「教師になんてなるんじゃなかった」
と、重吉美里は思った。
通信教育で単位を取り、英語科の中・高の教員免許を取得した美里は、通信教育で中学校の教員になったというと、
「わぁ、努力家なんですね」と感嘆されたり、
「よっぽど、教師になりたかったんだね」
と輝いた目で見られたりするのだが、そのどちらも当たっていないとため息混じりに美里は思っている。TOEICの点が三年間上がらずこれ以上それに書ける努力と時間が無駄な気がしたし、教師は安定した収入もあればそこそこ社会的に認められる職業だという計算もあった。子供は嫌いではない。だが、好きだとも言えない。大学時代の友達が
「俺はでもしか教師にはなりたくない」
といっていたのを思い起こしながら
「それでも、いいじゃない」
と一人ごつ。
三十目前。若い頃の夢は消え、世間では「三十過ぎて、独身・子なし」を負け犬といっていたりするのを聞くと「早く結婚したいな」とも思うのだが、具体的に結婚をイメージできない。せめて平穏無事に生きて行きたい、というのが必要最小限の美里の願いだ。
幼い頃から大人のいうことをよく聞くいい子だといわれてきたし、そのため教師からの受けはよく学校生活にもなじんでいた。だから教師としてもやっていける、と思ったのが間違いだった。
「先生、亀に似てるねぇ」
そう言われただけで、厚ぼったい亀のまぶたを想像して意気消沈してしまうのだ。
「教師に向いてない」
「向いてる」
「向いてない」
「向いてる」
校庭に咲いていた花を一本むしりとりそんな根暗な花占いをしては
「あ、やっぱり向いてない」
最後の一枚の花びらのついたままの茎を校庭に放り投げ深くため息をつくのだった。
安平あんな二十五歳。美里の勤務する久米中学校で同じく英語教師をしている。いまどきの若者らしく上役にもはっきりと物を言う。そして何だかぱっとしない美里に勝気なさげすみの目を向けてくる。それは教師としてだけではない、女としても馬鹿にされている、と美里は感じている。美里は平凡そのもので、一方美人ではないが子リスのような口元と華のある性格であんなは鈍感な美里から見ても男好きするタイプと映った。そしてあんなはもてることが一番の生きがいだと思っている節があった。
「俺、安平がよかったな~」
「俺も。重吉はまじめすぎておもしろくねえよなぁ」
男子生徒たちの声が廊下にこだまするのを耳にしながら、美里は子供とはいえ自分を認めようとはしない男という人種に諦めしか感じられず下を向いた。磨かれたばかりの廊下は非情にも反射する照り輝きで目を突き刺してくる。
キーンコーンカーンコーン。
チャイムが鳴ると美里はホッとする。
「安平ぁ」
疾走する生徒の一人があんなの短いスカートをめくって歓声を上げて逃げていく。
「やめなさいっ」
怒った声を出しながら、あんなの顔は笑っている。
そんな光景でさえ美里の繊細な神経を突き刺す。生徒達は自分にはあんなことはしない、それくらい自分には魅力がないのだと。
「あ、安平先生、今、帰るんですか」
二十三歳になったばかりの数学教師前田君だ。生徒達に人気アナウンサーに似ていると噂されるハンサムでさわやかなナイスガイだ。
「安平先生の授業、ユニークで面白いって生徒が嬉しそうでしたよ」
黄色い声であんなは返す。
「ほんと、ユニークってどういうことかしら」
ぷうと膨れてみせるのを美里は
「ふぐみたい」
と横目で見ている。そして心の中でそのふぐを刺身にして自分で食べてしまい、毒はあんなが食らうことにしてしまう。
「あ、さすがにひどい」
結局心の中でさえライバルを蹴落とせない小心者の自分に気がつき、それでまた落ち込むのだった。
「重吉先生、新しい自動販売機、十円安いんですよ」
変ににやにやと声を掛けてきたのは、澤田教諭四十歳。合コン魔と呼ばれている。毎週合コンをしているらしいという噂の割には恋人がいる気配はない。
「また、澤田」
美里は内心、この澤田が嫌いなのだが、先輩格には犬のように従順になってしまう性格をこの時は呪いつつも、
「ええ、はい、ありがとうございます」
と答えて小さく笑みを作る。美里はこの澤田が美里に変に優しいのは美里がおとなしく言うことを聞くからだということは知っていてた。家に入るとどう考えても歪んだ亭主関白になりそうな澤田にできるなら近づきたくないと思いながらも、優しい対応をしている
自分が嫌だった。
「ちょっと、ちょっと、重吉先生、澤田先生とできてるみたいね」
毒のない言い方をしているように聞こえるあんなの噂話に気の小さい美里は傷つく。
「えーっ、じゃあ、澤田先生、もう合コンは上がりですね~っ」
合いの手を入れる前田君のさわやか過ぎる声がさらに美里の気をめいらせる。
「もう、何言ってんねん」
あんなだったら、こう、大阪弁などを交えて茶化し笑いに変えてしまうだろうが、美里にはそんな芸当もできず、ただ聞こえない振りをするのが精一杯の大人の対応としてできることで、それがまた悲しい。
笑い声を響かせるあんなと前田をバックに追いやって歩き出し、生徒の帰ってしまった2―3のクラスルームの窓に肘をつき、
「ああ、せめて早く転勤になりたいなぁ」
と美里はため息をついていた。
なぜだか紫色の雲の飛ぶ不思議な夕焼けだった。それにいつになく心和み、見とれていると、背後から声がした。
「重吉先生、僕も一緒に夕焼けを見ていいですか」
澤田だった。いつもは「俺」といっている澤田がやけに優しく「僕」と発音するので、逃げ出したい衝動を抑えて美里はいつものように
「ええ、はい」
と控えめに答える。それを聞くと澤田は美里の横顔に視線を当てて
「僕の気持ちには気づいててくれましたよね。」
と早口でまくし立てた。
「え、何のことでしょう」
さすがに好意を持たれていたのに気づいていたなどとは言えず、ぎりぎりの処世術で美里ははぐらかす。
「まいったなー。気づいてくれていると思っていたのに。ハートですよ、ハート、僕の」
その言い方に美里は毛虫を背中に入れられたような感覚を覚えながら、いつにない冷めた声を出していた。
「ハートが何ですか」
おとなしく従ういつもの美里ではないのに少しむっとして澤田は、美里の腕を掴んだ。
「いつもの君らしくない!」
教室中にこだまする澤田の大声に、美里は掴まれた腕を振りほどき、なおもその腕を切り落としたい衝動に駆られながら、言い返していた。
「いつもの私って、どんな私ですか」
眉を吊り上げた小柄な美里の反撃に澤田はひるんだ。
「それはもう、いい奥さんになりそうな、君なんだな」
「いい奥さん」を鼻にかけて言う澤田の鼻をぺしゃんこにしてやりたいと思いながら、美里は生まれて初めて他人に自己主張らしきことをしている自分に気がついて愉快だった。
「わたしはいい奥さんにはなりません。いい先生になりたいと思っています」
クラスルームの扉をぴしゃりと閉めて廊下に出て行くとき、澤田のうめき声が聞こえたような気がしたが、美里は、教師生活で初めて教師になってよかったとさえ思った。こんなに力が湧き、自信に満ちた思いに、この私がなれたなんて!
廊下を歩きながら美里はいつの間にかスキップしているのに気がついていた。