4.御復活日
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御復活日おめでとうございます。
毎年御復活日を迎えるたびごとに、私共の命が新しくされ強められて、日ごと日ごと復活を生きる、そういう毎日になりますようにと、祈り願いつつ御復活日をお迎えいたしました。
御復活のお話は、皆さん幾度も幾度も読み聞きよくご存知のことでございますが、今朝又もう一度あの始めの頃の物語を思いおこして下さい。キリスト様が十字架におかかりになったのはおとといの金曜日でした。そして一日過ぎてこの日の朝早くお墓に行った女の人達は、お墓が開かれておりイエス様のお体が無くなっておるのでびっくりした。
というところから御復活の出来事が聖書の中にずっと語られておりますが、約二千年前の今朝は、お墓が空っぽになったそうだ、イエス様のお体が無くなったそうだ、イエス様が生きかえったそうだと、それこそてんやわんやのことだったでしょう。そういうしばらくの時が過ぎますとやがて、ああそうだイエス様はおよみがえりになったんだとわかって参りました。ある人はそのおよみがえりのイエス様に、お墓のそばでお目にかかったという人もあり、又部屋の戸を閉じて皆が不安な思いで集っていたところにイエス様があらわれなさったという人もあり、又ある人達は「私達はエマオヘ行く途中で、だれか知らない人があとから来て一緒になって歩いた。夕方まで色々お話をしながら歩いた。そして宿屋に一緒には入って夕飯を食べようとする時になって、それがイエス様だったということがわかった」と話しました。私はイエス様にお会いしました。確かにイエス様がおよみがえりになりました。という話が段々と広まって行きました。そして、ああそんな事があったかなというだけではなくて、それを信ずるようになりました。
イエス様は本当によみがえりなさった、イエス様は今も一緒にいらっしゃると信ずるようになりました。そうすると自分でもよくわからないし説明も出来ないけれども、何か大変心が安らぎ平安を感じました。イエス様が十字架で殺されてからずっと、重い気持暗い気持、そして自分も追いかけられるよりな不安な気持でびくびくしておったその人達が平安と勇気を得ました。すっかり人がかわりました。
なぜ自分達がこんなにかわったのかわからない、ただわかっておることは、イエス様がよみがえりなさった。よみがえりなさったイエス様が一緒に居て下さる。ただそれだけがわかった。そして、そこから私のこの平安と喜びと望み
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とがわいて来たようにある。こんな有難いことを、うれしいことを、自分だけでじっとだまって取っておいてはもったいないというので、イエス様がおよみがえりになったんですよと皆に伝えまじた。次から次に村から里へそして広い世界へと海を渡ってギリシャへ、ローマへそして又長い時の流れ、戦争の時も平和の時も或はききんの時も豊作の時もあった。その長い年月の流れを越えて、世界中をその喜びがまわって、キリスト様がよみがえりましたよ。あなたのためにキリスト様がよみがえりましたよ。ええ、私達の為にキリスト様がおよみがえり下さいましたとお互に告げ合いながら、喜び合いながら、御復活をお祝いする今日となりました。
しかし、そんなばかばかしい話があるものか、死んだ人間が生きかえってたまるものか、十字架に殺された者が三日目によみがえるそんなばかな話があるものか、それは今でいうならば幻覚だ、或はもっと悪くいえばこれはでっち上げだ、うまいことだまかそうと思ってそんな話を作り上げたんだというように反対する人もあり、又そこまで悪口を言わない人でも、それは旧約聖書をあちらこちらうまくつなぎ合わせて、それに合うようにメシャの姿をあのように描き上げたものだ。一つの小説みたいなものだ。と説明しようとする人もあります。十字架に死んで三日目によみがえった。それは非科学的だ、キリスト教では今でもそんな事を信じているのかという人もあります。しかし、このような反対は今に始まったことではありません。聖書が書かれたその頃から既にありました。十字架が終ったすぐあと「弟子達が来て体をぬすみ出して、そしてあの者がよみがえったなんていう者がいるとにいけないから、お墓の番をさせて下さい」といって兵隊を付けてお墓に封印をしておったということが、マタイ伝に記されてあります。このようによみがえりを信じまいとする、或は打ち消そうとすることは、昔から今に至るまで続けられています。
イエス様が死んで復活したとか、そのイエス様が救い主キリストだなどという者どもは、放置しておくことは出来ないとして、彼等を追っかけまわして迫害していたタルソの若者サウロは、よみがえりの主イエス様に会って、一転してキリスト様を信ずるようになりました。キリスト様を信ずる者どもを撲滅することを自分の使命と考えて、それに全力を尽していた彼サウロは一転してキリスト様を信ずる者となり、自分の命をなげ出じて伝道をするようになりました。これはよみがえりの主イエス様に出会い、主を信ずるようになってかわったことでした。そのタルソのサウロ
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はのちにパウロと名前が変わっておりますが、そのパウロが書きましたコリント人への手紙の中で彼はこのように言っております。
「キリストは死人のうちよりよみがえり給へりとのべ伝うるに、汝等のうちに、死人のよみがえりなしという者のあるは何ぞや」
(コリント前書15・12)
反対する人達に対して、パウロはこのように真向からよみがえりを振りかざじて向っております。
「もし死人のよみがえりなくば、キリストもまたよみがえり給わざりしならん。もしキリストよみがえり給わざりしならば、われらの宣教も空しく、汝らの信仰もまた空しからん」
(コリン卜前書15・13~14)
キリスト様がよみがえりたまわなかったならば私達の宣教は無駄です。そしてあなた達の信仰も無駄なんですよ。だからキリスト様のよみがえりを信ずるということは信仰の基だ、これがぐらついたら信仰はもうぐらぐらになってしまうぞと警告しています。そしてこの次に更に続けて
「もし死人のよみがえることなくば、キリストもよみがえり給わざりしならん。もしキリストよみがえり給わざりしならば、汝らの信仰空しく、汝らなお罪に居らん」
(コリント前審15・16~17)
と、こういう風に繰り返じ繰り返し、もしキリスト様がよみがえり給わなかったならば、何もかも無駄なんですよと言っています。
このように「もし……」 「もし……」と繰り返してきたがしかし「もし……」ということはないのです。
「まさしくキリストは死人のうちよりよみがえり、眠りたる者の初穂となりたまえり」(コリント前書15・20)
「もし……」ではない、たしかにキリスト様はよみがえられた。そして眠りたる者すなはち死んだ人達を共によみがえらせるために、その初穂となられた。イエス様はある時弟子達におっしゃいました。
「我はよみがえりなり、生命なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん」 (ヨハネ伝11・25)
そして、そんなことをただ空念仏として唱えたのではなくお言葉どおりに御自分が実際によみがえりなさった。我はよみがえりなり、いのちなり、とのお言葉のとおりにイエス様はおよみがえりになりました。そのお言葉の前の半分が実現しました。後の半分が実現しないはずはないでしょう。
「我を信ずる者は死ぬとも生きん」
あなたが今キリスト様を信ずるならば「死ぬとも生きん」
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です。体が終っても生きるということになるでしょう。その約束のお言葉を固く信じて、私共は毎日を暮らさせていただいておるわけでございます。
では「我を信ずる者は死ぬとも生きん」とは、どういうことでしょうか。もう一度始めにかえって、よみがえりとは何かと考えてみましょう。死んだ人がよみがえるなんてそんな馬鹿なことがあってたまるものか、まことに非科学的なことを言うものだという人々に対して、ふたたび聖パウ口の言葉があります。
「愚かなる者よ、なんじの播くところのもの先づ死なずば生きず。又その播くところのものは後に成るべき体を播くにあらず、麦にても他の穀にても、ただ種つぶのみ。しかるに神はみこころにしたがいてこれに体をあたえたもう
(コリント前書15・36~38)
愚かなる者よと言っていますね。死人のよみがえりを信ずる者が愚か者でなくて、それを誤解し信じない者こそ愚か者なのです。「この体が死んだらもう駄目だよ、生きかえらない、よみがえらない、もとどおりにはならない」などと愚かなことを言うな。麦でも何でも種つぶを播けばその種つぶが土の中で朽ちて種の形が無くなる、そして今度は別の新しい麦が生れて来る。それを考えてごらんなさいとパウロは言っております。死んで土の中に入れられ、或は火葬場で焼かれるこの体が、そのままもう一ぺんちゃんとなってくるんだ。それが復活、よみがえりだ、というそんな風に考えるなと言っているのです。今のこの体がこのまま生き返るのが復活ではありません。
しかし、聖書を読んでみますと、復活後イエス様のお体は生前のお姿そのままで弟子達に現われたように書いてあります。あれは作り話でしょうか。私はそうは思いません。
私はそのまま信じているのです。あのようなことがあったのでしょう。しかし、イエス様のおよみがえりで大事なことは、そのお姿が見えたとかお声が聞えたということではありません。あのように生前のイエス様が現われた、それがよみがえり、その御姿が見えるそれが復活ということではありません。もしそれが復活であるならば、いうまでもイエス様のお姿がそのまま又現われてくる、そしてそのまま私達にも見えるはずでしょう。ところが復活後イエス様が現われ弟子達がそのお姿を見そのお声を聞いたのはたゞ暫らくの間即ち復活の朝から昇天の時迄の四十日間でした。
主イエス様は天に昇り見えなくなったと書いてあります。
主イエス様が天にお昇りになり見えなくなった。そこで、よみがえりはなくなったか、もうよみがえりは信じられな
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くなったか、というとそうではないのです。見えなくなりたもうたその時更に一段と復活の信仰は、はっきりとなり強くなってきました。
イエス様はおよみがえりになった。そしてあのようにして弟子達に現われて下さったと私は信じております。あの時はあのように現われて下さることが必要だったのでしょう。
十字架で心が転倒しておった弟子達に、イエス様がよみがえったということを、ちゃんとのみこませ信じさせる為には、あのようにしなければならなかったのでしょう。ですからあの時神様は、一番よい仕方で復活の主のお姿を見せて、よみがえりということをしっかりと信じさせて下さったのだと思います。それからしぱらくしたら、もう弟子達はそういうものを見なくても、大丈夫信じられるようになりました。イエス様が十字架にお死にになって、あとからしばらくの間現われなさったあのお姿が、よみがえりとにいうのではなく、あれはよみがえりを確信させる為のしるしであります。弟子達の目にイエス様のお姿が見えたということは、それは本当のよみがえりを信ずる為の一番適当な方法だったのでしょう。しかし復活を信ずるための方法手段の素晴らしさに気を取られて、その差し示す復活の本当の意味を見失ってはならないと思います。
ではよみがえりとはどういうことでしょうか。この体が生きかえるのではない、この骨が又もとのようになるのではないのです。いや、なってもかまわないでしょう。神様が必要とされるならそうなさるでしよう。しかしその時に私達は、その生きかえった骨を見て、ああよみがえりだ。その生きかえった肉体を見て、あさ二十年前に死んだと同じような顔つきしているなあ、なるほどよみがえったと信ずるのではありません。骨や肉の生き返りが復活ではありません。こういうものはすたるのです。すたっていいのです。
しかし神様は必要ならば、死んだ骨や肉を又生かしなさるでしよう。その時は「有難うございます」と受ければいいことでしょう。がしかし、いずれにせよ骨や肉の体にこだわらないことです。
復活で一番大事なのは何かというと、愛なのです。パウロはコリント前書十三章の中で「信仰と希望と愛とこの三つのものは限りなくのこらん。しかしてそのうち最も大いなるは愛なり」と言っています。限りなく永遠にのこるもの最も大いなるものである愛。それはどのように傷つけられても、朽ちることがない。亡びることがない。その愛の中に復活を見るのです。復活、よみがえりを信ずるということは、いいかえれぱキリスト様によって愛を信ずるという
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ことです。キリスト様の愛に生きることです。神様は私を永遠の愛をもつて愛しておられる。神様は私を今このようにも愛していて下さる。神様はこれからのちも限りなく愛していて下さる。たとえ私の肉体が駄目になってこの世の息を引き取る時でも、神様は私を愛していて下さる。私か肉体を捨てて行かねばならない時になっても、神様は私を捨てないで愛していて下さる。この愛、始めにあり今あり代々限りなくいましたもうその方が、始めも今も代々限りなく愛していて下さる。このことを固く信じて、このことに支えられて、今日も神様が愛していて下さる。この愛これを一人で御馳走を食べるような、そういう気持で味わっていては相済まない。というので一緒に味わいましょう、
この神様の愛を一緒に味わってみようではありませんか、そしてこの愛をまだ味わっていらっしゃらない方と一緒に味わうようにおさそいしましょうというのが伝道でしょう。
よみがえり、それは愛がよみがえるのです。肉体だけ見ておれば、肉体の動きがとまりこの世の生命が終るとき、ああこれで親子の別れこれでこの世の別れというように見える。肉体は死によって亡ぼされ、お墓にとじこめられるように見える。しかしその時でも愛は終りにならない。愛は別れにならない。愛はむしろこの肉体にさまたげられないで、こんなものに邪魔され次いでますます成長して行く。
深まって行く。高められて行く。そして輝きを増して行く。
そのような今日です。明日です。そのようなこの世です。お墓のむこうも又そのようです。というのがよみがえりということではないでしょうか。主イエス様は私達によみがえりの道を開いて下さいました。
「我はよみがえりなり、いのちなり、我を信ずる者は死ぬとも生きん」
皆このよみがえりを生きて行きなさい。朽ちない愛を生きて行きなさい。とおまねきになっておられます。御復活日のこの日、このイエス様の呼びかけをしっかりと聞き取りそれに従って行きたいと思うのでございます。
1979年4月15日 復活日
鹿児島復活教会にて