36.生くるも死ぬるも
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わたしたちの教会では、十一月一日の諸聖徒日またはその日に一番近い主日に、逝去者の記念のための礼拝をし、お墓まいりをすることが、ずっと長い間のならわしになっています。今年もその日を迎えました。そこでこの機会に、死ぬるということ、死んだ人を記念するということ、またお墓まいりをするということなどについて考えてみたいと思います。
まず「死ぬる」とはどういうことでしょうか。
神さまを知らない方々は、死ぬるということは何か縁起の悪いこと、気味の悪いこと、また死なんてことを口にしたり考えたりすることだけでも、不吉なことだ、うす気味の悪いおそろしく、けがらわしいことだというふうに考える人びとが少なくありません。
あるとき、高等学佼の生徒さんが学校の帰りに、わたしのところに来ました。
「あゝ、よく来たね、おはいりなさい」
と言ったが、ドアの外でもぞもぞしていて、はいってきません。
「おはいりなさい」
とまた言いますと、
「先生、どこか塩はありませんか」
と言うのです。
塩をなにするのかとたずねてみると、
「今学校の友達の家の、お葬式に行って帰りだから、このままでは、はいれませんので……」
と、もぢもぢしています。
「塩をどうするの? 塩がないと、ここにはいれないのかな」
「はあ……」
「お葬式の帰りに塩をどうかすると、どうかなるの?」
と言いましたら、妙な顔をして返事に困っていました。それでわたしはその生徒さんに言いました。
「お葬式でどこかよごれたところ、けがれたところがあるから、ちょっと塩をつまんで清めようというのだね。
高等学校に行って、新しい勉強をしている君たちがなんでそんなバカバカしいことを考えるのか、お葬式に参列したら、体がけがれるから、帰ってきてそ
のまま、家にはいってはいけない、どこかの家へ寄ってはいけない、そんな時にば塩をつまんでパッパとふりまけば、けがれが消えてきれいになる。なんだか変だねえ。君、そんな妙なバカバカしいことを本気で考えているの?
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もしも本当によごれているのだったら、塩でばだめだろう。家に石けんがあるからそれを貸してあげよう。しかし、それでも効き目がなければ、うちにばクレゾール液もあるから、それを使って消毒したらどうだ。」
するとその生徒さんは「いや、いいんです」と言ってはいってきました。それでもまだ気になるらしく、右手はポケットの中にかくしていました。
死ということによって人がけがれるとは、まことに馬鹿げたことです。それだのに、昔から多くの人たちは、その不合理な考え方から抜けきれないでいます。
ついこの頃発堀された古墳の中から、こわれていない珍しい遺体が出てきた、とある新聞に出ていました。そのニュースによれば、そのあたりで発見された幾つかの遺体がみんな、体を曲げてお腹に大きな石を抱いていました。これは、死人を葬るときに、体を曲げ石を抱かせて埋めた大昔の「屈葬」という仕方だそうです。
昔の人たちはなぜそんなことをしたのでしょうか。これは、死んだ人が起き上がって出てこないようにするために、重い石をおなかのの上に乗せたのだということです。
昔の人が死ということをどんなにおそれたか、死人をどんなにこわがったか、ということがよくわかります。
ある人たちば、死ぬるということを恐れています。自分が死ぬのはこわくてたまらない。ほかの人が死ぬのもこわいのです。死んだ人はけがれていて何だかこわい。だからその人にふれたり近寄ったりすれば、自分もけがれる。そのように、死んだ人は恐ろしいもの、けがれたもの、人に迷惑やわざわいをもたらすもの、と考えています。
しかし、人はなぜそんなことを考えるのでしょう、何を根きょにしてそんなことを言い、不合理な風習をつくり出したのでしょう。
それば、死とということについて、しっかりした理解と信念をもっていないためだと思います。
死ぬるとは、どういうことでしょう、人は死んでどうなるのでしょうか。
人が死ぬ、ということを考えるときに、まず第一にはっきりさせておかねばならないことは、誰が死ぬか、死ぬのば誰か、ということであります。
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人は誰でも死ぬべきものです。しかし、その死ぬべきものば誰でしょう。あの人この人を見まわして、自分とは関係のない他人ごとであるかのように思ったり、あるにいはまた、「そもそも人間というものは……」というように一般化して考えてはならないと思います。
人は死ぬべきもの、その死ぬべき人の中の一人に、自分も入れられてある。他人ごとではない。わたしが死ぬべきもの、この世に生まれてきたからには、いつかはきっと死なねばならぬものと覚悟して、死の問題を自分のこととして、受けとめ、臨終という時になってあわてないように、ふだんから考え、腹をきめておくべきではないかと思います。
聖書によれば、死とば眠ることだ、とされています。主イエスさまが会堂司ヤイロの家へ行かれたとき、ヤイロの娘はすでに死んでおり、人々は泣き悲しんでいました。そのとき主イエスさまは人々に、
「どうしてあなたがたは泣きわめいているのか、子どもは死んだのではない眠っているのだ」と仰せになりました。(フランシスコ会訳マルコ5・39)
またベタニアの村のラザロが死んだときも、主イエスさまは、
「われらの友ラザロ眠れり」
と言われました。(ヨハネ伝11.11)
主イエスさまの弟子たちはこれを聞いて、ラザロが眠っているのだと思ったが、主は彼が死んだことを言われたのだと、聖書には説明書きがしてあります。
また使徒行伝にも、ステパノの殉教の死を記したところで、
「かく言いて眠につけり」
と書いてあります。(使徒行伝7・60)
またテサロニケ前書でば死んだ人々のことを、「既に眠れる者」
と言っています。(テサロニケ前書4・18、15)
このように、死ぬることは眠ることですから、ふつう一般に言われるように「亡くなる」即ち消え去るということではありません。またよく言われる永眠したということでもありません。「永眠」とは永久に眠ることです、聖書でいう「死」は永眠ではありません、起きるときのある眠りです。わたしたちが一ねむりして目がさめるように、この世の今日というときに眠り、永遠の明日に目がさめることです。永遠のあした、復活のいのちに目ざめるために、肉体の目を閉じ、この世のいのちの眠りに入る、それが死ぬるということであります。
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このことについて聖パウロは次のように言っています。
我らは気落ちせず、我らが外なる人は破るれども、内なる人は日々に新たなり。
それ、我らが受くるしばらくの軽き悩みは、きわめて大いなるとこしえの重き光栄を得しむるなり。
我らのかえりみるところは、見ゆるものにあらで見えぬものなればなり。見ゆるものはしばらくにして、見えぬものはとこしえに至るなり。
(コリント後書4・16~18)
このように、死ぬるということは、言わば、衣替えです。外側の人すなわち肉体という着物が、これ以上着れないほど古び、またはいたんでしまったので、とこしえのいのちという重き光栄を着せられる、すなわち復活させられ、よみがえりの生命に生きる、この衣替えが「死」ということです。
この輝かしい衣替えをさせて下さる神さまは、さあ、その姿で帰って来なさい、と 天のみ国、神さまのみそばへとまねいて下さいます。死ぬるということは、神さまのみもとにまねかれ召し帰されることです。
召されて神さまのみもとに帰ることについて、主イエスさまは弟子たちにこう言っておられます。
心をさわがせてはならない。
あなたたちは神を信じている。
わたしをも信じなさい。
わたしの父の家には、住まいがたくさんある。
もしそうでなければ、
わたしがあなたたちのために、場所を準備しに行く
とは言わない。
行って場所を準備したら、又もどってきて
あなたたちをわたしの所に連れて行こう。
そして、
わたしのいる所に、
あなたたちもいるようにしよう。
(フランシスコ会訳ヨハネ伝14・1~3)
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主イエスさまのおみちびきによって、わたしたちは父なる神さまのみもとに帰ることができます。
このように、死とは眠ること、栄光の衣替えして復活することであり、召されて父なる神さまのみもとに帰ることであります。
そのような「死」ということが、どうして不吉な縁起の悪いことと考えられ、汚れて不潔なことと思われ、そして死んだ人が幸や災いを与える、恐ろしい魔力を持ったもののように思われるのでしょうか。
お葬式に参列して帰ってきたら、清めのために家の入口で塩をまくというあの変な習慣は、「死ぬる」こととか、「死んだ人」についての、昔からの迷信的な暗い考え方から来ている、といってよいでしょう。
聖書の中には、生きることと死ぬることについて次のように教えてあります。
我らのうち、おのれのために生けるものなく、
おのれのために死ぬる者なし。
われらは生くるも主のために生き、
死ぬるも主のために死ぬ。
されば、生くるも死ぬるも我らは主のものなり。
(ロマ書14・7~8)
わたしたちは誰も、自分で考え計画してこの世に生まれてきた人はありません。神さまからいのちをいただき、神さまのみ心に従って生き、神さまのお招きを受けて死んで行きます。神さまによってのわが生き死にです。
したがって、生くるも死ぬるも主のためです。主のために生くる一生、そこには生きがいがあります。主に召されて入れられる死の彼方、そこには死にがいがあります。生きがいもあり死にがいもある生きかた死にかた、それが信仰者に与えられる最大のめぐみと言うべきではないでしょうか。
死ぬるも主のため、というこの輝かしい「死」は、迷信からくる愚かな暗い習慣とは、全然関係はありません。
次にお葬式についてすこし申しあげましょう。お葬式とか埋葬式というのは、「葬」とか「埋」という字で分りますように、もともとは草のなかに死体を埋め「ほうむる」ことだったのでしょう。
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しかし聖公会の教会では、お葬式のことを葬送式といっています。ただ葬るとか埋めるだけではなく、「葬り送る」のです。
それは、もうこれ以上生きられなくなった、破れ痛み朽ち果つべき、肉体という「外なる人」を埋め葬り、そして、朽ちないで日々に新しく生き続ける「内なる人」が、天地の造主全能の父なる神さまに召されて、そのみもとに帰ってゆくのをお見送りすることであります。だから葬送式というのであります。
そのような召されて天国へ帰る輝かしい出発の式が、ただ悲嘆の涙だけの絶望的な暗いものであってはならないし、参列者たちが塩で清めねばならないような、いまわしく汚れたものであるはずはありません。
死んでこの世を去った人は、消えて無くなったのではなく、内なる人は栄光の姿となって、永遠の生命の日々に新しく生きておられます。生前に親しく交わったその人とわたしたちは、どのようにしてその交わりを温め続けて行くことができるでしょうか。
わたしたちはこのために、お墓まいりをしたり、記念会をしたり、お命日の行事をしたり、いろいろと工夫しています。教会でたとえば十一月一日の諸聖徒日などに逝去者記念聖餐式をしたり、墓地で記念のお祈りをしたり、また家庭で記念式などをいたします。
あるとき、大変威勢のよいお嬢さんが来ました。
何かキリスト教の議論を吹きかけて、わたしをやりこめ改宗させようとしているかのような勢で、しきりに教会の教をあれこれ攻撃していましたが、その中で、クリスチャンはお墓は不用だとか、お墓まいりなどすべきではない、それは祖先崇拝だ偶像礼拝だ、と大変きびしいお話でした。
その話が一段落終ったらしいので、わたしはたずねました。
「あなたは今は若いから自由に勝手に考えられるでしょうけど、やがてあなたのお父さんお母さんがお墓におはいりになったらどうなさいますか、ご両親のお墓にもおまいりなさいませんか」
するとそのお嬢さんは、
「ハイ、絶対に行きません」
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と威勢よく答えました。そしてお墓まいりなんかは罪だと言いました。勇ましいものだとびっくりしました。よく聞いてみると、その人はどこかで聖書研究会というのに出て勉強し、もの珍らしさとうれしさで、それをわたしに教えてやろうと乗りこんできたようでした。
しかしお墓まいりのことを感違いしているのは、そのお嬢さんだけでなく、ほかにも沢山あるようです。
お墓に行って、どうぞ家族のものを守って下さい、どうぞ家をいつまでも見守っていて下さいねと、いっしょうけんめいお願いしている人があります、しかしそのお墓にお遺骨を入れられた人たちに、何かそんな神通力のようなものがあるのでしょうか。おかしなこと不合理なことです。それこそ偶像礼拝、祖先崇拝です。生きているときは、ただの人間であったのに、死んでお墓にはいったら、神さまみたいに、頼られ拝まれるなんて、愚かな迷信です。死んだからわたしたちの病気をなおしてくれたり、わたしたちの生活の運勢が向くようにしてくれる、何かふしぎな力が出るなんて、とうてい考えられないことです。
そういう考え方が根にあるから、死んだ人がこわいのでしょう。死んだ人がいつ出てきて崇りがあるかわからないから、お墓まいりをしておかねばとか、あなたの家では何代前のお墓をお祭りしていない、あそこに草が三本はえている、その崇りであなたの家に病気がたえないのだとか、なんとか言われるとびっくりしてしまって、神さまと死んだ人との区別がつかなくなる。そして、生きているときにわたしたちと同じ人間だった人が、人間以上の神さまみたいな力をもったもののように考えられる。そんなことはおかしいではありませんか。
お墓まいりをするのは、どうぞ災難が来ませんようにとたのむために、お墓をきれいにし、お花を立ててお遺骨のご機嫌をそこねないようにする、というのではありません。
お墓に対してこんな考えかたをする人が少くないようですけれども、何も理屈が通りません。
ではお墓まいりとは何でしょうか。今お話したお嬢さんのように、お墓まいりは形式だ偶像礼拝だ祖先崇拝だ、これは罪だ、不信仰だ、などと言う人もあります。しかし、わたしはそのようには思いません。これは有意義なこと大切なこと、そして楽しいことだと思っています。
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お墓まいりをするのは、死んだ人とわたしたちとの交わりをつづけるためです。おたがいに肉体をもっており、それによって、かかわりあってきた、そのかかわりあいを、今は肉体の目や耳や口などの助けによらないで、生前よりもっとたしかに、もっと深くかかわり合い交わり、慰めと喜びを味わう、そのためのお墓まいりであると思います。
そうですからか墓まいりをしても、ただお墓の頭から水をザーツとかけて花を立ててきれいになった、これですんだ、ではお墓まいりの意味はありません。
お墓まいりというのは、それによって、死んだ人と生きている人との交わりを、もう一度新たに深く味わいかえすことですが、ただ味わいかえす、とか思い出すという感傷ではなくて、その追憶または思い出を家にもって帰って活かすことが大切です。
生きていたときは、あの人はこういうことがお好きだった、こういうことはおきらいにだった。だからわたしが今こんなふうに生きてゆけばあの人は喜ぶのだな、こんな生き方をすれば、きっとあの人は安心するだろう。
今は肉体の体ではなく栄光の体で、日々に新たに生きておられるあの方、いま神さまのみそばから、見ていて下さるあの方は、わたしがこのように歩いているのを向こうから見ていて、どんなか気持でしょう。悲しむでしょうか喜ぶでしょうか。わたしの歩みを向こうから見ていて、「ああ、しっかり、しっかり」と励ましておられることでしょう。
こんな思いをもってお墓まいりをするならば、それはわたしたちの今の生活のための大切なバネとなるでしょう。お墓まいりはわたしたちの毎日の歩みの励ましになり、慰めになり、力になってゆくことが望ましいと思います。
そういうお墓まいりがどうして偶像礼拝でしょうか。
それがどうして祖先を偶像として祭り上げることになるのでしょうか、そんなことはないでしょう。
つぎに記念祭とか記念式ということについて考えてみましょう。
死んだ人を記念するとはどういうことでしょうか。それには二つの意味、あるいは目的があります。一つは死んだ人を追憶する、あるいは追慕するということです、この世に生きておられたときの、あのかたのことを思い起すことです。これはだれでもふつう一般にする記念でしょう。ところがキリストさまを信ずる人たちのする死者の記念には、もう一つの目的があります。それは、わたしたちがその方を忘れないで追慕するだけではなく、神さまがその方をお見すてなくおんあわれみをたまわり、その人を永遠の生命の祝福の中に安らかにお守り下さるように、とお願いすることであります。
さて、逝去者の記念式のときによくたずねられます。キリス卜教ではお供えものはどんなにしたらよいでしょうか。教会ではどんなきまりになっていますか、というのです。わたしはそのことについて、ある人と次のように話しました。
「それはキリスト教でどんなにするとか、教会でどんなきまりになっている、などということはありません。それはあなたと死んだ方との間のこととして、考えるべきことでしょう」
「よく分りません、もっとわかりよく話して下さい」
「あなたは、そんなときのお供えものはきっとか精進料理だろう、生臭い魚とか肉はいけない、豆腐だろうか、油アゲだろうかなど考えておられるでしょうが、そんなことはどうでもよいことです。あなたのためにもならず、死んだ人のためにもなりません」
「そこのところ、よく分りませんが……」
「もしもあなたがお供えものを上げようとするその死んだ方が、生きておられた時は、鰯が大好きで、朝からでもイワシがないとご飯がおいしくない、という人であったなら、そんな方に、きらいなお進料理をお供えして喜ばれるでしょうか、死んだ人にはお精進料理を、なんていうことを誰がきめましたか、そんなことにこだわらず、イキの好い鰯があったら、あなたがお供えものを置く場所、仏壇でも神棚でもかまわない、その方の前に、朝からでもそのイワシを、お供えして上げるのが好いとは思いませんか」
お供えものというのは、お供えしておけば、もう肉体はなくなり栄光の体になっている人が、向かうから栄光の手を出してそれをつかんで、おいしい、おいしいと言って食べるわけではないでしょう。向こうから食べるのではなくてこちらから、この人は生きていたときは鰯が好きだった、今日はお命日だから、こんないきのいい鰯を食べさせたいなあ、とあなたのあたたかい思いをこめて、鰯を一匹供えるのです。
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お花だってそうです。わたしは紫の花なんかきらいだな、と思うことがあっても、その方が紫の花がとっても好きだった、野ぼたんの花なんかは、ことに喜んだ、というのであれば、わたしはきらいでも、その方が好きだった紫のこの花を一輪ささげましょう。あるいは生きていらっしゃった時に、いっしょうけんめい自分で庭をほじくっては種をまいたり、木を植えたりしていらっしゃった、生きていらっしやった時に、木市から買ってきて植えられたあのくちなしの花が咲いた、今日はこのきれいに咲いた白いくちなしの花をささげましょうか。花屋に行って財布が軽くなる程どっさり買ってくるよりも、そのような心をこめた花一輪をささける方が、ずっと楽しいではありませんか、真心がこもっているではありませんか、それがほんとうの供えものでしょう。花とともに心を供えるのです、いや心を花にしてささげるのです。
だから記念するとき、またお供えものをするとき、よその家ではこうするから、あのお家ではこうしたから、そうせねばならぬ、それがきまりだというのではありません。ささげるものは花や果物やあるいは油あげやらそんなものではないのです。今これをお見せしたい、これをさしあげたい、という思い、それが大切なのです。
だからささげるものは、わたしの愛なのです。わたしの愛を今朝もまた新にささげる。それがお供えもののしかただと思います。毎朝花を供え、お茶やお水を新しく入れかえる。それは毎日、愛を新鮮にさしあげる心をあらわす仕方です。大事なことはわたしたちの愛です。
死んだ人とわたしたちとは、今どういうふうにかかわり合っているか、ということに心を向けねばなりません。
それは愛ということでしょう。
肉体が消えて見えなくなったとき、今までのあの声がわたしの耳に聞こえなくなった、しかし、それでもなお、わたしは、あの方を愛している。あの方はわたしたち家族を愛している。この愛というもの、これは変わるべきもの朽つるべきものが朽ちても朽ちない。この世で愛し合ったその愛は、永遠に残ってゆく。ただ永遠に残ってゆくだけではなくて、永遠に成長してゆくのです。永遠に深まり高まってゆくのです。死んだ人と、この愛をたしかめ合い、喜び合うための記念日です。そのためのお命日です。そのためのお供えものです。
お供えものをしなくても愛が高まってゆく仕方がある、という人はお供えものも何もいらない。何も供えなくていいのです。
お供えものはしたいが、お写真をそこに飾って置くという人もあるでしょう。それでもいいでしょう。いやわたしは写真の無い方がかえっていいと言う方は、何も無くてもいいでしょう。
そのように何にもとらわれなくてよいのです。ただ大切にせねばならないことは、なくなった方とわたしたちとの間の愛、この愛を見失はないようにということです。お墓にはいったから愛が消えてしまったとか、愛がうすくなったとかいうことにならないで、世を去った方と世にあるわたしたちとの間の愛の交わりが、日ごとに、深められて行く、高められてゆく、そしてまた新しくされて行くことを信じてまた望んでするのが、お墓まいりの行事であり、記念会の行事であり、あるいは記念聖餐であり、あるいはお供えものであると思います。
諸聖徒日を迎えましたこのとき、わたしたちの家族の中から召されて行ったあの人この人に思いを寄せ、そしてその人たちのために、神さまのお守りとお導きとがいつもありますように、そしてまたあの方たちとわたしたちの交わりが、神さまのお導きの中で深められ導かれて行きますようにと、神さまを信じ仰いで、死んだ人たちのために祈り、感謝と賛美をささげましょう。
これが諸聖徒日になすべきことだと思います。どうぞこのとき、そういう思いをもってわたしたちの家族の中から、召されていった方たちを記念し、その平安のためにお祈りをいたしたいと思うのでございます。
1986年11月1日諸聖徒日
大口教会にて