21.成人の日


(P144)

一月十五日成人の日が近づきました。さてその成人の日とは何でしょうか、ご一緒に考えてみたいと思います。

 成人の日とは読んで字のごとく「人と成る日」とうことでしょうと思いますが、しかし毎年成人の日を迎えてその日の町の風景をあちこち見まわしていると、はて成人の日とは何だろうとあらためて疑問がわいてくるのであります。

 成人の日に私たちがよく見かけます風景、これはどうでしょうか。成人の日とは、人に成った日とか人に成る日というのではなくて「大人の真似をする日」というのではなかろうかと思われます。成人の日を迎えた、ああ、これで大っぴらに煙草がのめるとか、遠慮なくか酒が飲めるとか、大人の真似が大っぴらにできると考えたり、これでお嫁さんになれるのだと、我も人もそれが若い人たちの、いや人生の唯一最大の目標であるかのように花嫁姿をして歩く。そして成人の日だ、成人に成ったという。それは成人の日ではなくて大人の真似をする日ではないでしょうか。

 大人の真似をする成人の日、さてそれでよいのでしょうか。成人というのは人に成るということの筈です。ところが人に成る日というよりはむしろ「大人になる」とか大人の仲間入りをする日としてお祝いされているようです。

 これはいかがなものでしょう。大人になることがそんなによいことでしょうか、大人になることがそんなにうれしいことでしょうか、望ましいことでしょうか。今とんでもない悪いことをしているのは大人の方が多いでしょう。青少年の犯罪がどうだこうだと言われて心配される時代になりました。では大人は立派で青少年は悪いのか、というととんでもない、青少年に比べれぱ大人の方が悪いことを沢山しているでしょう。そして青少年の犯罪というのはたいてい大人の真似でしょう。大人がやったとおりのことを青少年が真似してやっておる。どうも大人というのは悪いことをして、若い人たちのためにあまりいいか手本にはなっていない。それだのにこれから大きくなってゆく人たちが大人の仲間入りし大人の真似をし、大人たちのようになって行くのを祝うのが成人の日だとしたら、何だかおかしなことですねえ。

 主イエス様は「皆元気に成長して早く立派な大人になりなさいよ」とはおっしゃらなかった。むしろその逆で

 

(P145)

「幼児の如くならずば天国に入るを得じ」と仰せになったと聖書は教えています。(マタイ伝十八・三)ところが私たちの国では、大人のようにならなければ一人前でない、立派でないというようなゆきかたです。なにかおしいとは思いませんか。毎年多くの若い人たちが、成人の日を迎えどんどん成長してゆきますが、どうか大人のようになってもらいたくないとわたしは思います。

 「どうか皆さん、私たち大人のようになって下さい」

と大人たちが本気で言えるようになる時代が早く来るようにとひたすら願ってはいますけれども、しかし今は、

 「どうぞ皆さんあんな好い大人になりなさいね」

とは言われません。好い大人の手本はあまりにも少いではありませんか。成人の日はやっぱり成人の日です。大人になって下さいではなく、人に成って下さいと申し上げたい。そうおすすめしたいと思います。

 それでは人になるとはどういうことでしょうか。それは成人の日を迎えてこれから成人だと言われる人たちだけではなく、私たちは誰でもみんな考えねばならないことではないでしょうか。成人の日を祝ってあげる大人たちがはたして人になっておるでしょうか。一月十五日、成人の日はただ若い人たちだけのための日としておいてはならない。ここで若い人も考えるでしょうが、しかし先に成人の日を迎えたと思っておる大人たち、あるいは成人の日なんていう日が定められていなかった昔に成人したと思っている人たちが、私は大人にはなったかも知れないが、人になっただろうか、どうだろうか、人とは何だろうかと考えるよい機会ではないかと思うのでございます。そこでご一緒に、人とは何か、人になるとはどいうことかと考えてみたいのであります。

 人とは一体何かと考えますときその助けとなるものは旧約聖書のはじめに書かれてある天地創造の物語でしょう。そこには人とは何かということが面白い昔話のようなおとぎ話のようなかたちで示されております。

 神様が天地万物をお造りになったとき、六日目に人を造ったと書いてあります。

 

神言いたまいけるは、

「我らにかたどりて我らのかたちのごとくに我ら人を造り、これに海の魚と空の鳥と家畜と全地と地にはうところのすべて(※の混虫)をおさめん」と。 

神そのかたちのごとくに人を造りたまえり、

すなわち神のかたちのごとくにこれを造り、これを男と女に造りたまえり。

(創世記1・26~27)

※この部分1983年版には記載ありませんでした

 

(P146)

 人は宇宙自然の動きのなかの一つの現象としてこの地球上に現われたなど殺風景なことは書いてありません。神様によって造られた、しかも神様のかたちに似せて造られたというのです、それが人だというのです。人はそのようにして地球上に現われ生活するようになりました。それが人、そうです、あなたという人、わたしという人なんです。

 「なあんだ、バカバカシイ、それは神話ではないか、わたしとは関係ない」

と言う人もあるでしょう、しかし、人とは何か、人はどのようにしてこの世界に現われ、何のために生きるのかというような問題に対して、この天地創造物語ほど意義深くまた確かな答を与えてくれるものはありません。それで、私はこれを自分に無関係な昔話として読み捨てることはできないのであります。やはりこれはあなたという「人」、わたしという「人」に深いかかわりのある、

人生の真実の話なのです。神様によって、神様に似せて造られた、それがあなたという「人」わたしという「人」のはじまり。人はそのようなものなのです。

 神様は人をお造りになったとき、ただ気まぐれに好い加誠に造ったのではなくて、ちゃんと目的を持っておられました。それは神様のかたちに似せて造るということでした。

 神様のかたち、とか姿とは一体どういうことでしょうか。まさか身長が何メートルとか体重が何キロとか鼻が高いとか低いなどいうことではないでしょう。新約聖書にあるヨハネの手紙の中に、

 「神は愛なり」

という有名な一句があります。

神は愛なり」 ---- 愛こそ神様の形、神様の姿でしょう。私たち人間はみんな神様のかたちに似せて造られたと創造物語が教えているのは、私たち人間は愛によって、愛を生き愛に向かって生長し、全き愛に到達するように求められているということだと思います。

 成人の日を前にして私たちはこのような「人」であるべき自分を思い、反省し、このような「人」になるための出発の日として迎え祝いたいと思うのであります。

 しかしその「人」は今の私たちとはずい分かけ離れているように思えます。

(P147)

 それはどうしてでしょうか。聖書では天地創造物語の次に、はじめの人アダムとエバとが神様の御命令にそむいて、神様から禁じられていた木の実を食べてエデンの園から追放された話があります。これは、人が造り主なる神様の御心に忠実に従うことができず、せっかく与えられた神様の姿形がゆがみ汚れた状態になったということです。しかし、それはただ単なるアダムとエバの昔話ではありません。わたしたち自身の現実の姿です。

 神様の姿に似るようにと造られた始めの人アダムとエバ、エデンの園に居られなくなって追い出されたアダムとエバ、この聖書物語の中に、当然あるべき「人」本来の姿と、その本来の姿を失った、いわばこわれゆがみ、傷つきよごれた現実の「人」の姿とが示されてあると思います。人は神様ではない、人はただ単なる動物でもない、まして悪魔でもありません。人は人です。神様の姿、形に似るようにと造られたものです。しかしその姿形がひどくゆがみこわれている、神様の形に似せられているなど言えたからではない、けれども、現実に人とはそんなものだ仕方はない、それが人だとすわりこみあきらめてはならない、神様から造られた本来の「人」に立ち帰りたい、人はこの願いを持ちつづけました。神様はエデンの園を出た「人」が再び帰ってくるようにと呼びかけ働きかけて下さいました。長い年月の後キリスト様による救という神様の恵みのみ業によってそのことが実現し、人は「神のかたち」の人へと回復される道が開かれました、

 聖パウロはこのことを手紙のなかで次のように言っています。

 

我らは神に造られたる者にして、

神のあらかじめ備えたまいし善きわざに歩むべく、

キリストイエスの中に造られたるなり。

(エペソ書 2・10)

→(※1987年版の聖書は「エファソの信徒への手紙」と記載)

 

ここで「神のあらかじめ備えたまいし善きわざ」と言われているのは神様の愛ということです。わたしたちはその愛に歩むようにと神様によって造り変えられました。

それは「キリストの中に造られる」という仕方すなわちキリスト様によって救われるという仕方でした。このことを聖パウロはさらに続けて次のように言っています。

 

さきに遠かりし汝ら今キリストにありて、

キリストの血によりて近づくことを得たり。(P148)

彼は我らの平和にして、

おのが肉により、

さまざまな戒めの「のり」よりなる律法を廃して、

二つのものを一つとなし、

怨なるへだての中垣をこぼちたまえり。

これは二つのものを

おのれにおいて

一つの新しき人に造りて平和をなし、

十字架によりて怨みをほろぼし、

またこれによりて二つのものを一つの体となして、

神と和がしめんためなり。

 (エペソ書2・13~16)

 

 神様の御子キリスト様が十字架にかかり救をなしとげて、わたしたちを新しい人に造り変え、神様に近づかせ、神様とやわらがせて下さいました。

 神様とやわらぐとは何という素晴しいことでしょう、それは神様のみ心にさからわないこと、神様のみ心と人の思いとが矛盾しないこと、いつでも神様の思し召しに調和してアーメンと言えることでしょう。神様とやわらぐ、それが人のあるべき姿ではないでしょうか。

 キリスト様によって救われ新しく造られた人について聖パウロはまた次のように続けています。

 

されば汝らはもはや旅人また宿り人にあらず、

聖徒と同じ国人または神の家族なり。

汝らは使徒と予言者との基の上に建てられたる者にして、

キリストイエスみずから隅のかしら石たり、

汝らもキリストにありて共に建てられ、

御霊によりて神の御住まいとなるなり。

 (エペソ書2・19~22)

 

 キリスト様を信じ救われた人は「神の家族」神様の家族の一員にしていただくというのです。そしてまた神様の家族にされた人は神様のみ住まいにされます。すなわち神様をお迎えし、神様がわたしたちの中にお住まいになり、わたしたちが神様とやわらいだ生き方をするということであります。

 私はここに人とは何かという問いに対する聖パウロの答が示されておると思います。これをよく読み味わってそれを私たち自身の答として告白せねばならないものがあるのではないかと思うのでございます。

(P149)

 大切なことは、人は神様から造られた者であるということ、キリストイエスのうちに新しく造り直されておるということ、すなわち造られた者であると共に救われたものであるということです。造られた者という立場と救われた者という立場、この二つの上に両足をふみ立てて立つ、これが人の姿でしょう。そしてその基盤の上に立って神様とやわらぐ生きかたをする、造られた者あがなわれた者という両足の歩調をととのえ踏みしめながら神様とやわらぐ方向へと進んで行く、そうすれば何をするにしても結局神様のお気持にそうことができるのではないでしょうか。

 神様とやわらぐ行き方で生きることによって、世界は広くなってきます。それはただ私一人ぼっちの歩みではなくなります。「神の家族」です。「旅人また宿り人にあらず」もうよそ者ではないというのです。みんなが神の家族、あなたもわたしもキリスト様によって神様の子供と認められその家族の暮らしの中に召されました。神様の家族としての生き方をすることによって、わたしたちは分ってくるでしよう。神様は天のかなたに鎮座ましますとか、また鎮守の森の奥深くにいますというようなお方ではなく、わたしたちの中にお住まい下さいます。そしてわたしたち一人一人がみんな「神のみ住まいとなるなり」なのです。いついかなる時でも、どこででも、神様は、私たちと共にいまして、私たちを生かし支え導いて下さるでしょう。これが聖パウロが「エペソ人への手紙」の中に書き示した人間の姿でございます。

 どうか成人式を迎える多くの日本の若い人たちのうちで、こういうところに思いを向ける方が何人かあっていただきたい。また「成人おめでとう」と若い人たちに呼びかける先輩たちも、聖パウロが示してくれたこういう思いをこめて、若い方々を祝福し励ましていただきたいと思うのでございます。

 

1982年1月10日

 顕現後第一主日

  鹿児島復活教会にて