令和5年4月21日 管理者(名取)投稿
【NHK大河ドラマ:どうする家康の演出どうする?-築山殿と信康の悲劇は武田の謀略工作!?】
私事で恐縮ですが、めずらしく今年の大河ドラマ「どうする家康」を1回目からずっと見ています。いろいろ理由はありますが、最も大きな理由はたまたま見た1回目で、今川義元の人質として駿府で生活していた家康(名前はこれで通します。)がやがて正室(今で言う本妻)となる築山殿(つきやまどの)(以後、これで通します。ドラマの中では瀬名という名前)と恋愛関係に発展していくように描かれていて気になったからです。違和感がありました。
どうしてかと言いますと、ご存じの方も多いと思いますが(ネタばれ?)、史実として、天正7年(1579年)に家康は、家来に命じて自身の正室である築山殿を亡き者にしています。それだけではなく、築山殿が産んだ自身の嫡男である信康にも切腹を命じて死に至らしめています。こういう史実はドラマとはいえ、なかったことにはできませんので、脚色とは言うもののこんな恋愛関係に設定して、この先ドラマの筋立てをどうしていくんだろうと余計な心配をした状況です。それで見続けているようなことになりました。
同じような(と言っては失礼ですが)、心配というか余計なお世話(?)をしている有名人を見つけました。歴史小説家の井沢元彦氏がyoutube 【感想】期待大!どうする家康!瀬名姫と家康が仲が良すぎ!この後大丈夫? - YouTube で述べています。以下に動画を設置しました。なぜ築山殿が亡き者にされるに至ったかを述べています(ただし諸説あり)ので、よろしければご覧願います。
本文は以下の動画の下に続きます。
井沢氏が述べているように、家康が築山殿と信康を亡き者にした理由は通説では以下のようになっています。「築山殿 - Wikipedia 」からの抜粋で、下線は名取が施しました。
天正7年(1579年)、徳姫は、築山殿が徳姫に関する讒言を信康にしたこと、築山殿と唐人医師・減敬との密通があったこと、武田家との内通があったことなど、12か条からなる訴状を信長に送り、これにより信長が家康に信康の処刑を命じたとされる。家康の上意により妻の処分が伝えられ、築山殿は8月29日に遠江国敷知郡の佐鳴湖に近い小藪村(浜松市中区富塚)で徳川家の将来を危惧した岡本時仲と野中重政によって自害をせまられ、自害を拒んだ事から独断によって首をはねられ殺害された。検使役は石川義房が務めて首は安土城の信長の元に届けられた[19]。信康は9月15日に二俣城で自害した(『三河物語』)。
平たく言うと、信康の正室である信長の娘、徳姫が姑の築山殿及び折り合いが悪くなっていた旦那の信康のことを父親にチクり、それに怒った信長が家康に信康を亡き者にすることを命じ、これに連動して家康は築山殿を処分することになったというものです。
この頃、家康は遠江の浜松城に、信康と築山殿は三河の岡崎城にいましたので、夫婦は別居状態でした。また、この頃は、戦国大名の娘が他家へ嫁いでも実家が最も大事で、はなはだしい場合には実家のスパイのような役割をしていたといいますから、上記のことはあり得ることとして納得できます。
もうひとつの観点を言いますと、私はこれは武田方(当主は勝頼)の謀略工作の勝利ではないかと思います。信康は多少粗暴なところがあったようですが、武将として優れた素質を持つ若者だったようです。結果から見ると、この優れた家康の跡継ぎを戦火を交えることなく、一兵も損せずに討ち取った格好になっています。
信長はご存じのように近代合理精神の持ち主であり、例えかわいい実の娘からの訴えとはいえ、なんの確証もなしに、大切な同盟者の離反を招くような命令をすることはあり得ないと私は思います。
築山殿と信康が本当に武田に内通したのかどうか、それは今となってはわかりませんが、徳姫がその「動かぬ証拠」を手に入れて父の信長に示し、それをもって家康に命令したことから、家康は命令に従わざるを得なかったのではないでしょうか。武田方の諜報工作により、その「動かぬ証拠」、例えば武田に内応する旨の返事を書いた築山殿の筆跡を真似た書状など、がわざと徳姫の手に渡るように工作したのかもしれません。
勝頼の父、かの武田信玄はよく知られているように、謀略・調略が巧みで帰参してきた真田幸隆(昌幸の父、幸村の祖父)真田幸綱 - Wikipedia などを使い、例えば強敵の村上義清の重臣を調略によって武田に寝返らせ、一兵も損せずに城を手に入れるというようなことを盛んにやっています。諏訪頼重諏訪頼重 (戦国時代) - Wikipedia も信玄の義弟であるにもかかわらず、謀略により騙されて自刃させられました。この頃、武田氏は長篠の戦に大敗し、衰運に向かっていましたが、信玄の育てた諜報組織はまだ機能していたのかもしれません。
しかし、武田の工作であったとすれば、それにより血の涙を流した家康及び工作にかかった信長により武田勝頼は3倍返し(いや10倍返し以上か?)の謀略の仕返しをされます。
家康は巧みな調略により、武田方の駿河の江尻城を守る勝頼の従兄にあたる穴山信君(梅雪)穴山信君 - Wikipedia を織田・徳川方に寝返らせることに成功します。また、信長は勝頼の義弟に当たる木曾領主、木曾義昌 木曾義昌 - Wikipedia を寝返らせ、反乱を起こさせます。結局、この木曾義昌の裏切りが発端となって織田・徳川連合軍が押し寄せ、高遠城を除いてはろくな抵抗もなしに、勝頼は追い詰められて自刃し、武田家は滅びます。
なお、戦国の習いとはいえ、むごいことに木曾義昌が新府城に人質として送っていた70歳の母、側室、13歳の嫡男・千太郎、17歳の長女・岩姫は勝頼の命により処刑されました。一方、穴山信君は甲府にいた人質の妻子を取り戻すことに成功しています。
この木曾義昌が離反したころを描いた大河ドラマ「真田丸」の映像がありましたので、以下に設置しました。よろしければご覧願います。三谷幸喜の脚本は面白いですね。舞台は武田が織田・徳川勢を迎え撃つためにこもっていた新府城(韮崎市)です。私は、一度この不運な城の城跡に行きたいと思っています。
本文は以下の動画の下に続きます。
ずいぶん、本筋からずれてしまいました。恐れ入ります。井沢元彦氏も動画で述べているように、娯楽性も加味される大河ドラマであり、ドキュメンタリーではないので、歴史の事実を大きく踏み外さない限り、相当な脚色も許されると私も思っています。
とはいえ、自身の妻子を離縁するとか冷遇したなどという生易しいことではなく、一応通説では武田に内応して死を与えられたという冷厳な事実(!?)がありますので、今のなごやかな夫婦関係や家族関係を形作る脚本の状況から、今後どう折り合いをつけていくのか、この「どうする家康」を興味をもって見ていきたいと思います。
ここまでお付き合いいただき誠にありがとうございます。(了)