32.そばに呼ばれるもの
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なんじら心を騒がすな、神を信じまた我を信ぜよ。
(ヨハネ伝14・1)
われ父に請わん、父は他に助け主をあたえて、永遠になんじらと共におらしめたもうべし。これは真理の御霊(みたま)なり。
(ヨハネ伝14・16~17)
われなんじらをのこして孤児(みなしご)とはせず、なんじらに来るなり。
(ヨハネ伝14・18)
主イエスさまの死の時が近づくにつれて、不安とおそれに心が動揺していた弟子たちに、主はこのように仰せになりました。
神さまを信じ、またわたしを信ずるならば、あなたたちは決して、見捨てられた孤児(みなしご)のような状態にはならない。わたしがこの世にいなくなったあとで、あなたたちのために他に助け主を与えて下さるように、わたしは父なる神さまにお願いしよう。
その助け主とは、真理のみたま、すなわち聖霊だ。そして、その助け主は永遠にあなたたちと共にいて下さる。
だからわたしがいなくなり見えなくなっても、あなたたちは、わたしから見捨てられるのではない。わたしは、またあなたたちのところに来るのだ、しっかりしなさい。と主は仰せになりました。
こののち、主イエスさまは十字架でお死にになり、三日目に甦えり、しばらくして天にお昇りになりました。
およみがえりと御昇天のことについて、使徒行伝には次のように記されてあります。
イエスは苦難を受けしのち、多くのたしかなる証をもて、おのれの生きたることを使徒たちに示し、四十日の間しばしば彼らに現われて、神の国のことを語り、また彼らとともに集まりいて命じたもう、
「エルサレムを離れずして、我より聞きし父の約束を待て、ヨハネは水にてバプテスマを施ししが、なんじらは日ならずして聖霊にてバプテスマを施されん。」
(使徒行伝1・3~5)
主イエスさまが、父なる神さまにお願いしてくださった約束の助け主、すなわち聖霊が来るのを待っておれ、とのことでした。
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さらにまた次のようにも記されてあります。
イエス言いたもう「聖霊なんじらの上にのぞむとき、汝ら力を受けん、而してエルサレム、ユダヤ全国、サマリヤ、および地の果てにまで我が証人とならん」
(使徒行伝1・8)
聖霊を受け、力に満たされ強められて、地のはてまで信仰の証人になれとのことでした。
それから十日たって五旬節の祭の日となり、人びとが集っていたときに、はげしい風が吹くような音がして、燃える火のような、舌の形をしたものが降ってきて、弟子たちの頭の上にとどまりました。それは主イエスさまが約束して下さった助け主、すなわち聖霊がおいでになったしるしでした。
弟子たちは、心を一つにして祈り待ち受けたこの聖霊に、力づけられ励まされて、主イエスさまのおよみがえりのことを人びとに語り証し、救いの福音を宜べ伝えました。こうして教会の活動がはじまりました。
主イエスさまは、わたしたちを孤児(みなしご)にはしないとおっしゃった。そしてそのお約束のとおり、聖霊が与えられ聖霊がくだってきた五旬節の祭の日に、人びとに語ったペテロのすすめの言葉の中では、次のように言われて
あります。
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なんじら悔い改めて、おのおの罪の赦しを得んために、イエスキリストの名によりてバプテスマを受けよ。さらば聖霊の賜物(たまもの)を受けん。
(使徒行伝2・88)
バプテスマすなわち洗礼という仕方で聖霊が与えられます。あなたは洗礼を受けるならば、聖霊があなたにくだります。聖霊の賜物はたしかにあなたのものになります、と弟子たちは、熟心に証し(「証し」とは、キリスト者が神からいただいた恵みを言葉や言動を通して人に伝えること)をし、人びとにすすめました。これが弟子たちの伝道の仕方でした。
教会はこの仕方を大切にして、洗礼をまもり伝えています。主イエスさまが約束してくださったあの大切な聖霊を、しっかりと受け取り、引き継いでゆくために洗礼が行われたのでした。
わたしたちは、洗礼がこのようにおごそかなものだということを忘れてはなりません。それは教会の入会式というように、軽く考えられてはなりません。洗礼を授ける者は、聖霊がいまあなたに働きかけておちれますよ、と言い、受ける人は、御霊よきたりたまえ、アーメン。
と答えるような姿勢、これが洗礼を施す人と受ける人との間にちゃんとしていなければなりません。
今朝ここで、神さまのおみちびきによって洗礼式がとどこおりなく行われ、一人の兄弟が聖霊を受け、新たに生まれ、永遠の生命に入れていただきました。まことにとうとくありがたいことでございました。
さてそれでは、その大切な聖霊とは、一体何でしょう、どのように考えたらよいでしょうか。
わたしたちは、使徒信経やニケヤ信経をとなえるたびに「我は聖霊を信ず」と信仰の告白をしますが、ほんとうにはっきり信じているでしょうか、確信と喜びをもって、「我は聖霊を信ず」と言っているでしょうか。
神さまを信じます。キリストさまを信じています。そこまではいいでしょうが、聖霊を信じますとなると、何だかポヤッとして頼りなくなる、という人もいるのではないでしょうか。
ある聖公会の教会の信者さんが、聖霊ということを特に強調するある教派の人と話しをして、たいへんとまどったそうです。その人たちのお名前を、かりにAさんとBさんとしましよう。
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二人は次のような話をしたそうです。
A「Bさんあなたは洗礼を受けているそうですが救われていますか」
B「はあ、洗礼は受けてるんですが………」
A「救われていますか、聖霊を受けましたか」
B「それはどういうことですか」
A「救われた、聖霊を受けたという実感がありましたか」
B「と申しますと?」
A「いつ、どこで、どんなにして聖霊を受けたか、はっきりしていますか、そのとき身ぶるいをしたとか、恍惚状態になったとか、異言を語ったとか、そんなことがありましたか」
こんな風に問いつめられて、Bさんというその方は当惑し、わからなくなり、自分はそんな経験をしたことはない、さては、自分は聖霊を受けたことがないらしい、自分は救われていないのだろうか、と不安になりました。
友人Aさんからの単刀直入的な信仰の切り込みに対して、何も答えられない自分を恥かしく思い、いつも礼拝のときに唱えている「我は聖霊を信ず」が。ただ空念仏のようになっているのに気づいてびっくりし、自分の信仰がぐらつき崩れてゆくように感じたそうです。
聖霊についての理解と信じかたが不十分なために、こんなことになるのではないでしょうか。
なるほど、聖書の中には、聖霊を受けた人びとが、恍惚状態になったり、異状な行動をしたり、異言を語ったりしたことが書かれてあります。
そのようなことを真実でないとか、いつわりのつくり話だとか、狂信的妄想だとか、迷信であるなどと、否定したり無視したりすべきではありません。
神さまが必要だとお考えになるその思し召しによって、そのような現象や状態を起されても、かまわないでしょう。神さまが、あるときある人のために必要なこととして起しなさる聖霊の働き方に対して、人間の普通の考え方や仕方と異なっているから、それは不合理であるとか、真実でないなどと言うべきではないでしょう。
聖霊がお働きになれば、人間の知慧で説明できないようなことも起るでしょう、しかしそのことについて誤った考えかたをしてはならないと思います。
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聖霊のお働きは、いつでも必らず不思議な奇跡的な仕方で現われるものだ、と考えてはなりません。何かしるしが見えなければ、不思議な奇跡的なこと、たとえば恍惚状態とか異言というようなことが起らなければ、聖霊は働いていないのだと思ってはなりません。
なんだか狂信的な調子で、Bさんに聖霊と救のことを問いつめたAさんは、実はこの初歩的な点についての、ご自分の未熟な誤りを気づかず、熱心に語っていたということになります。
では、聖霊とは何でしょう。聖霊を信ずるにはどうしたらよいのでしょう。
まず、聖霊とは神さまの御霊です。旧約聖書にある天地創造の話を読んでみますと、天も地もまだできていなかったそもそもの始まりのとき、まだ何も無くただ暗やみと空漠たる水のひろがりのみであったとき、神さまの霊がすっぽりとその上をおおっていました。やがてその霊によって天地万物が創造され、あらゆる動植物や人間が造られ、その天と地との世界のなかで生きてゆくよう
になりました。この大自然の万物の生成と推移、人間の生活と文化の進歩発展、すべてが造り主なる神さまの御支配のもとにあり、その御霊のみちびきによるものであります。自然と人間の歴史を貫ぬいて働きかけて下さる、この神さまの霊(みたま)、すなわちみ心を聖霊と申しあげるのであります。
新約聖書によれば、聖霊は、神さまの御霊というほかに、もっとわかりやすく身近な呼び名でしめされてあります。
主イエスさまは、ご自分がこの世にいなくなって後に、父なる神さまからつかわされる(他の助け主)なる(真理の御霊)、それが聖霊である、と弟子たらにお教えになりました。弟子たちはその聖霊を受け、それに従って生きるようになって、はっきりわかったことは、それがイエスさまの御霊(使徒行伝16・7)であり、キリストさまのみたま(口マ8・9)であるということでした。
主イエスさまは地上での生涯を終り、わたしたちの手でさわることもできず、目でみることもできなくなりましたが、それでもなお、今も永遠までもわたしたちと共にいてくださいます。肉体をもってこの世にいました主イエスさまが、肉体を離れてよみがえりの主キリストさまとして、今も生きて、わたしたらに働きかけておられます。そのキリストさまのみたま・み心が聖霊なのだと弟子たちは信じたのであります。
このように、聖霊は神さまの霊、主のみたま、助け主。
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真理のみたまなど言われ、またイエスさまの霊とか、キリストさまのみたまと呼ばれています。
ここでわたしたちは、さきほど申し上ばましたAさんとBさんの対話にかえって、Aさんの質問をわたしたち自身に向けられたものとして受け、自問自答してみましょう。
「救われていますか、聖霊を受けましたか」
何と答えることもできずぐちついたBさんのように、ふらふらすることはありません。
「ハイ、救われています、洗礼をしていただきましたので」
とはっきり答えるべきです。洗礼を受けた人はたしかに救われているのですから。
つぎに「聖霊を受けましたか」という問にたいしても「ハイ、受けています」と答えられるはずです。洗礼を受けた人は聖霊を与えられ、新たに生まれ、限りなき救いの世継ぎとしていただいたのですから。 (祈祷書403ページ参照)
しかし、「なにしろ聖霊となると何だかはっきりわかりにくくて……」と言われる方もあるかもしれません、
そんな方はコリント人への第一の手紙をお読みになればよいと思います。そこでパウロがこう言っています。
聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。 (コリント第一 12・3)
イエスさまを主と信じ、主と呼びまつることができるのは、聖霊のお助けおみちびきによるのです。聖霊を受けているかいないかは、Aさんが言ったように恍惚状態とか身ぶるいとか異言などによって判断すべきではなく、
「イエスは主なり」
と言えるかどうかによるのです。
イエスさまを主と仰ぎ、主イエスさまと呼びかけており、またお祈りするときにはいつも、
「主イエスキリストさまによってお祈りします。 アーメン」
と言っていらっしゃる皆さんは、ご自分では聖霊ということがはっきりしていないような気がするかも知れませんが、聖霊は、たしかに皆さんとごいっしょにいてくださいます。
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皆さんはお祈りなさるときにはいつも、主イエスキリストによってお祈りいたしますとか、主イエスキリストによってアーメン。とおっしゃるでしょう。そのことばがあなたの口から出るのは、聖霊があなたに働きかけていらっしゃる確かなはっきりとした証拠です。そのことによって、聖霊があなたと共にいらっしゃることがおわかりになるでしょう。聖霊のお助けによらなければ、だ
れも「主イエスキリストさま」と言うことはできないのですから。
また聖パウロは、ロマへ書き送った手紙の中で次のように言っています。
同様に、聖霊も、弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどのように祈ったらよいか知りませんが、言葉に表わせないうめきをもって執り成してくださいます。
人の心を見抜く方は、聖霊の思いがなんであるかを知っておられます。聖霊は、神の御心に従って、聖なる人のために執り成されるからです。
(ロマ書8・26~27、共同訳)
聖霊は、弱いわたしたちを助けてくださいます。朝から晩までの生活のすべてのこと、祈りなしではやっていけないわたしたちです。それだのにわたしたちは何をどう祈ってよいかわかちない。細々と祈りをすることはするが、まことに頼りないような弱い祈りである。祈りになっていないような祈りであるかも知れません。神さまにむかってただ、あゝ主よ、主よ、と呼びかけるだけが
精いっばいのこともあるでしょう。
聖霊は、このようなわたしたちのそばにいまして、「言葉に表わせないうめき」をもって、なぐさめはげまし、祈っていてくださいます。祈りなくして生きられないこの人、祈りたくても祈れないこの人を、神さま、どうぞお助けください、と執りなしていてくださいます。このようにして聖霊は、わたしたちのために助け主となってくださいます。
聖霊はいつでもわたしたちと共にいまして、祈りができるように助け、神さまの真理がわかるようにわたしたちをはげまし慰めみらびいてくださいます。
主イエスさまは聖霊を「助主」として弟子たちにお知らせになりました。「助主」と日本語に訳された聖書のことばは(パクラレートス) です。 (パクラタレートス)とは(そばに呼ばれるもの)という意味です。
これは裁判のときに証人として、弁護人として、被告を助けるために、そのそばに呼ばれる人でした。したがってそれは被告のためには、助け主また慰め主でありました。
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神さまのかたちにかたどって造られたものとして、それにふさわしく生きるようにと求められているわたしたち人間は、毎日その生きざまを神さまから見られ、問われ、さばかれています。その弱い罪ふかいわたしたらのために、聖霊は、呼ばれてそばに来て、とりなし祈り、慰め助けてくださいます。まさにパラクレートス、呼ばれてそばに来てくださる方であります。
ですから大切なことは、まずお呼びすることです。
みたまよきたりたまえ、
みたまよわがうちにきたりたまえ、
みたまよきたりてわれを清め、わがうちに宿りたまえ。
といっしょうけんめい呼びかけ、祈りつづけるようお
すすめいたします。
1985年 5月26日
聖霊降臨日・大口聖公会にて
ヨハネ 蓑田 実様 洗礼を受ける