令和7年6月29日 管理者(名取)投稿
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茅野市宮川の「大森海苔・藤森商店」のこと・・・雑感です。
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私の実家は富士見で、帰省すると車で買い物や用事でよく茅野や上諏訪方面に行くのですが、もう10年以上前から、国道20号線を金沢から坂室トンネルを抜けてしばらく行くと、西茅野交差点の左に見える派手な「のり」の旗を掲げた店が目に入っていました。
本文は下記画像の下に続きます。
食品として好きな方ですが、海苔にそれほど関心のない私は立ち寄ることはありませんでしたが、いつも違和感があり、「海のない山国のこの辺になぜ唐突に海苔屋があるのか?」と車で通行する度に、素朴に思っていました。なにしろ、この辺は新興住宅街の感じで、ポツンと一軒だけ孤立するように店があるのです。藤森商店 : 会社案内
その違和感が自分なりに解消したのは、亡くなられた津金 正典 氏(69回生、下諏訪出身)から、このホームページへの寄稿令和3年2月24日 69回生 津金正典氏寄稿 という形で紹介していただいた小倉 美恵子著の「諏訪式。」諏訪式。 | 小倉 美惠子 |Amazon という本を読んでからでした。
この「諏訪式。」は私にはとても良い本で、他県出身の方が書いたのですが、諏訪の人々の誇りに思えることがたくさん記載されていました。諏訪の人々の農閑期出稼ぎとしての大森海苔産業についても多くのページが割かれています。
試みに、イーロン・マスクが開発した「Grok」というAIの力を借りて以下にその要約を示してみました。ただし、AIが提案したものに、かなり手を入れています。
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諏訪地方の人々は、江戸時代から冬の農閑期に海苔問屋での出稼ぎに従事しました。そして東京大森界隈の海苔問屋の多くが諏訪出身者で占められていきます(例:岩波海苔店、藤森商店など)。
海苔養殖や商いは冬場に盛んで、諏訪の労働力需要と合致しました。諏訪人の勤勉さは問屋の信頼を得て、独立や店持ちに繋がりました。
諏訪の人々は出稼ぎ前に諏訪明神に無事を祈願しました。「御湯花講」(1852年開始)は、諏訪明神への神楽奉納を通じて仲間意識を強化し、商取引の課題解決や相互扶助(無尽)を行いました。
「御湯花講」は、諏訪明神を「真ん中の空(空間)」として結束を強め、信頼の基盤を築いた。海苔の種子が諏訪の温泉の「湯の花」に由来する伝説も、信仰と商いの結びつきを象徴していたといいます。
諏訪人は大森だけでなく、佐賀の有明や三陸など全国の海苔養殖地を開拓し、技術と商才で海苔を全国区の食材に押し上げました。
昭和40年代の東京湾埋め立てまで、大森は海苔養殖の中心地だったが、都市化で養殖が縮小。諏訪出身者は定住し、店を構えるに至りました。 (小倉美恵子著「諏訪式。」からAIを用いて抜粋・要約)
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著者の小倉氏の大伯母が、大森で懸命に働く諏訪の人々を指して「寒い所から来た人は本当によく働く、まったくかなわねぇ」というのが口癖だったと書いています。庶民の方の口癖だけに信憑性は高く、誇りに思えます。
また、小倉氏は『京浜急行平和島駅から蒲田方面に歩くと「岩波海苔店」「守矢武夫商店」「藤森商店」「五味商店」「金子海苔店」「牛山正實商店」……と、諏訪でお馴染みの苗字の商店をいくつも見かける。さながら「リトル・トーキョー」ならぬ「リトル・スワ」と言いたいくらいだ。』とも書いていて、訪ねたい気持ちが起きました。
以上のように「諏訪式。」から、諏訪と大森海苔の関係の概要を得た私は、宮川にある藤森商店藤森商店 : 会社案内 も創業者が出稼ぎで成功して、故郷に出した店なのだろうと漠然と考えて納得し、そのままになっていました。
さて、先月5月の下旬に発行された清陵同窓会報51号の号外同窓会報51号号外 | 諏訪清陵高等学校同窓会 をみていると、東京支部女性部が3月に開催した街歩き行事<東京の諏訪を探して街歩きー大森編ー開催しました>の報告があるではありませんか。(報告抜粋→ 清陵同窓会報51号 号外より )大森には諏訪神社上社・下社があると言います。やはり「諏訪式。」を読んでの企画なのだろうかと勝手に考えつつ、どういうわけか、これは自分も次に帰省したら、実際に茅野市宮川の藤森商店に行かないといけないななどとこれも勝手に思い込んでいました。
そして、先日帰省した際に藤森商店に行きました。行くに際して、あらためて「諏訪式。」を読んでみると、何のことはない、すでに宮川の藤森商店のことが以下のように記述されていました。私が今まで気づかなかっただけでした。
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諏訪から出て店を持った最後の世代ともいわれる藤森邦美さんはやはり茅野の出身で、大森の梅屋敷に「藤森商店」を創業され、郷里にも工場を併設した店舗を開かれた。後発組だった邦美さんは、先輩たちとは違うアイデアをどんどん実行して基盤を築いたという。藤森商店の海苔は、湿気や紫外線を防ぐために包装にアルミフィルムを採用し、手巻き寿司サイズの缶海苔が人気を博すなど、現代人の需要に応える商品が多い。
「昔は家で七輪やコンロで焼き直したものだけれど、今はそのまま食べるでしょ。だから〝焼き"を深くして味を高めてるんです」と、変化する生活文化への視線の確かさを感じる。今は郷里の茅野で畑仕事に勤しむ隠居生活だが、大森の店は孫の俊哉さんが意欲的に取り組んでいる。
海苔商は「半日村」の青年たちの憧れの仕事でもあったようだ。 (小倉美恵子著「諏訪式。」から抜粋)
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いろいろ聞いてみようなどと浅はかにも思っていた私は、拍子抜けしましたが、それでも朝10時の開店と同時に藤森商店の扉をくぐりました。売り場は意外とこじんまりしていて、建物の大部分は加工工場のようでした。
女性の店員が一人いました。商品を一品購入してから店員の方に話を聞きました。女性は諏訪によくある(特に富士見の乙事という集落に多い)苗字のGさんということなので、諏訪の生まれか聞くと、県外から宮川に嫁いできたのだと言います。
創業者の藤森 邦美 氏はここからすぐの高部(たかべ)という集落の生まれだそうです。高部は諏訪大社上社本宮と同前宮との中間くらいにある集落で、神長官 守矢史料館もある由緒ある集落です。高部は西に山が迫り、日暮れが早く、上記の「諏訪式。」の記述で形容されているところです。
藤森 邦美 氏はすでに亡くなられているとのことで、お孫さんの俊哉氏が東京本店の社長を務め、茅野店と工場は俊哉氏の亡くなられた御父上の弟様(俊哉氏の叔父)が宰領しているとのことでした。俊哉氏は、頻繁に自ら車を運転して茅野の工場で出来上がった製品を東京に運搬しているとのことです。
Gさんが創業者の藤森 邦美 氏から聞いているところによると、邦美 氏は出稼ぎには行っていないということです。Gさんが聞いている話では、邦美 氏は、海苔の問屋を始めたいという希望をもって上京し、成功したいわば起業家と言ってもいい方のようです。
Gさんが「詳しい話が聞きたければ、少しなら時間が取れるので工場長を呼んできます」というので、「とんでもない」と辞退し、もし話が聞きたければアポイントを取って再訪しますと名刺を渡して伝えると、工場長に伝えておきますと丁寧に応対してくれました。
以下は私の勝手な推測です。
邦美 氏が育った戦後には大森への出稼ぎは下火になっていたので、出稼ぎには行かなかったものの、大森で問屋を運営する同郷の人たちやその子孫の努力と成功を聞き、また実際に東京で見て、邦美 氏は育ったのではないでしょうか。
そして、海苔問屋開業の夢に燃えて努力し、経緯はわかりませんが、昭和40年に大森に藤森商店を見事開業したのだと思います。
最後の方は推測になってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございます。
コメント等お待ちしています。(了)
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名取さま
藤森海苔店ですが、私も田舎に帰るときにはいつも寄って海苔を購入していました。
実は、藤森海苔店は、亡くなった妻の親戚で、妻の父(義父)は学校を卒業後すぐに大森の藤森海苔店に奉公に行っていたそうです。
諏訪と大森の繋がりも妻から聞いて初めて知りましたが、諏訪に在住の方も知らない人の方が多いかもしれません。
花岡 正