9-2.受難週の日々

受難週第七日 土曜日 お墓の日


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 きのう金曜日の午後三時、主イエスさまが大声を出して息絶えたままいました。そして夕方から安息日が始まります。それは過越の大祭が始まる時であります。それで十字架をそのままにしておくわけにはいかないので、三つの十字架を片付けることになり、まだ生きていた二人の盗人たちのひざを折って殺し、主イエスさまのところに来てみますと、もう息が絶えておられたのでひざを折ることはしなかった。しかしローマの兵隊がやりを突きさして、イエスさまの胸から血潮が流れ出ました。こうして十字架が終わりました。

 そのとき番をしていたロマの百卒長が「本当にこの人は神の子だったなあ」と感嘆の声を出しております。

 十字架の後かたずけをする時に、身分の高い議員であり、神の国を待ち望んでいたアリマタヤのヨセフという人が来ました。この人が誰であったのかは、はっきりわかりません。いろいろと想像をたくましくする人たちは、あるいはこれはヨハネ伝の三章に記されてある、夜そっとイエスさまのところに訪ねて来て、神の国の話を聞いたあのニコデモではなかっただろうか、と想像しておりますが、それは確かな証拠は何もありません。

 誰であったか分からないが、アリマタヤのヨセフというこの人は、神の国を待ち望んでいたので、「神の国は近づけり、汝ら悔い改めて福音を信ぜよ」、という主イエスさまのお呼びかけや、神の国のたとえ話を聞いて心を動かされ、自分が待っていた神の国がこの主イエスさまによってどのように実現するのであろうか、とひそかに期待をかけておった人であろうと思われます。

 それで今主イエスさまが十字架の上でお死にになるのを見て、深く心を揺り動かされたことでありましょう。今まではおおっぴらにこのイエスさまに従って行くということをしなかったアリマタヤのヨセフは、自分のために造ってあった新しい墓を提供して、そこにイエスさまの御遺体を納めようということを申し出ました。主イエスさまの十字架の死がどれ程このアリマタヤのヨセフの心を強くゆすぶり、根底から動かし新しくかえたかということがわかります。

 今この時にそんなことをしたら、それこそ当局者たちからにらまれます。自分の墓を提供するなんて、あいつもナザレのイエスの奴輩(やから)だろうとにらまれることはわかりきっている、それにもかかわらず、こういう申し出をした。これはイエスさまの死の有りさまが、よほど強くこの人の心を打ち、勇気づけたためであろうと思われるのです。

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 そこでその墓にとりあえず納めます。もう過越の祭りの始まる時間が迫っていましたので、御遺体をそこに運びこむことだけがやっとのことでした。

 それを見ていたマグダラのマリヤと小ヤコブとヨセとの母マリヤ、サロメこの人たちは、安息日が明けたらすぐに お墓にお参りして、充分なこともしないで、ただ木から取りおろしてそこに納めるだけしかできなかった主イエスさまのみ体を、きれにきよめましょうと、女の人たちの優しい思いをもって、香油をととのえて準備をし安息日の明けるのを待っていました。

 この女の人たちは、主イエスさまのみ体に、油をぬってきれいにして眠っていただきたい、という優しい敬虔な思いいっぱいでこの日をすごし、夜の明けるのを待っていたというわけです。

 受難週の日々を記念して、ごいっしょにこの聖週を守って受苦日を迎え、今日は復活前日、お墓の日となりましたが、教会ではどんなことをするでしょうか。

 教会にはいろいろな習慣がありますが、その習慣の中で聖週に関係のあるものはどんなになっておるでしょうか。祈祷書をごらんになるとあちこち注意書があります。たとえば聖餐式で、今の祈祷書では一番初めの所に大栄光の頌(しょう)を歌うことになっていますが、その前に「大斎節には大栄光の頌は歌わない」、と書いてあります。受苦日には大栄光の頌を歌わないだけではなくて、福音書を読むときにはじめに「主の栄光あらんことを」終わりに「主に感謝したてまつる」という習價になっていますが、これも言わない、そして、その仕方は復活前日も受苦日と同じにすると書いてあります。ではその受苦日の注意書はどうかと言うと次のように記されてあります。

 

 

受苦日

 この日は早祷嘆願につづいて特祷・使徒書・福音書までで終わってもよい。福音書の前後の会衆の言葉は用いない。

(祈祷書二五八~九ページ)

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 これによれば、受苦日と今日の土曜の礼拝は早祷式と嘆願をし、特祷・使徒書・福音書までで終わってもよいということです。ですから聖餐式をしなくてもよいというのです。したがって祝祷もないわけです。そういうしり切れとんぼのような仕方の礼拝が受苦日、そして今日復活前日の礼拝というわけです。

 あるときわたしはどうしてそんな省略をするのかと、ある人にたずねました。なぜ受苦日と復活前日は聖餐をしないのですかと言ったら「その日はイエスさまが十字架にかかった日だから聖餐式はしなくてもよい」と言いました。それでは復活前日は?とたずねたら、その日はイエスさまは墓にはいっているのだから、イエスさまのお体とおん血は受けられないのだと妙な説明をしてくれました。どちらの説明もばからしくナンセンスのようで納得できませんでした。

 そのほかにもまだ変なことがあります。たとえば受苦日とその翌日即ち今日復活前日になりますと、教会は黒一色になります。祭壇や説教台などに掛けてある聖布も司式者の祭服ストールも黒色のものになります。勿論お花はありません。そして栄光の頌のような歌はうたわないでしめやかにするのです。

 この仕方どうも変だと思いませんか。教会の長いしきたりでそういうことになっている、昔からの仕方だというのかもしれませんが、それがおかしいとわたしは思います。イエスさまがお死になったというとき、それは普通のお葬式とは違うのではないでしょうか。しめやかにして何もかにも真黒にして、歌も歌わないで悲しい顔をしている、それはイエスさまの死を記念する仕方ではないと思います。

 聖週の金曜日を受苦日、苦しみを受けた日、と言っておりますが、これを英国聖公会ではグッドフライデーと言っております。苦しみを受けた日とは言わないでグッドフライデー、よい金曜日、これはまことに好い呼び方だと思います。

 救い主がわたしたちのために、救いのみわざを成しとげて下さった日ですから、たしかにこれはよい金曜日であります。その良い金曜日に、なぜなにもかにも真黒にして、しんきくさいことにしてしまうのかそこが理屈に合わない。グッドフライデーですから良い金曜日にすればよいのです。この日こそ主イエスさまがお死にになったことを、みんなで高らかにうたい上げるべきではないでしょうか。

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 イエスさまの死を悲しい死だとして、真黒い布をかぶせて十字架のような光り輝くものもおおいかくして、受苦日を記念するという仕方、それは信仰の無い人の仕方のまねでしよう。

 死というものに対して望みが無い、墓に入れられたらどうにもならない、万事終わりだというような、悲しく淋しい考えを持っている人たちの仕方と同じでしょう。それはキリス卜教にふさわしい仕方ではありません。それは信仰の無い人たちの仕方に妥協しその真似をしたものと言うべきでしょう。そんなことをしないで堂々と主イエスさまの死をかざして、イエスさまの十字架の死をたたえ上げてゆくこと、これがキリスト教の信仰の仕方だと思います。

 大斎節に花を供えないとか、あるいは祭壇に黒い布をかぶせるなどいうのは、一種の宗教的センチメンタリズムではないでしょうか。そうすることによって神さまのみ栄えがもらわれるのではなくて、自分たちの気分を満足させようとすることです。自分たちが今イエスさまがお死にになったというお命日を記念するような気分になる、宗教的センチメンタリズムです。

 信仰はそんなものではありません。この死をも突きやぶってゆく、何も不吉なものではない、そしてすべてのものをよしとして押し通してゆこうとする、それが信仰だと思います。

 教会の習慣となっているさまざまなやり方、ことに大切な受苦日に聖餐をしないで、しり切れとんぼのような礼拝をするとは、まことにどうもおかしな、だらしないこと、神さまに対して失礼な、おそれ多いことだと思います。しり切れとんぼ式の礼拝をすべきではありません。礼拝は神さまのためのおつとめです。神さまのみ栄えのためです。そうであるならば、大切な受苦日はなおさら立派に聖餐を守って、キリストさまのおん体とおん血にあずかり、キリストさまと一体となってゆくその姿勢を整えるべきではないかと思います。

 昔あるいくさのときに大将が戦死しました。ところがそのことが敵に知れてはまずいので、その大将を生きているかのように武装させて戦車に乗せ、それをかついで敵陣に攻めこんで勝利を得たことがあったそうです。

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 昔のさむらいたちは大将の屍をかついで戦いました。信仰の勇者であるはずのわたしたちは、受苦日を迎え受難週を終わろうとしている今、今日はキリストさまの居ない日ですとか今日はお墓の日ですとか言って、教会を黒衣装にしてしり切れとんぼ式な礼拝をしてよいでしょうか。礼拝も伝道も、キリストさまの死を人びとに示すことです。

 聖餐について聖パウロは次のように教えています。

 「汝らこのパンを食し、この杯を飲むごとに、主の死

 を示してその来たりたもう時にまで及ぶなり」

 (コリント前11・26)

 

 聖餐は主イエスさまの死を示して、その死に連らなるように人びとを招き導くものであります。すべての人が聖餐というこの恵みの方法によって救われるようにと招かれているのです。

 教会がその暦の中で、毎年受難週の祈りをし受苦日を記念するのは、万民のために備えられた救いのチャンスとして、主の苦難と十字架の死を示し、聖餐に連らなる機会を人びとに与えるためであります。それが伝道であり礼拝であることを忘れてはならないと思います。

 

1987年4月18日 復活前土曜日

大口教会にて

 

 

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受難週の日々  あとがき  

                                        リベカ木尾京子

 

 今回のものは、村上先生が最後に働かれた大口教会に大事に保管してある何年分かのテープの中から、1987年の受難週のものを使わしてもらったものでございます。

 これは村上先生が司祭として神さまに捧げられた、五十回の受難週聖餐式のお話の中で四十九回目のものであったということになります。

 先生にとって五十回目の受難週となった一九八八年、五十回の受難週の日々を一日も休みなくおつとめを果たされたことへの、感慨無量のか気持で作られた歌を皆さまに紹介します。

   

    1989年 9月

 

 五十年一日(ひとひ)もおちず

 受難会(え)のミサの祈りぞ

 かしこかりけり

 

※これは小冊子の表紙ごとにそのまま入れたものです。


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