枇杷の木が長い影を作っている。新山小春は、その根元までを歩き、足を止めた。見上げると「城山郵便局」とある。蝉が大いに鳴く中を小春は汗をぬぐいながら入っていった。
入り口から内部に入ると扇風機が心地よかった。
「ふうーっ」
息をつくやいなや馴染みの局員さんから声がかかった。
「新山さん、暑い中、ご苦労様です」
小春より二つ年上の、稲荷くんだ。稲荷くんは今年二十五歳、ぴかぴかの顔をしていつも小春に応対してくれる。小春はその目鼻立ちの整ったところが、とても好きだった。
文通が趣味の小春はよく切手を買いにこの郵便局へ来る。窓口に新しい切手のサンプルが表示されると早速それを購入するのだ。お金持ちではないので、封筒も便箋もシンプルな安物だが、切手で文通相手を楽しませようと考えている。そして稲荷くんは小春の思惑を知っているので小春が新しい切手のサンプルに気づいていないと向こうから声をかけてくれるのだ。
「新山さん、新しいの、出たよ」
小春はその度に稲荷くんの親切が嬉しく小さな声で
「ありがとうございます」
と答えるのだった。
稲荷くんが城山郵便局へ来て二年になる。最初は慌て者らしい稲荷くんが小さなミスを仕出かす度に小春は年下ながら
「大丈夫かなぁ」
と思っていたが、その内様々な業務をこなす郵便局員らしくなっていった。
そしていつの頃からか小春はハンサムで優しい稲荷くんに恋心を抱くようになっていた。しかし奥手の小春はいつもながらの応答しか出来ず、どうしたら自分の気持ちを伝えられるのか悩むようになっていた。その上、
「あんなにかっこよくていい人なら、もてて当然よね。彼女がいたらどうしよう」
そんな悩みもあった。
「彼女、いるの?」
そう尋ねるだけで伝わるのだろうに、ありきたりな告白はしたくない小春であった。
そんなある日、ふと出かけた町でポスターが目に入った。
「未来の自分へ メッセージ募集 吉行郵便局」
「あ、これ、いい」
小春は、三十年後の自分に今の自分のメッセージを届けたいと思った。将来の自分にエールを送るのだ。
家に帰って早速書いた。そして城山郵便局へ持っていった。稲荷くん一人がせっせと作業をしていた。
「あ、新山さん、暑いですね」
稲荷くんの前に立つと早速尋ねた。
「三十年後の自分にメッセージって送れますか」
「え?」
「三十年後の自分にメッセージを送るの、他の郵便局でやっているところがあるみたいで」
「あ、受け付けていますよ」
「住所はどちらに?」
「ご自分の今の住所、書いておいてください。後は可能な限り調べますから」
「じゃ、お願いします。お金は?」
「五百円です」
小春が現住所を書いていると、覗き込んで稲荷くんは言った。
「千石町?俺んちから歩いて十分だ。どう?三十年後に俺が届けるって言うのは?お代はいらない。新山さんとはまた会いたいからね。それよりも三十年度に俺の側にいてくれたらもっと嬉しいけど」
小春の心臓はコクリと打った。
「嘘、それって…」
「あ、プロポーズだよ。もちろん、真剣だからね」
「うん」
下を向く小春に稲荷くんは続ける。
「返事は今すぐじゃなくてもいいから」
さっと顔を上げて小春は言った。
「今すぐ返事させてください。私と結婚してください。お願いします。もう、夢みたい!」
泣き崩れる小春をなだめる稲荷くんに、外から帰ってきたばかりの局員川辺さんが
「おい、おい、どうしたんだ。お前、泣かすなよ」
と声をかけ、稲荷くんは小春に、
「一生、これ以上、泣かすことはしないから」
と誓い、事情を察した川辺さんに
「ヒュー、ヒュー」
とはやし立てられていた。
蒸し暑い夏が再来し、五十三歳になった小春は荷造りをしていた。外では水を撒く人がいて、時折涼しい風が来る。
「何度目の引越しだろう」
と小春は思った。稲荷正則との結婚の後二度、離婚後は五度引っ越した。小柄な小春だが、離婚後はほとんどすべての荷造りをし、引越し業者に手伝われての作業だった。
突然、さわやかな風が吹き、小春は手を止めた。白いものが混じった髪がふわりと宙を舞った。地味に佇むダンボールを見ていると、小春は、駆け抜けてきた三十年に思いを馳せずにはいられなかった。
小春は絵本作家になっていた。美大を出て小さい頃からの夢だった絵と文章を書く仕事…。
「アマチュア時代には投稿によくあの郵便局を利用したっけ…。」
ふふふと微笑んだ小春だったが、次の瞬間、まじめな面持ちになり、呟いた。
「正則さん、どうしているかしら」
稲荷正則との結婚生活は最初は新鮮で楽しいものだった。買い物と掃除と洗濯をし料理を作って稲荷を待つ日々に小春は小さな暖かさを感じ、稲荷もまたそういう小春をいとしげなまなざしで見、そそくさと仕事から帰ってきたものだ。
しかし、結婚五年目にして投稿した絵本が賞を取り絵本作家として忙しくなっていった小春は、徹夜をしたりで体を壊すようになった。そして初めての子供を流産…。それまで優しかった稲荷がこれまでの不満を吐露、小春を責めた。稲荷が求めていたのは家庭をしっかり守る子煩悩な妻だった。そして小春は、小柄でかわいらしい雰囲気で一見稲荷の女性像に合っているようでいて、絵本作家として世に出たいという野心があった。忙しくなるにつれ、夕飯に稲荷を待つこともなくなった。そういったところも稲荷の小春への不信感を増すところだったのだ。しかし小春は小春で流産したことで自分を責めた。どうしてもっと大事にしてあげられなかったんだろうと思うと、切なかった。その上、こんな時一番優しい言葉をかけて欲しいはずの稲荷までもが小春を責めた。胸が張り裂けんばかりのつらい日々が続いた。そんなある日、小春は決心して言った。
「正則さん、私、子供を持ちたくない」
「どうしたんだ」
「絵本の仕事が忙しいから子供にかまっていられないし、また流産したらかわいそうだし」
「俺は子供が欲しいんだ。君と子供さえいればいい。俺の給料でやっていけるだろう。絵本の仕事はやめて欲しい」
「無理よ。絵本作家は私の子供の頃からの夢だったの。私にとって一番大切なことなのよ」
「俺はどうなるんだ。絵本の方が大切なのか」
「あなたも大切だから、両立できることを考えたんじゃないの。絵本を描いて結婚生活を送る。その代わり子供は望まない」
「俺はそれじゃ納得できないんだ」
似たような問答が一ヶ月以上続き、どちらからとなく離婚の話になり、その一ヶ月度小春は自分独りのアパートへ引っ越した。
「若かったわね。今ならもっと違った選択もできるかもしれないのに」
最後のダンボールにガムテープを張り、汗をぬぐって、何の気なしに表を見やると、郵便の赤いバイクが止まるのが眼に入った。暑さで陽炎のように見える近づいてくる人影には見覚えがあった。稲荷だった。
「郵便で~す」
小春は笑った。
「何、郵便局員ぶっているのよ。私を訪ねてきたんでしょ」
「郵便を届けにきた郵便局員なんだ」
「あなたは内勤だったはずでしょう?」
「今日だけ外回りなんだ」
稲荷も汗を拭き拭き笑顔を見せた。しわが目立つが笑い顔はあの頃のままだ。小春は尚もいぶかしんで尋ねた。
「誰からの手紙?」
「三十年前の君からさ」
小春は当に忘れていた。だが、思い出した。そう、この手紙を稲荷に預けた日がプロポーズされた日だったのだ。
「内容は覚えているのよ。『夫や子供を大切にしてかわいいいばあちゃんになりなさい』ってね。…果たせなかったけど」
それを聞いた稲荷はもう一通、手紙を渡した。
「三十年前のあの日に俺が書いた手紙だ。」
中には「一生小春を大切にする」と朱書きしてあった。そして稲荷はもっと大きな笑顔でこう言った。
「三十年前の自分に届けるサービスは城山郵便局にはなかったんだよ。君とまた会いたかったから俺から君だけへのサービスだ。何度も捨てようとしたが、捨てられなかった」
蝉の合唱が止まった。小春と稲荷は長い間、見詰め合っていた。