令和5年12月23日 管理者(名取)投稿
【私がたまたまみた木下恵介監督作品など-雑談です-】
75回生 名取 和一
カルチャー部会長 植松 高志氏のお世話で今月12/3(日)に梅田の北大の同窓会館にて木下恵介監督の「少年期」という映画を鑑賞することができました。
主人公が戦時中に疎開する諏訪と諏訪中学(清陵の前身)が映画の舞台となっているもので、いろいろ興味深く、鑑賞できたことは大変有意義でした。
改めて、植松様に衷心よりお礼申し上げます。
さて、そういう私も清陵時代から木下恵介監督作品とは若干の縁があり、今も私なりに印象に残っている映画監督です。
50年以上前の話なので、記憶が曖昧なところもかなりありますが、その若干の縁を思いつくままに雑談として書いてみたいと思いますので、よろしければご笑覧いただきますようお願いします。
A君、もしこれを読んでいただいていたら、記憶の間違いなどあると思いますので、ご連絡をくださいますよう。そして、仮名とはいえ、無断で掲載したことをご容認願います。
1) 花松館でみた木下恵介監督作品「野菊の如き君なりき」(1955年公開)-1969年-
確か清陵1年の期末テストが終わった7月のある日(記憶に間違いがなければ昭和44年)、やはり富士見出身のA(実名掲載の許可をまだいただいていないのでAとします。)とテストの問題のことをしゃべりながら駅に向かっていると、その時花松館でかかっていた映画「野菊の如き君なりき」のポスターがあり、それに目をとめたAに、一緒にみに行こうと誘われました。ポスターをみた感じでは、私の趣味ではなかったので、一度断ったと思います。
本文は以下の画像の下に続きます。
Aは映画の原作が富士見にもゆかりの深い伊藤左千夫の「野菊の墓」であり、読んで感動したとかでしきりに誘ってくれましたので、お付き合いすることになったと記憶しています。
もっとも私でも、小中学校の教育で、伊藤左千夫の歌碑が富士見公園にあり、左千夫が富士見を愛したアララギ派の歌人だということくらいは知っていました。
みてみると若い農村のいとこどうしの男女の悲恋なのですが、たいへん抒情的で感傷を誘うものでしたが、胸に迫るものがあったことを思い出します。ふと横を見ると、Aは涙を流して泣いているではないですか。その泣き方が少し尋常ではなく、思わず肩に手を置いたのを覚えています。
いくら伊藤左千夫の原作に思い入れがあるとはいえ、Aをここまで感動させ、また、無骨な私の心をも多少なりとも動かした木下恵介という映画監督の名前は脳裏に残りました。
その後、母親が木下恵介アワーを見て泣いたりしているのをみてはいましたが、テレビドラマもやっているのかと思っただけで特に視聴もせず、木下恵介の作品とはずっと縁がありませんでした。
まさか、40数年後に再び木下恵介監督作品に注目することになるとは、その頃は予想だにしませんでした。
ご参考までにyoutubeで拾った同映画の部分動画を以下に設定しましたので、よろしければご視聴願います。
本文は以下の動画の下に続きます。
2) 木下恵介監督作品「陸軍」(1944年公開)をみる。-2013年-
2013年の初頭だったと思いますが、NHKのクローズアップ現代という番組で「木下恵介生誕100年特集」をやっていました。その中で、木下が昭和19年に制作した陸軍省後援の国策映画(戦意高揚映画}の「陸軍」の最終シーンに万感の思いを込めて母親が出征する息子を追いかけるシーンを入れて、世界で評判になっているという解説をしていました。木下恵介にそういう反骨の精神があったのかと驚き、早速ビデオ屋で「陸軍」をレンタルし、視聴しました。幕末から日清・日露の両戦争を経て満州事変・上海事変に至る60年あまりを、ある家族の3代にわたる姿を通して描いています。映像の99%が兵士として国に尽くすという国策がテーマでしたが、最後の数分間はそれらのプロパガンダを打ち消すように母親の息子を追いかけるシーンが連続し、異様でした。よく、陸軍省が許可したものだなと思います。
そのシーンがyoutubeにありましたので、以下に設置しました。「父母の慈愛に抱かれて/男子となりて幾年ぞ…」という勇ましい歌とは裏腹に、母親は息子を必死に追いかけます。
木下が何を言いたかったのか伝わってくるような気がします。
本文は以下の動画の下に続きます。
3) 原恵一監督作品「はじまりのみち」(2013年公開)をみる。-2013年-
この「はじまりのみち」は映画監督・木下惠介生誕100年プロジェクトの一つとして製作されました。木下惠介は上記で述べた陸軍省の依頼で監督した映画『陸軍』のラストシーンが「女々しい」と情報局からクレームをつけられ、次回作の企画をキャンセルされたようです(本人談)。そして松竹に辞表を出して故郷の浜松に戻りました。この間の状況を映画にしたのが「はじまりのみち」です。早速、ビデオ屋でレンタルして視聴しました。故郷で母を介護し、いろいろな目にあいますが、結局母の「映画に戻りなさい」との言葉で再び映画界に戻っていきます。良い映画でした。木下恵介監督の映画に対する純粋な気持ちや木下の人間性がうまく表現されていました。
本作の予告動画がyoutubeにありましたので、以下に設置しました。よろしければお目通し願います。
本文は以下の動画の下に続きます。
ここまで、雑談にお付き合いいただき、ありがとうございます。コメント等いただければ幸いです。
本年も同窓の皆様にお世話になり、厚く御礼申し上げます。明年もどうかよろしくお願いいたします。(了)
2023/12/28 木曜日 15:29
名取 さん へ CC:窪田 さん へ
(前略)
■名取さんのHPへの投稿を拝見しました。
〇「少年期」に触発されての「木下恵介研究は本物・感心しました」。
50年前の「花松館での富士見A君の涙」よく覚えていましたね。
私も伊藤左千夫の「野菊の墓」の政夫と民子には涙を流した一人でした。
私は、映画は見ていませんが添付した動画を見ました。
「少年期」のお父さんの笠智衆も出ているのですね。
この映画の舞台は伊藤左千夫の出身の千葉県松戸ですか?それとも長野県諏訪郡?
富士見公園の碑や帰省した時の富士見駅のアララギ派の説明はよく見ています。
富士見は誇れる自然と詩のふるさとですね。
〇「陸軍」と「はじまりのみち」の映画は初めて見ました。
レンタルして見られた由、その名取さんの感想は、大変勉強になりました。
軍歌の流れる中で出征する息子を追うシーンは、「・・・兵の道こそ1億の心とすべき我が身なれ・・・」などの歌詞と対比して視聴者には「母の愛」を強く刻むことになっていますね。
私も中学から高校の頃「木下恵介劇場」を見たように思いますが、お袋はよく見ていたことを思い出しました。「劇場をアワー」に名称変更したようですね。
2012年には「木下恵介生誕100年プロジェクト」が発足したことも知りました。
木下恵介は日本映画隆盛期に映画やテレビドラマでも数々のバラエティー富んだ作品を生み出したまさに日本を代表する巨匠であったことを再認識した次第です。
■窪田昭男さんの【山本周五郎作「湖畔の人々」の朗読劇】も視聴させていただきました。
私は高島藩のことは全く無知でしたが、江戸時代の末期の高島藩の状況が少しですが分かったように思います。
なかでも、茅野の寒天は江戸末期からの改良を重ね、諏訪を代表する産業に育ったことを知り、 また、高島藩には萩原作之進という若き頼もしい武士がいたことも印象に残りました。
山本周五郎は武士や市井に生きる庶民の喜び苦しみ等を描いた時代小説家でした。
私も山本周五郎の小説も何冊か読みましたが、窪田さんの紹介された「朗読劇」もなかなかよろしいですね。特に結びがよろしいですね。兵庫のセリフは心に残りますね。
「・・・年老いた妻の中に、匂い高き女性を見出した・・・」
「若い者の中に骨のあるものが出てきた。わしは隠居する。勘定奉行の作之進に、お雪を娶らせる」ところで終わるのが印象的でした。
〇窪田さんの「日本100名山の完登」の次の目標は「100低山完登に挑む」。
飽くなきチャレンジにエールを送ります。
植松高志
2023/12/28 木曜日 17:46
植松様
お世話になっております。
ご丁寧な返信をいただき、恐れ入ります。誠にありがとうございます。
(中略)
さて、花松館の件ですが、私もまだ当時15歳であり、友人の涙と純愛映画の印象が純粋な(?笑)私の心に残ったのかもしれません。
冗談はさておき、メールをいただいて、グーグル等で調べてみるとロケ地は信州で、長野市の北の飯綱町とのことです。流れている川は千曲川のようです。本来の小説の舞台は矢切の渡しのある東京・葛飾や千葉県の松戸ですよね。
なお、この機会にもうひとつ新たに「野菊・・・」の動画(都合2個)をHPに掲載しましたので、よろしければご覧願います。
「陸軍」の最後の行進のシーンは博多の連隊の協力で撮影されたらしいですが、その後南方に派遣され、多くの方が戦死したそうで、あの映像自体が遺影になっているとのことです。あらためてご冥福をお祈りいたします。
変な話ですが、母親を演じる女優 田中絹代(当時35歳)の体力にも感心しました。仮に今の私にやらせたら、確実にバテていますね。それにしても子供のカメラ目線は防ぎようがなかったみたいですね(笑)。
いずれにしろ、植松様の上映会がなければ、記憶もよみがえらず、今回の雑文はなかったわけで、機会を与えていただきお礼申し上げます。
取り急ぎ、返信とお礼まで。
年末に向かい、お体ご自愛願います。
75回生 名取和一
2023/12/29 金曜日 12:44
名取 さん へ CC:窪田さん へ
(前略)
ロケ地は「信州」でしたか。矢切の渡しの江戸川と思われた川は「信濃川」ですね。
「陸軍」の行軍は博多連隊で、その行軍シーンが多くの兵隊の遺影になったとは。
*映画のこと、よく調べられたと感心しました。
■「花松館」の私の想い出(少々長くなり恐縮です)
・オリンピックがアジアで初めて開催されたのは、私が中学2年、1964年の東京オリンピックでした。
特筆すべきは、柔道が初めて競技に加わったことです。
柔道が採択されることになり、田舎の立沢でも柔道熱が高まり、「お宮(大山祇神社の境内)」の集会場に畳が敷かれ、村の子供達が毎晩稽古に励みました。
私は、中学では野球部、練習が終わったその足で「お宮」で柔道をし、くたくたで帰宅したものです。
帰りには星空を見上げながら「柔ら」を口ずさんだことも思い出します。
指導者は青年団のお兄ちゃんたち。中でも熱心に指導してくれたのは、富士見高校柔道部主将でならした、牛飼い(酪農)の「哲ちゃ」でした。
筋肉隆々でめっぽう強く片手で放り投げられ、上に乗られると何もできない。
また、乱取りや寝技では、「哲ちゃ」の染みついた牛の匂いには閉口したものです。
その「哲ちゃ」にひきつられ、小6から中3の選ばれたものが飯田長姫高校体育館での「昇級・昇段試験」に臨みました。
中3になった私はただ一人、初段に挑みました。初段の人との試合で1勝1敗でした。
(後日、初段合格の認定書が届き大喜びしました。高校では野球部がなく柔道部に入りました)
帰りに、「哲ちゃ」は上諏訪駅で降りて、皆を慰労してくれたのが「花松館」でした。
それまで私は映画館に行ったのは1回だけで、富士見の映画館で、見たのはザピーナッツが「モスラ」を歌った「ゴジラ」だったと思います。「モスラ―や、モスラ―」が耳に残っています。
「花松館」での映画はなんと成人映画で皆「ビックリ」し、そのあと、ラーメンを御馳走になったのですが皆、ラーメンをすするだけで話もしなかったことを思い出します。
高校になっては1回だけ「花松館」には行ったように思います。
柔道部の同級生に誘われて「卒業」の青春映画を見たように思います。
映画館には何組かのカップルもいました。
私には、好きな人と一緒に行く勇気はとてもありませんでした。
もう、55年以上の昔のことです。懐かしい想い出です。
植松 高志
掲載(了)