9.苦しみを献げる
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大斎節の最後の一週となりました。御復活日を一週間後に迎える今日の主日は「椋欄(しゅろ)の主日」と呼ばれております、それはイエス様がエルサレムにおは入りになった時の出来事を記念してそう呼ばれるのであります。今日から御復活までの一週間、これは一番大事な一週間で、聖週とも呼ばれあるいは受難週又は受苦節とも呼ばれております。それは今日イエス様がエルサレムにおは入りになって今週の金曜日にエルサレムの都の外で十字架におつきになった、そういうお苦しみの一週間を記念するからであります。
今日主イエス様がエルサレムに入城なさったことを思いおこして下さい。皆様よくご存知の通り主イエス様はロバを借りてそれに乗り、弟子たちと一緒にエルサレムの都におは入りになりました。あの劇的な出来事をもう一度考えてみましょう。借りてきたロバの背中に弟子たちは自分たちの着ていた上着を脱いで置き、その上にイエス様に乗っていただきます。群衆は喜んでイエス様を迎えます。椋欄の葉をパタパタと旗のように振って「ホサナ、ホサナ」と喜びの声を挙げ、王者を迎えるように、この民を救い国を再興する王者を迎えるように皆が熱狂しています。お祭りの頃ですから方々から集って来ていた人たちは、自分たちが着ていた着物をそこに投げ出して、イエス様の乗っていらっしゃるロバの進む道に置いてその上を通ってもらいます。大変な熱狂的群衆に迎えられてエルサレムにおは入りになりました。そして一週間たたないうちに先程福音書でお読みいたしましたように、この者をどうしよう、十字架につけよ、十字架につけよと皆が大きな声で叫んで、イエス様を十字架まで追いやってしまうことになりました。今日「ホサナ、ホサナ」と言った口が金曜日には「十字架につけよ、十字架につけよ」と言ったわけでございます。
この出来事を読むと私は二つのことを思います。一つはロバの事でございます。着ていた着物をロバの上に置いてその上にイエス様に乗っていただいたり、祭りの為に着てきた着物を道に放り出してその上をロバに踏んでもらったということです。私たちは主イエス様をそんな仕方でお迎えするでしょうか。イエス様が今おいでになったら、私たちは自分の着ている着物を投げ出して、イエス様の乗っていらっしゃるロバにでも足跡をつけてただきたいと言う程熱狂的にお迎えするでしょうか。イエス様の前に私は何を投げ出してお迎えするでしょうか。
もう一つの思いは「ホサナ、ホサナ」と言った同じ口
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が「十字架につけよ、十字架につけよ」と叫んだことであります。私の口は何と言うでしょう。イエス様を迎えて私の口は何と言うでしょう。イエス様の風向きが悪くなって、なんだ原子力の時代という時にナザレのイエスの話なんかしているのか、というような声も聞こえるでしょう。こういう時に私の口は何と言うでしょうか。
「ホサナ、ホサナ」と言った口、「十字架につくべし」と言った口、二千年前の人たちの口だけではないでしょう。今私の口は何と言いますか。この聖週を迎えます時、ことに受苦日を迎えますときにその事を思いたいのであります。
そうしてこのイエス様を今私はどのようにお迎えしましょうか。イエス様は十字架におつきになるその為にエルサレムの都におのぼりになりました。そのイエス様をあの人たちはあのように迎えた。そしてあの人たちはあのように押しやった。そして殺してしまった。あなたのために、私のために十字架にかかるためにおいで下さったこの方、そして実際に私たちのためについて下さったあの十字架を、私どもはどのように受け取り、十字架に死んで下さったあの方をどのようにお迎えしましょうか。
イエス様の弟子のペテロが書いた手紙の中に、イエス様の十字架に向かうペテロの気持が次のように書かれてあります。
「キリスト肉体にて苦しみを受けたまいたれば、汝らもまたおなじ心をもて自ら鎧え。―肉体にて苦しみを受くるものは罪をやむるなり―これ今よりのち、人の欲に従わず、神のみ心に従いて、肉体にやどれる残りの時を過さんためなり」
(ペテロ前書4・1~2)
先ず「おなじ心をもて自ら鎧え」よろいを着なさい、武装しなさい。そして悪の力に対して立ち向かいなさいということです。そしてその次には「肉体にて苦しみを受くる者は罪をやむるなり―これ今よりのち、人の欲に従わず、神のみ心に従いて、肉体にやどれる残りの時を過さんためなり」とあります。同じ心をもって武装して、私たちの肉体の残っている時を過ごしなさいとすすめています。私たちはあと何年残っていますか十年でしょうか、五十年でしょうかわかりませが、しかし残っている時を、そういう仕方で過ごしなさいというわけでしょう。ところで、主イエス様と おなじ心をもってよろいなさい、武装しなさいとはどういうことでしょうねえ。キリスト様と同じ心をもって身ずくろいをしなさい、イエス様が肉体をもって苦しみを受けたもうた、そこに照点をあてて身ずくろいをしなさいということでしょう。しかし、それはどうすることでしょうか。四章十二節十三節にこう書いてあります。
「愛する者よ、汝らを試みんとて来れる火のごときこころみを異なることとしてあやしまず、かえってキリストの苦しみにあずかれば、あずかるほど喜べ、なんじら彼の栄光のあらわれん時にも喜び楽しまんためなり」
(ペテロ前書4・12~13)
「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜べ」・・・聖週にあたって十字架を仰ぎ十字架をみつめる時の一つの思いです。キリストの苦しみにあずかる、とはなんでしょうか。主イエス様の十字架のお苦しみに私がどうしてあずかることが出来るのでしょうか。私がいくら苦しいと言っても、イエス様の十字架のお苦しみにくらべたらお話になりません。どうしてキリスト様のお苦しみに、私があずかることが出来ましょうか。難しいことです、しかし難しいことを、難しいから出来ないやとはじめから投げてしまわないで、まあひとつお許しをいただいて、私なりに出来るかもしれないようなやさしい仕方で考えさせていただきたいと思います。私がキリスト様のお苦しみにあずかる、キリスト様のお苦しみを私の苦しみにするなんて到底できそうもないのですが、その反対に私の苦しみをキリスト様のお苦しみに変えていただくことはできるのではないか、そしてそうすることによってキリスト様のお苦しみにあずかることができるのではないかと思っています。
洗礼によって古い自分が死んで新しくされた私は、新しい人であるはずです。しかしその新しい人もこの世の歩みの中で疲れたり古びたり弱ったりしますから、そうそうならないようにおりおりに聖餐をいただいて、キリス卜様の御体と御血によって豊かに養われ新たに強められて日ごとに新しくされ、一週間ごとに新しくされ、あるいは一月ごとに生かされ強められ支えられて、何とかかんとか今日までこうして生命を支え導いていただきました。私たちはだれでもみな肉体的あるいは精神的な痛みや悩みに会います。その苦しみの時に、
「キリストの苦しみにあずかれば、あずかるほど喜べ」
この聖句を味わってみましょう。聖餐によって御体と御血を下さってキリス卜様がいつも私の中で生きていらっしゃるということを信じます。そうすれば私が苦しむとき、私が痛むとき、私の中にいらっしゃるキリスト様が共に苦しんでいて下さる。私の痛みはキリスト様の痛みそこに私どもの目を向けたらいかがでしょうか。キリスト様の苦しみにあずかるということ、それはなにも向かうに立ててある十字架を見て、キリスト様はあの上で苦しみなさった、そして死んで下さったというように、こ
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ちらからある距離を置いて見るのじゃありません。それではキリスト様の苦しみにあずがることは難しいでしょう。私の苦しいとき、私が苦しむのではないでしょう。私が苦しむときには、聖餐という仕方で私の中には入っておいでになり私と共に生きていて下さる、いやむしろ私がその方によって生かされている、その方がお苦しみになるのです。私が苦しむときキリスト様がともに苦しんでいらっしゃる。こう信じては如何でしょう。私はその時キリスト様の苦しみにあずかるということが出来るのではないでしょうか。そういう仕方で「キリス卜の苦しみにあずかれば、あずかるほど喜べ」です。
次にペテロは又すすめております。
「神の力あるみ手のもとに己をひくうせよ」……
(ペテロ前書5・6)
「又もろもろの心ずがいを神にゆだねよ」……
(ペテロ前書5・7)
私が苦しい時、実際は私の苦しみをイエス様が苦しんで下さっています。ですから私の苦しみがキリスト様の御苦しみになっているのだと受け取る。そのとき私の苦しみやつらさは、イエス様の苦しみを苦しむつらさに変わるでしょう。そういう仕方で神様の力あるみ手のもとに己をひくくしなさい。ちょうどロバの足にでも私の晴着、お祭りの着物をふんでいただきましょうと投げ出したあの人たちのように、自分の持っている誇りも飾りもうぬぼれも、また「もろもろの心ずがい」も神様の前に投げ出して、神様の力あるみ手のもとに己をひくくしてみましょう。そうすれば「神なんじらのためにおもんばがりたまえばなり」、神様がちゃんといいようになさいます。
そして五章の十節にはこう書いてあります。
「もろもろの恵みの神、すなはち永遠の栄光を受けしめんとて、キリストによりて汝らを召したまえる神は、汝らがしばらく苦しみをうくるのち、なんじらを全うし、堅うし、強くして、その基を定めたまわん」
(ペテロ前書5・10)
十字架の上にあの苦しみを全うされた主イエス様を神様はお受けになって、そしてこれを「全うし、強くして」よみがえらせたもうた。そのように私たちをもまた十字架による苦しみによってお導き下さることを信じましょう。そしてそういう思いをもって、祈りをもって、望みをもって、キリス卜様の十字架のゆえに賛美をささげたいと思います。十字架によって与えられました救い、十字架なしで自分のものにはなりません。キリスト様の十字架によって与えられたこの救いを、まことにちっぽけな取るに足りないような私の十字架で受け止めましょう。
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私の苦しみ悩みは「私の十字架」なんて言うのはおこがましいほど僅かな苦しみでしょう。わずがな悩みでしょう。しかしそれをキリスト様は私の中にあって御自分で背負っていて下さるのです。キリスト様が共に背負って下さるとき、私の苦難はもはや私の重荷ではなくなります。キリスト様はそれを御自分の重荷として十字架の御苦難の中に加え受け容れて下さいます。主の十字架によって与えられた救、十字架なしで私たちのものになるはずはありません。十字架抜きでお受けしようなんて飛んでもない、もったいないことです。私はキリスト様の十字架の救いにあずかるために、いまどんな十字架を与えられているでしょうか。私は今年は御復活の前に、どのような十字架を背負わねばならないでしょうか。それをしっかりと見つめなから、主のお苦しみにあずがらせていただけるようにと祈りつつ聖週を過ごしたいとおもいます。
今朝の御復活前主日のお祈りの中に「願わくはその模範に従いて苦しみを忍びまたそのよみがえりの幸にあずかることを得させたまえ」とありました。キリスト様の十字架を仰ぎ、十字架にすがり、それをお手本として苦しみを忍ぶというように考えられておるようですが、苦しみというものについての取りくみかたこれでいいでしょうか。十字架によって苦しみを忍ぶ。それは主イエス様の十字架を思いつつ忍耐するということでしょうか。もうちょっと別な考え方もあるのではないかと思っています。
私はこのごろ「日本キリシタン殉教史」という本を読みました。日本のキリシタンの殉教を克明に調ペて書いてあります。非常に立派な研究書ですが、しかし学者でなければ読んでもわかりにくいというような本ではありません、非常に読み易い本です。読み出したらやめられない、終わりまで読まねばおれないような本です。それはあの豊臣秀吉がら始まって徳川の時代をずっと通して日本に行われたキリシタン迫害の生々しい記録でありますが、ご存知のように日本のキリシタン迫害は大変なものでした。世界に例が無い、それかただ綿密にしらみつぶしにしたというだけでなく、その迫害の期間が長かった。一年や十年ではなく三百年もの間徹底的に行われた迫害でした。しかしそんなに長い年月の間徹底的にやってもなおキリシタンは絶えない。三百年たって時代が変わってみたら矢張り信仰か残っていた。残っていただけではなく活き活きと生きていた。驚くべきことでありますが、私はあの本を読んで非常に感激しました。そして一面では、残念ながらこれは昔のサムライがやったこと
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だ、ではすまされない。サムライは我々の先祖である、日本人というのはその体の中にその心の底に何という残虐なものを持っているのかと驚きました。どこかの国の人がどこかで何かすると、日本人はじきに非人道的だとが残虐だとが批判しますが、あのキリシタン史を読んでごらんなさい。日本人というのは何て残酷なものかとおそろしくなります。その血が私の中にも流れ込んでいるに違いない。いつどこでまたそれがどんな姿になって現われるがも知れないというような恐しい思いがしました。とに角大変な迫害ぶりなんですが、その迫害を受けて死んだ人々のことが書かれてあります。もうそれこそ地獄の責苦というべきでしょう。やっと鼻から息が出るだけのところまで痛めつけ、息が止まりそうになると又引きもどしては水をぶっがけたり気付け薬を飲ませて意識をもどしておいてまた拷問にがけるのです。そしてあの雲仙の山の上につれて行ってたぎり立っている温泉の中に足をつけさせる、その足が煮えて大やけどとなり痛むのを見て「それでもキリシタンをやめないか」と責めつけるのです。とにかく鬼でなければ考えつかないだろうと思われるょうなさまざまな仕方で苦しめました。こうして沢山の人々が殉教しました。男も女もそして小さい子供まで殉教しました。その殉教者たちが不平を言っていない。自分たちを拷問にかけ苦しめ殺すところの役人たちに向かって、「かわいそうに、あなたたちも早く私たちのようになって天国に入りなさい」、と最後まですすめながら殺されてゆきます。そして苦しめられるお互いが、「ここでへたばっちゃいけないよ」とか互に励まし合いながら助け合いながらゆく。そのとき何と励ましたがというと「この苦しみを主に献げましょう」と言っているのです。苦しみを忍ぶの耐えるのどころの話じゃないのですょね。
「キリスト様、私のお献げするこの苦しみをお受け下さい」
と祈りながら死んでゆく。皆がそうなんですよねえ。
「主よ私の苦しみをどうぞお受け下さい」
「私のこの苦しみをあなたにお献げできるようになったことを感謝いたします」
そう言って苦しみを受けて死んでいったのです。
あの殉教者たちは、そのような仕方で「キリストの苦しみにあずかる」道を歩みました。それはキリスト様の苦しみを思いキリスト様の十字架を思って苦しいのを辛抱する、耐え忍ぶ、そういうところよりもう一歩高いですよね。キリスト様の苦しみを思うとこれくらい何でもありません、これくらい辛抱します、というそれだけで
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はないのです。そういうところをあの殉教者たちは、はるかに越えているのです。「主にこの苦しみを差し上げます」というのです。たいていの者があの長崎の浦上村のまずしいか百姓さんだったのです。何も私はキリスト様にか献げするものがない。今私は主のために何もできません。私に出来ることは苦しむことだけです。これですよね。いま私たちもまたそういうことに出会うでしょう、苦しまねばならないことに。だれだってそうです。皆だれだってそのときに出会います、苦しまねばならぬときに。この体が駄目になってくる時、どうにもならないその時、どうですが。「主よ私はあなたのためにもう何も出来なくなりました」と言わねばならないときが来る。私の手が動かなくなります、私の目が見えなくなります、私の口がきけなくなります、そのときどうしましょうか。
「主よ私はもう今あなたのために私の手で何もすることは出来ません。主よ私はあなたのために私の口で証しをすることも賛美の歌を歌うことも出来ません。私に残っていることは、この苦しみを苦しむことだけです。苦しむ力がまだ残っております、神様感謝いたします。苦しむ力を与えられて最後の時まで苦しみ抜きます。私が今あなたのために出来ることはこれよりほかありません。どうぞお受け下さい」
と献げるのですね。苦しみを献げるのですよ。これが殉教者たちのように、苦しみに打ちひしがれず輝かしいみ国へ帰って行く確かな救いの道ではないかと思います。
お互に皆生きた人間ですから体の終わりの時、苦しみの時が来ます。そういう時にどうぞ、いつか聖週の最初の主日に、復活教会でそんなことを聞いたことがあったと思い出して下さい。そしてどうか皆さん、そういういよいよのときになった時は、その苦しみを献げることによってそれに打ち勝って下さい。
「私はあなたのためにこうやって苦しむことのほかもう何も出来ません。これが私の精一ばいでございます。まだ苦しむことができて有難うございます。今日もまだ苦しむ力をいただき有難うございます。私の苦しみをお受け下さい」
と神様に感謝し、神様を賛美する思いをもって苦しみに取っ組み乗り越えていただきたいと思います。受苦日を近く迎えますこの時、キリスト様のあの十字架を仰ぎつつキリスト様があのように苦しんで私たちのために、そのお苦しみを父なる神様にお献げ下さったことを感謝し賛美いたしましょう。そして私たちもまた主の模範にならって苦しみを献げ得る者にしていただきたいと願うも
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のでございます。
1981年4月12日 復活前主日
鹿児島復活教会にて