湾に突出した岬上に位置していたが、周辺の干拓が進んだ現在はその面影は見られない。
三種の神器の1つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)を祀る神社として知られる。なおこの剣は、鎮座の後も、盗難に遭ったり(「草薙剣盗難事件」を参照)、形代が壇ノ浦の戦いで遺失するなどの受難にみまわれている(「天叢雲剣」を参照)。諸説あるものの、草薙神剣の創祀は景行天皇43年、熱田社の創建は仲哀天皇元年あるいは646年(大化2年)と伝わる。古くは尾張国(現愛知県西部地方)における地方大社として存在感を示し、中世以降は政治的・経済的に急速に台頭して、「日本第三之鎮守」(伊勢神宮、石清水八幡宮に継ぐとする意)(『熱田明神講式』)、「伊勢神宮に亞(つ)ぐ御由緒の尊い大社」(『熱田神宮略記』)とされるほどの国家的な崇拝を受けるに至る。
建物は伊勢神宮と同じ神明造であるが、1893年(明治26年)までは尾張造と呼ばれる独特の建築様式だった(境外摂社の氷上姉子神社に尾張造の建築様式が残っている)。
初詣には毎年200万人以上の参拝客が訪れる。
参考:『熱田神宮』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%B1%E7%94%B0%E7%A5%9E%E5%AE%AE
西尾市岩瀬文庫HP https://iwasebunko.jp/
愛知県西尾市亀沢町の鶴城公園内
西尾市岩瀬文庫は、重要文化財をふくむ古典籍から近代の実用書まで、幅広い分野と時代の蔵書8万冊余りを保存・公開する書物の博物館です。日本の本の長い歴史やゆたかな文化について体験しながら学べるユニークな展示を行なっています。
西尾市岩瀬文庫は、明治41年に西尾市須田町の実業家である岩瀬弥助が、本を通した社会貢献を志して創設した私立図書館として誕生しました。戦後に西尾市の施設となり、平成15年4月に日本初の「古書の博物館」としてリニューアル、平成19年12月7日に登録博物館となり、平成20年5月6日には創立100周年を迎えました。
重要文化財をふくむ古典籍から近代の実用書まで、幅広い分野と時代の蔵書8万冊余りを保存・公開し、日本の本の長い歴史やゆたかな文化について体験しながら学べるユニークな展示を行なっています。(HPより)
2025年5月24日(土)〜2025年8月24日(日)
江戸の出版文化と蔦屋重三郎〜日本出版物語〜
岩瀬文庫企画展100回記念特別展(前期)開催
展示終了後、手に取って読むことができる。
2022年日本地理問題に岐阜県、木曽山脈、島崎藤村を問う問題が出題。馬籠宿と島崎藤村は出題頻度多し。
◎馬籠
岐阜県中津川市東部にある一地区。長野県木曽(きそ)郡山口村に属していたが、2005年(平成17)山口村は中津川市に越県編入された。近世、中山道(なかせんどう)木曽十一宿の最南端にある宿駅として繁栄した。当時を示す民家や石畳、芭蕉(ばしょう)の「送られつ送りつ果ては木曽の秋」の句碑がある。また、島崎藤村(とうそん)の生地で、藤村の小説『夜明け前』の舞台として知られ、藤村記念館、藤村の筆になる「是(これ)より北木曽路」の碑などがある。馬籠峠を越えて妻籠(つまご)へ至るハイキングコースがある。
[小林寛義]
『瀬沼茂樹著『木曽路と島崎藤村』(1972・平凡社)』
[参照項目] | 島崎藤村 | 中津川(市) | 馬籠峠 | 山口
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
◎木曽山脈
本州の中央部を長野県の木曽谷と伊那谷に跨って南北に連なる、木曽川と天竜川に挟まれた山脈である。
伊那谷断層帯(伊那谷)と木曽山脈西縁断層帯(木曽谷)の間に連なる隆起山脈である。飛驒山脈(北アルプス)や赤石山脈(南アルプス)とともに日本アルプスを構成するが相対的には規模が小さい。最高峰は木曽駒ヶ岳の2,956mで、長野県歌「信濃の国」の歌詞にも出てくる。
◎島崎藤村
[生]明治5(1872).2.17. 長野,馬籠
[没]1943.8.22. 大磯
詩人,小説家。本名,春樹。 1891年明治学院卒業。 93年北村透谷らと『文学界』を創刊,浪漫主義文学運動の渦中に身を投じ,青春彷徨の日を過した。 97年近代詩の黎明を告げた詩集『若菜集』を出版,1901年の『落梅集』にいたる間,詩壇の第一人者として君臨。 04年それまでの詩集の合本『藤村詩集』を刊。その後詩作を絶ち,06年小説『破戒』により自然主義文学の出発を導き,その後も『春』 (1908) ,『家』,『桜の実の熟する時』 (14~18) ,『新生』を経て,『夜明け前』の大作を完成。 36年ペンクラブ会長,40年芸術院会員。『東方の門』 (43~) 執筆中に急逝した。常に新しいものへの情熱と知性の調和を失わない求道者的作家であった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『島崎藤村』
参考:『不破関跡』関ケ原観光ガイド(関ケ原古戦場おもてなし連合 関ケ原観光協会事務局) https://www.sekigahara1600.com/spot/fuwanosekiato.html
参考:『関ケ原の歴史 古代(飛鳥・奈良時代)』関ケ原町歴史民俗資料館 https://rekimin-sekigahara.jp/main/history/
参考:『不破関』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A0%B4%E9%96%A2
不破関(ふわのせき)は、古代東山道の関所の一つ。現在の岐阜県不破郡関ケ原町にあり、史跡としては不破関跡(美濃不破関跡)と呼ばれる。
歴史
創設
『日本書紀』巻第28壬申紀(天武天皇元年(672)6月壬午(22)条)によれば、壬申の乱(672年)において大海人皇子(後の天武天皇)が美濃国出身の舎人である村国連男依らに命じ、安八麿郡(安八郡)湯沐令の多臣品治(多品治)が郡で兵の徴発を行って「不破道」を塞ぎ、これが大きな勝因となった。
壬申の乱後、律令体制のもとで都の警護のため、東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関(あらち)とともに東山道に不破関が「三関(さんげん)」として整備された。
不破関の創設時期については、遺跡からの出土遺物のほとんどが8世紀初頭以降のもので、史料上「三関」の初見が『続日本紀』和銅元年(708) 3月乙卯(22)条であることなどから8世紀初頭と考えられている。
管理
軍防令置関条においては、関を置いて守固すべき場合は兵士を配し、分番で勤務・非番することとされた。特に不破関は三関であったことから、美濃国府の国司4等官が分番守固した。
不破関の範囲は1974年(昭和49年)からの調査で、藤古川の段丘崖を西側に、北、東、南の三方を土塁で囲む台形状で広さは12.4ヘクタールに及んでいた。
2023年(令和5年)には初期の政庁と考えられる8世紀前半の遺構が初めて確認された。
廃止
789年(延暦8年)、突如として三関停廃の詔が出され、兵器や粮糒(ろうび、食料のこと)は国府(美濃国府)に運収され、館舎は郡衙等へ移建された。ただし、三関停廃の詔以降も、灰釉陶器や山茶碗などの出土品がみられ、何らかの施設があったと想定されている。
関の停廃後も幕末まで儀礼的な「固関」(こげん)の儀式が行われた。最初に「固関」の儀式が行われたのは養老5年 (721年) 12月の元明太上天皇崩御の際で、持統太上天皇や文武天皇崩御の際に何故固関が行わなかったかについては議論がある。
現況
不破関資料館
現在の岐阜県不破郡関ケ原町松尾が不破関の所在地である。岐阜県と関ケ原町の指定史跡[4][5]。
敷地の一角には不破関資料館が設置され、発掘された和同開珎や陶器が展示されている。
参考:『不破関「正殿」跡か発見 構造や変遷手がかり 名大教授「大収穫」』読売新聞オンライン 岐阜のニュース
https://www.yomiuri.co.jp/local/gifu/news/20240909-OYTNT50148/
奈良時代に交通、軍事の要衝として東山道に設けられた「不破関」跡(関ヶ原町)に、関の中心的な建物「正殿」と推測される跡が見つかった。現地を発掘調査している名古屋大考古学研究室の梶原義実教授が明らかにした。正殿跡より新しい 掘立柱ほったてばしら 建物の跡も確認されており、「不破関の構造や変遷を明らかにする重要な手がかりだ」としている。
参考動画:『【古代関所の謎を解く!】令和6年度不破関跡発掘調査成果報告』名古屋大学考古学研究室 https://www.youtube.com/watch?v=mh-MkpScG-I
参考動画:『【潜入】不破関の発掘現場!その地で何が起こったか?(梶原義実・河江肖剰・名古屋大学・日本史・関ヶ原の戦い・歴史・遺跡・考古学)』河江肖剰の歴史探訪 https://youtu.be/XhDePkiC4fg?si=TJSTX4T_Ej90jeoi
上記2つにある正殿跡?の発掘研究をされている名古屋大学大学院人文研究科梶原義真教授にエジプト考古学の第一人者の名古屋大学高等研究院の河江肖剰准教授がインタビューしている。入門編としてわかりやすい。
(古代)三関(さんげん、さんかん)=愛発関(9世紀初~逢坂関)(福井県)、不破関(岐阜県)、鈴鹿関(三重県)
映画『君の名は』で主人公が食べた。
長良川は日本の河川の項へ→日本の河川の項
参考:『TABITABI郡上』一般社団法人 郡上市観光連盟 https://tabitabigujo.com/gujo/
参考:『郡上市』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1%E4%B8%8A%E5%B8%82
岐阜県の中濃地域にある市。郡上八幡の街並みや郡上おどり、白山信仰の地として知られている。
郡上市の中心市街地である八幡地区には近世以来の城下町の姿が保全されており、その景観から「奥美濃の小京都」と呼ばれ、全国京都会議にも加盟している。
位置
岐阜県のほぼ中央に位置し、飛騨高地の南にある山岳丘陵地帯である。平成の大合併前の郡上郡7町村全域を市域としているため、面積は1,000平方キロメートル以上と広大であり、岐阜県では隣接する高山市に次いで面積が広い。北に行くほど標高が高く、最高峰は標高1,810メートルの銚子ヶ峰である。
長良川の源流は大日ヶ岳であり、長良川の流域となっている地域が多いが、旧和良町などは飛騨川→そして木曽川に流れるほか、市域北部のひるがの高原は庄川流域、石徹白地区は九頭竜川流域に属し、太平洋・日本海それぞれへと流れていく。
人口の多くは旧郡上郡の政治・経済の中心である八幡町と福井県への玄関口であり交通の要所である白鳥町に集中する。
地域としては美濃地方の中濃地区に属し、地元では北濃や奥美濃とも呼ばれている。
参考:『水の町 郡上八幡』TABITABI郡上 https://tabitabigujo.com/appeal/traditionalwatersystem/
(わかりやすい地図イラストあり)
[郡上八幡]
参考:『八幡町』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%94%BA_(%E5%B2%90%E9%98%9C%E7%9C%8C)
八幡町(はちまんちょう)は、かつて岐阜県郡上郡にあった町である。2004年(平成16年)3月1日に郡上郡の7町村が合併して郡上市が発足し、八幡町は廃止された。
飛騨高地の南部に位置する。長良川が町域を北から南に貫流しており、市街地の標高は約200mで、町の東西の山地から支流が流れ込む。集落は長良川とその支流沿いに形成されており、長良川と支流の吉田川の合流点付近が市街地である。
郡上八幡(ぐじょうはちまん)と呼ばれることが多い。古くから郡上郡の政治・商業などの中心地として栄え、郡上市となってからは郡上市役所や岐阜県の出先機関が置かれている。
参考:『郡上八幡』観光公式 http://www.gujohachiman.com/kanko/
[郡上おどり]」
2024年7月13日~9月7日
徹夜踊り:2024年8月13日~16日
郡上おどりHP→『郡上おどり』郡上八幡産業振興公社 http://www.gujohachiman.com/kanko/odori.html
参考:『日本三大盆踊り 郡上おどり』TABITABI郡上 https://tabitabigujo.com/hachiman/gujo-odori/
日本三大盆踊りの一つ
郡上おどりは、徳島の阿波踊り、秋田の西馬音内盆踊りと合わせて日本三大盆踊りとされています。
また、1996年には全10曲が国重要無形民俗文化財の指定を受け、2022年には、郡上踊を含む「風流踊」がユネスコ無形文化遺産無形文化遺産に登録されています。
約30万人が来場!
郡上おどりは「おどり発祥祭」から始まり、盂蘭盆会(徹夜おどり)を含む「七大縁日」や各町内の縁日など30夜以上繰り広げられるロングラン。毎年訪れるファンも多く、2019年には約30万人が来場しています。
4日間徹夜で踊り明かす
8月13日~16日までの4日間、徹夜で踊り明かす「徹夜おどり」。現在は20時~翌朝5時までノンストップで踊り続けます。クライマックスとなる夜明けには、賑やかなはずのおどり場の空気がピンと張り、神聖な雰囲気をも感じることができます。
誰でも気軽に踊れる
郡上おどりは誰でも、どんな服装でも気軽に輪の中に入り、手や足を動かしているうちに踊れるようになるのも魅力。大きな輪に入り三味線・太鼓・笛・唄囃子に合わせて踊れば、きっと郡上おどりの虜になるでしょう。
参考:『郡上おどり』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1%E4%B8%8A%E3%81%8A%E3%81%A9%E3%82%8A
郡上おどり(ぐじょうおどり)或いは、郡上節(ぐじょうぶし)は、岐阜県郡上市八幡町(旧・郡上郡八幡町、通称「郡上八幡」)で開催される伝統的な盆踊りである。日本三大盆踊り[1]、三大民謡(郡上節)に数えられる。 毎年7月中旬から9月上旬まで32夜開催され、特に盂蘭盆会の徹夜踊りには、全国から数万人の踊り子が来場する。
中世の「念仏踊り」や「風流踊」の流れを汲むと考えられている。
盆踊りとしての体裁が整えられたのは、郡上藩主の奨励によるとされる。江戸時代、初代藩主・遠藤慶隆が領民親睦のため奨励したのが発祥とも、江戸時代中期の藩主・青山氏の時代(1758年〜)に百姓一揆(宝暦騒動)後の四民融和をはかるため奨励したのが発祥とも伝えられるが定かではない。
[宗祇水]
参考:『水の町 郡上八幡』TABITABI郡上 https://tabitabigujo.com/appeal/traditionalwatersystem/
参考:『宗祇水』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E7%A5%87%E6%B0%B4
宗祇水(そうぎすい)は岐阜県郡上市八幡町本町にある湧水。
小駄良川と吉田川の合流地付近に位置している。白雲水(はくうんすい)とも言われ、1985年(昭和60年)宗祇水(白雲水)として名水百選第1号に指定されている。また、1974年(昭和49年)に岐阜県指定の史跡にも指定されている。また郡上市の旧八幡町は人と自然が調和した交流文化のまちとして水の郷百選に選定されていて、宗祇水は名水スポットの一つになっている。
郡上八幡地域は年間2,800mmの降雨量がある豊かな水源林に涵養され、縄文鍾乳洞に代表されるカルスト地形の石灰岩に浸透し、八幡市街に数多く湧出する。
由緒
1471年(文明3年)篠脇城主東常縁が宗祇に古今伝授を終え、宗祇が帰京する際にこの泉水で東常縁が宗祇に
「もみじ葉の流るる竜田白雲の花のみよしの思ひ忘るな
の一首を、はなむけに詠ったと伝えられている。」
江戸時代には、郡上藩主金森頼錦や遠藤常友等らによって泉の保存と古今伝授が顕彰され、石の水場が整備された。水場は湧口から水源、飲料水、食糧米等洗場(スイカ冷やしにも利用)、野菜等洗場、さらし場(桶等をつけておく)と仕切りで分かれていて、現在でも地元の人達がとても大切に利用している。また、1917年(大正6年)9月、有志が集まり宗祇水奉賛会を結成して史跡保存に努めている。
[水舟]
参考:『八幡町(岐阜県)』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%94%BA_(%E5%B2%90%E9%98%9C%E7%9C%8C)
水の町
近世以降、伝統的水利用施設による山水や井水、河川等の利用が行われてきた。まず、河川や谷川の自然の流れや河川から引込んだ水路を利用した洗い場があり、「カワド」「洗い場」「水屋」などと呼ばれる。カワドは野菜の泥落とし、洗濯のすすぎ、夏の打ち水、積雪の処理(消雪)などに利用されている。このほか水路に板(セギ板)を落とし込んだ小規模の洗い場である「セギ」や、水路から水を引き込んですぐに水路に戻す「エイ箱」「エ箱」などがある。北町にみられる「セギ」は各戸の前の水路に溝が切られており、使用時にはセギ板を溝に落とし込んで水位を上げて洗い物などを行い、使用後はセギ板を抜いて水位を元に戻しておくもので、共同の洗い場ではなく各戸が随時使用できる個別の洗い場である。
また、山水を引き込んで段階的に使用する水受け用具を「水舟(みずぶね)」、それに上屋が付いたものを「水屋」といい、湧水を地面に埋められた水舟に引き込んで使用する施設を「清水(しみず)」という。水舟は2~3段になっている水槽で、上段は飲み水、中段はすすぎ水、下段は洗い水などに利用されている。カワドや水舟を紹介するものに大和ハウスのテレビCM、共創共生シリーズ「郡上八幡」篇がある。
1996年に水の郷百選に認定された。また、1996年に日本の音風景100選として「吉田川の川遊び」が選定された。
いがわこみち
最長の水路。遊歩道として整備されている。
やなか水のこみち
おもだか家民芸館・齋藤美術館・心の森ミュージアム 遊童館・ロートレックミュージアムといった観光施設が集中している。
吉田川親水遊歩道
公式→日本三名泉 下呂温泉旅館協同組合オフィシャルホームページ https://www.gero-spa.or.jp/
参考:『下呂温泉』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E5%91%82%E6%B8%A9%E6%B3%89
呂温泉(げろおんせん)は、岐阜県下呂市森にある温泉。室町時代には万里集九が有馬温泉や草津温泉とともに「三名泉」とし、江戸時代には林羅山もこれらの三温泉を「天下の三名泉」と記した(日本三名泉)(ただし、当時は下呂ではなく湯島と表記)。
泉質
アルカリ性単純温泉、源泉温度84度
温泉街
下呂駅から飛騨川(益田川)沿いを中心に旅館・ホテルが林立している。川沿いのほか、両岸の山腹部にも宿泊施設があり、多くは下呂駅とのシャトルバスの便がある。なお、下呂市の町名では川の西側が幸田(こうでん、下呂駅も含まれる。)、川の東側は下呂大橋(いで湯大橋)の先の道路(阿多野通り)の北側が湯之島、南側が森であり、この3地区にほとんどが含まれるが、最も北西側にある宿泊施設は旧・益田郡萩原町域(現在の下呂市萩原町西上田)に所在するものもある。
ホテル・旅館
旅館や高級ホテルからビジネスホテルまで、各種ホテルが多数ある。詳細は下呂温泉旅館協同組合のウェブサイトを参照のこと。ただし、一部に旅館組合非加盟の宿泊施設がある。大江戸温泉物語下呂新館など。
下呂温泉旅館協同組合では「湯めぐり手形」を発売している。有効期限はあるものの、「湯めぐり手形」1枚につき、手形加盟旅館の中から3箇所を選んで立ち寄りで、入浴することができる[5]。
外湯
外湯(公衆浴場)はクアガーデン露天風呂・白鷺の湯・幸乃湯の3ヶ所がある。
気候
下呂温泉の気候は山間内陸性気候である。周囲を山に囲まれている。1日のうちでも寒暖差があり、春や秋は着脱できる上着が必要である。
飛騨地方では南部、水系では太平洋側にあたるため、積雪はあるもののそれほど多くはない。
参考:『日本三名泉を楽しもう』下呂温泉観光協会 https://www.gero-spa.com/
参考:『飛騨の塩ブリ』ファミリーストアさとうネットショップ https://www.takayamasatou.com/free_9_79.html#:~:text=%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E3%81%AF%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E4%BB%A5%E5%A4%96%E3%81%8B%E3%82%89,%E5%A1%A9%E3%81%8C%E4%BD%BF%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
参考:『飛騨鰤』コトバンク(デジタル大辞泉プラス ) https://kotobank.jp/word/%E9%A3%9B%E9%A8%A8%E9%B0%A4-2097419
ぶりが山地の飛騨でとれるわけではなく、塩をして富山湾から運ばれてきたぶりを旅人に供していたところから始まったという。
[ブリ街道]
参考:『ぶり街道祭り』飛騨高山観光サイト https://www.hidatakayama.or.jp/event/detail_2304.html
かつて富山で取れたブリが飛騨を通り、信州まで運ばれ、その道を「ぶり街道」と呼んでいました。昔も今もブリは飛騨の年越しに欠かせない食材です。「ぶり街道祭り」では海鮮市場や汐ぶりの解体ショーを開催。当日限定の海鮮鍋や宮城県女川町から直送のさんまも販売します。飛騨の山奥で海の幸をどうぞ!
奥飛騨温泉郷と神岡間の国道471号
参考:『天生峠(国道360号)』白川村 https://www.vill.shirakawa.lg.jp/2216.htm
白川村と飛騨市を結ぶ境界にある峠で、天生県立自然公園に指定されています。白山連峰を望む絶景を満喫できます。
国道360号は冬季閉鎖となりました。
参考:『天生峠』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%94%9F%E5%B3%A0
天生峠(あもうとうげ)は、岐阜県飛騨市と大野郡白川村の境界上に位置する標高1,289mの峠。
概要
神通川流域の飛騨市から庄川流域の白川村へ抜ける国道360号にあり、白川郷からの標高差は約800mにもなる。峠に至る道は狭く、急坂・急カーブが連続する山岳路である。大型車(長さ8m以上)は通行不可である。普通車についても、積雪期である冬期は通行止めになるほか、元々地盤が弱いため無雪期も度々崖崩れによって通行止になる事が多い。閉鎖期間は例年11月半ば~5月末である。
峠一帯にブナをはじめとする落葉広葉樹の原生林が広がり、紅葉の名所として知られる。また、峠の周辺には岐阜県の天然記念物に指定されている天生湿原などの高層湿原が点在している。峠周辺の天生湿原を含む籾糠山など山域は、岐阜県の天生県立自然公園に指定されている。
なお、止利仏師は渡来人の一族とされるが、この峠を生誕地とする伝承もある。
泉鏡花の作品である『高野聖』において、語り部である僧侶がかつて旅をした地として、天生峠が登場する。
平湯温泉、福地温泉、新平湯温泉(元は一重ケ根温泉)、栃尾温泉、新穂高温泉
国道471号沿い
伊勢神宮には天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ。天照大御神)を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮の二つの正宮があり、一般に皇大神宮は内宮(ないくう)、豊受大神宮は外宮(げくう)と呼ばれる。
他の多くの神社は仏教建築の影響を受け、瓦屋根や朱塗りの建物に変わっていったが、伊勢神宮は神明造という古代の建築様式を受け継いでいる。これは弥生時代の高床倉庫が起源で、神へのお供え物をする特別な建物だったといわれている。また、式年遷宮が20年に一度行われる。この他、近世以前には、仏教用語を用いない「忌詞」の制度や、僧尼の立ち入りを制限する「僧尼遥拝所」が存在し、神宮寺も早期に廃止されるなど、伊勢神宮では仏法禁忌が比較的維持され、祭儀が一定程度古儀のまま継承された。
伊勢神宮wikipediaより
MAP→ https://ise-kanko.jp/cms/wp-content/uploads/2022/07/MAP_Iseoharaimachi-okage_202206.jpg
参考:『おはらい町・おかげ横丁』伊勢市観光協会 https://ise-kanko.jp/purpose/oharaimachi-okageyokocho/
参考:『内宮前 おはらい町・おかげ横丁』伊勢バリアフリー https://www.miebarifuri.com/isemymap/pdf/naiku.pdf
鈴鹿サーキット(すずかサーキット、Suzuka Circuit)は、三重県鈴鹿市にあるレーシングコースを中心としたレジャー施設。F1日本グランプリや鈴鹿8時間耐久ロードレースなどの開催で知られる事から日本モータースポーツファンの聖地でもある。レーシングコースの他に遊園地やホテル等があり、モビリティリゾート(自動車を題材とする行楽地)を形成している。
日本初の全面舗装と観客席の両方を備えたサーキットとして、1962年に本田技研工業(ホンダ)によって建設された。現在はホンダグループでモータースポーツ関連施設を運営する会社、ホンダモビリティランドによって運営されている。
1961年2月、ホンダの全額出資により運営母体となるモータースポーツランド(現ホンダモビリティランド)が設立され、同年6月に工事着工。1962年9月にサーキットが完成し、同年11月3日 - 4日にかけてオープニングレースとして第1回全日本選手権ロードレースが開催された。付帯施設を含む総工費は15億円(現代に換算すると255億円)に達した。
開業60周年を迎える2022年、3月1日にモビリティランドは社名を『ホンダモビリティランド』に変更するとともに、鈴鹿サーキットは30年ぶりにロゴマークを変更した。また、モートピアは『鈴鹿サーキットパーク』に変更された。