「お父さんをもらってください」
「え」
私は聞き返す時にスマホを落とした。それは私の足元から声を発してくる。
「ごめんなさい、もう一度」
スマホを取り戻して、私は穏やかな声を出そうとした。
「ですから、うちのお父さんをもらってください!」
それが私と麻衣との出会いだった。
翌日、駅前の喫茶店で、私は麻衣と会った。セーラー服を着ている麻衣は私の知っている顔と瓜二つですぐに声をかけた。
「麻衣ちゃんね。私は長田、長田由美子と言います」
「知ってる~、よく知ってる。お父さんの定期入れの裏にあなたの写真、入ってた」
どこかはすっぱなところにも頭の良さを漂わせる声を出し、麻衣は私に、恋人の高志の教育を想像させた。
「お父さんってバカだからあなたの写真の入った定期入れを台所のテーブルの上に載せたまま寝室へ入っちゃってさ。お母さんは興味なしだったけど、あたしはいつも疑ってたから、『お父さんに愛人がいる』って」
「愛人」という言葉に私の心は揺れた。「愛人」ではなく、「恋人」と思っていた私の胸に、これは強烈なパンチだった。
鉢植えのポインセチアをバックにして、麻衣はカフェラテのカップをちょっと不器用そうにいじる。肩までの髪にはカールがかかり、ぱっちりした目はうるんでいる。
「この子、きっと好きな子がいるのね」
下手をすると親子ほど年の離れた三十路になったばかりの私は、何となく年齢以上年を食ったかのような錯覚に囚われた。
「これが高志の娘なんだ」
三十九の高志には私が窓口になっていた会社で声をかけられた。
「独身ですか」
男性が一番輝くという三十八を一つ過ぎたばかりの高志は十分すぎるくらい素敵だった。その物腰、そのしぐさ、その笑顔。ここで「ハイ」と答えればナンパされるのがわかっていても、
「ハイ」
と答えずにはいられないオーラがあの時の高志には確かにあった。そしてその時の強い印象はいまだ私の心の中にある。
高志はよく港にある帆船の内部へ連れて行ってくれた。薄暗いそこでは、窓から入ってくる光のまぶしさに目を細めたりしながら、他の客がいなくなるのを待って、高校生のようなキスをしたりした。私にとって、高志は初めての男だった。高志は優しかった。暮れゆく帆船の中で、遠い街のライトがゆらゆらと揺れるのを目にしながら、高志のディープなキスは夢の世界へと私をいざなった。
「離さない」
私の背に回した両腕に力を込め、ふいに高志はそう言った。空にかかる三日月も波間に漂っているかのようだった。
「離さないで」
二十代最後の一年を、私は、こうして高志と過ごすことになった。そのうちに私は、高志は結婚していることや中学生の娘がいて溺愛していることなどを聞かされた。私はその事実を知っても大して驚かなかったし、怒りもしなかった。結婚願望のない私にとって、高志が結婚していることなどどうでもよかったし、むしろ愛のない結婚生活を送っている高志に哀れみを感じた。そして、その心の隙間を埋められたら、と同情にも似た愛を持ち始めていることにも気づいていた。
帆船から外へ出て、港の見える木製のベンチに腰掛けながら、街灯に照らされ二人語っている時間は尽きなかった。
「好きよ」
高志の肩に頭を傾けた後で、シンデレラはいとまごいをする。その手を強く引き、体ごと抱きしめてから、高志はそっと私を離して言った。
「帰りなよ」
人生で一番切ない時間だったと今振り返って思う。風になびく髪をまとめながら、私は胸がちぎれそうな思いとあふれ出てくる愛に泣きたくなっていた。
その高志の娘―麻衣を目の前にして、私はどうしていいかわからなかった。
「お父さんをもらってください」
と言って私に会いにやってきた娘は、あまりにも恋人にそっくりだった。
カフェラテの最後の一滴までおいしそうに飲み終えた麻衣に、私はとりあえず声をかける。
「おいしかった? もう一杯飲む? おごるから」
なぜこのぶしつけな電話をかけてきた娘に私がこんなに親切をしなくてはならないのかもわからなかったが、年上としてはそうすべきだと私には思われた。
「やった! ラッキー!」
遠慮することもなくやけに無邪気に喜んでいる麻衣を見ながら、
「この子もやはり中学生なんだ」
とその若さがどこかでうらやましかった。
麻衣の二杯目はウインナーコーヒーだった。生クリームが乗っている部分にライオンの絵が浮かび上がっていて、麻衣は幼児のように喜んでいる。苦笑しつつ私が、
「あなた、やっぱり若いのよ。若さは大事にしないとね」
と声をかけると、麻衣は、
「由美子さん、いい人だ~。それなのになぜお父さんなんかと不倫やってるの? 愛人なんて肩身狭いよね」
痛いところを突いてくる。私は、
「この子の不作法さは子供だから」
と自分に言い聞かせ、本題に戻った。
「それで、『お父さんをもらってください』だなんて、あなた、お父さんが嫌いなの?」
高志が大事にしているはずの娘は、
「う~ん」
としばらく黙り込み、
「微妙」
とぼそりと口にした。
「何でそう思うの?」
「だってお父さん、私に勉強ばかりさせようとしてくるもん。自分が高学歴だからって娘に勉強強要してくるんだもん。ウザい」
「お母さんはお父さんのこと、何って言っているの?」
「『あんな粗大ごみ、いなくなればいい』って。お母さんは看護師で夜勤だってあるのに、お父さんって家事何もやらない」
私はショックだった。高志の語らなかった高志の家事情は、恋が少し冷めるのに十分な響きがあった。
「お母さんが浮気してるってことはないのかしら」
気持ちを抑えて言った私に対して、麻衣はウインナーコーヒーをがぶ飲みして、
「わかんない。だけどあの人、そんな雰囲気ないよ。枯れちゃってんじゃない?」
私はその麻衣の言い草に声を立てて笑った。
「あなたも言うわね」
何となく、私は麻衣を好きになり始めていた。
「それで『お父さんをもらって』っていうのはあなた一人の意思でお母さんはそうは思ってはいないのね?」
「聴いたことないけどぉ……あの人もそう思ってんじゃない? 会話もほとんどないんだよ、あの人たち」
私は麻衣にぴしゃりと言った。
「ご両親のこと、『あの人』呼ばわりするのはよくないわね」
麻衣は眉を吊り上げた。
「何でェ? あなたこそお父さんの愛人なんてやっているくせに、そんなこと言えるの?」
「さすが高志の娘、なかなか利口そう」
と私は舌を巻いた。一方で私はまだ麻衣の意図が計り知れないでいた。
「三杯目はアイスココアがいいなぁ」
ちらりと私を上目づかいに見、かわいい子たちが自らの美貌を使う手段を取るのに、私はちょっとイラつきながら、ウエイトレスを呼びに手を上げる。
「おごりはこれで最後よ」
「はぁィ」
意外に素直な返事に拍子抜けして、私はガックリと椅子の奥深くに腰の位置を落とした。
「お父さんはもらえないなぁ」
麻衣の目を見据えて言うと、
「じゃあ、別れるんだね、お父さんと」
そこまで行くくらいには私はまだ高志を愛していた。別れたくはなかった。
「ホラァ、結局愛人でいいんだね、あなたは」
「愛人」という言葉はやはり引っかかったが、麻衣の本当の気持ちは見えてきた。
「『お父さんをもらってください』だなんてウソでしょ。あなたは本当はお父さんとお母さんに仲良くしてほしい。『お父さんを取らないで』って言いにきたのよね。違って?」
麻衣は大粒の涙を流していた。マスカラが黒い筋になって頬を滴り落ちる。それから突然の笑顔になってカバンを握りしめると、
「バァカ。引っかかってやんの。私はこれでも女優の卵。涙なんて好きな時に出せるの」
そう言うやいなやさっさと喫茶店を出て行ってしまった。
「子はかすがいねェ…」
残された私は一人、ありふれた言葉の意味を思いながら、コーヒーカップをくるりくるりと回していた。