今から三十年ほど前、和泉宗章氏の算命学が一大ブームとなった。その著書「算命占星学入門」はベストセラーに、和泉氏は押しも押されぬ占い師となり、私の母や母方の祖父は、
「この本は当たる」
と言って手放さず、私もまた多大な影響を受けた。
「算命占星学入門」を東京での大学生活に富山から持っていった私だが、当時の私にとって算命学は社交術だった。私は対人恐怖症がひどく感情を面と向かってやり取りするのが苦手だったのだが、まず生年月日を聞いて占い結果を元に話すことは大切な対人スキルだったし、占いをして相手の人生の話を聞きだすのは大きな楽しみの一つだった。
当時大学のサークルは四つに顔を出していたが、それぞれで知り合った人たちを占ってはますます人間への興味を深めていた。その中で、憧れを持っていたらしい私に、
「愛人を二人持つ」
と言われ後で嘆いていた後輩の男の子もいた。もっとも占い抜きで言えば彼は一人の女性を大事にするタイプに見えたのだが。とりあえず私は占いを盾に話をすると対人緊張や不安を取り除けたのだから仕方がないといえば仕方がない。けれどあれから十数年の経った今思えばかなりはた迷惑なこともしたようで反省することしきりである。
そんな訳で占いをしているうちに主星十、従星十二とその意味を覚えてしまい、和泉氏の本にある星同士の組み合わせの意味もだいたい頭に入った。石門星・天将星の組み合わせは組織のトップになれる、などである。
算命学は基本が本人の生年月日から占うが、大学時代に占った先輩にはこう言われた。
「同じサークルに俺と生年月日が一緒の奴がいるが、俺はあいつと同じだとは思えない」
至極もっともな意見だが、算命学では三代まで調べると正確なものが出てくるという。なるほど人は社会的生き物であり人間関係、とりわけ家族の中でそのパーソナリティーが作られていくのだからこれもうなずけることと思う。
占い師と化していた大学時代、不思議な男友達がいた。彼は私に似ているからと言って知り合った女友達を私に紹介する人だった。あるとき彼が私に会わせに連れてきた女性は占いのため聞いてみるとなんと妹と生年月日の同じ女の子だった。妹も海外へ行くのもためらわず才能豊かで人からかわいがられる人であるが、彼女も自国の大学教授から「帰って来い」のラブコールがあり東大の大学院へ行くんだという優秀な人だった。中国系オーストラリア人だったと記憶している。当時二十代前半だった妹はそれまで自分と同じ生年月日の人とは会ったことがなかったらしい。占いの取り持つ縁であった。
大学時代にはたまにアルバイト探しのマガジンを買ったが、占いが嵩じてそこで見つけた「占い師募集」のアルバイトの面接に行ったこともあった。電話で占いをする占い師を募集していたが、私は和泉氏の算命学の本を持っていった。面接官は小型のノートパソコンを持っていて、私を占いつつ、私の応対を聞いていてこう言った。
「算命学は一番難しい類の占いです。あなたの占いには矛盾がある。けれどあなたには才能があるし、霊感もある。ここでは週一で占いの勉強会をやっているから来てみないか」と。
三十代と思われるその面接官に私は、
「ありがとうございました」
と礼だけ言って、そのあやしげなアパートを出てきた。なぜなら私は勉強するよりも手っ取り早く稼ぐ仕事が欲しかったからだ。けれど、
「あなたの先輩に当たる早稲田卒の人で、ここの占い師をして月三十万稼いでいる人がいる」
と言ったこの面接官の言葉を私は後々励みとすることになる。なぜなら、対人恐怖症の私でも電話占いなら人と面と向かうことがない分できそうな気がしたからだ。その上私は昔からよく「美声」と言われてきた。声で演技をするのも得意で一時期は声優になりたかったこともある。それが生かせると考えたのだ。
東京と言うところにはいろんな文化が集合している。算命学も調べてみると東京で学べるところが三箇所あった。そのうちの二つに体験入学に行き、校長もその息子さんも私と同じ早稲田大学卒というところに縁も感じて赤坂にある朱学院を選んだ。二年で一通り学べるというので、大学卒業と同時に占い師になる道も考えられるよう大学三年になった四月に、私は朱学院で算命学を学び始めた。
朱学院の授業は芸能人や皇族といった有名人をサンプルに用いた面白い授業を展開していて楽しかったが、そこで出会う人々にも興味を持った。一クラスは十数人だったが、男性は一人のみで後は様々な職業と年齢層の女性で離婚経験者を含めほとんどが独身だった。クラスは週一の夜で、このクラスの後の赤坂での飲み会をいつも私は楽しみにしていた。住んでいた学生会館に十時という門限がありたいていクラスのある日は届出をして十二時を過ぎての帰宅となったが、たまに届出を忘れて同じ学生会館に住む妹に裏口から入れてもらい翌日管理人さんに嫌味を言われることもあった。飲み会では社会勉強が楽しかった。三度離婚経験のある飲み屋のママさんに枡での日本酒の飲み方を教わり、彼女が五十肩で悩んでいると今度は私が母を見て学んだ五十肩の治し方を教える…といった風だった。年収が億単位だが借金も莫大な歯医者さんの彼氏を持つ保険のセールスレディーはお岩さんを祭ってあるというお稲荷さんの神社に私を個人的に連れて行ってくれたこともあった。東大出の気功研修所をだんなさんと経営しているという五十代の女性は顔が広くて大学での私の卒論に結びつくキーパーソンを紹介してくれた。
占いの世界は人生が凝縮されているようでとにもかくにもその二年間は刺激的だった。卒業を間近にして私は本気で電話占い師になろうと自室に電話まで取り付けたが、そこではたとあることに気がついた。当時の私はぐだぐだした恋愛話を聞くのが大嫌いであった。あーでもない、こーでもない、と言う話を聞くと、
「つべこべ言わず、はっきりしろ~!」
と怒鳴りたくなる(実際は怒鳴らなかったが)ような性格であった。そして占いに来るのは多くが若い女性で恋愛相談だと思い至ったのだ。さすれば、この私にはできるわけがない。と思って、占い師になる夢は断念した。和泉宗章氏はたった一度の占いを外した(これも見方を変えると当たっていたらしいが)というだけですっぱりと占い師をやめたが、私もまた潔い諦めの仕方であったと思う。
あれから十数年が経ち、私は教育者の道を進んでいる。占いを参考にしたわけではないのだが、どういうわけか算命学の勧める道を歩いているのだと思うと不思議な気がする。「それこそが宿命なのだ」
と今は天国にいるはずの和泉氏なら言うだろうか、と考えてみたりしている。