2.神様とのまじわり
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神様とのまじわり(一)
A「君はよく教会へ行くなア」
B「ウンなるべく、毎日曜行くことにしている」
A「もう長いから、キリスト教も大分研究ができただろう」
B「いや、いや、仲々」
A「そんなことはないだろう。ほとんど毎日曜日いっているんだもの」
B「割合によく出席はしているが、君のいうキリスト教の研究というのは、あまりやっていないのだ」
A「謙遜か?」
B「そうではないよ、僕が日曜日に教会に行くのは、キリスト教の研究をするためではなくて、礼拝をするためだ」
A「研究でなくて、お参りという訳か」
B「まあそうだ」
A「しかし、礼拝だってお参りだって、やっばり神を知るためではないか」
B「君は結果と目的を混同しているよ」
A「どうして」
B「だって礼拝をするのは、神様を知るためではなくて、神様とおまじわりをするためだ。神様とおまじわりをしておれば、その結果として、神様を知ることができる、しかし、神様を知る手段方法として、礼拝をするのではない。僕が日曜日に教会の礼拝に出るのは、神様とおまじわりをするためだよ」
神様とのまじわり (二)
A「礼拝は神を拝むことだというなら、僕のような不信仰な者にも、おぼろげながら分るような気がするけれども、その礼拝が神様とのまじわりだなどと言われると、何だか変に、神がかり的にぼかされたようで、気味の悪いように聞こえるんだが……」
B「君は神様というものを、昔の神話や、おとぎ話に出てくるもののように考えているんだね、それで神様とのまじわりを、何か神がかり的な又魔術的な世ばなれたもののように、思うのだろう、僕の云ってるまじわりとは、そんなものではないよ」
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A「では君のいうまじわりとは、どんなことだい」
B「まじわりとは、交際だよ、つき合いだよ」
A「それはあたりまえだ、しかし、それは人間同志の場合だろう。神を相手に交際とかつき合いなんて、おかしいよ」
B「そんなことはないさ。僕は外国に沢山友達があるが、その大部分の人は顔も知らず声も聞いたことはない、それでも結構楽しく深いつき合いをしている。目に見えなくてもつき合いはできる、まじわりとはそんなものだよ」
A「そんなものって、どんなものだ」
B「いや、これは失礼、結論をとびこえた、つまりだね、まじわりとはつき合いだよ、心と心をつき合わせて理解しあい愛し合うことだよ」
神さまとのまじわり (三)
A「心と心をつき合わせて理解しあい愛し合う、それがまじわりか、なるほどねえ、すると、君は神と人との間のまじわりをそんな風に考えているのだね」
B「そうだよ、そしてそのまじわりを深めるために礼拝をするのだ。礼拝は神様と我々とがまじわりをするための手段方法なのだ」
A「そのことがどうもよくわからないね」
B「というのは?」
A「拝むことがどうしてまじわりになるのかということだよ、僕も近ごろ日曜日に礼拝に行ってよくわからないながらも、皆といっしよに立ったり座ったりして聖歌を歌ったり祈りをとなえたりしているが、礼拝というものは案外たのしいものだね」
B「案外たのしいものか、そいつはよかったね」
A「しかしだよ。礼拝に出ているときに僕は神を拝んではいるつもりだが神とまじわっておるとは思えないのだ。礼拝することによって神と人とがまじわる即ち神と人とが心と心をつき合わせて理解し合い愛し合う、と君は云うがそれは一体どういうことなのだ。またどのような心がまえ態度で礼拝をしたら、それが実際に神とのまじわりになるのだろうか」
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神様とのまじわり (四)
B「君は自分では神様を拝んでいるつもりだが、神様とまじわっているとは思えないというが、なぜ神様とのまじわりを感じえないのかといえば、それはつまり君が神様を拝んでいないからだよ」
A「そんなことはないさ、僕は日曜日の礼拝にだってまじめに出てるつもりだ、ひやかし半分で行っているのじゃないよ」
B「まあそう怒るな、君が真剣に礼拝をはげんでいることは疑わないよ。しかし大切な点てちょっとずれている感があるのだ、何といったらよいか…… そうだネェ、礼拝するときに君は展覧会に行ったような態度でいるだろう」
A「というのは?」
B「絵を眺めるように、はるか向かうに神様を眺めて歌ったり祈ったりしているのだろう。君の礼拝の中で拝まれる神様は、静かにおごそかに君の前に鎮座ましますお方だろう」
A「だって神を拝むというのは、神の前に我々が出て祈ったり歌ったりすることだろう」
B「それはそうだが、しかし君の場合神様はじっとしているだろう、礼拝においては神様はじっとしていないのだ、生きているのだ、そして礼拝する者に向かつて語りかけはたらきかけ給うのだ、活きて語り給う神様を仰げば礼拝がまじわりになるよ」
神様とのまじわり (五)
A「君のいうように生きてはたらきかけている神を拝むには、一体どうしたらよいのだ」
B「神様と話しをすることだねえ」
A「それがわからない」
B「なぜ?」
A「だって目に見えず人間のような声も出さぬ神と話しをするなんて、どうも分らないなあ」
B「それは、神様は生きているのだ、語りかける方だ、必ず私達にはたらきかけて下さる方だ、ということを、君がまだ信じていないからだ.疑っているからだよ」
A「それが信じられれば、君の話なんか聞きにくるもんか」
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B「まったくだねぇ、だけどねぇ、信じられないのは信じようという気がないからだよ、僕にだまされたと思って信じてごらん、いや信じたつもりになつて神様と話を始めてごらん」
A「どんな風に始めたらよいのだろう」
B「声を出して″神様″と云ってごらん、神さま神さまと云っていると、神様とのお話が、はじまるよ」
神様とのまじわり (六)
A「神さま、神さま、と声を出して話しかけてみろと君は云うけれども、それはどうもねぇ……」
B「なあに、ちっともむつかしくはないよ」
A「いや、むつかしいというわけではないのだ、何となくしっくりしないのだ、まあ不自然なんだねえ」
B「どうしてだろう」
A「僕は神というものを考え求めかつ拝みたいと思つて、努力はしているのだが、しかし僕はその神を、君の云うように″神さま″とさまづけして呼ぶことができないのだよ」
B「さまずけが嫌いなら、さまなしでやるさ。さまという敬語をつけてもつけなくても神さまの方では、何も不都合だとはおっしゃらないだろうから」
A「ところが神の方に不都合はなくても、僕の方で都合が悪いのだ」
B「どんな具合に?」
A「さま無しで、ただ″神″とひとこと云つても話しかけらしくないし″神よ″とか″おお神よ゛と云ったところで小説か詩の文句のようでねぇ。何だかおちつきが悪いよ。それで僕にはまだ出来ないのだが、君のように″神さま″とさまずけで神に呼びかけることが出来れば、神との語り合いとか、まじわりがうまく行くのではないかとも考えている」
神様とのまじわり (七)
B「神様にむかって″神様″と呼びかけることが何だか不自然でしっくりしないと君は云うけれども、それはいわば反抗期の子供のような気持だよ」
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A「というのは?」
B「両親を″お父ちゃん″とが″お母ちゃん″と呼んでいた子供がだんだん大きくなつて、中学や高等学校へ行くようになり″うちのおやぢ″とが″おふくろ″などという言葉を使う、生意気ざがりの年ごろになつてくると、天心らんまんな調子で″お父さん″ ″お母さん″と発音出来ないで、なんだが照れくさいような、むずがゆいような気持になる子供もあるらしい。反抗期というのが、いやむしろ動揺期といつた方が好いがも知れないが、とにかくあの年頃の子供には、よくそんなものがあるねえ」
A「僕もその反抗期の子供という訳が、これはどうも・・・」
B「いや反抗期ではないよ君は。こうして神様を真剣にもとめているのだがらネェ。反抗しているのではなく動揺しているのだよ。神様と君との間が動揺しているのだ、だがら動揺の子供がすなおに ″お父さん″ ″お母さん″と云えないように、君も神様にむかって″神さま″と思い切つて無邪気に呼びがけられないのさ」
神様とのまじわり (八)
A「ウーム、君の話はどうも分ったようで分らない。神とお前との間がうまくいっていない、つまりお前の気持が動揺しているから素直に″神さま″と云えないのだと君は云う、それは分るのだ、しかし神と僕との間がらがまずいとはどんなことだろう。僕の気持が動揺しているというのはどんな風になっていることだろう、またどうしたらその動揺不安定をなおすことが出来るのだろう」
B「君の心が神様に向かって安定しないのは、君が神様に対して見れども見ず、聞けども聞かず、という風な態度をとっているからだよ。だがら君は心の目が見えなくなり、耳が聞こえなくなり、したがって口がきけなくなって″神さま″という呼びがけの言葉さえも、言えなくなったのだよ」
A「その心が見えないとか、聞こえないとは何のことだ」
B「神様の愛に対して鈍感だということだよ、神さまがどんなに深く我々を愛しておられるかを、見よう聞こう信じようと常に努力していないと、お互の心の眼や
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、耳は鈍感になり退化してゆく、そして心がぐらぐら動揺し不安になる。聖書に教えてあるように″神は愛なり″と信じたら心は大盤石のように、しっかりと安定し、少しの不自然さもなく、神さまを″神さま″と呼べるようになるよ」
神様とのまじわり (九)
A「この間新約聖書を読んでいたら″全き愛はおそれをのぞく″と書いてあったが、君の言うのはそれと同じことだネ」
B「そうだョ。神様がら出る愛、神様がら与えられる愛、そして神様の方に向かう愛、その愛の中に生きて行くならば心は決してふらふらしなくなる、そして神様とのごく自然にして深く楽しいまじわりが出来るようになる」
A「ところがその愛が問題なのだョ。神は愛なりと信じきれないのだ」
B「どうして?」
A「神は天地のつくり主だとが全能の父だとが言うが、神がつくりぬしであり全能の父であるならば、なぜ我我の住んでいるこの世界には、こんなに苦しみがあるのか、不幸があるのか、悲しみがあるのか。あまりにも矛盾の多い世界ではないか、不合理な災害や苦痛が多すぎるよ。これでも″神は愛なり″だろうか」
B「そうだョそれでもやつぱり″神は愛なり″だョ」
A「君は本気でそう信じているのが」
B「本気だとも」
神様とのまじわり (十)
A「しかし僕には″神は愛なり″なんて、どうも信じられないなあ」
B「信じられないことはないさ、信じようとすれば信じられるのだョ」
A「どんなにしたら信じられるだろう」
B「喜ぶことと、感謝することをつとめてみるのだね。聖書の中に″常に喜べ、絶えず祈れ、すべてのことに感謝せよ″と教えてあるが、あれだよ。常に熹ぶ、そしてすべてのことを感謝する。そうすれば″神は愛なり″と
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信じられるようになるよ」
A「そうかも知れないが、しかし常に喜び、すぺてのことを感謝するなんて、全くこの世ぱなれしているようだねぇ」
B「そうではないよ。君は雲のかなたに天国の絵を描いているが、そうではないよ。私達の身近なところに、足もとに、美しいもの貴いもの、感謝すべきこと、喜ぶべきことが沢山あるのだ。絶えず祈り続けてごらん、それらが見えてくる。そして常に喜び、すべてのことを感謝が出来るようになるよ」
神様とのまじわり (終)
これは1959年3月より6月までに鹿児島復活教会の週報に書かれたものである。
(一)3月 1日
(二)3月 8日
(三)3月15日
(四)5月 3日
(五)5月10日
(六)5月17日
(七)5月31日
(八)6月 7日
(九)6月14日
(十)6月21日