電車の窓から見上げた青空はねずみ色がかったもう一枚の空に彩られて少し寂しげだった。赤と白の縞模様の煙突から天空へ伸びる白い煙はその空に白く色づけされた絵の具のようだった。
工場地帯を通って伸びる大通りを由香子はよくクリーム色の爽やかな印象の自転車に乗って海へ向かったものだった。日本海は荒海で優しい色をしていないことも多い。けれど高校時代の由香子にはそれでも荒くれだった心を受け止めてくれる母なる海のように感じられた。
「誰も私をわかってはくれない。頼りはこの海だけ――」
泣きたくても涙は心で凍りつき、その声は砂浜から海へと叫ぶ「バカヤロー」で終わった。信じられるのは自分だけだ。しかしその自分さえ、すぐに空の向こうへ消えていくような気がした。十七歳の由香子はそんな風に他人と自分自身さえもてあましていたのだ。
孤独な少女は孤独なままに一人きりの遊びをしていた。独りの寂しさの中で自己憐憫に駆られその中で自分に哀れむ自分に陶酔することもあれば、自分に哀れまれた自分を嫌ってみたりもした。時たま同じ年くらいの高校生がカップルでいるのを目にすると異次元にいる人たちに思えた。由香子は小さい頃から「かわいい」といわれた娘だった。けれど由香子には恋は自分には似つかわしいものだとは思えなかった。その代わり孤独がパートナーだった。家族ともクラスメートや先生ともほとんど口を利かない毎日の中で、自転車で海へ行くこと、そして書店めぐりをしてモーリス・ルブランなどの本を探し自室で読むことがささやかな由香子の楽しみであり、日記にだけ本音をしたためた。
高校生になり口数が減り友人とも遊ばず本ばかり読んでいた由香子を心配した母親が医師に相談したほどだった。下痢に悩まされていた由香子が母親に促されて受診したときその医師はこう言った。
「あんた、本ばっかり読んでいるそうだが、作家にでもなるつもりか。あんたくらいの年ならわーわーきゃーきゃー言って遊んでいるのが一番楽しいはずだが」
「それが苦痛なんです」
とは由香子は言えなかった。人と口を利くのが苦痛だなんて、誠実そうなこの医師にも言えなかった。というより本音を言わない習慣はあるときには由香子を救ったが、こんなときにはまるで害だった。そしてそれを自覚していながら修正することができず、由香子はさらなる孤独に足を踏み入れたりしていたのだった。
「青春」とは何てわびしい響きを持つ言葉なのだろう。大人になった由香子が自身の学生時代、特に中学・高校時代を振り返るとき、そうした思いが心を貫く。本と日記帳と日本海が友達だった少女は、同世代の苦手な、どこかに人間不信を抱えた大人になった。そして高校という職場と教師という職業を選んだとき、にぎやかに過ごしている生徒たちがとにかくまぶしくうらやましかった。自分の高校生だった頃には自己嫌悪は強くても他人をうらやましいなどとはあまり思わなかったのに、教師として眺める高校生たちはそこはかとなくきらきらと輝いて見えた。それは学校に化粧をしてきたり、授業中机の上に立ったり、早弁したりしている生徒たちに対しても同様で、自分とは違う「真っ当な」青春を自分にはできなかった自己主張の中で生きているということ自体に憧れのようなものを抱くのだった。
「あんたくらいの年ならわーわーきゃーきゃー言って遊んでいるのが一番楽しいはずだが」
高校時代にあの医師に言われた言葉が生徒たちを見ているとある意味正しいことに気づく。中にはあの頃の自分のように自分から教師にアクセスしてこない暗い顔をした子もいたが、にぎやかに話しかけてくる生徒たちの方が憧れとともにかわいいのだった。そのにぎやかさの中に自分もいられるということが由香子には何だか嬉しかった。青春を取り戻したような気にさえなったものだ。一方で由香子は高校教師は自分には向かない、と感じてもいた。生徒たちがかわいいのでなかなかNOが言えず、よく考えずにOKしてしまったり、頭の片隅で「注意しなきゃ」と思うのに実際には生徒たちの仲間に入ってしまったり……。国語教師だった由香子のテスト返却では、国語という教科はいろんな解釈ができるので生徒たちの言うことに耳を傾けて訂正の丸をつけているうちに、由香子の前には生徒たちの長い列ができるのだった。その結果、しょっちゅう成績帳の付け直しをしなくてはならず、由香子は大変だった。そしてそんな風でいることが上役の先生たちにばれやしないかと心のどこかでびくびくしていた。その上ストレスから由香子は心の病を発症し、たびたび学校を休むようになった。医師からは、
「そのうち慣れてくるから仕事を続けるように」
と背中を押されたが、学校側が黙ってはいなかった。
ある日、授業が終わり、職員室の席に帰ってきてみると、由香子の机の上に校長からのメモがあった。
「校長室へ来てください」
急いで校長室へ行ってみると、校長が改まった様子で由香子にソファーに座るよう求めた。
「あなた、授業に苦戦してるようだね」
「ハァ…」
由香子の心臓はバクバクしていた。
「それにあなたは、他の先生と話をしないそうだね。学校というところは他の先生と話をして情報交換をしたり、お互いに切磋琢磨しなきゃダメなんだ」
由香子はよく話をする先生が数人いた。けれど隣の席の若い独身の男性教諭が苦手で話しかけられてもあまり話をしなかった。その男性教諭は、やたら自分に自信がある上に自分は偉いと思っているところがあり、由香子に物を言うのも由香子のためというより由香子にかっこいいと思われたいと思っているからとしか思えないふしがあった。またその外見から由香子は「ドラえもんののびたくんみたい」とひそかに思っていた。独身であるがゆえにそういう人と変なことにならぬよう距離をとっていたいと由香子は考えていたのだった。そして不運なことに、その男性教諭の側に管理職の先生たちの席があり、よって由香子は「他の先生と話をしない問題のある先生」と見なされてしまったのだ。しかし校長にそんなことなんて言えるわけがないと思い、由香子は黙り込んだ。
すると校長は続けた。
「生徒たちの間で噂が立っているのをあなたは知っていますか。『あの先生は今度いつ休むのか』と。生徒の中にはきちんと予習をしてくる子もいるのだし、先生が授業を休むとそういった子どもを裏切ることにもなる。私は他の職業は知らないが、学校の教師というのは替えの効かない職業なんだ」
それから校長は自分の教師としての経験や喜び・苦労などを熱を入れて語り、最後にこう言った。
「あなたには教職を捨てて欲しくないんだ。いつかまたできるようになったら、採用試験を受けて欲しい」
校長と由香子の間には長い沈黙があった。それを破ったのは由香子だった。
「それは私にやめて欲しい、という意味ですか」
校長は小さく頷いた。
しかし由香子は簡単に承諾するわけにはいかなかった。応援してくれる家族がいるし、「もう少し頑張れば仕事にも慣れてきますよ」という医師の言葉もある。自分で稼いだお金も欲しかったし、学校の教師という仕事に喜びを感じる部分もあったからだ。それらを校長に訴えてもみた。が、校長は岩のように動かなかった。それどころか、決定的に言われたのだ、
「新しい教師の手配は済んでいる」と。
それ以上何も言えないでいた由香子に校長は退職の手続きについて細かく説明した。
校長室を去り際に由香子は優しく校長を振り返り、言った。
「先生も嫌な役回りですね、こんな話をしなきゃならないなんて」
校長の人のよさがわかっただけ同情があったのは事実だ。が、一方でこのセリフは校長への精一杯の皮肉とも取れないこともない、と校長室を出てから由香子は思った。そしてそれは仕方のないことのようにも思えてくるのだった。
次の休日、電車に乗って由香子は日本海へ出た。海は雨の晴れ間で寂しい色をしていた。浜辺へ立つと由香子は何かを叫ぼうとした。が、高校生だった頃とは違い、「バカヤロー」だなんて叫ぶ元気は由香子にはなく、また三十歳の自分にそうした行為は似つかわしくないとも思われた。その代わり砂浜に、落ちていた木切れで大きく書いた、
「さようなら」と。
何に対しての「さようなら」かはよくわからないままに、由香子は、ひとつの青春が終わったことを感じ始めていた。