12.精霊なる神さま ←新規掲載 2025..27

(要旨)

神は父・子・聖霊の三位一体として働かれる存在であり、聖霊は「助け主」として信仰者のそばに来て導いてくださる神の力そのものである。聖霊降臨によって、弟子たちは心を燃やされ、力強く福音を語り始め、教会が誕生した。聖霊は、人々の心を揺り動かし、使命に突き動かす働きをし、苦しみの中でも祈り求める者の中に宿り、正しい判断と勇気を与えてくださる神の霊である。

1979年 6月3日 聖霊降臨日 

   鹿児島復活教会にて


11.新しき歌←掲載 2025.6.29

(要旨)

●では、新しい歌とはどんな歌であろうか、新しく歌い直して、古い歌をも新しくするには、どうしたらよいだろうか。

「主にむかいて歌い、そのみ名をほめよ」

まず心の姿勢、神さまに向かって歌う、つまり、神さまにこの歌をさし上げます、という気持で歌うのである。

永遠にいます神さまにむかってささげる、このような歌は、決して古びたりすたれたりすることはない。

●「主の祈り」の精神であるこの祈りの心をもって、主に向かって歌い上げるとき、どんな歌でも、永遠に新しい歌になる。

主に向かって、魂をふるいおののかせ、心を燃やしながら、日ごとに新しい歌を歌いつづけたい。


1977年5月

えびの不動池のほとりにて


10.良き羊飼い←掲載 2025.6.16

(要旨)

●キリストさまを信じるということは、信仰ですから字のとおり、信じて仰ぐのです。キリストの教えを信ずるのではなく、キリストさまを信じて仰ぐのです。キリストさまの方にわたしの心を向けること、これが先ず出発点だと思います。

●主イエスさまを信じたつもりでも、命が燃えて動き出さないなら、それは信仰とは言えないものでしょう。そんなのはキリスト教的信念とでも言いますか、信仰はそういうものではないと思います。

●クリスチヤンとは、主イエスさまが生きるために必要な食べものを与えて下さるのだと信じて、あとについて行く羊の群れです。良き羊飼いに守られて生きてゆける羊の群れです。 一口で言えば、主イエスさまがいらっしゃらなければ、わたしたちは生きておれない者たちなのです。

●主イエスさまという良き羊飼いに、見守られ導かれる羊たちのように、すべてをあずけてついてゆくとき、豊かに命が与えられ、目があきらかになり、心が温かくなって、はつらつとしたそしておだやかな生き方ができるでしょう。

●主イエスさまが必ずいいようにして下さるのだと信じて、主イエスさまの呼ばれる方について行く暮らし、それが信仰生活ではないでしょうか。

●「父のわれを知り、われの父を知るがごとし」

そういう間柄なんだよと言われることを、そのまま有難うございます、どうぞそのように願います。とこう言って、主イエスさまにすべてをおあずけして、主イエスさまのあとについてゆきたいものです。

これが主イエスさまについて行く羊のゆき方ではないのでしょうか。どうかわがものと言って下さる方の羊として、今日を生きる者となられますように、おすすめいたします。

 

1985年4月21日

  復活後第二主日

  大口聖公会にて


9 受難週の日々

9-7.受難週第七日 土曜日 お墓の日←掲載 2025.4.16  

(要旨)

聖餐は主イエスさまの死を示して、その死に連らなるように人びとを招き導くものであります。すべての人が聖餐というこの恵みの方法によって救われるようにと招かれているのです。

 教会がその暦の中で、毎年受難週の祈りをし受苦日を記念するのは、万民のために備えられた救いのチャンスとして、主の苦難と十字架の死を示し、聖餐に連らなる機会を人びとに与えるためであります。それが伝道であり礼拝であることを忘れてはならないと思います。

 

1987年4月18日 復活前土曜日

大口教会にて


 受難週の日々

9-6.受難週第六日 金曜日 十字架←掲載 2025.4.5

(要旨)

「聖所の幕、上より下まで裂けて二つとなりたり」

と、記されてあります。人が自分の知恵と力によって幕を下から切り開いて神さまに近づくというのではなく、主イエスさまの十字架によってへだての幕が上から下にと切り裂かれて、救いの道が開かれたということです。

今もわたしたちが主の十字架を信じ受けいれるならば、へだての幕が神さまの方から裂かれて、神さまとの交わりに入れていただくことができます。

十字架の日を記念します受苦日の今日、このようなすばらしい恵みの仕方で救いの道が開かれたことを感謝し、キリストさまの十字架のみわざを賛美しつつ、そのみあとに従って生きてゆきたいと思うのでございます。

 

1987年4月17日 受苦日

大口教会にて


9.受難週の日々

9-5.受難週第五日 木曜日 最後の晩餐←掲載 2025.3.5


(要旨)

教会では、受難週の木曜日は聖餐の始められた記念日とされています。聖餐とは何でしょう。どのように考えたらよいでしょう。

 まず第一に聖餐という言葉、それは聖なる食事ということ。「聖」とは、神さまについて言うことばで、神さまのもの、神さまのために取っておきのもの、というような意味です。「聖餐」とは、神さまの食事すなわち、神さまが、主イエスさまによってわたしたちに下さった、そしてこれを食べなさいとわたしたちに命じておられる食事ということです。

 その意味で昔から「聖餐に天のふるまい」だとも言われてきました。天国のごちそう、天国の主食とでも言うべきものでしょう。

 それは主イエスさまか弟子たちにお与え下さった、一つのパンと一つの杯です、主イエスさまは一つのバンを分け与え、一つの杯をみんなにまわしてブドー酒を飲ませました。

 この天のふるまいに招待され、天の主食をいただいて生きるならば、あの晩、主が身をもって示し命じられた、互に足を洗い合う生き方ができるようになり、「おのれの如く汝の隣を愛すべし」との主イエスさまのみ言葉に従うことができるようになるのだと分かったでしょう。

 一つのパンと一つの杯、そして互に足を洗う奉仕、これが聖餐の意味だ、目的だ、と弟子たちは確信するようになりました。

 

1987年4月16日 復活前木曜日

大口教会にて


9.受難週の日々 9-4受難週第四日 ベタニヤの里で←掲載 2025.2.9


主イエスさまが十字架で死なれたあとで、この女の人(ベタニヤのマリヤ)は、自分の割った石膏のつぼ、注ぎかけたあの香油を思いかえして、その意義がどんなに深かったか、またどうして主イエスさまはあのようにお喜びになったのか、だんだん分かってきたでしょう。

 そして、それを福音の宣べ伝えられるところにはどこにでも語り伝えよとの主のみことばを、くりかえし味わっているうちに、その心の目は開かれたでしょう。

 わたしが主にさし上げたナルドの香油は、あの時流れて無くなってしまったのではない。もっと流し続けねばならない、油でない油を。

 というような証しに燃ゆる思いを深くされたのではないかと思うのでございます。

 

1984年4月15日 復活前水曜日

大口教会にて


受難週の日々  9-3受難週第三日 論争の日掲載 2025.1.13

 

 パリサイ派の人とヘロデ党の人たちがいっしょになって、税金の問題を出して、

 「みつぎをカイザルにおさむるはよきか悪しきか」

とたずねます。

主イエスさまはそれに対して、

 「カイザルのものはカイザルに、神のものは神におさめよ」

と仰せになりました。反対者たちはそれ以上攻める手が無いので、引き下がって行きました。それでこの税金の問題はもう終わったようです。

はたしてそうでしょうか?(これを含め4つのお話があります


今もなお、主イエスさまの温かいまなざしは、どのような片隅でも、誰からもかえみられず、見捨てられておるところでも、見捨てられず見守っていて下さることをありがたく思います。

 この火曜日、敵対するけわしい空気の動いているエルサレムの宮の片隅に、はからずも天の光を見せられた思いのする光景でありました。

 

1987年4月14日 復活前火曜日

 大口聖公会にて


9.受難週の日々 9-2.受難週第二日 月曜日-宮きよめ掲載 2024.12.13


「移りて海に入れ」と言えば山でも移る、と主イエスさまは仰せになりました。わたしはこれをただたとえ話と受け取ってはならないと思います。

 山が移ります。山が乗り越えられます。どんなふうになりますか、これは自分で祈って祈って、祈って、祈り抜いてみることですね。きっとわかります。山が移るのです。水をブドー酒にした主イエスさまです。海をしずめた主イエスさまです。その主イエスさまが山でも移ると言われたのですから、山でも移ることを信じて祈りましょう。

十字架の上で主イエスさまは「事終わりぬ」と言われました。これは山が移るどころのことではありません。

 「事終わりぬ」これで世界のすべての人びとのための救いが完成したという宣言でした。その「事終わりぬ」に向かって進まれる道でいちじくの木に目をとめられ、祈りについて、弟子たちに教えたもうた主イエスさまをしのびたいと思うのでございます。

 

1987年4月13日 復活前月曜日

  大口教会にて


9.  受難週の日々  9-1  受難週第一日 しゅろの日曜日掲載 2024.10.29


わたしたちは主イエスさまの涙を忘れてはなりません。今世界中どこでも、事が起こったらこれをぶっつけてこわすぞ、皆殺しにするぞと、恐ろしいものをもってにらみ合い、いがみ合っておる。いつ地球が吹っ飛ぶかもわからない、というようなそんな今というこのとき、イエスさまはこの嘆きをなさっているのではないでしょうか。

 「すでに近づきたるとき、都を見やり、これがために泣きて言いたもう」

 昔のエルサレムの都だけではありません。わたしたちの世界でしょう。

この主イエスさまのお呼びかけにどうしても応じようとしない、声をあげて叫ぼうとしない、腰を上げて動こうとしない石のような人びと、あるいはどうしても「かえりみの時」がわからない人びと、今というこの時を、神さまが共にいらして見ていて下さる「かえりみの時」として、受け取り得ない人びとのために、主イエスさまは、これでも受け取れないか、これを見てごらん、と十字架の上に手をひろげて示すために「み顔をかたくエルサレムに向けて」お進みになるのでありました。

(ルカ伝9・51)

 

1987年4月12日 復活前主日

  大口教会にて


7.荒野の試み←掲載 2024.9.1


わたしたちも神さまの前に折れかがむということを一番大事にして、これだけはゆずれない、これだけは妥協出来ませんという立場として、しっかりと自分の中に持つということは、悪魔に負けないように強くなることだと思います。

それからもう一つ、悪魔はどんなときにイエスさまをねらったのかということです。

 イエスさまがヨルダン川で洗礼を受けられたとき、神の霊が鳩のように下るのを見、

 「これはわが愛しむ子」

との神さまの声を聞かれたすぐあとのことでした。人間的にはすべてがうまくいって希望にみたされ、これから輝かしい新しい出発をなさる時でした。

 わたしたちは何事もうまくいって調子の良いとき、うっかりしないように気をつけていることです。

  主イエスさまが、勝ち抜いてこられた一つ一つをお手本として、わたしたちも勝つ者となれるための精進をはげみ、今年の大斎を実り豊かなものとしていただきたいのでございます。


1980年2月24日 大斎第一主日

 鹿児島復活教会にて


8.一番の歌←掲載 2024.8.13


伝道は学びではなくて一番大事な祈りを知らせることです。

ヨブが言ったように、

 「われ裸にて母の胎を出でたり、また裸にてかしこにかえらん」 

(ヨブ記1・21)

その裸でかえるときに、ただ一つ持ってゆくものがあります。生まれたときからいただいたもの、一生大事に使っていたもの、それは祈りです。

 「わたしの祈りをお聞き下さい」

祈りを神さまの前に差し出します。それは天国のとびらを開くかぎです。

 「いまわのきわには、父の家のみ門の開くる合言葉」

生まれてから死ぬまで、わたしの一番大事なのは祈りです。それは神さまのみ国まで持ってゆけるもの、そして神さまの家の門を開くかぎです。

 この世で終わりになって声が出なくなっても、祈りが終わりになるのではありません。その声の出なくなったわたしを神さまの方から声をかけて下さるのです。その声に支えられ乗せられて、天国の門を入ってゆくのです。

 お祈りとはそういうものでしょう。わたしの一番大事なお祈りを、一番大事にしてゆきたいものです。

 

1988年2月28日 大斎第二主日

  大口教公会にて

 

6.大斎始日の祈り←掲載 2024.7.7


 わたしたちはそれほどの悲しみを、神さまに与えているのだということを知って、申しわけないことだ、どうぞおゆるし下さいというお祈りをしましょう。というのが大斎始日のこのお祈りだと思います。

 どうか今年の大斎節には、

 

 「願わくはわれらのために、新たなる悔ゆる心を造りたまいて」

 

と、日ごとに新たな悔いを、神さまに申し上げてお赦しをいただきながら進んでゆきたいと思うのでございます。

 

1988年2月17日 大斎始日

 大口聖公会にて


5.愛のうた←新規掲載 2024.6.9


どうか今年の大斎節中に、わたしはどんな断食をして、その愛を身につけましょうか。先に申し上げましたように、コリント前書十三章を毎日くりかえし読んでゆく仕方で、この愛を身につけるという方法もあるでしょう。しかし、これは一つの例であって、もっとよい断食の仕方があるかもしれません。それぞれ自分に適した断食を工夫してつとめ、

 

「もろもろの徳を全うする帯である」愛、

「愛なき者は生けるとも死にたる者と認めたもう」

 

という命である愛を、養い深めていただきたいと思うのでございます。

 

1982年2月21日 大斎前第一主日

 鹿児島復活教会にて

 

4.神さまのぶどう園 ←掲載(2024.5.6)


神さまは、若い人には出来ない六十には六十の、八十には八十の、九十には九十にふさわしい仕事を用意して下さいます。

 八十、九十の誕生日というのは、三時だ五時だという時間にぶどう園に雇いこまれた時だと思ったらどうでしょうか。新しい祈り心、新しいうた心、そして感謝をもって今日から元気を出してやって下さい。

 「頼みますよ西さん」

 

1974年2月13日

 マリヤ西 ハツさん誕生日

  重富集会にて

3.わたしの日をかぞえる←掲載(2024.4.9)


「知恵の心を得しめたまえ」

これはかしこくならして下さいという意味ではないのです。神さまのお気持がわかるようにして下さいということです。この詩は素晴らしい詩ですねえ。

「知恵の心」

を得たら、マイナスとばかり思っていたことが、プラスだったということがわかり。感謝の数がもっと増えてゆくのです。

 お誕生日を迎えましたこの時、長い生涯をお守り下さったことをまず感謝いたしましょう。神さまのお守りの中で暮らしている一日、一日ですからね、良い日だけでなく悪い日もしっかりと、感謝と懺悔とでかぞえていって下さいねえ。

 次の誕生日までの一日、一日を、大事にかぞえ整えて神さまの帳面に栄光の日、と書き記されるようにどうかかぞえ上げて下さい。

1974年1月9日

 ナオミ中摩つやさん誕生日

       重富集会にて


2.クリスマス掲載(2024.3.11)


クリスマス、それは光の君が、馬小屋の中にあのようなお姿でか生まれになって、わたしたちの間に照り始めたのです。照り始めたその光の君が、十字架にまで照り続け、輝き続けて、あなたもこうしてごらん、もっと明かるくなりますよ。あなたもこうしてごらん、もっと生き生きとしてくるのですよ。と招いて下さる。それがクリスマスの主の招きだと思います。

どうぞみなさん、それぞれの仕方で燃えて下さい。そして生きている限り、命の終わるまで、燃え続けてください。

クリスマスはわたしたちに、

 「汝らの光を人の前にかがやかせ」

との、主のみことばを、思い出させるときではないのでしょうか。

 1982年12月26日

  降誕後第一主日

  鹿児島復活教会にて


1.聖書の日曜←掲載(2024.2.14)


神さまと人との間にあって、一番大事な愛がわかり、愛が受け取れ、愛に反応ができるような、そういう力が与えられますように。これが聖書を読む時の究極の目的なのだとわたしは思います。

「我らを教うるために聖書をしるさせたまいし主よ、願わくは、これを聞き、これを読み、ねんごろに学び、かつ味わいて魂の養いとなさしめたまえ。」

どうかこの祈りをくりかえしながら、聖書に親しんで、魂を豊かに養っていただきたいのでございます。

1987年12月6日

  降臨節第二主日

大口教会にて


はじめに←掲載(2024.1.22


故ルカ岩坪哲哉牧師によって故村上先生の2冊目の説教集発行に当たってお寄せただいた内容です。故村上先生の説教が聖書の言葉が生まれかわった透明な輝きとして顕われたことや村上先生の一回一回の説教はその時すべてを賭けて覚悟あるものであったことなどの記載があり説教にかける気迫を感じることができます。

また、この原稿を作成にあたり故岩坪牧師と故リベカ木尾(このえ)姉の大変なご苦労があったことがわかります。