[台本]天才少女と歓喜の歌
世界設定、場面情景
現代。ごく当たり前の日常を送っている青年と、
ごく当たり前では無い日常を生きる少女ととある曲のお話。
登場人物
○徒霧 響太郎(あだぎり きょうたろう)
男性、23歳
おだやがな青年。
あまり欲が無く、真に清廉潔白にして純情。
何か、面白い事があったらな、と思ってる。
ある事をきっかけにとある曲が好きになった。
主人公。
〇える(P・N)(える、かっこ、ぺんねーむ)
女性、自称14歳
淡々と喋るホームレス少女。
決して無感情ではない。無表情なだけ。
天才少女を自称しており、不思議な物言いが多い。
ある人をきっかけにとある曲を知った。
響太郎が好き。
〇理開橋 栗花落(りかいばし つゆり)
女性、21歳
普通の女性。
響太郎と同じカフェで働いてるバイト。
マイペースで「~っス」という口調が特徴的。
響太郎の事好き認定されて太陽に監視されてる。
〇凛優院 太陽(りゆういん たいよう)
男性、「20を超えてからは数えてないわ……」
個性の強い筋肉隆々のオネエさん。
カフェ”ビー・ストジェビュー”の店長で響太郎とは彼が幼いころからの付き合い。
響太郎が好き(親心)。
・徒霧 響太郎♂:
・える(P・N)♀:
・理開橋 栗花落♀:
・凛優院 太陽♂:
※こちらの台本をやる前に事前にルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第九番第四楽章、歓喜の歌を聞く事をおすすめします。
これより下が台本本編です。
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~とある公園~
える:「もし、そこのお人。」
響太郎:「え?」
える:「あらイケメン。
良かったら一曲わたくしの演奏を聞いていきませんか。」
響太郎:それは仕事帰りの出来事だった。
公園の中を横切って家に帰ろうとしたら誰かに呼び止められた。
響太郎:「……貴女は?」
える:「え?ああ、わたくしはしがない放浪者です。
敢えて名乗るのであれば、える(P・N)です」(かっこ、ぺんねーむと言う。)
響太郎:「は、はぁ……。」
響太郎:える(P・N)と名乗る少女は淡々と言う。
える:「改めて、わたくしの演奏を聞いていきませんか。」
響太郎:そう言って、鍵盤ハーモニカを胸に抱く。
える:「リクエストなどありましたらお応えしますよ。」
響太郎:「そう……?
じゃあ…………“歓喜の歌”をお願いできるかな。」
間。
える:「え?なんです?」
響太郎:「え?えっとぉ……知らない?ベートーヴェンの歓喜の歌。」
える:「知らないですね。」
響太郎:「えーっと……じゃあ……いいかな……」
える:「え゛。あ゛。あ、あーはいはい。思い出しました。
アレデスネ。アレデスヨネ。オモイダシマシタヨ。
ベットベンの短気の歌ですよね。」
響太郎:「歓喜、ね。」
える:「そう、歓喜。
……では、弾きます。」
響太郎:そう言って少女は弾く態勢になる。
真っすぐに立ち、左手で鍵盤ハーモニカを支え、
ホースを口にくわえ、右手を鍵盤にそえる。
その姿を見て、僕は隣のベンチに腰掛け目を瞑る。
そして──
(える演奏。が、全然別の曲を弾く。)
響太郎:「…………。」
響太郎:──僕の知る歓喜の歌が聞こえる事は無かった。
響太郎:「……えー……っと……」
える:「スゥーーーーーーー…………やっぱり違いますかね。」
響太郎:「そ、そうだね……全然違う。」
える:「くッ!もうしわけ……な……ぃ」
(える倒れる。)
響太郎:「え……?
ちょっと!大丈夫ですか!!?」
える:「ぐ……ぐぅ……もうお腹が空いて……」
響太郎:「えぇ……?」
える:「もう一か月はかたいものたべてないです……」
響太郎:「えぇ……ッ!?」
える:「もう四日も何も食べてない……」
響太郎:「えぇッ!!?」
える:「もう……わたくし……だめ、かも……」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
える:「かたじけない……」
響太郎:「気にしなくて良いよ。」
響太郎:とりあえずえるさんを抱えて、近くのファミレスに入る事にした。
響太郎:「……見た感じ、お金持ってなさそうだし、ここは僕が持つよ。」
える:「え……良いのですか?」
響太郎:「うん。」
える:「……その、わたくし金品持ち合わせていませんし、
何かお返しする事は叶わないのですが……」
響太郎:「良いよ。そんなの気にしないで。」
える:「無理です。わたくし一生気にします。死んでも気にします。」
響太郎:「え……っと……困ったな……」
える、お腹が鳴る。
える:「あ。」
響太郎:「……ふふ、とりあえず、何か頼みなよ。
君が僕に何か返すにしても、死んでしまっては意味が無いよ。」
える:「……では、恐縮ですがお言葉に甘えて…………」
響太郎:そう言って彼女はメニュー表を開く。
える:「……ちなみに、上限はおいくらですか。」
響太郎:「え……?うーん……3000円くらい?」
える:「わあ太っ腹。ではこれとこれとこれとこれが食べたいです。」
響太郎:「分かった。
──すいません。
これとこれとこれとこれと、ドリンクバーを二つお願いします。
はい。はい。お願いしますー。」
える:「……何から何まで、本当に、ありがとうございます。」
響太郎:「いえいえ。
……ところで、君はどうして四日もご飯を食べて無かったの?」
える:「……実は、わたくしホームレスなのです。」
響太郎:「え……それは大変だね……
ご両親は……?」
える:「多分ご健在かと。」
響太郎:「えぇ?じゃあ、なんでホームレスに……?
……もしかして……虐待……?」
える:「あーいえいえ。そういうなんか重たげな理由とかは無いんです。
ただの家出ですので。」
響太郎:「あー……家出かぁー……君くらいの年頃の子って本当に家出とかするんだね。」
える:「今の時代では圧倒的少数派でしょうけどね。」
響太郎:「……その、家出の理由を聞いても大丈夫かな……?」
える:「……わたくし、天才なんです。」
響太郎:「………………はぁ。」
える:「当然、勉学も運動も芸術もなんだって出来るんです。わたくしの母は言っていました。
“貴女に出来ない事は何もない”、と。」
響太郎:「へぇ……凄いね……。」
える:「ですが……そんなわたくしにも出来ない事があるのです。」
響太郎:「……。」
える:「……音楽です。」
響太郎:「……音楽。」
える:「そう、音楽。歌う事も楽器を奏でる事も出来ないのです。
いえ、人並みには出来ますよ。ですが、他の分野程の才覚は無い。
わたくしはそれが悔しくて、猛特訓しました。
……けれど、駄目でした。」
響太郎:「…………。」
える:「それを嘆き悔やむわたくしに、母は言いました。
“別に音楽が出来なくても良いじゃない。他の事が出来るのだから”、と。
わたくしはカチンと来ました。」
響太郎:「……君は出来ないと言われるのが嫌なんだね。」
える:「ええ、そうです。
ですが、何よりも“出来ない事は何もない”と言った母自身に
“出来なくても良いじゃない”と言われたのが許せなかったのです。
それでは看板に偽りありじゃないですか。
そう思い、わたくしは溜まらず家出しました。」
響太郎:「それで一か月……。」
える:「はい。わたくしはこの、デイダラボッチ二号と共に町を転々としているのです。」
響太郎:「その鍵盤ハーモニカ、名前あったんだ……。」
える:「ちなみにデイダラボッチ一号は実家にあるピアノです。」
響太郎:「……君はこの一か月どうやって過ごしてたの?」
える:「まぁ、色々頑張ってきました。
演奏しておひねりを頂いたり、食べれる雑草を食べたり、空き缶集めたり……
春を売ろうと思った時期もありましたが、これでもうら若き乙女。
穢れ無き自分を守ろうと思いそれは避けましたね。」
響太郎:「季節って売れるの?」
える:「え?うん。ん?は?うん。え????」
響太郎:「季節を売るって発想面白いね。」
える:「……スゥーーーーーーー……えーっと、“春を売る”ってご存じない?」
響太郎:「……?」
える:「……すご……絶滅危惧種というか幻想種では?
こんな人、この世に本当に存在するんですね。
いえ、これは逆に逆なのかもしれない。
この方は現代社会が生んだフェアリーなのかもしれない……」
響太郎:「え?なに?」
える:「いえお気になさらず。永遠にそのまま、清いお兄さんのままでいてくださいませ。
とにかく、そういうワケでこの一か月は
わたくしの修行と生きる事に力を入れていました。」
響太郎:「そうなんだ……。
…………あ、そうだ。
ねぇ、えるさん。」
える:「なんざんしょう。」
響太郎:「お返しの件なんだけどさ──」
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~翌日~
栗花落:「へぇーそんな事あったんスねー」
響太郎:「うん。」
栗花落:「にしても、ただ飯のお返しが“歓喜の歌を演奏して僕を笑顔にして”とは……
いやはや、キョーさんらしいっスね。」
響太郎:「そうかな?」
栗花落:「そうっスよ。
フツーだったらお金稼いで返してーとかでしょうに、
お返しが“僕を笑顔にして”なんて相も変わらずメルヘンなんスから。」
響太郎:「あはは……」
栗花落:「それで今日からその子と会った公園で練習会ってワケですか。」
響太郎:「うん。
本当は簡単に弾いてもらえば良いつもりで居たんだけど──」
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える:『分かりました。
任せてください。わたくし、天才ですから。
たくさん練習してお兄さんを笑顔に、泣いて喜ぶ程の感動を与えましょう。
……なので、明日からで良いのでわたくしの練習に付き合ってくれませんか……?』
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響太郎:「──って言われちゃって……
僕から持ち掛けた以上、付き合ってあげないとね。」
栗花落:「律儀っスねー」
太陽:「ちょっとォ、駄弁ってないで仕事しなさいよ。」
響太郎:「あ、すいません。」
栗花落:「えーでもお客さん居ないじゃないっスか。
別にお喋りしてるくらい許してほしいっスね。」
太陽:「別にアタシはアンタをクビにしても良いのよ。」
栗花落:「パワハラだぁー」
太陽:「ごちゃごちゃ言ってないでシルバー拭きなさいよ。」
栗花落:「あいあいさー」
太陽:「もう、栗花落(つゆり)のやつ……
どう?響太郎(きょうたろう)。キッチンには慣れたかしら?」
響太郎:「はい。あの、何から何までありがとうございます。タイヨウさん。」
太陽:「良いのよ。
キョウタロウはよく働いてくれるからアタシの方こそ助かってるわ。」
響太郎:「そう言って頂けて幸いです。」
太陽:「ンフフ……
ところで……さっきツユリと話してた話だけど……」
響太郎:「ん?ああ、えるさんの事ですか?」
太陽:「そう、そのえるって子。どんな子なの?」
響太郎:「どんな子、ですかー……うー……ん……
まだよく分からないですけれど、凄く頑張り屋さんで負けず嫌いなんだろうなー、と、僕は思ってます。
そんな彼女の真っ直ぐな思いのお手伝いが出来たらなって。」
太陽:「そう……それは凄く良いわね。
きっとその子、裏表の無い良い子なんでしょうね♪」
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~その日の夜~
太陽:「キョウタロウの優しさに漬け込むクソガキの正体暴いてやるわ……!」
栗花落:「店長さっきと言ってる事が真逆……」
太陽:「この公園で合ってるのかしら?ツユリ?」
栗花落:「ええ、キョーさんが言ってた通りだったらここかと。
てかなんで私たちしげみに隠れてコソコソしてるんスか?」
太陽:「キョウタロウをたぶらかそうとしてる輩に見つからない様によ。」
栗花落:「はぁー……店長はキョーさんの事になったらいっつもこうなんスから……
全世界の女性がキョーさん大好きで狙ってるワケじゃないんスから、
そう血眼にならなくても……」
太陽:「言っとくけど、アンタも監視対象だからね。
アタシは、アンタを、見てるわよ……!」
栗花落:「はぁー……」
太陽:「…………ん?あの子かしら……」
栗花落:「お、可愛い子っスねー……あれ?どっかで見たことがある様なー……
あ、キョーさん。」
◇
える:「こんばんは。お兄さん。
来てくださったのですね。」
響太郎:「こんばんは。
君の演奏楽しみにしてるからね。」
える:「それはそれは光栄ですね。
では、お兄さん。
わたくしに教えてください。
ルットビッヒ・バン・ベットベンさんの短気の歌を。」
響太郎:「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの歓喜の歌、ね。
うん、じゃあこれを――」
響太郎:そう言って僕はスマホを出す。
オーディオアプリを開き、音を鳴らす。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲、歓喜の歌。
える:「ふむふむ。とても明るい曲ですね。」
響太郎:「でしょ?
僕この曲が大好きなんだ。」
◇
栗花落:「なんか音楽流してますね。」
太陽:「……ベートーヴェンの交響曲第九番第ニ短調作品125、四章で歌われる歓喜の歌、ね。
ドイツの詩人ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラーの
詩作品“自由賛歌”の書き直し作品である“歓喜に寄す”に曲を付けたものよ。
……キョウタロウの一番好きな曲でもあるわ。」
栗花落:「へぇー店長詳しいっスね。
私も楽器やってますけどロックとかポップばっかで
クラシックはさっぱりなんでちょっと助かります。」
太陽:「アンタ歓喜の歌知らなかったの?」
栗花落:「いやぁー曲はなんか映画かなんかで聞いた事あるなーって感じなんスけど、
名前までは知らなかったっスね。」
太陽:「…………まぁ、日本じゃそんなもんなのかしらね。
この曲ってかなり凄いのよ?
ヨーロッパだと欧州の歌として使われてるし、何国かは国歌にしてる所もあるのよ。
人類最高の芸術作品と讃えられる、正に世界有数の名曲よ。」
栗花落:「へぇ~~~~~~マジもんにすげぇー曲じゃないっスか。」
太陽:「えぇ……本当に、マジもんにすげぇー曲、なのよ。」
◇
える:「んー……心に響きすぎて涙がぽろぽろ流れちゃいます。」
響太郎:「あははは……無表情なのに涙を流すのなんかこわいな……」
える:「よし、とりあえず曲は知れました。
早速練習です。」
響太郎:そう言って鍵盤ハーモニカを支え、ホースをくわえ、鍵盤に触れ、目を瞑る。
える:「いきまひゅ」(ホース咥えてる。)
響太郎:「うん。」
◇
太陽:「…………死ぬほど下手くそね。それに固い。」
栗花落:「まぁまぁ……練習って言ってたんですし多少は大目にみましょうよ。
にしても、なんで鍵盤ハーモニカなんスかねー」
太陽:「さあ、なんででしょうね。
色々と予想は出来るけれど、断定は出来ないわね。
でもまぁ、鍵盤ハーモニカの歓喜の歌ってアタシ好きよ。
オーケストラやピアノの様な壮大さはあまり無いかもしれないけれど、
凄く落ち着くわ。」
栗花落:「……確かになんというか微笑ましいですね。
私も幼稚園児の時とかに弾いた事あるんで見てるとなんだか懐かしいっス。」
太陽:「そう。
……なんというか、あの子の演奏。下手くそだけど嫌味な感じが無くて良いわね。」
栗花落:「嫌味な感じスか?」
太陽:「ええ。まぁ、嫌味な感じって表現はどうかと思うのだけど、
キョウタロウから聞いた印象だととてもプライドが高そうだったから
てっきり鼻につく演奏をすると思ってたのよね。」
栗花落:「鍵盤ハーモニカで鼻につく演奏するのは面白すぎなんで聞いてみたいスけどね。」
太陽:「やろうと思えば鍵盤ハーモニカでだってそういう演奏は出来るのよ?」
栗花落:「へぇー……じゃあ今度やってみせてくださいよ。」
太陽:「……まぁ、別に良いけど。」
栗花落:「やった。
……一生懸命弾いてますねー」
響太郎:彼女の演奏を聞きながら僕は思い出を反芻する。
初めて歓喜の歌を聞いた時の記憶を……。
あの時は確か──
える:「──さん、お兄さん。お兄さーん。」
響太郎:「……えっ?ああ、どうしたの?」
える:「一応一通り弾き終わりました。
なんというか普通に難しいですね。」
響太郎:「そうかもね。
ピアノの譜面は結構優しい方で、
確か入門編仕様みたいな感じの短い譜面もあった気がする。」
える:「なんと。ベットベンさんは親切な方なのですね。」
響太郎:「ベートーヴェンね。」
◇
太陽:「キョウタロウが言ってる譜面はベートーヴェンが作ったわけじゃないわよ……」
◇
響太郎:「たしか……はい、これ。」
(響太郎、えるにスマホを見せる。)
える:「おお。これは確かに入門っぽいですね。
とても分かりやすいです。」
響太郎:「それは良かったよ。」
える:「……ところで、お兄さんは何故…………
あ、そういえばわたくしお兄さんのお名前聞いてなかったです。
恩人であるのにお名前を知らずにいるだなんてブシノハジ。」
響太郎:「え……?あれ、言ってなかったっけ……言ってなかったかも。
えっと、僕の名前は“徒霧 響太郎(あだぎり きょうたろう)”。
響く太郎でキョウタロウだよ。」
える:「なるほど、改めてよろしくお願いします。
キョウタロウさん。」
響太郎:「うん、よろしく。」
(える、響太郎、握手する。)
◇
太陽:「ねぇ!!あのガキ!!キョウタロウに触ったわよッ!!!もうぶっ殺すしかないわッ!!!」
栗花落:「いや握手くらい許してあげてくださいよ。」
◇
える:「さて、さっきも言いかけましたが、
キョウタロウさんは何故この曲がこんなに好きなんですか?
今時ネットを開けば無料で聞けるのに、
曲もわざわざダウンロードしてるし、譜面もこんなにいっぱい……
もしかしてキョウタロウさんは音楽家さんです?」
響太郎:「ああ、いや、全然そんなんじゃないよ。
本当に只々好きなだけ。
そうだね……何故歓喜の歌が好きなのか、か……。
少し話が長くなるかもだけど、良いかな?」
える:「ええ、構いませんよ。」
響太郎:「…………小さいころの話なんだ。僕の一番古い記憶。
僕はどこか、大きい家の中を迷子になっていて、
少し泣きそうになって歩き回ってたんだ。」
える:「あら可愛い。」
響太郎:「大声を出しても誰も返事をしない、どんなに歩いても誰にも会えない、
次第に歩き疲れてその場に座り込んじゃって、
不安で寂しくて怖いって気持ちで心がどんどん支配されていってて……」
◇
栗花落:「うわぁー……子供にとってそういう体験はキツイでしょうねー」
太陽:「……。」
◇
響太郎:「それでぐずってたら聞こえてきたんだ……ピアノの音が……
多分、僕が初めて意識して聞いたピアノの音だった。
その音が心地良くて、気になって、
疲れも不安も頭から離れて音の方へ音の方へと足を進め……」
える:「……。」
響太郎:「そして、音の鳴っていた部屋の前までたどり着いたんだ。
……扉を開くと、曲はちょうど盛り上がりの部分で
音が僕の方へ向かって勢いよく飛び出してきたんだ……!
壮大で雄大、そして荘厳な音の中で軸となる音は優しく跳ね続けてる……!
小さいながらもなんとなく理解出来た……音たちは喜んでいるんだって……!」
える:「……ッ」(きらきらとした目で語る響太郎に見惚れる。)
響太郎:「……今でも、あの時の興奮が忘れられないでいる…………
言ってしまえば僕はこの曲に魅入られてるんだと思う。
……あ……ご、ごめんね、少し熱っぽくなっちゃった。」
える:「……いえ……いいえいいえ。良いのですよ。
なんなら良かったです。
そうなのですね。キョウタロウさんは昔の思い出からこの曲が好きなのですね。」
響太郎:「うん。
その時に、演奏してたお兄さんにこの曲の事を教えてもらったんだ。」
える:「なるほど。
その方がキョウタロウさんの人生を変えたターニングポインターなのですね」
響太郎:「ターニングポインター……そうだね。その通りだ。
あ、そういえば、ちょっと恥ずかしい話なんだけどさ。
これも小さい時の話なんだけど。」
える:「ふむ。」
響太郎:「僕それからベートーヴェンの事を知って、凄く会いたくなったんだ。
それで、よく“大きくなったらアメリカに行ってベートーヴェンに会う”って
よくお母さんやお父さんに言ってたんだ。」
える:「あら可愛い。
きっと婦女の皆さまに大変可愛がられていたでしょうね。」
響太郎:「全然そんな事無いよ。
いやはや……あれは恥ずかしかったな……ベートーヴェンはもう亡くなってて、
そもそも彼はアメリカじゃなくてドイツの方なのに。」
える:「そんなものですよ。
幼少の頃って外国の人は皆アメリカにいるって思ってそうですよね。」
響太郎:「あはは……僕がそうだったね。」
◇
栗花落:「私もそうでしたー」
太陽:「知らないわよ。」
◇
える:「そういう大切な思い出があるのですね。
では、尚更、キョウタロウさんが笑顔になれる様精進しないとですね。」
響太郎:「……ありがとう。
あ、そういえばえるさんホームレスって言ってたけど、寝泊まりとかはどうしてるの?」
える:「え、それは勿論橋の下とか雨にさらされない様な場所で寝てますよ。」
響太郎:「そっか……もし良かったらだけど、僕の家に来ない?」
える:「え。それは未成年の略取・誘拐の罪でキョウタロウさんが捕まってしまうので無しですね。」
響太郎:「え、あぁ、そうなんだ。
別に誘拐するつもりなんて無いんだけど……。」
える:「だとしてもですよ。
仮にわたくしの同意があったとしても罪に問われます。
この場合に侵害しているのは“保護者の監護権”なので。」
響太郎:「な、なるほど……。」
◇
栗花落:「あの子あんな事まで知っててよく家出しようと思いましたね。
家出したって良い事大して無いのに。」
太陽:「それアンタが言うの?この国の技術革新の立役者、理開橋(りかいばし)のお嬢様が。」
栗花落:「それはー……まぁー……店長もじゃないっスか。
我が国を傾けられる凛優院(りゆういん)財閥の次男様?」
太陽:「……うっさいわね。」
える:「ですが……キョウタロウさんがどうしても、どーーしてもというのであれば……
わたくしは──」
太陽:「ちよぉっとまちなさぁああああああああああああいッ!!!」
響太郎:「え?」
える:「ッ!!?」
栗花落:「あーちょっとー……出て行っちゃった……」
響太郎:「あ、タイヨウさんにツユリさん。
お疲れ様です。」
栗花落:「お疲れっスー」
(える、響太郎の後ろに隠れて怯えている。)
える:「な、なななななんなでせうか……」
響太郎:「ああ、この二人は僕の知り合いで
こっちが理開橋 栗花落(りかいばし つゆり)さんで、こっちは店長の店長だよ。」
栗花落:「ども。」
太陽:「フン。」
える:「て、ててててててんちょさんの情報がてんちょさんしかなななないのですが……」
響太郎:「そんなに怯えなくても大丈夫だよ。
怖くない人たちだから。」
太陽:「そうよ。アタシたちは別に怪しいモンじゃないわ。
少なくともアンタよりはね。」
える:「ひえええええ……喋れるゴリラだぁー……」
太陽:「ゴリラじゃないわよッ!!
というかアンタ!今キョウタロウの家に上がり込もうと画策したわよねぇッ!!?」
える:「しッししししししししししししてないです……!」
える:しようとしましたケド。
える:「そっそっそっそそんな滅相も無いですすすすすすすす……!」
太陽:「ほ゛ん゛と゛ぉ゛お゛!゛!゛!゛?゛?゛」
える:「ひょんとでひゅぅぅぅ……」
太陽:「なら良いわ。」
栗花落:(良い、ってんなら言葉に怒気乗せないでくださいっス。)
響太郎:「どうしたんですかタイヨウさん、ツユリさん。
帰り道こっちでしたっけ?」
太陽:「散歩してたら偶々通りかかったのよ。」
響太郎:「ツユリさんも?」
栗花落:「そぉ……スねぇー……」
響太郎:「そうなんだ。
あ、この子が今日話してた、える(P・N)さん。」
える:「ど、どうも……」
栗花落:ぺんねーむってなんでだ……?
太陽:「そう、よろしくね。
アタシはキョウタロウやツユリの働いてる喫茶店の店長の凛優院 太陽(りゆういん たいよう)よ。」
栗花落:「あ、私は理開橋 栗花落(りかいばし つゆり)。
キョーさんは正社員?だけど私はバイトっス。」
える:「リユウイン…………リカイバシ…………」
太陽:「で、える……ってくっさッ!!
アンタめちゃんこ臭いわよッ!!!」
える:「な。うら若き恋乙女に対してなんて事を言うのですか。」
栗花落:「スンスン……スゥーーーーーーー……めっちゃ匂う……」
える:「ひ、ひどい。」
響太郎:「うん、臭いね。」
える:「きょ……キョウタロウさんまで……わたくし、死んでしまいそう。」
太陽:「アンタ……何日身体洗ってないのよ……」
える:「………………ぷいっ」
太陽:「顔逸らさないのッ!!」
栗花落:「かわいい」
える:「とりあえず言える事は長らく、ですね。(ドヤ顔)」
太陽:「誇って言う事じゃないわよ!
はぁー……仕方ないからアタシんち来なさい。」
える:「え。素直にやです。
行くんだったらキョウタロウさんかこっちのおっぱいのお姉さんが良いです。」
栗花落:「さっき略取・誘拐の罪がどうのこうのって言ってなかったっけ。
てかおっぱいの人って……」
太陽:「何よ。胸だったらアタシの方が大きいわよ。」
える:「いえ貴方のはおっぱいというか雄っぱい、つまり胸筋なのでおっぱいじゃないです。」
響太郎:「こらこら、女の子がおっぱいおっぱい言うもんじゃないよ。」
える:「あらぴゅあ。」
栗花落:「そういう話なんスかね。」
太陽:「とにかく!行くわよ!」
える:「こここここここわいですすすすすす
せ、せ、せ、せめてキョウタロウさんかおっぱいのお姉さんと一緒ががががが」
栗花落:「私はおっぱいのお姉さんじゃなくてリカイバシ ツユリね。」
える:「つゆりおっぱいさんと一緒が良いですぅ」
栗花落:「ちょっと!」
太陽:「はぁ……じゃあ、ごめんだけどツユリ、着いて来てくれる?」
栗花落:「私はいいっスよ。」
太陽:「じゃ、そういう事でキョウタロウ、おやすみ。」
栗花落:「おやすみっス。」
響太郎:「あーはい。おやすみなさい。」
える:「べべべばばばばぶぶぶぶぶきょきょきょキョウタロウさささささささ」
響太郎:「えるさんもまた明日ー」
える:「ぴえん……ぴえんぴえ~ん……」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~翌日、朝~
響太郎:「おはようございます。」
(響太郎がお店に入るとえると太陽が椅子に座っている。)
太陽:「おはようキョウタロウ。」
響太郎:「えるさんもおはよう。」
える:「おはゆおございます。」(誤字じゃないです)
響太郎:「すっかり綺麗になって一段と可愛くなったね。」
える:「!
ええ、そうでしょうそうでしょう。
わたくしの髪なんてキューティクルでキューティーでハニーって感じでしょう。」
太陽:「ツユリが丁寧に洗ってくれたのよ。」
える:「やっぱりおっぱいおおきかったです。」
響太郎:「そう、良かったね。」
太陽:「とりあえず、この子の身柄はアタシが預かる事になったわ。」
える:「預かられる事になりました。」
響太郎:「え、略取・誘拐のうんぬんかんぬんは……?」
太陽:「アタシがどうにかしたわ。」
える:「万能ゴリラでした。」
太陽:「ゴリラじゃないわよ。」
響太郎:「そうですか。それは良かったです。
えるさんも良かったね。」
える:「久しぶりにふかふかクッションに顔うずめて寝ました。」
太陽:「……。」
響太郎:「あはは、それは良かったね。」
栗花落:「いや……えるちゃんがうずめてたクッション私の胸なんスけど……」
(上の階からパジャマ姿の栗花落が降りてくる。)
響太郎:「あれ?ツユリさん?」
栗花落:「あー実はえるちゃんが“ゴリラと一緒は怖い”って
泣いてたんで私も泊まらせてもらったんスよ。」
響太郎:「なるほど。」
太陽:「ちょっとツユリ。パジャマで降りてこないの。ちゃんと制服着てから出てきなさいよ。」
栗花落:「あー……すんませんスー……着替えてきますー」
太陽:「もうすぐ開店だから早くしなさいよー」
栗花落:「うぃーっス。」
える:「そういえばここは何屋さんなんですか。」
太陽:「ここは喫茶店。名前は“ビー・ストジェビュー”よ。」
える:「ビー・ストジェビュー?」
太陽:「“強く、優しく、美しく”のモットーの英語、“Be Strong, be Gentle, be Beautiful”の
それぞれ頭の部分を取ってくっつけた名前よ。」
える:「なるほろ。」
太陽:「さ、キョウタロウ。アタシたちは仕込みを始めるわよ。」
響太郎:「はい、分かりました。」
える:「え。あ。あの、わたくしは……」
太陽:「え?アンタは上でゆっくりしてなさい。」
える:「え、で、でも、お風呂にも入れてもらって、
寝食も頂いておいて何もしないというのはあまりにも申し訳ないというか……」
太陽:「気にする事ないわよ。
アンタはまだ子供なんだからそんな事気にしなくて良いわよ。」
える:「いえ。しかし──」
栗花落:「改めておはようっスー」
太陽:「あら、丁度良いわ。ツユリ、える連れてちょっと町で遊んでてちょうだい。」
栗花落:「えぇ?でも仕事は……」
太陽:「今日はそれが仕事よ。」
栗花落:「……あー了解っス。」
える:「え。え。」
栗花落:「じゃあ、行くっスよ。」
える:「え。え。え。」
(栗花落、える、去る)
太陽:「……あッ!!ツユリ!!制服で町に行かないでッ!!」
太陽、去る。
響太郎:「あはは。
……今日もにぎやかで良いね。」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~える、栗花落サイド~
栗花落:「じゃあどこ行こうかーえるちゃん。」
える:「…………。」
栗花落:「あ、朝ご飯どうだったっス?」
える:「とても美味しかったです。」
栗花落:「っスよね~
店長の料理はめちゃんこ美味いんで、私も食べたかったなぁー」
える:「ふわふわのミニオムレツとカリカリベーコン、
それにトーストもとても美味しかったです。」
栗花落:「わー良いなー私もちゃんと起きておけば良かったなー」
える:「…………あの。ツユリさん……」
栗花落:「んー?どうしたんスか?」
える:「……貴女は、“理開橋 栗花落(りかいばし つゆり)”、と言っていましたよね。」
栗花落:「…………そうっスね。」
える:「ということはやっぱり、あの……」
栗花落:「……うん。まぁ、そうっス。
えるちゃんが今考えてるあのリカイバシっス。」
える:「そう、なのですね。」
栗花落:「まぁ、でも、今の私には関係ないっスよ。
私もえるちゃんと同じで家出した……というか勘当されたんで。」
える:「え。」
栗花落:「そんな難しい話じゃないっスよ。
私、許嫁ってやつがいたんスけど、私は既に好きな人がいて……
それで親と許嫁の親と大喧嘩して、色々あって勘当されちゃったんスよ。」
える:「わあ。どらまちっく。
ちなみにちなみに、好きな人ってやっぱりキョウタロウさんですか?」
栗花落:「……っぷ……皆そう言いますねー
違いますよ。私はキョーさんの事が好きなワケじゃないっス。
あ、人として好きっスよ?滅茶苦茶良い人っスし、話しやすいし。」
える:「……ほ。」
栗花落:「おやおやー?えるちゃんはキョーさんが好きなんスかー?」
える:「如何にもです。」
栗花落:「おや、てっきり恥ずかしがって否定するものと。」
える:「キョウタロウさんは優しいですし、下手くそな鍵盤ハーモニカを演奏するわたくしを
笑わないでいてくれました。
それにイケメンです。
わたくしは感情の起伏が浅い方らしいので、感情を隠さない事にしてるのです。」
栗花落:「…………いいっスね……そういうの……」
える:「?」
栗花落:「いえ、こっちの話っス。
じゃ!どこ行きますかねーえるちゃんの分のお金は
店長が持ってくれるらしいから気にしなくて良いっスよー」
える:「わ。流石森の賢人、とてもやさしいです。」
栗花落:「……あははは。」
える:「……ツユリさん、わたくし行きたいところがあります。」
栗花落:「うん、えるちゃんが行きたいところ行こっか。」
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~響太郎、太陽サイド~
響太郎:「…………。」
太陽:「…………ぶえっくしょん!」
響太郎:「風邪ですか?」
太陽:「いえ、健康よ。誰かがアタシの噂でもしてるんじゃないかしら。」
響太郎:「そうですか。…………今日も暇ですね。」
太陽:「そうね……。」
響太郎:「タイヨウさんのお料理もコーヒーも凄く美味しいのに。」
太陽:「そう?そう言ってもらえて嬉しいわ。
…………。
…………それにしても、まだ覚えてたのね。」
響太郎:「え?」
太陽:「アタシが第九を弾いた時の事よ。」
響太郎:「ああー、はい。覚えてますよ。
それに、これからもずっと覚えてます。」
太陽:「……そう。」
響太郎:「はい。」
太陽:「……それで、えるに第九……というより歓喜の歌を弾かせようってなんで思ったの?」
響太郎:「え?いえ、単純にリクエストして良いって言われたので、
僕の好きな曲をリクエストしただけですよ。」
太陽:「そう……
でも、わざわざあの子の練習に付き合う事ないんじゃない?」
響太郎:「……そうかもしれませんね。けれど、僕がそうしたいんです。」
太陽:「………………そう。
じゃあ今日の夜も練習するのかしら?」
響太郎:「はい。きっと。
えるさんは自分がやりたいと思った事を完遂するまでは頑張り続けると思うので、
僕もそれに付き合います。」
太陽:「ふふふ……そう……
……アンタも大きくなったわね……」
響太郎:「はい。もう23歳ですから。」
太陽:「……そうね。」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~当日、夜~
える:「キョウタロウさん。今日はもう練習では無く。
本番のつもりでやります。」
響太郎:「……え……?…………。
うん。分かった……。
ところで、その恰好は?」
える:「恐縮ながらツユリさんに見繕ってもらいました。」
響太郎:「そっか。似合ってるよ。」
える:「ありがとうございます。
では、始める前に……」
響太郎:「?」
える:「…………“おお友よ、このような音ではない。
我々はもっと心地良い、もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか“です。
楽しんでいきましょう。」
響太郎:そう、彼女は微笑み言った。
今のは“歓喜の歌”の、最初の歌詞。ベートーヴェンが作詞したという部分。
僕は驚いていた。
歓喜の歌を、ベートーヴェンを知らなかった彼女が
その歌詞を口ずさんだ事ではない。
彼女が唐突に本番をすると言った事ではない。
彼女が……彼女が笑うところを、僕は初めて見たのだ。
える:「では……行きます……」
響太郎:そう言って、今日は椅子に座り、鍵盤ハーモニカを膝に置く。
僕はいつものように目を瞑る。
…………。
~える、演奏する。~
響太郎:「………………。」
響太郎:昨日とは違い、格段に上達していた。
音たちが楽しそうに跳ねている。固くない。とても柔らかい。
思わず目を開ける。
目の前にいるのは本当にえるさんなのか、と。
響太郎:「…………ッ」
響太郎:演奏中の彼女を、初めて見た。
彼女は微笑んでいた。
さっきまでの僕の様に目を瞑り、音たちを楽しんでいたんだ。
それに──
える:「~♪」
響太郎:微かに彼女の鼻歌が聞こえる。
勿論、ホースを咥えている以上そんな事は出来ない。
けれど、僕には聞こえたんだ。
…………彼女は、今、音楽を楽しんでいる。
たった一日でどういった心境の変化があったのか、僕には分からない。
けれど、昨日までの“上手くやろう”という意思は微塵も感じられず、
ただただ楽しもう、楽しく弾きたいという気持ちが顔に表れている。
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~昼の回想~
栗花落:「で、どこへ行きたいんスか?」
える:「鍵盤ハーモニカを弾ける場所、或いはピアノを弾ける場所です。
練習したいのです。」
栗花落:「そうっスか……。
でもなんでそんなに拘るんスか?」
える:「わたくしはキョウタロウさんが好きです。
ですがその前にわたくしにとって、キョウタロウさんは命の恩人です。
彼の願いは是が非でも叶えたいです。
勿論、てんちょさんも、ツユリさんも恩人です。
わたくしは貰ってばかりで……何も返せないばかり……」
栗花落:「……じゃあ、えるちゃん。私からのアドバイスです。」
える:「え?」
栗花落:「次に演奏する時は本番のつもりでやってくださいっス。」
える:「え。いや。わたくしの演奏はまだ全然……」
栗花落:「そんなの関係ないっス。
とにかく、次は本番で、楽しくやるんス。」
える:「楽しく……」
栗花落:「これは私の好きな人が言ってた事なんスけど、
“音楽は音を楽しむモノ、音を楽しめば良い演奏が出来る”って。
だから、キョーさんに喜んで欲しかったら、えるちゃんも楽しまないとっスよ。」
える:「…………はい。そうしてみます。」
栗花落:「もっと元気良く~?」
える:「はい!そうしてみます!」
栗花落:「よ~し~
じゃあ、服買いに行きましょ~~」
える:「え。え。え。わたくしの行きたいところに連れて行ってくれるのでは。」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
える:音を聞くのが楽しい。
多分わたくしは何も考えていない。ただ、ただただ楽しんでいる。
ふと、目を開けてみた。
キョウタロウさんがどんな表情をしているのか、気になって。
える:「…………ぁっ」
響太郎:「っ…………ふふっ」
える:目が合った。
キョウタロウさんは目が合った事に気付き、微笑んだ。
楽しそうに、嬉しそうに。
その顔を見れたのが嬉しくて──
響太郎:曲が盛り上がる。
さっきまで鍵盤の上を跳ねていた音たちが飛び出してきた。
楽しそうに、嬉しそうに。
僕が今聞いているのはたった一つの鍵盤ハーモニカから奏でられている音たち。
だけど、僕は今、それ以外の、もっとたくさんの音たちに囲まれている気がした。
聞こえた気がした。オーケストラが。
える:風が歌っている。草木も歌っている。鳥たちも歌ってくれている。
音たちが周りの音たちを巻き込み一緒に歌っている気がする。
◇
太陽:「あら……凄く楽しそうじゃない。
なんだかアタシも混ざりたくなってきたわ。」
栗花落:「っスねー。
ギター持ってこれば良かったかなー」
太陽:「楽器ってギターやってたのね。」
栗花落:「いやいや店長に勧められてギター始めたんスけどー」
太陽:「そんな事もあったわね……って何?その恰好。」
栗花落:「えるちゃんと一緒に買ったッス。似合います?」
太陽:「馬子にも衣裳って感じね。」
栗花落:「えーせっかく買ったのに……」
太陽:「はぁー……凄く似合ってるわよ。可愛いわ。」
栗花落:「えへへー」
太陽:「…………キョウタロウ。良い顔してるわ……
……良かった。」
栗花落:「……店長は本当にキョーさん好きっスね。」
太陽:「ええ、大好きよ。あの子が赤ん坊の時から見てたもの。」
栗花落:「……負けないっスから。」
太陽:「……フン、アタシとアンタじゃ――」
栗花落:「ちーがーいーまーすー!」
太陽:「?」
栗花落:「前にも言ったでしょー?
“全世界の女性がキョーさん大好きで狙ってるワケじゃない”って。」
太陽:「…………そう……そういうこと……」
栗花落:「はい。そういうことっス。
私、諦めないんで。」
太陽:「小娘が生意気言うんじゃないわよ。
あと5年は大人になってからまた来なってのよ。」
栗花落:「はいっス……!」
◇
(える、演奏終了。)
える:「…………っふー……
……ありがとうございました。」
(響太郎、感極まって拍手する。)
響太郎:「こちらこそ……ッ、ありがとう……!
ありがとう……!えるさん……!」
える:「えへへ……
どうでした、か……?わたくしの初本番……」
響太郎:「とても良かった。とても良かったよ。
僕は一生忘れないよ。この楽しくて、笑顔になれたこの時を。
これからの人生で何度も、何度も何度も思い出しては笑顔になれると思うよ。」
える:「そこまで言われるとは、いやはや……やはりわたくしは天才ですね。
……短い間でしたけど、ありがとうございました。」
響太郎:「……うん。こちらこそ。」
える:「…………わたくし、自慢してきます。母に。
わたくしは音楽が出来る、音楽で人の心を動かせるって。」
響太郎:「……そっか。じゃあ、これでお別れなんだね。」
える:「……そうですね。そうなります。
ですが、また会いに行きます。その時はよろしくお願いします。」
響太郎:「うん。じゃあ、さようなら。また会う日まで。」
える:「はい。さようなら。また会う日まで。」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
響太郎:それから一か月。
太陽:「そういえば、ツユリ、アンタえるの顔どこかで見たことある的な事言ってたけど、
結局どうだったの?」
栗花落:「ああ、えるちゃんの正体っスか。
あの子あれですよ。世界の20%を牛耳ってるクモハタグループの大元、
“蜘旗(くもはた)”家本家当主の次女にして、天才少女と謳われる“蜘旗 天使(くもはた てんし)”ちゃんでしたっス。」
太陽:「………………………………。
アタシもアンタも相当だけど、あの子も滅茶苦茶ビッグネーム抱えてたのね……。」
響太郎:「あー!天使だから“える”だったんだ。」
太陽:「……アンタ全然驚かないわね。」
響太郎:「え?」
太陽:「……何でもないわよ。
キョウタロウ、もうあがっちゃって良いわよ。」
響太郎:「分かりました。
では、お先に失礼します。お疲れ様です。」
太陽:「お疲れ様。」
栗花落:「お疲れ様っスー」
(響太郎、去る。)
栗花落:「…………店長。」
太陽:「何。」
栗花落:「……私たち、凄い人に借り作っちゃいましたね。」
太陽:「………………そうね。」
栗花落:「これからあの子とどう接すれば良いんスかねぇ。」
太陽:「う~~~~ん……ま、フツーで良いんじゃないかしら。
ウチに来たのはクモハタ テンシ様じゃなくて、ただの“える”なんだし。」
栗花落:「それもそっスねぇ~」
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~とある公園~
響太郎:それは仕事帰りの出来事だった。
える:「“おお友よ、このような音ではない。
我々はもっと心地良い、もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか“」
響太郎:「え?」
響太郎:公園の中を横切って家に帰ろうとしたら少女の声が聞こえた。
える:「えへへ。こんばんは。」
響太郎:少女は鍵盤ハーモニカを胸に抱いて笑う。
える:「もし、そこのお人。
良かったら一曲わたくしの演奏を聞いていきませんか。
リクエストなどありましたらお応えしますよ。」
響太郎:「ふふふ、そう……?
じゃあ──」
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END