久美は古書店街をぶらぶらするのが好きだった。美術について、アメリカ小説、明治の雑誌、思想について……etc…晴れ上がった空の下、外に出されたラックの中にも、値段のシールを貼られた様々な色の古書が眠り、まさに久美に目を覚まさせられるのを待っているように思えた。
一本道をそれると銀行やミスタードーナツなど現代的な建物が軒を連ねるというこの古書店街は、そこだけ別世界のようだった。
久美は時々小路に入ったりしながら、この古書店街の雰囲気を楽しみ、それから気になる本を手に取ってみてはちらちらと立ち読みし、そしてまた本棚に戻すのであった。
何時間もこの古書店街にいて、気がつくととっぷり日が暮れていた。
「これが最後」
と手に取った本には、奇妙な文様が描かれており、中を覗くと料理の本のようだった。
「何、これ? トカゲのしっぽ?」
トカゲのしっぽはまだいい方で、その料理本には変な材料ばかりが書いてあり、久美は目を疑った。
「こんな物、食べる人がいるのかしら」
逆に気になったので、値段を見ると三百円と書いてあった。埃の少しついた本棚に戻すことはせず、久美はレジの向こうにいたがまがえるのようなおじさんにその本と三百円を手渡した。
「毎度あり!」
本屋から出てくると、日はとうに沈んでいた。久美は駱駝色の紙袋に入った本を大事に抱え、地下鉄の駅の階段を一歩一歩下りていった。
「ただいま」
「おかえり~久美ちゃん。ご飯何がいい?」
すっかり夜になってはいたが、宵っ張りの久美の一家は夕食が遅い。
「まだ作ってないから、今夜は私に作らせて。面白い料理本、買ってきたの」
キッチンの電光の下、古書店街で買ってきた本を開くと、一つに目が行った。
「好きな人に告白されるための飲み物」と書いてある。
「面白そう……」
材料を見ると、
「おばあさんの手で大切に育てられた人参50g、心配性の家庭に生えたヒイラギの葉2枚、子供嫌いの牛から絞った牛乳200cc、毎晩人殺しの夢を見るおじさんの作ったチョコレート50g、ボディービルダーの好きな女の子の涙一滴」
「うわ~、手に入れるのが難しい材料ばかりね。どれ、アレンジしてみようか」
まずは、冷蔵庫に眠っていたかなり古くなった人参一本を発見。それから久美の家に生えていたヒイラギの葉を二枚むしりとった。だが、久美の家は心配性どころか楽天家ぞろいだ。次に近所の農家からもらったばかりの牛乳を一本分。ちなみに母牛が子供嫌いかは定かではない。次に北海道産のホワイトチョコレート半枚発見。このチョコレートは作った人がわかるように製作者のおじさんの顔がパッケージについているが、人殺しの夢なんて見ずに大いびきをかいて熟睡していそうだ。最後にボディービルダーが気持ち悪くて大嫌いな久美がたまねぎを刻んだ時に流した涙一滴。
作り方は簡単だった。人参は摩り下ろし、ヒイラギはみじん切り、チョコレートは溶かし、すべて牛乳に加えて温め、最後に涙を一滴入れてかき混ぜる。
「うわ~、健康ドリンクっぽい…」
チョコレートのいいにおいがキッチン全体を包み込み、久美はお腹がすいていることに気がついた。
その料理のページの最後には、
「どうか好きな人に告白されますように、と祈ること」
と書いてあり、久美はその通りにした。ドリンクは淡い色で、久美においでおいでをしているが如く手招きをしている。
「味見、してみよう」
と思いつつ、三分の一も飲んだ。すると眠~くなって、辺りを見回すと、朝になっていた。
「いつの間に……」
久美の肩にはお母さんがかけたであろう毛布がかかっていて、時計を見ると、
「7時3分……」
久美は支度をして大学へ行った。三年生の久美はクラスに好きな人がいた。
「あ、竹中くん、おはよう!」
心臓がパウンドする。久美の好きな竹中くんは読んでいる本から視線を上に上げ、久美に挨拶をする。
「おはよう、谷口さん」
そしてまた本へ視線を戻す。いつもと変わりはない。
「あのドリンクは名前負けね」
くすりと笑いながら椅子に座った久美のところに、久美の大嫌いな山田くんが慌てたようにやってきて挨拶をする。
「お、おはよう、谷口さん!」
朝から脂ぎった顔をし、口を開くと歯と歯の間にほうれん草が挟まっている山田くんからは口臭がした。
「おはよう、山田くん」
不快を顔に出さないようにしながら、久美は教科書を取り出して読んでいるふりをした。が、山田くんはにんにくの臭いをぷんぷんさせながら久美の前に粘り続けた。
「何か?」
堪え切れず久美が尋ねると、山田くんはなぜかハアハア言いながら久美の言葉に、
「待ってました!」
と言わんばかりに飛びついた。
「映画のチケットが手に入ったんだけど、君、一緒に行かないかなぁ」
ハアハアと息を出すので口臭は倍増、
「あなたに必要なのはチケットじゃなくてエチケットよ!」
と叫びだす寸前、竹中くんが後ろの席にいるので冷たい女と思われたくない久美は必死で思いとどまり、優しげに言葉を返す。
「ごめんね。今日は忙しいの」
すると山田くんは、
「今日じゃだめなら、いつ暇かなぁ?」
とにじり寄ってくる。
「それ以上近づかないでよ!」
と言いたいところぐっと我慢して久美は、
「ずっと忙しいから、ダメ」
とかわいらしく言った。それを見て山田くんはにたりと笑い、
「君、ホントにかわいいね。ボク、チョンしたい。ホラ、チョン!」
右手の人差し指で久美をつついた。久美は、
「キャ~!」
と叫んで飛び上がった。
これを聞いて本を読んでいた竹中くんが目を上げ、逃げている久美とそれを追いかけている山田くんを見つめ、
「山田と谷口さんは仲いいなぁ。春うららかにのどかな風景だ」
と呟き、それ以上興味なさそうに再び本に目を落とした。
山田くんから逃れるため一限目をすっぽかした久美に級友が後で囁いた。
「あんたの好きな竹中くん、山田くんとあんたが仲良さそうだとか言ってたよ」
「それ、喜んでいたの、悲しんでいたの」
「あんまり興味なさそうだった」
久美はがっくりと肩を落とし、呟いた。
「つまり、私なんてどうでもいいってことね」
久美は山田くんに好かれていそうとは思ってはいたが、今日のことでそれが具現化してしまったことにおののいていた。
「好きな人に告白されるためのドリンクを飲んだつもりが嫌いな奴に追いかけられることになるなんて!最悪よ。あんな本、捨ててやる!」
何とかその後の授業を受けて家に帰ると、いい匂いがした。
「お母さん、ただいま。お腹すいちゃった~。いい匂いね」
鍋に火をかけたままお母さんが振り向いた。右手には杓文字を握っている。
「おいしそうでしょ。初めて作ったのよ」
お母さんは上機嫌だ。
「ちょっと心配なんだけどね」
そう言って舌を出したお母さんにほっとするものを感じて久美は、
「大丈夫、大丈夫。お母さんの作るの、いつも美味しいから」
「でもね、何だか変わった料理なのよ」
お母さんは尚も自信なさげだ。
「大丈夫だって。ちゃんと分量を量って、指示通りに作ったんでしょ?」
「それはそうなんだけど。材料が変わっていて……」
そこで久美ははたと気がついた。
「もしかしてその料理本、昨日私が買ってきた奴じゃないの?」
「卵が鶏を生む絵が表紙だったけど…」
ぼんやり答えたお母さんに、久美は飛び上がった。
「ダメダメ!あれはひどい本なの! 私、今日、ひどい目に遭って、あの本、捨てようと思っていたんだから!」
「涙の出ないたまねぎ、プロレス好きの少女の作ったかぼちゃと、政治の嫌いな先生を息子に持つおばあさんの作ったセロリと……何だか面白いでしょ?でもきちんと材料を探すの難しいからアレンジして……」
久美は飛び上がった。まるで自分と同じじゃないか! 母娘とはいえ……。久美はガス台に近寄り鍋を取って中身を流しに捨てた。
「何するの!」
お母さんの悲鳴に久美は言い放った。
「あの本の料理はお腹を壊すの!」
そうして本を見つけ勢いよくゴミ箱に放り込んだ。