迷子の子猫を抱きしめて優の懐は温かい。青い制服に黄色のワッペンをつけてそこには「二年二組」と書いてある。トゥーシューズのような白い小学校の上履きにはきかえた優は子猫をそうっと懐に隠していた。
「何、やってんだ?」
とうとうクラス一噂好きの良に見つかり、子猫を引っ張り出された。
「こんなもん、反則だぞ」
「今、外で見つけたんだ」
「先生呼んで来るからなぁ」
「ちょっ、ちょっと待てよ~」
優は良の名前の上に「不」をつけるのが好きだ。
「ちっ、不良のくせに・・・・・・」
足音が聞こえてきたので、大急ぎで校庭をつきっきり、校門を越えた。
冬空は薄曇り、時折ちらちらと白い物がちらつく。優はあぜ道を転ばないようにそぉっと歩きながら懐に話しかける。
「よぉし、もう少しだからな」
目の前に屋敷林のある大きな家が迫ってきた。
「何やっとんじゃ、優?」
しわがれ声がしたかと思ったら、茅葺きの家の戸口から八十くらいのばあさんが出てきて、優は飛び上がった。
「また連れてきよったか」
「うん、だってかわいそうなんだもん」
そうして懐から子猫を出した。額に三日月の傷跡のある真っ黒の猫だった。
「学校の前に捨てていくんだよ、こんなかわいい子を」
ばあさんは、わかった、わかったという顔をして、家に入るよう手招きをした。優は子猫を抱きしめて家の中へ入った。
スリッパを履いて廊下を歩いてゆくとあちこちからいろんな動物が顔をのぞかせた。犬・猫・うさぎ・猿・鳩・インコ・・・・・・中でも一番多いのは猫でいろいろな色や大きさがいる。
「今日は訪問者がおっての」
畳敷き八畳の間に大きなテーブルがあり、そこに向かってばあさんは座って、優の前にお茶とお菓子の入ったやはり木製の入れ物を差し出した。
お腹がすいていた優はおかきやらせんべいやらをバリバリと食べて一気に少し冷めたお茶を飲み干した。
「それで?」
ようやく一息ついて優が尋ねると、
「三毛のミーが欲しいと言うんじゃ」
「それで?」
嬉しそうなばあさんに瞳を大きくして優がその顔を見つめると、ばあさんは、
「いい人で良かった」
と笑顔になった。
そのばあさんの顔を見て優は何だか嬉しくなった。でもちょっぴり悲しくなった。
ばあさんは優の表情を読み取り、
「なぁ、淋しいのも、そのうち慣れるさ」
と言った。
優は三日月の傷を持つ猫をそっとテーブルの上に上げ、
「こいつはミケでいい?」
と老婆に聞いた。
「三日月だものな」
ばあさんが眼を細めて笑うと、一本だけしかない前歯が見えた。
「おばあちゃん、いつになったら入れ歯をするの? みんなびっくりするんだよ」
ばあさんはさらに広い口元をして笑い、
「入れ歯、入れた方がいいよ」
という優の頭をなでた。
それをぶるんと振り払いミケを階段に置いて、優はまた小学校への一本道を学校を目指して走って行った。
キーンコーンカーンコーン。
始業のベルが鳴ったのは、優が校門をくぐった時だった。
「やっべー」
教室の扉を開けたら、先生が点呼をしていた。
「・・・・・・山口優!」
「はぁい」
答えながらクラスの中の方にある席に優がつくと、
「悪運強ェなァ、おまえ」
後ろから不良の良が鉛筆でつついてきた。
「悪運じゃない、運が強いんだ」
優が言い張ると、
「カッコつけやがって!」
良の応酬に、
「カッコつけてんのはおまえの方だろ。その服、変な臭いがするぞ」
と優が言い負かそうとすると、
「おまえ、香水もわかんないの? 田舎くせぇ」
と良にやられてしまった。
「川中良さん、こちらへどうぞ」
細くて倒れそうなくらいの担任の柳先生に呼ばれ、良は立ち上がった。
柳先生は立っている良の側へ来て、
「香水は校則で禁じています。すぐ運動服に着替えなさい」
「運動服にもつけてるんだよなぁ」
良がニヤニヤしていると、色白の柳先生は顔を真っ赤にして、
「なら、うちへ取りに行きなさい。あなたの家はここから十分ですから、三十分待ちましょう。それを越えたらお母様に連絡しますからね」
「ちェッ。信用ねェなァ」
「当たり前です。さあ、行きなさい」
良はしぶしぶ教室を出て行った。
優はちょっぴり嬉しかった。ついでによく失神する柳先生も見直した。
「先生、やるぅ~」
他の男子生徒の声に柳先生は頬を赤らめ、優は、
「先生、かわいいな」
と密かに思った。
一限目は算数だった。優のクラスには、「九九到達度表」が貼ってあって、一の位から順に覚えるとシールが貼られていくのだった。優は五番目くらいだった。不良の良はそのすぐ下だ。
「あいつにだけは負けたくない!」
何かと目立つ上に、優に敵対心を燃やしている良に、優はめらめらと炎を輝かせるのだった。
「おりゃ~す! 着替えてきたゼ」
いつの間にか良が、青地に白い縞の入った運動服を着て教室の入り口に立っていた。
「良さん、いつももっとキレいな言葉を使うように言っているでしょ?『今、帰りました』となぜ言えないのかしら?」
柳先生の悲しげな声にもめげず、良は優の後ろの席にランドセルをドスンと置き、
「今、けぇったゼ」
と着席した。
柳先生の泣き出しそうなくらい悲しそうな顔を見て、優は良の頭を物差しでペシッとたたいた。
「何すんだ、てめェ・・・・・・!」
良はすごみのある声で優に飛びかかろうとし、そこでクラス一体の大きな女子・由加が飛び込んできた。
「やめなさいよ!」
由加が相撲を取らせるとクラスで誰にも負けないのを知っているだけに、優も良も黙った。そこで、柳先生が、
「ハイ、では授業を再開しますね、みなさん」
と言って、あっという間に一限目は終わってしまった。
優は学校があまり好きではなかった。何がどうだからとは言えなかったが、広い屋敷林のある家にいてばあさんや動物たちと一緒にいる方がよかった。優しい気持ちになれた。
ミケは優の家にいついたが、どこか他人行儀、というか、いつも鋭い目を光らせている猫だった。
「刑事みたいな目をするね」
とばあさんも言った。
優の家は時々「動物ツアー」をやった。それは、知らない人がやってきて、動物に癒やされていったり、動物たちのもらい手になってくれたりするものだ。そのたびに人々はお金やらお菓子やらを置いていったが、ばあさんは催促はせず、しかし断りもせずでのんびりとやっていた。親のいない優の唯一の人間の家族はこのばあさんで、入れ歯も入れず気味悪がられてもいたこのばあさんを、優は嫌いではなかった。
「わしは若い頃、小野小町の生まれ変わりだと言われたもんじゃ」
と自慢するこのばあさんにはちっとも美人の面影がない、と思いながらも優はいつも、
「ふうん」
と受け流していた。ただ、この独り身のばあさんを慕うじいさんが時折お菓子の箱を持ってやってきて、
「ばあちゃんも意外にもてるんだな」
と優は思っている。
優の好きな柳先生は小学校教師になって三年目の細長くてキレいな先生だ。風が吹くと大きく揺れる柳の枝のようにきゃしゃで時々ぶっ倒れて救急車が来るので、父兄からは、
「早く結婚してお辞めになればいいのに」
という声が上がっていたが、優は早く大人になって柳先生を迎えに行きたい、と心の奥密かに思っていた。。しかし柳先生にはボーイフレンドがいた。学校に何度か来たことのある人だったが、体型も顔もいかつくてボコボコしていたので、
「あんなジャガイモみたいな奴のどこがいいんだ」
と優は思っていた。
ある日、柳先生は優の側に来て言った。
「あなたの家の動物ツアーに参加してもいいかしら?」
「もちろん、です!」
優は自分が認められたみたいで大喜びだった。
早速家に帰ると、ばあさんにそのことを伝えた。
「犬か猫が欲しい、とか何かおっしゃってなかったか?」
ばあさんに聞かれ、
「何にも」
「そうか・・・・・・」
ばあさんは思案顔だった。それをよそに優は舞い上がっていた。
その日の夕方、柳先生はジャガイモ男と一緒に優の家へやってきた。優はがっかりした。
動物たちは興味津々に柳先生と彼氏を見つめていたが、南国の虹色のインコのQが、
「バカヤロー」
と言ったので、柳先生はクスリと笑った。優は良とのことで嫌なことがあるといつもこのQに、
「バカヤロー」
と愚痴っていたので恥ずかしくなった。
「こいつは止めとこう」
とジャガイモ男が言ったので、優は何となく腹ただしくなった。柳先生は何も言わずほほえんでいたので、優はますます柳先生が好きになった。
「あら、キレいな猫」
階段に鎮座していたミケに目をやって柳先生はそう言った。
「目つきが悪いと言って嫌う人もおるでの」
と、ばあさんが言うと、
「あら、あなた、そんなことないわよね」
と柳先生がジャガイモ男に言ったので、優は心の中で思った。
「先生、あんな奴を『あなた』なんて呼ばないでくれよ~」
ジャガイモ男はふんふんとうなずき、ミケに手を伸ばした。が、逃げられた。
「どうも僕はこの猫に嫌われているみたいだな」
ジャガイモ男の言葉にばあさんは、
「こいつは誰にでもこうでの。人間嫌いというか。なついているのはこの優だけでしてね。それも決して腹を見せない」
優は得意なのかそうでないのかわからない気持ちになった。
「何てお名前?」
それでも尋ねてくる柳先生にばあさんは一言、
「ミケ」
と答えた。柳先生は、
「ミケ・・・・・・ちゃん」
と手を伸ばすとミケは心地よさそうになでられていた。
「私、この子、欲しい」
柳先生はジャガイモ男に懇願し、ジャガイモ男も、
「しょうがないな」
という顔をした。そしてばあさんに向き直り、
「彼女は体が弱くて・・・・・・それで子どもの代わりになるペットを探していたんです。ある程度知能があって、愛情をかければ応えてくれるような・・・・・・。彼女になつきそうだし、どうかこのミケちゃんを僕らに下さい。大切にしますから、お願いします!」
と頭を下げた。柳先生も頭を下げた。
「もう結婚の話になってんのかぁ」
優はショックだったが、
「まぁ、いいかのぅ」
とばあさんが答え、喜んで帰って行く柳先生の後ろ姿に、ミケの瞳から映写機のように映した映像に、優はもっとショックを受けた。何と柳先生が車にはねられて死んでしまう、というものだった。
翌日は柳先生の通夜だった。この日はさすがの良も泣いていた。優は、ばあさんから、あの日ミケが見せた映像については誰にも言うな、と釘を刺されていたが、秘密の重さに耐えきれなくなっていた。
「優くん、泣かないのね」
目を腫れぼったくした由加に話しかけられ泣くどころではなかった優は思わず由加にあのミケの見せた映像のことを話してしまった。由加は目を倍にして聞いていたが、優が話し終えるのと同時に席を立ってしまった。
遺影の柳先生はいつものように優しくほほえんでいる。それを眺めている優の目に、ようやくキラリと光るものが訪れていた。
その日の晩だった。優のばあさんに一本の電話があった。
「そんなモン、知らん」
受話器を乱暴に置いたばあさんの剣幕に優はまず驚いたが、それから優に向けたばあさんの顔の険しさに優はドキリとした。
「おまえさん、誰かにミケのことを話したじゃろう?」
「えっ!」
優はしらばっくれようとしたが、事はそういう雰囲気ではない。
「誰に話したんだ?」
なおも言いつのるばあさんに気圧されて、優は、
「由加」
とボソリと言った。
「おまえさん、由加の父親がマスコミ関係者だって知らないのかい? そうじゃなくても
誰かに話せば伝わるものさ。『人の口に戸は立てられん』と言うものと言うぞ。言ってしまったものは仕方がないが、さあ、これからが大変だ。ミケも守ってやらんといかん。ミケは元々奇妙な雰囲気を持っている猫じゃが、また何かあるかも知れん。おまえも心しとけよ」
優には何を心しとけばいいのかわからなかったが、大変なことが起こりつつあるのを感じていた。いや、もう、起こっているのだ。柳先生はミケの予告通り死んだ。それだけでも大変なことだと優も思わずにはいられなかった。
それからがもっと大変だった。ミケの取材をさせて欲しいというテレビや雑誌の申し込みが後を絶たず、優が下校中リポーターに追いかけられたりした。優もばあさんももううんざりしていて、優は学校で由加を探して言った。
「何でうちの秘密を言うんだよ」
「だって優くん、口止めしなかったじゃない」
由加は悪びれなくそう言った。
「口止めしなくってもヤバいことはわかるだろ?」
「私もパパに出世して欲しいもん」
「おまえ、人んち不幸にしといて、自分ちだけ幸せになる気か!」
優の憤りに由加は、
「そうよ。悪い?」
とそっぽを向いて行ってしまった。
「はぁ~」
優のため息を聞く者はいない。そのうち良がやってきて、
「おまえんち、おもろい猫がおるそうだな。今度オレにも見せろよ」
と肘でつついてきた。
「こんな奴を家に連れてきたら何いいふらされんだか」
優の思いも知らず、良は上機嫌で去って行った。
その日、優が帰ると、座敷に良が座っていた。お茶とお菓子を前に寛いでいる。
「な、何でおまえがいんだよ?」
思わず素っ頓狂な声を上げた優に良はニヤリと笑った。
「あれま、お友達じゃなかったのかえ?」
ばあさんの声に、
「友達です」
良はいつになく優等生的で、
「おばあさん、若い頃、さぞもてたでしょう?」
と小町を気取るばあさんを嬉しがらせていて、優は小さくため息をついた。
「こんな奴にまで小町の話をするなんて!」
優は何だか恥ずかしくなってきた。それを知ってか知らず、良は小学校二年生とは思えぬ口のうまさを発揮して、ばあさんに頼み込んでいた。
「ミケに会いたい、って? 普通の猫だぞよ。毛並みが良くって、ちょっと強面の」
「それを見たいんです」
良が真剣なまなざしで言うので、
「まぁ、優の友達ならな」
とばあさんはニコリと笑い、
「友達じゃな~い!」
と言いたいが言葉の出てこない優を置いて、
「おい、ミケや」
ばあさんは昼寝をしていたらしいミケを抱きかかえて持ってきて、良の前のテーブルに置いた。
いつになく紳士気取りの良を気に入っているように見えるばあさんにも心の中で腹を立てながら、優は成り行きを見守っていた。
ミケはあくびをして丸まっていたが、不意に良を見つめてある映像を見せた。それは、良が大人になってクラスのマドンナと結婚式を挙げている像だった。
良は大喜びでばあさんに抱きつき、そうしてそそくさと帰って行った。
「あいつ、女たらしだからな」
優は面白くなさそうにつぶやき、ばあさんはニコニコとほほえんでいた。が、優は気づいた。
「ばあちゃん、何てことしてくれるんだ。あいつの別名知ってんの? 『巨大スピーカー』って言うんだよ。今頃言いふらして歩いているよ」
「それはいかん」
しかし、後の祭りであった。
翌日、ばあさんと優の屋敷の前には長蛇の列ができていた。
「ミケちゃんを見せて下さい!」
「悩みがあるんですけど見てもらえますか?」
興味本位から深刻な声まで、屋敷の周りに響き渡っていた。
「やれやれ、この屋敷始まって以来の大騒ぎだわい」
ばあさんがあきれ果てていると、優は、
「あんな中、通っていけないよぉ」
半泣きでいたので、ばあさんは、
「今日は学校へ行かんで良い」
と言って奥へ行くよう促した。
そのうちカメラとレポーターもやってきて、奥でテレビをつけると自分の家が映っていて優は驚いた。
「こんなことになるなんて・・・・・・」
ミケを見つけて、
「君、困ったちゃんだね」
と話しかけると、ミケはまた映像を優に見せた。ミケの見せた映像とは、ミケとばあさんの人生相談で人々がお金を置いていき、そのお金で大学へ進学でき立派な社会人になる優の姿だった。
「ミケ、おまえ・・・・・・」
実はここにいる動物たちのように優ももらい子であることを優は何となく気づいていた。子どもの頃の写真や両親の写真さえなかった。ばあさんの愛情は感じていたが、裕福とは言いがたく、だからこそ優は高校を卒業したら就職しようと思っていたのだ。
「ミケ、おまえはそのためにうちに来たの?」
するとミケは、ばあさんや優がたくさんの動物たちを救ってきた映像を見せてくれた。
「おまえは・・・・・・だから・・・・・・」
声にならなかった。
奥へ入ってきたばあさんにしがみついて説明をしているうちに優は、声を上げて泣いていた。