「さみしいの」
真白いノラ猫が縁側で日向ぼっこをしており、そおっと近づいた美知はそれを抱き上げて頬ずりした。
「さみしいの」
先の言葉は猫への問いかけだったが、今回のは自分の気持ちの吐露だ。
まだ朝六時、寝坊の犬島家の住人は美知を除いてまだ夢の中だ。パジャマ姿の美知も本当はまだ眠い。
「いっしょに、寝ようか」
白猫を膝に乗せたまま美知は縁側に寝そべった。板の間が気持ちいい。美知は白猫を自分の頭の高さまで抱き上げて転がした。
「ミャーウゥ」
猫も眠そうにあくびを一つして丸くなった。それを満足げに見つめながら、美知は、命ある物の生きている音と姿にうっとりと頬を緩め、それから猫の背中に大きく指を一本走らせた。
「おまえもさみしいの」
美知の問いかけに、白猫はぶるんと体を震わせた。
「そうか、おまえもさみしいのは嫌なんだね。じゃあ、私と一緒にいよう」
勝手な解釈だった。が、美知は何だか幸福だった。
「お前は私と仲間だね、世の中のアウトローだもの」
今度は猫は肯定するように
「ミャーオ」
と鳴いた。
「こりゃあ、美知。何やっとる。生き物をいじめてはいかんぞ。命あるものは大切にせんといかん」
今年米寿を迎えた大正生まれの祖父の一喝が朝の張り詰めた空気にこだました。この祖父は年のせいかは知らないが時折美知にはわけの分からぬことを言う。
「私はこの子をいじめてなんかいないわよ、おじいちゃん」
美知がかわいらしく反撃しても
「いかんぞ、美知。女はそうだからいかん。『女は愛嬌』などと色仕掛けで来る女など、ろくなのがいないからな。ばあさんを見ろ、今朝もラジオ体操にジョギングだ。健康的なのがいちばんだぞ、美知」
「はいっ、おじいちゃん」
この祖父にあっては美知はこう返事するしかないのだ。剣道師範のこの祖父は、いつでも誰に対しても「先生」であり、美知もまるで弟子の一人のように扱う。
「そうですよ、美知。こざっぱりと清潔さのにじみ出る女性にならないと、いい嫁の貰い手が見つかりませんよ」
書道師範の祖母がそれに追い討ちをかける。
「また、おばあちゃんまで…。私はこの猫がかわいいだけ。いっしょに遊んでくるわ。じゃ、ね」
白猫を拾い上げ、美知は縁側から二階にある自室に戻っていく。木造の階段がぎしぎし音を立てる。
「いつになったら女らしくなるのやら」
嘆く女性らしい祖母の声と
「わしがびしばし教育してやるぞ」
頼もしげに断言する祖父の声を遠くに聞きながら、
「まったく、あの二人は古いんだから。私の頭までおかしくなっちゃいそう。だいたいあの二人の言うこと聞いてたら、逆にいいボーイフレンドなんて出来やしないわよ。もう、ヤだ」
美知がおとなしく抱かれている白猫をさらにぎゅっと抱きしめると、猫は痛みで
「ミャオー」
と奇妙に鳴いた。
犬島家の近所には猫をたくさん飼っている「猫屋敷」と呼ばれる大邸宅がある。白猫もその内の一匹だろうと思いながら、美知は自室の木造の机の上に猫を置いた。
「白もきれいだけど、お化粧が必要ね。どれ、私がきれいにしてあげよう」
美知は絵を描くのが好きで、自室はまるでアトリエのようだった。そこに絵の具に混じって最近ペンキも購入した。そのペンキを使って、美知は猫の白いキャンバスに国旗をいくつか描いていく。頭上には日の丸、胴体にはアメリカ、手足にはそれぞれバチカン、キルギス、ポルトガル、ボスニア・ヘルツェゴビナ国旗を。
「はい、できたわよ。乾かすから、ちょっと待ってね」
白猫だったはずのへんてこりんな模様の猫にドライアーを当てながら、美知は鼻歌を歌っていた。
猫が仕上がった頃、陽ははるか上空に昇っていた。
「いっけない、今日はおじいちゃんにお客さんが来る日だったわ。早くしなきゃ」
猫を抱き上げお腹のところで隠すようにして、美知は階段をぎしぎし言わせると縁側に出て猫を放そうとした。とたん、
「こおりゃあ、美知。おまえだったか、犯人は。近ごろ『犬島さんちから変な猫が出て来る』と評判になっておったんだ。何考えとるんだっ」
祖父が仁王立ちになって美知を見下ろしている。
「その猫、わしに渡しなさいっ」
しぶしぶ美知がカラフルな猫を捕まえ、祖父に引き渡すと、祖父は、
「おそらく、『猫屋敷』の猫の一匹だろう。あの家の人はおとなしい方々だから今まで警察にも訴えることもなく来たんだろうが、美知、これは悪いことなんだぞ」
「はい、わかってます」
「わかってるんなら、なぜ、やった」
祖父の目は閻魔様のように怖かったが、美知は慣れっこだった。
「猫をきれいにしてやりたいと思って。だって、もったいないじゃない、白いキャンバスがあるのに」
ぺろっと舌を出した美知に、祖父は
「今から行くぞ。猫屋敷に」
「何しに行くの」
「決まっとろうが、謝罪だ、ついて来いっ」
祖父の言葉には有無を言わせぬものがあり、美知はいつものことなので、「またか」と思いながらも、祖父のたくましい背中を追いかけてゆく。
猫屋敷はつたの絡まる幽霊屋敷のような建物で、表札に「永田」と書いてある。
「なぁんだ、猫屋敷って言うから期待してたのに、普通の苗字じゃない。つまんないの」
ぶつぶつ言っている美知に鋭く目を光らせながら祖父はインターホンでなにやら話している。
「お入りください」
異国風の扉が開いて、そこには六十過ぎの上品な風貌の女性が立っていた。
「あら、マコ。それ、うちのマコちゃんだわ」
祖父がインターホンで話す際手渡された国旗猫は美知の腕の中で眠っている。
「どうもわざわざ連れて来ていただいて。ありがとうございます、お嬢さんまで」
丁寧に優しく言われると美知はバツが悪くて下を向き、祖父はおもむろに口を開いた。
「実は、この子が猫に色を塗り、申し訳ないことを…」
平謝りの祖父の言葉を、永田夫人はぱっと顔を輝かせて遮り、
「あら、あなただったのね。近ごろ、うちのミューちゃんやシンちゃんたちが新しいお洋服を着て帰ってきてたのは」
「かたじけない」
祖父はさらに頭を低くする。
「何と心の広い」
祖父の言葉をさらに永田夫人は遮って
「いえね、うちは子供達も大きくなって遠方にいるし、主人と二人、後は猫たちだけど代わり映えのしない毎日だったものだから、まあ、最近のこの子たちのお洋服、楽しんでいたのよ」
永田夫人は口に手を当ててホホホと笑った。
「しかし、ペンキだと取れないのでは…」
祖父の言葉を夫人はさらにまた遮り
「動物の毛は刈ればまた生えてきますから。怪我を負わせたり殺したわけじゃないですからねぇ、お嬢さん」
微笑む夫人の朗らかな顔に、美知もつられてにっこりした。
「世の中にはあれでしょう、いたいけな猫たちの手足を切り落とす愉快犯がいたりとか、恐ろしい事件があるのに、これはユーモアとも取れる出来事ですわよね」
「何というおもいやりのあるお言葉…」
祖父はさらに頭を下げ、美知はますます顔を輝かせ永田夫人の目を見やる。それを見つめ返して夫人はさらに続ける。
「この間、ミューちゃんに描いてくれた黒と灰色の不思議な絵、主人とセンスあるわね、って言ってたの」
「ピカソのゲルニカ!」
元気良く答える美知に、横から祖父が
「しかし、近所の人がお化けみたいな絵だったと…」
と言いかけるのを夫人が
「その人、センスがないのよ」
と跳ね返し、
「ねー」
で、美知と顔を見合わせて笑った。
この日、美知は、少し、いや、かなり年上の親友にめぐり合った。そして、才能を認めてくれるこの夫人のためにも、大好きな絵の世界で仕事をして行きたいという夢を持ち膨らませていった。
二年経った今、美知は東京の美大に通っている。そして夏休みには、おしゃれな永田夫人のために刺青を腕にペイントしてあげた。
猫を撫でながら夫人は言う、
「美知、あなたの刺青のお陰で、この間アメリカ人にナンパされちゃったわ。あなたはきっと大成する」
そして、今や白く戻ったマコが肯定するように
「ニャー」
と鳴いた。