令和6年8月26日 管理者(名取)投稿
【触らぬ神にタタリなし-奈良の大仏と戦火-】
先月7月には、長屋王の怨霊が現代でも噂になっていること、平城京に奈良の大仏が造られたのは無実の罪で自殺に追い込まれた長屋王の怨霊によるタタリを封じるためだったという説を紹介しました。令和6年7月23日 管理者(名取)投稿 (google.com)
さて、それでは奈良の大仏はどのようなご利益(りやく)をもたらし、または仏罰を下したと権力者や民衆から考えられていたのでしょうか。まずは仏罰からみていきたいと思います。
歴史上有名ですが、平家の一門で、平清盛の息子の平重衡(たいらのしげひら)平重衡 - Wikipedia と戦国時代の武将である松永久秀(まつながひさひで)松永久秀 - Wikipedia に「大仏の仏罰」?が下されたとされています。
この二人はともに東大寺大仏殿を焼き討ちするという大罪!?を犯したと言われています。
平重衡は、治承4年(1180年)に平清盛の命により4万の大軍を率いて平家に反抗する興福寺を攻め、その結果大仏殿は焼け、大仏も焼け落ちてしまいました。平重衡は源平合戦の一の谷の戦いで源氏の捕虜となりました。平家が滅びた後、引き渡しのために奈良に護送される途中、木津川まで来た時に首を斬られています。令和4年春の歩こう会で木津を散策した時、平重衡のお墓にお参りしました。令和4年春季行事実施状況 参加した方は覚えておられると思います。
平家物語には「大仏を焼いたタタリで首を斬られたと噂された」と書かれています。多少気の毒に思えるのは、一説には当初は、戦場を明るくするための小規模の付け火で、大仏殿を焼くつもりはなかったが、不幸にも燃え広がって大仏殿が焼け落ちてしまったと伝っていることです。
(本文は以下の画像の下に続きます。)
左:平重衡の墓 右:平重衡 画像 いずれも木津川市 安福寺
松永久秀は、信長が上洛する前年の永禄10年(1567年)10月10日に、対立する三好三人衆の立て籠る東大寺を攻めて、兵火により大仏は焼け落ちました。
上洛した信長にとりあえず従った松永久秀は、その後、信長に従ったり離反したりと一筋縄ではいかない曲者のような態度を取り続けました。しかし、東大寺を焼き討ちした10年後の天正5年(1577年)についに反旗を翻して信貴山城に立て籠もり、包囲されて10月10日に城に火を放って自害しました。信長公記には「10年前に東大寺大仏殿が焼き払われた日と同月同日であったことから、兵達は春日明神の神罰だと噂した」と書かれています。
私は、この2件の歴史上の出来事は、日本人に「触らぬ神にタタリなし」という、恐らく多くの日本人の脳裏にある無意識の「教え」を形作るのに大きな貢献をしていると思います。このような事件や比叡山を焼き討ちした信長が本能寺で自害に至ったこととも相まって、仏教界の中から「触らぬ神にタタリなし」として民間に折に触れて伝えられてきたのではないでしょうか。
考えてみれば、応仁の乱や戦国時代には数知れぬ寺社や仏像が焼かれていますが、その中で上記の大仏焼き討ちの2件がとりわけ大きく後世に伝えられているのは、やはり言うまでもなく奈良の大仏と大仏殿が莫大な資本を投下した巨大なものであったからだと思います。
それでは、奈良の大仏は「仏罰」は下したと認識されているとして、「ご利益」と言われたものはあったのでしょうか。
それは「なかった」と思われたのではないかと思います。下図にありますように、聖武天皇と光明皇后が長屋王の怨念を封じ、後継の男子に恵まれるように当時の我が国の総力を挙げて建造したと思われる奈良の大仏でしたが、その願いはかないませんでした。
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聖武天皇は男子に恵まれず、娘をとりあえず孝謙・称徳天皇(2回天皇になっている)として即位させますが、聖武天皇は男子が生まれないまま崩御したため、称徳天皇の次には光仁天皇(天智天皇の孫)という天智天皇系の天皇が、壬申の乱で皇統が天武天皇系に移ってから、100年ぶりに即位することになりました。
聖武天皇と光明皇后にとってはご利益はなかったのです。光仁天皇の息子が桓武天皇であり、やがてご利益のない東大寺と大仏のある都にいても運は開けないと思った(?)のでしょうか、奇跡的に皇統が天智天皇系に戻ってきたのを機に、奈良を離れて山背の長岡そして平安京に遷都することになります。
ご利益はないかもしれないが、とにかく神仏はたたられないようにそっとしておかなければいけない。私たち多くの日本人のこういった意識は上記のような数々の歴史によって形作られてきたのかもしれません。
◆ 個人的に「触らぬ神にタタリなし」というものを体験したのは、3年ほど前のことでした。
私は数年前から、週に1度くらいの頻度でボランティア団体に加わってある大阪府の公園の竹林の管理作業をしているのですが、その竹林の中に崩れかかった稲荷神社のような小さな社がありました。景観や作業上からも撤去した方がいいのではないかということになり、管轄する大阪府の公園事務所と話し合いました。
すぐに撤去してくれると思いきや、よくわからないのですが、どうも撤去は気が進まないという話でした。話を聞いてみると、正式に勧請したものではなく、個人の手作りで、10年くらい前までは毎日数人が熱心にお参りしていたと事務所の方は言います。私が、今はお参りする人がいないから撤去してもいいのではないかというとあれこれ言って作業するとは言いません。
正直言うと私はその時、無神経にも事務所の方に笑いながらですが、「まさかタタリが怖いとおっしゃるんじゃないでしょうね。そんなものないですよ」と言ったのですが、事務所の方は静かに笑っていてそれには答えませんでした。
そのうち、ボランティアの中から、「私が面倒を見ますから残しましょう」という申し出がお二人からありました。それで話し合いは終結しました。
今はその方たちのおかげで、社も少しずつ修復され、周辺も整備されていますが、お参りする人はいません。
◆ 参考資料 井沢元彦著、逆説の日本史第2巻及び3巻、小学館
ここまでお目通しいただきありがとうございました。
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