令和7年2月16日 管理者(名取)投稿
清陵通学距離、往復徒歩約14キロ ー小林 悟郎 氏(56回生)ー
1.第一校歌の作詞時、まだ富士見ー岡谷間は鉄路未開通
植松 高志 氏(72回生)(以下、植松さん)は、関西支部会報35号(20ページ、1段から2段目)で、清陵4回生であった植松さんのおじい様が片道16キロもの信じ難い徒歩通学をしていたことを書くとともに、『中央東線の八王子~塩尻間が開通したのは明治39年。「奇跡の第4回生」の頃は皆、通学は徒歩であったのです』と書かれています。
後から述べますように、植松さん自身の中学校への通学距離は長く、ご本人も歩くことに関して思い入れがおありになると推察します。
さて、以下の画像は富士見駅の待合室に掛けられているものですが、何年も前から帰省し、帰りの電車に乗る前にこれを見るのが習慣になっていました。
そして毎回思うことは以下の二つくらいでした。
・日露戦争(明治37年~明治38年)日露戦争 - Wikipedia の最中の明治37年12月に富士見駅が開業したのか。そんな国内交通網でよく戦争に勝てたもんだな。現地の兵士が無類の敢闘奮戦をしたおかげに違いない。
・東京から200キロもないんだな。
私は、昨年「寒水 伊藤長七伝」(以下、伝記)を読むまでは、下記の第7番を含む第一校歌を伊藤 長七が作詞した明治36年(1903年)には、まだ富士見、岡谷間で、列車は走っていなかったことを知りませんでした。すなわち、作詞時点の明治36年では諏訪で汽笛を聞くことはできなかったのです。
中央の鉄路とはもちろん「中央線」のことです。伊藤長七の作詞時には、まだ鉄路が富士見にまですら開通していないので、「思へや」とは「想像してみなさいよ」という意味になると思います。長七は当時最大の輸送手段だった鉄道がもう数年間で岡谷まで開通することを想像して期待し、製糸の原材料や機械、人員、製品などの輸送がなされて繁栄する諏訪を脳裏に思い浮かべて作詞したのではないでしょうか。
このことは伝記(138ページ)で、『中央の鉄路、この歌作詞の明治36年にはまだ中央線は開通していない。(中略)しかし長七は、「思へや汽笛中央の(中略)五大州」と歌う。見ているものが遠大だ。(後略)』と記載されています。
すみません。次から話がガラッと変わります。
2.富士見高原中学校への通学
戦後、我々はどんな感じで通学していたのでしょうか。身近なところで、富士見高原中学校富士見町立富士見高原中学校 - Wikipedia (以下、高原中学。現在の富士見中学)への通学距離などを見てみたいと思います。高原中学は校則で、通学は徒歩とされていました。
高原中学は私の母校ですが、植松さん、小池千代枝氏(64回生)(以下、小池さん)及び窪田昭男氏(71回生)(以下、窪田さん)の母校でもあります。お聞きしているご実家の集落から高原中学までの歩行距離をグーグルマップで出してみました。当時の通学路を必ずしもトレースしていないと思いますが、おおよその感じでご覧くださいますよう。
■植松さん:立沢ー高原中学 片道 4.4 キロ 往復 8.8 キロ → グーグル
■小池さん:立沢南原ー高原中学 片道 2.5 キロ 往復 5.0 キロ → グーグル
*関係ありませんが、立沢南原は私の母親の実家があるところです。
■窪田さん:横吹ー高原中学 片道 3.1 キロ 往復 6.2 キロ → グーグル
■名取:若宮ー高原中学 片道 2.7 キロ 往復 5.4 キロ → グーグル
植松さんが最も長距離なのですが、毎日往復約9キロの通学は子供ながら大変だったと思います。清陵に行ってからは、バイクやバスを利用していたと思いますので、それほどではなかったと思います。私も高校時代は富士見駅までバスかバイクでした。
さて、次に小林悟朗氏(56回生)の清陵への通学のお話です。
3.清陵通学距離、往復徒歩約14キロ ー小林 悟郎 氏(56回生)ー
小林 悟郎 氏(56回生)(以下、小林さん)から、清陵通学のお話を聞いたのは、2015年10月の秋季歩こう会(小口太郎の跡を訪ねて)に参加した時の長浜での昼食時でした。
終戦後間もない昭和25年に清陵に入学した小林さんは、朝まだ明けきらないうちから自宅を出て八ヶ岳山麓を長距離歩いて茅野駅に向かったといいます。バスはなかったようです。歩いているとはるか向こうに青柳方面から来る列車が見え、遅れてはまずいと懸命に茅野駅まで走ったと。そして、帰りは茅野駅からの延々の登り坂がご自宅まで続きます。
冬季は雪や氷、暗さなどで徒歩通学ができなくなり、その間は角間橋の近くの家に下宿して自炊したとのことです。
今回、原村出身の小林さんにご実家がある集落が柏木と聞き、通学ルートも教えていただいたので、グーグルで距離を見積もってみました。
■小林さん:柏木ー茅野駅 片道 5.7キロ → グーグル 上諏訪駅ー清陵 片道 1.3 キロ
片道計 7.0 キロ 往復 14.0 キロ
小林さんの往復14キロはやはり我々の中学通学と比較しても隔絶して長距離です。
小林さんは歩こう会の部会長を80歳を過ぎてもやっておられました。また、植松さんは今も穂高の険しいルートに挑んでいます。
その秘密の一端はどうも通学距離にありそうです。
同窓の皆さんで、小林さんよりも長距離歩いて清陵に通学していたという方がおられましたら、ぜひお知らせ願います。
ここまでお目通しいただきありがとうございました。(了)
植松高志さん
CC 名取和一さん
面白い投稿をありがとうございました。
横吹から高原中学までの往復6.2kmは立沢より短かったようですが、横吹だけバスが通っていなかったので、雨が降っても槍が降っても歩かなければならなかったことを追記しておきます(笑)。
清陵の第一校歌が作られた時に中央線が諏訪迄開通していなかったというのは面白いですね(富士見迄開通の前年なんですね!)。想像力豊かな伊藤長七はザクセンの杜も実物を観ないで作詞したのではないでしょうか?(自伝にはどう書かれていますか?)。同じ感覚で近い将来できるであろう中央線を蒸気機関車が白煙を上げて走る姿を頭に描いて作詞されたのだと思います。同じことが、実際には博浪の沙漠を見ていない状況で第二校歌を作詞した中島喜久平にも言えると思います。
草々
窪田昭男拝
名取様
田中啓資です
清陵への徒歩通学 とても楽しく拝読させていただきました。
ありがとうございます。
以上
名取さん
当時の通学の厳しさが実感できるほどにリアルに記述いただき感激です。
Googleマップ通学経路で一層よくわかりました。
毎日毎日、晴れの日ばかりではなく、雨の日雪の日土砂降りの日、暑い日寒い日凍れる日、苦労のほどがうかがえます。
先輩たちはそこまでして学ぶことに喜びを感じていたのでしょう。
校歌7番の鉄路が当時まだなかったことも、これもまた驚きでした。
てっきり当時から既設のものと思っていました。
知らないことばかりですね。
歴史に学ぶ重要性を実感しました。
貴重な情報提供ありがとうございました
名取さんのHPへの投稿を興味深く読み、改めて「第一校歌、富士見駅、通学」のことに思いを馳せました。
・富士見駅紹介看板に書かれていること、今まで注意して見ていなかったことを知り、我が故郷の富士見駅は「比類なき駅」であることに誇りを感じた次第です。
・富士見高原中学校の通学距離をグーグルマップで調べていただきました。
高榮寺(4.4㎞)から我が家は300メートル位東でしたから片道約5㎞弱かな?
我が家は標高1150ⅿで950ⅿの中学校までは下り、帰りの登りが大変でした。
特に大雨や台風の後の舗装されていない悪路の帰りは1時間半以上かかりました。
また、1964年東京オリンピックで柔道が初めて採択されましたが、立沢では青年団がお宮(大山祇神社神社)で柔道教室を夕方から開いていましたから、中学校グランドで野球部の練習をして、帰りはお宮で柔道もして、夜8時くらいに家に帰って夕食を取る毎日だったことも思い出します。
お陰様で中学3年の時、初段を取りました。
清陵の通学は(6時15分?)立沢農協前始発のバスに乗り、富士見駅から上諏訪駅下車、清水が丘の校舎には8時前だったと思います。
S41の入学の頃は「蒸気機関車」でしたね。
第一校歌の「・・・鉄路に沿うて響きつつ 心は駆ける五大州・・・」に胸を膨らませたことも思い出します。
名取様
清陵への通い路、小林悟郎さんの往復で14㎞を見まして”ンーッ、14㎞?”とつい注視しました! 僕は現在中央高速道の岡谷インターを降りたところ岡谷市今井区から清陵に通ってましたが、当時今井ー下諏訪間5㎞、上諏訪駅-清陵2㎞で合わせて7㎞、往復14㎞と聞かされていました。ところが今回この話をお聴きして、改めて確認してみると、我が家と150mの所にあった中学校から下諏訪迄3.83㎞、上諏訪―清陵間が1.3㎞とのこと、往復で約10.3㎞。古く大分さばを読んでいたようです・・・・お粗末でした。
今井の南、小井川(現加茂町)、東の長地のほとんどメンバーは歩いて下諏訪駅から乗っていたと思います。冬は北西の空っ風(塩尻おろし)か吹雪に押され、帰りは真っ向からの寒風と吹雪でした。雪の日は往きは後背面に、帰りは顔面と前面が粉雪に覆われ真っ白でした! 夏場カンカン照りの中、疲れていると両サイドに広がる桑の葉の緑が一瞬真っ赤に変わるときが時がありました。
富士見の方々の通学が中学から如何に大変だったかを初めて知りました。
当時、バスがなかった訳ではなかったですが国道20号線の砂利道を、その後舗装されたコンクリート道に変わったと思いますがひたすら歩きました。上記で触れましたが、中学も、そして実は小学校も共に150m位だったので、サイレンが鳴ってから自宅を飛び出すような・・・状態だったと思います。
63回生 増澤文武
先日のHPで富士見の方達の通学距離の話は興味を持って読みました。私も小さい時から長い距離歩くことは身体への良い影響をおよぼすのではと考えていました。小学校の通学は高原中学よりずっと遠くしかも小さい足でしたので大変でしたが苦にもしていませんでした。最近は年齢のために腰が痛い、膝が痛いと周りの方達がほとんど言っています。若い人も言っています。特にぎっくり腰については10数年ほど前ある大学の研究室(修士の学生から教授、秘書を含め10人くらい)での雑談の折、皆がぎっくり腰で腰が痛くて困ったと言っていました。私一人ぎっくり腰は経験無いと言ってびっくりされました。多分小さい時から長い距離歩いていたからだろうと勝手に思っています。
小池
こんにちは。
一気に読みました。
諸兄の皆さんの歩んできた道のり(歩数換算できない業績)+(よちよち歩きから杖を必要にする時まで)はどの位になるでしょうか。
女性部主催、東海支部共催の犬山研修では小池様がしっかりと歩かれておられました。
拝読本文で納得いたしました。
貴支部諸兄は既にお買い求めが多くございましたので、
目に触れていると思いますが、
『ああ博浪の槌とりて ー人間中島喜久平と諏訪の育英-』の
第七節 諏中への通学(p32)に
原田福太郎(43回生 東大卒 茅野市玉川)
長田 新(7回生 広島高師 京都大卒 広島大学長 茅野市豊平)の諏中への通学風景が記載されています。
明治28年~40年の平坦部/山浦(+南山浦=富士見・本郷・落合)の
諏中入学者の出身地分布 (p34)
質実剛健の行動原理がありそうです。
一昨年、創立130周年記念事業の一環となればと思い、
①中島喜久平生誕140年、支部三役で、お墓参り(中島家ご了承)
②校歌制定120年 第一、ニ校歌作詞者関係本の新訂版、新装版の発刊
③茅野支部総会記念講演『第二校歌を読み解く』(77回生 武居美博さん)
④中島喜久平お墓参り&実家から清陵までの追慕歩きの会
『北大塩峠チーム 上原経由チーム どちらが早く着くか よ~ぃどん 大会』
企画を立てました。
④だけ実施見送り。参加高齢者の安全問題と参加者多い場合の警察署届など準備などが理由ですが、いつか実現したいと思う。
中島喜久平が藤原咲平、小平権一と一高受験に行くときは、
茅野米沢、上諏訪角間新田より甲府まで歩き、一泊後の汽車で上京したのである。(受験時は、富士見へも敷設されていなかった) (同書p60,61)
体力消耗しても一高首席合格は恐れ入る。
汽車から気動車、電車へ、
3月16日、当日、振り子電車、新幹線で会場に若干遅れ気味で駆けつけます。
各支部総会出席、最後の行商です。宜しくお願いいたします。
田村義明 拝
大変ローカルなことに関するコメントですみません。富士見の冬の景観の一端を知っていただくのもよいかなと思い、コメントすることにしました。
64回生の小池さんが「小学校の通学は高原中学よりずっと遠くしかも小さい足でしたので大変でしたが苦にもしていませんでした」と上記のコメントで書いておられましたが、この小池さんの小学校の通学路には心当たりがあります。私の母の実家が小池さんのご実家があった立沢南原にあったので、子供のころ、いとこたちとその辺を蜂追いなどをして遊びまわっていたからです。今の私からは想像もつかない(?)かもしれませんが、かなりの野生児でした。
下の動画をご覧ください。5年前の1月に、小池さんの実家のあった立沢南原の南の田園地帯から、蓼科~八ヶ岳~富士山~南アルプス~入笠山のパノラマを動画に撮ったものです。
小池さんの本郷小学校への通学路(だいたいですが)は、八ヶ岳が正面に見えた時の前面の田園地帯の平原を、登校は左から右、下校は右から左ということになります。冬はほとんど遮蔽物のない平原を、北風が吹きつける中を片道数キロ歩くことになります。昔も今もこの辺の富士見の小学生はこうやって鍛えられていきます。
名取さん
八ヶ岳から富士山そして南アルプスの大パノラマでしょうか。
これだけの山を一望できる富士見町立沢に生まれ育ったことを羨ましく思います。
頬に冷たい冷気を感じさせられる映像に身震いする感がありますが、昔の皆は元気に飛びまわっていたのでしょうね。
素敵な映像ありがとうございました。
故郷信州に乾杯!
花岡拝
名取 さん へ
名取さんのHPへの「5年前の1月に撮った”富士見の冬の景観の一端”」の投稿に遅ればせながら反応します。
パノラマ写真の動画からは幼少時代から高校の頃までの思い出が懐かしく蘇ってきました。
富士見高原中学校の校歌や生徒会歌には富士見高原の自然が謳われていましたね。
その歌詞が思い出され思わず口ずさんでしまいました。
また、「東に高き」の清陵の校歌も口ずさみたくなりますね。
小池さんも窪田さんも名取さんも今でもよく覚えているかと思いますが下記に「富士見高原中学校の校歌・生徒会歌」記してみます。
今は南中学と統合され「富士見中学」になっていますので歌われていないでしょうね。
<富士見高原中学校校歌>
作詞 尾崎喜八
(一)富士の峰遠く清らかに 裾野原しらかばそよぎ
そそり立つ八ヶ嶺雄々し ただようよ 自然の霊気
満てるかな 生きのよろこび
(二)草木萎え かすむ夏にも はてしなき吹雪の冬も
堅忍の気風は剛し 自治のもと望みも高く
まなぶなり われら若人
(三)春や秋 たのし三とせを はぐくまれ 人とはなりて
輝かし 俊秀幾千 忘れざれ 山たちきそう
信濃なる 富士見母校を
<富士見高原中学校生徒会歌>
(一)八ヶ峰秀する高原に 秀嶺富士を仰ぎ見る
スズランの香のかぐわしく 明るく清き学舎に
我ら勤めん生徒会
(二)緑も深き高原に 学ぶ我らの意思固く
茨の道を踏み分けて 高き理想を目指しつつ
我ら学ばん生徒会
(三)蒙壮赤石連山ゆ 流れもはるか釜無の
幾多の支流合わせつつ 太平洋の水ひろく
我ら進まん生徒会
以上
HPで皆さんにも伝えていただければ幸いです。
植松高志(72回生、地方会「高陵会」)