秋になり、ハリケーン・カトリーナがやってきた。そのため、アメリカ・ニューオリンズは大打撃を受け、死者多数。アメリカの政策の欠陥やら貧富の差やら人種差別やらが浮き彫りになった、聖女のような名を持つハリケーン。いまだ記憶に新しく、その傷が完全にいえることはおそらくはないだろうと思われる。
カトリーナ。そう耳にした時、私が一番先に思ったのは、カテリーナ。女帝エカテリーナではなく、文京カテリーナ。私が大学時代を過ごした学生会館の名前である。喜びと悲しみ他様々な思いのつまったお城のような白い建物が今も私の脳裏には張り付いており、そこで得た友人たちのこと、朝食配膳のアルバイトのこと、そこまでついてきて教会の十字架を見て逃げ帰っていった男友達なんかのこと、など記憶をたぐれば、思い出は泉のようにわいてくる。その中で、忘れられない人がいる。仮にAさんとしておこう。
Aさんは、カテリーナに数人いた管理人さんの中の一人で、非常に気さくで自由な考えの持ち主だった。門限が十時、それ以降は連絡しなければ帰ってこれないシステムな上に、住み込みの管理人さんが厳しく、連絡もせずに帰ってきて中にいる妹に扉を開けてもらった翌朝には、
「昨夜は何をしておられたんですか。こんなことをまたされたら、出ていってもらいますからね」
と、ねちねち言われたものだが、Aさんが当番の日には、外から門限に遅れると連絡を入れても、
「外で遊んでくるのもいい社会勉強だよ。楽しんでいらっしゃい」
とにこにこ顔が目に見えるような声で送り出してくれたものだ。そして私は、当然のことながら、Aさん当直の晩が大好きだった。
しかし、Aさんにも困ったところがあった。気さくで明るいおじさんだったが、そういう人にありがちなことにジョークが大好きで、それがまた笑えないのだ。少なくとも私とは笑いのツボが違うようで、笑えたことは一度もない。しかし私の顔を見かけるとジョークらしきことを言うので、笑えない私は、
「どうしたら笑ってあげられるんだろう」
と真面目に悩み、学生会館文京カテリーナから外へ出ていくには管理人室の前を通らねばならないのだが、Aさんのジョークのせいで、私はそこを通ることにいつもビクビクドキドキしなければならなかった。
元バーテンダーだったAさんは、その当時もカテリーナでパーティーがある度に、グラスの縁に塩をぬってそれを二つ合わせてシェイクし、自慢のカクテルを学生たちにふるまってくれたが、水商売の人に多いであろうと思われる気さくでくだけた語り口で、いつも女学生達に囲まれて話に花を咲かせていた。そして時に意味深なことも言った。
文京カテリーナは教会つきのキリスト教系の学生会館だったが、その教会の礼拝の一コマ。同じ並びに座っていた私と少し話した時にAさんは、
「人の言うことをまともに受け取る人は、生きるのが苦しいはずだ」
と言ったのだ。生きること、人と関わることに光明を見い出せずに教会へ来ていた私にはショックであり、また味方を得たようで救われたような気持になった。それだけAさんは頭の回転が速くちょっとした言葉から人を見抜く賢い人だったとも言えるだろう。
ハリケーンから懐かしき学生時代を思い起こすことになろうとは、思ってもみなかった。都会から田舎へ一人旅に出かけて帰ってきた私に釣りの話をしてくれたAさん、家に帰りたくなく年末までカテリーナにいた私に昔歌舞伎町でお店を開き何億の借金を抱えて倒産した話をしみじみしてくれたAさん、占いの好きだった私が何度聞いても生年月日をおしえてくれなかったAさん、奥さんを亡くされ帰りの遅い、東大出の高給取りの娘さんが自慢だったらしいAさんは、その自由すぎた考えが保守的な他の管理人さん達と合わず、カテリーナを去っていかれたと、後に妹から聞くことになったが、今はどうしておられるのだろうか。
懐かしきカテリーナ。思い出の宝箱のようなあの白い建物。そしてAさん。たくさんの物をたくさんの人達から奪ったカトリーナとは対照的に。