30.慰めの子バルナバ

 

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 今日、六月十一日はバルナバという人の記念日になっています。この人のことは新約聖書の中の使徒行伝(使途現行録)という書や聖パウロの手紙によって知ることができます。

 主イエスさまが十字架にかかってお死にになり、復活なさってのちまもなく、主のご復活を信じてはげまされ勇気づけられた弟子たちは、主のよみがえりを証しし宜べ伝えるために、教会としての活動を始めました。しかし、そのはじめのころ集まっていたエルサレムの信者たちの多くは、社会的にも経済的にも微力で貧しく、生活に困っていました。そのときバルナバは自分の畑を売り、その金をエルサレムの人たちの救援のために寄附しました。(使徒行伝4・36)

 このバルナバという人は、クプロ島(キプロス島)の出身のレビ人でヨセフという名前でしたが、エルサレムの教会の人たちからはバルナバと呼ばれていました。(バルナバ)とはどういう意味かはっきり分らないのですが、そのころの教会の人たちは、それは(慰めの子)という意味だと思っていたようです。それは人々が敬愛の気持をもってつけた愛称であったのでしょう。

 バルナバは以前クプロ島に住んでいたので、保守的なパレスチナ本土のユダヤ人だちとは違って、ギリシヤ的な広い自由な考え方のわかる人でした。それゆえに、彼は、エルサレム教会が保守的ユダヤ教的な傾向になるのを防ぐためには大きな助けとなった人でしょう。

 クリスチャンたちを迫害してダマスコヘ向ったタルソの若者サウロ(のちにパウロと改名した人)が、途中で回心して信者になりエルサレムに帰ってきたとき、教会の人たちはみんな、迫害者であった彼が信者になったとは信じないで恐れていました。そのときバルナバはサウロを温かく迎え、使徒たちのところに連れて行き紹介して、弟子たちの交わりの中に入れてやりました。

 そのころ、主イエスさまを信ずる人たちがアンテオケに行き、そこでギリシヤ人の間にも福音が宣べ伝えられ、多くの人々が信仰に導かれました。それでアンテオケでは、保守的なエルサレムの教会とはちがって、ギリシヤ的進歩的で自由な傾向の信者の数がふえてきました。そのうわさがエルサレムの教会にも聞こえてきたのでその実情をしらべて、信仰についての正しい助言を与え励まし指導するために、エルサレムから人を派遣することになりました、そのときバルナバが選ばれて行きました。

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 彼はそのとき、アンテオケ滞在中に足を北にのばしてタルソの町まで行きます。タルソはサウロの故郷でした。サウロはクリスチャンになったのら、信仰上の誤解や危険をさけて、この町へ帰っていたのでした。

 バルナバは、アンテオケのようなギリシヤ的考え方の強い教会では、自分よりももっと理綸的かつ行動的なこの若者サウロの助力がぜひ必要だ、と考えたので、タルソに行き、サウロを説得してアンテオケに連れてきて、その教会の人々との交わりに入れ、それからしばらくの間そこでいっしょに伝道活動をして、エルサレム教会の窮乏を救うために救援金を集め、それを持ってサウロとともにエルサレムに行きました。そこで任務を終ったとき、彼はいとこのマルコを連れて、またアンテオケに帰ってきました。(使徒行伝12・24)

 それからしばらくしてバルナバとサウロとマルコの三人は、アンテオケの教会の人々の祈りにはげまされて、バルナバの故郷クプロ島から始めて小アジアの地方まで伝道に出かけました。クプロ島でサウロはバウロと名前を変えました。これがいわゆるパウロの第一回伝道旅行でした。クプロ島から船出してバンフリヤのペルガに来たとき、マルコは脱落して一人アンテオケヘ帰って行きました。

 その後バルナバとパウロはいっしよにエルサレムに行きました。それはユダヤ教的傾向の強い保守的なエルサレム教会の指導者たちに、伝道旅行の報告をし、異邦人たちが福音を信じ救われることについての、誤解や妨げをなくするためでありました。

 バルナバは、このエルサレム会議の結果をアンテオケ、シリヤ、キリキヤの地方におる異邦人信者たちに知らせるために、またアンテオケに行きます。そのときエルサレムにいた使徒、長老たちからの紹介状の中につぎのように書かれてあります。

 

われら心を一つにし人を選びて、われらの主イエスキリストの名のために命を惜しまざりし者なる、我らの愛するバルナバ、パウロと共になんじらに遣わすことをよしとせり。 

(使徒行伝15・25)

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この紹介状によって、バルナバがパウロとともに生命がけで伝道したことが、エルサレムの人々の間に知られていたということがわかります。

 その後しばらくして、バルナバとパウロはこのまえ伝道したところをまた訪問しようと相談しました。ところがパルナバは、前のときのようにマルコを入れて三人で行こうと言ったのですが、パウロは、このまえ途中から脱落して帰ったマルコは連れて行かないと言い、二人の意見が対立し、激論になり、とうとうバルナバとパウロはわかれて別行動をすることになり、バルナバはマルコを連れて伝道に行きました。

 人々から「慰めの子」と呼ばれたほどやさしいバルナバが、マルコをまた連れて行くことを強く主張しパウロと激論までしたのは、一度の失敗のために有望な若者マルコを見捨ててはならない、未熟な若者をキリストさまのための忠実な伝道者になるように育て上げねばならないとの思いからであったのでしょう。それはバルナバの信仰から出た温かい愛のはからいであったでしょう。しかしまだバルナバのような信仰にまで達していなかったはげしい性格のパウロにとっては、バルナバの態度はあまりに温情的で骨無しのように思えて、どうにも我慢ならなかったことでしょう。

 

 バルナバとパウロは、言わばけんか別れのようになったのですが、それでもバルナバは、なおもパウロを愛し、マルコを愛し、その二人が仲直りをして伝道のためによい働きができるようにと取りなしたのでした。これはバルナバの信仰による寛容と忍耐、そして伝道の熱意によるものであったと思われます。

 バルナバという人は特に目だった人ではなかったかも知れませんけれども大切な人でした。彼は自分の財産を売り払って教会の人々を助けたり、アンテオケの教会に呼びかけ、義援金を集め、それをエルサレムに持ってきて教会を助けるというようなことをしました。しかし彼はそのような物質的な方面で教会を助けただけではなく、エルサレムの教会とアンテオケの教会、さらにまた異邦の国々の教会との間の橋渡しをする役目をしました。

 もしもバルナバがいなかったならば、キリスト教の伝道はあのように早く、通い国々にまで進展することはできなかったかも知れません。エルサレムを中心に始まったばかりのユダヤ的色彩の濃い保守的なキリスト教が、進歩的な異邦人の社会に受けいれられ信じられるのは、容易なことではありませんでした。そこのところをうまくつなぎ橋渡しをしたのがバルナバであったと思います。

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 もしもバルナバが温かい手をさしのべて橋渡しの働きをしなかったならば、タルソの若者サウロは、異邦人伝道の大使徒パウロとなってあのすばらしい海外伝道をすることはなかったかも知れません。ですからバルナバはキリスト教会の歴史の中でたいへん重要なはたらきをした人であったと言わねばなりません。

 このバルナバについて使徒行伝の記者は次のように記しています。

 

「彼(バルナバ)は聖霊と信仰とにて満ちたる善き人なればなり」 

 (使徒行伝11・24)

 

バルナバは多くの人々から善い人だ、慰めの子だと言われていましたが、しかしそれは彼の人柄が好いからとか優しいからとか言うだけではありません。聖霊と信仰に満ちた善い人だとされています。

 さて(善い人)とはどんな人でしょう。

それは分りきったあたりまえのこと、善いとは何か、など言わなくても、善いは善いにきまっているではないか、という人もあるでしょう。しかしそう簡単には言いきれないと思います。

 (善い)ということは、時代によって変ります。たとえば戦争のときに(善い)としていたことが必ずしも平和のときには(善い)ではありません。国の政治組織が変ったり、社会事情や経済生活の仕方が変ったり、政府の教育方針が変ったりすると、(善い)ということが大きく変ることがあります。(善い)ということがそんなに変ると私たちの生活は混乱してしまいます。たとえば、日本の小学校では、国の定めた教科書にしたがって、正しい善いこととしていろいろ教えていましたが、第二次世界大戦が終ったときには、その教科書のあちこちを墨で黒くぬりつぶし消して、教えさせないようにしました。(善い)ときまりきっていたことが(善い)でなくなったわけです。

 では(善い)とは一体どういうことでしょう。時勢の動きや国の政策で左右されない、何かちゃんとした基準はないものでしょうか。

 新約聖書の中にこんなことが書いてあります。

 

(マルコ伝10・17~18)

あるときひとりの人が主イエスさまにたずねました。

 「善き師よ、永遠の生命をつぐためには、我なにをなすべきか。」

すると主イエスさまは、

 「なにゆえ我を善しと言うか、神ひとりのほかに善き者なし。」

とお答えになりました。

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 神さまよりほかに善き者はない、神さまこそ善であり、神さまなくして善はない、神さまが(善い)の基だということです。これは英語の善いということばgoodもそのことを示しています。good(善い)は、god(神)からできたことばです。god(神)なくして good(善い)はありません。それだのに、神を無視して倫理を教えようとする人や、信仰なくして道徳を向上させることができるように考えている人が、なんと多いことでしょう。

 バルナバは善き人と言われていますが、それは「聖霊と信仰とにて満ち」ていたからでした。

 聖霊とは神さまの御心と御力ということです。信仰とは、神さまの御心と御力に自分をまかせ、それに調和するように生きてゆくことであります。そのような生き方から、(善い)がわたしたらのものになり、バルナバのように「聖霊と信仰とにて満らた」善い人にしていただけるでありましょう。そして誰かのために、いささかでも(慰めの子、バルナバ)になることができるでしょうと思います。

 

1984年6月11日

 聖バルナバ日

 大口聖公会にて