15.みんなお友だち
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この頃は大変な時代になったんだなあと、この間テレビを見てびっくりしました。子供が生れるから頭のいい子が生れるようにとお寺にお参りに行った若い女の人が画面に出ていました。お参りがすんで帰るときに、そのお寺さんの尼さんが挨拶していました。
「いま一緒にお経をあげましたから、きっと頭のよい子が生れますよ、安心していらっしゃい」
と言って別れている場面が出ていました。それで私は感心もし、びっくりもし、生れない前から頭のよい子が生れるようにとは、大変なことだなと思いました。
それからしばらくして幼稚園の入園申込みのシーズンなりました。するとあちこちからいろいろな話が聞えてきます。どこどこの幼稚園は算数をよく教えてくれるとか、どこかの幼稚園は漢字の書き方読み方を教えてくれるから、あれは小学校にはいる時のために一番いいとか、○○大学コースはあそこの幼稚園が一番いいというような話がちらほら聞えます。お母さん方は、そんな話をよく聞きよく考えて幼稚園を選ぶのでしょうが、私はああ大変だな、生れる前から頭のいい子を……、生れたら今度は早く一から百まで数えられる子を………、漢字で自分の名前を書ける子供を………、まあこの頃の子供さんはこりゃ何だろう。頭のいい子、頭のいい子、と頭ばっかり気を配られ、手入れをされ、大事にされて、これはまるでおたまじゃくしの子みたいじゃないかと私は思いました。
どうも一般には、幼稚園というのは小学校の下請仕事、下請工場、よく言えば小学校への予備校というように考えてる方が非常に多いようですね。このまま進んで行ったら人間というのはおたまじゃくしの親類のようになってしまうだろうなあ、なんて私は思いました。そのとき私は聖書の中の面白い話を思い出しました。
聖書の中にソロモン王様の話があります。ソロモン王様というのはあの有名なダビデ大王の子供でした。ダビデ王様が大変な偉い王様でね、国を統一しその基礎をしっかりと固めましたが、そのダピデ王様の寿命が終ります。そこで息子のソロモンが王位をつきます。ソロモンは王様になったけれども心配でたまりません。お父さんのダビデのよりのように偉い力量のある人のあとを継いでこの国をまかされてどう治めて行こうかと、若いソロモンは大変心配し、悩み、夜もねむれませんでした。
ある晩あまり心配していたので、こんな夢を見ました。ソロモンは神様の前に出て一生けんめいお願いをしてい
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るところです。
「神様、私はこの国の政治をどんなにしたらよいか分らず困っています。どうぞお助け下さい」
すると神様がお答えになりました。
「そんなに困っているなら助けてやろう。お前は国を治めるために何か欲しいのか。必要なものを求めなさい。それをお前にやろう、そして助けてやる、何でも言え」
そこで、ソロモンは一生懸命考えてお願いをしました。
「どうか私に神様のお気持がわかるそういう智慧を下さい。神様のお気持がわかると正しいこと正しくないことがちゃんとわかります。これから国の政治をしなければならないとき、いろいろ複雑なことを正しく判断しなければなりませんが、そのときどうか神様の知慧で、神様の気持でものを考えて正しく判断し、処理して、ちゃんと間違いなく国を治めることができるようにしてください。」
すると神様がおっしゃいました。
「ソロモン前はなかなかいいことを言う。国を治める時には、まずしっかりとした富がなければいけない。そしてまた方方の国が目を光らして何とかして攻めこんでこようとしているのだから、それとたち打ちできるだけの強い軍備を持っていなければいけない。それだのにお前はそういう国の富とか兵力とかいう力よりもまず第一に、神様の気持が分る知慧を下さいとはなかなかあっぱれだ。それは一番大事なことだ。それをお前にやろう。そしてそれに加えてお前が求めなかった富も兵力もほうびとしてお前にやろう。」
そこでソロモンは目がさめました。ソロモンはそういう素晴しい夢を見て気持がおさまった。ああ、神様は私に知慧を下さると言った、一番大事な知慧を下さると言った、これで安心だ、と喜び勇気をもって政治をしたということです。
一番大事なもの、それは何でしょう。それをちゃんと見出した、これはソロモンの偉いところでした。聖書の中に。
「神をおそるるは知慧のはじめなり」
と教えてあります。神様を敬う。神様の気持が分る、神様に従う、これが神様をおそるる心です。神様をかしこみ敬うその心、それが知慧のはじめ、知慧の根源です。
ソロモンはそれを神様にお願いしたのですが、神様は、それに加えて富も兵力も皆お与えになりました。神様をかしこみ敬う心がしっかりしておれば必要なものはすべて備えられます。
一番大事なもの、それは神様をかしこみ敬う心です。
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ところがこの頃どうでしょうかねぇ、多くの人たちが何だか少し人種が変わったようになってきましたよねぇ。これはお母さん方には大変失礼なんですけど、ここにいらっしゃる方のことじゃないと思って聞いていて下さい。この頃の若いお母さんたちは以前とはかなり様子が変わってきましたね。何が変わったか、一言で言うと教育ママ族になり変わった人が多いのですね。その教育ママ族に飼育されてる子供さんたちもまただんだん変わってきて、さっき言いましたようにおたまじゃくしの親類じゃないだろうかと思われるほど頭でっかちで、手足の使い方もロクロク知らず、体力はなく、すぐ骨折したりする、かしこくひ弱な子供がふえてきました。子供のときだけじゃなくてそれが大人になったらどうですか、新聞でもテレビでも皆さんいやになる程見たり聞いたりしていら
っしゃるとおり、頭でっかちのおたまじゃくしがあっちこっち日本中泳ぎまわっているでしょう。おたまじゃくしになって泳がないと出世ができない、いい地位につけない、というような時代になっている、これは大変な時代です。しかしおたまじゃくしは短い命で消えちゃうでしょう、ですからあまり無理してなりたいと思わない方がいいでしょう。
このようなおたまじゃくし的子育ての流行しているとき、その公害にまきこまれないためにはどうしたらいいでしょうねえ。神様をかしこみ敬うことが知恵のはじめだと言われているその神様のことを考えてみてはいかがでしょう。
さて神様とは何でしょうねぇ。神様などは無い、そんなものはいないという人がおりますねぇ。ある時中学校のホームルームの時に、生徒さんたちに先生が神様があるか、君たちどう思うかという話になって、生徒さんたちはいろいろ意見を出して話し合いました。結論は結局神があると思えば有る、仏があると思えば有る、無いと思えば無い。お前たちはそんなことで頭を使うなよと、先生のことばだったそうです。
しかしさっきのソロモンの夢に出てきた神様というのはどういうものでしょう。神様と言おうが仏と言おうが、どうでもいい、何でも好きな名前で言えばいいでしょうが、今日は神様ということにして話を続けて行きましょう。その神様とは何かということですがねぇ、「神とは何ぞや」、とか「神はどこにいますか」、などとあちこち、きょろきょろとあたりを見まわさないで、ちょっとご自分の胸の所に手をあててみて下さい。そうすると、このへんでドキッドキッ、ドキッドキッと動いていますね、心臓が動いています。この心臓は大変いい機械でし
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てねぇ、生れてから今まで毎日毎日動いています。今日は連休で休みます、と心臓が言ったことはない、ちゃんと動いている。本当にそれは規則正しく動いている。お蔭で私は気持よく生きられます。私の心臓を、そして私をこんなふうにしておるところのもの、それが神様です。
私たちはよく、私の人生とか私の体なんて言ってますけどねえ、私の体をいつ私が造りましたか。私の人生なんてその人生の始まるときに、私は昭和何年の何月何日から私の人生を始めますと気張って、その日からオギャーと自分で自分の人生を始めたという人はありませんよねぇ。私の生命のはじまり、そして私が今日も生きておるこの生命の支えになっておるところの力、原動力というのですか、生命力とでも言うのですか、まあそんな殺風景な言い方でもいいですがねぇ、それはわからない、わからないから神様と私たちは呼んでいるのですけどねぇ。神様というのはとにかくその方無しでは私たちが生きられないか方なのです。その方なしでは私の心臓が動かない、そういうお方、それが神様。その方の気持がよくわかり、その方のか気持にそって今日を暮らして行きたいなあ。今日だけじゃない、これから二十年でも三十年でも白髪になるまで腰のまがるまで、その方の気持にそって生きていったら何て楽しいでしょうね、とこう思うのですが、それにはどうしたらいいでしょう。
いろいろあるでしょうが今日はそのほんの始めの方の所をお話しましょう。今日は幼稚園での話だから、つまらん話だろうと楽な気持でお聞き下さい。幼稚園で話を聞いて教えられることがあるだろうかとか、何かためになるかとか、どれだけもうけるか損するかとか、そんなことを考えなくていいのですからねぇ。ばからしい子供っぽい話を聞くのだと思ってしばらくおつき合い下さい。
一番はじめに神様が世界を造ったと聖書に書いてあります。神様が世界をお造りになった。そういえばそうですねぇ、あのお日様は私が造ったのではない、こんなさわやかな空気、これも今朝私が造ったわけではありませんしねぇ、神様がお造りになったようです。いろいろ言いたい人があるかもしれませんが、まあ今日はそういうことにしておきましょう。神様がいろいろ造って下さった、そのお陰で私の飲む水もあります。私をあたためてくれる日の光もあります。これらはみんな神様が造ってくれましたと聖書に書いてあるから、それを私はうのみにして信じております。
神様が山や川や虫けらやいろいろお造りになったそのはじめ、どうだったのでしょう、始めのことを知りたいなと思って聖書を読みました。そうしたら聖書にそのこ
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とが書いてあります。山や川だけでなく、人間というお前自身も造られたのだよと書いてあるのです。
さて私たち人間が造られたところを読んでみましたら、こんなことが書いてありました。人間というもの、これは始め神様がお造りになった。神様が人間を造るときに、神様の姿に似せて造りたいと神様はおっしゃった、ということです。これはすばらしい。おたまじゃくしに似せて造りなさったとは書いてないのです。
神様に似せて造る、一体どんなふうに造るのだろうか。その先を読みました、するとこうでした。神様が泥人形を造った、そして泥で造った人形の鼻の穴から神様が、ブーッと息を吹き込んだ、するとそれで生きた人間、男の人ができたと書いてあります。泥人形を造って鼻から息を吹き入れた。私はこれを読んでうれしくなりました。神様が私たち入間を造ってくれるとき、泥人形のような人間を造って、それを生きて動くようにするために、生命の息を入れて下さいました。そのとき自転車の空気入れのようにポンプか何かでシュッシュッと入れたのではなく、神様がじきじきに神様の口から、神様に口やおなかや胸があるかないかそんなことはどうでもよいのですが、とにかく神様の中の方から温かい息、神様のいのちの息をプッと吹き込んでくれた。漫画的な話だが楽しいですねぇ。ハハア、それで私たちの体温は三十六度何分というところをあっちこっち動くんだな、冷たい凍えきった人間にしないでこんな温かい人間にしてくれたのだな、と思い私はうれしくなりました。
その先がまだあるのです。神様は人間を造ってからお考えになりました。人間は一人ぼっちではよくない。楽しく、お友だちと生きていけるようにしてやろう、と。それで神様は人間に友だちを造ってくれました。
どんな友だちを造ったでしょう。お星さまを造りました、水をつくりました、それから水の中に魚を泳がせました、空を飛びまわる鳥をつくりました。様様な生きもの、虫けらやら、鳥やら、けだもの、そしてきれいな花も山も海も、沢山のものを造ってくれました。これはみなあなたの友だちです、これらを友だちにして楽しく暮らしなさい、一人ぼっちで生きていてはいけませんよ、と神様がおっしゃった。ですからどうですか一人ぼっちじゃなくて、ねこを飼ってみたり、犬を飼ってみたり、にわとりを飼って、にわとりさんからお礼に卵をもらったり、そんなにして鳥たちやけものたちとつき合って生きるようになりました。
けれどもなんだかその人が淋しそうな顔をしているんですねえ。こんなにいろいろないいものを造って、あれ
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もこれもみんなお友だちにしていただき、うれしいはずなのにねぇ、なぜか浮がぬ顔している。それを見て神様はお考えになりました。
「これだけ友だちをつくってやったけれども、木や草や花や鳥やけだものたち、虫けらたちや魚たちでは満足できないらしい。人間には人間が一番好い友だちだ。よし人間をもう一人造ってやろう」
そこで神様はさっき造ったあの男の人を眠らせました。ぐっすり眠ったときに大手術をしたそうです。その人のあばら骨をぼきっと折り、そしてそのあばら骨をもとにして、それに肉をつけて一人の人間を造り上げました。きれいな女の人ができました。男の人が目をさましてみたら、目の前にその人が立っていました。男の人はおどろいて目を見はりました。
「おお、これはすぱらしい。いままでのけものさんたちは、顔も手も足も毛むくじゃらで、もじゃもじゃしているのに、この友だちは、あんな毛が生えていないで、そして私と同じように二本足で立って歩いている」
男の人は大喜びで踊り上がりました。すると脇腹が何だか変です。さわってみるとあばら骨が折れて短くなっているところがある。(皆さんもさわってごらんなさい、そうなってるでしょう。)ハハア私のあばら骨のここの所をへし折って、それでもって神様はこの人を造って下さったのだと分りました。それで男の人は、
「これこそわが骨の骨、わが肉の肉」
と言って大喜びして、一番好い友だちになったということです。
さて何故わたしが今日こんな子供っぽい聖書の中のお話をしたかと申しますと、私たちの大口幼稚園の基本方針、創立の時から四十数年一貫して今日まで守り続けられておる幼児保育の大原則が、この天地創造物語の精神を基盤としているからでございます。
ここの幼稚園では、何ヶ月したら皆さんからお預りしたお子さんたちが、足し算ができるようになりましょうか、かけ算ができるようになるでしようか、あるいは何ヶ月したら漢字が書けるようになるでしょうか、そんなことをこの園長さんは考えてはいらっしゃらないのです。ここの園長先生はそういうことではなく、今のお話のようなまことに子供っぽいしかし一番大事なあのことを考えていらっしゃるのです。それは、
神様からいただいた生命をはつらつと、のびのびと生きて行く子供、
ひとりぼっちにならない子供、
おたまじゃくしのようにならない子供、
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ということです。そしてこれはこの大口幼稚園設立の始めから保育方針でした。
このごろはどうですか一人ぼっちで困っているでしょう。もうこれは日本だけでなく世界中どこでも困った問題になっておりますよねぇ。なぜかと言うと幼い子供が一入ぼっちでテレビを見、一人ぼっちで漫画を見て、たいていな日を暮らしていく、そのうちに友だちと遊ぶことが全然できなくなる。それくらいならいいけれども、今度ば黙ってテレビを見て、黙って漫画の本をめくって、一人ぼっちでいる間に、自分のことばを忘れてしまいます。一人ぼっちの暮らしがいろいろな難しい名前の病気の原因になっていること、皆さんご存知のとおり、自閉症でございますとかウツ病でございますとか登校拒否とかいろいろ障害があるでしょう。そのような障害にはいろいろな原因があるでしょうけれども、大きな原因の一つは一人ぼっちの暮らしです。それはだんだん悪化して内向性だとか、あるいば自閉症だとか一人ぼっちにとじこもってしまいます。せっかく立派に生れてきても、一人ぼっちでいたり、人を押しのけ自分だけの一人歩きの生き方をしていると、一入ぼっちのおたまじゃくしになります。一人ぼっちはこわいことです。神様ははじめ人間をお造りになったとき、人間は一人ぼっちではいけないと言って、友だちをつくって下さいました。その神様の創造のみわざのお手伝いするのがこの幼稚園です。幼稚園はそういうお友だちをつくる、いやもっと正確に言えば、神様からお友だちをつくっていただくところです。そして、ここの園長先生はじめ幼稚園の先生方は、神様が子供さんたちにいろいろな人や動物や草花などをお友だちとして与えて下さるとき、子供さんたちがそれを楽しいお友だちとして、ちゃんと受け取ることができるようにとお手伝いをするのであります。
二年保育でお友だちですか、三年保育でお友だち、そんなちっぽけなことをここの園長先生ば考えていらっしゃらないようです。この園長先生は大きいですからねぇ、大きなお友だちを考えていらっしゃる。一年か二年か三年の間だけのお友だちではなくて、一生の間だれとでもお友だちになれる、髪の色が違う人でも、目の色が違う人でも、はだの色が違う人でも、あるいは仕事が違い、風俗習慣が違い、主義主張とか意見が異る人であろうが、どんな人とても、誰とでもお友だちになれるような大きな人物を育てたい、というのがこの幼稚園の願い、そしてこの園長先生の願いでもあります。さっきお話ししましたような、あんなばかばかしい非科学的な話、子供だましよりもまだひどい、と頭のいいような顔をしている
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オタマジャクシ的おとなは言うかもしれません。けれどもまあ普通一般の頭で考えると、あれは何てまあ素晴しい話でしょう。何て素晴しい世界でしょう。家の子供もそういう世界でのびのびと成長していったらいいだろうと思わないでしょうか。犬を見たちすぐ石を投げつけるような子供にならないで、あれも私の友だち、象を見たら、あの鼻の長い私のお友だちと、誰でもお友だちになれる。花やら草やら虫けらやら動物やらともお友だちになって、楽しい夢をそのままに生き、味わいつつ隣の坊っちゃん嬢ちゃんとも、仲よくしたりけんかをしたりして楽しむ。お友だちになってしばらくすると、きっとけんかをします。そこで怒るときばどんなにするのか、気に食わんときはどうやってこの人とけんかしたり仲直りしたりしてつき合っていけばよいのか、けんかもつき合いですからね、そういう友だちつきあい、そういう遊びの中での人間関係をここでちゃんと身につけ、それがだんだん成長し大きくなって、より広い、より深いおとなたちの人間関係を生きてゆくことのできる人にしたいなぁというのがこの幼稚園の願いです。ですから多分この幼稚園にいらしてる間に、算数の割り算のことまでわからないでしょう。けれども心配することはいりません。それは小学校に行けば教えてくれます。微分や積分のことが分らん、心配することはありません中学高等学校と行けばちゃんとわかるようになります。そういうだんだん伸びて行く、ひろがってゆく、深まってゆく、その土台といいますか、人間のくらしの基礎をしっかりと身につけさせる、それがこの幼稚園の目的でございます。どうぞお母さん方、お子さん方をここに安心しておまかせ下さい。そしてご一緒にその線に添って人間造りの保育をみんなで助け合いながら、これから二年なり三年なりおつき合い願いたいのでございます。
1982年 5月8日
大口幼稚園母の会にて