33.信仰のはじまり
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A「聖書を読んでいたら、次のように書いてあった。
わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、
わたしたちの主イエスキリストにより、
神に対して平和を得ている。
(ロマ人への手紙5・1)
むつかしくて、よく分らなかった。
信仰によって義とされるとか、
神に対して平和を得ているとか、
なにか大切なことが言われているようだが、
どういうことか分らない。どこからどう考えたらよいのだろう、」
B「信仰によって、と言われているのだから、まず信仰だねえ」
A「君は簡単にそう言うけれども、それが分らないのだよ。信仰とは一体どういうことなんだ。」
B「それはその字のとおり、(信じ仰ぐ)ことさ。信じ仰ぐとは、身も心も神さまのほうに向けて、すっかりまかせよりかかることだ、と思えばよいだろう」
A「ところが、それがなかなかむつかしい」
B「いや、そんなむつかしいことと考えないで……」
A「ぼくにもできるだろうか」
B「できるとも、大丈夫だよ、信じてごらん。」
A「信じることは分るようだが、仰ぐとはどういうことだろう。」
B「ああ、そう。ぼくは分りきったあたりまえのことのように思っていたが、君からそう開き直られると、ハテ、(仰ぐ)とは何と言ったらよいかナァ……ああ、そうだ。仰ぐとは、見上げることだよ。」
A「なあんだ、馬鹿々々しい。漫才みたいなことを言う、」
B「いや、そんなに馬鹿々々しくはないはずだが、君は見上げるということが、よく分っているか。仰ぐとは見上げること、見上げることが仰ぐことなんだよ。わかるだろう」
A「わからんねえ、なんだかややこしいよ」
B「そうか、では(見上げる)の反対は何だろう」
A「見おろすとか、見下げるだろう」
B「ご名答、ところで、見下げるとは。ただ目を下に向けることではないだろう」
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A「軽蔑の調子があるねえ」
B「そうだろう。するとその反対の見上げる、すなわら仰ぐということは、ただ目を上に向けることではない。尊敬するとか愛するという気持をこめて、目と心をそちらに向けることだろう」
A「まあ、そういうことになるねえ」
B「だから、神さまを仰ぐとは、うやまい愛する姿勢で神さまの方に向くことだよ。これが君にできないはずはないよ、思いきってやってごらん。」
A「しかし、それがどうもそう簡単にはいかないよ」
B「どうして?」
A「だって、神が相手だろう。目に見えない神を敬うとか愛するとか言っても、どうもピンとこないんだ。」
B「ハハア、君は、敬うというのは、帽子をぬいで頭をさげること、愛するというのは、相手の頭をさすったり、手を握ったりすることだ、と思っているのだろう。」
A「そうではないような、そうでもあるような……自分ながらよく分らないのだが、とにかく、神を敬うとか愛するとは、一体どうすることなのか、もっと分りやすくしてくれないかなあ。」
B「分りやすくするのは、君の方からだよ。君がもっと 神さまをうやまい愛したらよいのだよ」
A「どんなふうに?」
B「まず、神、神と言う君の言いかたをやめるんだね。(神)というかわりに、(神さま)と呼びかけてごらん、わたしたちにとって必要なのは(神)ではなくて、(神さま)なんだよ。神さま、神さま、と呼びかけてごらん。そうすれば、神さまをうやまい愛するということがよくわかる、ただわかるだけではなく、神さまがいつでも共にいてくださる、という確信と喜びが湧いてくるよ。」
A「われわれにとって必要なのは、神ではなくて神さまだ、とはどういうことなんだろう。
なぜ、神を神といってはいけないのだろう。聖書にも神と書いてある。神さまとは書いてないよ。」
B「なるほど、そうだね。聖書にも神と書いてある。しかし、自分の口で言うときは、神と言うよりは神さまと言うほうがよい、と、わたしは思っているのだ。」
A「字に書けば(神)、口で言えば(神さま)か、わからんねえ。」
B「そうか、では、こう考えたらどうだろう。自分の親のことを他人に話したり書いたりするときは、父とか母というが、親に話しかけるときには、(父よ、
おふろがわきました)とか(父よ。ご飯ですよ)、などとは言わないだろう」
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A「それはそうだよ。そんな言いかたをする親子はないよ」
B「そうだろう、親子というものは日常、父よ、とか子よ、なんて呼びかけ語り合ってはいないだろう、 神さまに向かっても、神よ、とか神が……など言っているときは、神さまと自分との間が、なんだかかけ離れているような気がしないか。神さまと呼んでごらん、遠くかけはなれていたような神さまが、近く親しく感じられる、そして敬い愛することができるようになるよ」
A「つまり、人にむかって話をするような調子で、神さまと呼びかければ、神を敬うとか愛するということになる。それが信仰の仕方の第一歩だというわけだネ」
B「そのとおりだ」
A「しかし、そんな仕方でぼくが神さまというものを信じたら、どんなになるだろう」
B「どんなとは?」
A「ズバリ言って、その神さまのおめぐみというか、まあご利益だナ」
B「それは大いにあるよ」
A「ご利益宗教みたいだナ、ほんとか?」
B「ほんとうだとも。神さまに対して平和が得られる。これが信仰のおめぐみ、ご利益だよ」
A「なあんだ、そんなことか」
B「馬鹿々々しい、つまらぬことと言いたいのだろう。」
A「まあねえ。神に対して平和を得ているなんて、はるか天の彼方にむかって言っている詩のような歌のような文句だね。詩的というか哲学的というか、ちよっと気のきいた、カッコイイ言い方のようだが、それが信仰のご利益だとは、どうもピンとこないよ。神に対して平和を得ることが、商売繁盛でもうかると
か、病気がなおり長生きするとかいうことよりは、もっとありがたいご利益であるとは思えないよ。」
B「そうかなあ」
A「そうだとも。神に対して平和だなんて。それは一つの考え方というか、気分とでもいうか、何かそんなようなものではないか。
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ときどき絵を見て楽しんだり、音楽を聞いて好い気分になる。しかしそれがぼくの仕事と生活に密着していて直接ご利益をもたらすというわけではない。
神に対して平和なんていうご利益も、それらと同様で実生活にはそう大してありがたいおめぐみでもないようだが……」
B「ハハア、なるほど。このおめぐみは君のお気に召さないというわけだネ」
A「そうだよ。せっかく信仰するなら、もっと実生活に役立つご利益はないものかと思っているのさ」
B「さては君はガンのような恐しい病気にかかっているらしいぞ」
A「えっ、なにッ、ガンだって」
B「まあ、あわてるな、落ちつけよ。ガンではない、ガンのようなものさ。病菌に冒されていてもわからず、病気がどんどん進んでいるのに、それに気がつかない。ガンみたいだ、」
A「おどかすなよ。どんなに大変なのだ。なんという病気だ」
B「罪という病気だ。ガンみたいだが、ほんとうは、ガンよりもっと恐しいぞ。ガンは肉体を食いほろぼすだけだが、罪は心も体も両方ともほろぼしてしまう。罪は、神さまとの平和を妨げ、君の。生活をすっかり駄目にする。
それだのに君はそれに気づかず、神さまとの平和なんて、金もうけにも息災延命にも関係はない、そんなものはどうでもよい、自分には必要ないと思うようになるのだ」
A「ガンよりもこわい罪なんて、たいへんな話になってきたね、その罪ということについても聞かせてもらいたいが、そのまえに、今までの話の途中でそのままになっていたことを聞いておきたい」
B「それは何だったっけ」
A「神に対して平和を得ている、といったあの平和のことさ。
わかって聞いていたつもりだったが、どうもはっきりしない。」
B「平和は平和だよ。あんまり難しく考えたり言ったりしていると、どこかの国の平和運動みたいに混乱してくるよ。」
A「しかし、あまり簡単に、平和は平和だと言ってもわからないよ」
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B「ああ、そうか、ではすこし言い変え、言い足してみようか……
そうだねえ、平和とは、けんかをしないことだよ。仲よく生きて行くことだよ。」
A「なあんだ、わかりきったことを言うなよ」
B「だって、君はそのわかりきったことがわかつていないのではないか」
A「ぼくがよく分らないというのは、神との平和というその平和だよ」
B「それは、神さまとけんかしないこと、神さまと仲よくして生きて行くということさ。」
A「わからないねえ、神とけんかするなんて。」
B「ハハア、君はけんかということを知らないんだナ。けんかとは、相手に反対し、打ち負かして自分が勝とうとすることだ。相手の立場や主張は無視して、自分の思うこと望むことを相手に要求し押しつけようとすることだ。君は神さまに対してそんな態度をとってはいないか。
自分の思いや考えが正当だということを、神さまに、説明し納得させ、神さまを自分の味方にし、自分のけらいのように利用し働かせて、自分の希望願いごとを達成しようとしてはいないか。
仲よくするとは、その反対のしかただ。相手に敵対したり、誤解し合ったり、憎み合ったりしない。つまり、相手を打ち伏せ、屈服させ、支配するのではなくて、おたがいによく調和のとれたつきあいをすることだと思うのだが、神さまと君とのつきあい具合はどんなになっているのだろうか。君は神さまに対して平和を得ているか。」
A「ぼくが神さまと仲よくしているとか、調和のとれたつきあいかた生きかたをしているなんて、とんでもないよ。
チャンとそんなふうになっていたら、こうして君に信仰のことをたずねになんか来やしないよ。」
B「すると、君は神さまとの平和がうまくいっていない、というわけだね」
A「ウム、残念ながらねえ」
B「残念ながら……か、なかなかよろしいねえ」
A「どうして?」
B「残念ながら……というのは、君はいま自分自身の状態に満足していない、どこか心の中で、神さまとの平和を求めているということなんだろう」
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A「さあ、どうだろうか。一足とびにそこまではどうもねえ」
B「なにも尻ごみすることはないよ。神さまとの平和の中に一気にとび込んだら好いよ」
A「いや、それがなかなかねえ」
B「君らしくもなく、思い切りが悪いなあ、」
A「自分でもそう思うよ、どうしたら好いだろうか」
B「自分白身に見切りをつけるんだねえ。
自分はこのままではどうにもならぬ、信仰によって義とされ、神さまの平和の中に生きるよりほか仕方はない、と心を決めるんだよ。そして、信じます、神さまどうぞよろしく、と言ってごらん」
A「なるほど。そんな気持になれば好いんだナ」
B「いや、違う。そんな気持なんかではないんだ。
実際に言うんだよ、君の口で。
神さま、信じます、アーメン。
と、ただ一言。
それで信仰は始まるんだよ」
1977年3月27日より
1977年5月 8日まで
鹿児島復活教会週報より
(ご参考)
聖書によく出てくる「義」について下記URLを見つけました。
https://ichurch.me/sermon2022/20220306justification.html
この「義」を理解するためには、「義」の反対の「不義」という言葉から考えるとわかりやすいような気がします。
「不義」というのは人と人の関係の状態のことを指すときによく使いませんか。不義な関係というのは、嘘があったり、不誠実だったりする歪んだ関係のことです。そうすると、その反対の「義なる関係」というのは、嘘のない、誠実で真っ直ぐな関係ということです。 要するに「義」というのは、超カンタンに言うと「ちゃんとした関係」ということです。
(日本キリスト教団 徳島北教会 牧師:富田正樹の説教より)
アンデレ市來