14.エマオヘの道

 

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 見よ、この日二人の弟子エルサレムより三里ばかり隔りたるエマオという村に行きつつ、すべてありしことどもを語り合う。

語りかつ論じ合うほどに、イエス自ら近づきて共に行きたもう。

されど彼らの目さえぎられて、イエスたるをみとむることあたわず。

 (ルカ伝24・13~14)

 

 主イエス様が復活なさった日曜日の午後、エルサレムからエマオヘ行く途中での出来事でした。意気消沈し、恐れと不安の気持でエマオヘ向う二人の弟子に、復活なさった主イエス様が自ら近づきて共に行かれました。

このことは二千年程昔にエマオヘの道でただ一度起ったことにしておいてはならないと思います。あの時から今まで、福音の伝えられる所どこにでも起ったこと、これから後もまた、至る所で起り得る、否、起していただきたい出来事であります。エマオヘの道と同じように、私たちの暮らしの道にも「イエス自ら近づきて共に行きたもう」ようにと願うものでございます。私たちの毎日の歩みは快的な歩みばかりではないでしょう。不安におそわれる時があるでしょう、恐れを覚える時もあるでしょう、心の暗くなる時もあるでしょう、一人ぼっちになったような気持で孤独をおぼえる時もあるでしょう。その毎日の歩みの道に、イエス自ら近づきて共に行きたもうということになったらいかがでしょうか。復活日の午後弟子たちに近づきたもうた主イエス様は、今私たちに

も近づいて下さいます。昨日も今日も明日も私たちに近づき、私たちと共に歩いて下さいます。

 「されど彼らの目さえぎられて、イエスたるを認むることあたわず」

主イエス様がそばを歩いて下さったのだが、あの弟子たちは、その方がイエス様だということが分りませんでした。多分彼らは失望や不安や恐れや主の復活への疑惑のために、目がさえぎられて見えなかったのでしょう。私たちにもやはり主イエス様が毎日近づき一緒に歩いて下さるのですけれども、時々それがわかりません。時々ならいいのですけれども、たいてい、いつでもわからない

で、自分だけで歩いているようなつもりになりがちです。

「かれらの目さえぎられて、イエスたるを認むることあたわず」いや、「かれら」の目ではない私たちの目がそうなのです。主イエス様は昨日も一緒に歩いて下さった、

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今日も歩いて下さる、明日もきっと一緒に歩いて下さるのに私たちの目がさえぎられて、その主イエス様を見ることができない。はっきりと、見ることができたら、どんなにいいでしょう。ああ、今イエス様が一緒だ、いつでもイエス様と一緒に歩いている、イエス様と共に苦しんでいる、この喜びもこの悲しみも、今イエス様と共に味わっているのだというように、いつでも主イエス様が自ら近づいて下さる、主イエス様と一緒なんだという確信を持ちたい。

 しかしそれにはどうしたらよいでしょうかこの二人の弟子たちの話をたどってみましょう。

 イエス様はこの二人におたずねになりました。

 「あなたたちは何を話しながら歩いているのですか」

すると彼らは悲しげな顔をして立ちどまって、エルサレムでのあの驚くべきこと、十字架のこと、お墓が空になったこと、イエス様の復活したという噂のことなどをイエス様にお話ししました。すると主は彼らにこうおっしゃいました。

 「ああ愚かにして預言者たちの語りたるすべてのことを信ずるに心にぶき者よ、キリストは必ずこれらの苦しみを受けてその栄光に入るべきならずや。」

キリストは十字架にかかって苦しみ死んでよみがえり、栄光におはいりになる。これはわかりきったことじゃないですか、それがどうしてわからないのですか、なんとまあ心のにぶい人たちよ、とおっしゃって、それから主イエス様はこの二人に、「モーセおよびすべての預言者をはじめ、おのれにつきてすべての聖書にしるしたるところを説き示し」なさいました。聖書にこうあるでしょう、モーセがこう言っているでしょう、あるいはイザヤの書にこうあるじゃないですか、と聖書をこの人たちに懇切に説明して下さいました。二人の弟子はだんだんとわかってきました、心が明るく晴れやかになりうれしくなってきました。日は暮れかかり、やがてエマオの村に着きます。今晩もう少しお話の続きを聞かせていただきたいと思って二人の弟子はイエス様を引きとめて一緒に宿屋へ入ります。イエス様はそこで一緒に夕食の席におつきになります

 

 「パンを取りて祝し、さきて与えたまえば、彼らの目ひらけてイエスなるを認む、しかして、イエス見えずなりたもう。」

 

 今パンを取り、祝してさき自分たちに与えて下さる、それはこの前の木曜日の夜、最後の晩餐の時の主イエス様のお姿でした。二人はびっくりして深々と頭を垂れる、そっと顔を上げてみると、もうみ姿はそこには見えませ

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んでした。彼らは顔を見合わせて言いました。

 「道にて我らと語り、我らに聖書を説明したまえるとき、我らの心、内に燃えしならずや」。

あの時はっきりイエス様だとはわからなかったけれども、あの方から聖書の話を聞きながら歩いているときに、不思議に私たちの心は燃えたねえ、と弟子たちは話し合ったのでした。もう不安も恐れも消え去り、大きな喜びと勇気が湧き起ってきました。そしてそのまますぐにエルサレムへと引き返して行きました。

 「イエス自ら近づきて共に行きたもう。されど彼らの目さえぎられて、イエスたるを認むることあたわず」、そこから始まって「我らの心燃えしならずや」とエルサレムへ喜び勇んで帰って行く、この弟子たちのゆき方、これをまた今の私どもの行き方にしていただきたいと思うのでございます。

 およみがえりになっていつでも一緒にいて下さる主イエス様こそ私の力、私の望み、いつもそうでありたい。それにはどうしたらよいでしょうか。二人の弟子たちのように、いつでも自ら近づいて下さる主イエス様から聖書を聞くことが大切だと思います。

 聖書をお読みになりますと難しいところや変だなと思うところが沢山ありますが、そんな時どうしたらいいでしょう。一生懸命いろいろな研究書を探してそこを勉強するのもいいことでしょうが、一番いい仕方は、聖書をイエス様と一緒に読むということです。あの弟子たちのように、主イエス様に聖書を説明してもらうことです。どこそこの神学校の先生に、あるいはどこそこの大教会の牧師に、あるいはどこそこの神学者に聖書を説明してもらう、そうではありません。そうではなくて主イエス様にしてもらう、この聖書の読み方が一番大切なのです。それだのに残念ながらこの読み方がおろそかにされている傾向があります。聖書を読むとき、すぐにそれの参考書とか註解書から入ろうとします、そして、あの神学者は聖書をどう説明しておる、この神学者はこれをこう説明しておると、一生懸命聖書についての研究をします。聖書について書いた本は沢山読み、聖書についての知識や学説は得られるけれども、聖書そのものは飛び飛び拾い読み程度で、これではとうてい分りっこありません。学問や知識のためでなく、生きるための聖書の読み方はああいう読み方ではないでしょう。自ら近づき、共に行きたもう主イエス様はエルサレムからエマオヘの道を歩きながらあの人たちに聖書を説明してくれました。ですから私たちも、イエス様と共に今日を歩きながら聖書を読むのです。聖書を読んでわからないところ、へんだなと

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思うところもあります。その時には「変だな分らんな」とひとりごとを言わないことです。変だなと思ったらイエス様に「イエス様これ変ですね」と声をかけてみます。わからなかったら「イエス様これは分りません。この所は難しくて分りません」と言ってみることです。私はそれが一番いい方法だと思います。聖書を読むときは、今ここにイエス様がいらして私に聖書を読ませていて下さるという実感を持つことです。自分だけで聖書を読んでいるのではない。主イエス様がここにいらして、主イエス様のそばで私はこの聖書を読んでいる。わからなかったら「イエス様難しいです」とか、「イエス様わかりません」と言えばよい。そうしたらイエス様が、それに応じて分るようにして下さるでしょう。あるいはまた今の私には理解しにくいところがあればイエス様は、まあ分らなければそのまま読んでおけとおっしやるかもしれません。そうするとそのうちいつか、わからないと思っていたところが分かるようになります。言うまでもなく、聖書は祈りながら読むことが大切です。その祈りながら聖書を読むということが即ち、今ここに私と共にいて下さる主イエス様に相談しながら、話しかけながら読むということなのです。今日という日を歩きながら、その中でイエス様に聖書をたずね、イエス様から示されながら行く。そうすればきっと聖書が分ってくるでしょう。

 このような歩き方読み方をしていると、イエス様が私のために十字架につき、私のためによみがえって、今日も私と一緒にこうして職場に行って下さる、今日の仕事が終るとき、私と一緒に家へ帰って下さる。私たちの家庭の食卓に共にいて下さる、それがしみじみと実感されるようになるでしよう。弟子たちは聖書のことを聞きながら歩いたあの時のことをかえりみて、「我らの心、内に燃えしならずや」と言っておりますが、どうでしょうか。私どもは聖書を読んで、あるいは聖書のことを考える時に、胸が燃え上がりますか。イエス様がおよみがえりになったことを記念し祝うこの時、よみがえりのお話を聖書で何べんも読みますが、それを読む時、あるいはそれを聞く時、心がほのぼのと温かく燃え上がりますか、どうでしょうか。聖書を読んで胸が燃えなければいけません。聖書を読んでも胸は燃えないで、頭の方だけで「そうか、ああそうか」、これでは力にならないですね。イエス様と一緒に読んで下さい、きっと燃えてきます。

 主イエス様と二人の弟子はエマオの村の宿屋につき、共に食卓に向かいました。イエス様はお祈りしてパンをさきました。その時パンをさいて下さるあの手、この間の最後の晩餐のときのあの手だ。あゝあの時もこうして

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パンをさいて私にお与えになった、あのお方だ。と、弟子たちの目はそこでぱっと開けました。私たちは今その仕方を守り続けています。これを私の来るまで、私の来るのを待ち望みながら続けなさいよと言って残されたこと、それが今私たちが守っておるこの聖餐式でしょう。

聖餐にあずかりますとき「主イエスわたさるる夜パンを取りて謝し、さきて………」という祈りのときに、ただその祈りのことばを目で読み耳で聞くだけではなくて、私たちの魂の目で、パンを取りて謝し、さきて与えたもう主イエス様をそこに仰ぎ、「また夕げ終りしのち杯を取りて謝し、彼らに与えて………」というその所を読みとるとき、ああ、彼らに与えてというその「彼ら」の中に私も入れて頂いて……… と願いつつ聖餐にあずからせていただいてはいかがでしょう。私たちの目が開けます、弟子たちの目があの時ひらけたように。私たちの目も開けるでしょう。そして、ああ、今日も鹿児島復活教会に行って聖餐にあずかりイエス様に会ってきました。主イエス様の御聖体をいただいてきましたという喜びをもって、皆さんお帰りができるでしょう。きっと途中で、本当だ、私の心が燃えている、と分るでしょう。電車の中でもバスの中でも、心が燃えながら帰ることができるでしょう。

 聖餐、それは誰でもよみがえりの主キリスト様にお会いすることのできるためのいちばん易しい、いちばん確かな方法だと言ってもよいでしょう。聖餐にあずかり主の御聖体をいただいていますと、私たちの目が開かれて見えるようになります。何だかぼんやりとして分りにくかった聖書も分かるようになり、心の底からほのぼのと燃える思いで復活の主を拝むことができます。

 復活祭を迎えるこのとき、主イエス様の御復活をただの昔の話としておかないで、エルサレムからエマオまで歩いた二人の弟子たちの歩みの中に、私たちも加えていただいては如何でしょう。心の中で半日の旅をあの人たちと一緒にしてみては如何でしょう。そしてあの人たちと共にエマオの村里の小さな宿の食卓についてみてはいかがでしょう。

 皆さん、私たちのためにおよみがえりになったキリスト様は、昨日も今日も明日も、そしてとこしえまでも、私たちと共に歩き、共に進んで下さいます。どうかこの方を信じ仰ぎたたえながら、私たちの毎日を生きて行きたいと願うものでございます。

 

 1982年4月18日 復活後第一主日

  鹿児島復活教会にて