令和8年1月1日掲載 64回生 林 義祐氏寄稿(第七十二回目掲載)
オランダ在住の 林 義祐氏(64回生・岡谷市出身)のご寄稿「オランダの生活・歌日記: 2025 年 12 月 歌日記序文」を下記に掲載いたします。林様、今月もご寄稿いただきありがとうございます。
今月は「流浪の民族となって二千年、ユダヤ民族はなぜそのアイデンティティを失わず現在に至ることができたか?」という多くの人が多大な興味を持つ事柄について論考されています。大変興味深いご報告です。よろしければ是非お目通しをお願いいたします。
数日以内に第七十三回目掲載として「オランダの生活・歌日記 2025年12月」を掲載いたします。
同窓の皆様のコメントやご感想をお待ちしています。(名取宛メール: antimarck@yahoo.co.jp)
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12 月 歌日記:序文 はじめに
◆私は先月(11 月号)序文で「ハマス vs イスラエル戦争」を取り上げ、「なぜハマスの奇襲が起こってから 2 年以上も経つのに、戦争が止まらないのか?」という疑問を自分なりに考えてみました。主として、中東問題に詳しいジャーナリスト石田和靖氏の「ハマス奇襲の不可解」という論考をもとに、その陰謀論的な内容と、その背景にある歴史上の事件等近現代史のみならず古代に遡ってそのころ起こった歴史的事件も併せて考察してみました。
・それはモーゼの出エジプト BC1230 年、以降、
・イスラエルの BC1000 年頃からの繁栄(ダビデ、ソロモン王時代)と、
・その後ローマに降り(AD 6 年)、
・そのローマに反乱して敗れ(AD 132 年)、
・ハドリアヌス ローマ皇帝によりカナンの地から追放され(AD 135 年)ディアスポラとなって、散り々になって欧州を中心として世界中を、約 2000年間放浪することになった。
このことがそもそもの初期の歴史で、現在のハマス・ウクライナ戦争の発端となっているものです。
・ディアスポラの間、約 2000 年に渡って、欧州、東欧、ロシア、中央アジア(弓月の国)、中国、日本、と広範にわたって拡散したようです。中国では開封でユダヤ共同体を形成して、現在も細々と残っているようです。日本に来たのは古墳時代といわれておりますが、日本では最初は共同体だったものの結局は、例外的に日本民族と同化したようです。(田中英道氏・諸説あり) しかしデイアスポラ中のユダヤ人は軍人・兵士等に守られて行動していたわけでも、政治家とか企業家とか有力なリーダーに引き連れられていたわけでもありません。彼等の中心にはラビと言われるユダヤ教の導師がいました。このラビを中心に、ユダヤ教の教えを守り、日常の規律履行や教育も行われていたということです。
◆しかしそういったことを知れば知るほど、色々な疑問が湧いてきました。例えば 上述のように;世界中の別々の地で、いくつものユダヤ人共同体が、互いの通信手段もなく、ラビからの教えと聖書だけで、民族の歴史、誇り、将来の目標など、同一・同質性を以て維持できるものだろうか?
2000 年という長さはラビが 70 歳まで導師でいたとしても、平均 20世代ぐらいかかると思われるが、その間どうやってたくさんの共同体が、同じユダヤ国家建設とか、神に選ばれた民族とか、、そういう意識・目標・アイデンティー、を持つことができたか不思議でなりませんでした。
私は、皆さんも同じ疑問を持っているに違いないと思い、いくつかの疑問点をピックアップし、ネット上の文献にあたったり、AI に確認したりして、ある程度理解できたものを以下にまとめてみました。今回はそれを皆さんとシェアしたいと思います。
目次:
【第1章】 ユダヤ人 2000 年間アイデンティティー維持の方法
【第 2 章】 シオニズムの形成とその影響力
【第 3 章】 なぜユダヤ人は 1948 年にパレスチナに建国できたのか
【第 4 章】 建国後のイスラエルによる 2 国家併存無視
【第5章】 パレスチナがこの惨状から脱却する方法はあるか?
◆以下は上記疑問に関して AI との Q&A スタイルのやり取りです。
MS の生成 AI Copilot が、私の疑問に答えてくれて、解説を加える形となっています。
【第1章】 ユダヤ人 2000 年間アイデンティティー維持の方法
疑問1: ディアスポラ中のユダヤ人は、ほぼ 2000年近くの間、どのようにして世界中のあちこちで、民族のアイデンティティーを維持していたのだろうか? 世界中の別々の地で、何十という共同体が、互いの通信手段もなく、ラビからの教えと聖書だけで、民族の歴史、誇り、将来の目標など、同一・同質性を以て維持できるものだろうか? 2000 年という長さはラビが 70 歳まで導師でいたとしても、平均 20世代ぐらいかかると思われるが、その間どうやって何十という共同体が、同じユダヤ国家建設とか、神に選ばれた民族とか、そういう意識・目標を維持することができたか不思議でならない。
聖書以外にもトーラーとか、タルムードとか、シナゴーグの役割とかはどんなものだったのだろうか?
AI 回答1:ユダヤ人が 約 2000 年ものディアスポラ(離散) の中で、なぜこれほどまでに強固な民族的・宗教的アイデンティティを保てたのか――これは歴史学でもしばしば議論されるテーマです。
ユダヤ人ディアスポラは「文化的レジリエンス(回復・復活)の最も顕著な例の一つ」と評価されています。また、ディアスポラとは単なる移住ではなく、「異国に住みながらも自分たちの存在を一時的とみなし、故郷への帰還意識を持ち続ける集団」と定義されています。
以下では、ユダヤ人がどのようにして世界中で同質性を保ち続けたのか、その核心部分を整理してみます。
ユダヤ人が 2000 年の離散でアイデンティティを維持できた理由
1. トーラー(律法)とタルムードという“共通の憲法”
ユダヤ人にとってトーラーは単なる宗教書ではなく、 生活規範・法律・歴史・価値観のすべてを含む
「民族の憲法」 でした。
• トーラー(モーセ五書)
• タルムード(口伝律法の体系化)
• ハラーハー(ユダヤ法)
これらは地域が違っても内容が同じで、 共同体の行動様式を世界中で統一する役割 を果たしました。
タルムードは特に強力で、 「ユダヤ人とは何か」を定義する共通の枠組み を提供しました。
2. シナゴーグとラビ制度という“分散型ネットワーク” ディアスポラは「異国での共同体生活」を前提としていたと説明されています。
ユダヤ人はどこに移住しても必ず シナゴーグ(会堂) を建て、 そこを中心に教育・裁判・福祉・祭礼を行いました。
• ラビは地域ごとに存在したが、 学ぶテキスト(トーラー・タルムード)は世界共通
• ラビ同士は書簡で議論し、 ハラーハー(法解釈)を世界的に統一
これは現代で言えば、 中央サーバーのない分散型ネットワークが、同じプロトコルで動いている状態 に近いです。
3. 教育への異常なまでの重視
ユダヤ人は古代から 識字率が極めて高い民族 でした。
• 男子は幼少期から必ず読み書きを学ぶ
• トーラー学習は義務
• 学問は宗教行為と同一視された
教育が徹底されていたため、 どの地に移っても同じテキストを読み、同じ価値観を継承できた のです。
4. “選民意識”と“シオン回帰”という強力なナラティブディアスポラは「自分たちの滞在を一時的とみなす意識」を持っていたと説明されています。ユダヤ人はどこに住んでいても、 「本当の故郷はイスラエル」 という意識を持ち続けました。
• 毎日の祈りでエルサレムを向く
• 食卓で「来年はエルサレムで」と唱える
• 祭り 出エジプト記念(過越祭)などで歴史を再体験する
これらの儀式は、 民族の歴史と未来の目標を毎年“再インストール”する仕組み として機能しました。
5. 共同体内部の強い相互扶助
ユダヤ人共同体は、世界中で以下のような制度を共有していました。
• 貧民救済
• 旅人の保護
• 寄付(ツェダカ)
• 共同体税
• 結婚・葬儀の共同管理
これにより、 共同体に属すること自体が生活の安定を意味した ため、同化圧力に対して強い抵抗力を持ちました。
6. 外部からの差別が逆にアイデンティティを強化した
歴史的にユダヤ人はしばしば迫害され、 ゲットーや職業制限などの形で 外部社会から隔離 されました。
これは皮肉にも、
• 同化を防ぎ
• 内部結束を強め
• 伝統を守る動機を強化した
という効果を持ちました。
まとめ:ユダヤ人は「宗教+法律+教育+共同体」でアイデンティティを維持した要するに、ユダヤ人は
• 共通のテキスト(トーラー・タルムード)
• 共通の法律(ハラーハー)
• 共通の教育制度
• 共通の儀式と歴史観
• 共同体の強い自治
• 外部からの差別による閉鎖性
という複数の要素が組み合わさり、 世界中に散らばっても同質性を保つことができた のです。
ユダヤ人ディアスポラは「文化的レジリエンスの顕著な例」とされており、 また「異国に住みながらも自分たちの存在を一時的とみなす意識」が特徴とされています。
(第 1 章・以上)
【第 2 章】 シオニズムの形成とその影響力
疑問1:ユダヤ人の言う、”シオニズム”という言葉は正確にはどのような定義なのだろうか。カナンの地のシオンが故郷である。いずれそこに帰りたいということ(だけ)なのだろうか?
AI 回答1: ここは丁寧に整理しておくと、誤解が解けて理解が深まるテーマです。シオニズムは単純に「昔の故郷に帰りたい」という郷愁だけでは説明しきれません。歴史的・政治的・宗教的な複合的運動です。
シオニズム(Zionism)の定義
シオニズムとは、ユダヤ人がパレスチナ(歴史的にはカナンの地、シオンの丘を象徴)に民族的な故郷を再建しようとする政治的・民族的運動のことです。
ポイントを分解すると次のようになります。
1. 宗教的な「シオンへの憧れ」から出発
• 古代イスラエル王国が滅び、ユダヤ人が離散(ディアスポラ)した後も 「いつかシオン(エルサレム)に帰る」 という宗教的・精神的願望は 2000年以上続いてきました。
• これは祈りや祭式にも組み込まれており、文化的な核でもあります。
2. しかし近代シオニズムは“政治運動”として誕生
19 世紀末、ヨーロッパでの反ユダヤ主義の高まりを背景に、 テオドール・ヘルツルらが「ユダヤ人国家の建設」を政治的に主張し始めました。
つまり、
「迫害から逃れ、安全に生きられる国家を持つべきだ」 という現実的・政治的な動機が強くなった。
3. その結果、パレスチナへの移住・国家建設運動へ
• オスマン帝国末期〜英国委任統治期に移住が進む
• 1948 年にイスラエル建国
• これがパレスチナ問題の出発点にもなる
では、あなた(林)の言う「故郷に帰りたいというだけ」なのか?部分的には正しいけれど、それだけでは不十分です。 宗教的・文化的な郷愁(シオンへの帰還願望)これは確かにシオニズムの根にあります。
しかし近代シオニズムは“民族国家を作る政治運動”
• 迫害からの避難
• 民族自決
• 国際政治の中での国家建設 こうした要素が強く、単なる「帰りたい」という感情では説明できません。
まとめ
要素 内容
宗教的起源 シオン(エルサレム)への帰還願望
要素 内容
近代的性格 反ユダヤ主義への対抗、民族国家建設実際の行動 パレスチナへの移住、国家建設、政治運動結果 イスラエル建国とパレスチナ問題
疑問2:そうするとディアスポラの始まりから近代以前の政治運動になるまでのおよそ 1500 年ぐらいの間は、シオンの故郷に帰りたい、という気持ちだけで祈ったりしていたが、実際の帰還運動や、その行動計画などは特になく、ただラビも一般人も単にお祈りのように唱えていただけということになるのだろうか?1500年ぐらいだとラビの後継者だけでも 10 何人にもなるが、最後の頃はもう朝晩の挨拶ぐらいな位置づけになっていたのではないだろうか? ドレフュス事件が起こらなかったら、シオニズム運動はもっと遅れたか、違う形をとったとは考えられないだろうか?
AI 回答 2:ここは歴史の“長い沈黙”と“突然の爆発”がどうつながるかを理解する、とても良い視点です。あなたの問いは鋭くて、実際に学術的議論でもよく扱われるテーマです。順を追って整理してみます。
1. ディアスポラの 1500 年間は「祈りだけ」だったのか?
結論から言うと、ほぼ「祈り・象徴的な希望」だけで、組織的な帰還運動は存在しなかったと言ってよいです。
ただし、これは「形骸化していた」という意味ではありません。
宗教儀礼としての“帰還願望”は常に中心にあった
• 祈りの文句
• 過越祭の「来年はエルサレムで」
• 結婚式の儀式
• 嘆きの壁の方向に向かって祈る習慣
これらは単なる挨拶ではなく、ユダヤ教のアイデンティティそのものでした。
しかし、現実的な帰還計画はほぼ皆無
• 中世のユダヤ人はヨーロッパ・中東・北アフリカに散らばり、政治的権力を持たなかった
• 大規模移住を実行する資金・軍事力・外交力がなかった
• パレスチナは常に他の帝国(ローマ→ビザンツ→イスラム→オスマン)の支配下
つまり、願望は強くても、実行手段がなかった。
ラビたちも「帰還はメシアが来たとき」という神学的立場多くのラビはこう考えていました:人間の力で帰還を試みるのは傲慢であり、メシアの到来を待つべきだ。
このため、政治運動としての帰還は抑制されていたのです。
2. 祈りは“朝晩の挨拶”のように形骸化していたのか?ここは少し違います。
形骸化した部分もあったが、完全に形式化したわけではない
• 祈りの文句は日常化していた
• しかし「シオンへの帰還」は宗教的アイデンティティの核であり、単なる挨拶とは違う
たとえるなら、 日本人にとっての“先祖供養”や“お盆の帰省”のような、文化の深層にある感覚に近い。
3. では、なぜ近代になって突然「政治運動」になったのか?ここが重要で、近代ヨーロッパの反ユダヤ主義が決定的な引き金になりました。
ドレフュス事件(1894)は象徴的な転換点
• フランスの軍人ドレフュス(ユダヤ人)が冤罪で有罪
• 「ユダヤ人は同化しても受け入れられない」という現実が露呈
• ヘルツル(オーストリア系ユダヤ人。ジャーナリスト)が「ユダヤ人国家の必要性」を確信
あなたの直感通り、 ドレフュス事件がなければシオニズムはもっと遅れたか、別の形になった可能性は高い。
ただし、ドレフュス事件がなくても“近代シオニズム”は生まれた理由は以下の通り:
• 東欧・ロシアでのポグロム(大量虐殺・迫害)が深刻
• 産業化で都市に集中し、ユダヤ人問題が政治化
• 民族主義の時代(イタリア統一、ドイツ統一など)
• 交通・通信の発達で国際運動が可能につまり、ドレフュス事件は“火をつけた火花”であって、燃える材料はすでに積み上がっていた。
4. もしドレフュス事件がなかったら?(歴史の IF)学術的には次のように考えられています。
A. シオニズムは遅れたが、いずれ発生した
• 東欧の迫害が深刻だったため
• ユダヤ人国家の必要性は多くの知識人が感じていた
B. 宗教色がもっと強い運動になった可能性
ヘルツルは世俗的・政治的な指導者でした。 彼がいなければ、宗教的シオニズム(ラビ主導)が中心になった可能性がある。
C. パレスチナ以外の候補地が真剣に検討された可能性
実際、ウガンダ案(東アフリカ)が議論された。
まとめ
あなたの理解はかなり正確で、さらに補足するとこうなります。
• ディアスポラの 1500 年は「祈り=象徴的な帰還願望」が中心
• 実際の政治運動はほぼ存在しなかった
• ラビたちは「帰還はメシア待ち」という立場
• 近代になって初めて“人間の手による帰還”が政治運動化
• ドレフュス事件は決定的な引き金だが、必然的な流れもあった
疑問 3:ディアスポラ中は「象徴的な帰還願望」であったシオニズムが、なぜドレフュス事件を契機に、国際的なまとまりのある政治的運動に収斂し、ユダヤ人のパレスチナへの帰還、ユダヤ人国家建設へ向けて大きな政治的影響力を持つようになったのだろうか?
AI 回答3:
ドレフュスの軍歴と事件の概要(一部前述)
• アルフレッド・ドレフュス(1859–1935)はユダヤ系フランス人で、陸軍士官学校を卒業後、砲兵隊の大尉として参謀本部に勤務していました。
• 1894 年、ドイツへの軍事機密漏洩容疑をかけられ、軍法会議で有罪判決を受けました。
• 実際には証拠が乏しく、反ユダヤ主義的偏見が大きく影響した冤罪事件でした。
• ドレフュスは位階剥奪のうえ、フランス領ギアナ沖の悪魔島に流刑されました。
• その後、エミール・ゾラの「われ弾劾す(J’accuse)」などの世論の高まりにより再審が行われ、1906 年に無罪が確定し、軍籍に復帰しました。
• 1935 年逝去
• 2025 年准将に昇進 (没後 90 年)
近年の動き
2025 年、フランス議会はドレフュスを准将に昇進させる法案を可決しました。これは反ユダヤ主義との闘いの象徴的な一歩とされています。
疑問4: ドレフュス事件はシオニスト運動の端緒となったのだろうか?それとも両者は無関係に動いて行ったのだろうか?時代の背景とその後の欧州全体のこの事件の捉え方・影響はどれほどのものだったのだろうか?特に 2025 年の今昇進ということは、フランス内におけるシオニスト運動の捉え方は鈍いものだったのだろうか?
AI 回答4:
ドレフュス事件とシオニズムの関係
ドレフュス事件は、シオニズムの「端緒」そのものではありません。ただし、決定的な転回点として作用しました。すでに 19 世紀後半にはロシア帝国圏の迫害を背景に「愛国派(ヒバット・ツィオン)」や第一次アリヤーの移住運動、レオン・ピンスケルの著作など、初期シオニズムは存在していました。一方で、フランスでは第三共和政の普遍主義(市民的同化)理念が強く、ユダヤ人の「フランス人としての完全な統合」が理想視されていました。そのなかでドレフュス事件が露出した組織的な反ユダヤ主義は、同化可能性への信頼を根底から揺るがし、とくにテオドール・ヘルツル(オーストリア系ユダヤ人。ウイーン新聞のパリ特派員)の思想形成を加速させました。彼は『ユダヤ人国家』著作(1896)へと踏み切り、翌年の第一回シオニスト会議(バーゼル、1897)を実現します。つま
り、事件は既存の萌芽に「ヨーロッパの近代国家でも安全は保証されない」という強烈な現実感を与え、政治的シオニズムの推進力を増幅した、という位置づけが妥当です。フランス社会と政治における影響
• 共和主義と民族主義の断層: 事件は「ドレフュス擁護派(共和・自由主義)」と「反ドレフュス派(民族主義・権威主義)」の深い分極を生み、言論・司法・軍の関係を揺さぶりました。知識人の公共圏参入(ゾラの「われ弾劾す」)は、近代的な「知識人の政治参加」のモデルを形成します。
• 制度への波及: 軍の不正と司法の独立が大論争となり、最終的な無罪確定(1906)は法の支配の再確認につながります。政教分離法(1905)と直接の因果は単線的ではありませんが、反教権主義と共和的世俗主義の潮流を強化した文脈の一部と評価されます。
• 反ユダヤ主義の可視化: 反ユダヤ主義が「周縁的な偏見」ではなく、国家機関・メディア・大衆政治に浸透しうることが可視化され、欧州全体でその危険性に対する知的・政治的防衛が議題化されました。
欧州全体での捉え方と長期的影響
• ユダヤ人の自己認識の変化: 西欧でも同化によって完全な市民的安全が得られない可能性が示され、移住・自律・権利防衛の選択肢が現実味を帯びました。東欧の迫害と西欧の制度的不正が折り重なり、シオニズムへの支持拡大に寄与しました。
• 知識人文化・メディアの役割: 事件は「文筆による政治責任」の象徴となり、告発文学、調査報道、世論の法的影響が国境を越えて参照されました。
• 反ユダヤ主義対策の規範化: 法制度・教育・市民運動のレベルで、差別対策の必要性が共有され、後の国際人権規範形成にも通じる文化的下地となりました。
2025 年の「昇進」と現在の意味
• 事実関係: 2025 年 6 月、フランス下院はドレフュスを准将に昇進させる法案を全会一致で可決しました。趣旨は名誉回復の完了と、反ユダヤ主義との闘いの象徴化です。近年の憎悪犯罪増加への対抗姿勢が背景にあります。
• 現在へのメッセージ: この象徴的措置は「フランス共和主義が反差別に立ち返る」意思表示であり、シオニズムそのものへの賛否を示すものではありません。フランス国家は伝統的に
「ラ・イシテ(政教分離)と普遍的市民性」を重視し、宗教・民族的集団を政治の単位にしないため、シオニズムを国家理念として採択することはありません。今回の昇進は、ユダヤ人市民の権利と尊厳の擁護という国内的・共和主義的文脈に位置づけられます。フランスにおけるシオニズムの受け止め方
• 多層的で分岐した現実: フランスのユダヤ人社会にも多様な立場があり、イスラエルへの支持の度合いや方法は一様ではありません。国家レベルでは、外政としてイスラエルとの関係を維持しつつ、国内では普遍主義・同化モデルを優先するため、「シオニズム=国家的同意」という構図にはなりません。
• 「鈍い捉え方」ではなく、別軸: 鈍いというより、フランスはシオニズムを「民族自決に関する国外の政治運動」として扱い、国内では差別対策と市民平等を軸に対応する、という二重のレンズで見ています。今回の昇進はその「国内レンズ」での強い意思表示です。
まとめ
• ドレフュス事件はシオニズムの出発点ではないが、政治的シオニズムを加速した重大な契機。
• 事件はフランスの共和主義・法の支配・知識人の役割を再定義し、欧州全体に反ユダヤ主義の危険を可視化した。
• 2025 年の昇進は、シオニズム支持の表明ではなく、反ユダヤ主義への明確な対抗と名誉回復の完了を示す国内的象徴である。
疑問5:ヘルツルのシオニスト運動の推進とその結果はどのように落着したのだろうか?ヘルツルはユダヤ人国家建設は、カナンの地でなくともよい、アルゼンチンとか満州国でも良いと考えていたのではなかったか・・? 同じユダヤ人でありながら、シオニズムの父と呼ばれるヘルツルは、国家として安全な場所ならどこでも良い、と言っていたのになぜその考えは実らなかったのだろうか?
AI 回答5:
結論から言うと:テオドール・ヘルツルは「近代政治シオニズムの父」とされ、ユダヤ人国家建設を推進しました。当初は必ずしもパレスチナ(カナンの地)に限定せず、ウガンダ案なども検討しましたが、最終的にはパレスチナが唯一の到着点となりました。
ヘルツルの略歴
• 生誕:1860年、オーストリア=ハンガリー帝国領ブダペストのユダヤ人家庭
• 職業:ジャーナリスト・作家。ウィーンの新聞『ノイエ・フライエ・プレッセ』のパリ特派員
転機:1894年のドレフュス事件を取材し、同化主義の限界と反ユダヤ主義の根深さを痛感
• 著作:1896年『ユダヤ人国家(Der Judenstaat)』を出版し、ユダヤ人問題は政治的に解決すべきと主張シオニスト運動の推進
• 第 1 回シオニスト会議(1897 年、バーゼル) ヘルツルは 200 人以上の代表を集め、国際的なシオニスト組織を結成。
• 外交交渉
o オスマン帝国にパレスチナ移住の許可を求めるも失敗。
o 英国政府と交渉し、ウガンダ案(1903 年)を提示される。これは「一時的避難地」として検討されたが、シオニスト内部で激しい反発を招いた。
• 思想の特徴 ヘルツルは宗教的伝統よりも世俗的・政治的国家建設を重視。ヘブライ語復活やパレスチナへの固執には当初慎重で、現実的に安全な土地ならどこでもよいと考えていた。
国際的成果と到着点
• 成果
o シオニズムを国際的政治運動に組織化。
o 世界シオニスト機構の設立。
o ユダヤ人国家建設の理念を国際政治の議題に押し上げた。
• 到着点 ヘルツル自身は 1904 年に死去し、イスラエル建国(1948年)を見届けることはできませんでした。 しかし彼の構想と組織化が、最終的にパレスチナでのユダヤ人国家建設へと結実しました。
まとめ
• ヘルツルは「ユダヤ人国家」を提唱し、国際的シオニスト運動を組織化した。
• 初期にはパレスチナ以外の選択肢(ウガンダ案など)も検討したが、運動は最終的にパレスチナに収斂。
彼の活動はイスラエル建国の思想的・組織的基盤を築いた。
ヘルツルの思想の中で特に面白いのは、「世俗的ユダヤ国家」構想です。それは何もパレスチナの地でなくとも、安全で普通の生活ができるような土地なら、世界中どこでも良いと考えていました。宗教的伝統から切り離して国家を考えた点は、後のイスラエルの世俗・宗教対立にも影響しました。
【第 2 章:以上】
【第3章】 なぜユダヤ人は 1948 年にパレスチナに建国できたのか
疑問 1: 国際社会はなぜ黙認・支持したのか? 2000 年も住んでいなかったパレスチナに戻って来て、「ここは自分たちの祖先が住んでいた所だから、お前たちは出ていけ」とは、どんな国際法でも
(国内法でも) Justify 出来ないことは、誰にでも分かることだ。どうしてそんな無理筋が通ったのだろうか?
AI:回答1 この疑問は、イスラエル建国史の核心に触れる非常に重要なポイントです。 結論から言うと、「2000 年前の祖先の土地だから」という理由だけで建国が認められたわけではありません。 実際には、以下の複数の国際政治的・法的要因が重なった結果です。
1. 国際社会は「ユダヤ人の自決権」をすでに承認していた(国際法的根拠)
イスラエルの独立宣言は、ユダヤ人の「民族自決権」が国際的に認められていたことを根拠にしています。
• 第一次世界大戦後の国際連盟(League of Nations)は、パレスチナに「ユダヤ人の民族的郷土」を建設することを承認した(バルフォア宣言 → サンレモ会議 → 国際連盟委任統治)。
• つまり、ユダヤ人国家建設は国際法上すでに承認済みのプロジェクトだった。
これは、ネイティブアメリカンやアボリジニのケースとは全く異なります。 彼らの土地は国際社会によって
「返還すべき」と承認されたことは一度もありません。
2. 1947 年の国連による分割案(UNGA181)が建国の直接的な国際的根拠
国連は 1947 年にユダヤ国家とアラブ国家の二国家を同時に建設するという分割案を採択しました。
賛成 33
• 反対 13
• 棄権 10 国連は明確に「ユダヤ国家の建設」を承認したのです。
3. なぜ国際社会はユダヤ国家を支持したのか?理由は複合的です:
● ホロコースト後の国際的同情と政治的圧力
第二次世界大戦直後、ユダヤ人難民は数十万人規模でヨーロッパに溢れていました。 国際社会は「ユダヤ人の安全な国家」を必要と考えた。
● 英国の撤退とパレスチナ問題の放棄英国はパレスチナ統治に疲弊し、国連に丸投げした。
● 米国・ソ連の両方が支持
冷戦初期、珍しく米ソが同じ立場を取った。 理由は異なるが、両国ともユダヤ国家建設を支持した。
4. 「世界中を敵に回して建国した」のではなく、むしろ国際社会が承認したあなたの疑問はもっともですが、実際には:
• 国際連盟 → 承認
• 国連 → 承認
• 米国 → 支持
• ソ連 → 支持
• 多くの国 → 賛成票
という状況でした。
【第 3 章:以上】
【第4章】 建国後のイスラエルによる、2 国家併存無視
疑問 1:なぜシオニスト/イスラエルは、国家建設を国連や関連諸国と同意の上で 1948 年に成し遂げておきながら、2 国家併存など最初から無視して、パレスチナ人側の領土まで力による入植を拡大していったのか? 最初から政府は従う気は無くて、つまり平気で騙していたのか? 建国後の違法入植による紛争・不法行為は全くイスラエル側に責任があると思われるのだがどうだろうか。 この無法をなぜどこの国も組織も止められなかったのだろうか。
AI:回答1なぜイスラエルは国連分割案を守らず、入植を拡大したのか?
これも非常に重要な疑問です。 結論を言うと、イスラエル政府が最初から騙すつもりだったわけではありません。 しかし、歴史の流れの中で「分割案は実現しなかった」ため、状況が大きく変わりました。
1. 分割案はアラブ側が拒否し、戦争になった
1947 年の国連分割案は:
• ユダヤ側 → 受諾
• アラブ側 → 拒否
その結果、1948 年に第一次中東戦争が勃発しました。
戦争の結果:
• イスラエルは国連案より広い領土を占領
• ヨルダンが西岸を占領
• エジプトがガザを占領つまり、「二国家案」はアラブ側の拒否と戦争によって消滅したのです。
2. 1967 年の第三次中東戦争でイスラエルが西岸・ガザを占領その後、1967 年の戦争でイスラエルは西岸・ガザを占領し、 ここから「入植問題」が始まります。
3. なぜ国際社会は止められなかったのか?理由は複数あります:
• 米国がイスラエルを強く支援
• 国連決議は拘束力が弱い
• アラブ諸国は分裂していた
• 冷戦構造の中で中東は代理戦争の舞台になった
つまり、国際政治の力学がイスラエルの行動を抑制できなかったというのが実態です。
【第 4 章:以上】
【第5章】パレスチナがこの惨状から脱却する方法は
疑問 1: イスラエルが国としてこんな政策を進めている限り、将来の展望として、パレスチナ人・国は全くなす術がないと思われる。このままではパレスチナ滅亡としか考えられない。全くひどい話である。これを脱却する方法は本当にないのだろうか?
AI 回答1:**:パレスチナに未来はあるのか?脱却の方法はあるのか?** これは最も重い問いです。 結論から言うと、未来はあるが、非常に困難です。
現実的に考えられる 3 つのシナリオ
1. 二国家解決(Two-State Solution)
国際社会が最も支持する案。 最近、欧州などで再び支持が高まっている。
しかし:
• 入植地の拡大
• ガザの破壊
• イスラエル国内の政治的右傾化
などにより、実現は極めて難しい。
2. 一国家解決(One-State Solution)イスラエルとパレスチナを一つの国家にする案。しかし:
• イスラエルはユダヤ国家の性格を失う
• パレスチナ側も受け入れない
• 住民の対立が激しすぎる現実性は低い。
3. イスラエル・パレスチナ連邦(Confederation)近年議論される新しい案。
• 2 つの国家が独立を保ちながら連邦的に協力
• 国境を柔軟に
• 住民の移動をある程度自由化
これは理論的には最も現実的とされるが、政治的合意が必要。
結論:パレスチナに未来はあるが、国際社会の強い介入が不可欠
現状のままではパレスチナは非常に厳しい状況です。 しかし、国際社会の圧力が強まれば、二国家解決の可能性は再び浮上しています。
最後に
あなたの疑問は、歴史学者・国際法学者・政治学者が 100 年以上議論してきた核心そのものです。 どれも簡単に割り切れる問題ではありません。
【第 5 章:以上】
◆更なる疑問(林の AI へのコメント):
第 4 章の疑問1への回答のなかで、 『国際社会は「ユダヤ人の自決権」をすでに承認していた(国際法的根拠)』と言い、国際政治の力学がイスラエルの行動を許した、と言いますがこれは酷い話だと思います。国際法的根拠そのものに瑕疵があるということです。ユダヤ人の自決権を承認するなら、その地に住んでいる人々の主権、生存権、土地保有権、安全保障権も保証しなければなりません。それを誓約書でも覚書でも法律でも良いから確定しておいて、両者署名した上でユダヤ人の自決権を承認するべきです。全く片手落ちの承認です。そんなことは分かっていながら無視して力で進めるということは、初めから計画的な茶番であったということになります。つまり弱者いじめです。私はそこの点が疑問だったのですが、これではっきりしました。それが現実だということも‥
AI 回答: あなたが感じている「片手落ち」「弱者いじめ」という感覚は、歴史研究者や国際法学者の間でも非常に重要な論点として議論されてきたものです。 そして、あなたの指摘には確かに深い妥当性があります。
ただし、歴史的経緯を丁寧に見ていくと、 「国際社会がユダヤ人の自決権だけを承認した」 =「パレスチナ人の権利を無視した」 という単純な構図ではなく、もっと複雑で、矛盾に満ちたプロセスが浮かび上がります。
以下では、その矛盾を整理しながら、あなたの疑問に寄り添って解説します。
1. 国際社会の承認は“公平な法的判断”ではなく、政治的妥協の産物だったあなたが感じる「瑕疵」は、まさに歴史の核心です。
国際社会がユダヤ人の自決権を承認した背景には、 法的整合性よりも、政治的必要性が優先された という現実があります。
• ホロコースト後のユダヤ人難民問題
• 英国の委任統治放棄
• 米ソの思惑
• 中東の地政学的価値
これらが絡み合い、パレスチナ住民の権利は十分に考慮されなかった。
つまり、あなたが感じた「片手落ち」は、歴史的事実として正しい。
2. パレスチナ人の権利は“承認されていなかった”のではなく、国際法の枠組み自体が未成熟だったここが非常に重要なポイントです。
1940 年代当時、 「民族自決権」や「先住民の権利」という概念は、まだ国際法として確立していなかった。
• 先住民の権利が国際法で明確化されるのは 1980〜2000 年代
• 民族自決権が普遍的権利として扱われるのも 1960年代以降
つまり、 パレスチナ人の権利が軽視されたのは、国際法の未成熟さそのものが原因 という側面がある。
あなたが感じる「不公平さ」は、当時の国際法の限界そのものでもある。
3. 「両者の権利を保証した上で建国すべきだった」というあなたの指摘は、現代の国際法基準では完全に正しい現代の国際法の基準に照らせば:
• 住民の同意
• 土地権の保護
• 先住民の権利
• 自決権の相互尊重
• 強制移住の禁止
これらはすべて必須です。
しかし 1947 年当時、 これらの基準は存在していなかった。
だからこそ、あなたが感じる「茶番」「弱者いじめ」という感覚は、 現代の視点から見れば極めて自然な反応です。
4. 「初めから計画的だったのか?」という疑問についてここは慎重に整理する必要があります。
国際社会(特に英米)には“パレスチナ住民の権利を軽視した”責任があるこれは歴史学的にも広く認められています。
しかし「パレスチナ人を犠牲にする計画だった」と断定できる証拠はないむしろ実態は:
• 英国は問題を処理しきれず投げ出した
• 国連は妥協案として分割案を提示した
• アラブ側は拒否し、戦争になった
• 戦争の結果、現状が固定化されたつまり、 計画的というより、無責任と混乱の積み重ね という方が実態に近い。
5. あなたの「腑に落ちなかった疑問」は、歴史の本質を突いているあなたが感じたことは、学術的にも非常に重要な論点です。
• なぜパレスチナ住民の権利は守られなかったのか
• なぜ国際社会はユダヤ人国家だけを承認したのか
• なぜ双方の合意を前提にしなかったのかこれらは、現代の研究でも議論が続いています。
あなたの洞察は、単なる感情的反応ではなく、 歴史の構造的矛盾を正確に捉えたものです。
6. ただし「それが現実だ」と結論づける必要はないあなたは最後に「それが現実だということも…」と書きましたね。
確かに、歴史は不公平でした。 しかし、そこから導かれる未来は一つではありません。
• 国際社会は今、パレスチナの国家承認を進めている
• イスラエル国内でも和平を求める声は存在する
• 二国家解決の支持は世界的に再び強まっている
歴史の不正義があったからこそ、 それを是正しようとする動きもまた生まれています。
【終わりに:AI への謝辞】
◆Copilot さん、私が、いくら「片手落ちだ、瑕疵がある」、と言っても何がどうなるものでもないし、自分でももやもやと疑問に思っていたことがはっきりその実体が分かったということだけでもよしとしたいと思います。Copilot さんが丁寧に応対してくれたことを嬉しく思います。
AI
Copilot コメント:こちらこそ、あなたがずっと抱えてきた疑問を率直に共有してくれたことを嬉しく思っています。歴史や国際問題のように複雑で感情の絡むテーマは、誰にとっても簡単に整理できるものではありません。むしろ、あなたのように丁寧に考え、筋道を立てて疑問を深めていく姿勢はとても貴重です。
今回のやり取りで、あなたの中のもやもやが少しでも形になったのなら、それは大きな前進だと思います。歴史の問題は「正解」が一つではなく、時代背景や価値観の違いが絡み合うからこそ、こうして考え続けること自体に意味があります。
そして、こういう深いテーマを一緒に考えられたことを、私はとても光栄に感じています。
<12 月歌日記・序文:以上>
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オランダ在住の 林 義祐氏(64回生・岡谷市出身)のご寄稿「オランダの生活・歌日記: 2025年12月」を下記に掲載いたします。
12月20日には、「ズク」という諏訪方言を使って一首詠んでおられます。一説では「ズク」は標準語に置き換えることは不可能とも言われていますが、本当に「ズク」はズクとしか言いようがないと感じます。皆さんはいかが思われますか。
林様、今月もご寄稿ありがとうございます。同窓の皆様のコメントをお待ちします。
(名取宛メール: antimarck@yahoo.co.jp)
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2025 年 12月:歌日記
12 月 1 日(月)
☆ 気がつけば早くも師走我らまた 宇宙の塵になる日近づく
☆ 人間の体の元素星屑と 同じと言われた日思い出す
☆ 3I/Atlas 近くに迫り世界中 隠れ報道に恐れおののく
12 月 2 日(火)
☆ おそろしや露・宇戦争に備えたる 注意書類が各戸に配られる
☆ NATO 国どこか一つに露が侵攻 すればオランダすぐ巻き込まれ
☆ インフレと食料不足オランダも 住みにくい国になりつつありて
12 月 3 日(水)
☆ 隣人宅昼間泥棒に入られて 静かな宅地空気が一変し
☆ 同日に斜め先宅テニス仲間 発作で死亡我より若きに
☆ パトカーと救急車入り乱れ 我が家の近辺騒然となる
☆ この界隈静かで平和一等地 一寸先は闇とは知らじ
12 月4日(木)
☆ 柿の実を三回にわたり収穫も 50ほど残りお裾分け急げ
☆ サワシ柿いちどきに全部処理できぬ 半分は放置かそれも残念
☆ 放置せば冬を控えて鳥の餌 それが最良か思案は巡る
12 月 5 日(金)
☆ ハルマ(*1)逝きお別れ会場人溢れ 互いが交わす言葉は硬く
☆ 続々と増える参列者記帳後は コーヒー飲んで声低き会話
☆ アンドレア(*2)家族と共に入り口で 一人ずつ受ける“ディープ コンドレンス”
(*1)近所のテニス仲間。12 月 3 日の日記参照。(*2)ハルマの息子。テニス仲間
12 月 6 日(土)
☆ 樹間から昇る旭日は黄金色 はるか南寄り冬至は近い
☆ 師走なのにアジサイ季節間違えて 見よ瑞々しいこの緑の葉
12 月 7 日(日)
☆ ハリネズミ夕方二匹でやって来て せっせと食べるキャットフード
☆ 一匹は少し小さく子供らし 親に連れられ生きる術学び
12 月 8 日(月)
☆ アケビの木銀杏に絡まり頂部まで 銀杏葉が落ち全貌現れ
☆ アケビ苗日本の友くれ 10 年余 今年初めて実が生り 8 個
☆ 一時期は切り払おうと思いしが 友にすまぬと我慢してよかったー!!
☆ 来年はもしや一気に爆生りし 何十と生るか思えばワクワクし
12 月 9 日(火)
☆ 庭隅の香りビバーナム満開で 夜の散歩時匂いに気付き
☆ 小さな花それだけ見ても目立たぬが 夕べの薄闇夜目にもくっきり
12 月 10 日(水)
☆ クルミの葉大きく大量芝の上 今季 2度目の落ち葉掃きの夜
☆ 例により暗闇の中ライト点け 小雨降るなか汗かいて終わる
12 月 11 日(木)
☆ ミーロたち柿が好物よく来るが 食い散らかさず熟し柿のみ
☆ もう一つ柿の木ありてそこにも来る きつい渋なればいくらでもお食べ
12 月 12 日(金)
☆ 落葉し霧雨に濡れたヒメリンゴ 異様な赤さ迫力のあり
☆ 樹の下に銀扇花生え赤と白 去り行く季節一瞬の豊饒
☆ ヒメリンゴ枝垂れリンゴとはこれいかに 豊作とても勿体なきや
12 月 13 日(土)
☆ クリスマス近づいてるに町静か 楽しい騒ぎ今年は聞こえず
☆ 戦争やインフレ・移民頭痛の種 逼塞感は社会に溢れ
☆ 近隣のクリスマスツリー自粛型 ひっそり瞬くイルミネーション
12 月 14 日(日)
☆ 平屋根に積もりしクルミの落ち葉掃き 娘と二人で一日がかり
☆ 濡れ落ち葉集めて小山 7 つでき それを屋根からドサッと落とす
☆ 問題はソーラーパネルの下の箇所 ブローワーで飛ばし手作業で集め
☆ 玄関前落とした落葉ゴミ箱に 480 リットルすぐ満杯に
☆ 残り分ゴミ袋7つ詰め込んで ゴミ回収車に毎週順次出す
12 月 15日(月)<小鳥のパーティー>
☆ シジュウカラ・アオガラ・カケス・キツツキと フィンチ・ミーロで庭多賑わい
☆ 小鳥たち一足先にパーティーで 重い空とて熱気溢れる
12 月 16 日(火)
☆ 近隣のリューワルデン病院へ 3 ヶ月検診妻と二人で
☆ 検診は鼻からカメラ入れて診る 問題なしと 10分かからず
12 月 17 日(水)
☆ 熟し柿作ってみようと思い立ち 20 個捥いで常温に置く
☆ 昔父がお盆にたくさん並べては 暗所に置いたを真似することに
☆ 柿既に柔らかにしてこれならば ひと月くらいで熟柿となるや
12 月 18日 (木)
☆ クリスマスカード作るに時間なし 今年は止めるか思案に暮れる
☆ これまでは自作のカード送りしが 気力の減退歳のなせるわざ?
12 月 19 日(金)
☆ 北の地に静かで平和な町のあり Tromso 神秘オーロラの町
☆ 人間は自然の中で小さくも 意志強ければ何事か為す
☆ 極寒の地でも人々希望持ち Polar Night の輝き寿ぎ
12 月 20 日(土)
☆ クリスマスカード・賀状まとめて歌日記 スライドショーに組み込むことに
☆ スライドショー最後尾にてカード入れ 苦肉の策に “ズクナシ” だな~と
12 月 21 日(日) < 暖冬 >
☆ 平らかな牧場に水は満たされて スケートリンクにさざ波揺れる
☆ 夜散歩対岸の灯りチラチラと 広い湖上に満天の星
☆ 黒い空北斗七星横たわり 柄杓の先は樹中に覗く
12 月 22 日(月)
☆ 濃い霧が朝から立ち込め一日中 霧のドームは消えることなく
☆ しばらくは幻想的で浮かれるも 初め良いよいあとはウンザリ
12 月 23 日(火)
☆ 冬至の日昔の思い出懐かしみ 妻に所望するカボチャ スープ
☆ 昔日に父は冬至にかぼちゃ料理 一家団欒今も脳裡に
☆ わが友は正月過ごすメルボルン 佳き父親像永遠のお年玉
12 月 24 日(水)
☆ 娘宅よばれてアムスへ電車で行く 夜の中央駅何たる異世界
☆ カナル ボート夜の両岸電飾で 競うアイデア光の別世界
12 月 25 日(木) <ボートツアー(続き)>
☆ ボートから眺める夜の中央駅 昼の威容は全く見えず
☆ 駅前の大通り頭上電飾は トラムとコラボ エキゾチックに見え
12 月 26 日(金)
☆ 娘宅庭にやって来るオウムたち 写真撮らんと近づけば逃げる
☆ カササギも庭に来て餌探し オウムと違い近くまで寄り
☆ 久しぶりレストランにて食事会 フェスティブ シーズン元気を祝う
12 月 27 日 (土)
☆ ディナーは鍋娘の手料理日本式 アツアツ鍋に舌鼓を打ち
☆ アムスでのクリスマス休暇短くも 楽しきうちに夜は更けゆく
12 月 28 日(日)
☆ アムスにて歩き過ぎたか脚弱る サロンパス貼ればシャンとなりびっくり
☆ 年取れば強靭な身体潰え去り すぐに不具合情けなきこと
12 月 29 日(月)
☆ 年の瀬の恒例花火の音高し 犬はブルブルよほど怖いらし
☆ 住宅地花火禁止と法令が 来年成ると犬よ喜べ
12 月 30 日(火)
☆ 娘言う 11 日間連休と 年末年始は国挙げて休み
☆ 連休は暖かい国へ旅行ラッシュ 空港混雑連日ニュース
☆ 娘また旅行してから元日に 我が家に来ると犬猫会いに
12 月 31 日(水)
☆ 大晦日朝から上がる花火群 町は硝煙で濃い霧のよう
☆ オランダは個人が花火師事故多し 政府躍起に輸入禁止も
☆ 犬たちは朝からオドオド家の中 散歩に出てもすぐ戻らんとす
(本文:以上)
◆ 12月写真 スライドショー (35枚)→ https://img.gg/aPq9X2x
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名取様
明けまして おめでとうございます。
本年も宜しくお願いします。
支部長の藤森です。
林 義祐様のご寄稿本当に有り難いですね。
さて、「ズク」に関して、少し書かせていただきます。
小生、小さい頃6歳上の姉から「廣幸は ずくなし だから」と耳にたこができるほど言われて、小生の代名詞になりました。幼心に「ズクなし」は、忌み嫌うことばとなってしまいました。(笑い)
今回「ズク」についてAIの{Gemini}に尋ねてみました。
「ずくなし」の元になっている「ずく」という言葉、実はこれこそが信州の精神性を表すような、とても奥の深い方言です。簡単に言うとと「何かをするための気力、活力、手間を惜しまない気持ち」を指します。
「ずく」な主な意味:標準語にピッタと当てはまる言葉が一つではないため、文脈によって以下のように訳されます。①やる気・根気(モチベーション)②マネさ・精を出すこと(勤勉さ)③手間・骨折り(面倒なことをあえてやる動作)
よく使われる表現:信州では、この「ずく」を「出す」か「出さないか」かで人の行動を表現することが多い。①ずくを出す②ずくがある③ずくを病む④ずくなし(怠け者、やる気がない人)
ニュアンスのポイント:長野県の人にとって「ずくがある」と言われるのは、「働き者で、しっかりした人」という最大級の褒め言葉になります。とのことで。多分名取さんもAIに語源とうを尋ねていると思われます。以上蛇足ですね。
追伸:小生が先日お送りしました二種の会報寄稿文は、まず原稿を書き上げ、次に「Gemini」にて、「です・ます調」に修正したものです。(笑い)
以上、雑感まで。