令和6年10月22日 管理者(名取)投稿
【清陵第一校歌八番「それサクセンの林中に独逸の国の力あり・・・」・伊藤長七作詞の背景-私的推論と考察-】
先輩方のご尽力により20年ぶりに再版された『矢崎秀彦著「寒水 伊藤長七伝」』(以下、伝記と略)https://x.gd/AJoJS を、2週間くらい前にようやく読み終えました。諏訪が生んだ偉大な教育者である伊藤長七の人物像は同じ諏訪出身の人間として本当に誇りに思えるものでした。
一方で、長七は清陵の第一校歌の作詞者で、東京高等師範学校(現筑波大学)在学中の明治36年(1903年)に、在校生の依頼により作詞を行いました(伝記136ページ)。伝記の中でこの経緯は4ページにわたって書かれていますが、歌詞の意味や背景などは特に書かれていません。ちなみに、作詞時の長七は若干26歳の青年です。
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ところが、伝記のページ数も終わりに近づいた404ページに、長七が亡くなる前年の昭和4年に長七が書いた「山からの文化(すこやかなる心身へ三)」という文章が掲載されていました。それを読んだ時、思わず第一校歌の八番の歌詞が頭をよぎりました。その文章は山を通じて人間性を鍛えることの重要性を延々と書いているのですが、歌詞に関連すると思われる末尾の部分を以下に示します。
(前略)
繰り返していう。日本現代の文化に最も欠けるところは、素朴にして純真なる山の感化そのものである。自由はドイツの山林より生まれたという。けれども山おろしのすがすがしい風に純化されるものは、自由ばかりではない。いはゆる思想善導などは、ただ総動員などと鳴り物いりのやり方のみではなく、曙の光は山からさして来るということに心付かねばならぬと思う。(四年九月一日) (「すこやかなる心身へ」)
(矢崎秀彦著「寒水 伊藤長七伝」より抜粋、引用。下線・赤字は名取による。)
「自由はドイツの山林より生まれたという」と書いているではないですか。ご存じのように第一校歌八番は以下のような歌詞です。ドイツつながりというわけです。余談ですが、どういうわけかこの八番に来ると急に手拍子入りでテンポが速くなりました。今もそうです。その理由はいまだにわかりません。
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話を戻します。ヨーロッパで「自由」といえばフランスが本場で、その次にイギリスというのが相場ではないかと思いますが、ドイツが出てきたのは意外でした。そこで調べてみると自由民権現代研究会代表 中村英一という方の「自由民権運動の壮士たち 第17回 『自由は深い森の中から生まれるという名の新聞を発行した男 森多平(もり たへい 長野県)』」という論文を見出すことができました。自由民権現代研究会
この中で中村氏は以下のように書いています。
三権分立という思想は、フランスの哲学者であるモンテスキューが彼の著作である『法の精神』の中で提唱したとされています。この『法の精神』の中でモンテスキューは、ローマ帝国時代の歴史学者であるタキトゥスが古代ゲルマンについて書いた『ゲルマニア』を引用して、イギリス人の祖先である古代ゲルマン人は森の中に住んでいた。彼らは満月の夜に山上に集まり、身分を越えて自由に討議して、大きな問題について決定する習慣があった。イギリス人は、この習慣を議会という政治体制として受け継いだのだ、という説明をしました。(自由民権現代研究会 より抜粋、引用。赤字、下線は名取による。)
長七の「自由はドイツの山林より生まれたという」記述は多分このことを指しているのではないかと思います。
さて、ドイツつながりの関連の中で八番の歌詞を見てみたいと思います。
「それサクセンの林中に」のサクセンはドイツということから、まず間違いなく、当時(作詞当時の1903年)存在していたザクセン王国ザクセン王国 - Wikipedia のことと考えてよいと思います。ザクセン王国は当時のドイツ帝国を形成する22の王国のひとつでした。当時、ビスマルクの活躍もあって、普墺戦争普墺戦争 - Wikipedia でオーストリアを破ってドイツ統一の主導権を握り、普仏戦争普仏戦争 - Wikipedia でフランスをも破ったプロイセンは1871年にドイツをオーストリア抜きで統一し、ドイツ帝国ドイツ帝国|世界大百科事典・日本大百科全書|ジャパンナレッジ を成立させました。長七が作詞した1903年の頃は、ドイツ帝国は次々と海外植民地を獲得し、産業や軍備が充実してまさに、イギリスを追い抜かんばかりの日の出の勢いでした。
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「それサクセンの林中に独逸(どいつ)の国の力あり」とは、そのように当時、すごい勢いで発展しているドイツ帝国の隆盛の源泉はザクセン王国の森の中にあるという意味と解釈できます。しかし、なぜ22もあるドイツ帝国を構成する王国の中で、ザクセンがとりわけ注目されると長七は考えたのでしょうか。
少し調べたのですが、私の感じでは、ヨーロッパ全体に革命の嵐が吹き荒れた、ドイツ統一前の1848年の革命の時に、ザクセン王国では、一時はかなり選挙制度など民主化が達成されましたので、これによるのではないかと思います。以下にwikipedia からですが、その状況を掲載します。
1848年革命の際には、ライプツィヒを中心として自由化運動が広まった。こうした中で成立したブラウン内閣は、言論・出版の自由を保障し、封建的諸特権の廃止を実現させた。また、ザクセン王国内における制限選挙を廃止、21歳以上の男性に普通選挙権を認めた。同年末の議会選挙ではスラヴ系少数民族であるソルブ人協会の代表も3人選出された。しかしこうした改革の潮流は、オーストリアやプロイセンでも反動化が進む中で鎮圧されていった。(ザクセン王国 - Wikipedia より抜粋、引用。下線、赤字は名取による。)
結局は王権側から鎮圧されて失敗に終わったのですが、長七はこのザクセン王国の民衆のエネルギーは森の民であることによると考えたのではないでしょうか。
結論を言ってしまうと、私は、長七は、ドイツ帝国におけるザクセン王国は、日本(当時は大日本帝国)における信州・長野県(もしくは諏訪?)に相当する(してほしい)と仮定したのではないかと考えています。
地形的に言ってどちらも住民は森の民と言えないことはありません。また、長七が長野師範を卒業して諏訪郡で義務の3年間の教員生活を送っている頃は、伝記によると旧弊を墨守する教育体制の改革が、激しく若い層から突き上げるように叫ばれ、長七も度々、勤務先の校長と衝突したりしています。ついには諏訪郡の小学校で長七を迎えるところがなくなってしまい、ようやく小諸の小学校の校長に拾われたりしています。このような長野県における改革のエネルギーもザクセン王国と通じるところがあると長七は考えたのではないでしょうか。
次に「清き流れはアルプスの 深き谷より出づとかや」ですが、これはザクセン王国及び信州・長野県は、ともに高山から流れ出る清い水によって潤っているという共通性を詠ったと考えてよいと思います。ザクセン州となった現在もそうですが、ザクセン王国はドイツの東部に位置し、東はポーランド、また南はチェコと接していて、スイスやオーストリアからは離れていますので、ヨーロッパアルプスが水源となった川が流れているとは思えません。アルプスという言葉は、高山の詩的な比喩と考えられます。
最後に、「ああ信山の健児らの やがて咲くべき春やいつ」ですが、自由民権現代研究会代表 中村英一氏の論文自由民権現代研究会 に戻りたいと思います。この中で、中村氏は飯田生まれの自由民権運動家である森多平(もり たへい)について詳述しています。詳細は読んでいただくとして、森多平は以下のような人物です。森多平(モリ タヘイ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
森 多平(モリ タヘイ)
明治・大正期の民権運動家,新聞人
生年 天保11年3月20日(1840年)
没年 大正7(1918)年11月29日
出生地 信濃国伊那郡川路村(長野県飯田市)
経歴祖父の許で育てられ、漢学や剣術を修める。長じて家業の酒造に従事し、庄屋役なども務めた。維新後は社会改革を志し、明治8年下伊那34町村の地租軽減運動を指揮。また、政治結社奨匡社に拠って自由民権運動を進め、14年には自由党の結党に参加した。この時、同党の領袖板垣退助から新聞の発行を勧められ、15年郷里長野県飯田で「深山自由新聞」を創刊。以後、社説や記事などで民権の思想を鼓吹し、伊那地方における近代民主主義の確立に大きな業績を残した。しかし、そのために官憲の弾圧を受けてたびたび社屋を移転し、16年に廃刊。その後も政党人として教化運動などで活躍した。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)(下線、赤字は名取による。)
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森 多平(左)と深山自由新聞(右)
社会運動や民権運動を行った人物です。明治15年(1882年)に飯田で「深山(みやま)自由新聞」を創刊しますが、弾圧され、翌年に廃刊を余儀なくされました。
このできごとは長七が5、6歳という子供の時のことですが、長ずるにしたがって、この諏訪からもそれほど遠くない飯田でのことなので、詳しく知ることとなり、この事件は改革意識の強い長七の脳裏に刻み込まれていたと想像します。
「ああ信山の」の信山には信州の山という意味に加えて、「深山(みやま)自由新聞」の深山という意味も込められたのではないでしょうか。
先にも述べましたが、長七自身も長野師範卒業後の頃に教育体制の改革を唱えて、校長らと衝突し、その結果どこの小学校からもお呼びがかからないという状況で迫害されました。理想を唱えても叶うことはなかったのです。この無念の気持ちと後進の若者に希望を託す気持ちが「ああ信山の健児らの やがて咲くべき春や何時」と長七に詠ませたのではないかと思います。
以上、少ない資料を基に私の推測でここまで考察してきました。本当に本当のところは泉下の伊藤長七に聞かなければわかりませんが、今の私の力の及ぶ範囲で考察してみました。
ここまでお目通しいただきありがとうございました。ご意見等いただければ幸いに存じます。(了)
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上記の投稿で私は、伊藤長七は飯田市の自由民権運動家である森 多平の影響を受けていて、それが『清陵第一校歌八番「それサクセンの林中に独逸の国の力あり・・・」』の作詞に影響を与えているのではないかと書きました。
今回改めて読み返してみて、その根拠を示す一番大事なことを本文に書き忘れていることに気づきました。これなしに読んだ方は、無理に伊藤長七を森 多平及び深山自由新聞に結び付けていると感じた方もおられるかもしれません。
伊藤長七が影響を受けたと考えられる根拠は、中村英一氏の論文自由民権現代研究会 の以下の部分です。赤下線は名取によります。
森 多平は、深山自由新聞の創刊号の社説で「ヨーロッパのゲルマンは我らが信州の如きなり。ゲルマン人の勇敢は我ら信州人と相似たり」と書いています。ヨーロッパのゲルマンといえば、普通はドイツを指します。おそらく、この森 多平の社説を読んだ長七は、当時隆盛を誇っていたドイツ帝国、その中でもドイツ繁栄の礎となっていると考えたザクセン王国を信州に例える作詞をしたのではないでしょうか。
しかし、歴史を知っている我々は、その後ドイツは多くの苦難の歴史を歩んだことを知っています。第一次大戦と第二次大戦の二度の敗北。ヴェルサイユ条約。天文学的インフレ。ワイマール共和国。ヒトラーの独裁。スターリングラードの敗北。ベルリン陥落。ドイツの東西分裂とその後の統一。EUの創立と戦後ドイツの経済的繁栄。
泉下の伊藤長七がその後のドイツの歴史を知ったならば、どのような感慨を抱くのでしょうか。(了)