「文通とは、遠く離れた知り合いや仲間などと手紙を通じてコミュニケーションをすること」とフリー百科事典「ウィキペディア」にある。私の文通の歴史は長い。
最初の文通相手は私と同じ自転車屋の娘さんで同い年の石川県羽咋郡の人だった。知り合ったのは六歳のころだが、当時自転車屋業界は盛況でメーカーから様々な招待が来て、私たち家族もその恩恵をこうむっていた。その自転車屋を集めたバスツアーで私と末吉さんはよく話をした。一方的に話していたのは私のほうだったような気がするが、それを見ていた私の母が別れ際に住所を交換するよう提案したのだ。こうして私と末吉さんの文通は始まった。
末吉さんと文通を始めて一つ趣味が増えた。レターセット集めである。百貨店や旅行に行くたびにかわいいレターセットを探し、買うと一袋に何組か入っているので、末吉さんなどに送った残りの一、二組を取っておいたのだ。友人と物々交換市を開くことがあって、そこで手に入れたものもあった。そういう時一組しか手に入らず、私は末吉さんに送るよりコレクションにしてしまうこともあった。そこで失敗があったのだ。
「今回は一番いいレターセットで送ります。」
と書いてしまった私に末吉さんは、
「かおりちゃんはいつも一番いいのでくれてないの?私はいつも一番いいので送ってるよ。」
と。私は慌てて言い訳したが、その後も文通が続いたところを見ると言い訳は通用したらしい。しかしあの時は焦った。小学校中学年・私が級長をしていたころである。
人間とは不思議なもので「虫の知らせ」というかテレパシーみたいなものがある。私がしばらく手紙を出さずにいてあるとき、
「末吉さんに九ヶ月も手紙を出してないな。そろそろ出さなきゃ。」
と思った次の日に、末吉さんの方から手紙が来て開いてみたら、
「あんた、私のころ忘れとるやろ。」
と書いてあり、お互いに同じときにお互いを思っていたと思うと、何かしら感じるところがあったものだ。
中学生になると、末吉さんは、
「実は好きな人おるけど、誰にも言ってないの。かおりちゃんにだけ教えます。」
と、手紙と部活動らしい集合写真を送ってきた。私は彼女の好きな人が写真の中央でまっすぐを見ていてハンサムで性格も良さそうに映っているのを見て何だか嬉しくなった。そして、
「大事な写真だから返してね。」
とあったので、私に珍しくすぐに送り返したら、
「すぐに返してくれてありがとう。」
と末吉さんからすぐに手紙があった。
中学時代は私にとって最もつらい時期だったが、末吉さんにはつらいこと・悲しいことは一切書かず楽しいことばかりをさも楽しそうに書いていた記憶がある。それは当時の私の癖みたいなものであり、一方で末吉さんが明るく楽しいお茶目な人だったからでもある。
中学生のころから対人恐怖症が始まり、人と接することの苦手になってしまった私は大方の人とは逆に授業を聞くだけが楽しくて学校へ通っていたが、文通はある意味一つのオアシスだった。人と対面することなしに話ができる…。対人恐怖症であっても他人との心の交流は必要なのであった。
とはいえ、当時はそういったことには思い至らず「あまりしゃべらず側にいるだけの友達」としての自分に嫌気がさし、また友人に裏切られたこともあったりで日々人間不信を深め、高校に入学したときには、
「私は友達を作らない。」
と決心し、そんな暗すぎる心象風景から末吉さんとの文通も途切れてしまった。
そのころ私は自殺を考えた。高校の校舎の窓から散りゆく桜の花を見下ろしながら、
「ここで死ねたら美しいのに。」
と思い、二階の窓から飛び降りて桜の花びらに埋もれている死体の自分を想像し、家に帰ってノートに遺書をしたためた。が、死ねはせず、遺書のノートから日記が始まり、学校でも家でもほとんど口を利かない高校三年間で自己との対話をノート四十冊分繰り返した。その高校時代は二年の夏から登校拒否となり、クラスメートや他校の古い友人など心配して手紙をくれた人が何人かいたし、小学校のクラスメートで生徒会長まで務めた女子が私の家までやってきて母に、
「有ちゃんはずっとライバルだと思っていた。こんなところで挫折して欲しくない。」
と叫んでいった一幕もあったが、同世代に対すると相変わらず私は手紙の返事を一度返すくらいの付き合いしかできずにいた。
そんな私に早稲田大学時代、のりちゃんという文通友達ができた。人間不信や対人恐怖症と戦い続けていた私は精一杯で神経ぎりぎりで生きておりそれが宗教サークルへと向かわせたが、CCCというクリスチャンサークルの合宿に参加して知り合ったのが南山大学の学生で一つ年下の佐原令子(のりこ)さんだった。話してみると、キリスト教に深く貫かれた清く正しくまっすぐな性格にすぐに引かれ、お互いに東京と名古屋に合宿から帰ると文通が始まり、当時、
「かおりちゃんから一番よく手紙が来ます」
と書いてあったのを覚えている。
それから一年後にまたCCCの合宿で会おうと約束していたが
「風邪で行けなくなりました。彼が行くのでよろしくね。」
と伝言があった。
合宿に参加した私は名古屋の人たちに、
「のりちゃんの彼、どの人?」
と訊きまくり、彼のテーブルに行き単刀直入に訊いた。
「佐原令子さん、ご存知ですか?」
うなずく彼に、
「どんな人ですか?」
と畳み掛ける私。その彼の、彼女の骨格をよく捉えた表現に満足し、またそれ以上何を訊けば良いのかわからなかったので、会話はそこで終わった。だが私はその合宿中彼をずっと観察していて、東京に帰ると早速のりちゃんにはがきを出した。
「彼に会いました。骨のあるいい男だね。」
二十四歳で結婚したのりちゃんの今のだんな様がその彼で、彼がのりちゃんを伴侶として選んだ理由を聞けば、私は笑い出さずにいられなかった。なぜなら私が彼女を遠く離れていても生涯の親友として選んだ理由と一緒だったからだ。
のりちゃんは今はアメリカにいてもうすぐ二児の母になろうとしている。交際範囲が広く忙しい人なのにしょっちゅう私に手紙を書いてくれている。緊急に話したいことがあるとメールだが、今も日記のような手紙を私も書き続けている。メールもいいが、手紙の文字やレターセット・切手・封印シールなど手紙交換には味わいがある。また、エアメールだと到着するまで時間がかかるので、その時間差がまた楽しいのだ。
私は毎日のりちゃんを思って書いている。それはのりちゃんのだんな様が彼女に、
「かおりちゃんと浮気している。」
と言わしめたほどに。そして時折末吉さんのことも思い出す。どうか元気でそして幸せでいて欲しい。