令和6年5月30日 管理者(名取)投稿
【虎に翼をつけて放てり-天武天皇、宇治橋を渡り吉野へ-】
現在、NHKの朝の連ドラは、「虎に翼」という日本初の女性弁護士をモデルにしたものが放送されています。朝食時に家内が見るので、チラ見する程度ですが、「虎に翼」というタイトルは当初から気になっていました。以下の画像のように日本書紀の天武天皇の巻にこの種の記述が出てくるからです。(出典:全現代語訳 日本書紀、宇治谷 孟、講談社学術文庫)
もっともシナの古典、周書に出てくる「虎に翼」がオリジナルということなので、朝ドラのタイトルも日本書紀の記述もこれを引用したものということになります。
この天武天皇(即位前は大海人皇子ですが天武天皇で統一します。)が壬申の乱 壬申の乱 - Wikipedia を前に、兄とされる天智天皇から命を狙われる危険を感じて、山背古道を通って吉野に入ったことについては、以前HPに投稿しましたので、よろしければ詳細はそちらをご覧願います。→ 令和4年春季歩こう会行事のコースに思う-壬申の乱、大海人皇子、吉野に起つ-
本文は下記画像の下に続きます。
上記の左ページの赤線の記述にあるように、天智天皇の命令と思いますが、近江朝の群臣が、吉野に向かう天武天皇を(恐らく、見張って)宇治まで見送りにいきました。そして、この時、群臣の一人から思わず出た言葉が「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」でした。文語表現だと「虎に翼をつけて放てり」になります。
私は、この言葉は、天武天皇が馬に乗って宇治橋を渡っていく後ろ姿を見て、発せられたと考えます。群臣が、その後ろ姿に天武天皇の皇位継承(簒奪?)の野心を感じ取り、「この方は必ず挙兵する」と確信したのだと思います。
下記の画像は現在の宇治橋で、平成8年に架け替えられたものです。初めて架けられたのは大化2年(646年)宇治橋 (宇治市) - Wikipedia といいますから、天武天皇が吉野に向かった 671年には、橋はあったと考えてよいと思います。
現在の宇治橋は、大河に架かる大きな橋で奈良方面に向かう道路に通じていて、付近に障害らしきものはありませんが、天武天皇が吉野に向かった際に渡った頃はどうだったか。付近の地形は、現在とは全く違う様相を示していたと考えられます。
本文は下記画像の下に続きます。
下記の想像図(井沢元彦著、逆説の日本史第2巻より引用)にあるように、この頃、琵琶湖南端から発し、山峡を抜けて京都盆地に流れ込んだ宇治川は、その水量が多いことから、巨椋池(おぐらいけ)という湖といってもいいような巨大な池を形成し、常時そこに流れ込んでいました。
京都盆地の南部に天然の要害を形成していたのです。そのため、後世には宇治橋付近で、源義経と義仲の戦いなど大きな戦いが何回もありました。
私は、「虎に翼をつけて放てり」という言葉が発せられた背後にはこの地形もあったのではないかと思っています。
駐)巨椋池は堤防構築や干拓などで規模を縮小しながらも戦前まで存在していましたが、昭和16年(1941年)に完全に消失しました。
本文は下記画像の下に続きます。
近江朝の群臣にしてみれば、危険な天武天皇を宇治川の向こうに追い払ったという気持ちの一方で、反乱を起こしても鎮圧できないところに逃がしてしまったという気持ちも大きかったのではないかと思います。宇治橋を破壊されれば、ここは対岸の山崎に至るまで、天然の大規模な水堀になってしまうからです。
天武天皇は翌年、吉野から宇治方面ではなく、東国に向かいました。そして挙兵して近江朝を滅ぼし、即位しました。群臣の懸念は的中したのです。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。ご感想やコメントをお待ちします。
掲載(了)
名取和一さん
拝復
僕は隠れ(笑)朝ドラファンなので、「虎に翼」も確り観ています。ただ、凡人のこととて「虎に翼」には何か謂れが有るだろうと思いつつそこを調べることもしないでおりました。
名取さんの蘊蓄を拝読して納得しました。有難うございました。
いつか「歩こう会」で歩きたいものですね。
草々
窪田昭男拝
藤森(70回生)です。
【虎に翼をつけて放てり-天武天皇、宇治橋を渡り吉野へ-】」掲載を拝読しました。小生も「虎に翼」のタイトルに興味を持っておりました。掲載文を読み至極納得しました。当時の社会通念(男社会)に違和感を抱いていた彼女が「すべての国民は法の下に平等」を目指し(挙兵)し、初の女性弁護士、裁判官(虎に翼をつけて放てり)として活躍する・・・?男女平等の社会構築を目指した。スッキリしました。小生は一群臣として今後もテレビを観るようにします。笑い
取り急ぎ御礼まで
名取 様
虎に翼、拝読しその学識の広さ・深さに改めて敬服しています。残念ながら主人公のお生まれになったのが”五王寅年”ということで、大きな展開が”翼をつける”のだろうという程度で見ていました。日本書紀に仰る様に書かれておりました。かつて一通り日本書紀は読んだつもりですが、何も覚えていません。お粗末限り無しです。
いよいよその時が始まるのでしょうか?
朝ドラは小関裕而・笠置シヅ子を見ていました。戦後ラジオから流れる曲で育ったと思っていますので・・・
弁解がましいことを言いますと、葛藤モノを私自身嫌いなようです。戦記物・権力闘争は顔を背けてしまいます。たぶん、日本男子の風上に置けない人なのでしょう⁈
増澤文武
追伸 本返事が遅れ申し訳ありません。
増澤様
ご丁寧なお返事をありがとうございます。お礼申し上げます。
「戦記物・権力闘争は顔を背けてしまいます。」とのお言葉、失礼ですが、わかるような気がします。増澤様のお仕事の対象は、嘘も野心も闘争もない文化財でしたので、余計そう思われるのかなと勝手に解釈しています。すみません。
「その学識の広さ・深さ」との過分のお言葉誠に恐れ入ります。ただ、こればかりは増澤様の思い違いと少し苦言を申し上げさせていただきます (笑)。学生時代に下宿した京都の山科に天智天皇の御陵があったことから、その頃から天智、天武の辺の歴史には興味を持っていました。「天武は実は天智の弟ではなかった」、「天智は実は天武に暗殺された」、「天武は皇位継承の資格のない外国人だった」など多くの異説があり、日本書紀自体が天武が息子に編纂を命じたということもあって、天武に都合の良い記述がなされているのではないかとの説も有力で、多くの謎に包まれています。私にとって、非常に興味深く、それで、日本書紀のこの辺の部分だけは拾い読みしていました。決して日本書紀全体を読んで通じているわけではありません。ですので、今回の過分なお言葉は恥じ入るばかりです。
また、「虎に翼をつけて・・・」の言葉も大分前に吉野にハイキングに行ったときに、櫻木神社というところにこの言葉を刻んだ碑がありました。→ 写真:虎に翼を・・・(吉野・櫻木神社) 立派な文字で、何か印象に残り、記憶に刻み付けられたようで、それで今回の拙文になりました。たまたま脳裏にあったことを書かせていただいたとご理解いただければ幸いです。
ご返信、再度お礼申し上げます。
草々
75回生 名取 和一
名取 様
(前略)
山科の地、地理的には全く掴めていませんが、なるほどと思いつつ名取さんの学生時代の地、天武天皇の動向と絡めてイメージ致しました。やはり名取さん、造詣が深いですね!
有形文化財の保存に関わって、仰る様に言葉に関わる世界(古文書など)は誇張や嘘などあり、それらをどう読み解くかが歴史学などとなりますが、私どもの保存・修復の世界はそのままを遺し継承することで、私どもには無心が求められます。にも拘らず、その嘘や誇張などの文章や言葉が書かれている古文書などもやはり有形文化財です。
皮肉な⁈ものです。しかしそれらがそのままの状態で保存継承されることが求められていると考えております。
増澤文武