《盲目の音楽家・YOUTAさんに感謝を込めて》
うすぼやけた一室に艶やかに光るグランドピアノが置いてある。まるで黒い巨匠……そうサチが思うや否や、なじみのある美しい旋律が部屋を満たしてゆく。ピアニストの片目は開いたまま、片目は閉じられたまま。彫りの深いその顔立ちにサチは釘づけになった。流れゆくそのメロディーは、そう、「エリーゼのために」。
都会の雑踏の中を十八歳のサチは行く。ブランド物のTシャツと青いジーンズをさっぱりと着こなし、赤いヒールが闊歩する。ストレートに長い髪だが前髪は眉上できれいに切りそろえられている。
「日本人形みたいだね」
恋人の寛貴がバービー人形が好きと知り、引くよりも大笑いしたサチだが、なるほど、バービー人形はサチに似ている。
「だけど着替えをさせたりもするのよね」
そう思うと、複雑な思いのサチなのだが、のん気にココナツミルクのタピオカをストローで吸い上げるのに夢中になっている寛貴を見ると、
「イテッ。なぁにすんだよぉ」
つねってしまうサチなのだった。
「今日はあなたんとこの音大に行っていいの?」
「いいって言ってんだろ。それより何遠慮してんだよ? いつでも来ていいっていつも言ってるだろ。俺はサチの遠慮がわからない」
「私んとこ、文学部しかない女子大でしょ? 何かあなたんところに行って浮いちゃったらヤダなって」
「心配すんなぃ。未来の大ピアニストの学生時代、知っといたら得だぜ」
寛貴らしい、いつもの大見栄、、と思いつつ、
「そういうとこ、結構好きなのよね」
なんて思うサチは、まだ喫茶店の高い椅子に腰かけている寛貴の手を取り、引っ張って、
「さぁ、行きましょ」
空はよく晴れていた。
つたの絡まる、コンクリート造りで灰色をした建物の中をサチと寛貴は歩く。
「ねぇ、手、つないじゃ、ダメ?」
「他の奴らが見てたら、後から何言われんだか」
「以外に肝っ玉が小さいみたいね」
「そぉくるかぁ……」
右手を振り上げる寛貴の側をすっとかわして逃げるサチ。
「あ、ここだよ。練習室101」
サチが振り向くと寛貴はその部屋の扉を開けて入っていくところだった。
「ちょっと待って……!」
練習室101から寛貴がすぐに出てきて、目が血走っている。
「とんでもない現場だった」
「え?」
「俺たちがまだしてないことをしてやがった、あのカップル」
サチはちょっと顔を赤らめつつも聞く。
「ねぇ、どうだった?」
「女の子とこういう話をするのもなぁ……」
「ホント、変なとこだけ女の子扱いする! いつもは仲のいい男友達的に扱ったりするくせに」
「いや、二人とも、服着てなかったんだ」
「え?」
「……というのは冗談さ」
右手で寛貴をバンバンたたいているうちに、次の部屋の前に来た。練習室102だ。
「今度こそ、大丈夫だろうなぁ……」
扉を開く寛貴の後についていくサチ。そこからは聞き覚えのあるメロディーが美しいピアノの音色で流れてきていた。
「あ、先客だ」
そういう寛貴の声と、奥からの、
「誰かいるんですか?」
という声は同時だった。ピアノの音がやみ、ピシリという音がしたかと思うと、白杖をついた美しい青年が現れた。サチは息をのんだ。
「あの、夢の中の人にそっくり!」
言葉にならない言葉がサチの心の中を駆け巡り、やっと出たのは、
「エリーゼのために、ですね」
幾つか年上らしい落ち着いた雰囲気のある青年に、サチは敬語を使ってみる。
「そうです。本当は、テレーゼという人のための曲だったそうですが……」
それからちょっと微笑んで青年はこう言い添えた。
「僕の初恋の人も『エリ』という名前でした」
思わずサチは叫んでいた。
「私は、『いとしのエリー』しか知らない!」
側にいた寛貴が声を立てて笑っているのをバックミュージックに、サチの心は、この青年の物静かな佇まいに、吸い寄せられていくのを感じていた。
音大からの帰り道、寛貴は無言でサチの手を握った。
「何、どうしたの?」
サチが寛貴の横顔を見据えると、
「どこにも……行くなよな」
と寛貴は真剣に前を見据えたまま、少し強い声を出した。
寛貴が何を言いたいのかはサチには痛いほどわかった。けれどそれは口にしてはいけないことのような気がして、寛貴の手をぎゅっと力を込めて握りしめた。
「うん……」
寛貴は風に当たる顔を崩しもせず、瞳は強い光を放っていた。
あの人のことは忘れよう……サチは思った。ただ心から消せるのかは自信がなかった。寛貴は愛してくれている。それに私を大事にしてくれる。将来性のある性格だし、これ以上何を望むことがあるだろう。少々オタクでもおっちょこちょいでも、寛貴はとてもいい男だ。そう思う心の隅には穴が一つぽっかり開いていた。
その翌日、サチは公園の隣りを歩いていた。すると目の前を歩いていた長身の男が袋から小さなアイスキャンディーをぼとぼととこぼしている。
「あ、昨日の音大の人だ」
目の見えない昨日の男は、アイスキャンディーをたくさん地面に落としたのには気づいていても、かき集めるのに困っているようだった。すぐにサチは駆け寄る。
「私が拾いますから。そこに立っててください」
サチの声に振り返った男は、
「はて? その声は、昨日学校の練習室で聞いたような……」
「ピンポーン! 記憶力、いいですね」
サチの輝いた目が見えたかのように、男は少し嬉しそうな顔をした。
「君の声は、特徴があるから。ベートーベンのエリーゼはきっと、君みたいな声をしていたんだろう……」
独楽鼠のようにサチはあっという間にアイスキャンディー八本を拾い終え袋に入れ直し、
「これまたひっくり返すかもしれないから、いいところまで私、運びます。そこまでちょっとお話しませんか?」
男は笑って応えた。
「僕はすぐそこのマンションに住んでいる。部屋に来てお茶でも飲みましょう」
寛貴からは、知らない男についていくな、と言われている。ましてや部屋に入るなど、絶対に反対されるはずだ。しかし、この男が盲目らしいこと、そして昨日聞いた「エリーゼのために」が、サチの心を緩ませていた。
「意外に片付いた部屋だな」
案内された男――達川のリビングにはグランドピアノがあった。その側には白い鉢植えの観葉植物が置いてあった。その緑の葉は光に輝き、窓からの風にわずかに揺れていた。
「きれいなお部屋ですね」
サチが縁側に腰を下ろすと、達川はくつろいだ表情をして応えた。
「僕がするんじゃない、掃除はお手伝いさんが来てやってくれる」
「わぁー、リッチー!!」
「それほどでも。二日に一度、一日一時間、時給八百円」
「それでも月一万二千円。高―っ」
「まあね、でも僕も週末はちょっとしたレストランでピアノの生演奏をして稼いでいる。でいることをして稼ぎ、できないことはお金を媒体にして助けていただく。何でもできるわけじゃないからね、僕、というかみんな。できることで社会貢献をすればいいんだと思う。さしずめ僕はピアノなのです」
「大人ですね~」
サチは感心しながら、しょっちゅう子どもじみた大風呂敷を広げる寛貴を思い浮かべる。ため息が出る。
達川は慣れた足取りでピアノの前に座った。鍵盤に両手を置いたかと思うと、不意にサチの姿が見えるかのように振り向いた。
「何か弾いてほしい曲はありますか?」
「私はあまり音楽はわからないから。でも、ええと……『エリーゼのために』」
「あの時も君はこの曲に興味を持っていた。君の名は?」
「サチ、です」
「じゃ、『サチちゃんのために』」
静かな音色だった。愛らしく、そして激しい流れの中に、達川の優しさが見えるようで、サチは一筋、涙を流していた。
「これはこの人には、わからないのね」
なおもピアノを弾き続ける達川の後姿を食い入るように見つめるサチの目の光はそこはかとなく輝いていた。
「ベートーベンの恋は実らなかったんだ」
達川の言葉にサチが何も言わないでいると、
「僕もそうなるのかな」
「えっ?」
「君にはいい男がいるでしょう?」
「ま、まぁ」
「じゃあ、次が最後の曲。『いとしのサチ』」
そして達川はアレンジされた『いとしのエリー』を弾き始めた。
「あの時の私の言葉、覚えててくれたんだ」
サチは胸がいっぱいになった。
家に帰ると寛貴が外で待っていた。
「遅ェなァ! どこ行ってたんだよ。せっかく大阪出店のたこ焼き買ってきたのに、冷めちゃったじゃないかぁ」
右手に下げていたビニール袋をサチの目の前の高さに上げて見せた寛貴は、文句を言いながらもサチの姿を目にして嬉しそうだ。
「この人、裏切れないな」
そう思いながらも、今日達川と会いマンションへ行ったことは言い出せないでいるサチだった。
「ところで、あの男、おまえと学校へ行った時に練習室から出てきた目の見えん奴、三年ピアノ科の首席らしいぞ。目の見えんのにすごい奴もいたもんだ。俺ほどじゃないけどな」
「寛貴らしいコメントだね」
苦笑しつつ返事をしながら、サチは心臓が早鐘を打つのを感じていた。
「あの人、そんなすごい人だったんだ……」
ぼんやりしている間に寛貴の顔が迫ってきていた。
「ちょっ、ちょっとーっ!」
「なんだよォ。またおあづけかよ~。ケチ!」
寛貴はホントににふてくされてしまった。サチは、
「ね、ゴメンネ」
と寛貴のほっぺたに軽くキスをした。
「ま、今回はこれで許してやることにするかァ」
と機嫌を直したな寛貴をサチは、
「単純な奴」
と思い舌を出しつつ、
「こんなところが好きなんだけど」
とも思うのだった。
「たこ焼き一個。ハイ、アーン」
楊枝に刺した冷めたたこやきが寛貴の口からサチの口の中へ。柔らかな生地と濃いソースの味が口の中に広がり、サチは少しの幸せを感じる。
「ハイ、アーン」
サチの手の楊枝に刺したたこ焼きをパクつく寛貴をサチは、大きな子供のようだと思ってちょっとぼんやりとする。寛貴への愛しさは動物や子供に対するのに似ている。ならばあの達川は……大人の男だった。落ち着いていて自立した独特の風格があると、サチは黒い影のようだと打ち消してみる。そうすればするほどあの達川のピアノを弾く白く長い女性のようにきれいな指を思い出してしまう。何となくほんのりと上気したサチの頬を、寛貴はすかさず、
「いただき」
その化粧の上からなめるのだった。
「やめてって、言ってるでしょ。寛貴、そういうやんちゃは! 大人の男には程遠いぞ」
そう言ってしまってから、それは達川との比較だということに気づき、サチは恥じ入った。
三年ピアノ科の首席・達川……あの「エリーゼのために」の優しかったことと言えば……来週は夏休みのためサチもバイトの間を縫って達川がマッチをくれたお店へと、その生演奏を聴きに行こうと、決意していた。
銀色の丸テーブルにレースの黄色いテーブルクロスがかかる席に一人で着いたサチは、目の前の空きスペースで牛肉が焼かれるのを見てため息をついていた。オレンジ色のさらに不思議にハート形した葉っぱが乗せてある。肉が焼きあがると係りのボーイさんがトングのような物でサチの皿にきれいに盛り付けてくれる。
「達川さんのピアノを聴くのは寛貴と来てもよかったのに」
妙な罪悪感と少しの期待がサチの心の中で入り混じっていた。
達川は先日とは打って変わってダイナミックに弾いている。それを見ながら先ほどのボーイさんがサチの耳元でささやいた。
「達川さんのお知り合いの方ですか? あなたがこのレストランに入ってきた瞬間、彼は『エリーゼのために』を弾き始めたんですよ。めったにないことだけど」
「まさか……」
ボーイさんが下がっていってから、達川の横顔を見ながら、お皿に乗っていた薄切りのお肉を一口噛んだ。
「おいしい……」
思わず口に出してしまったサチの声を聞きつけたかのように達川は激しく、「運命」を弾き始めた。そのあまりの激しさにサチの胸はドキドキと鼓動していた。
そして、ピアノ演奏が終わってから、サチは白いグランドピアノに向かっていき、達川の耳元にささやいた。
「どうして私だってわかったの?」
クスリと笑って達川は言った。
「君のその、歩き方。僕は忘れない」
どこにでも売っているようなヒールの足音をサチのものと認められる達川のその耳の良さと、自分だけに注意してくれていたその想いにサチはほんのりとしていた。
「また遊びに行かせて」
「いや、僕はこれから行きつけのバーに行くから君も来ないかい?」
「えっ、行っていいの、私も?」
「おいで」
スーツを着ている達川は白杖を使い、もう出口を出ようとしている。慌てて追いかけるサチは頭の中にはもう寛貴へのすまなさはなかった。
「バーkiki」は繁華街を一本裏手に入ったところにあった。達川は白杖で確かめてから入って行ったが、サチはその看板の古めかしさと怪しさに妙な気分を覚えていた。
「あら、タッちゃん。久し振りだことぉ」
店のママは年齢不詳のおばあさまで、ナイトキャップのようなものを被っている。
「これがこの店のスタイルなのかしら」
とサチが思っていると、その心を読んだかのようにママはサチに声をかけた。
「かわいいかわいいお嬢さん、ここはねぇ、変り者の集う場所。あなた、何か特技はおありになって?」
「え?」という声さえ出ないサチを見つめ、「ホホホ」と可笑しそうに笑うママにサチは、
「この人、好きになれるわ」
と思った。
達川は、
「いつもの」
とママに言って、カウンターの椅子に腰かけたが、ママは、
「あら、私の『いつもの』って変わるのよ」
といたずらっぽい笑みを浮かべた。
「わかった。何でもいいから」
そういうところに達川の大人度を感じてサチはちらと達川を見る。そのまなざしにママは、
「あら、タッちゃん、いい子見つけたわね」
とお冷を出しながら、冷やかし交じりの声で言った。
「そんなんじゃないんだよ、僕らは。僕の片思い。彼女にはいい男がいる」
ママはナイトキャップを素早く持ち上げてサチの目を見ながらその頭に乗せた。
「さぁ……どうかしら」
フフフと笑い子ネズミのようにママは奥へ消えてしまった。後には達川とサチの気まずい沈黙が残ったが、大人の達川はすぐに白杖をピシリとやって立ち上がり、
「出ようか。嫌な思いをさせてしまったね」
と店から出ていこうとする。その達川の後姿にサチは叫んだ。
「私……私もあなたが好きなんです」
達川は振り向き、見えているかのようにサチに向かって両眼を開けた。
「だって君には、いい男がいるでしょう。僕は声でわかる、あれはいい男だ」
サチは涙ぐんで言った。
「あなたの、そういうところが好きなの。あなたには見えないと思うけど、私は今涙を流しているわ」
達川はトーンを落として言った。
「じゃあ、彼は?」
「友達に戻るわ。元々男友達みたいな奴なんだもの」
「僕のどこが好き?」
「全部!」
そしてサチは達川を抱きしめ、気づいたらキスしていた。君のために 有澤かおり
うすぼやけた一室に艶やかに光るグランドピアノが置いてある。まるで黒い巨匠……そうサチが思うや否や、なじみのある美しい旋律が部屋を満たしてゆく。ピアニストの片目は開いたまま、片目は閉じられたまま。彫りの深いその顔立ちにサチは釘づけになった。流れゆくそのメロディーは、そう、「エリーゼのために」。
都会の雑踏の中を十八歳のサチは行く。ブランド物のTシャツと青いジーンズをさっぱりと着こなし、赤いヒールが闊歩する。ストレートに長い髪だが前髪は眉上できれいに切りそろえられている。
「日本人形みたいだね」
恋人の寛貴がバービー人形が好きと知り、引くよりも大笑いしたサチだが、なるほど、バービー人形はサチに似ている。
「だけど着替えをさせたりもするのよね」
そう思うと、複雑な思いのサチなのだが、のん気にココナツミルクのタピオカをストローで吸い上げるのに夢中になっている寛貴を見ると、
「イテッ。なぁにすんだよぉ」
つねってしまうサチなのだった。
「今日はあなたんとこの音大に行っていいの?」
「いいって言ってんだろ。それより何遠慮してんだよ? いつでも来ていいっていつも言ってるだろ。俺はサチの遠慮がわからない」
「私んとこ、文学部しかない女子大でしょ? 何かあなたんところに行って浮いちゃったらヤダなって」
「心配すんなぃ。未来の大ピアニストの学生時代、知っといたら得だぜ」
寛貴らしい、いつもの大見栄、、と思いつつ、
「そういうとこ、結構好きなのよね」
なんて思うサチは、まだ喫茶店の高い椅子に腰かけている寛貴の手を取り、引っ張って、
「さぁ、行きましょ」
空はよく晴れていた。
つたの絡まる、コンクリート造りで灰色をした建物の中をサチと寛貴は歩く。
「ねぇ、手、つないじゃ、ダメ?」
「他の奴らが見てたら、後から何言われんだか」
「以外に肝っ玉が小さいみたいね」
「そぉくるかぁ……」
右手を振り上げる寛貴の側をすっとかわして逃げるサチ。
「あ、ここだよ。練習室101」
サチが振り向くと寛貴はその部屋の扉を開けて入っていくところだった。
「ちょっと待って……!」
練習室101から寛貴がすぐに出てきて、目が血走っている。
「とんでもない現場だった」
「え?」
「俺たちがまだしてないことをしてやがった、あのカップル」
サチはちょっと顔を赤らめつつも聞く。
「ねぇ、どうだった?」
「女の子とこういう話をするのもなぁ……」
「ホント、変なとこだけ女の子扱いする! いつもは仲のいい男友達的に扱ったりするくせに」
「いや、二人とも、服着てなかったんだ」
「え?」
「……というのは冗談さ」
右手で寛貴をバンバンたたいているうちに、次の部屋の前に来た。練習室102だ。
「今度こそ、大丈夫だろうなぁ……」
扉を開く寛貴の後についていくサチ。そこからは聞き覚えのあるメロディーが美しいピアノの音色で流れてきていた。
「あ、先客だ」
そういう寛貴の声と、奥からの、
「誰かいるんですか?」
という声は同時だった。ピアノの音がやみ、ピシリという音がしたかと思うと、白杖をついた美しい青年が現れた。サチは息をのんだ。
「あの、夢の中の人にそっくり!」
言葉にならない言葉がサチの心の中を駆け巡り、やっと出たのは、
「エリーゼのために、ですね」
幾つか年上らしい落ち着いた雰囲気のある青年に、サチは敬語を使ってみる。
「そうです。本当は、テレーゼという人のための曲だったそうですが……」
それからちょっと微笑んで青年はこう言い添えた。
「僕の初恋の人も『エリ』という名前でした」
思わずサチは叫んでいた。
「私は、『いとしのエリー』しか知らない!」
側にいた寛貴が声を立てて笑っているのをバックミュージックに、サチの心は、この青年の物静かな佇まいに、吸い寄せられていくのを感じていた。
音大からの帰り道、寛貴は無言でサチの手を握った。
「何、どうしたの?」
サチが寛貴の横顔を見据えると、
「どこにも……行くなよな」
と寛貴は真剣に前を見据えたまま、少し強い声を出した。
寛貴が何を言いたいのかはサチには痛いほどわかった。けれどそれは口にしてはいけないことのような気がして、寛貴の手をぎゅっと力を込めて握りしめた。
「うん……」
寛貴は風に当たる顔を崩しもせず、瞳は強い光を放っていた。
あの人のことは忘れよう……サチは思った。ただ心から消せるのかは自信がなかった。寛貴は愛してくれている。それに私を大事にしてくれる。将来性のある性格だし、これ以上何を望むことがあるだろう。少々オタクでもおっちょこちょいでも、寛貴はとてもいい男だ。そう思う心の隅には穴が一つぽっかり開いていた。
その翌日、サチは公園の隣りを歩いていた。すると目の前を歩いていた長身の男が袋から小さなアイスキャンディーをぼとぼととこぼしている。
「あ、昨日の音大の人だ」
目の見えない昨日の男は、アイスキャンディーをたくさん地面に落としたのには気づいていても、かき集めるのに困っているようだった。すぐにサチは駆け寄る。
「私が拾いますから。そこに立っててください」
サチの声に振り返った男は、
「はて? その声は、昨日学校の練習室で聞いたような……」
「ピンポーン! 記憶力、いいですね」
サチの輝いた目が見えたかのように、男は少し嬉しそうな顔をした。
「君の声は、特徴があるから。ベートーベンのエリーゼはきっと、君みたいな声をしていたんだろう……」
独楽鼠のようにサチはあっという間にアイスキャンディー八本を拾い終え袋に入れ直し、
「これまたひっくり返すかもしれないから、いいところまで私、運びます。そこまでちょっとお話しませんか?」
男は笑って応えた。
「僕はすぐそこのマンションに住んでいる。部屋に来てお茶でも飲みましょう」
寛貴からは、知らない男についていくな、と言われている。ましてや部屋に入るなど、絶対に反対されるはずだ。しかし、この男が盲目らしいこと、そして昨日聞いた「エリーゼのために」が、サチの心を緩ませていた。
「意外に片付いた部屋だな」
案内された男――達川のリビングにはグランドピアノがあった。その側には白い鉢植えの観葉植物が置いてあった。その緑の葉は光に輝き、窓からの風にわずかに揺れていた。
「きれいなお部屋ですね」
サチが縁側に腰を下ろすと、達川はくつろいだ表情をして応えた。
「僕がするんじゃない、掃除はお手伝いさんが来てやってくれる」
「わぁー、リッチー!!」
「それほどでも。二日に一度、一日一時間、時給八百円」
「それでも月一万二千円。高―っ」
「まあね、でも僕も週末はちょっとしたレストランでピアノの生演奏をして稼いでいる。でいることをして稼ぎ、できないことはお金を媒体にして助けていただく。何でもできるわけじゃないからね、僕、というかみんな。できることで社会貢献をすればいいんだと思う。さしずめ僕はピアノなのです」
「大人ですね~」
サチは感心しながら、しょっちゅう子どもじみた大風呂敷を広げる寛貴を思い浮かべる。ため息が出る。
達川は慣れた足取りでピアノの前に座った。鍵盤に両手を置いたかと思うと、不意にサチの姿が見えるかのように振り向いた。
「何か弾いてほしい曲はありますか?」
「私はあまり音楽はわからないから。でも、ええと……『エリーゼのために』」
「あの時も君はこの曲に興味を持っていた。君の名は?」
「サチ、です」
「じゃ、『サチちゃんのために』」
静かな音色だった。愛らしく、そして激しい流れの中に、達川の優しさが見えるようで、サチは一筋、涙を流していた。
「これはこの人には、わからないのね」
なおもピアノを弾き続ける達川の後姿を食い入るように見つめるサチの目の光はそこはかとなく輝いていた。
「ベートーベンの恋は実らなかったんだ」
達川の言葉にサチが何も言わないでいると、
「僕もそうなるのかな」
「えっ?」
「君にはいい男がいるでしょう?」
「ま、まぁ」
「じゃあ、次が最後の曲。『いとしのサチ』」
そして達川はアレンジされた『いとしのエリー』を弾き始めた。
「あの時の私の言葉、覚えててくれたんだ」
サチは胸がいっぱいになった。
家に帰ると寛貴が外で待っていた。
「遅ェなァ! どこ行ってたんだよ。せっかく大阪出店のたこ焼き買ってきたのに、冷めちゃったじゃないかぁ」
右手に下げていたビニール袋をサチの目の前の高さに上げて見せた寛貴は、文句を言いながらもサチの姿を目にして嬉しそうだ。
「この人、裏切れないな」
そう思いながらも、今日達川と会いマンションへ行ったことは言い出せないでいるサチだった。
「ところで、あの男、おまえと学校へ行った時に練習室から出てきた目の見えん奴、三年ピアノ科の首席らしいぞ。目の見えんのにすごい奴もいたもんだ。俺ほどじゃないけどな」
「寛貴らしいコメントだね」
苦笑しつつ返事をしながら、サチは心臓が早鐘を打つのを感じていた。
「あの人、そんなすごい人だったんだ……」
ぼんやりしている間に寛貴の顔が迫ってきていた。
「ちょっ、ちょっとーっ!」
「なんだよォ。またおあづけかよ~。ケチ!」
寛貴はホントににふてくされてしまった。サチは、
「ね、ゴメンネ」
と寛貴のほっぺたに軽くキスをした。
「ま、今回はこれで許してやることにするかァ」
と機嫌を直したな寛貴をサチは、
「単純な奴」
と思い舌を出しつつ、
「こんなところが好きなんだけど」
とも思うのだった。
「たこ焼き一個。ハイ、アーン」
楊枝に刺した冷めたたこやきが寛貴の口からサチの口の中へ。柔らかな生地と濃いソースの味が口の中に広がり、サチは少しの幸せを感じる。
「ハイ、アーン」
サチの手の楊枝に刺したたこ焼きをパクつく寛貴をサチは、大きな子供のようだと思ってちょっとぼんやりとする。寛貴への愛しさは動物や子供に対するのに似ている。ならばあの達川は……大人の男だった。落ち着いていて自立した独特の風格があると、サチは黒い影のようだと打ち消してみる。そうすればするほどあの達川のピアノを弾く白く長い女性のようにきれいな指を思い出してしまう。何となくほんのりと上気したサチの頬を、寛貴はすかさず、
「いただき」
その化粧の上からなめるのだった。
「やめてって、言ってるでしょ。寛貴、そういうやんちゃは! 大人の男には程遠いぞ」
そう言ってしまってから、それは達川との比較だということに気づき、サチは恥じ入った。
三年ピアノ科の首席・達川……あの「エリーゼのために」の優しかったことと言えば……来週は夏休みのためサチもバイトの間を縫って達川がマッチをくれたお店へと、その生演奏を聴きに行こうと、決意していた。
銀色の丸テーブルにレースの黄色いテーブルクロスがかかる席に一人で着いたサチは、目の前の空きスペースで牛肉が焼かれるのを見てため息をついていた。オレンジ色のさらに不思議にハート形した葉っぱが乗せてある。肉が焼きあがると係りのボーイさんがトングのような物でサチの皿にきれいに盛り付けてくれる。
「達川さんのピアノを聴くのは寛貴と来てもよかったのに」
妙な罪悪感と少しの期待がサチの心の中で入り混じっていた。
達川は先日とは打って変わってダイナミックに弾いている。それを見ながら先ほどのボーイさんがサチの耳元でささやいた。
「達川さんのお知り合いの方ですか? あなたがこのレストランに入ってきた瞬間、彼は『エリーゼのために』を弾き始めたんですよ。めったにないことだけど」
「まさか……」
ボーイさんが下がっていってから、達川の横顔を見ながら、お皿に乗っていた薄切りのお肉を一口噛んだ。
「おいしい……」
思わず口に出してしまったサチの声を聞きつけたかのように達川は激しく、「運命」を弾き始めた。そのあまりの激しさにサチの胸はドキドキと鼓動していた。
そして、ピアノ演奏が終わってから、サチは白いグランドピアノに向かっていき、達川の耳元にささやいた。
「どうして私だってわかったの?」
クスリと笑って達川は言った。
「君のその、歩き方。僕は忘れない」
どこにでも売っているようなヒールの足音をサチのものと認められる達川のその耳の良さと、自分だけに注意してくれていたその想いにサチはほんのりとしていた。
「また遊びに行かせて」
「いや、僕はこれから行きつけのバーに行くから君も来ないかい?」
「えっ、行っていいの、私も?」
「おいで」
スーツを着ている達川は白杖を使い、もう出口を出ようとしている。慌てて追いかけるサチは頭の中にはもう寛貴へのすまなさはなかった。
「バーkiki」は繁華街を一本裏手に入ったところにあった。達川は白杖で確かめてから入って行ったが、サチはその看板の古めかしさと怪しさに妙な気分を覚えていた。
「あら、タッちゃん。久し振りだことぉ」
店のママは年齢不詳のおばあさまで、ナイトキャップのようなものを被っている。
「これがこの店のスタイルなのかしら」
とサチが思っていると、その心を読んだかのようにママはサチに声をかけた。
「かわいいかわいいお嬢さん、ここはねぇ、変り者の集う場所。あなた、何か特技はおありになって?」
「え?」という声さえ出ないサチを見つめ、「ホホホ」と可笑しそうに笑うママにサチは、
「この人、好きになれるわ」
と思った。
達川は、
「いつもの」
とママに言って、カウンターの椅子に腰かけたが、ママは、
「あら、私の『いつもの』って変わるのよ」
といたずらっぽい笑みを浮かべた。
「わかった。何でもいいから」
そういうところに達川の大人度を感じてサチはちらと達川を見る。そのまなざしにママは、
「あら、タッちゃん、いい子見つけたわね」
とお冷を出しながら、冷やかし交じりの声で言った。
「そんなんじゃないんだよ、僕らは。僕の片思い。彼女にはいい男がいる」
ママはナイトキャップを素早く持ち上げてサチの目を見ながらその頭に乗せた。
「さぁ……どうかしら」
フフフと笑い子ネズミのようにママは奥へ消えてしまった。後には達川とサチの気まずい沈黙が残ったが、大人の達川はすぐに白杖をピシリとやって立ち上がり、
「出ようか。嫌な思いをさせてしまったね」
と店から出ていこうとする。その達川の後姿にサチは叫んだ。
「私……私もあなたが好きなんです」
達川は振り向き、見えているかのようにサチに向かって両眼を開けた。
「だって君には、いい男がいるでしょう。僕は声でわかる、あれはいい男だ」
サチは涙ぐんで言った。
「あなたの、そういうところが好きなの。あなたには見えないと思うけど、私は今涙を流しているわ」
達川はトーンを落として言った。
「じゃあ、彼は?」
「友達に戻るわ。元々男友達みたいな奴なんだもの」
「僕のどこが好き?」
「全部!」
そしてサチは達川を抱きしめ、気づいたらキスしていた。