令和6年7月23日 管理者(名取)投稿
【奈良の商業地にささやかれる「長屋王の呪い」 「そごう」「ヨーカドー」が相次ぎ閉店 怨念は晴れるのか(産経新聞掲載)-奈良の大仏は長屋王の怨霊封じのため建立された!?-】
暑中お見舞い申し上げます。暑い日が続いています。
今からおよそ千三百年も前の奈良時代の平城京で、暑い夏に氷を浮かべたお酒を飲んでいた皇族の政治家がいたということを聞いて、当初私はにわかには信じられませんでした。しかし、どうも本当のようです。聖武天皇に左大臣として仕えた長屋王(天武天皇の孫)の邸宅が昭和61年に発掘され、その時発見された木簡には、都祁(つげ)で深い穴を掘って、冬に作った氷に草を掛けて保存していたこと、夏から秋に氷室から多量な氷を馬で運ばせていたことなどが記載されていました。日本書紀には都祁の氷室(ひむろ)の起源説話があり、夏に氷を酒にひたして飲んでいたといいます。奈良の都の夏と氷 - なぶんけんブログ (nabunken.go.jp)
(本文は以下の画像の下に続きます。)
長屋王の邸宅から発見された木簡(氷の上に置いた氷関係の木簡)
しかし、人の運命はわからないもの。栄華を誇った長屋王は当時勢力を強めていた藤原氏の四兄弟(藤原不比等の息子)によって無実の罪で自殺に追い込まれました。これが「長屋王の変」と言われている事件です。
長屋王の変とは大要、以下のようなものです。
729年(天平1)2月に起こった政変。左大臣長屋王が謀反を計画しているとの告発を受け、兵が王邸を包囲し訊問の結果、王は自殺。妻の吉備内親王 (きびないしんのう)、子の膳夫王 (かしわでおう)、桑田王、葛木王 (かずらきおう)、鉤取王 (かぎとりおう)らも後を追い、夫妻は生馬(生駒)山 (いこまやま)に葬られた。(中略)光明子立后 (りっこう)をめざす藤原氏が、反対派と目される長屋王を排除するために起こした事件とみられる。同年8月、神亀 (じんき)から天平に改元したのち光明子は皇后となった。(後略)(日本大百科全書(ニッポニカ))長屋王の変|国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書|ジャパンナレッジ (japanknowledge.com)
朝廷に対する謀反ということで、長屋王本人の自殺にとどまらず、妻や幼い子供たちも犠牲になった悲惨な事件でした。藤原四兄弟が、妹である藤原氏出身の当時聖武天皇夫人であった光明子の皇后昇格に反対していた長屋王を陥れたものと考えられています。当時、皇后は皇族出身でなければなれないという決まりがありました。
ところが、この事件の8年後の天平9年(737年)に当時流行していた天然痘により、あろうことか、長屋王を自殺に追い込んだ藤原四兄弟が相次いで感染して四人全員が死亡し、長屋王の祟りによるものと人々に噂されました。
さて、このような歴史を背景に、この文章のタイトルにある以下の記事が産経新聞に掲載されたのは、少し前ですが2017年の3月です。
【関西の議論】奈良の商業地にささやかれる「長屋王の呪い」 「そごう」「ヨーカドー」が相次ぎ閉店 怨念は晴れるのか 【関西の議論】奈良の商業地にささやかれる「長屋王の呪い」 「そごう」「ヨーカドー」が相次ぎ閉店 怨念は晴れるのか(1/4ページ) - 産経ニュース (sankei.com)
詳細はリンク先の本文を読んでいただくとして、この記事の要約といってよいリードの文章は次のようなものです。
流通大手、セブン&アイ・ホールディングス(HD)が運営する奈良市の総合スーパー「イトーヨーカドー奈良店」が平成29年度中に閉店することが決まった。12年に閉店した百貨店「奈良そごう」跡地に市民の期待を受けて開店したが結局、業績低迷から脱することはできなかった。中心市街地から外れた同地は、奈良時代に非業の死を遂げた権力者・長屋王の邸宅跡に当たり、相次ぐ閉店をめぐってはネットなどで「長屋王の呪いでは」との噂もまことしやかに流れる。あと地には再び複合商業施設が計画されているが、果たして呪いは解けるのか。(2017/3/27 産経WEST)
長屋王の邸宅のあったところに開店した2件の大型店舗が経営不振で相次いで閉店したことが非業の死を遂げた長屋王の祟りによるものではないかと噂されているという記事なのですが、この記事を読んで本心から祟りが原因だと考える現代人は少ないと思います。どう考えても立地条件が良くないこと等による経営上の失敗だからです。
ただ、日本人であれば完全に頭の中から「祟り」という言葉を排除できる人も少ないのではないかと思います。我々日本人の多くは小さいころから「厄払い」、「厄落とし」、「厄年」といった言葉や行動にけっこうなじみがあり、少し自分や仲間に不運や不幸が続いたりすると半分本気で「一度、厄払いに行った方がいいんじゃないか」などと冗談交じりに言ってしまう習性が少なくない人に見られるからです。怨霊や祟りといったものは科学性はともかく、多くの日本人の心に沁みついていると思います。だから上記のような記事が産経新聞という全国紙に、地方版とはいえ出たりするのでしょう。四谷怪談を歌舞伎や映画で演じる時、役者がお岩さんを祭った神社に詣でるのは有名な話です。四谷怪談を有名にした「たたり」 上演前に必ずしていたこととは? | AERA dot. (アエラドット) (asahi.com) また、平将門の首塚が丁重に遇されていることも、どこかで祟りや怨霊を恐れる気持ちがあるからでしょう。なぜ平将門は現代でも「祟る」のか?近代に翻弄されたビジネス街の神(岡本亮輔) - エキスパート - Yahoo!ニュース
なお、2件の大型店舗の閉店の後、同地には現在、ミ・ナーラという商業施設が開業していますが、財務状況はともかく経営は継続しています。ミ・ナーラ - Wikipedia
さて、奈良の大仏が聖武天皇(及び光明皇后)により建立された主目的は、長屋王の怨霊がもたらす祟りを封じ、逃れるためだったという説は歴史家の井沢 元彦 氏が「逆説の日本史第2巻(1997)小学館)」で初めて提唱したものです。私もこれを知って25年以上経過しますが、これは真実ではないかと考えています。ただし、長屋王の怨霊封じで建立したなどとは続日本紀はもちろんどの史料にも記載されてはいません。しかし、怨霊による祟りを恐れる日本人の心性を考えるとそこに行きつくのではないかと私は考えています。
まず年表を以下に示しましたのでご覧いただければと思います。
707(慶雲4)年 文武天皇死す (25歳)
710(和銅3)年 平城京へ遷都
720(養老4)年 『日本書紀』 成る
729(天平元)年 藤原四兄弟の陰謀により、長屋王一族滅亡させられる
737(天平9)年 天然痘により藤原四兄弟全滅
741(天平13)年 国分寺、国分尼寺建立の詔
743(天平15)年 大仏建立の詔
749(天平勝宝元)年 考謙女帝即位
752(天平勝宝4)年 大仏開眼供養
藤原四兄弟が天然痘で全員死亡したわずか4年後に国分寺、国分尼寺建立の詔が、また、6年後に大仏建立の詔が出されました。詔(みことのり)とは天皇の命令ということです。
一口に大仏建立といいますが、以下のように身(国)の程を超えた、民衆に大きな負担をかける国家事業だったのです。当時の日本のGDPは恐らく唐の数十分の一だったのではないでしょうか。それにもかかわらず、唐にも朝鮮半島にもない世界一巨大な金銅仏を作ったのです。
そのような社会不安のなかで聖武天皇は、詔勅により全国に国分寺と国分尼寺を建てること、都には全国の総国分寺として東大寺を建て大仏を建立することを命じました。天皇は、国の災いを避けるだけでなく、民衆の心が一つになることを望んだと考えられます(文献史料「『続日本紀』聖武天皇の盧舎那仏造営の詔」参照)
大仏建立は壮大な国家事業でした。大きさは高さが15メートル、使用された青銅は約500トンで、完成まで7年を要し、延べ260万人以上が工事に関わりました。 近年の研究によると、創建当時の大仏と大仏殿の建造費は現在の貨幣価値で約4,657億円と算出されています。これはスカイツリー7基分に相当します。仏教発祥の地であるインドにも、当時の仏教最先進国であった唐にも、これほど巨大な仏像はありませんでしたから、世界があっと驚く大事業であったと思われます。(中学校社会科用「国史」教科書、令和6年 令和書籍より引用)
このような国力をはるかに越える巨大な大仏を造るなどということは、国の災いを避け、民衆の心を一つにするために宗教施設にすがるとはいえ明らかに度が過ぎていると思います。しかも、すべての国に巨大な寺院を新たに二つ(国分寺と国分尼寺)をつくったうえにさらに大仏までも造ろうとしたのです。これは、立派な建前以外の何かに突き動かされているとしか思えないのではないでしょうか。
いくら巨大な宗教施設や仏像を建設しても民衆の暮らしには直接関係ありません。むしろ民衆のことを考えるならば、このような国力を無視した国家事業をしないことこそ重要だと思います。なにしろ、結局のところ労働力として狩りだされるのは古代税制の租庸調の庸により、税として国家に労力を提供する民衆なのです。労力提供の間は口分田も耕作できませんし、手工業もできません。
私は、長屋王が自殺に追い込まれてから、8年後にその「犯人」の藤原四兄弟が天然痘により全員死亡したことを目の当たりにしたとき、聖武天皇と光明皇后は、長屋王の怨霊の(彼らにとっての)「実在性」を感じて震え上がったと思います。それでなくてもこの時代は凶作、飢饉、地震、疫病などの災害が続いて長屋王の祟りではないかと頭のどこかで思っていたと想像しますが、まさに犯人が全員、天罰を受けるように一気に天然痘で死んだのです。また、聖武天皇・光明皇后夫妻は娘(後の孝謙・称徳天皇)はいましたが、跡継ぎになる男子には恵まれませんでした。これも長屋王の祟りだと感じていたのではないかと思います。
もちろん、現代の我々は、藤原四兄弟が天然痘で一気に死んだからと言って驚かないでしょう。天然痘はウィルスによって罹患し、またウイルスによって伝染することを知っているからです。兄弟ですから、日頃から接触も多く、兄弟が病気になれば見舞いにも行ったでしょう。それで全員が罹患し、死亡したと解釈できます。
しかし、奈良時代の聖武天皇と光明皇后はそうではなかった。ウイルスが原因であることも伝染することも知らなかったのです。まさに長屋王の怨霊による復讐と考えたと思います。それにより、国分寺と国分尼寺を建立し、世界最大の大仏を造って、長屋王の怨霊を慰撫し、鎮めようと思ったのではないでしょうか。
もちろん、建立の詔には国家の災いを鎮め、民衆の心を安んじるなどの誰も反対できない立派なことしか書かれていません。長屋王のなの字も書かれてはいません。それは以下のような理由で当然なのだと思います。
状況からみて、明らかに光明皇后(当然、聖武天皇も)は兄たち藤原四兄弟が長屋王を「始末」してくれたので、皇族でもないのに皇后になれたことを知っていたと思います。また、他の貴族や民衆も程度の差はあれ、知っていたでしょう。そのような時に天皇の詔に長屋王とその家族(幼児も含む)の鎮魂のためなどと書けるはずがないと思います。それは藤原氏が光明子の立后に反対する長屋王を抹殺してくれたおかげで、自分(光明皇后)は皇后に昇格することができたと、ご丁寧に文書に記録に残る形で自白することになるからです。すなわち、皇后に昇った正当性が失われるのです。そのようなことをするはずはありません。あくまで、表向きには長屋王は反乱により処分されたということで、国分寺や大仏の建立とは無関係という立場を固守する必要があったと思います。
(本文は以下の画像の下に続きます。)
拙文をお読みいただいた同窓の方の中には、「いや、聖武天皇や光明皇后が長屋王の怨霊を恐れてなどという非科学的なことで、あのような国家事業をするはずがない。もっと崇高な理念で行ったのだ」と思われる方がおられるかもしれません。
しかし、この量子力学や素粒子物理学が発展し、AIが活躍する現代において、全国紙の紙面に「奈良の商業地にささやかれる「長屋王の呪い」 「そごう」「ヨーカドー」が相次ぎ閉店 怨念は晴れるのか」などという記事が載って、わが国では、少なくない人々が興味をもって読み、「もしかしたら、あるかも」などと思う国民性なのです。およそ千三百年前に「犯人」の藤原四兄弟が天然痘で一気に死亡したことをどのような気持ちで聖武天皇と光明皇后は見て、何をしようと思ったか、想像することは意義があるのではないかと思います。
ここまでお目通しありがとうございました。コメント等いただければ幸いです。(了)
あの巨大な大仏はどうやって造られたのか?同窓の皆さんの中には興味をお持ちの方もおられると思いますので、ご参考までに、井沢 元彦 著「逆説の日本史第2巻(1997)小学館)」から引用して以下にご紹介します。また、画像は「中学用教科書 新しい日本の歴史 育鵬社 令和6年」からの引用です。https://x.gd/zuqlK この教科書に画像とともに本文にも造り方の記載がありましたが、こちらは割愛しました。よろしければお目通しをお願いします。
中学の教科書にも造り方が出ていたのですが、私は中学で習った覚えがありません(笑)。
本文は下記画像の下に続きます。
まず、粘土で鋳造しようと思うものとまったく同じ大きさの像をつくる。巨大なものであるから、よほどしっかりした骨組みが必要だ。つぎに、できあがった粘土像の表面にふたたび粘土を塗る。乾いたら、上から塗った粘土層を適当な大きさに切り分けてこれをとりはずす。その後、せっかくつくったもとの粘土像の表面を、約五~六センチずつおしげもなく削ってしまう。削り取った分が銅像の厚みとなる。
ついで、さきにとりはずした粘土板を焼き固めたあと、まわりにならべて組み立てる。 あいだに銅の型持ちを入れて、間隔が一定になるようにする。 この隙間に溶けた銅をいっきに流し込むのだ。しかし、あまりの巨像のために、いっぺんに全体を鋳造することはできず、八段に分けて鋳込まれたらしい。溶けた銅から出るガスを抜くための工夫が必要で、その圧力をささえるために、一段ごとに周囲に多量の土砂を積んでいった。この土の山の上には、銅を溶かす炉がズラッとならぶ。 最終段が鋳込まれたときには、本体は小高い山のなかに隠れていたことになる。この山を崩して大仏が姿をあらわしたとき、 それは金色に輝いていたはずである。
これにつづいて、表面の整形やスになってしまった部分や不十分な部分の鋳直し、螺髪の鋳造がおこなわれ、本体にはめ込まれた。さらに表面をきれいに磨きあげてから金メッキした。光背も製作しなくてはならない。 こうして盧舎那仏の完成までに、本体の鋳造に二年、整形・補鋳に五年、メッキに五年の、合計じつに一二年以上もの歳月がかかっている。
(『日本の歴史④ 天平の時代』 栄原永遠男著 集英社刊)<井沢 元彦 著「逆説の日本史第2巻(1997)小学館)」所収>
「中学用教科書 新しい日本の歴史 育鵬社 令和6年」から引用
金メッキに要した最後の5年を入れると実に12年もの歳月が費やされました。
粘土の原像上にさらに粘土を塗って型を取り、型を外した後、原像を削り取り、再び周りに型を並べて間に溶けた銅を流し込んで鋳造しました。ですから、創建時の大仏の中身はほとんどが粘土でできていて、表面の厚さ5センチほどが青銅でできていたことになります。
ご存じの方も多いと思いますが、奈良の大仏は平安末期と戦国時代に兵火にかかり、そのたびに修復されましたが、原形を多くはとどめていないとのことです。現在のものの造り方が創建時と同じとは限りませんので、現在の大仏の中身がほとんど粘土なのかは、私にはわかりません。
同窓の方でご存じの方がおられましたら、ご教示をお願いします。
また中学校、あるいは清陵で奈良の大仏がどうやって造られたかを教えられた記憶のある同窓の方がおられましたら、教えていただけますか?
興味本位ですみません。よろしくお願いします。(了)