29.水をぶどう酒に


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 新約聖書の中に、水がぶどう酒になった話が、次のように記されてあります。

 

 三日目にガリラヤのカナに婚礼ありて、イエスの母そこにおり、イエスも、弟子だちとともに婚礼に招かれたもう。

ぶどう酒尽きたれぱ、母、イエスに言う

「かれらにぶどう酒なし」

イエス言いたもう、

「女よ、我となんじと何のかかわりあらんや、わが時はいまだきたらず」

母、しもべどもに

「何にてもその命ずるごとくせよ」

と言いおく。

かしこに、ユダヤ人のきよめの例に従いて、四、五斗入りの石がめ六つならべあり。

イエスしもべに

「水をかめに満たせ」

と言いたまえば、口まで満たす。

また言いたもう

「今、くみ取りて、ふるまいがしらに持ち行け」

すなわち持ち行けり。

ふるまいがしら、ぶどう酒になりたる水をなめて、そのいずこよりきたりしかを知らざれば(水をくみししもべどもは知れり)花むこを呼びて言う、

「おおよそ人はよきぶどう酒をいだし、酔いのまわるころ劣れるものをいだすに、なんじはよきぶどう酒を、今までとめおきたり」

イエスこの第一のしるしをガリラヤのカナにて行ない、その栄光を現わしたまいたれば弟子たち彼を信じたり

 (ヨハネ伝福音書2・1~11)

 

 水がぶどう酒にかわった。主イエスさまはこんな不思議な仕方でめぐみのみわざを行い、御自身が神の子、救主であるということをお示しになった、これはまことに驚くべき栄光の奇跡であると、この物語をそのままに事実としてありがたく信じようとする人もあるでしょう。

 しかし、それとは反対に、水がぶどう酒に変わる、そんな非科学的な不合理なことがあるものかと、この物語の史実性を否定するか、あるいはそれが事実であるかないかは問題とはしないで、ただこの物語を何かのたとえ話と見ようとする人々も少なくありません。

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ヨハネ伝記者は、この奇跡は主イエスさまのなさった「第一のしるし」だ、と言っています。水がぶどう酒になったのは、わたしたちになにかあることを指し示し、注意させて教えるための「しるし」だ、というのであります。

 水がぶどう酒に変えちれたように、古いユダヤ教という、水のように味気なくなった宗教が、キリスト教すなわち主イエスさまの福音という、新しい信仰によって取ってかわられた、古いユダヤ教という律法の宗教がすたれてキリスト教という新しい信仰が起った、ということを示すために、たとえ話または説教の中の例話のようなものとして、すなわち「しるし」として、この奇跡物語が語り伝えられ、書き記されたというわけであります。

 たとえば、婚礼のお祝の最中にぶどう酒が無くなって、どうしたちよいかと困ったマリヤは、指導力を失い、人びとを救いに導く力の無くなったユダヤ教を指しており、ユダヤ教のきまりによって潔めの儀礼をするために、水を入れておく石がめは、六つもならべてあるが空になっていた、というのは、ユダヤ教には本当に人々の心を清める力はもう無くなっていた、ということを示すものでありました。

 ヨハネ伝の記者は、この奇跡物語で、水がぶどう酒に変ったか変らなかったか、という事実を強調して論じようとするのではなく、そのできごとが「しるし」となって指し示すところのことを、読者に注意させようとしています。彼は、水がぶどう酒になったことは、ある大事なことの「しるし」であるとしていますが、しかし、「しるし」だからそれは事実ではなかった、作り話あるいはたとえ話だと言っているわけではありません。

 自然科学的に、または普通一般の道理で説明することのできない奇跡物語を説明しようとするとき、聖書研究の専門家や学者たちの多くは、それが科学的であるか合理的であるか、と考察して、とうてい起り得ないことだと思えば、それは作り話だ、事実ではないと断定して、そこからいろいろな学説を立て、解釈をしようとするようですが、これはいかがなものでしょう。

 科学的とか合理的というのは、言いかえれば、人間が考え理解し納得できる法則に合っているということでしょう。人間の考えや経験に合っており、「なるほど」と合点がゆくなちば、科学的合理的ということになるでしょう。

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その科学的あるいは合理的という基準に照らしてみれば、水がぶどう酒になるなんて「なるほど」と受け取れない、そんなことは人間の道理に合わない、真実ではない、だからこの話はほんとうにあったことではなく、何かあることを説明するために作り出されたたとえ話だ、と言いたくなるのでしょう。

 しかし、このような考え方に対して、わたしは「待った!!」と声をかけたいのです。

 鹿児島では、カライモ(さつまいも)からしょうちゅうができます。しかし鹿児島の人はだれも「あのゴロゴロしたカライモがしょうちゅうになるはずはない」とは言いません。人はカライモをしょうちゅうに変えたり、米つぶをお酒にしたりします。それなのに神さまが主イエスさまによって、水をぶどう酒に変えたといえば、それはありえないことだ、信じられないという。人間はカライモをしょうちゅうにするくせに、主イエスさまが水をぶどう酒にすれば文句をいう。これはずい分自分勝手でおかしいではありませんか。

 「いやおかしくない」と答える人もあるでしょう。芋がしょうちゅうになり、米が酒になる。それはちゃんと科学的な法則に従って変化したのだが、水はそのような変化はしないのだ、と賢そうに言うかも知れません。

 しかし、そこです。そこに問題があるでしょう。それは科学的とか合理的とか言う人間の道理に、神さまを当てはめようとする仕方ではありませんか。神さまには、神さまご自身のお考えと仕方がある、人間の道理をこえた神さまの道理があり、神さまのご都合があるでしょう。

それによって水がぶどう酒にされるのであれば、人は人間の考える合理的などいう道理は引っこめて、シャッポを脱ぎ、つつしんで神さまのなさるみわざを見つめ、それに対して「なるほど」を言うべきではないでしょうか。

 主イエスさまは水をぶどう酒にお変えになりました。ヨハネ伝福音書の記者は、そのことを主イエスさまのなさった一つの出来事として記し、それを「第一のしるし」として解釈して私たちに告げています。彼は、水がぶどう酒になったというその事実をありがたがっているのでも、疑ったり否定しているのでもありません。彼は、水が変化してできたぶどう酒を、ただぶどう酒として見ているのではなく、「しるし」が指し示すところのことを見つめながら、この奇跡物語を書き記したのでした。

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 人を救にみちびく力を失って、古い律法と祭儀の宗教になってしまったユダヤ教のかわりに、イエスさまによって救われる、福音の新しい信仰が起ってきた、それは、

 水が変って与えられた、かおり豊かなぶどう酒のようなものである。この信仰によって生きるならば、今でもあなた自身に、またあなたの身辺のあらゆることにおいて、水がぶどう酒に変るようなことが起ってきます。と教えすすめるためにヨハネ伝の記者は、この奇跡物語を「第一のしるし」として書き記したのでありました。

 では、どのようにしたら私たちの毎日の生活の中で、水がぶどう酒に変るようなことが起るでしょうか。

 ガリラヤのカナでのあの出来事に、目を向けてみましょう。

 ぶどう酒尽きたれぱ、母イエスに言う。

  「彼らにぶどう酒なし」

イエスさまのお家と、この婚礼のあった家とは、親戚でマリヤさんはお手伝に来ていたのでしょう。それでマリヤさんはぶどう酒が残り少くなったことを知って心配していたでしょう。そこヘイエスさまが弟子たちといっしょにお祝いにお出になります。

 すると、お母さんのマリヤさんが出てきて、イエスさまに、 かれらにぶどう酒なしと言います。早くヨセフに死に別れたマリヤさんはふだんからイエスさまを信頼し、何でも相談していたと思われます。このときのマリヤさんの短い言葉に注意して下さい、ただぶどう酒が無い、との一言、しかしそれは深い信頼をこめての一言です。ぶどう酒が無いからどこかで探してきておくれとか、これ以上人数がふえると困るから帰って下さい、とかいう頼みのことばではありません。これだけ言っておけば、よく分って下さる、きっといちばん好いようにして下さると信じて「かれらにぶどう酒なし」と現状を報告したのでした。

 この短い言葉の中に、祈りの姿勢の基本が示されていると思います。

 まず第一に、主イエスさまを信頼しきることです。主イエスさまは、私の祈りをきっとお聞き下さる、そしてきっといちばん好いようにして下さる、と信じて祈ることです。

 そして次には正確に現状を報告申し上げることです。

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どうかすると報告はしないで注文ばかりするお祈りがあります。現状はあまり報告もしないで、神さま、こうして下さいとかあゝして下さいと祈る、まるで、お医者さんに行って、自分の健康状態をよく話して診察を願うことはしないで、どんな注射をして下さいとかどんな薬を下さいとお医者さんを指図する患者のように、神さまを自分の思い通りに働かせようとするかのような祈り方をする。これはよい祈りの姿勢ではないでしょう。

 マリヤさんのことばに主イエスさまは、お答えになりました。

 

女よ、我となんじと何のかかわりあらんや、

我が時はいまだきたらず

 

お母さんに向って「女よ」という呼びかけは、日本語ではずいぶん不自然に不作法に感ぜられますが、この語にはもともとそんな感じはなく、ただ「お母さん」と呼ぶのと同じ程度に使われた言葉ですから、何もお母さんに対して失礼ということにはならないのですが、問題はその次ぎ「我と汝と何のかかわりあらんや、我が時はいまだ来たらず」です。これはどういうことでしょうか。

 これについていろいろ学者の説明がありますが、これは「それ、即ちぶどう酒のなくなったことが、わたしとあなたにとって何の関係があるか」という意味だという説もあります。

 このことについて私の考えとあなたの考えは同じでない、これは私のかかわることでもない、あなたのかかわることでもない、あなたやわたしよりも先に、まず神さまのかかわりたもうべきことた。だから今一歩引きさがり、この問題から手を引いて白紙の状態の気持で神さまにおまかせし、神さまの示したもう「時」を待つべきである、というような意味であるかと思われます。

 つまりマリヤさんの願いはかなえられず、「我が時はいまだきたらず」とおあずけにされた形であります。

 これがマリヤさんの切なる願いに対する主イエスさまのお答えでした。願いがかなえられなかったという形でちゃんと答が与えられたのでした。私たちの祈りにはこのように、あなたのことでもなく私のことでもない、神さまにおまかせして、神さまの示したもう「時」を待ちましょうという仕方が大切であります。そのとき、答なき祈りが、実は答えられた祈りになるのであります。

 マリヤさんは、自分が願い期待していたような答になっていないイエスさまのお答を、しっかりと受け止めて、しもべたちに、

 

 何にてもその命ずるごとくせよ

 

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と言いつけておいてその場を去りました。これも大切なことでした。何でも命じられたことはしましょうと、従順に主にしたがう姿勢を持っていなければ祈りは聞かれません、神さまの恵はあたえられません、奇跡はおこりません。

 お母さんのマリヤさんが家の中へはいって行ったあとで、主イエスさまはしもべたちに言われました。

 水をかめに満たせ

 その家の前には、来客が家に入るとき、ユダヤ人の習慣として潔めの礼式をするために、四、五斗入りの大きな石がめが六個置いてありました、しかし、その石がめは、多くのお客さんが使ったあとで、どれも空になっていました。しもべたちは、そのかめの口までいっばいに水を入れました。               

 もうあとお客さんば来そうにもないのに、なぜまたかめに水をくみ入れねばならないのだろうか、かりにまだおくれて来る人があるとしても、石がめにいっぱい水を入れる、それまでにする必要ばなさそうだが………というような不平がましいことは考えもせず口にも出さず、しもべたちば、すぐに水を汲み、石がめの口まで満たしました。

 まことに恥ずかしく残念なことながら、わたしたちは主のみことばを拒み断わるために「何故・・・?」を言い、みことばの割引きをしようとします。たとえば

 

 人もし汝の右の頬(はほ)をうたば左をも向けよ

 (マタイ伝5・39)

 なんじの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ

 (マタイ伝5・44)

 なんじらの天の父の全きが如く、なんじらも全かれ

 (マタイ伝5・48)

 

このような主イエスさまのみことばに対して、わたしたちは不信仰の「何故・・・?」を言わず、また「そこまでしなくとも、よいだろうに」と割引きのおゆるしも願わず、そのままお従いすることができるでしょうか、石がめに水を汲み入れたしもべたちは、このことを私たちに問いかけ反省をうながしているようです。

イエスさまから次のように言いつけられました。

 

 今くみ取りて、ふるまいがしらに持ち行け

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 なあーんだ、かめに水を入れ終ったらそれを料理場に持って行けと言う。そんなことなら石がめに入れず、はじめから料理場に運ばせればよいのに、なぜこんなことをするのだろう、時間と労力の無駄でばないか、と言いたくなるようなことでした。しかしマリヤさんから、「何にてもその命ずるごとくせよ」と言いつけられていたしもべたちは、すぐにその水を料理場へ持って行きました。するとそれがぶどう酒に変わっていました。しかも、それまでに出されたものよりは、ばるかに良いぶどう酒になっていました。

 「今くみ取りて……」と命ぜられたしもべたらが、その「今」という主イエスさまのお言葉をしかと受け止めて、すぐに水を運んだことに注意したいと思います。主イエスさまが「今」と仰せになるその「今」に答えずそれを無視したり断わったりする人が少くありません。

 「わたしは入学試験を受けねばなりませんから、今キリスト教など考えるひまはありません」とか「今わたしは仕事が忙しいから、定年になって暇になったら教会へ行くつもりです」とか「今わたしば子育てで聖書を読む時間がありません」などなど。主イエスさまの「今」というお呼びかけに対して、しりごみをし、いろいろと言いのがれをする人たちがたくさんいます。しかし、「今」

というお呼びかけに答えてすぐに立ってお従いするならば、いつどこででも、水がぶどう酒に変わる奇跡、いなそれよりももっとすばらしい恵のみわざを見ることができるでしょう。

 現代人は、なるべく時間と労力の無駄を省き、能率的に働いて、多くのよい結果を出そうとします。科学的に合理的に綿密に計算し設計されたその行き方では、確実に水もぶどう酒になりそうであるが、実際はその反対でぶどう酒が水になるように、人間生活は味けなく単調な水のような生活に変わりつつあります。

 ところが神さまは、人間が考えて無駄だ、浪費だ、と思うような仕方で、水をぶどう酒に変えられました。水を石がめにくみ入れて、さらにそれをくみ出して調理場へ運ぶ、神さまは、人にこのような非能率的なまわり道をさせて、水をぶどう酒にお変えになりました。

 わたしたちは、ときどき思いがけず、望ましくないことをせねばならないことがあります。予想に反して、入学試験に失敗し、浪人生活をするとか、やっと仕事が調子よく行き始めたのに、突然病気で長期療養せねばならなくなるとか。そんなときがっかりしたり、あせったりしないことです。今、まわり逆を歩かされているのだと思ったらいかがでしょう。

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 神さまが私たちに歩かせて下さるまわり道は、人間が考え作り出す能率的な近道よりは、もっと早くて確かな道であることを忘れてはならないと思います。

 ガリラヤのカナで水がぶどう酒に変えられた、このふしぎな恵のみわざは、今もなお、いつまででも、私たちの毎日の生活の中に、絶えずくり返えされ、実現することを疑いません。しかし、そのためには、私たち自身が、この奇跡物語に現れた聖母マリヤや、水をくみ運んだしもべたちにならって、信仰の道を励まねばならないと思います。

 奇跡は神さまだけがなさることではありません。神さまのお働きに対して、人が信仰をもってお答えし努力するとき、いつどこででも、水がぶどう酒に変ったような奇跡が起り、神さまの御栄光が現われるでありましょう。

 

 1984年1月15日

顕現後第二主日

 大口聖公会にて