「なんでこんな目に遭わなきゃならないの」
待ち合わせより十五分前に待ち合わせ場所に着いたのに、万里の携帯は待ち合わせ時刻に無情に鳴った。
「あ、今、どこですか。えっ、来れないって。もう着いちゃっているんですよ。わかりました。それじゃ、また今度」
予定が入ったから来れなくなったという男の電話は予定時刻だ。初めて会う相手なのに不誠実な男だと、思いながらも、電話口から聞こえてくるソフトな声に、「また今度」なんて言っている自分がちょっと嫌いになる。
「ばしーっと、言えたらな。ばしーっと」
気が強くて頑固な所がある割には妙に簡単に妥協してしまう弱さを恨めしく思いながら、握り締めた携帯をバッグにしまった。
待ち合わせ場所とは同じビル内に、予定していたイタリアン・カフェ・レストランがあった。黒ベースの店内には並んだグラスがきらりと光り、注連縄のようなもので作った置物は静かに佇んでいる。万里は少し値段は高めだが大人の雰囲気漂うこの店が好きで、今まで何人かの友達とそれより多くのデートの相手をここへ連れてきていた。しかし、今日は一人だ。
「ええいっ、やけだ。もう値段なんてどうでもいいわ。食べてやるっ」
普段はよれよれのジーンズを穿いている自分の頭のてっぺんから足のつま先までコーディネートされた装いを眺める。ため息が出る。
「ご注文、お決まりになられましたでしょうか」
どこぞの奥様のような顔をしたウエイトレスが、いつもの平服の自分に対してより、やたら丁寧な対応をしてくるような気がして、万里は気分もいいのだが、一方で、
「これが世の中なのよね」
と舌打ちする。すねた自分だ。
初めてデートしたのは高校生の時で相手は十年上の「オヤジ」だった。しゃれた店など入ったこともなかった万里は、バーテンダーのいるレストランで、メニューの上の知らない料理名ばかりを眺めて目が点になり、注文したのはいいが、口が回らなくて男に笑われた。
「あの悔しさは忘れはしない」
十年経った今、あの時の男と同い年になり、ワインの味もわかる大人の女に少しは近づいたつもりだ。あれからちょっと高級な男におごられるたび、必死で料理とカクテルの名を覚えたものだ。素敵な彼が欲しくて学んだ料理の本からも様々な知識を得たものだ。
「もう、あの頃の私じゃない」
しかし、今日は何てざまなのだろう。せっかくのおしゃれも台無しだ。
注文したのは、シーザーサラダだった。八百円もするそのサラダは、自分ひとりだと普段は絶対に注文はしないものだ。
「あたしもヤキが回ったわね。ここで一人でこんなサラダ食べてるなんて」
このレストランのシーザーサラダは大きかった。たっぷりの緑色のレタス、七箇所くらいちりばめられた四角い焼きベーコン、真ん中には半熟のゆで卵、そしてサラダ全体にはおとぎの国の雪のように粉チーズとペパーが振りかけられている。
「もったいないなぁ。あたし一人で、このサラダを食べるなんて」
今日会うはずだった男は顔も知らない男だ。出会い系サイトで知り合って、メールと電話で気が合って、それだけの、十歳年上の男。
「あの人と一緒に食べたかった」
と思うほどには、万里は男が好きなわけではない。顔も知らない男に対し、そんな感情なんて持てやしない、と思っている。
「だけど…」
むなしさついでにレストランにカップルがやたらと目に飛び込んでくる。老夫婦さえ仲睦まじいと視線をそらしたくなる。男同士で群がる中にちょっと好きなタイプを見つけると
「一人、欲しい」
と思ってしまう。
「ここまで来たか――、あたしの男への飢えは」
シーザーサラダをただ、見つめた。美しさにため息をついた後、やけ食いよろしくもりもり食べる。サラダの形はどんどん崩れ、緑も赤も黄色も消えうせた。
「むなしいと
食欲 体重
だけが増えゆく」
五・八・七にしかならぬ俳句を作り、今日の食事代稼ぎに俳句コンクールに応募してみようかなどと一瞬考えたが、
「や~めた。これ以上恥をさらすのは」
シーザーサラダの皿にフォークをカタンと置き、どす黒く見えるワインを一飲みした。
「これはあたしの血の色よ。あたしの心に流れてる」
にくにくしさも飲み込んで、ワイングラスに映る奇妙な顔にひとりごちた。